2019年10月4日金曜日

第1次世界大戦の東部戦線にてポスタウィの戦いが勃発し、ナロク湖の小道に、多大なロシア軍の死体が散乱した。

第1次世界大戦の東部戦線において、1916年3月18日から28日まで北ポーランドのナクロ湖北部でポスタウィの戦いが勃発した。ロシア軍は、ドイツ軍の陣地への攻撃したが、ロシア軍は大敗した。リトアニアとベラルーシの国境地帯にあるナロク湖の小道に、ロシア軍の死体が散乱した。ドイツ軍は劣勢にも関わらず、ロシアの攻撃が破滅的に敗退した。ロシア軍は、解凍したナロク湖を取り巻く低地の泥だらけの溝、沼地、沼地、および森林で壊滅した。ポスタウィの戦いは、数日間の温暖の気候と大雨により、ナロク湖の氷結が融解して解凍した。泥沼と湿地の戦いから死者の戦いとなり、ロシア軍を甚大な損失を被った。ロシア軍は、最初の約8時間で約15,000人、約3日間で約40,000人、3月30日の終結では約100,000人もの戦死傷者が犠牲となった。ドイツ軍は、約20,000人もの犠牲を伴ったが、ロシア軍はより損害を受けた。
 フランス軍は、西部戦線にて1916年2月21日からのヴェルダンの戦いを軽減するために、皇帝ニコラス2世からロシア軍に対して東部戦線のナロク湖攻勢を要求した。ロシア軍にどのような犠牲を払っても、連合国を支援することを命じた。大撤退に伴う大敗によって、ロシア軍は第1次世界大戦の開戦時から1915年末までの間に、約200万人は下らない犠牲者を出した。ロシア軍の作戦全体が完全な失敗であり、広く知られた第一次世界大戦の方法である人間の波の犠牲を強制した。敵の前線の同じ場所に、大量の人々が何度も何度も戦いに送り込まれた。最終的に3月30日にも決定的な終結に至らず、ロシア軍は、沼地領域のドイツの陣地への攻撃は中止した。



2019年10月3日木曜日

アフガニスタンのナジブラ元大統領は、去勢され、射殺され、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。

1996年9月26日は、アフガニスタン共産党大統領のナジブラ医学博士の人生の最後の日没となった。タリバン派はカブールを制圧すると、国連事務所に入りナジブラ元大統領を捜索して、彼を連れ去った。ナジブラは、去勢され、射殺され、通りのトラックの後ろに連れて行かれた。9月27日朝、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。ナジブラと弟の死体の横で、タリバン派の民兵らが喜びのポーズを取った。2日間にわたり、大統領と弟の死体はカブールの中心部の街灯柱に吊るされた。タリバン派はカブール制圧後にアフガニスタン・イスラム首長国として独立宣言をして、1998年8月には、アフガニスタンの約90%を制圧した。ナジブラは1980年に秘密警察長官に任命され、残忍で冷酷な手法でイスラム聖戦士ムジャヒディーンのゲリラ活動を封じて、タリバン派に恨みで報復された。
 ソビエト連邦が1979年にアフガニスタンに侵攻して、1989年にアフガニスタンから8万人ほどの軍隊を撤退させた。ナジブラのマルクス主義政府はすぐに崩壊すると予想された。ナジブラは権力の獲得によって粘り強く体制を維持した。1987年から1992年までアフガニスタン大統領であった。即時の没落しないで、ソビエト連邦が支援して体制は3年続いた。1992年4月15日にイスラム教のムシャヒデーィンのクーデターにより、体制から追放されて、カブール市内の国連事務所に留置された。イスラム教スンニ派の原理主義者のタリバン派は、1994年11月頃にアフガニスタン南部のカンダハルで派生した。ソ連は人民民主党政府を支援したが、パキスタンとアメリカは対抗して政府を打倒するタリバン派を支援した。タリバン派は1996年にアルカイダを保護することで、アルカイダは2011年9月11日にアメリカに対して同時多発テロを実行した。2001年10月から連合軍によるアフガニスタン攻撃で、タリバン政権は2001年12月に崩壊した。


2019年10月2日水曜日

長崎原爆が大炸裂した瞬間を上空から捉えて、きのこ雲をカラーフィルムで約3分50秒の撮影された。

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



2019年10月1日火曜日

イスラエネ軍は、アメリカ大使館の移転に抗議デモをしたパレスチナ人に対して、無差別に狙撃と銃撃をして約60人も虐殺した。

2018年5月14日に、エルサレムに移転したアメリカ合衆国大使館の開設式を挙行した。同日は、1948年5月14日にイスラエルが建国されて、パレスチナ人が追放されて難民となったナクバの大災厄の日でもあった。2017年12月にアメリカは、エルサレムを正式なイスラエルの首都と認定していた。今までの中東政策を転換して、現在のイスラエル大使館を、テルアビブからイスラエルの首都であるエルサレムに移転した。3大宗教の聖地であるエルサレムをイスラエルの首都として認定した。アメリカ大使館の移転に対して、イスラム教徒でエルサレムを追い出されたパレスチナ人が猛反発した。強制撤去されたガザ地区では、約4万人にも達する大規模な抗議デモが勃発した。それに対抗して、イスラエル軍兵士は、抗議デモに無差別に狙撃と銃撃をした。少なくとも約60人のパレスチナ人が射殺されて、約27,00人が負傷した。銃殺されたパレスチナ人の死体の周りに集まり慟哭した。
 聖地エルサレムは、1948年のイスラエル建国に伴う第1次中東戦から紛争の地域となっている。イスラエルは第一次中東戦争で西エルサレムを占領した。さらに1967年の第3次中東戦争では、パレスチナ人が大半を占めて三大宗教の聖地がある東エルサレムを占領して併合した。第一次中東戦争でパレスチナ人はガザ地区に避難と追放された。1980年に、イスラエルの国会はエルサレムを首都とするエルサレム基本法を制定した。しかし、国連は、イスラエルがエルサレムを首都と宣言するのは、国際法に違反するという国連安全保障理事会決議第478号を採択した。アメリカ連邦議会は1995年にエルサレム移転法案を可決していた。2017年12月6日にアメリカは、エルサレムをイスラエルの首都とすることを承認した。2018年3月からアメリカ大使館のエルサレム移転に対して、パレスチナ人による帰還の大行進である抗議デモが頻発していた。 


2019年9月30日月曜日

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人を容疑とした死体が放置されていた。

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人の死体が放置されていた。この事件現場の写真は、1931年9月26日に公表された。中国人が爆薬を仕掛けて、日本軍兵営方向から逃げたように倒れた向きを見せかけたとの示唆もある。しかし、9月18日午後10時20分の爆発は軽微であり、レールの一部が損壊したのみであった。長春からの列車は、損壊したレール上を問題なく通過して、瀋陽に到着していた。
 1931年9月18日午後10時20分頃に、満州の奉天(現在の瀋陽市)の北方約7.5kmの柳条湖の付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路の一部が爆破された事件が勃発した。関東軍はこれを中国軍による犯行と公表して、満州に対する侵攻と占領の口実とした。翌日9月19日午前6時30分には、関東軍は約7,000人の中国人兵士が駐屯する北大営を占領して、約300人の中国人を殺害した。日本政府は9月5日から関東軍決行を牽制して、9月19日に不拡大方針を出した。9月24日には関東軍の自衛行為と正当化した。1932年1月には関東軍の忠烈を讃えられた。関東軍が主要都市を制圧した1932年3月に、傀儡政権である満州国を建国した。1931年9月21日に中国は抗議して国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を柳条湖に派遣した。その報告書は関東軍の自衛を非難しつつも、強い制裁措置を取らない融和的であった。しかし日本は不満として国際連盟を脱退し、国際的孤立を巻き込まれた。柳条湖事件から1945年8月15日の終戦日まで、日中戦争は中国全土で15年間も泥沼化した。


2019年9月29日日曜日

広島日赤病院は、医師約6人と看護婦約10人のみで殺到する広島原爆の被爆者を外来診療した。(広島)

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。



2019年9月28日土曜日

ベリリュー島の戦いで、アメリカ軍海兵隊員は砲撃に巻き込まれ丸焦げになり、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。

太平洋戦争において、アメリカ軍と日本軍がペリリュー島の戦いで死闘を繰り広げた。日本軍がペリリュー飛行場の北側に砲撃を激射した。アメリカ軍海兵隊員がその砲撃に巻き込まれて丸焦げに爆死した。一方のアメリカ軍の海兵隊員は、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。血塗られた尾根からは遠すぎる。海兵隊員は戦死で終わった。洗い流されたて消えた。まだ砲弾で炸裂した塹壕を通り過ぎると、戦死傷者で混雑して散乱した。何とか夕方の光で静まり返った。心体は戦いで崩れ、顎はぶら下がり、目は頭の2つの黒い空の穴のようだった。ペリリュー島南部の浜辺近くで、戦傷したアメリカ軍海兵隊員が、恐怖で横たわり、水陸両用トラクターの方向によろめいて倒れた。顔は半分血まみれの肉汁であり、ショックで狂った歩行でつまずき、体を曲げたときに、上肢が挫滅した破片が棒のように垂れ下がった。まだ生身であった顔の半分は、最も恐ろしい悲惨な表情をしていた。白い砂の上の赤い水たまりに落ちて死亡した。
 アメリカ軍海兵隊がペリリュー島に上陸して2日目の1944年9月16日にペリリュー飛行場を占領して、東海岸に向かって侵攻した。アメリカ軍海兵隊は飛行場を横切って走り、日本軍の高地から北即への激しい砲撃により、その過程で多大な犠牲者を伴った。飛行場を占領した後に、アメリカ軍海兵隊は迅速にペリリュー島の東端に侵攻した。ペリリュー島の南部の日本軍防衛隊はアメリカ軍海兵隊によって壊滅した。この地域は、まだ多くの戦時中に作られたコンクリート製の要塞であるピルボックスを占領している日本軍と死闘した。熱指数は約46°Cに昇り、アメリカ軍海兵隊はすぐに熱疲労により大きな犠牲者を出した。さらにアメリカ軍海兵隊員の補給水が空のオイルドラムにより分配されて、その補給水が残留油で汚染され。上陸して8日目の6月23日までにアメリカ軍海兵隊は、ペリリュー飛行場と島の南部を確保した。ペリリュー島は恐ろしい戦場となり、暑さは息苦しく、雨は断続的に降った。蒸し暑い雨は、より大きな悲惨さをもたらした。サンゴの岩は日中は熱を吸収し、夜はわずかに涼しくなった。アメリカ軍海兵隊は可能な限り体調も不全となった。9月18日までに熱衰弱による犠牲者数は、戦闘による犠牲者とほぼ同等となった。血まみれさ、恐怖、気候、不可解な日本軍の執着さ、残忍さと疲労は、他の太平洋戦争より上回った。



2019年9月27日金曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の凄まじいな銃声から、灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。

ベトナム戦争において、1966年にビンディン省において、アメリカ軍の第一騎兵師団からの凄まじいな銃声が終わった後に、恐怖を伴う静寂が訪れた。灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。少年のり死体から大量の出血を伴って、吹き出した血液が荒野に吸収された。ベトナム戦争に対して、アメリカ軍は猛烈で徹底的な戦闘を投入した。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍の巨大の新しい激烈な武器は、ベトナムに対してアメリカのベトナム戦争を途方もない強さで攻撃した。 多くの戦いの規模は巨大であった。大規模な軍事基地では、アメリカ軍兵士は本土の生活とほとんど同じ快適さを楽しんだ。アメリカ軍の多くの若い兵士は、大学進学の奨学金を得るために徴兵に志願した。年上の職業軍人は、「戦争が大好きである」と打ち明けた。職業軍人は、彼らが知っている唯一の仕事だった。 ベトナム戦争が、昇進する多くの最良の機会を提供した。しかし、一部のアメリカ人は、なぜ彼らが戦っているのか理解できなかった。「ベトナムが共産主義国家になることを望むなら、何が悪いのですか?」と疑問に感じた。 ほとんどの兵士は、できるだけ早くアメリカの実家に帰ることを切望していた。
 1966年末の時点まで参戦者数は、アメリカ軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」は約38万人に達して、南ベトナム軍は約73万人、韓国などから約6万人近くが参戦した。解放戦線は小火器による狙撃、罠、地雷などで抵抗した。アメリカ軍人の犠牲者は、死者数は約6000人、負傷者は約3万人にも達した。一方で解放戦線のベトナム人も約6万を超える死者を出した。特に韓国は、1964年9月から派兵して、1973年までにのべ約32万5,517人とアメリカに次ぐ大量参戦となった。韓国軍の戦死者は約4,968人、戦傷者は約8,004に達した。
 ビンディン省は、ベトナム中南部で東シナ海に面している。1966年では1月にタイヴィン虐殺、2月にタイビン村虐殺、ゴダイの虐殺の悲劇に見舞われた。タイヴィン虐殺は1月26日から2月26日に韓国軍が約15集落のタイヴィン村の約1,200人のベトナム市民を無差別に虐殺した。2月に韓国軍がタイビン村で、約65人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍は、2月26日にビンディン省で約380人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍により虐殺と虐待されたベトナム人は、北ベトナム共産党政府の敵であった南ベトナム地域の住民であり、共産党の「輝かしい勝利」には貢献しなかった。南北統一後に、ベトナム共産党政府は、ベトナム南部の市民、宗教者、少数民族などの共産党から独立した運動を警戒し、厳しく統制してきた。ベトナム政府も韓国政府も、「韓国軍はベトナム人に対して犯罪を犯した。人道的で平和的な隣人の伝統により、過去を閉鎖することはベトナムの政策である.。」と大量虐殺と大量虐待を隠蔽して黙殺している。韓国はベトナム戦争の参戦も引き換えにアメリカからの対外援助に依存し、漢江の奇跡の韓国経済成長の起爆となった。




2019年9月26日木曜日

ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。

第2次世界大戦の終結を巡り、ソ連軍とナチス・ドイツ軍により1945年4月16日から5月9日まで、ベルリンで攻防の死闘が繰り広げられた。ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。ライプシュタンダルテ隊員は、ヒトラー総統の最後の日時を迎えても、本来業務である総統の防護の任務を果たしていた。1945年4月から5月までベルリンの攻防により、総統官邸は著しい損壊を受けて、崩壊した建物と無数の金属片と鉄筋コンクリートが散乱した。ソビエト軍のドイツ総統官邸を巡って占領の先陣を切る競争が多大な犠牲をもたらした。ソビエト軍兵士は、ベルリンを占領するとソビエト軍はドイツ人に対する報復と戦利品の強奪は苛烈を極めて、ついには約10万人に及ぶドイツ人女性に対して1948年まで膨大な最大強姦した。
 ベルリン市街戦では、ソビエト軍は1945年4月23日にベルリン市の郊外に侵攻して、4月25日にベルリン西側のエルベ川でアメリカ軍と合流して東西ドイツの国境となった。ソビエト軍はついに4月27日にベルリンを完全に包囲した。ベルリン市内での攻防は猛烈な掃討戦で、街路ごとに両軍ともにに多大の犠牲を伴った。破壊された建物、不定形の金属と鉄コンクリートの山が侵攻を妨げた。総統官邸の入り口まで車両は近づけなかった。建物は数え切れないほどの破片で埋め尽くされた。天井は部分的にしか残っいなかった。窓は空虚によって黒く変色した。ドア、窓、シャンデリアは、ほとんどが壊れた痕跡を残していた。総統官邸の地下は混乱していた。ナチス・ドイツの守備隊は激しく抵抗し、砲弾、爆弾、手榴弾を爆発させた。鉄骨コンクリートの金属と木製の巨大な破片は両方の横梁と頭上のカバーの周りに散在した。狭い廊下の両側に特定の小部屋が配置され、すべてが爆発によって悲惨に浸食された。5月2日になって、ソビエト軍第三帝国の象徴であった帝国議会議事堂(Rechstag)を完全に占領した。ソビエトの国旗をウクライナ人兵士は、グルジア人が両腕で支えられて、帝国議会議事堂の頂上に掲げた。同日にソビエト軍は、4月30日に既に自殺していたヒトラー総統官邸へ侵攻した。5月8日に、ソビエト軍司令部にて、ドイツ国防軍元帥が代表して正式な降伏に調印した。



2019年9月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 300,000回

2019年9月25日水曜日

キプロス紛争の取材中に、BBCの音声係が地雷で爆死して死体が地面に横たわり、側で負傷した特派員にトルコ軍兵士が立ち寄った。

キプロス紛争中の1974年の取材時に、BBCの音声係のテッド・ストッダートが、地雷で爆破されて死体が地面に横たわった。その側で負傷した特派員のサイモン・ドゥリングを救出するために、トルコ軍兵士が立ち寄った。その瞬間を、NBCニュースの中東特派員およびテルアビブ局長であったマーティン・フレッチャーが取材した。トルコは、1974年にキプロスに侵攻した。音声処理技術担当者で、音声の録音を担当していたテッド・ストッダートは地面で地雷を踏んで爆死した。NBCニュース特派員であったマーティン・フレッチャーのわずか0.91m(3フィート)離れた地点であった。数秒後には、もう一人の関係者が別の地雷を踏んで、炎と煙のなかで爆死した。マーティン・フレッチャーは、両人を助けることなく、その瞬間を撮影していた。1974年に国連が定めた緩衝地帯により、両首都であるニコシアの中心部を含めた国土は、全長約300kmもの鉄条網とコンクリート壁、地雷原で出来た境界「グリーン・ライン」で2つに分断された。
 キプロスは、1960年8月16日にイギリスからの独立を達成した。人口の8割を占めるギリシャ系住民は、ギリシャとの合併を求めた。1974年7月17日にギリシア合併推進によるクーデターが勃発した。トルコは1974年7月20日にトルコ系住民の保護を目的に派兵して、キプロス島北部を占領した。キプロス全島からトルコ軍占領地域にトルコ系住民の約10万人がが移住した。トルコ軍占領地域内のギリシャ系住民の約18万人はキプロス南部に脱出して約99.5%を占めた。北キプロスは、トルコ系住民が約98.7%となる圧倒的多数派を占めた。トルコ系住民はトルコの庇護のもと1975年にキプロス連邦トルコ人共和国を結成して、キプロス共和国の連邦国家としての再編成を要求した。1970年代を通じて国際連合は統合交渉したが、南キプロスがクーデター以前の体制の復活を要求して、北キプロスは対等な連邦国家の独立を要求した。1983年11月15日に北キプロス・トルコ共和国は独立を一方的に宣言した。
 1991年からの地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)により、1997年9月にオスロで対人地雷全面禁止条約が採択され、1997年12月にオタワで150カ国が署名し、141カ国が批准した。しかし、アメリカ、中国、ロシア、インド、パキスタン、北朝鮮、ミャンマー、韓国などは署名を拒絶した。地雷の死傷者は世界で1日約70人、1年で25,000人に達する。現在は、地雷の犠牲者は兵士ではなく、市民や子どもがほとんどを占める。



2019年9月24日火曜日

日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。

日本軍が安徽省の大路集で、国民政府の国府軍を包囲していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。安徽省涇県で国府軍は、1943年年末頃から近隣の大路集に集結していた中国共産党の新四軍と約20日間にわたり内戦をした。国民政府の国府軍は、新四軍に包囲されて補給も停止して、残存する食糧と武器もわずかとなった。国府軍はやむなく、1944年1月10日に宿敵であった日本軍に救援を致し方なく要請した。日本軍は急襲して、1944年1月14日までに大路集に集結していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍の掃討が完了すると、国府軍は自陣の構築物の内部構造や障害物の配置などの軍事機密を日本軍に情報公開した。
 第一次国共合作が1927年4月に崩壊してから、長く反目していた。国府軍の攻撃により1934年10月から中国共産党の紅軍主力が長征に出発した。その後に華中,華南の紅軍の残存部隊はゲリラ戦を続けた。日中戦争が1937年7月7日に勃発してから、国民政府と中国共産党は、抗日を一致するために敵対関係を解消して、国共合作して日本軍と戦闘した。抗日民族統一戦線の成立後には,1937年8月国民政府のもとに,紅軍主力が国民革命第八路軍に編成されて,同年10月華中と華南の紅軍を主力として国民革命軍新編第四軍が編成されて兵力は約1万300を擁した。日本軍,国府軍の勢力が錯綜する地域で発展を続け,1940年末には兵力約10万にも達した。1939年頃から国共対立が急速に激化した。日中戦争が混沌して長期化した1940年頃には、国府軍と八路軍は対立が先鋭化して、中国の各地で内戦を繰り返した。41年1月7日に国府軍は、新四軍を安徽省涇県で反乱のかどで攻撃して、日本軍の援護により、約9,000人新四軍は壊滅的な打撃を受けた皖南事変が勃発した。国府軍は同月17日に新四軍の編成を取消した。中国共産党はただちに,新四軍の再建と拡大に努めて,45年には兵力約26万8,500人に達した。華北の八路軍,華南の抗日縦隊とともに華中の新四軍は,抗日戦争期の党軍事力の重要な支柱となった。46年7月全面的な国共内戦の勃発に伴い,新四軍は人民解放軍の華東野戦軍に編成され,1948年秋に中国人民解放軍第3野戦軍と改称された。


2019年9月23日月曜日

アフガニスタン北部同盟民兵が、カラ・イ・ジャンギの虐殺をした後に、囚人の死体を蹴りながら検死をした。

アフガニスタン北部同盟の民兵が、カラ・イ・ジャンギ(Qala-i-Janghi)の虐殺をした後に、2001年11月28日に殺害した囚人の死体でポーズをとった。タリバン勢力の死体が荒野に散在した死体を蹴りながら検死した。アフガニスタン北部同盟とアメリカ軍と連合軍が、2001年11月26日から12月1日にかけて、アルカイダを支援するタリバン勢力を、アフガニスタン北部のマザリシャリフの強制収容所で大量虐殺した。タリバンが2001年に、マザリシャリフの付近のカラ・イ・ジャンギ要塞から蜂起した。
 アフガニスタン北部同盟が、タリバン勢力の囚人の手を拘束し始めたとき、処刑されることに反発して、暴動が勃発した。アメリカ軍の空爆によるミサイルと爆弾が建物を粉砕した。アメリカ軍の特殊部隊とイギリスのSAは、アフガニスタン北部同盟の民兵による猛烈な地上攻撃を指揮した。虐殺された数百人のタリバン勢力はまだ手を縛られていた。タリバン勢力の囚人は密閉された貨物コンテナに積み込まれ、トラックは数日間に太陽下で放置された。多くの人が渇きと窒息で虐殺される囚人は、トラックの側面を叩き始めた。アメリカ軍部隊は停止したコンテナを機関銃で撃った。収容所に連行されるまでに、約2,000人から3,000人もの囚人が死亡した。タリバン勢力の囚人の死体は、アメリカ軍の監督下で、見分けもつかない大量墓地に即に埋葬された。タリバン勢力の囚人は約80人が生き残り、そのうち約50人はキュウバのグアンタナモ強制収容所に連行された。取り巻く死体の悪臭と調査の欠如は、連合軍の表向きの対応とは異なった。最初の段階は、アメリカ軍に拘束された多くを敵兵を不法な戦闘員と容疑をかけた。容疑者は、国際法の範囲を超えて、戦争の囚人ではなく、テロ戦争の囚人として、ジュネーブ条約の保護は即座に撤回された。被拘禁者を裁判するアメリカ軍軍事委員会は、不公正で差別的であった。
 1979年12月ソ連の軍事介入から、1989年2月ジュネーブ合意に基づき,駐留ソ連軍の撤退した。1994年頃からパキスタン軍から支援を受けるタリバーンが勢力を伸ばし,1996年9月に首都カブールを制圧して国土の約9割を支配するに到った。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を起点として、アメリカ軍・イギリス軍等により10月からアル・カーイダとタリバーンに敵対する軍事介入した。12月にはアフガニスタン北部同盟等がタリバーン支配地域を奪還した。各勢力による2002年6月のボン合意に基づき、国連安保理決議により国際治安支援部隊(ISAF)が治安維持を支援した。その後,2004年1月に新しい憲法が制定され、10月9日に第1回大統領選挙が行われた。



2019年9月22日日曜日

長崎原爆の爆心地に最も近い城山国民学校では、労働者らの約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
 国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
 長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
 旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。


2019年9月21日土曜日

19歳のアメリカ陸軍一等兵(Pfc)が、イラク戦争後に、道端の即席爆発物(IED)で殺害された。

アメリカ陸軍一等兵(Pfc)の19歳のジェームズ・J・ハレルソンが、2007年7月17日にイラクのバクダットにて、道端にあった即席爆発物(IED)で殺害された。周囲のアメリカ軍兵士らは、殺害された彼の死体を爆発した車両から引きずり出した。陣地まで死体を搬送して処理した。
 アラバマ州デイドビルのファーストバプテスト教会でハミルトンの葬儀の際に、2つの勲章を授与された。アメリカ軍は家族らに賞を贈る特権を持っていた。勲章は国からの感謝のほんの小さな印であった。彼は2007年5月からイラクで従軍した。大学に行くのには必要な財政的な助けのために、陸軍の入隊したのは当時の選択であった。ハレルソン(19歳)は2007年7月17日にバグダッドで、道端の爆弾の炸裂により殺害された。海兵隊の軍曹としてイラクで死体の送迎を務めたハレルソンの兄弟は、家族は愛する人を失ったことに深く悲しんだ。戦争に人生を捧げたことに誇りに思うことは義務であった。家族や友人らがアレクサンダーシティのヒルビューメモリアルパークに埋葬のために集まった。


2019年9月20日金曜日

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、コジャリーで数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、1992年2月2日から2月26日までコジャリーの町から数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。アゼルバイジャン側と人権センターによると、アゼルバイジャン当局が提供する公式の死者数は、女性106人と子供83人を含む613人である。コジャリー事件は、ナゴルノ・カラバフ紛争の過程で大量虐殺となった。
 1991年後半から約7,000人のアゼルバイジャン人が居住し、アルメニア人の軍事作戦は、アゼルバイジャンに対する攻撃は勢いを増した。約7,000人のアルバイジャン人が居住するナゴルノ・カラバフ地域にあるコジャリーの町が、攻撃目標になった。
 アルメニア軍は、1991年10月30日にコジャリ地区を完全に包囲して遮断した。コジャリーを占領して、アルメニアはナゴルノ・カラバフ地域の他の都市や町を占領する優位性を得た。1992年2月25日から2月26日の夜、アルメニア軍はコジャリーの町を攻撃して、無差別に高齢者、女性、幼児など、かつてない残虐な大量虐殺した。コジャリー虐殺では、女性約106人と子供約83人と老人70人を含む約613人の民間市民が殺害されて、約1,275人が人質の捕虜になった。コジャリー虐殺の犠牲者は、火傷や生きたまま埋葬され、皮を剥がされ、頭を切断され、子供たちは目を突かれ、妊婦は銃剣で刺された。
 アルメニア人によるアゼルバイジャン人の民族浄化の歴史は、18世紀初頭から勃発した。ロシア帝国が、南への拡張主義政策を強化するため、コーカサスにてアルメニア人を搾取した。1724年11月10日、ピーター1世は、アルメニア人がバクーやアゼルバイジャンの地域に定住をする命令を出した。アルメニア人はアゼルバイジャン人に対して残酷な虐殺と虐待を繰り返した。1905-1907年にはアルメニア人によって、何千人もの無実のアゼルバイジャン人を各地で大量虐殺した。1917年12月から1918年3月には、アルメニア軍とソ連軍は、アゼルバイジャンの合計約197村を破壊し、大量虐殺し、追放した。1990年1月20日に、ソビエト軍は首都バグーなどを占領して、無差別に民間市民を発砲して、約131人が殺害された。1991年8月30日にアゼルバイジャン共和国は独立宣言をした。近年でも、2016年4月1日から5日の間、ナゴルノ・カラバフ地域での激しい戦闘により、約88人のアルメニア人兵士と約31から92人のアゼルバイジャン人兵士が死亡した。