2020年1月19日日曜日

広島原爆に被災した福屋百貨店ビルに、被爆直後から一時的な救護所を急設されて、兵士が背中に重度の火傷の痂皮の処置を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



2020年1月18日土曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村民の全員を無差別に大虐殺した。

1944年6月10日にナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村を無差別に大虐殺した。最初の救助者は、保護するものが何もないく、凄まじい恐怖を感じた。男性は撃たれて、女性と子供たちは村の教会で生きたまま燃やされて、その身体にはしわが寄って、時には灰になった。リモージュ司教によってオラドゥール虐殺の翌日に死体が送られた神学校で、集めて特定しようとした。 しかし、特定できた犠牲者の人数は不明のままである。身元確認ができた死体は犠牲者全体約642人のうちわずか約8%のみであった。
 オラドゥール・シュル・グラヌは、フランスのパリから南南西約400kmにあるヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日土曜日に、ナチス・ドイツの占領下であった村で、ナチス武装親衛隊が大規模な虐殺を行った。村にいた村民のほぼ全員の約642人が殺され、村は一日にしてゴーストタウン化した。ナチス・ドイツ軍親衛隊は、オラドゥールを包囲して、村民に身分証明書の検閲のために、村の中心部の広場に集合するように命令した。集まった村民のうち、女性と子供たちは教会に連行された。しばらく経ったのちに、男性は6つの納屋に連行されたが、納屋で機関銃で射撃された。まず下肢を狙って発砲して、寝たきり状態で焚き付け身体を包み、納屋に火をつけた。男性の生存者はわずかに約5人で、約197人が死亡した。その後に、教会の女性と子供たちの中に放火して銃撃した。女性は約240人が死亡して、子供は約205人が虐殺されて、女性1人のみが避難できた。
 1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸した。迎え撃つナチス・ドイツ軍のダス・ライヒ隊は、フランス南西部のモントーバンで、潜伏したフランスのレジスタンスに襲撃された。その報復で、チュール町からゲレ町を掃討した。レジスタンスを撃退するために、約200人のナチス・ドイツ軍親衛隊がオラドゥール・シュル・グラヌへ6月10日に侵攻した。レジスタンスは皆無であるために、身代わりに村民全員を無差別に殺害した。戦後の1945年に、シャルル・ドゴール首相はオラドゥール村を訪問して、大虐殺の村を再建せずに遺跡に保存することを決定した。2013年9月4日にドイツのヨアヒム・ガウク大統領がオラドゥール村を劇的な訪問は、歴史的転換の平和訪問となった。


2020年1月17日金曜日

中国の第二次国共内戦で、国民党は路上で共産党を卒塔婆に縛って後頭部から銃殺した。

1949年5月13日金曜日に上海の共産主義者が処刑された。処刑された5人の中国人は、共産党軍の侵攻から都市を守る準備をしていた上海において、破壊的な政治活動をする重罪を犯した。犯罪人の腕が有罪判決を受けた犯罪を記載された紙に記載された卒塔婆に縛られて、死刑囚を後ろから射殺する旧来の処刑方法に従った。中国の第二次国共内戦の中で、国民党は路上で共産党を直接に銃殺した。
 北伐の過程にて、1927年4月に中華民国は上海でクーデターを指揮して、中国共産党を弾圧した。中華民国は1927年4月に南京へ遷都して、「共産党を片付ける」ことを決定した。これは、国民党と共産党の国共が初めて崩壊したことを意味した。明確な方針は、国民党が共産党を排除するだけでなく、完全に消滅することでもあった。それ以来、国民党と共産党は10年間互いに殺害し合った。 1924年から1927年の間は国民党と共産党との国共合作の間は、国民党内において共産党の組織活動は秘密裏に行われた。蒋介石が明確な方針を命じたとき、いくつかの明確な目標を除いて、最大の難しさは「共産党」が誰であるかを伝えることが最大の難関であった。1927年4月から1928年前半まで、約2万7000人以上の共産党員を含む「清党」の名の下に約310,000人以上が虐殺された。
 台湾の中華民国において白色テロは、二・二八事件以降の戒厳令下において、国民党政府が共産党などの反体制派に対して政治的弾圧をした。1947年2月27日に台北市で闇タバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲して、ニ・ニ八事件の抗争はたちまち台湾全土に広った。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの市民が投獄や処刑された。約140,000人が投獄されて、そのうち約3000人以上が死刑にされた。



2020年1月16日木曜日

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。 ウクライナのヴォルガ地域の大飢饉の写真がソ連からノルウェーに流出した。農業の集団化よる恐ろしい結果の1つは、農民間の大飢餓となった。 ソビエト当局によって長い間否定されてきた1932年〜3年の大飢饉は、約400万人以上の犠牲者の大半はウクライナに住んでいた。「ウクライナの悲しみの収穫("The harvest of sorrow", Robert Conquest, 1986) 
 ホロドモール(Holodomor)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で、ソ連の恣意的な飢餓により餓死させた大虐殺であった。ソ連により穀倉地帯であったウクライナの独立を阻止するために、ウクライナ人は強制移住さられて、農地や家畜も奪われて、約700万人が餓死したと国連は共同声明した。ソ連によるウクライナ民族を消滅させるジェノサイドとウクライナ議会は2006年に認定した。第一次世界大戦後に、1917年11月にウクライナとソビエト、1918年に西ウクライナとポーランド、1918年にクリミアとソビエトと戦争が勃発した。ソビエト軍の勝利により、1922年12月からウクライナはソ連に併合された。ソ連によるウクライナの農業集団化は1930年台から自発的から強制的に執行された。ソ連の農地共有化政策である農業集団化により減産に陥り、厳しい徴収による食料の枯渇や強制労働などで大飢饉が発生した。反対者や欲求不満から容疑者まで、強制的に虐待と虐殺された。食料が枯渇したウクライナ人は、食べれるものは生物から人肉までも食べ尽くした。地域には餓死した死体が散乱して放置され山積みされた。1932年8月11日にスターリンは、ウクライナを占領するために、弾圧し、農産物の強制生産を命じた。
 国際的承認を得ようとしたソ連は、ウクライナのホロドールの大飢饉による大虐殺を認めなかった。飢饉の被害はウクライナ人だけでなくロシア人やカザフ人にも広く及ぶとしてウクライナを否定した。1985年3月からソ連の再構築(ペレストロイカ)から、1986年4月のチェルノブイリ原発事故を受けて、ソ連は情報公開(グラスノスチ)が開放された。1987年12月に、初めてウクライナからホロドールが提訴された。ソ連の崩壊により、1990年8月にウクライナは独立した。ウクライナ領土であったクリミアに、ロシア軍武装勢力が潜行と侵攻して占領して、2014年3月18日にロシア連邦に併合された。



2020年1月15日水曜日

フィリピンのルソン島の戦いでアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。

フィリピンのルソン島の戦いで、第25師団第35歩兵大隊のアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。日本軍兵士の軍票を剥奪して、日本軍兵士であることを確認した。所持品を確認して、武器等を検証した。
 4つのアメリカ陸軍師団とマッカーサーが1945年1月9日にルソン島に上陸して、マニラへの攻撃を開始した。最終的に、10のアメリカ師団と5つの独立連隊がルソン島で戦い、太平洋戦争の最大の戦争となったた。それは、米国が北アフリカ、イタリアまたは南フランスで参戦したよりも多くの軍隊を巻き込んだ。ルソン島の戦いの間に、米軍は1942年の日本軍のよる侵略と残酷なるバターン死の行進以来に捕虜となっていた数千人の連合国捕虜を解放した。2月3日から3月3日まで、フィリピンの首都でマニラの戦いが勃発した。マニラの戦いで、日本軍兵士の死者は約12000人、連合軍の犠牲は戦死者は約1000人、戦傷者は約5500人に達したほか、約10万人以上のマニラ市民が犠牲となり、マニラ中心街は廃墟と化した。3月中旬までに、マニラは公式に連合国の支配下に戻った。組織化された日本軍の抵抗は、遠隔地の山岳拠点から続いたが、それは1945年6月下旬までにほぼ終結した。ルソン島での連合国の勝利は多くの理由で起点となったが、日本軍の降伏の始まりとなった。
 1945年1月9日から8月15日まで戦ったルソン島の戦いは、第二次世界大戦中のアメリカ、フィリピン、および日本帝国軍に対する同盟国による太平洋戦線の陸上戦闘でした。この戦いの結果、米国とフィリピン人が勝利しました。連合国は1945年3月までにルソン島のすべての重要な場所を支配していたが、日本が最後に降伏するまで日本の抵抗の山が山に残った。アメリカの歴史上では死傷者は最高ではないが、ルソン島の戦いいは、アメリカ軍が第二次世界大戦で戦った最高の死傷者の戦いであった。アメリカ兵士軍は約175,000人において約8,310人が死亡して、戦傷者は約29,560人に達した、約140,000人のフィリピンの民間人が死亡した。日本軍兵士の約250,000人におて、約192,000から205,000人の日本軍が死亡して、主に飢餓と病気に起因した。1945年9月1日に日本軍は公式に降伏した。


2020年1月14日火曜日

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。ギリシアにてアテネ工科蜂起が、ギリシア軍事政権に対する大規模な学生デモがアテネ工科大学で発生した。蜂起は1973年11月14日に始まり、反軍事的反乱に激化して、11月17日の早朝に軍事政権の戦車が、アテネ工科大学の門を突破して侵攻して、学生の悲惨な流血で終結した。デモに参加した学生と市民の死者は約80人と負傷者数百人、逮捕者が約700人がでる犠牲になった。1973年11月17日午前3時頃に、軍事政権の戦車がアテネ工科大学の鉄門を突破した。アテネの街の明かりは消灯されて、大学の発電機によるキャンパス内の照明のみであった。不明瞭な映像では、戦車が人々がしがみついた大学構内への主要な鉄門を打倒した。無線伝送記録において、建物の周囲の軍事政権の兵士に命令に反して、「兄弟の抗議」と叫び戦わないようにと必死に求める若者の声が聞こえた。感情的な発声に続き、ギリシャ国歌の歌詞を暗唱して、戦車がアテネ工科大学に突入する時点で、送信が停止した。
 ギリシアは、1967年4月21日から軍事政権の支配下にあり、市民権を廃止し、政党を解散し、政治的信念に基づく政治家と市民を追放、投獄、拷問した独裁政権となった。アメリカは、軍事独裁政権を擁護・支援した。1968年8月13日に暗殺未遂から、秘密警察によるギリア市民の監視と検閲などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者の容疑者を逮捕して拷問して国外追放あるいは孤島に収監した。1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対するギリシア市民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化した。アテネ工科大学蜂起に反発したアテネ軍が、1973年11月25日に軍事政権を打倒する反クーデターが勃発して、新たな軍事政権に転換した。ギリシア軍事政権のキプロス政権の打倒が失敗して、1974年7月15日にトルコによるキプロスの侵攻を招いて、軍事政権は破綻した。1974年11月11日の国民投票からギリシアが民生移管してギリシア共和国が成立した。


2020年1月13日月曜日

日本軍による南京事件の過程で、公開で中国人を日本刀で斬首して、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。

日本軍による南京事件の過程で、南京を侵略した日本軍が、公開で中国人を日本刀で斬首した。日本軍兵士が中国兵士を残酷に殺害するのを、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。写真の正面からは、少なくとも3人のカメラマンが首斬を撮影している。
 日中戦争において日本軍は1937年12月13日に、当時の中華民国の首都であった南京を占領して、中国人兵士と住民に対して残酷な虐待と虐殺の南京事件を引き起こした。日本軍は南京を占領して、南京とその周辺の中国人を約40日間以上にわたり、射殺、生きた埋葬、斬撃、焼却という残忍な殺害で処刑した。南京事件の間、日本軍の上官と兵士は、中国人の囚人を虐殺するために無差別に殺害した。南京事件が発生した要因として、日中戦争当初からの中国軍から受けた戦闘などの被害への報復のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある。中国軍側には、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄、民間保護対策の欠如なども指摘されている。
 残虐写真が流出すると利害作用に気が付いた関東軍上層部は、1938年10月24日付で「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」により、撮影禁止令を発した。首が刎ねられる瞬間を撮影した7枚以上の写真は、その場所の同一性と内容の検証が議論されている。斬首により、首からの血しぶきの放出も写っている。取り囲んだ約100人を超える兵士達は、赤い出血の凄惨な情景を見られて興奮している。この写真には、3人のカメラマンも写っている。これらの写真を写したカメラマンを含めると、カメラマンは最低4人以上いることになる。同じ日の同じ場所での公開処刑の首斬りの同一性が議論されている。撮影者が多人数であれば、多数の写真は、さまざまなルートで写真が流布する。カメラマンが4名以上いたならば、南京の写真館以外に、上海の写真館にも、そこから漢口へ写真が流出したというルック誌(Look Magazine, 1937年2月創刊)の記事とも整合する。


2020年1月12日日曜日

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。9月下旬の広島赤十字病院に救護された。発後数時間以上生存し、医師の診察を受けた患者の火傷の発生率は95以上%と報告している。
火傷は熱線に直接に面していた部分に主に生じて、爆心地から約3.5km離れたところでも、皮膚の部分には火傷を受傷した。原子爆弾の炸裂と同時に爆心地の温度は摂氏約100万度を超えたた。空気中に発生した火球は、約1秒後には最大直径約280mと暴発した。火球から四方に放出された熱線は、炸裂後の約100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は、瞬間に摂氏約3,000から4,000度にも達しまた。原爆からの強烈な熱線によって焼身された被爆者は重度の火傷を受傷して、膨大な人が被爆死した。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡状になった。樹木への着火も多く、爆心地から約3km以内では木材、樹木、電柱などが黒焦げになった。熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、皮膚面に不規則な隆起を生ずるケロイド状態になった。被爆後約4ヵ月頃より発生し、約6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から約2km前後で被爆した人に多かった。
 広島日赤病院は、爆心地から南方約1.5kmに設置されていた。広島原子爆弾の落下から炸裂によって、鉄筋コンクリート3階建であった日赤病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して全壊した。当時は日赤病院の一部は 広島陸軍病院分院としても併用された。地下室に保管していたレントゲンフィルムがすべて感光化していた事から、特殊爆弾が原子爆弾であることが立証された。被爆した直後から 生存した医師・看護婦は、救護を求めて集合してきた被爆者にわずかな医療機材を用いて診断と治療を続けた。広島日赤病院は、広島原爆の投下と炸裂により壊滅的な被爆を受けた広島市にて、倒壊や焼失を免れた数少ない医療機関の1つであった。被爆直後から負傷者が殺到した。 設備や備品は破壊され、薬品も治療材料も直ちに底をつく状況で、生存した医師や看護婦たちは、昼夜を分かたず被爆者を救護した。

2020年1月11日土曜日

日中戦争において日本陸軍第731部隊は、中国人の子供を生体解剖して生物実験をした。

日中戦争において、日本陸軍7312部隊は、中国人の子供を生体解剖して生物実験をした。生体解剖が始める時に、子供が生きているか死んでいるかは不明である。731部隊は、日本軍が支配する満州国最大の都市であったハルビンの南約100kmの平方地区に1938年から1945年まで約17年間に駐留していた。731部隊は石井四郎部隊長によって1936年4月23日に組織され、その10年の間に、約3,000人の中国人を多数の実験と野外実験を行った。実験は、1925年ジュネーブ議定書に反する生体解剖から凍傷テスト、強制妊娠や武器テストにまで及んだ。731部隊は8つの部門に分かれて、各部門には保守や補給品から実験、強制滅菌までのさまざまな任務が割り当てられた。日本軍の資金提供により、3.2平方kmの巨大な敷地の城壁内に約150を超える建物を設置し、最大約400人の囚人を収容できた。人類史上で、人間に対する最も衝撃的で残酷な実験を執行した。731部隊は、犠牲者を人間ではなく、木材の「丸太」と呼称した。恐ろしい医学的検査で死者を拷問した後に、遺体は灰まで焼かれた。731部隊は、ナチス・ドイツ軍の強制収容所の生物実験と異なり、実験された囚人はすべて殺害されて証拠隠滅された。
 終戦後に戦争犯罪から逃げた石井四郎は、1946年にアメリカ軍占領軍に尋問された。アメリカ軍は、731部隊の生物兵器の生物実験データの収集とロシアに秘密流出の防止を司法取引して、極東国際軍事裁判から免責された。ソ連軍の捕虜となった約12人は、1949年12月のハバロフスクでの戦争犯罪裁判で裁判にかけられた。1956年に自殺した1人を除き11人は日本の国立公文書館は、2018年4月に日本陸軍第731部隊の約3,607人の構成員の名前を開示させられた。約52人の外科医、約49人の技術員、約38人の看護婦、約1,117人の衛生兵が関与した。日本国内では、731部隊は慰安婦や南京大虐殺のように、論争の的となる多くの大量虐待と大量虐殺は、国粋派によって否定されている。


2020年1月10日金曜日

太平洋戦争のビアク島の戦いで、海岸に日本軍兵士の死体が太陽の灼熱で、悪臭を発する腐乱した白骨化した死体が散在した。

太平洋戦争におけるビアク島の戦いで、ニューギニア領ビアク島の海岸で、日本軍兵士の死体が、約2週間の太陽の灼熱にさらされた。悪臭を発する腐乱した白骨化した死体が散在した。日本軍兵士は食糧も飲料水も枯渇して、わずかな乾パンと鍾乳石の地下水で飢えと渇きをしのいだ。洞窟内は感染症から糞尿と腐敗した死体から発する悪臭で充満した。アメリカ軍は6月20日頃から火炎放射器では到達しない洞窟の入口から、火のついたガソリン缶を投げ込んで爆発させた。トンネルの床に散乱した日本軍兵士の死体。脳と腹部の破裂によって吹き飛ばされた死体。死んだ日本軍兵士の耳、鼻、口、目から流れる血。死にたいと思った日本軍兵士の集団自殺の死体。
 太平洋戦争のニューギニア戦線で、ビアク島の戦いが1944年5月27日から8月20日まで勃発した。アメリカ軍は、マリアナ諸島に侵攻するため、飛行場の確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。日本軍の守備兵士は「北のアッツ、南のビアク」と呼称される玉砕の死闘を繰り返した。ビアク島は非常に強力な日本軍の防衛陣地であった。サンゴ島で、平らではなく、高い崖、丘、無数の巨大な洞窟があった。南海岸はサンゴ礁で防御され、約760mの高さの崖が並列した。平坦な地面は島の南端に向かって、日本軍は脅威となる東にモクマー飛行場、中央にボロケ飛行場、西にソリド飛行場を設置していた。
 日本軍とアメリカ軍は、ビアク島の占領のため戦闘したが戦略的に無意味となった。日本軍の守備隊は、アメリカ軍がマリアナ諸島の侵略を断絶するために、アメリカ軍からビアク飛行場の使用を排除していた。ビアク島の戦いでアメリカ軍は、侵攻することで飛行場が日本艦隊作戦を支援することを妨げた。しかし、両軍の司令部は、変化する戦術的および運用上の状況が提示されても、元の計画を実行するように判断した。両軍の司令部は、しばしば何が起こっているのか不明瞭となり、本部司令部からの制約の下で戦い、誤った評価に基づいて行動し、矛盾した命令を出した。アメリカ軍は自らの配分で活動き、攻撃を加速するために、繰り返し指示された方針には従わない。日本軍は、すべての命令に従い、それが意味をなさなかった。アメリカ軍は勝利して、日本軍は敗北して多大な犠牲を出した。日本軍兵士は約14,900人のうち、約10,000以上が戦死して、生存した生還者はわずか520人であった。アメリカ軍は約30,000人のうち約471人が戦士して、戦傷者は約2,433人で、戦病者は約7,200人に及んだ。


2020年1月9日木曜日

ベトナム人青年は、ダナンの南ベトナム解放戦線と断定されて、南ベトナム政府軍により公開死刑を執行された。

ベトナム戦争において、1965年にベトナム中部の港町であるダナンで公開死刑が執行された。ベトナム人青年を、ダナン市民に紛れ込んだ南ベトナム解放戦線の容疑者と断定して、南ベトナム政府軍は公開の銃殺刑で死刑を執行した。ベトナム人青年は目隠しをして土嚢の壁の前の柱に縛り付けられた。8人のベトナム軍兵士が至近距離から狙う打ちして同時に銃撃した。後方の立て看板には、「このベトコンは、ダナンの善良な市民を虐殺した。」と記載した。公開の銃殺刑が完了して、直ちに死亡して転倒した死体からベトナム人青年の検死を確認した。南ベトナム政府軍兵士は、大型のトラックを横付けして、青年の死体を処刑現場から運搬して持ち去った。
  最後の正式な公開処刑は、1868年にイギリスで、1936年にアメリカで、1939年にフランスで執行された。シリア、アフガニスタン、イエメンからイスラム国なとでも公開処刑が執行された容疑がある。アメリカおよび西ヨーロッパは20世紀初頭に、死が一般大衆の視界からますます遮られた。究極の公開死刑により、政権は政治的敵に対する優位性を大衆に示して、抑止力を保持した。アメリカの最後の公開処刑は、1936年に37歳の黒人男性のレイニーベテアが、70歳の女性のレイプと殺人に対する有罪判決を受けて、ケンタッキー州オーエンズボロで、保安官であるトンプソン・リニーが、女性として最初で最後の公開の絞首刑を執行した。最後の公開処刑には、約15,000人以上もの一般大衆が集合して目撃した。イギリスは、1968年の死刑改正法で公開処刑が禁止されて、刑務所内でのみ執行された。フランスでは、1939年6月17日に31歳男性の6回の殺人犯であるオイゲン・ワイドマンが、ヴェルサイユのサンピエール刑務所の外にて、ギロチンで公開処刑された。
 ベトナム戦争の際に、1965年3月8日に朝鮮戦争以来のアメリカ軍海兵隊の戦闘部隊が初めてベナナムに上陸して、ダナン国際空港の付近に大規模な米軍基地を建設した。ベトナム戦争中、ダナン国際空港は、南ベトナムおよびアメリカ空軍が使用する主要な空軍基地となった。上陸した浜辺の誰も、後に続く長くて曲がりくねったベトナム戦争を全く想定しなかった。年末までに、ベトナム戦争が激化するにつれて約185,000人の軍隊が配備された。10年後に、南ベトナムが陥落し、アメリカ軍米兵が最終的に撤退したとき、約270万人のアメリカ人がベトナムで従軍して、約58,000人以上が殺害された。約200万人の民間ベトナム人市民を含む約300万人ものベトナム人が死亡した。数十万人が重傷をって障害者になった。農地は、約4300万リットルもの枯葉剤の曝露によって汚染された。地方には約1400万トンもの兵器が潜在して、その大部分は不発弾となった。何百万人ものベトナム人が避難して、飢饉と病気が蔓延した。


2020年1月8日水曜日

37歳黒人男性のルービン・ステイシーは、フロリダ州で白人女性に危害を加えたとして首吊でリンチされた。

アフリカ系アメリカ人の37歳男性のルービン・ステイシーは、1935年7月19日にフロリダ州フォートローダーデールで白人女性に危害を加えたとして首吊でリンチされた。ジョージアを去って、日雇い農民からホームレスとなったルービン・ステイシーは、食物を求めて物乞いに、フォートマリオン・ジョーンズ家のドアに来た。彼女は悲鳴を上げて、5歳の男子が助けを求めた。2日後に住民の苦情が殺到して、保安官が彼を逮捕して勾留した。南部の白人暴徒が勾留された刑務所から、彼を連れ去りジョーンズ家の付近でリンチを執行した。ルービン・ステイシーは、快適に歩いて白人の家に近づき過ぎてリンチされた。ステイシーの死体に、数人の白人の子供を含む群衆が集合した。リンチの特別な瞬間に、笑顔の若い白人の少女の視線さえも見られた。リンチを執行した白人集団は刑事起訴されなかった。
 リンチは超法規的行為として集団による殺人の執行である。アメリカのリンチは、奴隷の解放に続いて、19世紀後半の南北戦争の後、リンチの数が増加して、1930年代から減少した。ほとんどのリンチは、アメリカ南部などのアフリカ系アメリカ人男性であったが、女性と黒人以外もリンチされた。黒人に対する白人のリンチは、20世紀の黒人の南部から北部への移住により、アメリカ中西部および国境の州でも発生した。アメリカ南部の黒人のリンチの目的は。白人の優位を強制し、人種テロリズムを通して黒人を脅迫した。大部分のリンチされた被害者は殺人または殺人未遂で告発されていた。レイプまたはレイプ未遂は、2番目に多く告発された。告発により、人種的差別するジム・クロウ制度の法体系に違反した黒人や白人との経済的競争に関与した黒人を、リンチする口実となった。1930年代には、リンチの犠牲者の約3分の1が誤って告発された。全米有色人種協会(NAACP)は、リンチ防止法案を支持するも、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は拒否権を発動した。特定のカテゴリーに属する人々に対する偏見または憎悪による犯罪であるヘイトクライム(Hate Crime)も、近年に社会問題化したが、連邦法てはなく各州の様々な州法として立法化された。




2020年1月7日火曜日

イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所でドイツ人女性の親衛隊監督に、囚人の死体を集団墓地に運搬して埋葬させた。

イギリス軍は、1945年4月28日にベルゲン・ベルゼン強制収容所で肥満したドイツ人女性の親衛隊監督に、トラックから囚人の犠牲者の死体を集団墓地に運搬して埋葬させた。それをナチス・ドイツの元親衛隊に、女性監督の埋葬を監視させた。解放の数週間前に収容所に到着したばかりのドイツ人女性親衛隊の一部は肥満していたが、生き残った囚人の多くは痩せ細り飢えていた。特に1945年2月に発疹チフスの流行が混在して、ベルゲン・ベルゼン収容所の状況は壊滅的となった。アンネ・フランクと妹のマーゴットは、1945年 3月に発疹チフスで病死した。病死した死体は、ベルゲン・ベルゼンの集団墓地に投げ込まれた。ドイツ軍親衛隊は保護手袋なしで素手で病気の体を扱って、約80人の親衛隊のうち約20人が病死した。疹チフスの流行は収容所で暴発し、イギリス軍は無慈悲にブルドザーで死体を集団墓地に投げ込んだ。4月21日から生存した収容者を近くの旧ドイツ陸軍兵舎に移動させて、収容所の木製の兵舎を焼き払った。
 イギリス軍が、1945年4月14日にベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。イギリス軍がついにベルゲン・ベルゼン強制収容所を占領とき、笑顔で健康な囚人が出迎えてくれ、約500人の子供たちの一部が声援を送って手を振った。しかし、収容所にさらに進むと、約10,000人以上の埋葬されていない裸の体の死体に驚愕して、 恐怖は人間の想像を超えた。重病人である約6万人もの囚人が収容所に、数千体ものユダヤ人や囚人の死体が構内に放置されていた。毒ガス室はなくても、極悪な生活環境により、約50,000人の囚人が死亡した。解放後の約2ケ月間にも、約1万3,000人の重病人が病死した。腐敗した死体の悪臭は凄まじく、イギリス軍兵は後に約16kmも離れた場所から悪臭が漂った。1945年4月18日から、死体の埋葬が始まった。イギリス軍の囚人となったドイツ人監督に、遺体を埋める仕事を強制した。イギリス軍は伝染病で死亡した囚人の死体を扱うために、親衛隊に意図的に素手のみで作業を強制した。イギリス軍は、死体に触れて感染しないように、ブルドーザにより大量の死体を無慈悲にも塹壕に押し込んだ。ベルゲン・ベルゼン強制収容所で撮影された写真とビデオは、第2次世界大戦後に世界中に大量虐殺の戦争の真実を人類に提示した。


2020年1月6日月曜日

ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。

ナチス・ドイツ軍は、1941年5月20日から大規模な空挺部隊によって、地中海に面したギリシアのクレタ島にパラシュートやグライダーに侵攻した。ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。ドイツ軍空挺部隊が5月20日にクレタ島に侵攻して、6月1日にクレタ島を占領して、連合軍は撤退した。連合軍の激しい銃撃の中で、パラシュート部隊に甚大な犠牲を伴った。クレタ島は、ドイツ軍空挺部隊の墓場となった。約12日間の戦闘で、約31,700人のドイツ軍は、約4,041人が戦死して、約2,640人が戦傷する甚大な犠牲を伴った。約40,000人の連合軍も、約4,000人が戦死して、約1,900人が戦傷して、約17,000人が捕虜になった。
 ギリシアのイギリス連邦軍は、1941年4月にドイツ軍を主体とする枢軸国軍に敗退して、クレタ島に避難した。第ニ次世界対戦当時に、クレタ島の住民は生まれて始めて、空からパラシュートで降下するドイツ軍に侵略された。激怒したクレタ島の住民は、連合軍に参戦した。侵入したドイツ軍の空挺部隊に対して、大切なオリーブ畑に落下したドイツ軍空挺部隊を、囲板に巻き釘付けて、武器や農機具などで容赦なく殺害した。クレタ島の住民は、武装して、ナイフや鎌などの武器で、戦闘にも参加した。クレタ島の住民は、ドイツ軍空挺部隊を鎌や刀で首を切断したり、刺殺したり、棍棒で打殺した。ドイツ軍は、民間市民による広範な抵抗を初めて受けて、クレタ島の住民に激しい敵意を持って報復した。ドイツ軍は、クレタ島の住民を軍人あるいはゲリラとして無差別に集団的な虐殺をした。ドイツ軍は、戦闘服を着用しないクレタ民兵はハーグ陸戦条約から除外して、約1,000人を問答無用で銃殺した。ドイツ軍は6月1日に南部戦線のクレタ島を占領して、6月22日の東部戦線のソ連侵攻の起点となった。


2020年1月5日日曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が首都ガラパンで射殺された。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が射殺された。サイパン島の首都であるガラパンの市街戦に巻き込まれた。左下肢や左手に銃撃を受けて、日本海軍の少年兵は自ら駆血帯をして止血していた。日本海軍の少年兵が水筒の蓋を開けて、水を飲んでいる際に射撃されて殺害された。絶望的な戦闘に巻き込まれて虐殺された。6月28日にアメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始した。日本軍は、起伏が多い地形を活用して、市街地の建築物を利用した市街戦で肉薄攻撃と白兵突撃を駆使した。食糧も飲料水もない戦いとなり、日本軍の守備隊の主力はほぼ全滅した。
 日本軍は、6月15日にサイパン島に上陸したアメリカ軍に首都ガラパンからしばしば夜襲をかけていた。アメリカ軍は夜襲に対抗して陣地の周囲に鉄条網とトタン板で日本軍兵士を察知しては射殺した。1944年6月28日に日本軍は瓦礫となった首都ガラパンに侵攻した。アメリカ軍は、侵攻に対して地雷を敷設して、粉砕されたコンクリートの壁に銃座を設置していた。生存していた日本軍兵士や水を求める民間人も含めて、廃墟の中で市街戦が約5日間も引き続いた。7月2日に日本軍の本部も崩壊してほとんど壊滅して、首都ガラパンにて多数の日本軍兵士の死体が散乱した。7月3日の夜明けにサイパン島の北部へ撤退した。北部のタナパクに向かって北上して、日本軍兵士と民間市民が、北端のマッピー岬の崖からの飛び降りる自決に追い込まれる悲劇が待ち受けていた。サイパンの戦いの犠牲者は、日本軍約31,629人のうち約30,000人が戦死して、生存者の約921人が捕虜となった。民間市民は約10,000人程度が巻き添えで死亡した。アメリカ軍は約66,799人のうち約3,441人が戦死して、約11,685人が戦傷した。