2019年9月11日水曜日

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。日本軍とロシア軍は、1905年1月25日から1月29日まで黒溝台会戦で死闘を繰り返した。黒溝台会戦は日本軍の司令不足、軍事の準備不足や作戦失敗など、大変な消耗戦による死闘となった。軍事的には損耗率約30%で戦闘力の喪失、50%を超えると壊滅となる。黒溝台会戦で、日本軍は戦闘力を喪失して、壊滅となる寸前となった。黒溝台会戦は全体で日本軍は約53,800人が参戦し、戦死者は約1,848人、負傷者は約729人、捕虜は227人、犠牲者は総計で約9,324人で、損耗率は約17%にも達した。戦闘により、日本軍兵士将の数多くを失う悲劇となった。日本軍の被害と損耗率が膨大であった。
 ロシア軍も膨大な犠牲を伴った。参加兵士の約105,100人のうち、戦死者は約611人、戦傷者は8,989人、失踪者1,105人、総計11,743人にも達した。戦死傷だけでなく、失踪者が1,000人以上出ている。ロシア軍の被害が相対的に大きなり、内部崩壊の状態となったが、黒溝台会戦では戦死者が少なく、全体の損耗率も約10%であった。1905年1月22日に、ロシア本国の首都ペテルスブルグで、多数の市民を射殺した血の日曜日事件が勃発していた。
 黒溝台会戦が、劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利の起点となった。死闘と犠牲の上に日露戦争を乗り切った。招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける。軍旗祭も師団管下の各連隊にとって、軍隊と地域の人々を結びつける年中行事となった、記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民の前に披露された。
 優勢なロシア軍を前に、日本軍兵士を真っ正面から悲劇的な突撃をした。黒溝台会戦は、軍事的には日本軍の完敗だった。黒溝台会戦は、結果的にはロシア軍の退却を誘発して、奉天会戦の犠牲として、日露戦争の勝利を導いた。その後の日本は第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を経て犠牲者を踏み越えて敗戦に突入した。


2019年9月10日火曜日

ネパール政府軍兵士は、木製の担架でマオイストのゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬して、死体を集積した。

ネパール政府軍兵士は、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)のゲリラとの戦闘で、2002年5月に殺害したゲリラの死体を集積した。ネパール政府軍兵士は、木製の担架でゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬した。ゲリラは、1996年頃から政府軍に反抗して、中山間地域を基盤にして、血にまみれの内戦が勃発した。
 ネパール内戦が、1996年2月13日から2006年11月21日の包括的和平協定の成立まで、約11年間にわたり、ネパール政府軍とマオイストの間で繰り広げられた。2002年5月に、マオイストのゲリラ拠点であるネパール中西部のロルパ郡ガム村に、ネパール政府軍の治安部隊がマオイストのキャンプを襲撃して、無差別に約150人を殺害した。
 1996年に、マオイストはネパール政府に対して武力闘争を開始した。その後、2006年の停戦に至るまでの約10年間で民間市民を含めて、約13,000人もの犠牲者を出した。内戦だけでなく、カーストや民族間の対立、援助慣習など社会問題により、社会的環境は悪化した。国連のUNMIN(国連ネパール政治ミッション)が、2007年1月から2011年国連平和維持活動をした。2008年には制憲議会選挙を実施して、第1党となったマイトス勢力が王政が廃止して、ネパール連邦民主共和国に移行した。王政の廃止以降に、憲法制定作業が難航した新憲法が、2015年9月20日に公布された。



2019年9月9日月曜日

カシミール州のバンディポラで、占領するインド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。

インドの北西部にジャム・カシミール州のスナガルから北に約45kmのバンディポラで2002年12月以降に、インド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。インド軍兵士が、イスラム教武装勢力と混同した。射殺されたカシミール人の死体は、インド軍基地に分捕られた。カシミール市民は死体の引き渡しを求めて、「カシミールに自由を、独立を。カシミールからインド軍の撤退を」と怒号した。やがて弾丸が頭部を貫通して射殺された死体を、カシミール市民は確保した。インド軍兵士に射殺された青年の妻が、冷たい手を握り泣き叫んだ。遺体は、群衆に担がれて、悲しみに包まれて墓地に埋葬された。
 1947年8月にインドとパキスタンは、英領インドから独立して、576もの藩国が帰属を迫られた。1947年9月にヒンドゥー教のカシミール藩王はインドに帰属するために、市民の大多数を占めるイスラム教徒と闘争した。カシミール地方にて、インド軍はヒンドゥー教徒を、パキスタン軍はイスラム教徒を支援した。1947年10月から1949年1月まで、カシミール紛争により第1次インド・パキスタン戦争が勃発した。1965年に第2次インド・パキスタン戦争、1971年に東パキスタンからバングラディッシュが独立する第3次インド・パキスタン戦争が再燃した。1989年にソ連軍がアフガニスタンの撤退から、イスラム武装勢力が本格的にカシミールに侵攻して、カシミール紛争による犠牲者数は約65,000人にも達した。
 1998年5月には、インドとパキスタンは、同時期に引き続けて地下核実験を強行して、核兵器を保有を宣言した。核不拡散条約(NPT)は、核兵器の保有を国連の常任理事5国だけに限定した。インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮は、NPTに加入せずに核兵器を保有する核敷居国家と宣言した。



2019年9月8日日曜日

ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。

ファルージャへの攻撃は、イラク占領軍が抗議デモに発砲して、約18人の市民を殺害した2003年4月のアメリカ軍の侵攻の直後に始まった。アメリカ軍の車両の旗は、「軍隊はすべてを殺す」という精神を象徴した。海兵隊の司令官は、病院は死傷者が多いので噂の源であるとして、病院を最初に占領した。ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。多くの子供と赤ちゃんが爆撃で殺害され負傷した。約25,000人を超えるアメリカ軍がファルージャを取り巻き、そのうち約15,000人が反乱軍の要塞を襲撃した。
 2004年3月26日に攻撃の頻度の急激な増加に対応して、アメリカ軍は攻撃的な作戦を開始し、バグダッド西で2人の子供を含む家族が殺害された。南部および北部のモスルからファルージャまでの新しいゲリラの戦闘員は、両方の地域で集中的かつ同時の攻撃を行い、アメリカ軍の作戦計画者を混乱させる圧倒的な力を発揮した。
 2004年11月6日には、アメリカ軍のミサイルが、ファルージャのハイナザル病院を襲撃した。11月7日には、ファルージャ総合病院を襲撃した。11月9日火曜日の午前5時30分に、アメリカ軍用機が中央保健診療所を爆撃し、約35人の患者、約15人の医者、約4人の看護師、約5人のサポートスタッフ、約4人の医師が殺害された。アメリカ軍は、救急車も標的にし、約5人の患者と運転手を殺害した。
 戦争に関する第4回ジュネーブ条約は、「負傷者、病人、虚弱者および出産のケースをケアするために組織された民間の病院は、いかなる状況においても攻撃の対象とはならないが、常に尊重され、保護されるものとする」それは、第二次世界大戦後の1949年に締結された。ジュネーブ条約は、囚人の拷問などの慣行も禁止した。




2019年9月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 290,000回

2019年9月7日土曜日

広島原子爆弾が投下日に広島市北部の安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。

1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して無残であり、鬼気が迫った。すぐに被爆者を乗せたくても全く余地がなく次のトラックを待つように説得するのが悲惨であった。その後は時折にトラックが来ては、被爆者らを広島市北部の方に運んでいた。それでも膨大な被爆者にはどうにもならず、多くは放置となり、うめく者、水をくれとせがむ者など、この世の地獄図になった。広島市内の中心部から、トラックの荷台に乗って避難する被爆者らに、歩いてくる多くの被爆者が後から後からと続いた。
 その当時は被爆者は原子爆弾の放射能のことは全く知らなかった。トラックで運んだ被爆者達も何とか助かったと思うも、恐らくはその多くの被爆者は助からなかった。各運送会社は、トラックを約20台を保有していたが、ガソリン車は約6台ほどで、後は木炭車であった。その頃はトラックを、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていた。最初は、戦場への兵士に送られる若年の男性が優先的に救護所にトラックで運ばれて治療を受けた。当初に老人や女性、 子どもさえもトラックに乗せてもらえず、トラックの周りに群がり、大騒ぎにもなった。


2019年9月6日金曜日

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。沖縄の基地による悲劇により死亡した機動隊員は、デモ隊に対する臨時隊員であった。しかし、機動隊のユニフォームを着用したら、正規隊員と見分けがつかない。1971年11月9日から11月10日に、沖縄返還協定反対・交渉やり直し完全復帰要求のストライキが勃発した。11月10日には約10万人が集結して、沖縄史上で最大のストライキとなった。最大の抗議集会によって、最後に一人の警官が死亡して、多数の負傷者を出した。デモ隊の交通整理係の48歳の警官である山川松三巡査部長が死亡した。機動隊のユニフォームとヘルメットを身に着けたまま路上で死亡した。
 大会終了した後に、デモ隊は与儀公園から行進した。安里から泊港に出てから、牧港の方向に向かう集団が、火炎瓶を投げて、その一帯は騒然とした。路上で赤い炎が立ち、住宅にも火炎瓶が投下された。勢理客の方面で、機動隊と過激なデモ隊が衝突した。火炎瓶を投げられて、身体から煙が出た機動隊員が転倒していた。駆けつけた機動隊は、デモ隊に無差別の攻撃を加えて、一般歯根のデモ隊までも、警棒や盾で殴られながら、催涙ガスの中を逃げ惑った。
 翌年の1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還された。その前年に、1970年12月20日にアメリカ軍兵士が2件の交通事故が起点となって、軍の自動車や施設を焼き討ちするゴザ暴動が勃発した。アメリカ軍兵士の乗用車がはねた沖縄市民を、軍警察(MP)が連行されて基地内に逃げて込んだ。1975年4月30日までベトナム戦争下にあったアメリカ軍兵士は風紀が乱れても、沖縄には裁判権もなかった。


2019年9月5日木曜日

ゲティスバーグに参戦兵士の膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。

南北戦争は、1863年7月1日から3日に北部に向けて2度目の侵攻する南軍に対して、北軍はペンシルバニア州のゲティスバーグの戦いで完全に阻止して撤退させた。最大の凄惨な死闘が勃発した地域には、墓地の尾根や悪魔の棲み処など呼称された。参戦した約16万5,000人以上のうち、兵士の約3分の1である約4万5,000人以上が戦傷死した。南部連合の独立や奴隷制度は頓挫した。ゲティスバークの戦いで、北軍の戦死傷者は約23,000人であったが、南軍は約28,000人に達して、南軍の3分の1以上を失った。
 アメリカは1981年から南北戦争が勃発した。1861年から1865年までに戦死者は約62万人と民間市民は約5万人と推定された。参戦した白人兵士の約5人に約1人が戦死した。膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。伝染病である赤痢だけで、約9万4,000人が病死した。北軍が南部に侵攻して、1865年4月にバージニア州アポトックス・コートハウスで南軍は降伏して、南北戦争は終結した。ゲティスバーグの市民らは、数千人の戦傷者に対処するために残された。家や公共の建物が病院になり、感染症や不衛生な状態から伝染病が町の生活を危険にさらした。戦闘中に、無差別なな弾丸が家のドアを通り抜け、20歳女性のジェニー・ウェイドは銃殺された。彼女は戦闘中に虐殺された唯一の女性となった。なんて恐ろしい光景だ!人間だ!ぼろぼろに覆われ、ほこりに覆われ、乱暴に乗り、丘を駆け抜けて、我が家に向かって駆け抜ける!叫び、最も不気味な叫び、呪い、拳銃の振り回し、そして発射した。



2019年9月4日水曜日

日本軍兵士はルソン島のリパ住民を大量虐殺して、対抗した住民らに殺害された日本軍兵士の遺骨を荼毘に付した。

ルソン島南部におけるリパの住民を日本軍兵士が大量虐殺した事件は、日本兵団の絶対的命令でもあった。事件後にはゲリラや住民らが大量虐殺に対する報復として、捕虜となった日本軍兵士の首を切断した。その埋葬地を戦後に発堀すると多数の白骨が出現した。その他に、不明な崩れ去った野ざらしの骨も産出された。野ざらしの骨に、薪を組み入れて並べて、薪に火を付けて、遺骨を荼毘に付した。
 バタンガス州リパの虐殺は、1945年2月16日から3月19日にかけて断続的に行われ、犠牲者数は約12,005人以上にも達した。ある村では、一村1,500人の全員が日本刀で首を切り落として虐殺された。リパ事件を体験して生還した旧日本軍兵士が、『狂気-ルソン住民虐殺の真相』を告発した。極限の残酷な戦争体験をすると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を伴った。フィリピン各地には、地元の人しか知らない、「旧日本軍に虐殺された慰霊碑」が多数残存している。
 谷底7メートル余りの侵食渓谷にて、日本軍兵士は住民らを白濁の水が流れた崖っ淵に連行した。突け!と銃剣は、一人の住民の胴体をⅩ字に貫き、すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引いた。もんどりうつようにリパ住民はは谷底に芋づる式に落下した。日本刀の試し切りもした。日本刀を振り降ろし、あるいは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、首は前に飛び、宙に舞い上がった。さらに1945年3月初句には、日本軍はある集落の全住民約200人を小学校の講堂に集めて監禁して、数人ずつ崖に連行して、次々と銃剣で刺して死刑にした。赤ん坊は両足首をつかんで頭を岩に打ちつけて殺した。日本軍は、マリプニヨ山の麓の村で大討伐して、小学校に集合させた約1,000人の住民が、暗くなってから無差別に女子も子供も含めて虐殺した。次第に日本軍は泣き叫ぶ女子や子供までを、銃剣で一突きして井戸に投げ込んだ。コンクリートで固めた縁高の井戸に、後手にくくられた十数人の住民の死体が、重なり合った。


2019年9月3日火曜日

中国の公安を避けて、ベトナムとの国境を越えるトラックに脱北者は恐怖に包まれて、体を縮めて座っていた。

北朝鮮からの脱北者たちは、2009年9月にトラックの荷台に乗って、中国の国境からベトナム北部のむらまで移動した。中国の公安に逮捕されないように、ベトナムとの国境を越えて猛スピードでトラックが走った。トラックに全員が恐怖に包まれて体を縮めて座っていた。
 9人の脱北者は周囲を警戒しながら、ベトナムとの国境がある中国・広西チワン族自治区の山道に体を潜めた。中国で逮捕されると、脱北者は北朝鮮に強制送還される。刑務所である教化所で、残酷な虐待を受けた。中国からベトナムに密入国して、ハノイの在ベトナムの韓国大使館に向かった。夜中に無人の山奥を、暗がりを這いながらも歩いた。しかし、在ベトナムの大使館の韓国人の職員が、駐在国を優先して、脱北者を受け入れを拒否した。脱北者を連れて他国に密入国するように指示した。欧米の他国の大使館に密入国するために、英語の文章を丸暗記した。警察官が取り囲む欧米の大使館に密入国した瞬間を、欧米の報道機関に秘密裏に捉えてもらい、国際的な圧力を加えた。大使館員が密入国を拒否するも、国際報道機関が脱北者を速報で公表したため、致し方なく脱北者を保護した。
 脱北者は、1994年頃から北朝鮮から国外への難民が急増した。1993年の大水害と干ばつにより食糧難が深刻化して、大飢饉となった。2018年時点までに約31,500人が韓国に亡命して、韓国人となった。脱北は、まず中国に逃避した。国境警察官が、国境付近で脱北者を逮捕して、不法入国者として北朝鮮に送還した。韓国に入国しても、一部の脱北者は、社会的偏見や差別を受けて余計者として虐待された。 



2019年9月2日月曜日

イラクのサダム政権が、クルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。

イラクのサダム政権が、1988年3月16日にクルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。イラクが毒ガス攻撃で、クルド人市民の約5,000人を大量虐殺した。クルド人らは反抗勢力で、自治権を求めて、イラクのバクダットと紛争した。クルド人がイラン軍を迎え入れた罪状として、イラク軍が毒ガス爆弾を投下した。イラクは過去約3年間にわたり、紛争しているイランに対しても大量に化学兵器の攻撃をした。国連は、1984年、1986年、1987年と3回の調査とも、イラクが化学兵器を使用したと断定した。毒ガスにはマスタードガスと神経ガスのタブンなどが使用された。化学兵器が広範に使用される危険性が高まった。軍事使用が可能な科学物質の販売は禁止されていたが、イラクは化学兵器製造のために先進国の企業から援助を受けていた。
 クルド人の町の家々や舗装されていない道路には、何十もの死体、男や女、子ども、家畜、ペットの死体が散乱した。死体には、全く傷や出血もない。爆弾による痕跡もなかった。死体の皮膚は奇妙に変色した。目は開いたままで、黒目は眼窩に隠れることなく、どこかを凝視した。口からはねずみ色の粘液が流れ出た。死体の指は異様に曲がったままであった。玄関の数メートル前で転倒して死亡した。母親が、子どもに最後の抱擁して死亡した。老人は幼児を守ろうとして死亡した。クルド人やイラン人は、化学兵器の投下は報復であると激高した。ハラブジャには人気はなく、沈黙した。大量虐殺に巻き込まれなかった家族が戻り、呆然としてゆくえを探した。
 ハラブジャ事件が勃発した直後から、イランが世界の報道機関に取材を求めた。イラン軍がハラブジャに同行した。事件後には、イランがハラブジャを実効支配をした。イラン軍のヘリコプターが、テヘランからハラブジャまで報道機関を護送した。ハラブジャの残酷な写真から映像が世界中に報道された。



2019年9月1日日曜日

尹奉吉は陸軍作業所で、日本軍兵士の一斉射撃で銃殺されゴミ捨て場に埋められ、柩と白骨化した死体が発掘された。

韓国人の尹奉吉は日本要人を上海で1932年4月29日に暗殺して、1932年5月25日に上海派遣軍の軍法会議で殺人罪等で死刑を宣告された。11月20日に日本の大阪陸軍戍衛刑務所に送還され、12月18日に極秘に金沢の法務部に護送された。12月19日午前6時に、尹奉吉は金沢市三小牛山の陸軍作業所に連行されて、日本軍兵士の一斉射撃で午前7月40分に銃殺された。火葬せずに、陸軍墓地と一般墓地の間のゴミ捨て場に埋められた。元法務官の憲兵隊員から埋葬先を突き止めて、処刑された尹奉吉の柩と白骨化した死体が掘り出された。7月11日に韓国に護送されて、ソウルで国民葬が挙行された。
 日本が1931年から満州の侵略を開始した。1919年3月1日に勃発した三・一運動から、4月には上海で大韓民国臨時政府を樹立した。日本要人を暗殺する韓人愛国団が結成された。1932年4月29日に、上海の虹口公園で昭和天皇陛下の誕生日の天長節祝賀式が挙行された。上海の抗日勢力は派遣日本軍に弾圧されて撤退していた。24歳の韓国人である尹奉吉は、爆弾を詰めた水筒と弁当を持って公園に向かった。太極旗の前で、上海の大韓民国臨時政府の金丸と撮影して、宣誓文を自筆した。「韓国愛国団」の一員として中国を侵略する敵の将校を殺すことを誓った。
 祝賀会の壇上の中央に、上海派遣軍司令官、公使、艦隊司令官、師団長、総領事らが並んだ。「君が代」の斉唱が終わり、爆弾を詰めた水筒が壇上の中央に転がり、爆発した。派遣軍司令官は死亡し、公使は片足を切断され、艦隊司令官は失明、総領事は重態に陥った。暴挙した尹奉吉は、捕縛され連行されて凄惨な拷問を受けた。大韓民国臨時政府の金丸が、英字新聞に「韓人愛国団」の指図と公表した。日本軍の掃討を受けて、中国各地を転戦して、重慶に潜伏した。



2019年8月31日土曜日

ユーゴスラビア地方のヤセノヴァッツ収容所で、ウスタシャ勢力民兵が、収容者を大量虐殺して土中に死体を投げ込んだ。

ユーゴスラビア地方のヤセノヴァッツ収容所で、ウスタシャ勢力民兵が、収容者を大量虐殺して土中に死体を投げ込んだ。収容者は埋葬のための墓穴を掘削されられていた。墓穴の上端につまずかせて背後から頭部を銃殺されて、死体が墓穴に転落した。特にヤセノヴァッツ収容所は、バルカンのアウシュビッツとして、凄惨な大量虐殺を執行した。
 第2次世界大戦中に、クロアチア人に民族主義を掲げるファシズム政党であるウスタシャが誕生した。クロアチア人による独立国家の樹立を目指して、ナチス・ドイツと同盟して、大量虐殺を決行した。第一次世界大戦後の1929年にセルビア人政権によるユーゴスラビア王国が樹立された。民族主義のクロアチア人は猛烈に反発していた。セルビア人への反発から、ウスタシャが勢力を拡大した。1941年にナチス・ドイツが、ユーゴスラビアに侵攻してユーゴラスビア王国は崩壊して、ウスタシャはクロアチア独立国家を樹立した。多数の強制収容所を設置して、セルビア人からクロアチア反対勢力、ユダヤ人、ジプシーなどを強制収容してナチス・ドイツ以上の残酷な虐殺を処刑した。1945年までに、ウスタシャは約70万人以上ものセルビア人を無差別に凄惨な大量虐殺を執行された。セルビア人兵士らは、民族主義的な抵抗勢力であるチェトニックを樹立して対抗した。チェトニックは、クロアチア人とムスリムを約20万7千人とムスリムを約8万6000人を虐殺が推定された。内戦と大量虐殺で、ユーゴスラビアの人口の約11%も死亡した。1943年から1992年まで、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が包括的な強制支配をした。



2019年8月30日金曜日

沖縄国際大学に墜落して散乱したヘリコプターの残骸を、アメリカ軍が撤去して秘密裏に処理した。

2004年8月13日午後2時15分頃に、在日アメリカ軍の海兵隊が操縦したヘリコプターが、沖縄国際大学に墜落した。沖縄国際大学の校内に墜落したヘリコプターの残骸が散乱した。防毒マスクを装着した海兵隊が、8月16日にヘリコプターの残骸を撤去して処理した。ヘリコプターに含まれるストロンチウム90などの放射性物質の飛散は隠蔽されたままで、秘密裏に事故処理された。激突したヘリコプターは炎上して沖縄国際大学の校内に軍事用品や部品が飛び散った。周辺の住宅街にも部品が飛散して、建物を突き破った。搭乗した海兵隊の3人と沖縄国際大学1号館にいた大学職員約20人が負傷した。事故直後から、アメリカ軍が墜落現場を封鎖して、日本人の警察や消防他の関係者を完全に排除した。
 アメリカ軍の普天間飛行場を離陸した大型輸送ヘリコプター(CH-53D)の1機が、飛行場に隣接する宜野湾市の沖縄国際大学の本館ビルの北側に激突して大破して、大学構内で爆発して炎上した。教育施設の墜落は、1959年6月3日にうるま市の宮森小学校に戦闘機の墜落に次いで2回目であった。基地外住宅地域でのアメリカ軍機の墜落は、1972年の置くなわの日本本土復帰してから初めてであった。沖縄市町村の中で、面積に対する米軍基地の割合が最も大きいのは嘉手納町で町面積の約83%、宜野湾市は約33%を米軍基地が占めている。普天間飛行場の即時返還と、飛行場の移設先である名護市辺野古での新飛行場の設置に反対する県民運動が高まった。2004年9月12日に事故現場である沖縄国際大学で、約3万人が集合した抗議集会が開催された。沖縄県警は、日米地位協定で捜査が阻まれた。日米地位協定は、日米安全保障条約の目的達成のために我が国に駐留する米軍との円滑な行動を確保するため、米軍による我が国における施設・区域の使用と我が国における米軍の地位について規定したものであり、日米安全保障体制にとって極めて重要なものとしている。


2019年8月29日木曜日

日露戦争の沙河会戦にて後台でロシア軍に一斉突撃して戦死した多数の日本軍兵士の死体が散乱した。

日露戦争にて、沙河会戦にて後台の周辺で1904年10月13日からのロシア軍に対する一斉突撃で戦死した多数の日本軍兵士の死体が散乱した。10月15日になって大半のロシア軍は沙河の右岸に退去した。10月16日夜には、日本軍部隊は万宝山と歪頭山を一時的に占領するも、ロシア軍の激闘により、日本軍部隊は壊滅して敗退した。10月17日には、日本軍もロシア軍も、兵士の犠牲と補給の不足で戦闘は収束した。沙河会戦では、日本軍兵士の総数は約12万800人で、うち戦死傷者は約2万497人に達した。ロシア軍兵士の総数は約22万1600人で、うち戦死傷者は約4万1346人もの甚大な犠牲を伴った。
 満州の遼陽の占領に損害を伴った日本軍に対して、ロシア軍は奉天から大軍を南下した。沙河会戦は、ロシア軍が1904年10月8日に本渓湖から後退する日本軍に対する攻撃から、10月18日まで沙河付近で激闘となり、双方は突撃を繰り返して膨大な人的犠牲を伴った。それ以後の満州北部の戦線は一進一退となった。満州に厳寒の到来してから兵士と武器も食糧の補給も困難となった。両軍は沙河をはさんで、1905年の春まで対峙した。日本国内の富国強兵は限界に達して、戦場では膨大な戦死傷者から厳寒や疫病により犠牲者が続出し、日本国内では武器の増産も困難となり、国民は重税に悲鳴をあげて苦悩した。


2019年8月28日水曜日

イラク戦争にてバクダットのナスル市場への無差別のミサイル爆発により破片が29歳の男性の胸に突き刺さり、出血多量で死亡した。

イラク戦争にて、アメリカ軍は2003年3月28日にバクダット北西部のシャーラ地区のナスル市場への無差別の空爆をした。イスラムの休日である金曜日で混雑した市場へのミサイルの爆発によって約58人が死亡した。ミサイルの破片が29歳の男性の胸に突き刺さった。バクダットのヌール病院に搬送されたが、出血多量にて死亡した。病院の建物の外に置かれたストレッチャー上に、虐殺された死体が3月31日に横たわっていた。左胸下にガーゼを当てられた死体は、やや口を開いて、眠るように目を閉じた。死体は直ちに高温で腐敗して、死臭が漂った。兄弟らしき男性が、側に座り込んで、口を手で抑えながら、泣き叫んだ。最多で1時間あたり、約150人もの戦死傷者がヌール病院に搬入された。アメリカ軍による連日の無差別の空襲によって、無数の市民が虐殺と虐待された。
 アメリカ軍は、巡航ミサイルがペルシャ湾から数百kmを飛ばす空襲をピンポイント爆撃として、無差別な空襲を否定した。ピンポイント爆撃でさえも、市民の居住地に空襲されて、市民をも大量の虐殺と虐待していることは必然であった。ミサイルを直撃された市民は爆発して即死した。その周辺の市民には、爆発して飛び散った破片などで戦死傷した。地面は少なくとも約1m以上の穴が掘られ、アスファルトなどが浮き上がった。付近には、血が散布されて、すぐに蝿が集った。