2022年9月8日木曜日

ソ連の東南シベリアのイルクーツク州に、膨大な日本人捕虜の集団墓地が散在して、イルクーツク市には埋葬地で集団墓地でもあったマラトボ墓地が2003年に撤去された。

ソ連の東南シベリア地域のイルクーツクに、膨大な日本人捕虜の集団墓地が散在していた。イルクーツク州には日本人埋葬地には、約280箇所の墓標が散在した。イルクーツクは、バイカル湖近隣の東南シベリアの中心都市で、イルクーツク市には埋葬地で集団墓地でもあったマラトボ墓地が2003年に撤去された。訪ロの日本人が必ず参拝する墓地でもあった。

 第二次世界大戦に、ソ連軍の参戦により降伏した終戦後に、膨大な日本軍捕虜がシベリア等の荒野に強制連行と強制収容されて、厚生労働省の約55,000人からロシア研究者の約9万人と推定された。満州の荒野を含めれば、約30万人もの日本人が死亡した。シベリアには、約60万人もの日本軍捕虜が抑留されていた。ドイツでは、特に約350万人ものドイツ人がソ連に抑留されて、約110万人が死亡したと推定された。日本人のシベリヤ抑留では、厳しい極寒、過酷な労働、食料と水不足、飢餓や病気、劣悪な環境に追い込まれた。強制労働は、土木工事約43%、鉄道工事約30%、採炭鉱約14%、生産工業約11%の重労働であった。捕虜収容所の体格検査で、尻の肉を引っ張り、皮下脂肪の厚みで等級を決めて作業と食事が措置された。

 シベリア捕虜収容所では、日本人の主食は黒パンが1日約350g以下で、慢性的で過酷な飢餓状態に陥った。あらゆる強制作業に従事させられ、過酷なノルマを課せられた。毎日開かれる集会で、民主化運動により日本人捕虜は共産主義の思想教育により洗脳された。天皇制の批判とインターの合唱を繰り返した。

 抑留開始から1946年12月19日に日本人引き揚に関する米ソ協定が締結され、少人数ずつの引き揚げが開始された。日本に最後の引き上げ船で約1,025人が乗船した興安丸が1956年12月26日に帰還して、最大で約11年間も抑留され、引揚者総数は約47万3,000人に及んだ。独ソ戦から、日本が降伏するまで(1941年6月~1945年9月)に、ソ連内に抑留され、強制労働に従事した捕虜は、約24カ国、総数約417万人にも及んだ。その内訳はドイツ人が約2,389,560人、日本人が639,635人、ハンガリー人が513,767人にも及んた。1991年4月16日にゴルバチョフ大統領が訪日の際に、約3万7,800人の日本人死亡者リストを持参し、ソ連抑留の犠牲となった抑留者や家族に哀悼の意を示した。




2022年9月7日水曜日

ドイツ軍の戦車の8.8mm徹甲弾が、ソビエト軍のSU152戦車の砲塔を全面から貫通した。ソ連軍のSU152搭乗員は、砲台に閉じ込められ炎上して黒焦げの焼死体になり、悲惨な最期を遂げた。

第二世界大戦の東部戦線にて、1944年11月にネウェル地区でソ連軍は、ドイツ軍のティーガーに対抗する新型の突撃砲を搭載したSU122とSU152を出撃した。ドイツ軍の回転砲塔付きのティガーは、ソ連軍のSU152の固定式戦闘室よりも、起動射撃能力と発射速度が勝っていた。11月10日にドイツ軍の戦車大隊は、ネウェルで逆襲してソ連軍戦車の侵攻を遮断した。ドイツ軍の戦車の8.8mm徹甲弾が、ソビエト軍のSU152戦車の砲塔を全面から貫通した。ソ連軍のSU152搭乗員は、砲台に閉じ込められ炎上して黒焦げの焼死体になり、悲惨な最期を遂げた。破壊されたソ連軍のSU152戦車の戦闘室内には、乗務員の焼死体が散乱していた。ソ連軍の歩兵らは、戦車内は鉄の棺桶になることを知り、装甲車の乗務員を羨ましくなかった。

 1944年7月22日に、オットー・カリウス少尉が、レニングラード近郊のムガー周辺でドイツ軍のティーガー戦車で参戦した。その後11月4日には、ロヴェツとネウェル間で防衛戦に参戦した。広大な平野上でゆるい登りの稜線上に、ソ連軍の約12両のT34型戦車隊に遭遇した。ティーガーから発射した砲弾は、T34戦車の砲塔と車体を貫いた。黒煙を吹き出しながら側溝に転落して大破した。その他のT34戦車も撃破して、約10両の燃える戦車の車列ができた。ソ連軍の約2両のT34戦車が稜線上を遁走した。その2日後にも、約5両のT34戦車を、3両はティーガーの戦車と2両は高射砲で撃破して、黒炎が立ち登った。

 11月23日には、ドイツ軍の戦車が、木橋を渡河の途上で、砲身が上方に、戦車は後方からひっくり返って川床へ転落した。砲手は巻き込まれて瀕死の重症を負った。12月2日にゴルシュカで、ソ連軍の対戦車砲、迫撃砲、対戦車銃の猛攻撃を受けて、ドイツ軍は撤退をした。12月16日には、ソ連軍は爆撃機の大編隊と大量洗車軍によりドイツ軍を総攻撃した。12月27日には、残留したドイツ軍は次々にレニングラード行き命令されて、ソ連軍は最後の大攻勢を準備していた。




2022年9月6日火曜日

1956年のハンガリー動乱下でハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士を、ソ連のレーニンの肖像を握らせて、喉奥に金属棒を突き刺して虐殺した。

1956年にハンガリー動乱が勃発して、ハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士が虐殺された。レーニンの肖像を握らせ、喉に金属棒を突き刺した。1956年にハンガリーの首都プタペストの通りには、武装したハンガリー民族主義者が警戒していた。ソビエト軍がハンガリーの暴動を鎮圧すると、数千人のハンガリー人が強制収容所であるグラーグに送還された。

 1956年10月23日にハンガリーで暴動が勃発した直後は、ハンガリー民族主義者は、塹壕やトンネルを偽装して防御した。海外に亡命したハンガリー人からの支援を受けた。武器、無線、冊子、資金などの支援を受けた。ソビエトの行政官や民警であるミリツィアなどもテロ攻撃して、ソビエト軍の治安軍に抵抗した。ハンガリー民族主義者等は、装甲兵員輸送車やー機関銃によって、秘密警察官や共産党役員を殺害した。11月4日には新たにソ連軍は戦車約2500両と約15万人のソ連軍兵士で侵攻した。ソ連は膨大な軍隊と戦車で圧倒して直ちに鎮圧した。

 スターリン時代にはロシア国外で、ソビエト国家保安委員会(KGB:Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)におけるスパイ情報機関がスターリン個人の意向で、暗殺などの特殊工作をした。スターリンが1953年3月5日に死去して、フルシチョフ政権下では、共産党中央委員会の合意に見せかけた。1961年にKGBスパイのスタシンスキーがアメリカに亡命して、KGBがフルシチョフ政権下での暗殺を暴露して、国際的非難が殺到した。ソビエト連邦内務省(MVD)が、KGBの悪行を調査して過程で、関係者の家族がKGBに虐待を受けて、調査途上で頓挫した。1991年12月3日、KGBは正式に解散され、その後ロシアでは対外情報局(SVR)と1995年に連邦保安局(FSB)に引き継がれた。

 プーチンはレニングラード大学を卒業して、旧ソ連国家保安委員会(KGB)工作員となり、旧東ドイツ・ドレスデンに駐在した。ベルリンの壁崩壊後に帰国し、サンクトペテルブルク副市長などを経て、1996年に首都モスクワに移り、大統領府副長官、FSB長官、首相などを務めた。大統領代行を経て、2000年3月の大統領選挙で当選して、1期4年の任期を2期務めた。その後に首相を務め、2012年に再出馬して当選した。現在は1期6年の任期の2期目で、ロシア・ウクライナ戦争下で、憲法改正で2024年の任期切れ以降も出馬は有効となった。




2022年9月5日月曜日

フィリピンのマルコス政権の戒厳令下で、4人のイロカノ農民はカパロン地区農場で1978年10月21日に、5人のフィリピン軍兵士により発砲され全員が殺害された。

フィリピンのカパロン地区マニキの4人のイロカノ農民は、カパロン地区カリアンのフェルナンド・カナルの農場で、4日間の収穫を終え、1978年10月21日に自転車で帰宅した。5人のフィリピン軍兵士が、カリアンの結婚式に出席後に、酒に酔って青いフォード・フィエラに乗った。兵士たちは何の前触れもなく、4人の農民に向かって発砲した。目撃者は、4人の農民が負傷し、自転車と一緒にフィエラに積み込まれるのを見た。彼らは手傷を負ったものの、まだ生きていた。翌日、セラフィノ・マラケ(32歳)、ビルジリオ・フェルナンド(29歳)、レスティ・トゥート・バリクアト(25歳)、ロドルフォ・バリ(20歳)の死体が 本部から親族が引き取った。殺害に関与した兵士は、ホルヘ・プヘダ、ノルベルト・ビラール、ヒレヒト・フォルニヨス、ビルジリオ・キコイ、ハイメ・ソノリアであった。11月8日、調査官は犯人の4人を無罪とした後に、ブロサン大佐が2人の兵士のキャンプ制限と武装解除を命じた。

 フィリピンのイロコスノルテでは、ビンタール、ドゥマルネグ、ソルソナ、マルコス、ピディグの町の様々な農民が人権侵害を受けた。マルコス戒厳令の発令によって、マルコス政権は、特に独裁政権と戦った政敵である学生活動家、ジャーナリスト、宗教者、農民、その他を標的とした人権侵害が勃発した。る。アムネスティ・インターナショナルは、フィリピンの抑留者、および人権監視団体の文書に基づき、マルコス独裁政権は約3,257人に超法規的殺人をした。約35,000人に対して拷問、約77人の失踪、および約70,000人の監禁によって人権侵害が挙行された。約3,257人の殺害された被害者のうち約2,520人は、彼らの死体が一般大衆に印象づけるように様々な場所に捨てられて。身体切除さた。一般大衆の間に恐怖心を植え付ける戦略であり、引き揚げ(salvaging)と呼称された。

 フィリピン大統領フェルディナンド・E・マルコスの戒厳令は1972年9月23日にテレビを通じて宣言された。マルコスの統治が憲法の2期制限を超えて延長されると発表した。政令によって支配し、報道の自由と他の市民の自由をほとんど消滅させて、議会とメディア施設を閉鎖し、反対派の指導者と過激派の活動家の逮捕を命じた。戒厳令は14年間も継続して、独裁者マルコスが追放されるまで、1981年1月17日に正式に解除された。1935年憲法で許可された2つの大統領任期を超えて任期を延長するために戒厳令を使用した。 

 マルコス独裁時代には、フィリピン軍(AFP)が全域で様々な人権侵害が行った。定期的に人権侵害を行ったのは、フィリピン軍情報局(ISAFP)、MISG(Metrocom Intelligence and Security Group)、そして第5治安部隊(5CSU)であった。5CSUとMISGは、マルコスの遠縁が率いるフィリピン警察(PC)の一部であった。人権侵害の他に、部隊は、メディア団体、企業経営者、野党グループを脅迫、威嚇、暴力で追い回した。民間家庭防衛隊(CHDF)と呼称された非正規の準軍事部隊は、州知事や市町村長によって監督され、配備されて、様々な悪名高い人権侵害を行った。






2022年9月4日日曜日

2022年9月3日に、ロシア・モスクワのノボデヴィチー墓地で行われたゴルバチョフ元大統領の葬儀で、娘のイリーナ・ビルガンスカヤは最後の別れを告げた。

2022年9月3日に、ロシア・モスクワのノボデヴィチー墓地で行われたゴルバチョフ元大統領の葬儀で、娘のイリーナ・ビルガンスカヤは最後の別れを告げた。2022831日に91歳で死亡したミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)元ソ連大統領の告別式が、93日にロシア・モスクワのクレムリン近郊の労働組合の家のピラーホール内で挙行された。ゴルバチォフの死体は棺に入れらた。ゴルバチョフは、告別式の後に、モスクワのノボデビチー墓地で妻のライサさんの隣に埋葬される。

 元ソ連指導者のミハイル・ゴルバチョフは、第二次世界大戦後の冷戦を終結させて、ペレストロイカ(共産主義経済と経済の再構築)とグラスノスチ(情報の公開)により、ソビエト連邦の崩壊を促した大胆な改革を行った。数千人の弔問客が、敬意を表して列を作った。東ヨーロッパからソ連の核兵器を撤退させた。アフガニスタンからソ連軍を撤退させた。ソ連に複数政党制の選挙を認可して、共産主義を崩壊して民主主義を導入した。1990年にノーベル平和賞を受賞した。

 クレムリンの国葬拒否は、ゴルバチョフの遺産に対する不満を反映している。鉄のカーテンを崩壊させて、世界中から崇拝される一方で、ロシア国内ではソビエト崩壊と経済崩壊で貧困に陥れた。ゴルバチョフは、近年のプーチン政権に批判的でウクライナ侵攻に失望した。プーチン大統領は国葬に出席しないように、ゴルバチョフの国葬を宣言しなかった。プーチン大統領は、91日にゴルバチョフが亡くなったモスクワの病院の棺に私的にバラの花を供えた。クレムリンによると、大統領は都合で葬儀には出席しない。

 弔問客は、開いた棺のゴルバチョフの横を通り、儀仗兵が厳かな音楽を奏でながら、花を手向けた。棺のそばには、ゴルバチョフの娘イリーナさんと孫娘二人が座っていた。シャンデリアと柱が並ぶ大広間は、皇帝時代には貴族の舞踏会が開かれ、ソ連時代には国葬や高貴な会議・大会が開かれた。弔問客は、ゴルバチョフが満面の笑みで立っている大きな写真を横目に、建物内に入った。2時間の予定が3時間半に及んだ。

 2007年に行われたソ連崩壊後初の指導者であるボリス・エリツィンの豪華な国葬とは対照的であった。プーチンは、ソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」と嘆いた。NATOの東方拡大を排除する確約書を西側から得られなかったと繰り返し非難している。224日にロシアのプーチンがウクライナに侵攻した。



2022年9月3日土曜日

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。ここの墓地は、広島市中心部から約9km離れた似島にある臨時の墓であった。広島市中心部から約9キロ離れた似島には、1945年8月日の広島原子爆弾の投下から炸裂後に、約3週間で約1万人の原爆被爆傷害者が収容された。暁部隊を統括する日本陸軍船舶司令部は、似島の第二検疫所を臨時野戦病院として使用することを決定した

 似島は、日清戦争を契機に広島市の行政、軍事、医療支援の拠点となった。1894年の赤痢・コレラ流行時に、病原菌も持ち込みを防ぐ陸軍の検疫所として設置されて、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでも重要な検疫所の役割を担った。1945年8月6日に、似島は重傷の原子爆弾の被爆者のための臨時野戦病院となった。

 広島の宇品港からフェリーで爆心地より午前10時頃から似島に運ばれた約1万人の被爆者のうち、助かって生存したのは約3割と言われた。多くの被爆者を治療護するために、多大な労力と犠牲が必要だった。原子爆弾の被爆者の死者は日に日に増えて、死体は火葬に付されるなど、危機は深刻化した。被爆してからわずか約4日で、似島での火葬の処理は困難となった。唯一の選択肢は、身元不明の数千の死体を似島に集団埋葬することだった。3つの墓標下の埋葬の意味が、次第に遺骨の重みを帯びた。荒涼とした空間の中にある塚の側に、文字を刻んだ3本の石柱が寄り添って立った。

 1945年9月に、陸軍馬防疫所の敷地内に千人塚と呼称する供養塔が建てられ、検疫所職員が発掘した被爆者の遺骨を納めた。その後、1955年7月に約2,000人の遺骨が似島から広島平和記念公園内にある広島市戦没者慰霊塔に納められた。

 似島は平和資料館として、広島原子爆弾で死亡した被爆者たちの慰霊碑が残存している。似島平和祈念資料館には、先祖や島の歴史を守る住民たちが約20年以上かけて収集した約130点の資料が展示された。似島は、遺骨の回収を目的とした発掘プロジェクトも進行した。1947年から1971年に約4,000人の遺骨が発掘された。2004年には約90体の遺骨が発掘され、さらに数年で多くの遺骨が発掘された。似島での遺骨の発掘と確認には、経年劣化や放射線被曝により、遺骨はもろくなって、細心の注意と時間をかけて修復した。





2022年9月2日金曜日

イラク・イラン戦争にて、イラク軍がアメリカ軍のナパーム弾によって、イランの首都テヘランの通りの塹壕を襲撃した。塹壕内は血まみれとなったイラン軍兵士の死体が散乱した。

イラク・イラン戦争にて、イラク軍がアメリカ軍のナパーム弾によって、イランの首都テヘランの通りの塹壕を襲撃した。塹壕内は血まみれとなったイラン軍兵士の死体が散乱した。みすぼらしい荷車に死体を積載した。テヘランの通りでは老いも若きイラン人は狂信的にアメリカ国旗への憎悪を叫んだで戦意を高めた。

 イラン・イラク戦争(1980年から1988年)は、1980年代にイランとイラクの間で長期化した軍事衝突であった。1980年9月22日、イラク軍機がイランの航空基地10カ所を空爆し、8年間続く残忍な戦争が始まった。イラクは9月4日、イラン軍が多くの国境基地を砲撃して、戦争が勃発したと主張した。1988年の停戦により戦闘は終結した。1990年8月16日の正式な和平協定調印で、外交関係の再開と軍の撤退をした。

 1987年夏、イランがペルシャ湾内に機雷を敷設し、石油タンカーによる燃料供給への脅威は、欧米でも痛感された。アメリカ軍は、戦闘機を伴って空母をを派遣して、航路の自由を確保した。フランス海軍も、イギリス海軍も参加した。イラク軍は、イランの都市や石油基地への爆撃を再開して、イラン軍からの即時報復を引き起こした。1987年10月初旬には、イラン軍は、イラクの首都バグダッドへのミサイル攻撃で数百人の死傷者を出した。イラク空軍がイランの原油を運ぶタンカーを空襲するなど、戦争は再び激しさを増した。イラン軍は、アメリカ軍の警告にもかかわらず、クウェートの石油タンカーを攻撃した。アメリカ軍は報復として、3隻をロケットで撃沈し、石油プラットフォームを破壊した。

 イラク軍は、フランス、ソ連、ブラジル、エジプトから武器を買った。多くの国から公式に排斥されたイランは、中国、北朝鮮、シリア、リビアが活動する闇市場で賄った。武器売却上に初めて、イラクはイランにまで武器を売却した。イランと戦闘中にアメリカ製のイラン戦車が回収された。スペアパーツを持たないイラクは、それを使うことができず、どうせホメイニのイランが他で買ってくる前提で、外貨獲得のためにテヘランに武器を売り込んだ。



2022年9月2日  Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    閲覧回数 580,000    投稿数 2,208


2022年9月1日木曜日

日本軍の神風特攻で死亡した空母ハンコックのアメリカ軍水兵の死体を、沖縄戦中の沖縄沖の海中に1945年4月9日に埋葬した。

日本軍の神風特攻で死亡した空母ハンコックのアメリカ軍水兵の死体を沖縄沖に、1945年4月9日に海中に埋葬した。ハンコックは4月9日に任務群から切り離され、修理のため真珠湾に向かった。ハンコックは6月初旬まで行動不能に陥った。神風特攻機は、基本的にパイロット誘導型の爆発ミサイルである。通常攻撃よりはるかに精度が高いので、日本軍のパイロットはアメリカ軍の戦艦に戦闘機を衝突させた。大日本帝国は、多数の連合国艦船、特に空母を破壊することが、パイロットと戦闘機を犠牲にする正当な理由であった。

 第二次世界大戦中の太平洋戦争における沖縄戦にて、アメリカ海軍の航空母艦ハンコック(Hancock, CV-19)は、1945年4月7日12時12分頃に沖縄沖で日本軍の神風特攻隊にハンモックが襲撃された。神風に襲われた直後に、ハンコックはほぼ完全に煙に包まれた。低空を飛行する4機の日本軍戦闘機と高空を飛行する7機の神風戦闘機が一瞬見えた。神風特攻機が空母飛行甲板を横切って飛行機群に衝突し、その爆弾が左舷カタパルトに命中して大爆発を引き起こした。アメリカ軍兵士約62人が死亡して、約71人が戦傷した。

 1945年4月7日、再びハンコックは神風特別攻撃機の襲撃を受けた。砲撃手は神風の機体を粉々にしたが、機体が空母にかなり接近していた。約227kgの爆弾が左舷カタパルト付近の飛行甲板を貫通して、機体はさらに後方の飛行甲板に激突した。前方の爆弾が爆発して、飛行甲板と格納庫甲板の両方の戦闘機を燃え上がらせた。神風の機体は甲板を横切り、船尾に点在する戦闘機を直撃し、同様に火をつけた。一瞬のうちにほとんどが左舷側は、爆発によって船外に吹き飛ばされた人員とがれきで満たされた。乗組員は迅速かつ勇敢に、そして効率的に作業を行ったが、火災が完全に消し止めるのに約1時間半もかかった。




2022年8月31日水曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、ベティオ島の丸太の壁の小屋の中に、日本海軍の特殊上陸部隊の日本人兵士2人は降伏よりもライフル銃で自殺した死体が残存した。

太平洋戦争のタラワの戦いで、ベティオ島の丸太の壁の小屋の中に、日本海軍の特殊上陸部隊(SNLF)の日本人兵士2人がライフル銃で自殺した死体が残存した。アメリカ軍の公式の写真説明欄には、「日本帝国軍隊は降伏よりも自殺を好む。ギルバート諸島、タラワ環礁。1943年11月20日」と記載された。

 ハワイの南西約3,860kmにあるギルバート諸島のタラワ環礁の小島群は、第二次世界大戦中の1941年から1943年まで日本軍に占領された。1943年11月20日から約76時間にわたる血生臭いタラワの戦い後に、アメリカ軍が陥落した。アメリカ軍が中部太平洋を経てフィリピン諸島に侵攻する際の基点であった。タラワの戦いは、アメリカ軍は計画準備不足で、干潮時に枯れた火力下で、鋭い珊瑚上を延々と海岸まで泳ぎ続けた。日本軍の狙撃を避けるために、海岸から離れた突撃艇から上陸した。深海では弾薬ベルトの重みで溺れた。11月20日に戦艦はタラワ環礁のベティオ島に大規模な砲撃攻撃を行った。ピルトーチカ、バンカー、飛行場を守る有刺鉄線など日本軍は強固な要塞で、約4,700人の日本軍兵士と建設労働者が占拠した。午前5時過ぎに、ベティオ島海岸への最初の砲撃がアメリカ艦船から発射された。砲撃は、空一面を照らし大爆発となった。アメリカ軍兵士は、甲板に集まり、海岸線の花火を眺め、火粉からもう敵の日本軍はほとんど残存しないと誤解した。轟音と数十機の魚雷爆撃機、急降下爆撃機、戦闘機が、再び攻撃を開始した。上陸用舟艇は、干潮時で岩礁上で急停止した。岩礁は海岸から約450mも離れて、同時に日本軍は猛烈な砲火を浴びせた。多くの船は下船する間もなく破壊された。第一陣は海岸にたどり着けたのはわずか数人だった。海岸からわずか約90m、水際から約6mの砂浜の一部を確保した。

 一方で、通信手段を失った日本軍は、死ぬまで戦場で戦うか、戦場で自殺する自決かと洗脳して教え込まれた。戦死する決意で、アメリカ軍と激しく戦った。日本軍の翼下に爆弾を装備した水上戦闘機は、眼下に爆弾を投下して岩礁に捕捉された無謀な船を攻撃した。11月21日午前6時に、ベティオ島周辺の小さな浜辺を占領したアメリカ軍は、日本軍に対する発砲命令が下された。アメリカ軍兵士約800人のうち海岸にたどり着けたのは約450人だった。その450人がベティオ島の内陸部の空軍基地を占領した。11月21日朝に満潮には、上陸用舟艇が岩礁の上を通過し、多くの戦車を運び込んだ。戦車は海岸に転入して、トーチカに砲撃を加えた。夕刻に、隣接するマキン島を占領した後に、ゴムボートで岩礁を乗り越え、ベティオ島西側の海岸に上陸して合流した。

 11月22日から日本軍に大規模な攻撃をして、多くの残存する要塞を破壊して、多数のトーチカを一掃した。残存する攻撃は日本軍の狙撃手と残りのトーチカであった。11月22日夜に、日本軍は最後に全滅するバンザイ攻撃を行った。アメリカ軍は、バンザイ攻撃で突撃する日本軍兵士の人波に対して、陣地を死守した。11月22日夜のバンザイ攻撃は、ベティオ島の日本軍の最後のあがきであった。残存したのは、散り散りの日本軍の狙撃兵と、朦朧と混乱した少数の守備兵だけであった。3日以上に及ぶ地獄のような戦闘の末、アメリカ軍は約3,000人近い死傷者を出した。日本軍はそれ以上の犠牲を払って、約4,700人の守備隊員のうち、生存はわずか17人であった。最後の一人まで戦うという日本軍の死守の意志は、今後起こる他の戦闘の悲惨な犠牲を予見させた。




2022年8月30日火曜日

イラク北部のキルクークで、クルド人の自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して大炎上し、イラク人警官は約7人以上が死亡して、約35人が負傷者が出た。

2004年2月23日に、イラク北部のキルクークで、自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して車や店舗が大炎上した。イラク人警官約7人が死亡して他と併せ約10人が死亡して、約35人が負傷者が出た。この自爆は、キルクークのクルド人地区で発生した。負傷者の中には、近くの学校の少年と少女4人が含まれた。

 イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、イラクの治安状況を確認のためにバグダットを訪問した直前に、キルクークで自爆テロが発生した。テロ犯人は警察署が最も無防備になる午前8時45分に、ラヒマワ駅の外に約20人の警官が、命令を受けるために集合した交代時間帯に爆発した。警官たちが車列を組んで出勤すると、民間人の車が追いかけて、車列の最後の車に突っ込んで爆発した。

 テロ実行犯は、警官を監視して、警官のシフトの手順を知っていた。周辺の建物にも大きな損傷を与え、車による自爆テロであった。自爆テロ犯が、車を警察詰所の門に突っ込んで爆発した後に、血の池の塊で覆われた。自爆犯人の足や手の一部が警察署内に散乱した。キルクークの病院関係者によると、少なくとも10人が死亡し、約45人が負傷した。

 ラムズフェルド国防長官がイラクの首都バグダッドに到着し、アメリカ軍からイラク人への政権移譲を前に治安を見直す直前にに、爆弾テロが起きた。イラクの士官候補生たちに、イラクに駐留するアメリン軍と他の連合軍の兵力が約13万人と告げた。警察察、国境警備隊、民間防衛隊を含むイラク軍は、合計20万人以上である。

 アメリカ政府は2004年6月30日にイラク軍に政権を譲る準備を進めるが、クルド人は、将来のイラク政府下で、クルド人民兵による北部の自治を維持するよう圧力をかけた。アメリカ政権は、いかなるクルド人の地方民兵の自治にも反対した。アメリカ軍の空軍力に守られて、クルド人はサダム政権の最後の10年間は、イラクの北部国境に沿った地域でほぼ独立を享受した。イラク統治評議会は、クルド人居住区の自治権に意見の相違が生じた。クルド人はキルクークの都市部をクルドの中心地とみなした。アラブ人、トルコ人などの住民も含まれ支配権と主導権を争っている。




2022年8月29日月曜日

日本軍の真珠湾攻撃により、カノエ湾の航空基地に対する攻撃で殺害された1人のアメリカ軍兵士の死体が太平洋の潮に流されて海岸にうつ伏せで浮き寄せた。

日本軍の真珠湾攻撃により、カノエ湾の航空基地に対する攻撃でアメリカ軍兵士が殺害された。その死亡した1人のアメリカ軍兵士の死体が潮に流されて海岸に浮き寄せた。真珠湾攻撃は1941年12月7日午前7時48分に、最初の爆発音が鳴って攻撃が始まった。攻撃開始から約20分後には、真珠湾は大混乱に陥った。日本軍無線からは、トラ!トラ!トラ!と無線が轟く。大本営に対して真珠湾のアメリカ軍の防衛力の喪失を知らせる暗号を送信した。最初の攻撃から1時間50分後の午前9時45分に、一部の日本軍は真珠湾から撤退した。

 日本軍による1941年12月7日の真珠湾攻撃の犠牲者は、アメリカ軍側の戦死者は約2,403人(当日の集計では約2,390人)、戦傷者は約1,178人と、推計で約3,500人以上となった。日本軍側は戦死者は約64人、捕虜約1名の合計約65人の損失を伴った。日本軍の物的損失は約29機の戦闘機を失って、そのうち約15機はアメリカ軍の対空砲台によって直接に撃墜された。

 アメリカ軍側の物的損失は、最大で約19隻の戦艦が被害を受けて、約8隻が沈没した。崩壊した巡洋艦USSカシンとUSSショー、掃海艇オグララ、戦艦USSウエストバージニアとUSSカリフォルニアの5隻は、浮揚して再建された。特にヒッカム飛行場は、日本軍に致命的な空襲を受けて、格納庫の外に置かれた約188機の戦闘機が破壊された。唯一の朗報は、アメリカ軍の太平洋艦隊の約3隻の空母であるエンタープライズ、レキシントン、サラトガは、日本軍の真珠湾攻撃の時点で、基地外にいた。 

 翌日の1941年12月8日に、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、アメリカ国民と議会に対して、昨日アメリカ合衆国は、大日本帝国の海・空軍から、突然に故意的に攻撃を受けたと演説した。1940年9月の再選の選挙期間中の孤立主義は、真珠湾攻撃後に不可能となり、アメリカ軍を海外の戦場に送った。上院は宣戦布告を388票の賛成票とわずか1票の反対票で承認して、アメリカは太平洋戦争と第二次世界大戦に突入した。




2022年8月28日日曜日

23歳の看護師であるオクサナ・バランディナさんは、2022年5月14日土曜日に医師からロシア軍による地雷の爆発で切断された両下肢と左手の傷口を洗浄する医療支援を受けた。

ウクライナのリヴィヴにある公立病院で、23歳の看護師であるオクサナ・バランディナ(Oksana Balandina)さんが、2022年5月14日土曜日に医師から切断された傷口を洗浄する医療支援を受けた。オクサナは3月27日に、リュシチャンスクの自宅近くの地面に突き刺さった地雷が爆発して、両下肢と左手の4本の指を失った。爆発があった直後に、足が虚無の中に落ちた。周りを見たら、もう両下肢はなく、骨と肉と血だらけであった。

  地雷が爆発して、オクサナさんの頭の中でものすごい音がして、顔を地面につけ転倒した。呼吸困難となり、着ていた服を破り始めた。生命だけは保つも、最終的にオクサナの両下肢と左手の4本の指を切断しなければならなかった。オクサナは絶望して生きたくなかった。2人の子供に、こんな姿を見せたくなく、家族の誰にも負担をかけたくなかった。周囲の支援のおかげで受容して、人生の終わりではなく運命と悟った。ロシア軍は、武装解除しファシストから市民を守るための特別軍事作戦と呼び、軍隊による民間人の虐待や虐殺を否定している。国連人道問題調整事務所は、ウクライナを世界で最も地雷で汚染された国と呼んだ。

 夫のヴィクトール・ヴァシリブ(Viktor Vasyliv, 大工, 23歳)と一緒に、近所のお年寄りの物資を集めて家に帰る途中で、3月27日にオクサナだけが地雷の上で被爆した。家に帰る途中、庭の裏に小川があったので、近道しようと思って未舗装の道を通って、突然に空中に吹き飛ばされた。息も絶え絶えで、パニックに陥って、夫のヴィクトールは一瞬、終わったと思ったが、オクサナが救急車を呼んでと叫んだ。ヴィクトールは4月27日にオクサナに改めてプロポーズし、4月28日には病院で結婚式をした。病棟で夫が白い服を着た花嫁をそっと抱き上げ、彼女が右腕を回して、彼の右肩に顔を埋めて、ノートパソコンから流れる小さな音楽に合わせて二人のダンスが揺れた。患者とボランティアだけが祝福した。その瞬間を5月2日にTikTokにアップロードして、世界中の見知らぬ人たちが感動した。





 


2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。




2022年8月26日金曜日

太平洋戦争のサイパンの戦いの末期の1944年7月8日から、アメリカ軍第2師団は日本軍のバンザイ攻撃直後に全滅させて、日本軍の残党を掃討して検死した。

太平洋戦争のサイパンの戦いの末期の1944年7月8日から、アメリカ軍第2師団は日本軍のバンザイ攻撃直後に全滅させて、日本軍の残党を掃討した。負傷して生存した日本軍兵士はまだ一発撃てるか、手榴弾を投げられるかを警戒して検死した。日本軍のバンザイ攻撃に引き続いても、タナパク平野では戦車の支援を受けて、日本軍兵士の残党を捜索して掃討した。7月8日朝から第2師団は、大量の貧弱な武装と全く無秩序な日本軍兵士に遭遇した。一部の日本軍は洞窟に隠れ、深い影から発砲した。大部分は死ぬ気でアメリカ軍に突進したバンザイ攻撃は掃討作戦を簡略化した。

  アメリカ軍はタナパグ平野すぐ東の森林湿地帯に強力な日本軍の抵抗勢力を発見した。約100人が潜伏した日本軍に、アメリカ軍は火炎放射器、戦車、75mm砲撃で強力な陣地を爆破した。多くの日本軍は猛攻撃から逃れるために岩礁に乗り出した。アメリカ軍は戦闘哨戒機が派遣して日本軍を排除した。7月8日に無秩序に群がる日本軍兵士が、生命に対する最後の一撃を待っていた。散乱した数百人を処分して、7月8日には約1,500人の日本軍兵士の死体を検死した。7月7日から7月8日に戦闘地域は、悪臭を放つ死体、こぼれた内臓、脳みの塊が散乱した。内陸の険しい地形でも、日本軍の抵抗に遭遇した。掃討すべき洞窟や深い渓谷が多く、掃討はやや遅々とした。 

 第2師団は、日本軍の攻撃がなくなると同時に、7月7日に掃討を開始した。深くえぐられたハラキリ溝での戦闘で、バンザイ攻撃はアメリカ軍兵士の最悪の仕事を軽減した。7月8日11:30頃に、掃討作戦が再開され、崖を下るのは困難で、木製の割れ目や浸食された切口は、バンザイ攻撃から逃れた頑強な日本軍兵士の最後の隠れ家となった。

  7月9日に、崖の爆破によって姿を変え、多くの下草がなくなり、多くの洞窟やクレバスが埋め尽くされた。渓谷のギザギザの斜面を体系的に掃討して、正午頃には海岸平原に出た。岩礁に泳ぎ出た日本軍兵士に対する攻撃は継続された。約100人の日本軍兵士は殺害されるか、自ら命を絶ったりした。日本軍将校は殺害される前に、4人の日本軍兵士の首をはねるのを目撃した。岩礁から手榴弾を投げ、先頭のボートにライフル銃を発射した日本軍を、直ちに全艇が全小銃で射撃し、日本軍兵士約50~60名が全滅した。

 日中タナパグ村の東の陣地も掃討し、約100体の日本軍兵士の死体があった。日本軍は夜間に隠れ家から現れ、アメリカ軍の強固な防御を突き崩そうとした。7月8日~9日の夜、陣地の前で約75人を殺害し、同様に翌日の夜も侵入の失敗により約150人以上が殺害された。戦線を突破したとき、毎晩約50人以上が殺害された。タナパグ・マクンシャ平野は再びアメリカ軍の手に渡った。サイパンの戦いの末期に、日本軍は大虐殺を受けて、約4,311人の死体が戦場に横たわった。攻撃の主役であった第105歩兵は、約2,295体の日本人の死体を検死して、後方には約2,016体が横たわった。第105歩兵第1及び第2大隊の最前線と敵の最前線との間の地域に、実数で約4,311名の敵兵が埋葬された。同じ地域でアメリカ軍兵士の死体は約406体であった。




2022年8月25日木曜日

1918年にウクライナの首都キエフにて、ロシアの赤軍が撤退した後に、チェカによる大量殺戮の犠牲者の多数の死体が、キエフのサドバヤ通り5番地で掘り起こされた。

1918年にウクライナの首都キエフにて、ロシアの赤軍が撤退した後に、チェカによる犠牲者の多数の死体が、サドバヤ(Sadovaya)通り5番地で掘り起こされた。チェカ(Cheka)は、ソビエト・ロシア初期の秘密警察組織である反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会であった。チェカは、ボリシェビキの恐怖の道具と呼称した強制収容施設施設を保持していた。

  ロシアのペトログラードとモスクワの赤軍は、1918年2月のキエフの戦いでウクライナの首都キエフを占領した。キエフの戦いは、1918年2月5日から8日にブレスト・リトフスクで行われた和平交渉の最中に勃発した。条約が調印された2月9日に、ロシアのボリシェビキ赤軍は首都キエフを占領して、ウクライナ政府はジトーミルへ避難した。3月1日にウクライナと中央同盟軍はキエフを奪還して、3月3日にロシアのボリシェビキはウクライナの独立を承認した。1918年12月3日に、ロシア・ボルシェビキ政府は、ソビエト最初の秘密警察組織である全ロシア・チェカを模して、反革命・投機・犯罪撲滅に関する全ウクライナ特別委員会を設置した。この組織が、1919年2月から8月のボルシェビキの第二次キエフ占領にも関与した。

  1918年9月5日に、1917年の10月革命後に設立されたソ連政府機関である人民委員会から、ボリシェビキが処刑する弾圧と大量殺戮が公式に「赤色テロに関する法令」で発布された。1918年から1919年に、最大で150万人が殺害されたと推定された。ウクライナでは、1918年1月から赤軍の侵攻で赤色テロが始まった。キエフでは、ウクライナ人とロシア人の将校、ウクライナ中央議会の証明書を持つ者、聖職者の代表、親ウクライナ活動家など、約3〜5千人が殺害された。ボリシェビキ軍はキエフだけでなく、ウクライナ全土で赤色テロを執行した。1917年から1921年に、ボルシェビキの赤色テロで、クリミア地域の人口は約10万人以上減少した。

 ソビエト・ロシアにおける赤色テロは、ボルシェビキの秘密警察チェカ(Cheka)を中心に行われた政治弾圧・処刑である。ロシア内戦開始後の1918年8月下旬に始まり、1922年2月まで続いた。ウラジーミル・レーニンとペトログラード・チェカの指導者モイセイ・ウリツキーの暗殺未遂(後者は成功)の後に発生した赤の恐怖は、ボルシェビキの権力に対する政治的反対、異議、その他の脅威を排除して弾圧した。ボルシェビキの弾圧の犠牲者数し様々に推定された。1917年12月から1922年2月まで、年間約28,000人の処刑が行われたと推定した。赤色テロの最初の期間に虐殺した人数は少なくとも10,000人に達した。全期間の推定では、約5万から約14万、約20万人が処刑された。

 1916年にブルガリアを攻撃したロシアは、ブルガリアと中央同盟国に屈服して、1918年3月3日、戦勝国の前で史上最も屈辱的な講和条約であるロシア帝国から切り離すブレスト・リトフストク講和条約に署名させられた。貪欲なロシア帝国から約100万平方km以上を奪い取った。これらの土地は、ウクライナにとっては初めて自国の独立が国際的に認められた。その他、フィンランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ジョージア、アルメニアの一部も含まれた。11月13日に知勇王同盟国の降伏により条約は無効となり、ロシアは内戦に陥った。現在のロシアの西側の国境は、ブレスト・リトフクス条約の国境とほぼ一致している。

 ウクライナは1991年8月24日に独立を宣言し,同年末のソ連崩壊によりウクライナ独立が達成された。ウクライナの完全な独立は、12月1日の国民投票実施後に確立した。国民投票にて、独立を支持した国民は90.32%で、独立宣言に真の効力を付与し、ウクライナ独立の新たな歴史が開始した。
















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟
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