2020年1月26日日曜日

広島逓信病院にて2人の中学生の被爆者は、 帽子で保護された髪毛は残り、髪毛の線の下は燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がった。

広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の被爆者は、中学生のように見える。 帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
 鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
 広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
 蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社, 1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina University Press, 1955, 約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。





















2020年1月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟の視聴回数 360,000回

2020年1月25日土曜日

ソマリアの父親は、娘が回復するように目前で、イスラム教の経典コーランを暗唱した。

ソマリア国境から炎天下を歩いて移動して、2006年に約80kmのケニア北東部のソマリアのダダーブ難民キャンプにたどり着いた。4歳の娘であるカリージャは、ソマリアの飢餓状態から慢性的な下痢で痩せて栄養不良となり重態となった。38歳の父親のハッサン・アダンが付き添って救護所にたどり着いた。父親は、娘が回復するように娘の目の前で、イスラム教の経典コーランを暗唱していた。父親には、娘にイスラム教のコーマン経典を祈り続けるしかなかった。
 アフリカ大陸の北東の角といわれるソマリアは、紅海をはさんでアラブ世界とアフリカが接して交錯する地域である。1960年にイタリアから独立して、近年に至るまで政権争いが絶え間なく繰り返された。1969年に、クーデターで政権を奪取したバーレ大統領は、敵対する部族を徹底的に弾圧した。1991年に、諸部族が蜂起してバーレを追放した。その後、アイディド将軍派とマフディ暫定大統領派の勢力争いが激化して、ソマリア全土が残忍な内戦状態に陥った。内戦と干ばつで約30万人以上が餓死し、約100万人以上が難民として近隣アフリカ諸国に流出した。1992年に、国連はこの事態を国際平和に対する脅威と見て、人道的介入を開始した。アメリカ軍などによる第1次、第2次の国連ソマリア活動(UNNOSOM)に加え、統合機動部隊(UNITAF)を投入して、史上初の人道上の理由による武力介入を行った。この武力介入は、一定の成果をあげたもののソマリア当事者の反発を買って、派遣軍兵士に犠牲者が出た。国連平和維持軍と現地武装勢力の戦争状態にも陥った。1994年2月に、国連安保理は強制介入を停止して、人道的介入は失敗に終わった。それ以来も、ソマリア内戦は継続的に泥沼化し、首都モガディシオをはじめ主要な都市は完全な廃虚となった。国際社会やアメリカが介入して、結局は放棄したソマリアは、残酷な内戦のまま見捨てられて情報も一切途絶えた。3つに分裂した地域では、2002年にもソマリア政府軍と反政府勢力が抗争を繰り返している。この数年の空白の間に、国際テロ組織アルカイダの影がソマリアにも潜伏した。
 2006年12月に、エチオピアがソマリア暫定政府を支援して軍事介入して首都モガディシオを占領した。2007年1月にはアメリカ軍が直接に介入して空爆して、エチオピア軍は南部のキスマユも制圧した。対抗する反政府勢力であるイスラム法廷は中部や南部でゲリラ化して、2009年にはイスラム過激派のアッシャバーブが集結して、暫定政府に対抗した。2011年には最悪の干ばつが、ソマリアからケニアとエチオピアなどを襲った。ソマリアが最も深刻で、7月の約10日間だけで約2万人が餓死と病死した。過激派のアッシャバーブらは、国連の世界食料計画(WFP)を非難して活動を阻止した。2013年5月に、国連食糧農業機関(FAO)は、2010年10月から2012年4月までに、ソマリア飢饉で約25万8000人が死亡した。そのうち5歳未満の子どもは約半数の約13万3000人が死亡した。さらに2011年5月から8月まで、毎月に約3万人もの餓死が発生した。


2020年1月24日金曜日

沖縄戦でアメリカ軍により、亀甲墓の入口で殺害された日本軍兵士の死体の側に芋や洗面器が散乱した。

沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士は亀甲墓に潜伏していた。アメリカ軍の掃討によって、亀甲墓の入口付近で殺害されて、死体の側に食料にしていた芋や洗面器が散乱した。亀甲墓に捕らえられた日本人は、アメリカ軍兵士からの繰り返しの呼び出し後に出ることを拒否すると、入口を封印してダイナマイトを仕掛けた。駆逐するのに火炎放射器を装備した戦車を導入した。アメリカ軍はドリルで亀甲羅墓の入口に穴を開けて火炎放射器を注ぎ込んだ。投降を呼びかけるも応じなければ一転して、容赦無い攻撃による殺害を続けた。
    1945年4月からの沖縄の戦いで、多くの沖縄の民間人から日本軍兵士まで、祖先の亀甲墓の中にアメリカ軍の砲撃や射撃から避難を求めて潜伏した。独特の形をした沖縄の亀甲墓は、墓の形が亀の殻に似ているために呼ばれた。死後に母親の子宮に戻るという信念から生まれた女性の子宮を表現していた。墓への入口は母親の子宮を示唆して、木々などで墓を隠蔽した。祖先崇拝を信じる沖縄では、墓は休息の場であるだけでなく、生活の精神的な場にも貢献した。病気や死亡は、家族の墓を適切に管理せず、先祖に十分な儀式を行っていないと信じた。日本軍は沖縄戦で、既存の亀甲墓または自然の洞窟であったガマを防空壕に適合させるように指令した。多数の天然の洞穴や、沖縄特有の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカ代わりに日本軍陣地の一部となった。山頂にある一連の洞窟には、多くの簡易ベッド、ゴミ、その他の医療品が含まれて、日本軍の防空壕を示唆した。沖縄戦では、首里・那覇にあった多くの亀甲墓が甚大な犠牲を被った。


2020年1月23日木曜日

スペイン内戦の緒戦にて、セビリアのトリアナ地区で共和党派市民を大量虐殺して死体と出血が街路に散乱した。

スペイン内戦の緒戦において、反政府軍がセビリアで1936年7月18日に軍事クーデターを蜂起した。1936年7月21日に約4,000人の反乱軍は、デ・リャノ指揮官が政府軍を拘留して、セビリアのトリアナ地区を占領した。反乱軍は大量虐殺を命じられて、共和党派の市民を殺害して、その死体と出血が街路一面に散乱した。1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、セビリアはアフリカ大陸に近いスペイン南部の大都市であり、7月中にはフランシスコ・フランコを主導者とする反乱軍に占領された。労働者らは、トリアナ地区にわずかな武器を持ってバリケードに潜伏した。反乱軍は、地域の女性と子供らを人間の盾として虐殺した。摘発した全ての男性はナイフで刺殺して流血の弾圧をした。労働者階級を中心として市民による抵抗も行われたが、反乱軍による厳しい報復措置による投獄と処刑を受けた。反乱軍は、7月25日にセビリアを完全に征服した。反乱軍は、8月2日からセルビアから各地を掃討しながらエストレマドゥーラを経由して、首都のマドリッドに侵攻した。
 1936年7月に、スペイン人民戦線政府に対抗してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。9月21日にフランコが最高司令官となった反乱軍に対して、ドイツ、イタリアのファシズム政権は軍事援助を提供した。一方で、人民戦線側もソ連とメキシコから公式に武器を供与された。第2次世界大戦の前哨戦と言える近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦が勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイやイギリスのジョージ・オーウェルらによって組織された国際義勇軍が加わった。武器量に勝るフランコ側が有利に戦いを進め、1939年3月28日にはマドリードが陥落して、3月31日に全てのスペイン領土を占領して、内戦はフランコ側の勝利に終わった。スペイン内戦で、約190,000から約500,000が死亡した。内戦時には、共和党派によるレッド・テロにより約38,000人以上が殺害された。内戦から第2次世界大戦の終戦までに、反乱軍の民族主義派によるホワイト・テロで約100,000以上の大量死刑で殺害された。


2020年1月22日水曜日

ワルシャワ・ゲトーでユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。

1941年9月19日頃に、ポーランドの首都ワルシャワにおけるユダヤ人の強制居住区のゲットーにおいて、ユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。一見大きな人形のように見えるものを保持している歩道上の若い女の子がいた。彼女の抱えているのは、死んでいるか死にかけている彼女より若い子供の体であった。ナチス・ドイツ軍によって封鎖されたワルシャワのゲットーは、食物も希望もなく、強制収容所にユダヤ人を監禁した。ナチス・ドイツ軍が、ゲットーへの通行を阻止しているため、多くの女性や子供らは食料や水が手に入らなかった。
 ワルシャワのゲトーの写真は、43歳のドイツ国防軍のハインリッヒ・ヨースト(Heinrich Jost)軍曹が、ワルシャワのゲットーへ無許可に訪問して撮影した。ゲトーの壁に沿って横倒れの死体に出会った残酷な悲劇は、彼を驚嘆させ悲嘆させた。混沌とした不衛生な生活環境、飢餓、ナチス・ドイツ軍からの暴力の継続的な虐待による病気だけでも、1941年の夏だけで約16,000人近くの命を奪った。ホテルのオーナーであったヨーストは、ウクライナの首都キエフの占領日であり誕生日であった1941年9月19日に、ワルシャワに駐留している部隊から休暇を取った。1941年7月頃からユダヤ人の検疫のためにゲトーの撮影を禁止していた。ヨーストは命令に逆らって、カメラを持ってゲットーに侵入して、終日に写真撮影の探索をした。おそらく1日だけでは十分ではなかったので、彼は複数回ゲトーにでかけて、複数の場所で約160枚の写真を撮影した。終戦後から誰にも見せずに保管しました。彼の死の1年前の1982年になってヨスートはドイツのスターン誌のグンター・シュバルベルグ記者に写真を渡した。彼はイスラエルのヤド・ヴァシェムにもそのコピーを渡した。
 1939年9月1日にはドイツ軍はポーランドへ進攻して、ワルシャワはドイツ軍に占領された。1939年10月4日に秘密警察が、ユダヤ人居住区を占拠した。ユダヤ人評議会が、ユダヤ人居住区を監督した。ユダヤ人居住区ではチフスが流行して隔離が必要となった。1939年11月7日に、ワルシャワのユダヤ人居住区をゲットーにしてユダヤ人を封鎖した。ドイツ軍司令官はユダヤ人居住区に立ち入り禁止区域を設営した。1940年11月16日からゲトーは封鎖されて、自由な通行は不可能となった。1941年に、ゲットー全住民の約10分の1にあたる約4万3000人が病死と餓死した。1942年には更に死亡率が急増して、1942年7月に強制移送が始まるまでには総計で約8万3000人が死亡していた。


2020年1月21日火曜日

グルジア共和国の大統領支持派は、支持者派の集会に発砲した反体制派の容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。

グルジア共和国のズヴィアド・ガムサフルディア大統領の支持者は、1992年1月3日に首都のトビリシで大統領支持者派の集会に発砲した容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。1992年1月1日に、武装野党勢力は首都トビリシの放送塔を占領し、1992年1月2日に武装野党は軍事評議会の設立を宣言した。軍事評議会はすべての抗議を禁止する新しい命令を発した。しかし、約3,000人から4,000人のガムサフルディア大統領の支持者の集会は、戦場から数マイル離れた駅から出発して、1月3日12時頃にデモ隊を組織した。主に中年の男性と女性を含む抗議者は、ガムサフルディア大統領の肖像画を持ち、彼の名前を唱えてルスタヴェリ通りに向かって歩いた。わずか15分後に、ムヘドリオーニの仮面の男を運ぶ車が群衆に煙爆弾を投げた。直後に、約8人〜約10人のマスクで覆面した男性のグループがサングラスを着用して身元を隠して潜伏した。抗議デモ参加者の前に列を作り、群衆を解散させるために空砲を撃ち始めた。数分後に、実弾が抗議デモ参加者に発砲され、激しく混乱して分散して、一部は車両の後ろに避難した。約2人の抗議デモ参加者が即座に殺され、数人が負傷した。数日後にはさらに約2人が死亡した。
   グルジアは、ソ連連邦が崩壊後に、1991年4月9日に独立宣言をして、5月26日の総選挙でガムサフルディア大統領が選出された。グルジア民族主義者であった独裁政権の大統領となった。首都トリビシで反対勢力を弾圧して、非常事態を宣言した。少数民族の南オセアニアとアブハジアに民族紛争と民族浄化が勃発した。1992年1月3日の事件は、双方の間の緊張を高めた。軍事評議会は、すべてのデモを追放するために、デモ隊を暴力的に解散する決定を直接に下した。虐殺を「正当」と呼び、首都トビリシの住民が議会の命令に違反し続けると弾圧命令を繰り返すと脅した。1992年1月6日にクーデターより、大統領はグルジアから追放されて、チェチェン・イチケリア共和国に逃亡した。


2020年1月20日月曜日

アフリカのルワンダで1994年4月6日から7月4日までフツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。

アフリカのルワンダにおいて、1994年4月6日から7月4日まで、フツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。大虐殺に勃発しても、現地の国際平和維持軍や支援者らが介入するのに数ヶ月も遅れた。そのために数百万人のルワンダ人が難民となり、約百万人が虐殺された。1994年にわずか3ケ月間で、ルワンダでフツ族の過激派が、約80万人ものツチ族を無差別に非人道的な大量虐殺した。ツチ族の犠牲者のほとんどは在住した村や町で殺害された。多くは虐殺を強制させられた隣人や仲間の村人らによって殺害された。特にツチ族とフツ族が隣り合わせで生活した農村部では、フツ族がツチ族の隣人を見つけては殺害の標的にした。フツ族の戦闘員は、教会や学校の建物に隠れているツチ族犠牲者を探して掃討した。フツ族の民間人を募集したフツ族の民兵は、ツチ族の犠牲者をマチェット山刀やライフルで殺害した。川や湖は虐殺された死体で溢れ、道端に積み上げられ、殺害現場に放置された。性暴力も蔓延して、約25万人以上の女性がレイプされた。
 人口の約85%はフツ族が占めるルワンダを、少数派のツチ族が支配していた。1959年にフツ族勢力が、ツチ族君主制を打倒して、約33万人ものツチ族が近隣諸国に逃避した。1962年7月に公式にルワンダ共和国が独立した。難民となったツチ族は、反フツ族のルワンダ愛国戦線(RPF)を結成して、1990年から1993年までルワンダに侵攻した。1994年4月6日に首都のキガリで、フツ族勢力の大統領らの飛行機が撃墜されて暗殺された。フツ族の過激派がRPF の容疑として、フツ族勢力は報復のためにツチ族市民らの大虐殺が勃発した。ツチ族のルワンダ愛国戦線が戦闘を再開してルワンダ内戦が勃発して、7月7日に首都キガリを占領して、大虐殺は終結した。逆にフツ族の約200万人がコンゴや近隣諸国に逃避した。大虐殺の終結後に、フツ族とツチ族の合意による連合政府が樹立された。


2020年1月19日日曜日

広島原爆に被災した福屋百貨店ビルに、被爆直後から一時的な救護所を急設されて、兵士が背中に重度の火傷の痂皮の処置を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



2020年1月18日土曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村民の全員を無差別に大虐殺した。

1944年6月10日にナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村を無差別に大虐殺した。最初の救助者は、保護するものが何もないく、凄まじい恐怖を感じた。男性は撃たれて、女性と子供たちは村の教会で生きたまま燃やされて、その身体にはしわが寄って、時には灰になった。リモージュ司教によってオラドゥール虐殺の翌日に死体が送られた神学校で、集めて特定しようとした。 しかし、特定できた犠牲者の人数は不明のままである。身元確認ができた死体は犠牲者全体約642人のうちわずか約8%のみであった。
 オラドゥール・シュル・グラヌは、フランスのパリから南南西約400kmにあるヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日土曜日に、ナチス・ドイツの占領下であった村で、ナチス武装親衛隊が大規模な虐殺を行った。村にいた村民のほぼ全員の約642人が殺され、村は一日にしてゴーストタウン化した。ナチス・ドイツ軍親衛隊は、オラドゥールを包囲して、村民に身分証明書の検閲のために、村の中心部の広場に集合するように命令した。集まった村民のうち、女性と子供たちは教会に連行された。しばらく経ったのちに、男性は6つの納屋に連行されたが、納屋で機関銃で射撃された。まず下肢を狙って発砲して、寝たきり状態で焚き付け身体を包み、納屋に火をつけた。男性の生存者はわずかに約5人で、約197人が死亡した。その後に、教会の女性と子供たちの中に放火して銃撃した。女性は約240人が死亡して、子供は約205人が虐殺されて、女性1人のみが避難できた。
 1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸した。迎え撃つナチス・ドイツ軍のダス・ライヒ隊は、フランス南西部のモントーバンで、潜伏したフランスのレジスタンスに襲撃された。その報復で、チュール町からゲレ町を掃討した。レジスタンスを撃退するために、約200人のナチス・ドイツ軍親衛隊がオラドゥール・シュル・グラヌへ6月10日に侵攻した。レジスタンスは皆無であるために、身代わりに村民全員を無差別に殺害した。戦後の1945年に、シャルル・ドゴール首相はオラドゥール村を訪問して、大虐殺の村を再建せずに遺跡に保存することを決定した。2013年9月4日にドイツのヨアヒム・ガウク大統領がオラドゥール村を劇的な訪問は、歴史的転換の平和訪問となった。


2020年1月17日金曜日

中国の第二次国共内戦で、国民党は路上で共産党を卒塔婆に縛って後頭部から銃殺した。

1949年5月13日金曜日に上海の共産主義者が処刑された。処刑された5人の中国人は、共産党軍の侵攻から都市を守る準備をしていた上海において、破壊的な政治活動をする重罪を犯した。犯罪人の腕が有罪判決を受けた犯罪を記載された紙に記載された卒塔婆に縛られて、死刑囚を後ろから射殺する旧来の処刑方法に従った。中国の第二次国共内戦の中で、国民党は路上で共産党を直接に銃殺した。
 北伐の過程にて、1927年4月に中華民国は上海でクーデターを指揮して、中国共産党を弾圧した。中華民国は1927年4月に南京へ遷都して、「共産党を片付ける」ことを決定した。これは、国民党と共産党の国共が初めて崩壊したことを意味した。明確な方針は、国民党が共産党を排除するだけでなく、完全に消滅することでもあった。それ以来、国民党と共産党は10年間互いに殺害し合った。 1924年から1927年の間は国民党と共産党との国共合作の間は、国民党内において共産党の組織活動は秘密裏に行われた。蒋介石が明確な方針を命じたとき、いくつかの明確な目標を除いて、最大の難しさは「共産党」が誰であるかを伝えることが最大の難関であった。1927年4月から1928年前半まで、約2万7000人以上の共産党員を含む「清党」の名の下に約310,000人以上が虐殺された。
 台湾の中華民国において白色テロは、二・二八事件以降の戒厳令下において、国民党政府が共産党などの反体制派に対して政治的弾圧をした。1947年2月27日に台北市で闇タバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲して、ニ・ニ八事件の抗争はたちまち台湾全土に広った。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの市民が投獄や処刑された。約140,000人が投獄されて、そのうち約3000人以上が死刑にされた。



2020年1月16日木曜日

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。 ウクライナのヴォルガ地域の大飢饉の写真がソ連からノルウェーに流出した。農業の集団化よる恐ろしい結果の1つは、農民間の大飢餓となった。 ソビエト当局によって長い間否定されてきた1932年〜3年の大飢饉は、約400万人以上の犠牲者の大半はウクライナに住んでいた。「ウクライナの悲しみの収穫("The harvest of sorrow", Robert Conquest, 1986) 
 ホロドモール(Holodomor)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で、ソ連の恣意的な飢餓により餓死させた大虐殺であった。ソ連により穀倉地帯であったウクライナの独立を阻止するために、ウクライナ人は強制移住さられて、農地や家畜も奪われて、約700万人が餓死したと国連は共同声明した。ソ連によるウクライナ民族を消滅させるジェノサイドとウクライナ議会は2006年に認定した。第一次世界大戦後に、1917年11月にウクライナとソビエト、1918年に西ウクライナとポーランド、1918年にクリミアとソビエトと戦争が勃発した。ソビエト軍の勝利により、1922年12月からウクライナはソ連に併合された。ソ連によるウクライナの農業集団化は1930年台から自発的から強制的に執行された。ソ連の農地共有化政策である農業集団化により減産に陥り、厳しい徴収による食料の枯渇や強制労働などで大飢饉が発生した。反対者や欲求不満から容疑者まで、強制的に虐待と虐殺された。食料が枯渇したウクライナ人は、食べれるものは生物から人肉までも食べ尽くした。地域には餓死した死体が散乱して放置され山積みされた。1932年8月11日にスターリンは、ウクライナを占領するために、弾圧し、農産物の強制生産を命じた。
 国際的承認を得ようとしたソ連は、ウクライナのホロドールの大飢饉による大虐殺を認めなかった。飢饉の被害はウクライナ人だけでなくロシア人やカザフ人にも広く及ぶとしてウクライナを否定した。1985年3月からソ連の再構築(ペレストロイカ)から、1986年4月のチェルノブイリ原発事故を受けて、ソ連は情報公開(グラスノスチ)が開放された。1987年12月に、初めてウクライナからホロドールが提訴された。ソ連の崩壊により、1990年8月にウクライナは独立した。ウクライナ領土であったクリミアに、ロシア軍武装勢力が潜行と侵攻して占領して、2014年3月18日にロシア連邦に併合された。



2020年1月15日水曜日

フィリピンのルソン島の戦いでアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。

フィリピンのルソン島の戦いで、第25師団第35歩兵大隊のアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。日本軍兵士の軍票を剥奪して、日本軍兵士であることを確認した。所持品を確認して、武器等を検証した。
 4つのアメリカ陸軍師団とマッカーサーが1945年1月9日にルソン島に上陸して、マニラへの攻撃を開始した。最終的に、10のアメリカ師団と5つの独立連隊がルソン島で戦い、太平洋戦争の最大の戦争となったた。それは、米国が北アフリカ、イタリアまたは南フランスで参戦したよりも多くの軍隊を巻き込んだ。ルソン島の戦いの間に、米軍は1942年の日本軍のよる侵略と残酷なるバターン死の行進以来に捕虜となっていた数千人の連合国捕虜を解放した。2月3日から3月3日まで、フィリピンの首都でマニラの戦いが勃発した。マニラの戦いで、日本軍兵士の死者は約12000人、連合軍の犠牲は戦死者は約1000人、戦傷者は約5500人に達したほか、約10万人以上のマニラ市民が犠牲となり、マニラ中心街は廃墟と化した。3月中旬までに、マニラは公式に連合国の支配下に戻った。組織化された日本軍の抵抗は、遠隔地の山岳拠点から続いたが、それは1945年6月下旬までにほぼ終結した。ルソン島での連合国の勝利は多くの理由で起点となったが、日本軍の降伏の始まりとなった。
 1945年1月9日から8月15日まで戦ったルソン島の戦いは、第二次世界大戦中のアメリカ、フィリピン、および日本帝国軍に対する同盟国による太平洋戦線の陸上戦闘でした。この戦いの結果、米国とフィリピン人が勝利しました。連合国は1945年3月までにルソン島のすべての重要な場所を支配していたが、日本が最後に降伏するまで日本の抵抗の山が山に残った。アメリカの歴史上では死傷者は最高ではないが、ルソン島の戦いいは、アメリカ軍が第二次世界大戦で戦った最高の死傷者の戦いであった。アメリカ兵士軍は約175,000人において約8,310人が死亡して、戦傷者は約29,560人に達した、約140,000人のフィリピンの民間人が死亡した。日本軍兵士の約250,000人におて、約192,000から205,000人の日本軍が死亡して、主に飢餓と病気に起因した。1945年9月1日に日本軍は公式に降伏した。


2020年1月14日火曜日

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。ギリシアにてアテネ工科蜂起が、ギリシア軍事政権に対する大規模な学生デモがアテネ工科大学で発生した。蜂起は1973年11月14日に始まり、反軍事的反乱に激化して、11月17日の早朝に軍事政権の戦車が、アテネ工科大学の門を突破して侵攻して、学生の悲惨な流血で終結した。デモに参加した学生と市民の死者は約80人と負傷者数百人、逮捕者が約700人がでる犠牲になった。1973年11月17日午前3時頃に、軍事政権の戦車がアテネ工科大学の鉄門を突破した。アテネの街の明かりは消灯されて、大学の発電機によるキャンパス内の照明のみであった。不明瞭な映像では、戦車が人々がしがみついた大学構内への主要な鉄門を打倒した。無線伝送記録において、建物の周囲の軍事政権の兵士に命令に反して、「兄弟の抗議」と叫び戦わないようにと必死に求める若者の声が聞こえた。感情的な発声に続き、ギリシャ国歌の歌詞を暗唱して、戦車がアテネ工科大学に突入する時点で、送信が停止した。
 ギリシアは、1967年4月21日から軍事政権の支配下にあり、市民権を廃止し、政党を解散し、政治的信念に基づく政治家と市民を追放、投獄、拷問した独裁政権となった。アメリカは、軍事独裁政権を擁護・支援した。1968年8月13日に暗殺未遂から、秘密警察によるギリア市民の監視と検閲などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者の容疑者を逮捕して拷問して国外追放あるいは孤島に収監した。1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対するギリシア市民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化した。アテネ工科大学蜂起に反発したアテネ軍が、1973年11月25日に軍事政権を打倒する反クーデターが勃発して、新たな軍事政権に転換した。ギリシア軍事政権のキプロス政権の打倒が失敗して、1974年7月15日にトルコによるキプロスの侵攻を招いて、軍事政権は破綻した。1974年11月11日の国民投票からギリシアが民生移管してギリシア共和国が成立した。


2020年1月13日月曜日

日本軍による南京事件の過程で、公開で中国人を日本刀で斬首して、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。

日本軍による南京事件の過程で、南京を侵略した日本軍が、公開で中国人を日本刀で斬首した。日本軍兵士が中国兵士を残酷に殺害するのを、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。写真の正面からは、少なくとも3人のカメラマンが首斬を撮影している。
 日中戦争において日本軍は1937年12月13日に、当時の中華民国の首都であった南京を占領して、中国人兵士と住民に対して残酷な虐待と虐殺の南京事件を引き起こした。日本軍は南京を占領して、南京とその周辺の中国人を約40日間以上にわたり、射殺、生きた埋葬、斬撃、焼却という残忍な殺害で処刑した。南京事件の間、日本軍の上官と兵士は、中国人の囚人を虐殺するために無差別に殺害した。南京事件が発生した要因として、日中戦争当初からの中国軍から受けた戦闘などの被害への報復のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある。中国軍側には、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄、民間保護対策の欠如なども指摘されている。
 残虐写真が流出すると利害作用に気が付いた関東軍上層部は、1938年10月24日付で「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」により、撮影禁止令を発した。首が刎ねられる瞬間を撮影した7枚以上の写真は、その場所の同一性と内容の検証が議論されている。斬首により、首からの血しぶきの放出も写っている。取り囲んだ約100人を超える兵士達は、赤い出血の凄惨な情景を見られて興奮している。この写真には、3人のカメラマンも写っている。これらの写真を写したカメラマンを含めると、カメラマンは最低4人以上いることになる。同じ日の同じ場所での公開処刑の首斬りの同一性が議論されている。撮影者が多人数であれば、多数の写真は、さまざまなルートで写真が流布する。カメラマンが4名以上いたならば、南京の写真館以外に、上海の写真館にも、そこから漢口へ写真が流出したというルック誌(Look Magazine, 1937年2月創刊)の記事とも整合する。


2020年1月12日日曜日

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。9月下旬の広島赤十字病院に救護された。発後数時間以上生存し、医師の診察を受けた患者の火傷の発生率は95以上%と報告している。
火傷は熱線に直接に面していた部分に主に生じて、爆心地から約3.5km離れたところでも、皮膚の部分には火傷を受傷した。原子爆弾の炸裂と同時に爆心地の温度は摂氏約100万度を超えたた。空気中に発生した火球は、約1秒後には最大直径約280mと暴発した。火球から四方に放出された熱線は、炸裂後の約100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は、瞬間に摂氏約3,000から4,000度にも達しまた。原爆からの強烈な熱線によって焼身された被爆者は重度の火傷を受傷して、膨大な人が被爆死した。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡状になった。樹木への着火も多く、爆心地から約3km以内では木材、樹木、電柱などが黒焦げになった。熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、皮膚面に不規則な隆起を生ずるケロイド状態になった。被爆後約4ヵ月頃より発生し、約6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から約2km前後で被爆した人に多かった。
 広島日赤病院は、爆心地から南方約1.5kmに設置されていた。広島原子爆弾の落下から炸裂によって、鉄筋コンクリート3階建であった日赤病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して全壊した。当時は日赤病院の一部は 広島陸軍病院分院としても併用された。地下室に保管していたレントゲンフィルムがすべて感光化していた事から、特殊爆弾が原子爆弾であることが立証された。被爆した直後から 生存した医師・看護婦は、救護を求めて集合してきた被爆者にわずかな医療機材を用いて診断と治療を続けた。広島日赤病院は、広島原爆の投下と炸裂により壊滅的な被爆を受けた広島市にて、倒壊や焼失を免れた数少ない医療機関の1つであった。被爆直後から負傷者が殺到した。 設備や備品は破壊され、薬品も治療材料も直ちに底をつく状況で、生存した医師や看護婦たちは、昼夜を分かたず被爆者を救護した。