2018年9月3日月曜日

日中戦争にて、日本軍が遼寧鉄嶺の竜尾山で、中国人の児童や子供たちを大量虐殺して焼却した。

日中戦争において、日本軍が遼寧鉄嶺の竜尾山で、中国人の児童や子供たちを大量虐殺した。その後に死体の周辺に、炊き木を積み上げて焼却した。
 日中戦争において、日本軍が華北の解放区を根絶しようとして行った三光作戦を展開した。三光作戦は、無差別に中国人を殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光)作戦となった。日本軍には、三光作戦という名称はない。日本軍では「燼滅掃討作戦」「粛清作戦」「治安作戦」と呼称した。三光作戦のあまりの凄まじさのため、中国軍側が(殺光)、(焼光)、(搶光)から三光作戦と呼称した。1940年8月から12月にかけて、全華北で展開された八路軍の百団大戦による大奇襲攻撃によって、日本軍は大きな犠牲を受けていた。日本軍は1940年に、徹底的に敵根拠地を燼滅掃討し敵をして将来生存する能はざるに至らしむ三光作戦を、1941年1月から1943年まで本格化した。しかし、市民と抗日戦線との区別は不可能であり、八路軍を絶滅することはきわめて困難であった。そのためにゲリラ、一般人、子ども、女性等生きている者は全て無差別に殺害して、食料は奪い尽くし、村を焼き払った。完全に抗日勢力を根絶して、市民と八路軍との結託を絶つために三光作戦が実施された。華北の中国市民に大量虐待と大量虐殺を与えた。







2018年9月2日日曜日

北アイルランド紛争で、カトリック教会の神父が、西ベルファストで虐殺されたイギリス軍兵士2人に葬儀を捧げた。

北アイルランド紛争により、白髪のカトリック教会の神父は、1988年3月19日に西ベルファストで脱着され虐殺されたイギリス軍兵士2人のうちの1人に最後の葬儀を捧げた。1988年3月6日にイベリア半島にある英領ジブラルタルで、アイルランド共和軍(IRA)の3人が、特殊空挺部隊(SAS)により射殺された。彼らの遺体が北アイルランドに帰り、3月16日に西ベルファストで行なわれた葬儀には一万人以上の市民が参列した。埋葬場所となるミルタウン墓地に葬列である「IRAの葬儀」に、非番で私服姿の英軍人伍長2人の車はが急発進した。不審な行動をとる車に、人々は車を取り囲み、2人を車から引きずり出して、殴る蹴るの暴行をした。虐待を受けた伍長2人は、服を脱がされ、通行証でイギリス本国軍人と判明した。IRAの3人を射殺したSASの容疑者となった2人は、近くのゴミ捨て場の空き地の脇の駐車場に、車で連れ去られ情け容赦なく、何発も撃たれ何度も刺されて路地に放置された。
  IRAと社会民主労働党(SDLP)の会合で、1994年のIRAと王党派の停戦から、1998年の包括和平合意(GFA)となった。カトリック教会の方針は、1920年代の内戦以前から反(IRA)であった。暴力の最も激しい地域だった西ベルファストのカトリック神父の「平和」とは「人を死なせてはならない」ことであった。北アイルランドの神父は平和の市民として2013年11月22日にダブリンの病院で死去した。




2018年9月1日土曜日

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などを連行して、機銃掃射により殺害した。

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などをトラックに搭載して連行して、機銃掃射により殺害した。
 大東亜戦争にて1942年2月7日から15日のシンガポールの戦いで、イギリス軍は2月15日午後7時50分に日本軍に降伏して、日本軍はシンガポールを占領した。2月21日に、日本軍は、マレー半島からシンガポール各地で、「抗日分子」や旧政府関係者を掃討して粛清した。日中戦争が拡大すると、特にシンガポールの華僑を中心して抗日運動が拡大した。日本軍はシンガポールの占領後に、郊外の戦闘部隊は2月16日からシンガポールの治安維持やイギリス軍の武装解除で突入した。軍司令部は、日本軍の主力部隊を速やかに、シンガポールの治安を乱す華僑の「抗日分子」を2月21日から23日まで3日間以内での掃討を命令した。中国人の住民を集めて抗日分子を選別、アジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑した。2月19日に日本軍の司令部は、「シンガポール在住の18から50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」と通告した。憲兵隊は、シンガポールの中国系住民の半分を粛清する命令に従った。憲兵隊は2月21日から23日にかけて、集合場所に集った華僑を尋問しても選別できず、無差別にシンガポール華僑などをトラックに搭載して連行し、機銃掃射により殺害した。粛清する対象者と人数を適当に無差別に選び出して処刑した。23日までに処刑された人数は約5,000人以上に達した。さらに2月28日に近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、第2次粛清として、約300人以上を虐殺した。その後に第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、約300人が殺害された。シンガポール人の虐殺は継続中となり、約25,000人にも達したと想定された。その他の民族であるシーク兵も虐殺された。日本軍が処刑した華僑粛清は、暴虐非道のまさに言語に絶する大量虐殺であった。





2018年8月31日金曜日

アブレイブ刑務所にて、男女のアメリカ軍兵士が、イラク人捕虜に対して拷問と虐待を加えて記念撮影をした。

アブレイブ刑務所にて、男女のアメリカ軍兵士が2003年11月8日に、イラク人捕虜に対して拷問と虐待を加えて記念撮影をした。
 アブグレイブ刑務所の捕虜虐待は2004年に発覚した。イラク戦争に対する非人道的な悲惨な虐待事件であった。アメリカ国防省は、17人の軍人及び職員を解任した。2004年5月から2005年9月に、7人の軍人が軍法会議で有罪で禁固刑と除隊となった。イラク戦争でサッダーム・フセインの政権が崩壊した後、アブグレイブ刑務所で、2003年10月から12月に捕虜に対する虐待と拷問が行われた。事件は2004年1月に内部告発されて、やっと陸軍が内部調査をした。アラブ連盟は戦争犯罪と非難したが、ブッシュ大統領は謝罪しなかった。アントニオ・M・タグバ少将は、5月11日に米議会の上院軍事委員会で、軍の情報部門の関与を公表した。少将は2007年1月1日に退役を余儀なくされた。写真には、犬をけしかけられている様子や、頭に袋をかぶされて自慰行為を強制されている様子、同性間で性行為を強制されている様子などが撮影された。非公開の写真を開示すべきとアメリカ自由人権協会が訴えた。ラムズフェルドはアブグレイブでの虐待行為は「例外」と主張した。アメリカ政府は、2004年5月20日にアブグレイブ刑務所を取壊を可決した。性的虐待を受けた多くの女性収容者は釈放後に自殺したり家族に殺された。2005年4月2日夕方に「イラク聖戦アルカイダ組織」の武装グループ約40人が刑務所を攻撃し、少なくとも米兵44人と収容者13人が負傷した。2006年9月2日イラク政府はアブグレイブ刑務所が駐留米軍からイラク側に移管されたと発表した。3年の禁固刑のリンディ・イングランド上等兵は、元女性看守で、捕虜虐待や写真撮影は、米連邦捜査局(FBI)と米中央情報局(CIA)が奨励していたと告発した。水攻めさせる「アイスマン」の裸を積み上でほほ笑む女性兵士はサブリナ・ハルマンであった。



2018年8月30日木曜日

アルジェリア戦争でブージー湾付近で約20人のアラブ人がフランス軍により惨殺された。

アルジェリア戦争でブージー湾近くの村であるスーク・エル・ドニヌのはずれで、1959年8月16日にアルジェリアの反乱勢力はフランス側に協力した現地の20人のイスラム系住民を殺害して惨殺された死体が放置された。
 アルジェリア戦争は、1954年から1962年にフランスの支配に抵抗するアルジェリアの独立戦争であった。1830年以降からフランスはアルジェリアを植民地下して、1848年に本国の一部とした。1881年に東隣のチュニジアをオスマン帝国から割譲され、1912年には西隣のモロッコも保護領で支配した。特にアルジェリアは北アフリカの支配の重要な拠点となった。第2次大戦の終結後にアジア民族自決と国家独立の影響を受けて、北アフリカでも独立と抵抗運動が高まった。フランスは1952年1月にチュニジアの民族運動を抑圧した。1954年にジュネーヴ協定によりインドシナ4カ国がフランスから正式に独立した。それに応じてアルジェリア解放戦線と国民解放軍団が発足しました。1956年には両隣のチュニジアとモロッコが独立した。フランス政府のアルジェリア独立運動への弾圧はさらに厳しくなった。1956年からフランス国防省による軍事平定作戦は、1960年代半ばまで最も激しく、アルジェリア民族解放戦線は壊滅状態に追い込まれた。フランス国内の政治情勢も深刻となり、1958年5月13日に第4共和制政権は分裂して崩壊して、9月にシャルル・ド・ゴールが首相に再就任し、新憲法を承認させて、10月から第5共和制政権が発足して、1959年に大統領に就任した。首相よりアルジェリアの民族自決の支持をしたド・ゴールはアルジェリア統治からフランス軍事政権を排除した。フランスは1960年にアフリカの植民地の独立を次々と承認して「アフリカの年」と呼ばれた。サハラ砂漠で核爆発実験の成功させてから、1962年3月18日にアルジェリア独立のエビアン協定を締結して、アルジェリア戦争は終結した。



2018年8月29日水曜日

妻はイラク戦争で戦死した夫の遺体と共に一夜を過ごし、イラク戦争を恨み泣きながらベッドに倒れ込んだ。

イラク戦争によって、少尉であった夫が2004年に戦死した。夫の遺体を入れた長方形の棺が、民間飛行機によってリノ・タホ国際空港に届けられた。乗客は乗ったまま、夫の棺のみが飛行場に降ろされた。アメリカ軍の少佐が、コロラド州に妻の自宅に伺って、妻に夫の戦死を告げた。妻は嘆き叫び泣き崩れた。妻は、少佐が夫が名誉の戦死である事を語ることを拒否した。夫の遺体が入った棺がアメリカ軍の遺体安置所に運び込まれた。最後の見納めのために、家族らの目の前で国旗を棺に覆った。妊婦であった妻は、国旗の上からお腹を触れさせて、夫の遺体の入った棺に泣きながらうつ伏せた。夫の棺が埋葬される前夜には、妻は夫の遺体安置所から離れることを拒否した。妻は最後の一夜を夫の遺体と共に安置所で過ごすことを求めた。妻は簡易ベットに倒れるように寝転んだ。妻は正式には挙げれなかった結婚式の時に、使用した曲を夫の棺がある遺体安置所に流した。妻は戦死した夫の遺体と共に一夜を過ごしながら、イラク戦争を恨み泣きながら、妻は気力も涙も失せてベッドに倒れ込んだ。




2018年8月28日火曜日

ベルギーのマルメディで、ナチス・ドイツ軍親衛隊が捕虜であった72人のアメリカ軍兵士を虐殺した。

マルメディ虐殺は、第二次世界大戦中、ベルギーのマルメディ近郊のバウゲネッツ交差点で、ドイツ軍親衛隊が1944年12月17日に、捕虜であった72人のアメリカ軍兵士を虐殺した。連合軍の反撃により、1945年1月14日にアメリカ軍はバウゲネッツ交差点の虐殺の現場に到達した。1945年1月14日から15日に積雪の牧草地で72人のアメリカ軍兵士の死体が発見された。アメリカ軍兵士は凍った雪で覆われた死体を撮影して、身分証明書や詳細な死体検査のために現場から搬送した。明らかな戦争犯罪の責任者を起訴するために使用できる証拠を文書化した。1945年2月7日と4月15日の間に、牧草地から遠方にさらに12人が発見され、総計で84人にも達した。正午から午後1時の間に、ドイツ軍はマルメディyの南東2マイルにあるバウゲネッツ交差点に近づいた。アメリカ軍の約30台の車両の最初と最後の車両を戦車で停止させた。 武装したアメリカ人はドイツ戦車に降伏した。 突然にドイツ軍親衛隊兵士が約120人のアメリカ軍兵士に対して銃を発射した。捕虜となったアメリカ軍兵士はパニックに陥って、逃げようとしたが、ほとんどの人は立ち上がったところで射殺された。地面に落ちて死んだふりをした兵士も、ドイツ軍親衛隊は死体の上を歩きながら、生きている者も射殺した。終戦後のベルギー軍事裁判で、マルメディ虐殺の容疑者であるドイツ軍親衛隊のヨアヒム・パイパー大佐と10人の隊員は、10年以上の懲役刑の判決され、1950代には釈放された。ヨアヒム・パイパー元大佐は、1976年7月13日にフランス東部のトラベス村で暗殺されていた。 



2018年8月27日月曜日

北朝鮮特殊部隊の1人の捕虜が、射殺された28人と巻き添え市民68人の死体を検証した。

北朝鮮の特殊部隊である31人が、韓国に侵入して1968年1月21日の1.21事態が勃発した。青瓦台襲撃と政府要人の暗殺指令を受けて、韓国軍の服装や手榴弾とサブマシンガンで武装して休戦ラインを越えた。夜間を利用して首都圏まで侵入したテロリズム事件となった。韓国軍は非常警戒態勢を確立して、28人を射殺して1人を捕らえた。1人の捕虜である金新朝が、一緒に侵入して射殺された仲間や民間の市民の遺体を確認した。
 青瓦台襲撃未遂事件(1.21 事態)は、1968年1月21に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の特殊部隊により大韓民国大統領府「青瓦台」への襲撃未遂事件が勃発した。青瓦台を襲撃して朴正煕大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮特殊部隊の約31人は、韓国軍制服に変装して休戦ラインを突破して韓国領に侵入した。1月21日にソウル市内に入ると、日本製背広に着替え、青瓦台の約800m手前の北漢山まで侵入した。韓国人市民の通報によるゲリラ情報等により韓国当局に検問を受けて、自動小銃を乱射しながら逃亡して突入は阻止された。韓国軍と警察と2週間に及ぶ掃討作戦で、1人の金新朝は逮捕されて28人を射殺した。銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の合計68人が死亡した。捕虜となった金新朝は、北朝鮮の特殊部隊であって、朴正煕の首を取りにやってきたと供述して、その後にはソウル市内の教会で牧師をしている。


2018年8月26日日曜日

台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人がビルマ内戦に巻き込まれて1953年に虐殺された。

台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人が1953年にビルマ内戦に巻き込まれて虐殺された。

   アウン・サンが1942年にビルマ独立義勇軍を率いてイギリス軍を駆逐して、1943年にビルマ国を建国した。1945年3月27日に日本軍に蜂起して独立した。 1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、1948年にイギリス連邦から離脱してビルマ連邦は独立した。独立直後からカレン人の独立闘争など、ビルマ政権は当初から不安定な状態にあった。1949年に国共内戦に敗れた台湾の国民党軍がシャン州に侵入してゲリラ闘争を行った。アメリカの中央情報局(CIA)が国民党軍を援助した。ビルマ政権は国連で中華民国と米国の策略に抗議した。ビルマ政権は中華人民共和国と連携して、シャン州に中国人民軍およびビルマ国軍を展開して、1950年代半ばまでに台湾の国民党軍を一掃した。国民党軍や共産党勢力との武力闘争の過程で、ビルマ国軍が徐々に力を獲得し、1962年に軍事政権が支配した。ベトナム戦争が1955年11月から1975年4月30日まで勃発して、軍事政権は瀬戸際の中立政策を保ち、ビルマ連邦を保持した。ビルマ民族のビルマから軍事政権は1989年6月18日に全民族のミャンマー連邦に国名を改名した。軍事政権が2008年5月に新憲法が制定されてから、民主化が改革を始めた。2015年11月8日の総選挙で、アウン・サン・スーチーが国民民主連盟(NLD)政権を樹立した。




2018年8月25日土曜日

広島原子爆弾の熱線で、女性の右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。

広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。二次熱傷となり、熱線により焦げた衣服で、その下の皮膚が色調により異なる熱傷を被爆した。衣服は、色の濃い部分が強く熱線を吸収して焼け焦げた。被爆した当日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
 広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。


 

2018年8月24日金曜日

アメリカ艦隊は海兵隊を1867年に広城鎮に上陸させた戦闘で、アメリカ軍兵士は約3人と朝鮮軍兵士は約240人が戦死した。

アメリカのアジア艦隊は、1867年6月11日に陥落した直後の広城鎮には、多数の虐殺された李氏朝鮮の兵士ら死体が散乱した。強固な攘夷鎖国であった李氏朝鮮は、1866年に朝鮮住民を殺害したアメリカ商船シャーマン号を撃沈して乗務員を虐殺した。アメリカは1867年1月に、シャーマン号の乗組員の安否を確認する軍艦ワチュセットを派遣した。さらに1868年4月に辛未洋擾の事件究明のために軍艦シェナンドアを派遣した。1871年清国に駐在していたアメリカ公使は、李氏朝鮮に対してシャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊を李氏朝鮮に派遣を命じた。日本の長崎から5月に5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。アメリカ軍は6月10日に激しい砲撃戦から、アメリカのアジア艦隊は海兵隊を江華島に上陸させた。まず草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘の犠牲者は、アメリカ軍は約3人に対して、朝鮮軍は約240人も戦死した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊には損害を与えなかった。アメリカ軍は、李氏朝鮮軍かの多数の武器・軍旗を戦利品にして帰国した。アメリカ海軍の勝利であったが、本来の目的の通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。日本政府は李氏朝鮮に1868年から開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。日本は1875年に軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領して、守備兵を虐殺して武器を略奪した。日本側は朝鮮側からの砲撃の責任を追求して、交渉のための開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結されて、朝鮮は開国した。






2018年8月23日木曜日

母親と生後9日目の赤ん坊は難民としてコミラからバングラディッシュの国境をわたる時に射殺された。

母親は1971年に、難民としてコミラからバングラディッシュ国境をわたる時に射殺された。彼女の生後9日目の赤ん坊も死亡した。赤ん坊の死体は祖父が運んで横たった。コミラはバグラディッシュ東部のチッタゴン州の都市で、ダッカから約80kmに位置した。
 英領インドは1947年に独立を達成したが、イスラム教地域はインドを挟んで東西パキスタンに分離独立した。経済や文化の面では違いが大きく、国土はインドにて1000km以上も隔て、様々な摩擦を起こした。政治は西側に偏った政策が実施され、1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が勝利すると、西パキスタンは1971年3月に軍事介入を行っった。東パキスタンは独立を求めて内乱になり、バングラデシュ独立戦争で、インドが東側パキスタンの独立を支持した。第三次印パ戦争がインドの勝利で終わって、1971年にバングラデシュが独立した。しかし、インドからの独立以前から、イスラム教を旗印とする東パキスタンとチッタゴン丘陵地帯の先住民族との折り合いは緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立すると悪化した。先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(PCJSS) を作った。1972年からバングラデシュ軍とPCJSSとが戦闘状態に入り、内戦や洪水による経済は疲弊により、1975年にバングラデッシュは軍事クーデターが起きて軍事政権となり、さにら戦闘は20年間も続いた。



2018年8月22日水曜日

朝鮮戦争で中共軍が最も南の方まで侵攻した戦闘にて、中共軍兵士の死体が放置されて散乱した。

朝鮮戦争にて、中国軍と北朝鮮の中共軍は、1950年12月に平壌を奪回して、1951年1月4日にはソウルを再占領して、国連軍は漢江の南に退却した。すごく極寒の冬の夜間に、ソウルから南に40キロ離れた西北部の都市である水原付近で、アメリカ軍は合流した。アメリカ軍本部近辺では戦闘の準備しても、兵士らは寝るときにも軍靴を脱げない。1月25日の夜間にも、戦闘が迫っていた。一晩中銃声が聞こえ、アメリカ軍の戦車が重い機械音を出して本部の前を通った。四方から銃声が激しく鳴って、兵士は浮目づかいで夜中を明かすしかなかった。次の日の朝、宿泊した本部の近くにあった街路地に、中国と北朝鮮の中共軍の死体が散乱していた。前日の夜中の激しい戦闘により、中国と北朝鮮が戦死者の死体を放置したまま撤退していた。その夜間は、朝鮮戦争で中国と北朝鮮の共産軍が最も南の方まで侵攻した。朝鮮半島のほとんどの地域では森林が破壊されて、戦場は常に荒廃した地域に変貌した。水原付近で行われた戦闘で、射殺された中国と北朝鮮の共産軍兵士は、アメリカ軍の管轄区域だった。中国軍は日中戦争や国共内戦の実戦と、ソ連が支援した最新兵器や日本軍の残存兵器で、中国軍が1950年10月19日に参戦して優勢だった。、度重なる戦闘で膨大な戦傷者や補給線が乏しく、侵攻が鈍化し始めた。アメリカ軍は最新兵器でようやく反撃して、3月14日にはソウルを再奪回したが、戦況は38度線付近で膠着状態となった。


2018年8月21日火曜日

関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。

関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の上部機関である陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。日中戦争にて、日本関東軍は1933年に満州関東防疫班を満州の背陰河に設立して、1939年にハルピン郊外の平房に移設した。1940年に関東防疫給水部の本部とする七三一部隊を設置した。満州鉄道衛生研究所や関東軍軍馬防疫・ハルビン医科大学・満州医科大学も協力した。七三一部隊は、毒ガスや細菌兵器の製造のため、監獄捕虜を「丸太」と呼称して、人体実験の実験と開発で、約3,000人以上を虐殺した。ソ連と中国は、戦争犯罪を指摘したが、アメリカ軍のGHQは東京裁判では訴追しなかった。アメリカ軍は細菌兵器・実験の全資料を独占して、石井四郎中将らの七三一部隊を免責に処した。中国の本部・支部跡・満州医科大学などからは生体実験の遺骨や証言が残存していた。1989年に七三一部隊を管轄した陸軍軍医学校の跡地からも実験の痕跡や多数の人骨が発掘された。アメリカは1983年のサンダース・トランプ調査官の報告書に引続き、1992年に細菌感染の人体実験の資料を押さえた。牡丹江憲兵隊が七三一部隊に送還された夫の名簿から、妻の敬芝蘭が日本政府を告発した。1950年に勃発した朝鮮戦争で、アメリカ軍はペスト・炭疽菌・コレラ菌などの細菌や毒ガスの科学兵器の使用を、中国・北朝鮮は告訴した。国際科学委員会は、アメリカ軍が七三一部隊と類似の細菌化学兵器の空爆を報告した。七三一部隊兵士は免責された上に、北野政次・内藤良一は、輸血とエイズの化学製剤のミドリ十字を創設して、その他は科学研究所や大学教授などの社会的厚遇を受けた。


2018年8月20日月曜日

ドイツ軍の歩兵隊が、ソ連軍の戦車を至近距離で防御して、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。

第2次世界大戦の東部戦線で、クルスクの戦いが1943年7月5日朝に勃発した。ドイツ軍の歩兵隊が脆弱な部隊で、ソ連軍の対戦車の軍団を至近距離で防御していたが、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。ドイツ軍は1943年2月にスターリングラードの戦いで敗退して、さらに3月にモスクワからも撤退した。劣勢に立たされ始めたドイツ軍に、ソ連軍がクルスク周辺で大きく突起した戦況となった。ドイツ軍は、その戦局を挽回するために、東部戦線の機甲部隊の全てを使ってクルスクの突起部を挟撃した。ドイツ軍兵士は約780,900人に対して、ソ連軍は約1,910,360人が集結した。1943年7月5日朝からドイツ軍とソ連軍がクルスク周辺で総力戦となった。ドイツ軍兵士は多くの戦車が地雷で大破しても、その放棄は厳禁と厳命されて、ロシア軍から砲撃や狙撃により流血して焼きつくされた。ドイツ軍は7月13日にはクルクスの攻撃を中止して敗退をしてた。さらに8月5日にはオリョールも放棄した。ドイツ軍は、クルクスの戦いで約49,822人もも、ソ連軍は約177,847人の戦傷者に達した。ドイツ軍は東部戦線で撤退に陥り2度と大規模な攻撃作戦をとれずに,東部戦線は崩壊をした。