2019年4月13日土曜日

ベルガ強制収容所から労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が発掘された。

ベルガ強制収容所から南方のテーペンの路上から、労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が、1945年6月11日に発掘された。衰弱した囚人は強制死行進するほど死亡率が急増した。 
 ベルガ強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の分屯基地であった。強制労働者は、ブーヘンヴァルト強制収容所とスタラーグIX-Bの捕虜収容所から供給された。 捕虜に対して、第3回ジュネーブ条約とハーグ条約の規定に違反した。約73人のアメリカ人捕虜を含む多くの囚人が、栄養失調、病気、殴打などで死亡した。 強制労働収容所では、水素化により褐炭を軍用の燃料に変える秘密計画の一部を実施した。その他の目的は「労働による絶滅」もあった。囚人を非人道的な労働条件と生活条件下で、故意的に飢餓に苦しませて餓死するように強制労働させた。二次的な労働による絶滅の目的で、連合軍が侵攻して戦争が終結する直前まで、捕虜に強制死行進を強要した。
 捕虜は強制収容所の囚人と一緒に働き、地下弾薬工場のために17本の地下トンネルを掘った。栄養失調、病気、そして殴打の結果、約47人の囚人が死亡した。アメリカ軍当局はその事実を認めなかった。1945年4月4日まで生き残った約300人のアメリカ人捕虜が、アメリカ軍が侵攻する前に収容所から追い出された。2週間半もの強制死行進後に解放されたが、行進の間にさらに約36人のアメリカ人捕虜が死亡していた。
 ベルガ捕虜収容所は、ドイツ国防軍のアーウィン・メッツが統括して、非人道的に死刑執行人を捕虜にするよう命じた。連合軍が撤退したドイツ軍を封鎖した時に、自転車で逃げたメッツを、生存したベルガの囚人は捕らえた。1945年3月14日に捕虜がアメリカ軍によって解放された数日後に逮捕されて、アメリカ軍の野戦砲兵の殺害に対して死刑判決が下された。しかし、アメリカの政治情勢と冷戦の幕開けの中で、ソビエトに対して西ヨーロッパを守るアメリカの戦争省が優先順位を変更した。多くのドイツの戦争犯罪者の情報が、ソビエトに流れる可能性を恐れた。メッツは20年の禁固刑に減刑されて、結局は9年間の刑期だけで釈放された。



2019年4月12日金曜日

南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。

アメリカ南北戦争において、1864年5月9日から18日まで北軍と南軍がスポットシルヴァニアの戦いが勃発した。南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。スポットシルヴァニアの戦いで、北軍は約10万人中に戦死者は約2,725人に、戦傷者は約1,034人に達した、南軍は約5万2000人中に戦死者は約1,467人に、戦傷者は約6,235人も犠牲となった。
 1963年5月のビックスバーグ、そして1863年7月のゲティスバーグにおける北軍の侵略は、南北戦争の転換点となった。その後も1年半以上にわたって激しい流血を伴う戦いが全面的に継続した。1864年5月に北軍はバージニア州内に深く進軍して、スポットシルバニアの付近における荒野の戦いで、南軍との間で3日間にわたる戦闘により、両軍ともに多大な犠牲を伴った。北軍はさらなる侵攻に執着して、その直後の2日後にはスポットシルバニアの戦いで、ほぼ1年間に及んだ東部戦線での戦いを集結するような5日間にわたる激しい塹壕戦が行われた。
 戦闘は激しいままに、北南軍の強力な武器により、地表が平らになり、兵士たちは塹壕から飛び出しては白兵突撃を繰り返して犠牲になった。南軍の塹壕の突出部であるミュール・シューの地域である「ブラッディ・アングル」に対して、北軍が白兵戦争で突撃して南軍が打ち砕かれた。5月13日には南軍が新たな塹壕に撤退して、北軍の侵攻は効果もなくなり18日には無益な停戦となった。近代戦における白兵戦は、最終的な銃撃後の突撃や、塹壕内における戦闘に伴った。歩兵の主力銃が装填間隔の長さから、至近距離で複数の敵と銃で渡り合えない限界を、銃剣、ナイフ、棍棒や格闘などで殺傷した。



2019年4月11日木曜日

日本軍兵士は全員死亡するために、バンザイ突撃だけでなく、狙撃銃をのどに当て足趾で引き金を引いて自射した。

アメリカ軍の膨大で圧倒的な武力で、エニウェトク環礁の日本軍兵士は刀折れ矢もつきた。日本軍兵士は全員が死亡する玉砕をした。バンザイ突撃して戦死するだけでなく、日本刀で切腹、狙撃銃をのどに当て、足趾で引き金を引いて自決した。
 1944年2月20日にエニウェトク環礁にアメリカ軍歩兵が上陸を開始した。上陸から3時間後に日本軍からの反撃で一時的に進撃が頓挫した。後援の海兵連隊が派遣されて、再び侵攻を盛り返した。2月21日から23日午後まで、散発的な抵抗を受け続けた。日本軍兵士による2月21日早朝と午後に突撃するバンザイ突撃が、エニウェトク島における最後の軍事的抵抗となった。日本軍約3,560人の犠牲者は、捕虜以外は全員が死亡した。アメリカ軍約10,376人の犠牲者は、戦死と行方不明は約195名、戦傷者は約521名に達した。


【閲覧留意】

 世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁で強行された。中部太平洋のマーシャル諸島にあるエニウェトク環礁では、アメリカにより約44回もの核実験が実施された。水素爆発の爆発規模のTNT火薬の総量では約3万3千キロトン、広島原子爆弾の約16キロトンの約2,000発分を上回った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日の水素爆弾から被曝したビキニ環礁の約23回より多かった。エニウェトク環礁は無人環礁となり、地球原爆化から地球水爆化による地球撲滅にむけた実験地点となった。

2019年4月10日水曜日

アフガニスタンのタガブの戦闘で、銃殺されたソ連軍兵士の武器と武装具は剥ぎ取られ死体は山岳地帯に放置された。

アフガニスタンの首都カブールの北東約60kmのタガブの戦闘で、ソ連軍兵士が銃殺された胸に弾痕があった。銃殺されたソ連兵士から武器と武装具は、剥ぎ取られて死体は山岳地帯に放置された。その死体の周りに多数のイスラム聖戦士が取り囲んだ。
 アフガニスタンは山岳地帯が延々と続き、ソ連の戦車や装甲車は険しい山岳地帯の侵入は困難となった。ゲリラ訓練を受けたアフガニスタン兵は、劣悪な気候でも動き回り、地形をよく熟知したパルチザン戦で、狭い渓谷の道路を進むソ連軍の機動部隊を山岳地帯から待ち伏せ攻撃した。追撃するソ連軍に対しては、地雷源で立ち往生した部隊を襲撃した。1979年12月からのソ連のアフガニスタン侵攻は、1989年2月25日の撤退までにアフガニスタン戦争に約62万人の兵力を投入し、死亡者数は病死を含めて約1万4500人と戦傷者は約5万人にものぼった。
 1989年2月のソ連軍の撤退しても、アフガニスタンは混迷を深めた。ソ連に抵抗したイスラム聖戦士のムジャヒディンの主導権争いで内戦状態に突入した。1994年にイスラム神学校のマドラサの学生らがタリバンを結成して、政権を樹立した。2001年のアメリカ同時テロを契機としたアフガン戦争が勃発した。2002年6月にはボン合意に基づき、暫定政権議長を大統領とする移行政権が成立した。2014年末に国連治安部隊(ISAF)からアフガニスタン治安部隊に治安権限が委譲され,2015年からアフガニスタン政府が治安に責任を負った。ロシアは反タリバンから一転して、2015年頃からイスラム教スンニ派過激組織であるイスラム国(IS)の抑止にタリバンを支援している。


https://drive.google.com/file/d/1LfVfQIAx9ss6nBrkptMUIaBuyJMLPRlT/view?usp=sharing

2019年4月9日火曜日

バングラディッシュ独立戦争にて、若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。

バングラディッシュにおいて、1971年11月に若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。死体はバラバラに削られて、肉塊が投げられた。バングラデシュ独立戦争において、独立を阻止するべく西パキスタン軍に加えて過激なイスラム政治団体などが、独立運動家だけでなく、知識人やヒンドゥー教徒らも標的として、約100万人以上も殺戮を繰り返した。
 1947年8月14日にインド・パキスタン分離独立により、約1600mほど離れたウルドゥ語の西パキスタンとベンガル語の東パキスタンとが、イスラム教を基盤に統合独立した。東ベンガル州として独立して、1955年に東パキスタンと改称された。ベンガル語でベンガル人の国を、バングラディッシュと呼称した。東パキスタンで1970年12月に初めての普通選挙で、第1党は東パキスタンを基盤とするアワミ連盟、第2党は西パキスタンの人民党が選出された。
 軍事政権が1971年3月1日に国会の無期限停止の宣告に対して、抗議デモが連日に勃発した。各地で、東パキスタン軍隊とデモ隊とが衝突した内戦となり、多数の死者が発生した。ついに3月25日から軍隊は、独立支持勢力だけだなく無差別にベンガル人に対する虐待と虐殺を執行した。5月にはパキスタンは独立派を制圧して、 さらに東パキスタン内の反独立派(パキスタン支持派)によるベンガル人の大量虐殺が行われて、大量の難民がインドに逃避した。それを口実にインドが軍事介入して、東パキスタンの市民や学生らは解放軍を結成して内戦に陥った。12月3日にインドは東パキスタンに侵攻して、第3次インド・パキスタン戦争が勃発した。12月16日に東パキスタン政府軍が降伏して、ベンガル民族を基盤にバングラディッシュとして分離独立した。
 1975年8月15日にバングラディッシュ軍は大統領を暗殺し、連発するクーデターで政権を掌握した。軍事支配は、バングラデシュ市民を再び抑圧して、市民の言論の自由は奪われた。市民が多くの犠牲を払い、バングラディシュの解放・独立へ共に戦ったことは、次第に無視され忘却された。


https://drive.google.com/file/d/1SdFiiPVVfPDgz_PIQPeTdQ33Fti78i1s/view?usp=sharing
【閲覧留意】『第3回人間とは何か? 世界写真展 明日はあるか』Fig 46, 松屋、1975年

2019年4月9日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 210,000回

2019年4月8日月曜日

ロシア赤軍と白軍の内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。

ロシア社会労働党の多数派であるボリシェビキが1917年に武力革命により、反革命軍である白軍に対する内戦が勃発した。内戦は白軍勢力の崩壊をもって、1922年まで散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。
 「国際婦人デー」の1917年3月8日に首都ペトログラードの婦人労働者が、パン不足に抗議するデモを決行して全国的なゼネストへ発展した。更に3月12日には兵士達が反乱を起こし「三月革命」が勃発した。革命運動は各地に波及し、ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は崩壊した。
 革命後の政権は戦争継続を主張するブルジョワジーと革命勢力である「ソビエト」の二重権力体制に移行した。7月3日にボリシェビキの武装デモが、臨時政府軍隊により制圧された。帝政復活を目指すロシア軍事最高司令官が8月27日に臨時政府への反乱を起こし、ボリシェビキとソビエトが阻止した。ボリシェビキは11月クーデター決行し、共産党による恐るべき大粛清と武装蜂起により新政府「人民委員会議」を奪取した。人民委員会議は、1918年1月の憲法制定会議の初日に、武力で議会を強制閉鎖する強硬手段で、反ボリシェビキ勢力を追放した。1918年7月に社会革命党左派をソビエトから排除して、ボリシェビキによる一党独裁体制を確立した。1918年にボリシェビキを「ロシア共産党」と改称し、重要産業、銀行の国有化、臨時政府の外債の破棄などを行った。
 反発する社会革命党系勢力によるテロ行為が頻発し、旧ロシア軍の将軍たちは反革命軍(白軍)を組織して内戦が勃発した。創設された赤軍は反革命勢力に対抗するとともに、「戦時共産主義」とよばれる非常措置をとった。すべての土地、工場を国有化し商業活動を停止して労働義務性を制定して、新たに設立された秘密警察「チェーカー」による反革命分子の摘発と粛清が断行された。農民は銃による農作物の強制徴発が行われ、穀物を渡す事を拒否する者はその場で銃殺された。白軍政権の崩壊をもって、1922年に散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。
 ソビエト社会主義共和国連邦の代償による経済政策が頓挫して、急増した餓死者と粛清者の死者数は少なくとも約1400万人に上った。レーニンはさらに苛烈な政策で、反対派を粛正する為、密偵、窃盗犯、ならず者、反革命運動家などを即座に射殺した。1924年のレーニンの死後に、独裁体制を引き継いだスターリンは更に激化した。十月革命が起きた1917年から1987年までに約6,200万人が死亡し、約4,000万人は強制収容所で死亡した。レーニンは社会主義国家建設のために約400万人の命を奪い、スターリンは維持のため約4,260万人の人命を奪った。

https://drive.google.com/file/d/1mci5B-0xz3WTNzpOEqKD-pipFSpL_Kpe/view?usp=sharing

2019年4月7日日曜日

マニラの戦いは、太平洋戦争で最大規模の市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。

太平洋戦争において、アメリカ軍が1944年10月20日の上陸から1945年6月28日までフィリピンの戦いで日本軍と激烈な衝突を繰り返した。首都のマニラの戦いは、1945年2月3日から3月3日までフィリピンの首都のマニラで攻防した日本軍とアメリカ軍の市街戦が勃発した。日本軍は敗退して、約3年間に及んだ日本軍のフィリピンの占領と統治は終結した。太平洋戦争では最大規模となる市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人の市民が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。
 日本軍の主力は、持久戦のために北部ルソンに転進した。マニラに残存した日本軍は、悲惨な激戦地となったエルミタ・マテラ地区で、建物や民家などに潜伏して徹底抗戦をはかった。日本軍は背後の敵となる恐れがあるマニラ市民なども大量に虐殺した。マニラ市民は日本軍の銃剣や機銃掃射で殺害され続け、地区全てにて女子と子供らの弱者は組織的に虐待した。アメリカ米軍は、建物や民家からの狙撃の損害を抑止するために、重砲火による無差別砲撃でマニラ市街を次々と壊滅した。マニラ市民の犠牲の約6割は日本軍による殺戮、約4割はアメリカ軍の重砲火による殺害と推定された。日本軍の戦死者は約16,665人、アメリカ軍の戦死者は約1010 人と戦傷者は約5,565人であった。
 マニラ市内の随所で繰り広げた日本軍による虐待と虐殺は、無差別の非戦闘員である市民の殺害の範囲を超えたジェノサイド(大量虐殺)となった。南京虐殺事件は日本軍の占領開始からの十分な記録が残らず、論争が絶えない。マニラの戦いは、アメリカ軍と対峙してマニラの開放までに、日本軍の残虐行為を捜査して記録された。激戦となったエルミタ・マラテ地区は、アメリカ人とフィリピン人だけでなく、多数の外国人を含む富裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが密集する地区でもあった。太平洋戦争のマニラの戦の残虐行為は、東京裁判やマニラ裁判などに提出された宣誓口供書と日記・回顧録などを証拠として、日本軍史上で最も詳細に記録された蛮行として大将の死刑が執行された。



2019年4月6日土曜日

原子爆弾の熱線による重度の背中の火傷に伴う疼痛により、救護所で背中を下にできず苦悶してうつ伏せに寝込むんだ。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力などが複合して押し寄せた。男性は、熱線による悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷によるひどいびらんは、一面に表皮が破れ落ちた。火傷に伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れして、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の約0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線と熱傷は、広島で爆心地から約3.5km、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3km、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体に致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後から発したわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服から十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離や方向で火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷になると表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放し露出した。

https://drive.google.com/file/d/1-9zbST5bNNtIYo-k2zrYS2O1mBK6HW8A/view?usp=sharing


2019年4月5日金曜日

イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。

第一次世界大戦にて、1916年7月1日にボーモン・アメルの戦いが勃発した。連合国軍によりソンム攻勢に対抗して、ドイツ軍が大規模な地下要塞をボーモン・アメル他8つの村に敷設した。イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。
 イギリス軍は、ボーモン・アメルの要塞を侵略するために、地下要塞の最前線の塹壕の地下に大規模な時限付きの10個の地雷を設置した。地雷が午前7時20分にドイツ軍の塹壕で大爆発した。ボーモン・アメルの要塞で多数のドイツ軍兵士が塹壕の下で爆死した。その付近に設置されていたホーソン・リッジ要塞に対するイギリス軍の大規模な地雷は、イギリス軍の攻撃を始める予定時間よりも約10分ほど前に爆発した。イギリス軍は地上攻撃した後で大爆発して犠牲者が出た。さらに、塹壕から乗り出したイギリス軍兵士は、横一列に隊列を組んで進軍した。ドイツ軍は、爆発によってできた巨大な塹壕に潜入して、イギリス軍を狙い撃ちした。イギリス軍は、ドイツ軍の占領の境界に設置された有刺鉄線に阻まれて、わずか約40分間で多数の犠牲者を出して壊滅した。さらにイギリス軍は前線壕に撤退する前に犠牲を出し、自軍の有刺鉄線の切れ間を抜けた後退に、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。ジョン・メイスフィールドは「第一波のイギリス軍兵士が胸墻をよじのぼる。叫喚と暗闘、そして死の気配」とオールド・フロント・ラインで記録した。
  予備隊であったカナダ兵士の約778人のうち戦死傷者は約684人にも達した。戦闘初日のイギリス軍は、一日の犠牲としては史上最多のとなる戦死者約2万名を含めた約6万人の戦傷者を出した。一方のフランス軍の犠牲は初日で約7000人で、ドイツ軍は約1万人といわれも、その犠牲者数の記録は残存せず不詳となった。ソンムの戦いは、冬が到来し進撃が困難になり、約4ケ月後の1914年11月18日に戦いは終わった。しかし、結局は相互に戦線の突破はならず、10km程度の前線の東進と引き替えに、イギリス連邦は約42万(内死者行方不明10万)人、フランス軍は20万(内死者行方不明5万)人、ドイツ軍は犠牲者約47万(内死者行方不明は16万、捕虜3万)を伴ったと言われる。相互とも多くの血を流し、人命を無駄にしても戦線には大きな影響は無かった。



2019年4月4日木曜日

ナムル島の空爆と砲撃で爆死した日本軍兵士は、軍服は剥ぎ取られて荒野に吹き飛んだ。

太平洋戦争にて、マーシャル群島におけるクェゼリン島の近隣のナムル島に対する空襲による空爆と戦艦からの砲射撃は、すさまじい武力による破壊力でほとんどが壊滅した。ナムル島における地上の日本軍兵士は壊滅して爆死して、、上下の軍服から剥ぎ取られて、荒野に吹き飛ばされた。地上にあった建造物や樹林などは、強烈なる爆破力と爆風から大震災などにより破滅した。
 第一次世界大戦後に、日本はマーシャル群島など赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアを委任統治領として、国際連盟脱退後も統治していた。アメリカ軍は、太平洋戦争が勃発して以来に、初めて日本軍の統治領域に侵攻して占領した。世界最大のクェゼリン環礁の北島群のナムル島に対して、1944年1月30日から約7,000トンもの爆撃と砲弾で空爆をした。アメリカ軍は2月2日から上陸して、北島群の日本軍兵士の約2,900人は2月3日にはほとんど全滅した。クェゼリン環礁を始めマーシャル群島における日本軍兵士の約11,660のうち、戦死者数は約10,840で戦死率は約93%にも達して、生存した捕虜はわずか約774人であった。日本軍の大本営は、2月25日になって全滅した玉砕を公表して、戦死して上官の大尉が少佐に一階級の進級した。陸軍大将かつ首相であった東条英機は、日本軍兵士が玉砕して全滅しても、「物事は考ヘ様で、寧ろ敵の背後に我が基地があると考へればよい。而して機を見て両方より挟撃、反撃しなければならない。」と言明した。



2019年4月3日水曜日

パレスチナ難民キャンプでイスラエル民兵に虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。

イスラエル軍が1982年にレバノンの首都であるベイルートに侵攻した。イスラエル人民兵は、難民キャンプのパレスチナ人を無差別に大量虐殺した。難民キャンプで虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。頸の周囲が腫れ上がった少年の死体は、路上の瓦礫に放り出されて放置された。9月16日から9月18日に、サブラとシャティーラ難民キャンプのパレスチナ人らを大量虐殺した。9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りから勃発した。イスラエル軍のレバノン侵攻により、約75,000人のレバノン人とパレスチナ人が戦死傷した。
 イスラエル軍は1982年にレバノン国境を越えて侵攻して、ベイルートなどのパレスチナ解放機構(PLO)のテロ拠点を攻撃した。イスラエル軍は圧倒的な浮力でベイルートは壊滅した。PLOはレバノンからチュニジアに拠点を移してから、イスラエル軍はレバノンのベイルートを侵攻して大量虐殺が勃発した。レバノンのパレスチナ人難民を、ヨルダン川より東に追いやった。1985年から2000年までレバノン南部を侵略した。
   イスラエル軍はレバノン侵攻とベイルート包囲して、PLOがベイルートから撤退した後、親イスラエルのキリスト教右派民兵が難民キャンプ地域に入り大量虐殺をした。大規模な死者数や犠牲者数は確定されない。家族ごと死んで集団で埋葬されたり、行方不明のまま死亡が確認されなかた。国連総会で「ジェノサイド(大量虐殺)」とする決議が採択された。2001年9月11日の同時多発テロ事件後に、アメリカ軍の対テロ戦争と呼応して、2006年7月からイスラエル軍は、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府をヨルダン川西岸で包囲して、国連の撤退決議で10月に撤退した。



2019年4月2日火曜日

日露戦争に向けた雪中行軍演習に巻き込まれて、積雪の中で日本軍兵士の凍死体が、八甲山の山中に散乱した。

八甲田山雪中行軍遭難事件に巻き込まれて、積雪の中で凍死した死体が、八甲山の山中に散乱した。1904年に勃発した日露戦争に向けて、青森県内で冬季寒冷と厳寒の軍事演習で甚大な悲惨な凍死者を出した。
 1902年1月に日露戦争の軍事演習として、耐寒雪中に行軍が挙行された。青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍で遭難した。弘前連隊の兵士38人は1月20日から行軍して、約240kmを11日間で全員無事に踏破して帰還した。弘前連隊は、7人の村民に過酷な八甲田超えの道案内の酷使をさせられて、町が見えたとたんにその場に置き去りにした。村民は7人全員が凍傷を負い、うち1名は重度障害者となり16年後に死亡、うち1人は凍傷のため頬の穴で飲水困難となった。
 青森連隊は1月23日から行軍して、八甲田山の周辺で遭難した。雪中行軍兵士210人のうちで、山中で193人の凍死者を出して、救出後に6人が死亡して、11人のみが生存した生存率約5%の大惨事となった。193人の凍死者のうちで、発見されて死亡が確認できたのは135人のみで、最終的に58人の凍死体は発見できなかった。生存者のうち8人が凍傷のため四肢が切断された。体温は通常37℃前後で、約32℃まで下がると脳機能の低下により思考や活動ができなくなり、さらに体温が下がると昏睡から死に至る。将校は下士官に比べて装備が良く生還できた割合も高く、将校が脱いだフランネルの服を着れた伍長が助かった。
 青森連隊が予定日の1月24日にも帰還しないため、1月25日の捜索隊によって遭難が確認された。捜索は、厳寒のために困難をきわめて、2月7日には約3,000人もの兵士と地元民が投入された。捜索隊からも、多数の凍傷者が続出した。捜索には、厳寒の北海道のアイヌの人びとも加えた。陸軍は弁明のため歪曲した『遭難始末』を1902年7月23日に報告して、1971年9月に新田次郎が「八甲田山死の彷徨」でさらに陸軍を美談化して映画化された。




2019年4月1日月曜日

舞鶴港の引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。

ソビエト連邦や中国大陸からの引揚船が、最終引揚の前年となる1957年5月24日に舞鶴港に到着した。舞鶴地方の引揚援護局が設けたアーチの下に日本各地から多くの人びとが集まった。その引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。舞鶴港の大浦中学校の女子生徒の首から遺骨箱を白布よって引き下げた。緊張気味に両手で丁重に持ち運んだ。無念に遺骨を待ち迎える縁者は、摘んだ菊の花束を持って待ち受けた。
 次いで病人や戦傷者らが担架で緊急に護送された。待ち受ける関係者の歓声の中で、両手に荷物や子供を抱えた引揚者が降りて来た。実感をもって、しっかりと日本の本土を踏みしめた。引揚者は肉親の出迎えを受けて、再開を果たして手を握りしめて共に涙を流した。舞鶴港では、引揚船が入港するたびに家族だけでなく地元も心から歓迎して慰問した。いまだ帰れぬ我が子や夫を待つ母親の姿が、「岸壁の母・妻」と呼ばれて、人びとも歌や映画で悲嘆に暮れた。
 1945年8月15日に第2次世界大戦の終戦に伴って、海外に残留していた日本人は、兵士約350万人と民間人約310万人の約660万人以上にも達した。海外の残留者が日本に帰国する引揚げが始まった。日本政府は、中国大陸に近い舞鶴港を引揚港として指定した。1945年10月7日に約2,700人が乗船した第一引揚船「雲仙丸」が入港した。舞鶴港は1958年9月7日の約472人が乗船した最終引揚船「白山丸」の入港まで、13年間で、のべ約426隻もの約13年間の引揚事業を担った。
 日本政府は1945年9月に邦人引揚計画と引揚応急援護要綱を決定し、その施策の一部として引揚民事務所を開設させ、引揚者の援護などの事務を行わせた。9月28日に、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司の10港を引揚港と指定した。1950年からは日本国内の唯一の引揚港となった舞鶴港は、主として中国大陸やソビエト連邦からの引揚者を、約13年間で約16,269柱の遺骨と約664,531人の生存者を受け入れた。終戦直後から約60万人の日本人がソビエト連邦に送還された。約472,000人が極寒のシベリア各地や北極圏からコーカサス等に悲惨な収容所に抑留されて強制労働を強要された。


2019年3月31日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に悲しみ、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。


2019年3月30日土曜日

アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体も引きずり出した。

太平洋戦争の終局の沖縄戦で、アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体を引きずり出した。
 アメリカ軍は1945年4月1日から日本本土の侵攻の緒戦であるの沖縄戦の攻防が勃発した。アメリカ軍は、沖縄の海と空を制圧した。圧倒的な武力を持ったアメリカ軍に対して、劣悪な日本軍は、戦闘地域に散在してゲリラ戦で対抗した。そのために陸上戦に巻き込まれて、アメリカ軍からの無差別攻撃だけでなく、日本軍からも虐待から虐殺も受けた。
   沖縄住民らの防空壕となっていた亀甲墓を、アメリカ軍はゲリラ拠点として徹底的に掃討した。沖縄住民の避難場所であったが、被爆弾死、火炎放射器による焼死、手榴弾、銃殺死などで、無差別攻撃で膨大な沖縄住民が虐待と虐殺に巻き込まれた。甚大な銃弾、砲弾、火炎により、沖縄住民は、針の穴をくぐって避難した。
 亀甲墓は横穴式で、山の斜面や崖などを横から掘り出して、その入口部分に石や漆喰で塞いだ。亀甲墓の奥部分は山の斜面や崖の中に詰まっていた。特に明治時代から、沖縄戦争の中部から南部にかけて、亀甲墓は明治時代の中頃から増大していた。大きく独特に埋葬する沖縄の亀甲墓は、結局、沖縄戦で壊滅して、戦後にて亀甲墓は撤去される対象とった。亀甲墓は女性の子宮を象ったお墓に自分が回帰する信仰であった。安置している遺体の周りに石を積み上げたり、漆喰で入口を塞いで、破風墓や亀甲墓の形へと変化していた。