2020年2月18日火曜日

ブッヘンヴァルト収容所からの「死の行進」にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊は約800人の強制収容所の囚人を虐殺した。

ブッヘンヴァルト収容所からの「死の行進」にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊は約800人の強制収容所の囚人を1945年4月29日に虐殺した。アメリカ軍兵士は、ノインブルク・ヴォルム・ヴァルト近くの森林で1945年5月15日に発掘されたポーランド人、ロシア人、ハンガリーのユダヤ人の死体を検死した。犠牲者は、死の行進中にノインブルクの近くの森林で、フロッセンビュルクの囚人が虐殺された。囚人らは、虐殺前にはノインブルグで強制労働させた。死の行進の囚人たちは、寒さの厳しい中、食料、水、休憩をほとんどなくてあるいはまったく与えられないまま、長い距離を行進させらた。行進に付いていけない人は射殺された。
 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終結に近づき、連合軍はナチス・ドイツ軍を追い込んだ。テューリンゲン州だけでなく、ドイツと占領下のポーランド全体での強制収容所の解散して、囚人に対する犯罪を隠そうと試た。1945年4月に連合国の勢力が西から進軍して以来、危機が迫ったブッヘンヴァルトの中央強制収容所と支部収容所に対して国外に追放する死の行進を、1945年4月7日に命じられた。アメリカ軍から逃避するように約28,000人の囚人が約300km以上の死の行進をした。ダッハウ強制収容所、フロッセンビュルク、テレジエンシュタット・ゲットーの向けて死の行進で強制連行された。ブーヘンベルト強制収容所に残った約21,000人の囚人は、アメリカ軍が到着する直前の4月11日に、強制収容所を解放して支配した。死の行進の全体、特にブッヘンヴァルト強制収容所とそのサブキャンプの犠牲者が何人いたかは、決して明確にはならない。ブッヘンベルトの死の行進による死者数は、死の行進した囚人の約半数の約15,000人に及ぶと推定された。


2020年2月17日月曜日

徐州会戦の戦闘に巻き込まれた中国人の母と女児が虐殺されて、その死体が路上に放置された。

日中戦争の徐州会戦において、1938年5月5日からの徐州市地区の戦いで、日本軍が徐州を5月19日に占領した。その戦闘に巻き込まれた中国人の母と女児が虐殺されて、その死体が路上に放置された。国民党政府は、重慶に撤退した。1938年5月5日から徐州の戦いが勃発した。5月16日には中華民国軍は徐州を放棄して、徐州から南東に向かって江蘇省北部の湖沼地帯に退却した。
 更に、日本軍は南京占領後は戦勝者の立場で和平交渉に臨み、1938年1月に交渉は決裂した。この結果に近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」との声明を出し、中国一撃も外交交渉も断念して、戦争終結の糸口を自ら放棄した。場当たり的な中国作戦を遂行した。
 3月25日に徐州前の台児庄の付近で中国軍の反撃をうけて4月6日には後退した。中国軍は、台児庄の戦いを初の大勝利と宣伝した。4月7日には大本営の戦闘不拡大方針を完全に無視して、徐州攻略を断行した。1938年5月に、徐州付近に終結した約60万の中国軍に対して、徐州会戦で包囲戦を敢行した。約20万人の日本軍は、中国軍を包囲するも、包囲網をすり抜けて脱出した。徐州は占領するも包囲殲滅は失敗に終わった。焦る大本営は中国軍主力が駐屯する武漢と援助物資が流入する広東を占領する作戦に転換した。日中戦争で最大規模の約30万が動員して1938年8月に武漢を、10月には広州を占領した。すでに退却した中国軍は壊滅できなかった。広大な中国に引き込んで、徹底抗戦を訴えた。日本軍は疲弊し、もはや攻勢をかける余力はなく、占領地を維持する持久戦に移行した。日本国力の全てを軍需へ注ぎ込む国家総動員法を発令し、国民を更に戦争へ駆り立てた。1938年末の段階で中国には関東軍を含めて約96万人が動員された。戦死者は約18万人、戦傷者は約32万人で、犠牲を払っても終結を決着させることができなかった。1937年7月から1938年末で日中戦争は、日露戦争は約9万人の戦死者と、戦傷者は約15万人の約2倍にも達した。



2020年2月16日日曜日

ベトナム戦争の虐待と虐殺に巻き込まれたベトナム人母親が、若い3人子供を両腕に抱えて慟哭した。

ベトナム戦争の虐待と虐殺に巻き込まれたベトナム人母親が、若い3人子供を両腕に抱えて慟哭した。ベトナム人父親は、戦傷して重態となり苦悶していた。カメラマンに向けて号泣してベトナム戦争の悲惨を嘆いて訴えた。ベトナム人の村々を掃討するアメリカ軍兵士らが左端に見える。この戦争写真は、アメリカのベトナム戦争の反戦運動の告発映画と出版のシンポルとして貢献した。
 キャロリー・シュニーマン(Carolee Schneemann, Viet-Flakes, 1965, 8:31分, HD, 16mmFilm, https://www.dailymotion.com/video/x59m4ac )1962-67年の5年間にわたり外国の雑誌や新聞から5年間にわたって集められたベトナムの残虐な画像を強迫的なコレクションで構成した。8mmカメラを使用して写真内を移動し、揮発性のアニメーションを作成した。壊れたリズムと視覚的な屈折は、音とコラージュした。ベトナム戦争の効果的な反戦の戦争写真動画となった。彼女などフェミニズムなどの社会運動が、ベトナム戦争を終結する闘争の鍵となった。反戦運動に参加した彼女は、抗議と紛争の反戦の戦略で映画を作成した。政府やマスメディアの公式宣伝とは対照的に、現実の最も急進的な映像によって供給された。
 ベトナム-フレークは、ベトナム人に対して犯された残虐行為を示す多数の写真集で作られた映画である。外国の新聞や雑誌から5年間にわたって収集された写真である。苦痛、拷問、そして死を伴う場面の貼り付けは、さらに不快にする基調で撮影された。サウンドは、ベトナムの聖歌、バッハの断片、1960年代のポピュラーなアメリカ音楽で構成された。戦争の残虐性を強調した。アメリカでは、1968年に世界中で発生した反戦運動に貢献した。 イギリスのCCPGBからは「アメリカのベトナムに対する残忍な戦争を止めてください。(PGBのFarleigh Press、1970年。)」反ベトナム戦争の大型ポスターを啓発した。


2020年2月15日土曜日

19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下した翌日に挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きなガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。

日本赤十字社の19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下して炸裂した1945年8月9日の翌日の9月10日に長崎市内で長崎原子爆弾を被爆して負傷した被爆者を救護した。挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きいガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。看護婦は、医師1名と16人の看護婦と約3人の衛生兵で、長崎の隣県の佐賀市の陸軍病院から救護に派遣された。汽車で、佐賀駅を出発して、長崎原子爆弾の爆心地から北に約3.5kmの道ノ尾駅に9月10日のお昼頃に到着した。直ちに道ノ駅の臨時救護所で診療の補助と療養の世話をした。道の駅の周辺には、横たわった重度の被爆者が散乱していた。白衣に着替える間もなく、制服で救護をした。次々にガラスを抜いたり、チンク油を塗布した。しばらくすると医薬品が枯渇した。軍の命令により、8月15日の終戦まで救護活動を継続した。原爆症により、半年後に白血球が約2,000まで減少した。救護をしていた医療関係者は原爆症を患った。


2020年2月14日金曜日

アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。

アメリカ軍による1964年からベトナム北爆によって、1966年10月21日にハノイのトイダン中学に空爆が直撃した。アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。北爆によりハノイは瓦礫の山となり、爆死から生き埋めになった死体なども掘り出した。
 アメリカ軍は、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件を起点に、最初にアメリカ海軍による北爆が勃発した。1965年初頭からはアメリカ空軍も北爆に参戦した。北ベトナムの北爆は恒常化して、アメリカ軍が本格的なベトナムへの軍事介入をした。1965年4月4日には、北ベトナムのタン・ホア鉄橋を爆撃中に、アメリカ軍と北ベトナム軍の戦闘機が激突した。北ベトナムに対して、ソ連と中国から最新兵器が送り込まれた。アメリカ軍の北爆が激烈になるにつれて、迎撃する北ベトナム軍の戦力も高まった。ホーチミンルートを分断して、ラオス北部においてヴェトナム解放勢力を壊滅するために、最も激烈な北爆を執行した。1967年初頭から激闘に陥り、1967年8月11日には、アメリカ軍はベトナム北部とハノイ市街地を結ぶ重要なポール・ドーマ橋(ロンビエン大鉄橋)が空爆して、修復されると再空爆した。鉄橋は1967年中に3度も破壊され、攻撃と修復の繰り返しは1968年以降も続いた。
 1967年には、アメリカ軍の戦力は最高潮に達するも、泥沼化したベトナム戦争に苦闘した。1968年1月には、北ベトナム人民軍と南ベトナム人民解放戦線が、南ベトナム全土で本格的な軍事作戦であるテト攻勢を展開した。1968年3月31日に、ジョンソン米国大統領は、遂に北爆の部分停止を発表して、北ベトナムに対し和平会談を呼びかけた。1968年11月から、北爆停止が一時的に実施された。1973年1月に和平協定が調印されてから、空爆も終結した。1964年8月から1973年1月までの北爆の全期間を通じて、北ベトナムには約200万個もの爆弾が投下された。


2020年2月13日木曜日

ポーランド在中のドイツ人の自衛準軍隊員は、ポーランドのトルンのバルバルカ森で、多数のポーランド市民を射殺した。

ポーランド在中のドイツ民間人の自衛準軍隊員は、1939年10月にポーランドのトルン(Torun)近郊のバルバルカ(Barbarka)森で、多数のポーランド市民を射殺した。シュトゥットホーフ強制収容所のナチス・ドイツ軍の親衛隊は、処刑場の奥で集団死刑を検分した。バルバルカの森で、1939年10月28日から12月6日までに、約600人のポーランド人が虐殺された。バルバルカは、トルンの北部約3.2km郊外にある森林である。大量のポーランド人の死体は、1994年にナチス・ドイツ軍の証拠隠滅のために、掘り起こして焼滅した。自衛準軍退院はドイツ人の優越性を地域に浸透させるために、ゲルマン系の準軍事的な民間部隊が編成された。
  1939年10月から12月の終わりに、ゲシュタポと自衛軍退院はトルン近郊のバルバルカ森で約600人以上のポーランド人を虐殺した。トルンとその周辺地域にて、特に知識人およびポーランドの社会的および政治的運動家を虐殺した。バルバルカの森での最初の虐殺は、1939年10月28日に執行された。囚人は、強制収容所からバルバルカ森までトラックで強制連行した。次いでポーランド人は強制労働で、大量の墓穴を掘らされた。10月28日初日には、約130人が射殺された。囚人は毎週、時には週2回、バルバルカ森に連行されて射殺された。1940年1月に強制収容所は閉鎖され、生存者はザクセンハウゼン強制収容所とシュトゥットホーフ強制収容所に強制移送された。その後にユダヤ人がバルバルカ森の強制収容所に連行されて強制労働を強要した。1944年にソビエト赤軍が次第に侵攻してくると、虐殺の痕跡を隠すことを目的として、1944年に大量の墓を掘って死体は焼却された。第二次世界大戦後になって、犠牲者の死体がバルバルカの森で発掘された。1945年9月24日と1945年10月19日に、1つの集団墓を除いて空の7つの集団墓が見つかった。残存した見分けできた死体はたった1つの集団墓地で見つかった。トルンの軍事墓地に埋葬された約87人の犠牲者の死体が発見された。戦後になっても、バルバルカ森で虐殺された々の名前は約300個のみが解明された。


2020年2月12日水曜日

ドイツ軍とゲシュタポが、絞首刑された強制労働者のロープが長すぎたために足を地面から離して死刑を執行した。

ナチス・ドイツ軍と秘密警察のゲシュタポは、1944年10月25日にケルンで強制収容所の強制労働者の11人の絞首刑を執行した。民間服を着用したゲシュタポが、囚人のロープが長すぎたために足を地面から離すまで、彼は短時間は生き延びていた。公開処刑に対して、多数の民衆が取り巻いて見詰めた。死体は午後7時までロープ上に残った。ゲシュタポは、1933年4月26日に警察から分離して再編成した。ゲシュタポはドイツ全土に組織を次第に拡大して、無差別の捜査権から密告と虐待を併用した反対者に対する徹底的な弾圧を行い、強制収容所に連行して大量虐殺した。
 第二次世界大戦中に、1939年にはドイツ軍に召集されたために、ドイツの基幹産業などが約120万人の労働者が不足が露呈して、新たな労働力を要求した。ナチス・ドイツの占領地域から約12,000万人もの強制労働者を連行した。ナチス・ドイツが1933年3月29日に政権を奪った。ナチス法に違反した人々に対する死刑の適用を決定が可決された。1933年から1945年の間に法律で処刑された人数は約17,000人に達した。当時の民間市民に対する死刑判決は、人民法院または軍事法廷によって宣告された。特に反逆罪と大量処刑には、死刑が絞首刑によって行われた。特に、ヒトラーの1944年の暗殺未遂の失敗に続いて、ヒトラー自身の命令にり、絞首刑から切断まで死刑を求めて、残忍な方法による大規模な処刑が続いた。
 死刑は、人間社会がその長い歴史の中で最も古い制裁の1つです。 死刑の歴史は、執行者が絞首台に値する犯罪の性質の明確な定義が無かった。歴史上では、多くの死刑の罰が敵に復習する通常の手段であった。17世紀後半にヨーロッパ大陸に広まった啓蒙時代に、先駆者の多くは、法の名の下に政治的敵対者を清算する執行者を再処刑して、教会に閉じ込めた。長年の批判の後に、世界で初めて北イタリアのトスカーナ大公国は、1786年に死刑を公式に廃止した。ヨーロッパは死刑を非人道的な罰として、死刑の廃止を欧州連合への加盟条件とした。犯された犯罪の性質にかかわらず、死刑を拒否が、欧州連合基本憲章に規定された。1950年の欧州人権保護条約は「生命に対する人権」を保護する必要性を確認した。第二次世界大戦後、1949年にドイツ連邦共和国で死刑が廃止されたが、旧東ドイツは1987年に適用された。


2020年2月11日火曜日

日中戦争の南京陥落の前日に、日本軍の空襲を受けて沈没するアメリカのパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。

日中戦争の南京陥落の前日となる1937年12月12日に、アメリカの砲艦であるバナイ(Pany)号が、日本軍の海軍機からの砲弾を受けて、南京上流の約20kmに停泊中に沈没した。日本軍の空襲を受けて沈没するパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。アメリカ海軍の乗組員が約59人、大使館員約4人、記者が約5人、商社員が約2名とイギリスとイタリア記者が各1人らが乗船していた。日本軍による南京攻略戦が1937年12月4日に勃発して、12月13日に南京が陥落した。日本軍の海軍機による連日の爆撃が激しくなり上流に退避していた。アメリカ大使員から日本大使館に、退避しているパナイ号や商船の保護を要請した。上海の日本総領事館から直ちに陸海軍に指示を伝達した。日本軍は午前9時40分頃に、パナイ号を感知して、停止の手旗信号を送った。約20人の日本軍兵士が、パナイ号に乗船して聴取して帰還して、パナイ号はさらに約25km上流にて停泊した。
 アメリカ大使館から警告を軽視して、日本軍兵士には揚子江上の船舶を、無差別な砲撃を指示されていた。アメリカ砲艦であるパナル号は、午前11時の最後の電報からパナイ号からの通信が途絶えた。日本軍の海軍機は、午後13時27分頃から午後2時25分頃までパナイ号を爆撃で空襲した。パナイ号は約24回もの、直撃弾を被弾して浸水した。14時2分頃に、アメリカ砲艦は放棄して非難した。パナイ号を放棄して、救命ボートで北岸に向かった。沈没しているパナイ号に対しても、日本陸軍は対抗した危機防衛として救命ボートにも無差別な機関銃の射撃をした。日本軍機により、死者は約3人と重傷者は約48人に達した。
 その他にアメリカ商船や2隻のイギリス砲艦らも午後3回に空襲されていた。さらに日本海軍の空爆に巻き込まれ、南京に上陸していた日本陸軍の約2人が殺害されて、約3人が負傷した。日本海軍同士の約2隻の船艦にも誤爆をした。近隣の和県から憲兵が、負傷者を病院に搬送したが、重態のアメリカ軍水兵の1人とイタリア記者が死亡した。アメリカ大使館は、日本軍の海軍と陸軍による故意による無差別な爆撃と判断した。



2020年2月10日月曜日

日本軍憲兵は、略奪の横行したビルマのラングーンで、収容施設が枯渇して容疑者らを街路樹に縄で縛り付けた。

日本軍がミャンマー(旧 ビルマ)の首都ぶあったラングーン(現在 ヤンゴン)を占領した。日本軍憲兵は、ラングーン市内で略奪犯が横行するために、ラングーン市民も一味と加担したと容疑した。日本軍は収容施設が枯渇したために、1942年3月頃に容疑者らを街路樹に大きな縄で縛り付けられた。その写真の左端には、不許可の印章とその注意事項が記載された。日本軍から熱帯地方の炎天下にさらされて、虐待と虐殺をされた。略奪犯だけでなく、民間市民も無差別に虐待と虐殺された。
  1942年から1945年にかけて、ヤンゴンはイギリス植民地に代わって日本軍による占領を受けて、第二次世界大戦中は甚大な被害を受けた。日本軍は、1942年3月8日にラングーンを占領して、5月末にはビルマ全域を占領した。日本軍のビルマ占領下で、約17万人から約25万人の民間市民が殺害された。連合軍は1945年5月にラングーンは奪還された。
 日本軍によって日中戦争から太平洋戦争に至る新聞記者が取材した写真群が検閲されて新聞に掲載が不許可となった。大阪毎日新聞社には、従軍カメラマンが撮影した写真が、戦場別に資料室に保管されている。陸軍から海軍および内務省から外務省・逓信省などの官憲が検閲して情報操作と情報隠蔽をした。官憲が検閲を通過した写真で都合の良い写真のみを宣伝に転用した。特に戦場の写真は、掲載される直前に再度の検閲を受けた。不許可写真は掲載さえしなければ、再提出や破棄を求められなかった。日本でわずかに残された軍史料の写真となった。


2020年2月9日日曜日

フィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団は、ネグロス島の農民を襲撃して、反政府ゲリラとして虐待と虐殺された。

フィリピンのネグロス島において、1987年5月にはフィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団に、ネグロス島の農民を襲撃して、短絡的に反政府ゲリラの容疑者として、虐待と虐殺された。その残忍な死体が、南部カバンカラン丘陵地帯の小道に放置されて散乱して腐敗した。1987年4月にフィリピン政府軍は、南部の山村を反政府ゲリラとして虐待と虐殺して焼き払った。反共産自警団ではアルサマサは、1986年4月に結成されて、地域を監視した。1987年から、内戦が激化して大量の約38,000人もの国内難民が発生した。
   ネグロス島は、フィリピンのセブ島の西下端の中部ビサヤ地方にある。植民地時代以来、砂糖栽培で繁栄したが、一方で単一栽培化と貧富の格差が進んだ。わずかな大地主が富を独占して、農民の多くが雇われる農業労働者となった。1985年に、砂糖の国際的な取引価格が暴落した。ネグロス島の砂糖産業は打撃を受け、地主の破産、農園の放棄、農民の解雇が相次いだ。地主に雇われて働く農民は、砂糖栽培が没落すると同時に失業者となった。ネグロス島全土に急速な勢いで飢餓が広がった。砂糖価格の低下から飢餓にの起点は、アメリカ植民地時代から続いた特恵的関税が1974年に打ち切られた。1970年代以降は、代替甘味料が増産した。各国とも自国産業の保護を優先して、フィリピン産砂糖の需要は激減した。砂糖危機が生じた1985年頃はマルコス独裁政権の末期で、政治経済が不安定であった。1970年代以降、貧富の格差の拡大から、農民は新人民軍(NPA)に潜入者が多くなり、ゲリラによる武力攻撃や誘拐が相次いだ。フィリピン国軍と対NPAの内戦状態となった。山間部の農民は双方の内戦と掃討で虐待と虐殺されて多くの難民が出る惨状となった。1990年代半ばにNPAはほぼ壊滅したが、内戦の後遺症から多くの農民が難民となった。フィリピン政府は1988年以降に、包括的農地改革法を制定し、ゲリラの原因となる地主の農地所有を強制収用や配分をした。地主の抵抗が強く、収用・配分目標は達成できなかった。農地の多く、砂糖畑は地主地であった。2000年代に国際砂糖市場やネグロス経済は回復したが、島内の貧富の差は根強く残っままである。


2020年2月8日土曜日

韓国軍国家警察は斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺して、死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げた。

朝鮮戦争において、韓国国家警察は1952年11月17日に、韓国内の全羅北道にて朝鮮民主主義人民共和国の北朝鮮ゲリラの容疑者の青年を処刑した。韓国軍国家警察官は笑みを浮かべながら、斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺した。写真に写っていない韓国国家警察巻は、その死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げて保持していた。韓国国家警察は、ただ共産主義者だけでなく、青年グループ、家族、組合員、または韓国の意向に同意しない人を虐殺した。その対象者は、逆に韓国とアメリカ軍の侵攻した1950年の初期に、同調して多くの右翼勢力の韓国軍は、北朝鮮の左翼ゲリラ容疑者の虐殺もあった。韓国の独裁政権は、北朝鮮の左翼の人々や他の政治的敵対者の大虐殺を行った。この青年は、笑みを浮かべて韓国国家警官に話しかけたために、北朝鮮の囚人として斬首された。朝鮮戦争はアメリカの南北戦争や第二次世界大戦のように公式に記録されていない。そのために朝鮮戦争の虐殺である軍事史も公の記憶から極秘にされた。



2020年2月7日金曜日

平和思想と戦争思想の抄録 -日本近代思想編- (Kindle版の発刊: 2020年2月6日)


平和思想と戦争思想の抄録
 ― 日本近代思想編 ―

Abstracts of Peace and War Thoughts 

– Japanease Modern Thoughts –


日本平和の市民連盟 Japan No War




内容紹介
「思い出の戦争」の真実は、市民による戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 迫りつつある戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 それぞれの生命と生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つ僅かな存在にすぎない市民である。しかしながら、他人や部外者などから見れば、市民は微かな存在にすぎないであろう。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。
 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。戦争と悲惨な生死により、平和市民に受け継がれた「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として、人生の羅針盤として、「日本思い出の戦争」を多くの平和市民の心に送りたい。戦争市民が悲惨な戦争の体験をした「日本思い出の戦争」を授けたい。ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争の真実を平和市民に送り捧げたい。
 いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされているのは市民です。戦争を知らない世代の平和市民に「思い出の平和思想と戦争思想」を覚えてほしい。平和思想と戦争思想の真実を記録した歴史には、その関心や意義だけではなく、考えながら閲覧にも留意しましょう。「平和思想と戦争思想」は平和市民による真の平和の保持と戦争の抑止力となります。日本から地球に向けて、平和思想と戦争思想の真実を伝え合うことで、地球平和の市民連盟として地球平和を探求しましょう。
本書では『平和思想と戦争思想の抄録―日本近代思想編―』により思い出の「平和思想と戦争思想」から、江戸時代末期から第二次世界大戦までの日本近代思想編を平和市民に送り捧げたい。いつの時代も、平和市民と戦争市民は平和思想と戦争思想に、いつの間にか洗脳されています。平和思想と戦争思想の真実の探求には、教育だけではなく学問が必要なのです。つまり受動的に教え育てるのではなく、能動的に学びて問うことが必要なのです。教育することで、平和文化と戦争文化を勉強して継承しています。学問することで平和文化と戦争文化を探求して未来の創造と過去の代償をしています。本書を活用して、平和思想と戦争思想―日本近代思想編―を勉強するだけでなく、学問をしましょう。平和市民はともに連盟して、平和文化を継承して創造しましょう。

About this book
   Japan No War would like to send the Japanese Modern Thoughts to peaceful citizens from the "Peace Thought and War Thought", which is the memory of "Abstracts of Peace Thought and War Thoughts-Japanese Modern Thoughts". In all times, peaceful and war citizens have been brainwashed with peace and war thoughts. The search for the truth of peace and war thought requires not only educations but also studies. In other words, it is necessary to actively learn and ask questions, not passively. By educating, we study and inherit peace and war culture. By studying, we are exploring peace and war culture to create the future and destroy the past. By this book to not only learning peace and war thought—oriental thought—but also studying, peace citizens should join together to create a culture of peace.

登録情報
  • フォーマット: Kindle版, ファイルサイズ: 2160 KB, 推定ページ数: 146 ページ
  • 同時に利用できる端末数: 無制限, 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語, ASIN: B084JL9G94

2020年2月6日木曜日

アメリカ南北戦争で南軍兵士が荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。

アメリカの南北戦争において、南軍のイーウェル部隊の兵士が、バージニア州のスポットシルバニア郡の戦闘で、1864年5月19日に北軍のグラント部隊により殺害された。荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。南軍が5月19日に、スポットシルバニアのハリス農場付近で、南軍が潜行するも敗退して無意味な戦闘になった。北軍には犠牲となった兵士と武器を交替する大きな資源があった。南軍のイーウェル部隊は、ハリス農場付近で北軍の側面を偵察中に、北軍の重砲兵隊に遭遇して、無意味な小競り合いで約900人以上の兵士が犠牲となった。5月19日だけで、北軍は約6,642人、南軍は約2,718人、両軍で約9,360人が犠牲となった。
 スポットシルバニアの北軍と南軍の戦いは、1864年5月8日から5月21日まで、戦闘が断続的に継続するも両軍ともに進展はほとんど無く無駄な消耗戦となった。北軍は、戦死者数は約2,725人、戦傷者数は約13,416人、行方不明者数は約2,258人で総計で約18,399人の犠牲者が出た。南軍は、戦死者数は約1,515人、戦傷者数は約5,414人、行方不明が約5,758人で総計で約12,687人の犠牲を出した。両軍では、約31,086人もの膨大な犠牲者となった。スポットシルバニアの戦いでは勝敗もつかずも、両軍ともに一方的に勝利宣言をして勝利を誇った。


2020年2月5日水曜日

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。その頃は、壊滅的な衛生状態、すでに発生した腸チフスの流行はさらに拡散した。毎日ますます多くの囚人が死亡した。暗闇の中で囚人ら死体が散乱していた。収容所の過密状態、恐ろしい衛生状況、食糧の枯渇により、収容所の死亡率が突然上昇した。毎朝に半数または十数人の死者が各収容棟から引きずり出された。火葬場はすべての死体を収容できず、建物の前に積み上げられた死体が隣接した山並みとなった。死体の山を置く場所がなくなると、キャンプの端、有刺鉄線のフェンスのすぐ上に大きな穴が掘って、死体を投げ込み、タールで燃やした。
 フロッセンビュルク捕虜収容所は、1938年5月にナチス親衛隊によって建設された。他の強制収容所とは異なり、チェコスロバキアとドイツ国境近くのバイエルン州のフィヒテル山地の遠隔地に位置した。捕虜収容所の当初は、囚人の強制労働によって建築用の花崗岩を石切場で発掘した。約4,000人を超える囚人のうち半数以上が政治犯であった。1943年頃から強制労働の大部分は、ナチス・ドイツの軍需産業に向けた戦闘機や兵器の生産に切り替えた。元々は犯罪者および社会的な囚人を対象としていた。ナチス・ドイツ軍のソビエト連邦侵攻後に、捕虜収容所は東ヨーロッパからの政治囚で膨れ上がり、広範な約100の支部収容所に配置転換した。1944年8月から1945年1月まで、主にハンガリーとポーランドから約10,000人以上のユダヤ人が収容された。1945年1月には、約11,100人の女性を含む、約4万人の囚人に膨れ上がった。
 1945年4月23日にアメリカ軍によって解放される直前に、証拠隠滅のために約89,964人から約100,000人の囚人がフロッセンビュルク捕虜収容所からダッハウ強制収容所に連行された。栄養失調、過労、処刑などによる死の行進中に、約30,000人が死亡した。1945年3月だけで、約1,367人の囚人が死亡した。ナチス親衛隊は、多数の個人や集団に対する射殺を散発的に継続していた。


2020年2月4日火曜日

日中戦争で、日本軍の爆撃で死んだ子どもの死体の側で老夫婦が慟哭した。

日中戦争の戦闘に中国人の民間市民が巻き込まれた。日本軍の爆撃により、中国人の子どもが爆死した。その高齢な両親が、爆撃で破壊された民家の近くで、子どもの死体の側で取り囲んで慟哭した。抗日戦争は持久戦に陥り、抗戦期間が長くなり、戦線はますます広大して民間市民が戦闘に巻き込まれた。