2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


https://drive.google.com/file/d/1qndgKoFcGvNjgNFMVB-ykToyWDt5lgYW/view?usp=sharing


2018年10月2日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 800回

2018年10月25日木曜日

カンボジアのタソー村の魔の森の処刑場で、ポルポト派により虐殺された親族の死体の人骨を土中から掘り出した。

カンボジアのタソー川に沿って、「魔の森」と呼称された森の地域があった。ポル・ポト政権は、南東部のスペイリエン省のタソー村の近隣にあった魔の森を処刑場とした。タソー村や近隣の大多数の住民は、魔の森に連行されて虐殺された。虐殺された死体は、地中に埋められた。タソー村の住民の約2,500人が連行されて、約1,800人が虐殺された。特に、1977年3月頃に、カンボジア住民らを親ベトナム派と疑われて、親類も含めてほぼ全員が摘発されて最大の大量虐殺が執行された。その頃にはカンボジア・ベトナム戦争が1975年5月から勃発して、ベトナム軍が侵攻した1978年12月25日から大規模な戦闘に転移した。魔の森の土中を掘り起こすと、多数の白骨が散乱した。人体が土中で腐って人骨となるために、表面の土砂は窪んだ。人骨だけでなく、黒い農民服であった衣服も絡んだ。カンボジアの各地には、魔の森のような処刑場が散在していた。スペイリエン省全体で、摘発され虐殺された知識人らは約5,000人以上にも達した。1976年初頭から1977年末までに住民から知識人も摘発されて虐殺された。
    大虐殺時代の当局の命令のすべてはオンカー組織からであった。オンカーとは何か、当局も誰にも知らされず、上層部からの命令系統であった。オンカーの命令は上位組織から下位の組織と一方的に伝令される。ポル・ポト派のカンプチア共産党を頂点とする極秘のオンカー組織であった。市民らには伏せられた支配者であるオンカーによる恐怖政治が君臨した。オンカーは市民らを摘発すると、市民自ら土中を掘らせて、後手に縛られて撲殺して虐殺して、土堀に落とし込んで埋めた。


https://drive.google.com/file/d/1lRxds0fKaMg_FhkJ2Uhdb3Z6PInkAhtO/view?usp=sharing


日本平和の市民連盟は2018年10月25日にBloggerの投稿数は700回に達した。


2018年10月24日水曜日

河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。

太平洋戦争において、1943年後期頃から日本軍は総員壮烈なる戦死して、厳しく膨大なアメリカ軍の戦闘に広範囲に敗北して敗退に陥った。日中戦争中の関東軍の一部は、太平洋戦争への兵力が転移された。中国大陸にも浸出したアメリカ軍の爆撃機B-29による本土と近海の空襲を阻止して東シナ海に至る陸路を確保するために、大本営は1944年1月に関東軍に大陸打通作戦を指令した。公式には一号作戦として、華北から華中、華南などに至る中国大陸を約1,500Kmを突破する本土の都合主義による指令を出した。日本軍は1944年4月17日から12月10日にかけて中国大陸を縦断した。4月から大陸を縦断する京漢作戦と5月から鉄道と空軍基地を侵略する湘桂作戦により、華北から仏領インドシナまでの長大な地域を侵攻した。桂林、柳州、遂川などの航空基地を占領した。B-29はすでにマリアナ諸島の航空基地から日本本土に対する空襲が勃発していた。中国大陸打通作戦の戦果はすでに失われて、補給が困難となり日本軍に大量の戦死傷者と病死者が生じた。
 京漢作戦では北京周辺から漢口まで貫通して、食糧と資材を略奪して補給するために、膨大な地域住民が犠牲になった。河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。大陸打通作戦では、戦闘は常に村や街であり、多くの住民が戦火に巻き込まれて、虐待と虐殺の犠牲者となった。


https://drive.google.com/file/d/1ZtK4lykpisgn8eZOlHkTjBprhQL0Y0Nw/view?usp=sharing

2018年10月23日火曜日

太平洋戦争にてタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発して、最後の日本軍の突撃により玉砕した死体が散乱した。

 陸軍大臣であった東条英機によって、1941年1月8日に『戦陣訓』が日本軍に対して、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と告知された。太平洋戦争において、日本軍は1943年5月12日から5月29日までアメリカ軍とアッツ島の戦闘が勃発して、日本軍兵士は全滅した。大本営は、救援が不可能となり、追い詰められた日本軍に対して5月23日に玉砕を命じた。「最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電された。最後の5月29日に「共に生きて捕虜の辱しめを受けざる様覚悟せしめたり」と電報して、夜間にアメリカ軍に壊滅的な突撃をした。
 大本営は初めて玉砕による敗北を初めて公表した。5月31日の朝刊には、「アッツ島に皇軍の神髄発揮。部隊長ら全将の壮絶・夜襲を刊行玉砕。敵2万・損害6千を降らず。」と日本国民に通知した。初めて玉と砕けて散る美化されたアッツ島の『玉砕』を通知されて、寂寥感ではなく哀愁から玉砕の魅力に酔いしれた。
 それ以後の太平洋戦争において引き続いて沖縄戦から終戦に至るまで、日本軍は玉砕してアメリカ軍に敗北して敗退し続けた。しかし、大本営はアッツ島は玉砕と公表したが、それ以後の太平洋戦争では『総員壮烈なる戦死』と発表した。さらにサイパン島や沖縄では、民間市民も巻き込んで玉砕の戦闘をした。
   太平洋戦争中の 1943年11月にギルバート諸島のタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発した。11月 20日にタラワ環礁に約5,000人のアメリカ軍が上陸した。約 4700人の日本軍が、水ぎわで激しい抵抗して戦闘は4日間続いた。 11月25日に日本軍は最後の突撃により玉砕した。11日24日からアメリカ軍は残存した日本兵を掃討した。

タラワ環礁で恐怖と悲惨な最後の日本軍の突撃による玉砕した死体が散乱した。


2018年10月22日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの道端で散乱した餓死や病死のユダヤ人の死体を運搬と処理した。

ワルシャワ・ゲットーの道端には餓死や病死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れ出して路上で意識を失い倒れて餓死した。 ナチス・ドイツは、ユダヤ人の隔離政策であったゲットーの破綻が、ユダヤ人の絶滅政策であるホロコーストに移行する要因が示唆された。ポーランド侵攻により、1939年9月11日にユダヤ人を隔離と移送するために都市部のゲットーに送還した。1939年11月4日にゲットーを形成のめに、ワルシャワのユダヤ人を3日以内に、特定のユダヤ人居住地区に収監させた。11月15日にワルシャワのユダヤ人居住地区から腸チフスなどの伝染病が大流行した。1940年3月27日から汚染地区の周辺に壁を設置させた。さらに発疹チフスの流行から、10月2日にワルシャワの約50万人のユダヤ人を隔離するためにゲットーの設置が公式に命令された。ゲットー地域に居住していたポーランド人の約11万3,000人を移住させて、代わりに約13万3,000人のユダヤ人が収監された。ゲットーは極端に狭く密集した不衛生であった。
 ドイツは必要に応じてユダヤ人を街頭で拉致して強制労働させた。やがてゲットー内部支配のユダヤ人評議会が代行して調達した。収容の過程で財産を没収された貧困のユダヤ人ばかりを選別して苛酷な強制労働を強制した。粗末な食事で夜明けから夕暮れまで労働を強要された。食料の供給が限界になるにつれて、労働力の生産性が低下して、食料価格が高騰した。労働不可能なユダヤ人は厄介者になり、さらに食事が切り詰められた。ゲットーでは、道端に餓死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れて路上で意識を失い倒れて餓死した。
 1941年7月16日に保安諜報部の親衛隊が、ドイツ本国の国家公安本部ユダヤ人課長に「冬季にはユダヤ人全員には食料は供給できなくなる。労働不可能なユダヤ人は、ユダヤ人が餓死するよりも気持ち良い即効性のある方法で始末する必要がある。」と報告した。やがて1941年8月にロシア戦線からユダヤ人絶滅政策であるホロコーストが執行された。労働不可能なユダヤ人が絶滅の対象となり、特に病人、虚弱者、女子供であった。


https://drive.google.com/file/d/1j0735wBTi33puQctfR7ahmY4lN6-UUVP/view?usp=sharing

2018年10月21日日曜日

ミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する市民集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。

2007年10月6日にミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する大衆集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。 
 ビルマの歴史で、多くの反抗的な反乱があった。自由のための紛争は60年以上続いた。王たちは下層のビルマ市民から税金の徴収や奴隷を集めるために軍隊を送り出した。19世紀のアングロ・ビルマ戦争は、侵攻したイギリス軍と占領に反抗し初めてビルマの自由の戦いとなった。
 1930年には、バーマン協会の知識人と学生がラングーンに集まった。国家の英雄となる若いアウン・サンがいた。1938年〜39年に全国的に激しい抗議が行われ、警察が残酷に抑圧した。アウン・サンは植民地のビルマを解放するために日本軍の支持を求めた。30人の同志は日本軍に訓練され、後にビルマ独立軍(BIA)を設立した。日本軍と一緒にBIAは1942年3月にラングーンを占領してイギリスの植民地支配を終結させた。独立に無関心の日本軍は、引き続きビルマを抑圧した。1944年にビルマがイギリス軍の助けで、日本軍から解放された後でも、ビルマは、非常に不安な基盤に立った。ビルマ以外の民族も1944年 2月12日全ての民族がパングロン協定に署名し、ビルマ以外の民族は平等な権利と実質的な自治となった。1948年カレンニ民族進歩党(KNPP)を通じてカレンニ革命を引き起こした。1949年にパオとモンも独自の革命を開始した。
 1962年にネー将軍が、政治的不安定により軍事クーデターを勝ち取った。ラングーン大学の学生たちは、民主主義の回復を要求し、軍隊がキャンパスを取り囲み、生徒に火を放ち流血された。兵士たちは連合ビルを爆破した。1963年に軍事政権は民族革命家に停戦を拒否したシャン族、カレン族、カチン族、カレン族およびモン族の他の集団は、軍事政権に反抗した。ビルマ軍は残忍に反抗者に野蛮な報復をした。 1960年代半ばに軍事政権はフォー・カットス政策を導入し抵抗を一気に押しつぶした。
   政府軍の悪質な抑圧の下で、民族国境地域は虐待され、学生と反対派は血まみれのデモを続けた。1974年に学生と修道士は再び怒りを表現するデモをした。数十人が死亡して、刑務所に留置され国境地域に逃げた。国民民主戦線(NDF)が設立され、民族族集団が同盟を結成し、ビルマ全域で共同戦線を構築した。1988年には数千人のデモ参加者が殺害された。軍事政権の経済不全に対する大規模なデモで全国が揺れ動いた。国防長官の軍事クーデターの反抗者は膨大に逮捕され、多くの学生らは国境地域に逃げた。ビルマ軍は、農村地域は支援や避難場所を与えたとして引き締め続けた。多くの野党が集まり、1990年にはビルマ民主連合(DAB)とビルマ連合(NCGUB)の連合政権を、EUは実質的に認可した。(軍事政権は1989年に、英語名称のビルマ(Burma)から、ビルマ語のミャンマー(Myanmar)に国名を変更した)
 1995年にビルマ軍に侵略されて、反抗者は海外に逃げて、国境を越えて自由の闘いを続けた。革命勢力は国境を越えて全域に広がって、ビルマ軍に対抗するゲリラ戦をした。政府は、植民地時代の手法で、民族を分裂させ、経済的譲歩、麻薬の栽培で。停戦協定に誘い出した。ビルマに頻繁に自発的なデモが起こり、多くの流血で粉砕された。刑務所で何年も投獄された元学生たちは、引き続き抵抗運動に参加した。 ビルマで2007年の9月と10月のサフラン革命は20年間の最大の抗議運動であった。多くの人が命を奪われ、刑務所に投獄された。 ビルマの自由に対する闘いには、武装抵抗運動はビルマ軍を攻撃し、国境地域を防衛するためにゲリラ戦、多くの政治活動家が国境を越えて遠く離れた土地に逃げた。国際レベルでは、政権に経済制裁を課し、国連安全保障理事会に世界的な措置を強いた。



  • (1)1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。(2)1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間、3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。(3)2003年8月、キン・ニュン首相(当時)が民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表。(4)2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表し、新首都をネーピードーと命名。(5)2007年9月、全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。(6)2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生。(7)2008年5月10日、新憲法草案採択のための国民投票を実施(一部地域は24日に実施)。92.4%の賛成票で(投票率99%)で新憲法承認。(8)2010年11月7日、総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が大勝。スー・チー氏率いるNLDは総選挙をボイコット。(9)2011年1月31日、総選挙の結果に基づく国会が召集。(10)2011年3月30日、テイン・セイン大統領率いる政権が発足し(同時に国名も変更)、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進。(11)2011年6月、国軍とカチン独立軍(KIO)との戦闘が再発。以後、ミャンマー北東部にて複数の武装組織との衝突が断続的に継続。(12)2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが45議席中43議席を獲得。(13)2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が発生。(14)2015年10月15日、ミャンマー政府は、カレン民族同盟(KNU)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)に署名。(15)2015年11月8日、総選挙開催。アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝。(16)2016年3月30日、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行。
  • (ミャンマー連邦共和国の内政の現代史、外務省)

2018年10月20日土曜日

イラクにてバース党が軍事クーデターで政権を奪還して、バクダットのユダヤ人を、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。

イラクにてバース党が1969年2月の軍事クーデターで政権を奪還してから、まもなくバクダットのユダヤ人に対して、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。
 バースとはアラビア語で復興と再生を示唆する。アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則とするアラブ民族主義政党が1947年にシリアのダマスカスで結成された。1952年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・バース社会主義党となった。アラブ民族主義は、郷土や祖国を植民地から独立を目指すワタン主義の限界から、第2次世界大戦後にはアラブの統一を掲げるカウム主義に転換した。1947年国連パレスチナ分割決議と1948年イスラエル建国が大きく影響した。カウム主義には、バース党によるバース主義、エジプトのナセル主義、共産主義のアラブ民族運動があった。
 バース党はアラブ世界で広範な支持を受けて、アラブ統一に至る戦略となった。アラブ民族による統一国家というカウム主義では、アラブ民族の統一国家は巨大となる。バース主義はアラブ諸国にバース党を結成して、各国のバース党政権が合体してアラブ統一国家を形成する現実主義となった。
 1950年代後半からアラブ統一を掲げるも、権力の奪取や維持を優先した。シリアは、1963年の軍事クーデターにより初のバース党政権が誕生した。アラブ統一よりも社会主義が優先された。1970年にアサド国防相は2度目の軍事クーデターにより大統領に就任した(2000年に息子のバッシャール・アサドが就任した。2011年3月中旬以降に反政府デモが発生し、反政府勢力に過激派武装勢力なども参戦し、暴力的衝突から内戦に発展した。国連の推定では、2016年6月全土で約25万人の死者、約650万人の国内避難民が発生し、周辺諸国に約480万人の難民が流出した)。
 イラクでは1951年に地域指導部が成立し、1963年軍事クーデターで政権に参加したが、短期間で排除された。1966年にバクル書記長と1967年にサッダ―ム・フセイン副書記長でバース党勢力が拡大した。1968年軍事クーデターで、バクルが大統領に就任した。1969年に副大統領であったフセインがバクルを排除して大統領となった。フセインはイラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部(RC)と革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
 現在では、シリア以外のバース党の政治勢力は極めて小さい。ヨルダンは、ヨルダン民族民主戦線という政党になっている。レバノンは、シリア系とイラク系に分裂状態である。イエメンでもイラク系のバース民族党が分離した。チュニジアでは非合法となった。

https://drive.google.com/file/d/1ZxI6ws_SF080go21MLEC9-PQ97_ngcbn/view?usp=sharing



2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回

2018年10月18日木曜日

ベトナム・カンボジア戦争で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。

ベトナム戦争後に勃発したベトナム・カンボジア戦争からのカンボジア内戦で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が東シナ海の国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。
 1965年から始まったベトナム戦争中に、カンボジアのシアヌーク殿下は、国内のベトナム解放戦線の活動を黙認した。1970年にシアヌークが外遊後にに、カンボジア軍のロン・ノル将軍がクーデターを起こした。アメリカの全面的支援を受けて、国内の北ベトナム軍を掃討した。シアヌークは中国を経てカンボジアに戻って、共産主義勢力のクメール・ルージュによる内戦を勃発した。クメール・ルージュは中国から武器援助を受けて、親アメリカのロン・ノル政権との内戦に侵攻した。カンボジアは内戦で混迷して、約50万人のカンボジア人が死亡した。
 アメリカがベトナム戦争から敗退すると、1975年にプノンペンが陥落してロン・ノル政権は終焉した。共産主義勢力のクメール・ルージュによりポル・ポト政権が樹立し、国名を1976年に現 語由来の民主カンプチアとした。生産手段を共有し、生産物を社会全体で平等に分け与える自給自足の原始共産制を強行した。国外追放されたヘン・サムリン将軍は隣国ベトナムにより政権の樹立を目指した。ポル・ポト政権のカンボジアは親中国で、隣国ベトナムは親ソ連であった。1978年にベトナム戦争でアメリカを敗退させた屈強なベトナム軍は、ヘン=サムリンのカンプチア救国民族解放戦線を支援する名目で、カンボジアに侵攻して、ベトナム・カンボジア戦争が勃発した。ベトナム軍は、山中から銃痕がある頭蓋骨が膨大に発掘した。ベトナム軍は、ポル・ポト政権による約100万人に及ぶ大量虐殺事件を公表した。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権が1979年1月に樹立され、中国・タイに支援されたポル・ポトはゲリラで内戦した。2月には中国が報復する中越戦争が勃発するも3月には中国は撤退した。
 1867年7月にベトナム新政権が刷新するドイモイ政策から国際協調に転換した。1989年に約5万人もの死者を出してベトナム軍がカンボジアから撤退した。1990年に国名が英語由来のカンボジアに改称された。1991年にはパリで和平協定が結ばれ、カンボジアを統治権限は国連に移行した。国連カンボジア暫定統治機構が明石康が主導して1993年には総選挙が実施された。



2018年10月17日水曜日

ロシア内戦で、骨が浮き上がりやせ細り疲弊して、農民家族が餓死を直前に虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。

骨が浮き上がるほど全身がやせ細って疲弊して、餓死を直前にして、農民家族が虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。膨大な農民がレーニン新政権の割当て徴収制度に反発して、農作業を放棄して穀物料が極端に落ち込み、飢饉と餓死に陥った。
 第1次世界大戦が1914年7月に勃発して、兵士と市民の死亡は約365万人にも達した。ロシア革命により、1917年2月に約300年にわたるロマノフ王朝は崩壊した。10月からレーニンの新政権が樹立された。1918年5月から内戦による対ソ連干渉戦争で、14ケ国が約13万人をロシアに派兵するも、1920年秋に終結した。特にロシア南東部の穀倉地帯が戦闘に巻き込まれた。新政権と干渉国の双方が、膨大な農民から強制的に食糧を徴収した。さらに穀倉地帯では、降雨量の減少と気温上昇の天候不順が拍車をかけて、食糧価格が急騰した。ロシアで1921年から1922年に甚大な飢饉が発生した。1921年にソ連の総生産は戦争前より約7分の1まで落ち込んで国家経済は統制されて民間経済が禁止され疲弊して落ち込んだ。レーニン新政権は1921年3月に民間規制して国家経済を独占して、農業には現物税制にする新経済政策(ネップ)を導入して、食糧の価格が高騰して偏在した。長期間の戦争により、穀物と家畜が極端に減少した。広大な地域における飢餓に陥った市民は、ソ連人口の約4分の1に相当する約3,500万人にも達した。収穫不良から飢餓に陥って、栄養摂取量が低下して、体力を奪われ流行した伝染病で死亡した。


2018年10月16日火曜日

太平洋戦争にて、日本軍がニューギニア東部のブナを拠点に対して、連合軍兵士が塹壕に潜伏した日本軍の全兵士を射殺した。

太平洋戦争において、アメリカ軍とオーストラリア軍らの連合軍は1942年11月からニューギニア東部にある日本軍の拠点であるブナに侵攻した。ブナを拠点とした日本軍は1943年1月2日に全滅して全兵士が戦死した。しかし、大本営は全滅して全戦死を極秘にした。連合軍兵士が、ブナの塹壕に潜む日本軍の全て兵士を射殺した。
 ブナを拠点とするため1942年7月21日に日本軍が上陸した。11月中旬から連合軍が、ブナ・ゴナ地区へ侵攻した。ブナ方面の日本軍は疲弊して孤立していた。連合軍の侵略により12月8日にバザブアに配備された日本軍の兵員は全滅した。1943年1月2日にはブナの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。ギルワの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。の一連の陸上戦により、日本軍兵士の約11,000人のうち約7,600名が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、バザブア、ギルワにて、連合軍の日本軍兵士の捕虜は約200人程度のみ生存した。ブナの最後拠点であるギルワは、連合軍が1月21日に侵攻して、極度に衰弱した日本軍兵士が全戦死して、ブナ地区の戦闘は終結した。1943年2月9日、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と誤報した。
 1943年春頃から日本軍兵士は連合軍に追い詰められ、内地からの補給も途絶え、南部のバボに撤退を命令された。ニューギニアの地図上で斜線を引っ張っただけで、絶望的な約2ケ月にわたるニューギニアの死の行進が強行された。道なきジャングルに置き去られ、徘徊して、飢餓と伝染病に侵されて膨大に戦死した。


2018年10月15日月曜日

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
 大都市の成長の陰では多くの市民の犠牲を伴った。大火災が1911年3月25日に、婦人用古着再生工場であるトライアングル・シャツウェスト工場で発生した。アメリカでは多くの工場で労働運動の対立と和解があった。トライアングル社は最後まで決着がつかなかった。トライアングル社は8から9階のビルが工場であり、8階から火災が発生して、多くの女工が死亡した。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になった。火災により500人のうち縫製工146人(女性123人、男性23人)が、火災や煙の吸引による窒息、さらに転落から飛び降りにより死亡した。犠牲者の大半は16歳から23歳までのユダヤ人やイタリア人の移民女性であった。46~60人以上がの人が火災からの逃げ場を失って、窓枠から飛び降りて死亡した。窓から落下して、街頭に叩き付けられて即死した。多くの死体は道路に積み上げられていた。
 1929年にニューヨークの州知事となったフランクリン・ルーズベルトは、工場調査委員会により州内の労働問題を一掃させた。ルーズベルトは、大恐慌を克服し、経済の蘇生から労働者の待遇を改善するニューディール政策を公約して、1933年に大統領に選出された。日本軍による1941年12月8日の真珠湾攻撃に対して、ルーズヴェルトは正義の戦いを市民に訴え、日本と同盟国に宣戦布告した。
 2001年3月11日のニューヨークの同時多発テロにより、突入した航空機の燃料で火災が発生し、高熱で強度の低下した鉄骨に、荷重が下層に座屈の連鎖を起し、短時間で2つのタワーは崩壊した。約2749人も死亡する大惨事となり、世界貿易センターは崩壊した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタン・イラクに宣戦布告した。





2018年10月14日日曜日

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。
 グラーグは、スターリン時代に生まれた恐怖の収容所である。ソ連内で市民同士の密告システム、秘密警察が拿捕する。何ら証拠もなく市民は手当たり次第に逮捕される。一度囚えると裁判なども省略して、シベリアの強制収容所に送られる。極寒の中で餓死状態で悲惨な重労働を何十年も強制され、生還はほとんど皆無である。
 強制収容所は、敵対者や反体制勢力を隔離する施設であった。シベリアの開発のために労働力の確保も必要な収容所でもあった。ソ連邦の社会主義は、初期には強制収容所が基盤となった。ゴルバチョフは、収容所システムに迫害された勢力の出身であった。ペレストロイカとともに、強制収容所は実質的に閉鎖された。ソ連邦崩壊に伴って、存在すら化石になっている。生き証人もなくなると、強制収容所の全貌を明らかにできない。
 アブグレイブやグアンタナモの捕虜収容所等では捕虜虐待が起きている。強制収容所の教訓が生かされていない。戦争捕虜の処遇の問題であり、ソ連の強制収容所は、完全に社会体制の一部として機能していた。グラーグの問題は、囚人の待遇以前の問題である。
 反対勢力は、強制収容所を否定し隠蔽してきた。社会主義はすばらしい、決めつけでっちあげ裁判ですら肯定し、強制収容所はデマだウソだと言い続けた。否定できなくなったときには適当に言葉を濁してごます。ソルジェニーツィン『収容所群島』も世界にソ連強制収容所の実態を初めて、西側世界に衝撃をもたらした。




2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月12日金曜日

日本軍の襲撃で虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は夫の右手を握り、子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。

日本軍による襲撃により虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は左手で夫の右手を握り、妻の右手で子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。
 満州の奉天郊外で柳条湖にて1931年9月18日の南満州鉄道の爆破を、国国民軍の犯行であると提訴し、鉄道防衛から軍事衝突を繰り返して満州事変に拡大した。日中間の緊張がにわかに高まり、上海にて日本軍は中国人の抗日運動を1932年1月28日から3月3日にかけて弾圧した。上海市の共同租界周辺で衝突して市街戦となり、第一次上海事変が勃発した。上海にて1月18日に日本人僧侶ら約5名が襲撃されて、中国人の容疑とした。1月27日に日本総領事の抗議で、上海市当局は陳謝と処罰を受諾しながら、戒厳令を強要した。各国租界の警備隊が警備につく中、1月28日に日本海軍は日本政府の許可を受けずに海軍陸戦隊による戦闘が勃発した。終戦後の東京裁判では、関東軍が満州事変に対する国際連盟などの非難を逸らすため、買収された中国人の無頼漢に日本人僧侶を襲撃させたと証言した。上海の共同租界には列強の権益が集中して、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアは日本に対して、上海事変の停止の協議を求めた。その会議日程中の4月29日に、上海派遣軍司令官が、爆弾テロリストによって虐殺された。中国人の犠牲者は、死者が約12,354人、戦傷者が約12,070、行方不明者は約10,400人にも達したと中国政府が報告した。そのうち民間市民の犠牲者は、約6,000人の死者と行方不明は約10,000人と推定された。それに比較して、日本軍の犠牲者はわずかで、死者は約769人、戦傷者は約2,322人と指摘された。イギリスの妥協案による調印が5月5日に成立して、 日本政府は上海からの撤兵を決定して、5月中旬に陸兵のすべてを上海から撤退することを閣議決定した。