2019年10月10日木曜日

シリア軍は反体制側に大規模な無差別の空襲をして、約400人が急性の呼吸困難を訴えて、化学兵器の使用が断定された。

2018年4月4日に、内戦が継続しているシリアの北西部において、シリア軍は反体制側の拠点に対して大規模な無差別の空襲をして、約400人以上が死亡した。さらに約400人が急性の呼吸困難を訴えた。アメリカ軍はシリアのアサド政権が化学兵器の使用を断定して、4月7日にシリア政府軍の基地にミサイル攻撃をした。国際医療団体が化学兵器の使用を疑って、現地調査をして、4月19日に、シリア軍によるサリン類の毒ガスの使用を公表した。
  シリアのアサド政権に、2011年3月にアラブの春が飛び火した。アサド政権は、市民による民主化運動を、軍・治安部隊で厳しく弾圧した。弾圧を受けた民主化運動から、革命闘争が勃発した。2011年9月に武装組織である自由シリア軍が結成された。その結果、シリアの民主化運動は、アサド政権の軍事的な打倒を目指す革命闘争へと変質した。シリアの政権軍の精鋭部隊は、アサド家産化された軍であった。政権が革命の危機に瀕したとき、防衛のために無差別に市民に躊躇なく銃口を向ける私兵部隊と化した。
 湾岸諸国は、独裁者であるアサド大統領の退陣を求め、反体制諸派を支持した。過激なイスラム主義者が世界中からシリア国内の反体制諸派に合流した。逆に、ロシアと中国、イランとレバノンは、アサド政権を支持して、シリアが内戦化した。アサド政権と反体制派の荒廃した内戦から、イスラム過激派によるイスラム国が台頭した。イスラム国は、2014年6月にシリア北東部のラッカを首都とする独立を宣言した。国際社会は、次第にイスラム国の打倒するために、シリアのアサド政権を有利な正当化に傾倒した。2014年8月に、アメリカ軍主導の有志連合でイスラム国に軍事介入した。2018年12月19日にアメリカ軍はイスラム国を撃破を宣言して、シリア北部のクルド人地域からの突然の撤退を開始した。トルコ軍は2019年10月9日、シリア北部のクルド人勢力に対する攻撃して、民間人を含む少なくとも約15人が死亡した。


2019年10月9日水曜日

スペイン内戦の緒戦で、混迷した共和派のスペイン市民らが、反乱軍のマドリードのモンターニャ兵舎を制圧して虐殺した。

スペイン内戦が勃発したマドリードの市街地で、1936年7月17日にモロッコで蜂起した民族独立主義派の反乱軍に対抗して、共和派のスペイン市民らは1939年3月31日に反乱軍に制圧されるまで最後まで戦い抜いた。1936年7月18日には、反乱軍はスペインの北部を中心に約3分の1を支配した。
 スペイン内戦の初戦で、共和派のスペイン市民らと警察官や兵士の約10,000人が、約2,500人の反乱軍が立てこもるマドリードのモンターニャ兵舎を包囲した。立て籠もる反乱軍に1936年7月20日にスペイン市民らが乱入して反乱軍を虐殺した。狂乱した共和派の市民らは、白旗で武装解除した反乱軍の兵士を無差別にリンチにかけて虐殺した。市民らはモンターシャ兵舎を制圧してから銃器や鉄砲などの武器などを獲得して、反乱軍による首都の制圧を阻止した。マドリード市内では、その直後から絶え間ない反乱軍の猛撃を受けた。反乱軍は機関銃で射撃して手榴弾を群衆に投げ込んだ。マドリードは、激しい砲撃や空爆により、ほとんど廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民らの死体が市内に放置された。
 1936年7月17日に、共和派のスペイン人民戦線政府に対してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こし、スペインは内戦状態に陥った。反乱軍側が、ドイツ、イタリアなどのファシズム政権から軍事援助を受ける一方で、人民戦線側はソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦がスペイン人同士による内戦が展開された。
 人民戦線側には反ファシズムを支持する組織として国際義勇軍が加わった。武力と物量に勝るフランコ側が有利に戦いを進めて、1939年3月31日にはマドリードが陥落して、4月1日に内戦は反乱軍側の勝利に終わった。


2019年10月8日火曜日

金鉱の荒野で無差別にデモ行進の労働者に射撃して、約250人のレナの労働者が虐殺されて約500人以上が負傷した。

ロシア帝国軍の憲兵隊が1912年4月17日に、ナデディンスキー金鉱の荒野で、無差別にデモ行進の労働者に射撃して虐殺して、少なくとも、約250人のレナの労働者が虐殺されて、約500人以上が負傷した。死体安置所だけでは、処刑された死体を収容することができなかった。
 シベリア南東部のレナ川に沿った巨大な金鉱地は、ロシア帝国で最も収益性の高い地域であった。地域の大部分の金鉱は、レナ・ゴールド・マイニング合資会社が所有して、(レンゾロト)は、年間約7,000,000ルーブルの利益で経営した。経営者の利益のために、レナの鉱山労働者とその家族は厳しい生活に耐えなければならなかった。約16時間の労働を強要された、鉱山労働者の事故は約1000人ごとに約700件の外傷事故が多発した。鉱夫が乏しい仕事と監視されると、多くのお金が罰金として搾取された。鉱山労働者に腐った食肉を配給したことから、1912年2月29日にストライキが勃発した。3月中旬には、他に約6,000人もの労働者も加わった。約30%の賃上げ、罰金の廃止、1日約8時間労働、食事の改善を要求するも、3月22日に経営者と決裂した。
 鉱山労働者のストライキを撲滅するために、4月17日にロシア帝国軍から憲兵隊が派遣されて、ストライキの指導者が逮捕された、約2,500労働者が、検察庁にデモ行進して釈放を要求した。レナ金鉱の労働者に対する残酷な弾圧と大虐殺の情報は、ロシア国内に拡散した。ペトログラード、モスクワ、そのほか産業地帯でも大規模な抗議ストライキが勃発した。約30万人もの労働者を巻き込み、大規模なデモが1912年5月にロシアの都市を包囲した。ペトログラードだけでも、約1,000回ものストライキが発生した。レナ金鉱の虐殺は、ロシア市民の怒りと不満を強めで、1912年にはストライキの数が約1,918件と、1911年の約468件から約4倍にも達した。8月末には、レナ金鉱から約9,000人の労働者と家族が避難した。



2019年10月7日月曜日

大学から勃発した8888蜂起は、武装したビルマ軍によってビルマ国民まで集結した抗議デモは弾圧された。

1948年にイギリス連邦から独立したビルマ連邦では、1958年から継続する軍事政権に対して民主化を求めて1988年に8888蜂起が勃発した。ビルマ連邦は、1988年に経済が破綻して、後発開発途上国(LLDC)にまで転落した。ビルマの軍事政権に対して、1988年8月8日に大学から勃発した8888蜂起は、ビルマ国民まで集結して抗議デモを挙行した。武装したビルマ軍によってビルマ市民は弾圧された。人々が篤い尊敬を寄せる僧侶の青年の隊列が最も注目された。僧侶の青年たちは、軍人や家族が営む宗教儀礼では読経を拒否して、布施や托鉢を拒否して抵抗を続けた。1988年8月から9月の1ケ月間に約600人の僧侶が殺害された。1988年の1年間では、約10,000人の死者に達した。海外では、犠牲者数は数千人のみと報道された。
 1988年8月25日から9月18日にかけて軍事政権が混乱をした。8月8日に蜂起したビルマ市民の多数を拘束して投獄した。暴動の指導者して容疑者が、逮捕されて長期間の勾留と拷問による殺害が示唆された。8月27日は、軍事政権はヤンゴンの中央刑務所に拘束された受刑者を一部開放した。1989年6月18日に軍事政権は、ミャンマー連邦に国名を改変した。1988年9月18日には、将校らが軍事クーデターを挙行して、改変した軍事政権は戒厳令を宣告した。軍隊は、デモ抗議者を殺害するために殺害すると警告をした。新たな軍事政権は、民主的選挙を公約するも、1990年5月に圧倒的に勝利した国民民主連盟(NLD)には、2011年3月まで権力の譲渡を履行しなかった。2011年3月まで軍事政権下でミャンマーを統治した。


2019年10月6日日曜日

第1次世界大戦でドゥナジェツの悲惨な野戦病院に護送されたロシア軍兵士を老司教が見舞った。

第一次世界大戦。ロシア軍兵士がドゥナジェツで戦死傷者が野戦病院に護送された。カトリック教会の老僧が戦死傷者を慰めた。司教が戦地の野戦病院を見舞った。東部戦線の両側に塹壕が掘られ、戦局は膠着して固定化した。新兵器である航空機の空爆、毒ガスによる虐殺が塹壕戦に犠牲を拡大した。1916年末からのロシア革命によりる完全なる危機に直面した。
 ロシア帝国ニコライ2世は、1914年7月20日に第1次世界大戦の詔書を読み上げた。皇帝は、神につかわされた専制君主であり、絶対的な長であり王であった。ロシア軍は、総動員令により、1914年に約311万5000人から1915年末に約830万3000人も動員させた。皇帝は、家族から父と息子を奪い、戦場で残酷な運命に追い込んだ。ドイツ帝国の東プロイセンに速攻で侵攻した。ドイツ軍は、8月17日にタンネンベルクの戦いで、ロシア軍を分離させて包囲して壊滅した。ロシア軍には、約3万人が戦死傷と約9万2000人の捕虜の犠牲が出た。
 ロシア軍は第1次世界大戦の開戦から1915年末までに、約12万4987人が戦死して、戦傷者は約61万2119人、捕虜・行方不明は約44万4996人で、総計119万2102人が犠牲となった。1914年末には、あらゆる物資の補給が滞り、戦場は悲惨な墓場に陥った。ロシア軍は、1915年4月19日にガリツィア、5月20日にプシェミシル、6月9日にリヴォフ、7月23日にワルシャワ、8月5日にコヴノ、8月19日にグロドノから完全に大撤退した。1915年5月から7月だけで、戦死者は約6万3519人、戦傷者は約27万7110人、捕虜・行方不明は約5万2231人、総計約39万2906人の犠牲が昇った。さらに8月の1月間だけで、戦死者は約3万3054人、戦傷者は約14万6820人、捕虜・行方不明は約40万5057人で、総計は約58万4931人の犠牲となった。開戦以来からの犠牲者総数は、約216万9939人の犠牲に達した。ロシア軍には、悲惨で残酷な大量犠牲を強要した。ロシア軍が撤退したポーランドとガリツィアに残されたロシア人は、ドイツ軍から避難して難民化した。
 

2019年10月5日土曜日

テト攻勢が勃発して、アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、壁に横たわった。

ベトナム南部のサイゴンでテト攻勢が勃発した。アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、アメリカ大使館の壁に横たわった。 テロリストは大使館の周囲の壁に穴を開けて、敷地内を突破して占領した。ヘリコプターで大使館の屋根に上陸したアメリカ陸軍の空挺部隊が、彼らが殺害されるまでに約6時間にわたりベトコンは大使館を占領した。侵入して殺害された18人のベトコンの死体は、大使館のコンクリートの箱庭などに転倒した。負傷した1人のベトコンが捕囚された。アメリカ側は、4人のアメリカ軍の警備兵と1人の国会議員が死亡した。
 1968年1月末に、ベトナムの旧正月であるテトの休暇中に、北ベトナム軍と共産主義のベトコン軍は、南ベトナムの多くの標的に対して、奇襲して攻勢を挙行した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、テト攻勢を終結するまでに、多大な犠牲を伴った。1月30日と31日から、南ベトナム開放戦線(NLF)が、人口の多い地域やアメリカ軍が駐留している地域を同時に攻撃した。南ベトナム解放戦線は、サイゴンにあるアメリカ大使館の外壁を破壊して侵攻した。第2期は、5月4日から小規模な都市や町に同時多発の攻撃が、6月まで継続した。第3期は8月に開始されて、約6週間継続した。その後の数ヶ月で、南ベトナム解放戦線が占領した地域を完全に排除して確保した。最終的に、36州都、5自治体、72地方都市、約100以上もの町を攻撃した。1968年3月31日に、ジョンソン大統領は2期目の立候補を辞退した。1966年から1967年までに、北ベトナムは、大規模な死傷者、戦場での膠着状態、およびアメリカ軍の空爆により北部経済は破綻して追い詰められていた。



2019年10月4日金曜日

第1次世界大戦の東部戦線にてポスタウィの戦いが勃発し、ナロク湖の小道に、多大なロシア軍の死体が散乱した。

第1次世界大戦の東部戦線において、1916年3月18日から28日まで北ポーランドのナクロ湖北部でポスタウィの戦いが勃発した。ロシア軍は、ドイツ軍の陣地への攻撃したが、ロシア軍は大敗した。リトアニアとベラルーシの国境地帯にあるナロク湖の小道に、ロシア軍の死体が散乱した。ドイツ軍は劣勢にも関わらず、ロシアの攻撃が破滅的に敗退した。ロシア軍は、解凍したナロク湖を取り巻く低地の泥だらけの溝、沼地、沼地、および森林で壊滅した。ポスタウィの戦いは、数日間の温暖の気候と大雨により、ナロク湖の氷結が融解して解凍した。泥沼と湿地の戦いから死者の戦いとなり、ロシア軍を甚大な損失を被った。ロシア軍は、最初の約8時間で約15,000人、約3日間で約40,000人、3月30日の終結では約100,000人もの戦死傷者が犠牲となった。ドイツ軍は、約20,000人もの犠牲を伴ったが、ロシア軍はより損害を受けた。
 フランス軍は、西部戦線にて1916年2月21日からのヴェルダンの戦いを軽減するために、皇帝ニコラス2世からロシア軍に対して東部戦線のナロク湖攻勢を要求した。ロシア軍にどのような犠牲を払っても、連合国を支援することを命じた。大撤退に伴う大敗によって、ロシア軍は第1次世界大戦の開戦時から1915年末までの間に、約200万人は下らない犠牲者を出した。ロシア軍の作戦全体が完全な失敗であり、広く知られた第一次世界大戦の方法である人間の波の犠牲を強制した。敵の前線の同じ場所に、大量の人々が何度も何度も戦いに送り込まれた。最終的に3月30日にも決定的な終結に至らず、ロシア軍は、沼地領域のドイツの陣地への攻撃は中止した。



2019年10月3日木曜日

アフガニスタンのナジブラ元大統領は、去勢され、射殺され、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。

1996年9月26日は、アフガニスタン共産党大統領のナジブラ医学博士の人生の最後の日没となった。タリバン派はカブールを制圧すると、国連事務所に入りナジブラ元大統領を捜索して、彼を連れ去った。ナジブラは、去勢され、射殺され、通りのトラックの後ろに連れて行かれた。9月27日朝、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。ナジブラと弟の死体の横で、タリバン派の民兵らが喜びのポーズを取った。2日間にわたり、大統領と弟の死体はカブールの中心部の街灯柱に吊るされた。タリバン派はカブール制圧後にアフガニスタン・イスラム首長国として独立宣言をして、1998年8月には、アフガニスタンの約90%を制圧した。ナジブラは1980年に秘密警察長官に任命され、残忍で冷酷な手法でイスラム聖戦士ムジャヒディーンのゲリラ活動を封じて、タリバン派に恨みで報復された。
 ソビエト連邦が1979年にアフガニスタンに侵攻して、1989年にアフガニスタンから8万人ほどの軍隊を撤退させた。ナジブラのマルクス主義政府はすぐに崩壊すると予想された。ナジブラは権力の獲得によって粘り強く体制を維持した。1987年から1992年までアフガニスタン大統領であった。即時の没落しないで、ソビエト連邦が支援して体制は3年続いた。1992年4月15日にイスラム教のムシャヒデーィンのクーデターにより、体制から追放されて、カブール市内の国連事務所に留置された。イスラム教スンニ派の原理主義者のタリバン派は、1994年11月頃にアフガニスタン南部のカンダハルで派生した。ソ連は人民民主党政府を支援したが、パキスタンとアメリカは対抗して政府を打倒するタリバン派を支援した。タリバン派は1996年にアルカイダを保護することで、アルカイダは2011年9月11日にアメリカに対して同時多発テロを実行した。2001年10月から連合軍によるアフガニスタン攻撃で、タリバン政権は2001年12月に崩壊した。


2019年10月2日水曜日

長崎原爆が大炸裂した瞬間を上空から捉えて、きのこ雲をカラーフィルムで約3分50秒の撮影された。

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



2019年10月1日火曜日

イスラエネ軍は、アメリカ大使館の移転に抗議デモをしたパレスチナ人に対して、無差別に狙撃と銃撃をして約60人も虐殺した。

2018年5月14日に、エルサレムに移転したアメリカ合衆国大使館の開設式を挙行した。同日は、1948年5月14日にイスラエルが建国されて、パレスチナ人が追放されて難民となったナクバの大災厄の日でもあった。2017年12月にアメリカは、エルサレムを正式なイスラエルの首都と認定していた。今までの中東政策を転換して、現在のイスラエル大使館を、テルアビブからイスラエルの首都であるエルサレムに移転した。3大宗教の聖地であるエルサレムをイスラエルの首都として認定した。アメリカ大使館の移転に対して、イスラム教徒でエルサレムを追い出されたパレスチナ人が猛反発した。強制撤去されたガザ地区では、約4万人にも達する大規模な抗議デモが勃発した。それに対抗して、イスラエル軍兵士は、抗議デモに無差別に狙撃と銃撃をした。少なくとも約60人のパレスチナ人が射殺されて、約27,00人が負傷した。銃殺されたパレスチナ人の死体の周りに集まり慟哭した。
 聖地エルサレムは、1948年のイスラエル建国に伴う第1次中東戦から紛争の地域となっている。イスラエルは第一次中東戦争で西エルサレムを占領した。さらに1967年の第3次中東戦争では、パレスチナ人が大半を占めて三大宗教の聖地がある東エルサレムを占領して併合した。第一次中東戦争でパレスチナ人はガザ地区に避難と追放された。1980年に、イスラエルの国会はエルサレムを首都とするエルサレム基本法を制定した。しかし、国連は、イスラエルがエルサレムを首都と宣言するのは、国際法に違反するという国連安全保障理事会決議第478号を採択した。アメリカ連邦議会は1995年にエルサレム移転法案を可決していた。2017年12月6日にアメリカは、エルサレムをイスラエルの首都とすることを承認した。2018年3月からアメリカ大使館のエルサレム移転に対して、パレスチナ人による帰還の大行進である抗議デモが頻発していた。 


2019年9月30日月曜日

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人を容疑とした死体が放置されていた。

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人の死体が放置されていた。この事件現場の写真は、1931年9月26日に公表された。中国人が爆薬を仕掛けて、日本軍兵営方向から逃げたように倒れた向きを見せかけたとの示唆もある。しかし、9月18日午後10時20分の爆発は軽微であり、レールの一部が損壊したのみであった。長春からの列車は、損壊したレール上を問題なく通過して、瀋陽に到着していた。
 1931年9月18日午後10時20分頃に、満州の奉天(現在の瀋陽市)の北方約7.5kmの柳条湖の付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路の一部が爆破された事件が勃発した。関東軍はこれを中国軍による犯行と公表して、満州に対する侵攻と占領の口実とした。翌日9月19日午前6時30分には、関東軍は約7,000人の中国人兵士が駐屯する北大営を占領して、約300人の中国人を殺害した。日本政府は9月5日から関東軍決行を牽制して、9月19日に不拡大方針を出した。9月24日には関東軍の自衛行為と正当化した。1932年1月には関東軍の忠烈を讃えられた。関東軍が主要都市を制圧した1932年3月に、傀儡政権である満州国を建国した。1931年9月21日に中国は抗議して国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を柳条湖に派遣した。その報告書は関東軍の自衛を非難しつつも、強い制裁措置を取らない融和的であった。しかし日本は不満として国際連盟を脱退し、国際的孤立を巻き込まれた。柳条湖事件から1945年8月15日の終戦日まで、日中戦争は中国全土で15年間も泥沼化した。


2019年9月29日日曜日

広島日赤病院は、医師約6人と看護婦約10人のみで殺到する広島原爆の被爆者を外来診療した。(広島)

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。



2019年9月28日土曜日

ベリリュー島の戦いで、アメリカ軍海兵隊員は砲撃に巻き込まれ丸焦げになり、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。

太平洋戦争において、アメリカ軍と日本軍がペリリュー島の戦いで死闘を繰り広げた。日本軍がペリリュー飛行場の北側に砲撃を激射した。アメリカ軍海兵隊員がその砲撃に巻き込まれて丸焦げに爆死した。一方のアメリカ軍の海兵隊員は、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。血塗られた尾根からは遠すぎる。海兵隊員は戦死で終わった。洗い流されたて消えた。まだ砲弾で炸裂した塹壕を通り過ぎると、戦死傷者で混雑して散乱した。何とか夕方の光で静まり返った。心体は戦いで崩れ、顎はぶら下がり、目は頭の2つの黒い空の穴のようだった。ペリリュー島南部の浜辺近くで、戦傷したアメリカ軍海兵隊員が、恐怖で横たわり、水陸両用トラクターの方向によろめいて倒れた。顔は半分血まみれの肉汁であり、ショックで狂った歩行でつまずき、体を曲げたときに、上肢が挫滅した破片が棒のように垂れ下がった。まだ生身であった顔の半分は、最も恐ろしい悲惨な表情をしていた。白い砂の上の赤い水たまりに落ちて死亡した。
 アメリカ軍海兵隊がペリリュー島に上陸して2日目の1944年9月16日にペリリュー飛行場を占領して、東海岸に向かって侵攻した。アメリカ軍海兵隊は飛行場を横切って走り、日本軍の高地から北即への激しい砲撃により、その過程で多大な犠牲者を伴った。飛行場を占領した後に、アメリカ軍海兵隊は迅速にペリリュー島の東端に侵攻した。ペリリュー島の南部の日本軍防衛隊はアメリカ軍海兵隊によって壊滅した。この地域は、まだ多くの戦時中に作られたコンクリート製の要塞であるピルボックスを占領している日本軍と死闘した。熱指数は約46°Cに昇り、アメリカ軍海兵隊はすぐに熱疲労により大きな犠牲者を出した。さらにアメリカ軍海兵隊員の補給水が空のオイルドラムにより分配されて、その補給水が残留油で汚染され。上陸して8日目の6月23日までにアメリカ軍海兵隊は、ペリリュー飛行場と島の南部を確保した。ペリリュー島は恐ろしい戦場となり、暑さは息苦しく、雨は断続的に降った。蒸し暑い雨は、より大きな悲惨さをもたらした。サンゴの岩は日中は熱を吸収し、夜はわずかに涼しくなった。アメリカ軍海兵隊は可能な限り体調も不全となった。9月18日までに熱衰弱による犠牲者数は、戦闘による犠牲者とほぼ同等となった。血まみれさ、恐怖、気候、不可解な日本軍の執着さ、残忍さと疲労は、他の太平洋戦争より上回った。



2019年9月27日金曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の凄まじいな銃声から、灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。

ベトナム戦争において、1966年にビンディン省において、アメリカ軍の第一騎兵師団からの凄まじいな銃声が終わった後に、恐怖を伴う静寂が訪れた。灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。少年のり死体から大量の出血を伴って、吹き出した血液が荒野に吸収された。ベトナム戦争に対して、アメリカ軍は猛烈で徹底的な戦闘を投入した。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍の巨大の新しい激烈な武器は、ベトナムに対してアメリカのベトナム戦争を途方もない強さで攻撃した。 多くの戦いの規模は巨大であった。大規模な軍事基地では、アメリカ軍兵士は本土の生活とほとんど同じ快適さを楽しんだ。アメリカ軍の多くの若い兵士は、大学進学の奨学金を得るために徴兵に志願した。年上の職業軍人は、「戦争が大好きである」と打ち明けた。職業軍人は、彼らが知っている唯一の仕事だった。 ベトナム戦争が、昇進する多くの最良の機会を提供した。しかし、一部のアメリカ人は、なぜ彼らが戦っているのか理解できなかった。「ベトナムが共産主義国家になることを望むなら、何が悪いのですか?」と疑問に感じた。 ほとんどの兵士は、できるだけ早くアメリカの実家に帰ることを切望していた。
 1966年末の時点まで参戦者数は、アメリカ軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」は約38万人に達して、南ベトナム軍は約73万人、韓国などから約6万人近くが参戦した。解放戦線は小火器による狙撃、罠、地雷などで抵抗した。アメリカ軍人の犠牲者は、死者数は約6000人、負傷者は約3万人にも達した。一方で解放戦線のベトナム人も約6万を超える死者を出した。特に韓国は、1964年9月から派兵して、1973年までにのべ約32万5,517人とアメリカに次ぐ大量参戦となった。韓国軍の戦死者は約4,968人、戦傷者は約8,004に達した。
 ビンディン省は、ベトナム中南部で東シナ海に面している。1966年では1月にタイヴィン虐殺、2月にタイビン村虐殺、ゴダイの虐殺の悲劇に見舞われた。タイヴィン虐殺は1月26日から2月26日に韓国軍が約15集落のタイヴィン村の約1,200人のベトナム市民を無差別に虐殺した。2月に韓国軍がタイビン村で、約65人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍は、2月26日にビンディン省で約380人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍により虐殺と虐待されたベトナム人は、北ベトナム共産党政府の敵であった南ベトナム地域の住民であり、共産党の「輝かしい勝利」には貢献しなかった。南北統一後に、ベトナム共産党政府は、ベトナム南部の市民、宗教者、少数民族などの共産党から独立した運動を警戒し、厳しく統制してきた。ベトナム政府も韓国政府も、「韓国軍はベトナム人に対して犯罪を犯した。人道的で平和的な隣人の伝統により、過去を閉鎖することはベトナムの政策である.。」と大量虐殺と大量虐待を隠蔽して黙殺している。韓国はベトナム戦争の参戦も引き換えにアメリカからの対外援助に依存し、漢江の奇跡の韓国経済成長の起爆となった。




2019年9月26日木曜日

ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。

第2次世界大戦の終結を巡り、ソ連軍とナチス・ドイツ軍により1945年4月16日から5月9日まで、ベルリンで攻防の死闘が繰り広げられた。ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。ライプシュタンダルテ隊員は、ヒトラー総統の最後の日時を迎えても、本来業務である総統の防護の任務を果たしていた。1945年4月から5月までベルリンの攻防により、総統官邸は著しい損壊を受けて、崩壊した建物と無数の金属片と鉄筋コンクリートが散乱した。ソビエト軍のドイツ総統官邸を巡って占領の先陣を切る競争が多大な犠牲をもたらした。ソビエト軍兵士は、ベルリンを占領するとソビエト軍はドイツ人に対する報復と戦利品の強奪は苛烈を極めて、ついには約10万人に及ぶドイツ人女性に対して1948年まで膨大な最大強姦した。
 ベルリン市街戦では、ソビエト軍は1945年4月23日にベルリン市の郊外に侵攻して、4月25日にベルリン西側のエルベ川でアメリカ軍と合流して東西ドイツの国境となった。ソビエト軍はついに4月27日にベルリンを完全に包囲した。ベルリン市内での攻防は猛烈な掃討戦で、街路ごとに両軍ともにに多大の犠牲を伴った。破壊された建物、不定形の金属と鉄コンクリートの山が侵攻を妨げた。総統官邸の入り口まで車両は近づけなかった。建物は数え切れないほどの破片で埋め尽くされた。天井は部分的にしか残っいなかった。窓は空虚によって黒く変色した。ドア、窓、シャンデリアは、ほとんどが壊れた痕跡を残していた。総統官邸の地下は混乱していた。ナチス・ドイツの守備隊は激しく抵抗し、砲弾、爆弾、手榴弾を爆発させた。鉄骨コンクリートの金属と木製の巨大な破片は両方の横梁と頭上のカバーの周りに散在した。狭い廊下の両側に特定の小部屋が配置され、すべてが爆発によって悲惨に浸食された。5月2日になって、ソビエト軍第三帝国の象徴であった帝国議会議事堂(Rechstag)を完全に占領した。ソビエトの国旗をウクライナ人兵士は、グルジア人が両腕で支えられて、帝国議会議事堂の頂上に掲げた。同日にソビエト軍は、4月30日に既に自殺していたヒトラー総統官邸へ侵攻した。5月8日に、ソビエト軍司令部にて、ドイツ国防軍元帥が代表して正式な降伏に調印した。



2019年9月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 300,000回