韓国の巨済島の捕虜収容所において、1953年6月に、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発した。連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。射殺された北朝鮮軍兵士の多数の死体は、収容所内に並列して安置された。雑誌LIFEには、死者の顔は撮影しない内規があったが、写真には多数の死体から多量の出血が流出して、全裸とされて下半身だけを毛布等で覆われた。もう1ケ月もすれば、韓国軍とアメリカ軍が、北朝鮮と休戦協定により、捕虜収容所は解放される予定であった。
巨済捕虜収容所(Geoje-POW Camp)は、朝鮮戦争当時に、捕らえた朝鮮人民軍と中共軍捕虜を収容するために1951年2月に巨済市を中心に巨済島の一帯に設置されて、1953年7月まで運営された捕虜収容所である。韓国の南端の巨済島に位置した朝鮮戦争当時の捕虜収容所は、1951年2月末までに朝鮮人民軍捕虜約15万人、中国軍捕虜約2万人など、最大約17万千人もの捕虜を収容した。1953年6月18日に、連合軍の管理下にあった巨済捕虜収容所の北朝鮮への強制送還を拒否する反共捕虜の約27、389名を李承晩大統領が釈放させて、7月27日の停戦協定の調印に合意して収容所は閉鎖した。
休戦会談の最大の障害となったのは捕虜問題であった。国連軍の持つ捕虜は適正に管理されるが、北朝鮮の共産軍の捕虜数は半分以下しかない。中国と北朝鮮は、捕虜の全面的な交換を求めた。共産軍は捕虜を虐殺して、さらに捕虜を自軍に編入して戦闘に強要した。共産軍側はソウルやその他の都市を占領した時に、占領地域で多くの若者を強制徴募して北朝鮮軍に編入した。そのため捕虜の朝鮮人は、捕虜交換で北朝鮮に送還されるのを拒否した。中国軍兵士も含めて過半数が北朝鮮に帰還するのを拒否して、問題は複雑になった。巨済捕虜収容所では統制が緩いため、共産と反共産の捕虜が分離していない集団の中で多数の暴力事件が発生した。
1952年5月7日、共産捕虜は巨済捕虜収容所所長のアメリカ陸軍のFTドッド准将を拉致した。その釈放の条件として捕虜の処遇改善、自由意思による捕虜の送還方針の撤回、捕虜の審査を停止し、捕虜の代表委員団認定などを提示した。この暴動は、洛東江戦線にて、アメリカ軍1騎兵師団に降伏したイハクグらが主導した。アメリカ軍は交渉を拒否して対立して、アメリカ軍が発砲して捕虜が約70人死亡し、140人余りが負傷した。
共産捕虜は拷問・暴行・虐待などを拒否し、平壌からの指示に基づいて、1952年6月20日を期して全捕虜収容所で一斉に蜂起する反乱計画を立てた。新た国連軍司令官に任命されたマーク・クラークは、暴動事件を防ぐために捕虜の分散収容を決定して、HLボート准将を捕虜収容所長に任命した。6月7日から10日に釜山捕虜収容所で共産捕虜がガードに反抗している途中に1人が殺害された事件をきっかけに、改めて暴動が起きた。ボートナー准将は6月10日にドッド准将を救出しながら捕虜を分散収容し始めたが、その過程で105人の反共捕虜が共産捕虜によって殺害された。
戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2021年4月9日金曜日
朝鮮戦争にて韓国側の巨済島の捕虜収容所にて、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発し、連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。
2021年4月8日木曜日
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。焼夷弾により黒焦げになった焼死体が散乱していた。その焼死体をかき集めて、トタン板で覆って収容した。多数の横浜市民が周囲に立ち尽くして、身寄り親族を探索した。
横浜大空襲(Bombing of Yokohama)は、第二次世界大戦末期の1945年5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心街に対する無差別爆撃である。B-29爆撃機の約517機とP-51戦闘機の約101機による焼夷弾攻撃により、約14,157人の横浜市民の犠牲を出した。横浜市の旧市街地に無差別の約2,570tの焼夷弾の爆撃とP-51により銃爆撃されて壊滅した。約79,017戸の家屋が破壊されて、市街地の約42%が焼失した。
連合軍は第二次世界大戦中に日本に多くの空襲を行って、都市部を大規模に無差別に破壊して、約333,000人が死亡して、約473,000人の日本人市民が負傷あるいは行方不明となった。太平洋戦争の戦略的爆撃は1944年6月から始まり1945年8月15日の終戦まで続いた。マリアナ諸島の航空基地が利用可能になった1944年11月頃から大幅に拡大された。アメリカ陸軍航空軍のカーチス・E・ルメイは、1945年3月初旬に、選択された標的に対する昼間の精密爆撃から、日本の都市の夜間の焼夷弾攻撃に切り替えを決定した。日本軍の武器製造する多くが小さな工房や自宅に対して、爆撃機は都市部に対する低高度の夜間の焼夷弾の投下に切り替えた。日本の軍事防衛は連合国の空襲を止めれず、戦闘機と対空砲は不十分であり、頻繁に運用されるB-29爆撃機の高度に到達するのが困難であった。
日本の都市部は木造建造物が多く、焼夷弾攻撃に対して脆弱であり、消防訓練と装備が不足して、民間市民のための防空壕は乏しく、深刻な犠牲が出た。都市部は人口が密集しており、ほとんどの建物は紙や木などの可燃性の高い材料で建造されていた。都市部の産業および軍事施設は、人口密度の高い住宅地帯に囲まれていた。アメリカ軍が火炎放射器や焼夷弾に使用したナパーム弾の生産量は、1943年の約0.23ktから1944年には約3.6 ktに増加した。ナパーム弾の多くはアメリカの9つの工場から爆弾組立工場に移転された。焼夷弾による無差別爆撃は、標的の精密爆撃からの逸脱の戦争犯罪であり、アメリカ軍は戦争を迅速な終結する必要性と犠牲を喧伝して戦争を正当化した。
2021年4月7日水曜日
数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民を義和団の乱の最中やその後に、八カ国連合軍が公開処刑した。
数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民が義和団の乱の最中やその後に、公開処刑された。多数の中国人の民衆の中に、イギリス軍兵士も混じって、清国役人が義和団の容疑者を取り押さえて斬首するのを興味深く見守った。八カ連合軍は兵員数の多い順から、日本(約20,840人)、ロシア(約13,150人)、イギリス(約12,020人)、フランス(約3,520人)、アメリカ(3,420人)、ドイツ(約900人)、オーストラリア=ハンガリー帝国(約296人)、イタリア(約80人)の八カ国から約45,000人の軍隊で構成された。
義和団と一部の清帝国軍により、1900年6月20日から8月14日までの約55日間、東交民巷にある北京公使館の外交官と外国人市民の約900人を包囲した。八カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻して、9月15日に占領した。いくつかの合戦で清帝国軍の武偉軍団を打ち負かして、義和団を包囲して、義和団の乱をすぐに終結した。清帝国の西太后、皇帝および政府高官は、北京の紫禁城から西安まで逃走した。北京から中国北部の田園地帯に掃討した時に、八カ国連合軍は義和団の容疑者と疑われた未知の数の中国人を殺害あるいは断首した。懲罰遠征中に、八カ国連合軍の兵士によって無差別な殺害が頻繁に行われた。八カ国連合軍は、義和団の容疑者の中国人女性を強姦して虐殺した。八カ国連合軍は野蛮で残忍となり、しばしば不幸な無実の中国市民を人間以下として標的にした。
八カ国連合軍は北京に駐屯している間に、北京の文化遺産、古書、芸術を略奪した。文化遺跡などから、金や青銅の芸術品を剥奪した。略奪品を本国で競売にかけていた。略奪された芸術品の一部は、ロンドンとパリの美術館の管理下である。1901年9月7日に、八カ国連合軍と清帝国は北京議定書の和平協定を締結した。1902年1月7日に西太后らが西安から北京の紫禁城に戻り、清帝国の統治が復活した。
2021年4月6日火曜日
第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースローは、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭で銃殺された。
第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースロー(LászlóBárdossy)は、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭にいた。ほっそりとした体格で直立して、自制して銃殺隊と向き合った。「神よ、これら無法者からハンガリーを護り賜え」と発して、銃殺された死体が土嚢からはじき倒された。銃殺された後に、司祭が駆け寄って冥福した。
1940年11月20日にハンガリー王国は枢軸国に加盟した。3月25日に枢軸国加に加盟したユーゴスラビア王国が、3月27日のクーデーターで反ドイツ王国となった。ナチス・ドイツにバンガリー王国の通過権を求められたテレキ・パール首相が4月3日に自殺した。テレキは、ハンガリーは死体の強盗になるほど最も忌々しい王国となると遺書に記載した。直後に右派のバールドッシ・ラースローが、1941年4月から1942年3月7日まで摂政のニコラス・ホルティ提督から首相を任命されて、親ドイツ政権に転換した。枢軸国のナチス・ドイツ軍が4月6日から4月17日のユーゴスラビア侵攻により、ユーゴラビア王国は侵略された。4月11日からハンガリー王国も、ユーゴスラビアに侵攻した。6月には、ロシアに対して宣戦布告した。1941年12月6日にイギリスに対して宣戦布告した。12月6日に真珠湾攻撃を受けたアメリカは連合軍側に参戦した。12月15日にバールドッシ・ラースロー首相はアメリカに対しても宣戦布告した。
バールドッシ・ラースローは、トリアノン条約で損失した領土を取り戻し拡大するため親ドイツ政策を追求して、枢軸国のユーゴスラビア侵攻を支援して、ハンガリーを戦争に巻き込んだ。トリアノン条約の講和条約により、連合国に敗戦したハンガリー王国は、スロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを損失した。1941年8月に、第三ユダヤ法により、ハンガリー系ユダヤ人の経済的、社会的、およびその他の基本的権利を剥奪した。反共産主義と反ユダヤ主義の法律の制定につなげた。ユーゴスラビアを占領した領土から非ハンガリー人を国外追放して、数千人のユダヤ人を虐殺した。第二世界大戦が終結後に、プタペストの人民法院により戦争犯罪と民族主義で有罪となり、死刑を宣告された。1946年1月10日に銃殺隊によって死刑が執行された。
2021年4月5日月曜日
日露戦争において旅順口の北端土城子村にて、日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。
日露戦争において旅順口の市外の北端土城子村にて、1904年9月24日午後2時27分に日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。旅順包囲戦で日本軍の死傷者は約の犠牲者の痛ましさと戦争の残酷さを示唆した。日本軍兵士は、常に突撃の命令一下に、巧を争うように銃剣をかざしてロシア軍陣地に突撃した。その時に日本軍兵士が初めて接したロシア軍の機関銃の連続音とともに、日本軍兵士が次々に戦死傷して荒野に倒れて、死体や重態者が散乱した。
ロシア軍に対する日本軍の旅順包囲戦において、1904年8月19日〜8月24日まで、第三軍司令官の乃木希典の下で 第1回旅順総攻撃を開始した。1904年10月26日〜10月31日まで、次いで第2回旅順総攻撃をした。1904年11月26日に第3回旅順総攻撃をして、ロシア軍の要塞と機関銃により、約15,000人の死傷者を伴った。11月30日に第三軍は、ロシア軍の二〇三高地を一時的占領した。12月1日に児玉総参謀長が第三軍司令部に合流した。12月5日に第三軍は、二〇三高地を再占領した。約155日もかけて多大な大量の犠牲を払って、日本軍の死者は約65,000人とロシア軍の死者は約30,000人を損失して、ロシアの極東で最大の陣地である旅順を攻略した。1905年1月2日に旅順は陥落して、陸軍省は二〇三高地の激戦後に旅順開城したことを発表した。
1904年2月10日にロシアと日本は相互に宣戦を布告して、日露戦争が勃発した。1904年8月19日から旅順包囲戦で死傷者は約59,000人、遼陽会戦で死傷者は約23,000人と膨大な犠牲を伴った。1904年3月1日から3月16日の奉天会戦で日本軍約240,000人は、ロシア軍約320,000人に対して奉天大会戦で辛勝した。日本軍は兵員、兵器、弾薬など全てが欠乏しし、ロシア軍は帝国の危機な情勢から停戦に至る。アメリカの調停により、1905年9月5日にポーツマスにおける講和条約で、日露戦争は終結した。日露戦争の戦死者は、日本軍が約7万人とロシア側は約9万人にも及んだ。
2021年4月4日日曜日
パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。
パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。第二次世界大戦にて1944年6月6日に、連合軍はフランスのノルマンディーに上陸した。連合軍はドイツ侵攻を優先して、パリを迂回して自爆と崩壊を回避した。パリを保持する自由フランス軍がパリの解放することを8月16日に認知した。1944年8月19日から8月25日まで、パリを1940年6月22日から占領したナチス・ドイツ軍と戦闘をした。8月25日に、ナチス・ドイツ駐屯軍はオテルムーリスのホテルで降伏の調印をした。
ナチス・ドイツ軍が降伏する1944年8月25日まで、自由フランス軍のルクレール将軍はドイツ軍が反撃する地域を減らすために必要な武力をレジスタンスに提供した。かなり頻繁に、自由フランス軍の反乱軍とレジスタンスが武力を合わせて、時には激しい戦いをドイツ軍と繰り広げた。ナチス・ドイツ軍の親衛隊が占領していたパリのフランス上院議事堂があったリュクサンブール宮殿、レピュブリック広場の兵舎、外務省、海洋省などで戦闘した。パリ解放のために、自由フランス軍部隊は約130人の死者と329人の負傷者が犠牲となった。レジスタンス反乱軍は数千人が殺害されて、民間市民の約2,000人が巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍の損失は、約2,800人が死亡したと推定された。シャルル・ド・ゴールは、「すべてのフランス、戦うフランス、唯一のフランス、本物のフランス、永遠のフランスの支援と助けを借りて、その人々によって解放された!」とパリの戦争省で8月25日に演説した。フランスが唯一勝利者であることを主張した。8月26日に自由フランス軍は、シャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで、まだ屋上から潜伏したドイツ軍兵士の狙撃を受けながらも行軍して、ノートルダム大聖堂で祝賀した。8月29日に、アメリカ軍がシャンゼリ通りをパリを完全解放した行軍をした。
2021年4月3日土曜日
広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が殺到して収容された。
広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が収容された。人数は不詳であるが、大量の負傷者が殺到した。1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂によって、重度な火傷を受傷した被爆者らは、8月10日には死の瞬間を迎えようとしていた。顔面や身体を火傷して、衣服も着けれない瀕死の被爆者があふれた。うめき声が広い部屋に充満して、枕元の水すら自力では手に取ることができなかった。
1945年8月6日の原子爆弾の炸裂によって、広島赤十字病院と併設した陸軍病院分院は、爆心地より南方に約1.6kmに位置した。構造3階建ての病棟は外郭を残して大破したが、消火活動によって火災は免れた。本館等は外郭だけが残り、強烈な爆風により窓ガラスは吹き飛ばされ、室内も廊下などは残骸が散乱して悲惨であった。広島赤十字病院が保管したレントゲンフィルムが、被爆によりすべて感光して、原子爆弾の炸裂による放射能が立証された。広島市内は空襲対策には備えていたが、原子爆弾の炸裂という空前絶後の事態には、市内中心部は潰滅して、救護機能は困難となった。広島周辺部の半壊あるいは小破の被害を受けた国民学校や寺院あるいは民家などに救護所を設置した。
炸裂した直後から、広島赤十字病院に押し寄せた大量の被爆者に治療が開始された。比較的に被害が少なく、診療機能が残存していた広島日赤病院と広島逓信病院が、市内中心部の救護所の拠点となった。その後に広島原爆病院は、1954年度と1955年度のお年玉付き年賀はがきの利益配分金の約6,500万円で、広島市中区千田町の広島赤十字病の構内に、広島原爆病院が設置されて、1956年9月20日に開院した。
2021年4月2日金曜日
ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。
ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。古い建物の入口で、額に狙撃されて頭部に穴が空いて殺害された死体が散乱していた。狙撃兵の気まぐれの射撃により多数の市民が犠牲になった。1994年1月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、セルビア人の武装勢力によって包囲されて、砲弾と銃弾を撃ち込まれた。サラエボ市内には、セルビア人の武装勢力の狙撃兵が侵入して、市民を無差別に狙撃した。特ににイスラム教の共同体の民族であったボスニア人を標的にした。旧ソビエト連邦が崩壊した衝撃がバルカン半島まで襲った。クロアチアが独立宣言した時には、反発したクロアチア領土内のセルビア人が内乱を起こした。内乱に対して連邦宗主国のセルビア連邦軍がクロアチアに軍事介入して内戦が勃発した。
1992年4月にボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。1995年までの数年間に、ボスニアのセルビア軍は、ユーゴスラビア軍の支援を受けて、セルビア人が支配するイスラム教徒のボスニアクとクロアチアの民間人に対して凶悪な犯罪を犯して、約10万人を粛清した。そのうちの約80%はイスラム教に改宗したボスニアクが殺害された。1984年に平和の祭典である冬季オリンピックを開催したサラエボのスタジアムは、ボスニア戦争の内戦に巻き込まれた死者の墓地となった。
バルカン諸国は第二次世界大戦の余波で、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアは、チトーが主導するユーゴスラビア連邦人民共和国に併合された。1980年1月20日にチトーが死亡してから、民族主義が台頭して連邦が崩壊し始めた。1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアは独立宣言した。セルビア人が支配するユーゴラビア軍は、クロアチアと残忍に衝突した。第二次世界大戦では、逆にクロアチア人がセルビア人を大量虐待と大量虐殺して、その復讐の怨念が潜伏していた。
1992年3月3日に国民投票によりボスニア・ヘルチェゴビナは独立宣言した。ボスニア系セルビア人が、セルビアとの併合を求めた。1992年5月にセルビア系ユーゴスラビア軍が、ボスニアの首都セルビアの攻撃が勃発した。複数の民族が共存した地域では、民族主義が台頭して大量虐待と大量虐殺が繰り返された。
セルビア人武装勢力による首都サラエボの包囲は1992年4月から1996年2月まで継続した。その包囲戦により、約12,000人以上が殺害されて、約5万人以上が戦傷し、犠牲者の約85%はサラエボ市民であった。多くの共存していた民族が、紛争が勃発すると、民族浄化の嵐を巻き起こした。1995年8月から9月にNATOがセルビア人武装勢力に対して激しい空爆をした。アメリカの仲介により、1995年12月にボスニア・ヘルツェゴビナ和製合意が成立した。
2021年4月1日木曜日
アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。
タラワの戦いで、アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。タラワの戦いは、アメリカ軍はギルバート諸島内の日本軍が占領した領土を奪還した。より大きなアメリカ軍の大群が侵略した。1943年11月20日に勃発して、アメリカ軍がまずタラワ島の北約160km以上のマキン島に上陸した。マキン島での日本軍の防御が弱くアメリカ軍の損失は少なかった。
次いでアメリカ軍がタラワ環礁内のベティオ島に上陸した。ベティオ島ではしっかりと固着した日本軍の防御は、タラワの戦いを犠牲ょ伴った1943年11月20日から11月23日に約76時間もの戦闘となった。ペティオ島の約4,690人の日本軍の守備隊は、堅固な要塞の後ろから頑強に反撃した。アメリカ軍は、空中爆撃と艦砲射撃により、日本軍の防御陣地を1つずつ絶滅した。アメリカ軍は1943年11月22日から23日の夜に日本軍の最後の反撃を打倒した。最後の日本軍の防御を排除するまでに、タラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍兵士の命を奪い、その2倍もの負傷者を出して、約400人のアメリカ軍は行方不明となった。日本軍は事実上は玉砕して全滅した。アメリカ軍はタラワの戦いで多数の犠牲者を伴って、恐怖のタラワ(terrible Tarawa)あるいは悲劇のタラワ(Tragic Tarawa)と呼称された。
日本軍はペティオ島で約3,000人以上の死者を伴った。推定1,000人の韓国人労働者も死亡した。これらの死体は、倒れた場所、または爆裂火口や既存の塹壕に埋葬された。多くの場合は、死傷者数には日本軍と韓国軍の死者と混ざり合っている。タラワでの戦いでは、4,690人の日本軍兵士の部隊から、わずか1人の日本人将校、約16人の兵隊、約1,200人のうち約129人の韓国人労働者だけが生き残った。アメリカ軍の犠牲は、約978人が戦死して、約2,188人が戦傷した。1943年12月4日のワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズに、紙面のトップページに「アメリカ軍兵士は、日本軍のタラワ環礁を占領して称賛する代わりに、至る所に多数の両軍の死体が散見された」と掲載された。アメリカ軍の死傷者数の多さは、直ちにアメリカ国民の間で、アメリカ軍に対する怒りも引き起こして、広範囲な無差別な戦闘に転換された。
2021年3月31日水曜日
第一次世界大戦の西部戦線異状なしで、ドイツ軍兵士のパウル・ボイメルは、塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。
第一次世界大戦の映画「西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front)」において、ドイツ軍志願兵のパウル・ボイメル (Paul Bäumer)は塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。失声の障害者であったレイモンド・グリフィスが演じたフランス軍兵士は、声も出せずに無言で苦悶して死亡した。パウル・ボイメルは、フランス軍兵士のポケットから手帳を見つけた。兵士の名前はジェラール・デュヴァル (Gerard Duval)で、妻と娘の写真を持っていた。パウル・ボイメルは再び大声でデュヴァルの死体に許しを請うた。1930年のアメリカの白黒映画「西部戦線異状なし」は第3回アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した。ルイス・マイルストン監督は最優秀監督賞を受賞した。主人公のドイツ軍の志願兵であるパウル・ボイメルを、リュー・エアーズが主演した。
映画ではパウル・ボイメルは、塹壕からチョウに手をのばして、敵兵の連合軍兵士がライフルで撃たれ殺害されて息絶えると脚色された。1918年5月頃にパウル・ボイメルは射殺されて、前方に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上に転がっていた。身体をひっくり返してみると長く苦しんだ形跡はない。まるで最後を遂げることを満足に感じて覚悟の見えた沈着な顔貌をしていた。パウル・ボイメルの死亡などには関係なく「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と文句が司令部に報告された。
原作者は、ドイツで生まれたエーリヒ・マリア・レマルクは、第一次世界大戦中にドイツ軍に徴兵された小説家である。戦争の危険な年月を通して、多くの戦場を経験した。戦後に、学校教師、演劇評論家、レースカーの運転手、スポーツ雑誌の編集者を経歴した。彼の最初の小説である『西部戦線異状なし』は、1929年1月にドイツで出版された。それは250万部以上を売り上げ、初めて多くの文学的な勝利を得た。ナチス・ドイツが権力を握ったとき、レマルクはドイツを離れてスイスに逃避した。彼はドイツに帰国を拒否し、ドイツの市民権を失い、小説は焚書により燃やされ、映画は禁止された(写真)。彼は1938年にアメリカに渡り、1947年にアメリカ市民権を取得して、1970年9月に死亡した。
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住居 尚子『思い出の小説ーもう一度読みたい最高の作品』1997年4月25日
2021年3月30日火曜日
プノンペンの郊外でカンボジア内戦に巻き込まれた5人の市民の死体が散乱して、警察官が死体の周囲を取り囲んだ。
カンボジアのプノンペン内の寺内の中央に、1997年7月7日に白い布をかぶせた5体の死体が横並びに集積されていた。プノンペンの郊外でカンボジア市民の5つの死体が散乱していた。制服を着用した警察官が死体の周囲を取り囲んだ。5つの死体は無数の銃弾の弾痕が残存していた車の中で殺害された。遺体の財布の中から、ラナリット派の身分証明書が残存していた。彼らはフン・セン派の軍隊の捕獲から逃れるために、車でプノンペンを出た時に、フン・セン軍に発見されて射撃されて射殺された。
カンボジアの首都プノンペンへ1997年7月5日に、フン・セン派の軍隊がなだれ込み市内を掃討した。市内から逃げ出すカンボジア市民が溢れる中で、軍隊の兵士が殺気だって銃撃した。軍隊は、ラナリット派を掃討するために、市民も含めて無差別な砲撃と銃撃をした。約2日間の悲惨な市街戦に巻き込まれて、多数の市民が犠牲となった。7月7日に、フン・セン派の軍隊が完全に首都プノンペンを制圧した。
カンボジア内戦は、1991年10月23日のパリ和平協定により、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアを暫定統治した。1993年5月に特別代表が明石康であるUNTACが、カンボジアで総選挙を実施した。シアヌーク国王に由来するラナリット派のフンシンペック党が約45%、フン・セン派の人民党が39%を獲得した。第一首相にラナリット、第二首相がフン・センが就任して、カンボジア王国が成立した。それ以後から、ラナリット派のフンシンペック党とフン・セン派の人民党が衝突した。
1997年7月5日に、人民党のフン・セン軍が、ラナリットが外国訪問中に、クーデターを引き起こして、ラナリット派勢力と武力衝突した。ラナリット派は敗走して、ラナリットは首相を解任された。ラナリット派勢力は、ポル・ポト派勢力とともにタイ国境で戦闘を継続した。
2021年3月29日月曜日
オーストラリアのカウラの捕虜収容所から日本人捕虜が、有刺鉄線を毛布で覆って脱走した直後に銃殺されて、柵外に死体が横たわった。
オーストラリアのカウラ周辺の捕虜収容所から日本人の囚人が、有刺鉄線を毛布で覆って脱走した直後に銃殺されて、柵の外に死体が横たわった。突如に日本人のラッパが鳴った。歩哨は警告の発砲した。日本人捕虜は、「バンザイ」と叫びながら集団で、北側、西側、南側から、有刺鉄線を突破し始めた。さらに多くの歩哨が発砲した。日本人捕虜は、毛布の助けを借りてワイヤーを横切って飛んで逃走した。日本人は、最も屈辱的な捕虜の身分を絶滅する行為となった。脱走した日本人は、電車の下に身を投げ、多くの人は首を吊った。日本人は捕獲されるよりも、何人かは撃たれることを懇願した。
1944年8月4日金曜日に、日本人が大規模な脱走を話し合っている情報の密告に応えて、すべての日本人捕虜にヘイ捕虜収容所に移送されることを通知した。1944年8月5日土曜日の午前2時頃に、囚人である日本人捕虜が、収容所の門に向かって叫んだ。その直後に、許可されていないラッパの警笛が聞こえた。ナイフと即興のクラブで武装した日本人の囚人が小屋から急いでワイヤーフェンスを突破し始めた。歩哨は発砲したが、数百人の囚人が開かれたオーストラリア国内に逃げ込み、残りの囚人は収容所の建物に発砲した。
太平洋戦争中の1944年8月までに、オーストラリア国内には約544人の商船員を含む約2,223人の日本人捕虜がいた。その中の約1,104人が、ニューサウスウェールズ州の中央西部にあるカウラ近くの第12捕虜収容所のキャンプBに収容されていた。日本人の囚人が大脱走したカウラ事件(cowra breakout)の夜に、3人のオーストラリア軍兵士が殺害されて、さらに3人が負傷した。その次の9日間で、約334人の日本人の囚人が再逮捕された。全部で約234人の日本人の囚人が殺害されて、108人が負傷した。
2021年3月28日日曜日
沖縄戦にて、沖縄住民の母親は子供を背中におんぶしたままで、裸足で戦場を逃げ回ってアメリカ軍に捕獲されて生き延びた。
沖縄戦において、母親が子供を背中におんぶしたままで、裸足で戦場を逃げ回って生き延びた。アメリカ軍によって捕獲された沖縄住民の集団の中で不安と恐怖に怯えた。壮絶な沖縄戦に巻き込まれて、沖縄の民間市民は逃げ惑った。女子から子供も含めて戦場の中を避難した。アメリカ軍と日本軍との戦場の中に取り残されて、追い詰められた民間沖縄市民は、日本軍からは最終的に自ら命を絶つように自決を命じられた。女子と子供らによる多数の集団自決も発生した。多くの沖縄住民が避難していた場所に、ただ戦争を避けるために日本軍が逃げ来て、壕などの避難所を強制的に徴用したために、沖縄住民は砲弾や銃弾の中に追い出されて、虐待と虐殺される事となった。
沖縄の戦場にて逃げ場を失った沖縄住民だけでなく、日本軍と行動を共にした沖縄住民まで、それぞれが凄惨な戦闘に巻き込まれて、悲劇的な犠牲者となった。沖縄戦にて、両軍は総力を挙げて死闘をくり広げた。沖縄住民を一木一草にいたるまで戦力化して、軍官民共生共死を強要した。日本軍は沖縄住民を根こそぎ動員して、兵士と同じように民間市民も戦死することを叩き込まれた。沖縄住民の死没者数は約94,000以上にも及び、日本軍兵士の死没者数の約94,000人を上回った。
アメリカ軍は大規模な武力によって、空襲や艦砲射撃などを無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。1945年4月1日に、アメリカ軍は、手薄な沖縄の中西部の海岸から上陸した。4月20日頃には沖縄の北東部の沖縄半島を制圧した。
アメリカ軍は、1945年4月6日ころから沖縄中部の首里の軍司令部を中心に守備隊に激しい抵抗に遭遇した。約40日以上もの一進一退の攻防戦の後に、アメリカ軍は中部戦線を突破して、首里城下にある軍司令部の防衛線に達して、5月11日から総攻撃をした。日本軍は激しく抗戦するも、5月22日から突如として沖縄南部へ敗退して、首里はアメリカ軍に占領された。
沖縄の南部にて、約6万人もの兵士を犠牲にした日本軍だけでなく沖縄住民も、アメリカ軍は掃討戦により追いつめた。南部一帯に敗走する日本軍と避難する沖縄住民民とが入り乱れる悲惨な戦場と化した。アメリカ軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本軍兵士や沖縄住民が隠れている壕に対して、馬乗り攻撃を行ったため、多くの人々が犠牲となった。6月23日に日本軍の組織的戦闘は終結した。
2021年3月27日土曜日
広島原子爆弾が投下された爆心地から約410mにある本川国民学校の校庭にて、周辺の死体を大量に集めては火葬した。
広島原子爆弾が投下された1945年8月6日8時15分から、約2日後の8月8日に、爆心地の川向にある本川国民学校の校庭において、その周辺の死体を大量に集めては火葬した。翌日の8月7日から、外壁が焼け残った校舎は、臨時救護所となり被爆者であふれた。校庭では身元の確認を終えた多くの死体を火葬した。広島県警察部写真班員が、火葬場を撮影した。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれた。
広島市内の本川国民学校は、広島原子爆弾の爆心地に最も一番近い小学校であった。原爆ドームから相生橋を挟んで対岸にある。本川国民学校(現 本川小学校)は爆心地から、わずか約410mと最も近い小学校のために、甚大な被害を受けた。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長ほか10人の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かった。校長を含む教職員6人と児童218
人は即死した。
翌年の1946年2月に、授業を再開して校舎の建て替えのために、最小限の補修をした校舎で授業が再開された。被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用された。1988年4月に、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去された。被爆校舎の一部と地下室は、平和資料館として整備・保存されて、1988年5月開館した。地下室を中心に当時の焼け跡が残存した。原子爆弾の被害を受けた状態を、被爆の証として保存した。展示品の多くはかつての同校教師が被爆地から集めた物品である。
中沢啓治さんが描いた『はだしのゲン』(1973年刊行)に登場する学校は、この本川小学校である。6歳の時に爆心地から約1.2kmの神崎国民学校に登校する途中に、校門付近で被爆した。自らの被爆体験を基に広島で力強く生きる少年を描いた。1975年3月18日付の朝日新聞夕刊社会面に、原爆劇画、単行本にと題した記事が掲載された。約2カ月後の5月に汐文社から全4巻の単行本が刊行された。記事と単行本により、はだしのゲンは大きく注目を集めた。作者は、2012年12月19日に、肺がんにより死亡した。はだしのゲンは18カ国語に訳され、総発行部数は1千万部を超えた。
2021年3月26日金曜日
ハンガリーのファシスト軍は、マケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を死の壁で射殺した。
ハンガリーのファシスト軍は、1941年11月11日にマケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を射殺した。彼らが射殺された前壁は「死の壁」と呼ばれた。1942年1月20日にも、ナチス・ドイツは、死の壁の前で、さらに11人の共産主義者らを銃殺した。死の壁は今日でも存在して、文化的記念碑として保護されている。写真では、くいしばられた握りこぶしを持上げたり、拳を上げて目隠しを外した。銃撃された直後に、立ち上がって、ユーゴスラビア共産党は生きて-ファシズムへの死!と叫んだ。その直後に殴打されて射殺された。青年共産党連盟の地区委員会の書記も一緒に逮捕された。逮捕中に、ファシスト憲兵を殺害して、別の憲兵を負傷させた。
親戚に別れを告げる若い男性の写真が保存されていた。1つは、青年が泣いている母親に別れを告げ、もう1つは、青年が父親に別れを告げ、3つ目は青年が兄に別れを告げている。1942年1月20日に射殺された11人の青年共産党連盟の中には、地区委員会の書記とメンバーoが含まれた。
1942年1月27日に、ハンガリーのファシストは、スタリベチェイでさらに約244人のセルビア人、ユダヤ人、ローマ人を殺害した。凍結したティサ川の氷の下に投げこまれた。殺害された人々の中には、男性約124人、女性約86人、高齢者約19人、子供15人が含まれた。