2018年7月31日火曜日

アメリカ軍の若い海兵隊員が、沖縄の首里陣地の激烈な攻防戦で戦死したアメリカ軍兵士の死体に向かい悲嘆に暮れた。

沖縄戦の首里攻防戦の緒戦で、1945年4月20日にアメリカ軍は嘉数高地を占領した。アメリカ軍の空前絶後の猛爆で与那原から首里は一面焼け野原になり、跡形もなく壊滅した。地下壕の入り口付近の日本軍兵士は狙い撃ちにされた。壕内に封じこめ、火焔放射を浴びせ、強力な爆雷やガス弾を大量に投入され、多くの日本軍兵士が虐殺された。5月4日早朝には日本軍は全軍を挙げ総反撃して、一帯はたちまち修羅場と化したが、5月5日の午後六時に反撃を断念した。総攻撃が中止されても、日米双方には多数の犠牲者が続出した。日本軍は首里攻防戦全体を通じて兵力の75%を失った。アメリカ軍は5月11日に総攻撃をして、首里の日本軍に対して激烈な昼夜の別なく砲撃した。激烈な戦闘のために、アメリカ軍第六海兵師団は2,66人もの死傷者と1,289人もの戦闘発狂者を出した。アメリカ軍のある中隊は総員204人で石嶺高地に夜襲をかけたが、156人を失った。129人からなる別の攻撃隊は生存者が30人だけ、交替要員58人の小隊などは、わずかに3人が生還した。アメリカ軍は、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した。5月27日夕刻から28日に日本軍は南部撤退した。5月29日にアメリカ軍が首里城址に突入するも、首里要塞はもぬけの殻になっていた。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に日本軍兵を引いて持久戦を展開して、十万人を超える民間人犠牲者を出した。日本軍の撤退で沖縄の市民は、恐慌状態に陥って、民間人市民の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃などで虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされた。




2018年7月30日月曜日

エチオピアの小作人は農作物の半分以上を地主に納め、極貧で最下層の農民は1973年の旱魃と内乱で約200,000人以上は餓死した。

エチオピアの最後の皇帝となったハイレ・セラシエは、1972年から1973年の大飢餓に対して、市民の窮状を救わず、無責任にも飢餓を厳しく統制した。エチオピアの8割が農民で、大半が小作人であった。小作人の農作物の半分以上は地主に納め、残りの農作物で極貧に陥った。最下層の農民は、慢性的貧困から、飢餓状態で生きていた。1972年から73年には大干魃に襲われ、農作物は全滅して約200,000人以上が餓死して、エリトリア州で内戦が勃発した。世界的な石油ショックで食品価格が急騰した。貧困の市民は食物を買えず、約2,000,000人以上が飢餓状態に陥った。アディスアベバでデモ騒乱が発生して内乱に陥った。皇帝が宮殿のライオンに肉を与える写真が公表され、深刻な食糧難に苦しむ市民を激怒させた。1974年年9月に陸軍が反乱を起こして、ハイレ・セラシエ皇帝を逮捕して強制的に廃位さした。軍部は12月にエチオピア連邦民主共和国を宣言し、1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムが共産主義の軍事独裁政治を始めた。約20年間で反対勢力の数十万人を粛清した。マリアム政権は共産主義を実行して、農地を国有化し小作制を廃止して、土地を再配分しても、飢餓民の大移動が、部族間の対立を煽り、内戦をさらに深めた。マリアム政権は、飢餓民救済より政権維持を優先し、軍事費を増大して中間層に重税を課した。1984年から1985年にエチオピア北部で大旱魃が発生して、約2,000,000人以上が餓死し、飢餓難民が周辺諸国に避難して、国際社会はがエチオピアの深刻な飢餓を知った。セラシエ派は、マリアム政権の共産主義を非難して内乱を起こした。エチオピアは、前皇帝派と共産主義派の戦いと部族間の紛争で複雑な内戦状態に突入した。市民が殺し合う内戦が飢餓を深刻化して膨大な餓死者を排出した。





2018年7月29日日曜日

日本軍がシンガポールの市街地に爆弾と機関銃掃射撃を繰り返して、兵士から市民や女性や子供までが逃げ回った。

日本軍のシンガポール占領にて、激しい砲撃による瓦礫の山に犠牲者らが身内の死体に嘆き悲しんだ。日本軍は、マレー半島の海峡にかかるコーズウェイを修復してマレー半島の海峡を渡り、シンガポールに侵攻して流れ込んだ。イギリス軍らは、混乱状態に巻き込まれて交戦も困難となり、イギリス軍兵士らは撤退と退却をした。日本軍の爆撃機が低空で飛来しては、市街地には爆弾と機関銃掃射撃を繰り返した。兵士から市民や女性や子供までが逃げ回った。港に殺到してボート難民で南方の諸島に向かうも、その途上で砲撃で沈没した。シンガポールの戦いは、大東亜戦争の1942年2月7日から2月15日に、イギリスの海峡植民地のシンガポールで日本軍と連合国軍とが戦闘した。当時は難攻不落のシンガポール要塞が、日本軍が10日足らずで攻略した。イギリス軍は歴史上最大規模の兵士が降参した。イギリス陸軍は敗北して、シンガポールが陥落して、イギリス軍から連合国軍まで約80,000人が日本軍の捕虜となった。シンガポール侵略戦で日本軍の戦死者は約1,713名、戦傷者3,378名で、イギリス軍は約5,000名が戦死し、約5,000人が戦傷して、シンガポール陥落と多くの戦死者と捕虜を出した。 




2018年7月28日土曜日

南ベトナムのアンケの戦闘で、アメリカ軍と北ベトナム軍兵士の多数の死体を平地に混在して集積して検死した。

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に、南ベトナムの中部高原地帯のアンケ周辺で、アメリカ軍と北ベトナムの南ベトナム解放戦線とが戦闘した。戦闘による多数の死体が平地に集積された。アメリカ軍兵士の死体だけでなく、南ベトナム解放戦線兵士の死体も一緒に並べられて検死された。ベトナム戦争だけはは、戦闘の真実の写真は、アメリカ軍専属の撮影による写真だけの公開だけでなく、民間市民による撮影の写真も許諾されて公開された。1965年6月9日にアメリカ海兵隊が、解放戦線と初の単独交戦した。索敵行動に出た海兵隊兵士が待ち伏せで兵士7人が殺された。7月9日にアメリカ政府は、ベトナム戦争に対して地上戦闘部隊の海兵隊と陸軍の大量投入を決定した。8月2日からアメリカ軍海兵隊のライフル中隊の約6,000人が、ダナン近郊の村落の焦土化して掃討した真実がCBSテレビが放映して、アメリカ市民の反戦運動が拡大した。さらに南ベトナム軍情報部長が1968年6月2月1日に、サイゴン市内で捕虜となった解放戦線兵士を、尋問も裁判もなく、大衆市民の前で銃殺した。その真実の写真がアメリカ合衆国内で民間市民が撮影して公表された。アメリカ市民は呆然と矛盾に満ちたベトナム戦争に対する反戦運動が過激化した。




2018年7月27日金曜日

日本人兵士の膨大な死体群が、インパールから撤退する道端に散乱し、至る所に死骸は放置され腐敗した。

大東亜戦争の中期に、日本軍はインパールの戦闘で壊滅して敗退した。ビルマの首都のラングールもイギリス軍に再占領された。撤退する日本軍兵士は、衰弱して飢餓状態となり悲惨な撤退となった。骨と皮だけにやせ細り、水分も乾燥して干された日本人兵士の膨大な死体群が、撤退する道端に散乱した。至る所に、死骸は放置されて腐敗した。日本軍は1944年3月に決行した無謀で悲惨なインパール作戦で約30,000人が戦死して、戦傷者は約40,000万人に及んだ。

 日本軍は、1942年1月7日にインドシナ半島西の現ミャンマーであるイギリス領ビルマに進攻して、全土を占領した。イギリス軍はインド北東部アッサム地方に位置したビルマに近いインパールに敗走した。日本軍のインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを約3週間で攻略する作戦だった。後方からの補給も途絶えた日本軍はインパールには誰1人もたどり着けず、7月1日に至り作戦が中止された。激しい雨の中で、イギリス軍の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れて、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ、自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。



2018年7月26日木曜日

第1次世界大戦のベルギーにて膠着した塹壕戦では、ドイツ軍の突破後には、多数のイギリス人兵士の死体が塹壕内に散在した。

第1次世界大戦は、1914年7月28日にオーストリー・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して勃発した。同盟国であるオーストリー・ハンガリー、ドイツ、トルコ、ブルガリア4カ国と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商に関連する28カ国の連合国が、人類史上初の世界大戦に及んだ。ドイツは8月3日にフランスに宣戦布告し、パリに侵攻するため、ベルギー国境から防備の薄いフランス北東部を侵略した。ベルギーの多くがドイツ軍に占領された。ドイツ軍は、中立国ベルギーの強攻突破でフランスに侵攻した。フランス軍を攻略する前に、ロシア軍を迎え撃つために軍団を東部戦線に傾注した。9月になってフランス・イギリス連合軍は、手薄なったドイツ軍の侵攻を留めた。その後の西部戦線は塹壕戦による膠着状態になった。ベルギーにおける膠着した塹壕の戦線では、ドイツ軍に突破された後には、多数のイギリス人兵士が虐殺された死体が塹壕内に散在した。1917年2月1日からドイツが潜水艦による無差別攻撃に転換して、中立を保持したアメリカが1917年4月6日にドイツに宣戦布告して連合国に参戦した。アメリカ軍の豊富な軍備に支援された連合国軍側が物資面で次第に圧倒的な優位となった。ドイツ軍は1918年7月以降は西部戦線から撤退を重ねて、11月初めには全退却を開始して、ベルギー占領地区はようやく解放された。



2018年7月25日水曜日

日本軍の無差別空爆に、重慶は防空壕が不足して空気の換気などの不良で、多く避難者が窒息死した死体が散在した。

日中戦争において、四川省の重慶は日本軍に対抗する蒋介石司令部がある中国国民党の司令部の拠点となった。日本軍により中華国民党の政府があった南京は侵略され、逃避した漢口も侵略されて、さらに内陸部の四川省の重慶に政府を撤退した。中国国民党政府となった重慶に対して、日本軍は約218回もの無差別の空爆をした。重慶は壊滅して、中国人市民も含めて約10,000人以上が爆死により虐殺された。1938年12月4日から43年8月22日まで空爆が継続された。40年だけでも約4,333トンものの爆弾を投下して爆発させた。重慶などでは防空壕が不足して、さらに空気の換気が不良により、多く避難者が窒息死した死体が散在した。無差別空爆にて、非戦闘員である重慶市民の約8割が虐殺された。重慶の空は曇り多くの霧が発生するために、日本軍爆撃からは目視空爆が困難となった。そのために重慶は、無差別爆撃の対象に転換されて無差別に空爆された。無差別爆撃は1937年のスペインに対するドイツ軍によるゲルニカ爆撃に続いて、日本軍が重慶を無差別爆撃をした。第2次世界大戦の末期にはドイツとイギリスに対する双方の無差別爆撃の報復が繰り返された。日本に対抗してアメリカ軍による無差別の空襲から広島・長崎の原子爆弾の投下により膨大なる市民が巻き込まれて虐殺された。



2018年7月24日火曜日

第4次中東戦争で、シリア軍の空爆と砲撃により、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で、多数のイスラエル軍兵士の死体が散乱して、鳥類が食い漁った。

第4次中東戦争が、1973年10月6日にユダヤ教で最も神聖な日「ヨム・キプール(贖罪の日)」に勃発した・エジプト・シリア軍が、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土を奪回するために侵攻した。シリア軍はゴラン高原、エジプト軍はスエズ運河、のイスラエル軍)を奇襲した。第三次中東戦争で過信したイスラエル軍はアラブ側から奇襲を受け、かなりの犠牲と苦戦を強いられた。イスラエル軍の予備役部隊とアメリカの支援等から、次第にイスラエル優位な戦果となった。10月24日に国際連合による停戦決議で停戦が成立して、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵攻した。アラブ側が緒戦でイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」を崩壊させた。イスラエルに対して対等な立場ったエジプトは1979年に平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された。同年に元シリア領であったゴラン高原はイスラエルが一方的に併合した。戦争時中のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は石油禁輸措置と石油価格引き上げで、第1次石油危機を引き起こし、諸外国は多大な経済混乱に至った。ゴラン高原方面はシリア軍の空爆と砲撃から、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で激戦で、イスラエル軍兵士の多量にな戦死した死体が散乱して、鳥類が食い漁った。ゴラン高原中部・南部にシリア軍は侵攻して、イスラエル軍を囲した退却させた。6日夜にイスラエル軍は予備役部隊をゴラン高原に投入して、10日までにシリア軍を撤退してゴラン高原を再占領した。



2018年7月23日月曜日

サイパン島でバンザイ突撃の翌日に、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れ日本軍兵士を銃殺して平然と死体を見下した。

太平洋戦争のサイパン島の戦闘で1944年6月15日から7月9日に、アメリカ軍より日本軍は全滅した。最後的な戦闘において、アメリカ軍兵士により撤退した日本軍兵士は最北端のマッピ岬の約5km南方のマタンシャ周辺まで追い込まれた。1944年7月7日未明に約3,000人以上もの日本軍兵士が最後の突撃した。約10km先のガラパンを目指してアメリカ軍にバンザイ突撃を強行した。「天皇陛下万歳!」と叫びながら、全身を伏せることなくアメリカ軍兵士に突撃した。アメリカ軍は、事前に察知した日本軍の最終的なバンザイ突撃に対して、照明弾を放ちながら、無差別に重砲爆撃を浴びせほぼ全員を虐殺した。日本軍兵士が戦死した約4,301人の死体数をアメリカ軍は検証した。バンザイ突撃をした翌日の7月8日には、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れていた日本軍兵士を銃殺して、満面に自慢げに死体を見下した。サイパン島の戦闘の犠牲になった戦死者数は、日本軍兵士が約41,000人、アメリカ軍兵士は約3,216人に及んだ。サイパン島に在留していた日本人市民は、約8,000以上が戦闘に巻き込まれて虐殺されたと推定された。



2018年7月22日日曜日

韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。

ベトナム戦争にて、北ベトナムはソ連などが支援して、南ベトナムに最大で約540,000人のアメリカ軍が派遣された。アメリカ軍には、韓国軍、タイ軍、フィリピン軍、ストラリア軍が派兵されるも、ベトナム戦争は泥沼化した。特に韓国の朴正煕大統領は自ら1964年から約30,000以上の猛虎部隊と呼称した韓国兵士をベトナムに派遣して、約5,000が戦死して、約10,000が戦傷した。韓国軍は、ベトナム中南部のビンディン省において、ゴダイ集落を1966年2月26日に襲撃して約380人以上もベトナム人市民を無差別に1時間以内に大虐殺した。さらに近日中に韓国軍は、タイヴァン村で約1,200人のベトナム人市民、タイビン村で約65人のベトナム人市民、ハミで約135人のベトナム人市民、フォンニィ・フォンヤット村で約69人以上のベトナム市民を大虐殺した。韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。当時の韓国軍は、ベトコンによる陰謀と公表して隠蔽した。韓国では、ベトナム戦争による特需を、三星、現代、韓進、大宇などの大財閥が独占した。韓国政府は現時点でも隠蔽して、ベトナム戦争での大量虐殺と虐待を公式に認めない。アメリカ軍も、1968年3月16日にクアンガイ省ソンミ村で、ベトナム人市民の約504人を無差別に大量虐殺した。



2018年7月21日土曜日

クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場のチェーン・エックに犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰め分別された。

カンプチア (旧名: カンポジア)のチェーン・エック(Choeng EK)には、クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場および被害者の墓地であった。1988年になっても処刑された犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰められて分別された。クメール・ルージュ政権は、強制労働や飢饉により、カンボジア人が大量虐殺に至った。クメール・ルージュによる大量殺戮や国内難民の死者数は、1962年から1975年まで人口動態が皆無で不明である。フィンランドは、ポル・ポト以前の内戦の死者数を約600,000人、ポル・ポト以後の死者数を約1,000,000人と推定した。クメール・ルージュは、反シアヌーク勢力で、赤いクメール(カンボジア人)と呼称された。1951年に北ベトナムから分離して、1960年9月にカンボジア共産党を設立して、1963年からポル・ポトが指導者となった。アメリカ軍が侵攻して、1970年4月に反米・非同盟のシアヌーク政権が排除され、親米・反北ベトナムのロン・ノル政権が樹立した。1964年から1975年のベトナム戦争からアメリカ軍が敗退して、クメール・ルージュがロン・ノル政権を軍事制圧した。1976年4月にポル・ポト政権を樹立した。カンボジア全土を虐殺刑場(Killing Field)とするジェノサイド(集団虐殺)を執行した。1978年12月にベトナム軍が侵攻して、親中国・反ベトナムのポル・ポト政権を打倒し、親ベトナム派のヘン・サムリン政権を樹立した。1989年に冷戦構造が崩壊して、1991年にベトナム軍は撤退し、1991年10月にパリ和平協定により、1993年の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の総選挙で、シアヌークを国王とする「カンボジア王国」が成立した。クメール・ルージュは1998年のポル・ポト死去を経て1999年3月に崩壊した。



2018年7月20日金曜日

ハンガリーの矢十字党により虐殺された市民や膨大なユダヤ人の死体が発掘された。

ハンガリーには、1939年から1945年まで、ファシズム政党である矢十字党(ハンガリー主義運動)政権がハンガリー王国を帝国主義化した。サーラシ・フェレンツが指導する反ユダヤ的なハンガリー主義(Hungarizmus)を掲げた民族主義政党となった。ナチス・ドイツの支援を受けて、1944年10月15日にナチス・ドイツ軍と矢十字党員はブダペスト市内を占領して、1945年1月までハンガリーを統治した。サーラシ政権はドイツの反ユダヤ主義に協力し、国内に居住する約100,000人以上ものユダヤ人を虐殺して、約80,000人のユダヤ人市民をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送した。サーラシは首相兼国家元首に就任して、ソビエト軍およびルーマニア王国軍と戦って、東部戦線のナチス・ドイツ軍と同盟した。矢十字党の虐殺部隊が闊歩して、ユダヤ人市民らを捕まえては銃殺して土中に埋め込み、凍りついたドナウ河にも投げ込んだ。ブダペストの戦いが1944年12月に始まり、矢十字党政権はナチス・ドイツ軍と共に1945年4月30日の終戦までハンガリーの西端で戦い続けた。大戦後には、矢十字党により虐殺されたハンガリー市民の犠牲者の死体が発掘された。大戦後にはサーラシらの矢十字党の指導者は、ハンガリーの法廷で戦犯として処刑された。



2018年7月19日木曜日

アメリカ軍兵士が、歩兵連隊の軍服を着服してアメリカ雑誌も携帯した中国人義勇兵を処刑して死体を見下した。

朝鮮戦争にて、中華人民共和国が1950年10月25日に参戦して、北朝鮮を支援した。中国義勇軍と北朝鮮軍は、南下に侵攻して12月5日には平壌を制圧して、1月4日には、ソウルを再奪還した。1951年初頭に、第5歩兵隊に所属したアメリカ軍歩兵士が、処刑した中国人義勇兵の死体を見下した。中国義勇兵の死体には、アメリカ軍の一般歩兵連隊の(General Infantry : GI)の軍服を着用して、アメリカ雑誌も携帯していた。アメリカ軍の治安維持活動の一環として、中国人義勇兵を秘密裏の窃盗として処刑した。アメリカ軍の地上軍の優位な武力とアメリカ韓国軍の強力な空爆により、中国人義勇兵と北朝鮮軍の南下に対抗した。最新兵器で態勢を立て直して反撃を開始して3月14日にはソウルを再奪回した。戦況は38度線付近で膠着状態となる。全戦線に塹壕を掘られ、中朝軍はさらに兵力を増強した。トルーマン大統領は4月1日にマッカーサーを解任した。1951年7月から休戦会談を繰り返すも不成立となり、最終的に1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印された。



2018年7月18日水曜日

日中戦争の南京にて、日本軍兵士が日本刀で便衣隊と嫌疑者の首などが切断した中国人の死体が散乱した。

日中戦争にて、南京に入城した日本軍は、中国人の若者を根拠もなく便衣隊と嫌疑をかけて虐殺した。日本軍兵士は、日本刀で便衣隊の容疑者の首などを切断して、中国人の死体が散乱した。便衣隊は、日中戦争にて一般市民と同じ私服や民族服などを着用した市民に偽装して敵対行為をする軍隊を呼称した。国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけずに処刑するのは、国際法上違反であった。 1937年12月13日に日本軍に南京城は陥落して、城内では約6週間に及ぶ大量虐殺と破壊がされた。虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員の市民を殺害することで、国際法上違反であった。東京裁判では約200,000人以上の虐殺が認定され、中国では約300,000から400,000人以上と推定した。大虐殺や数値には根拠がないとして否定する日本人の批判論者も多数いるが、しかし日本側の多く研究者も約300,000人と想定している。日本軍による集団的虐殺は、下関煤炭港・魚雷営・漢中門外・下関上元門・下関中山碼頭・下関草鞋峡・漢西門・上新河一帯・四条巷・三汊河河岸・燕子磯江辺などの地域で執行された。



2018年7月17日火曜日

独ソ戦において1942年2月にロスラヴリで、ナチス・ドイツ軍は捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。

ナチス・ドイツ軍は独ソ戦争で、1942年2月19日にモスクワ州の西側のスモレンク州南部であるロスラヴリの土中に、捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。ナチス・ドイツ軍は1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動され、枢軸軍はソビエト連邦へ侵攻した。緒戦にはソ連の赤軍は各戦地で大打撃を被り、敗走して孤立した兵士の数百万人以上がナチス・ドイツ軍の捕虜(POWs : Prisoners of War)となった。ジュネーブ条約等国際条約の捕虜に関する保護・待遇規定は何ら適用されず、即戦場で処刑され、最前線からの死の行進、生存者も完全な根絶のために強制収容所へ送られて、非人道的に虐殺された。約3,300,000人以上ものソ連兵士が死亡して、捕虜となったソビエト兵の約57%であった。連合軍では死亡したのは3.6%の約8,300人であった。戦争初期から捕虜虐殺は横行して、屋外での完全な放置と飢餓と伝染病、即時処刑を執行して、1941年6月から1942年1月だけでも約2,800,000人のソ連軍の捕虜が虐殺された。ソ連軍は報復して約374,000人以上ものドイツ兵捕虜をソビエト強制収容所で虐殺した。




2018年7月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 700回

2018年7月16日月曜日

一人の歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺され、悲惨な死体が塹壕に落ち込んでいた。

第2次世界大戦末に、連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸からフランス・ベルギーを解放して約3ケ月でドイツ国境まで侵攻した。1944年月9月14日から1945年5月8日の無条件降伏までの約8ケ月間が、ドイツ本土を侵略した最後の大決戦場となった。連合国の圧倒的な武力により膨大な犠牲者の死体が散乱した。歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺されて、悲惨な死体が塹壕の中に落ち込んだ。各地で敗退を続けたドイツ軍は、1944年12月16日から西部戦線のバルジでの反抗戦も敗戦した。1945年3月28日から連合軍はドイツ国内の865kmの最長の河川であるライン川を渡河した。東部戦線ではソ連軍が東プロイセンを占領して、オーデル・ナイセ戦線を越えた。1944年4月にはソ連軍によるベルリン総攻撃が勃発して、5月2日にはベルリンはソ連軍によって占領された。5月8日に連合国に対する降伏文書に署名して終戦した。




2018年7月15日日曜日

ウクライナでは、ソ連により小作農が大飢餓の犠牲となり、ハルキウの路上で、多数の餓死の死体が転がり、路上の周辺に散乱して死匂が漂った。

ウクライナでは、1933年4月に小作農が大飢餓の犠牲となって、北東部の都市であるハルキウにて、多数の餓死による死体や瀕死状態者が転がり、各地の路上の周辺に散乱して死匂が漂った。ウクライナでは1919年の独立から、1922年にソビエト連邦に編入された。ウクライナの小麦による外貨獲得のため、ソ連は飢餓になっても、小麦を徴発して、食糧不足となり飢餓が発生した。1930年代初頭から農業集団化で収穫減から厳しい食料徴発されて飢餓が深刻となり、ソ連は反抗者は容赦なく処刑した。1932年12月27日から通行手形により、小作農らを集団農場に縛り付けた。1933年春には飼料を悪用するば10年以上も強制収容所へ送還さた。ソ連系オルグ団のスパイは農場を監視して、肉親を告発した家族には食物を賞与した。食料を没収された小作農は下手物まで食べた。遂にウクライナ人は病死馬や人間の死体も食べた。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂って、飢餓の犠牲者は約2500,000人以上に達した。ウクライナは反ソ・反共感情が高まり、独ソ戦のナチス・ドイツ軍を「解放軍」として歓迎し加担した。しかし、スラヴ系諸民族の撲滅を目指すナチス・ドイツも、ウクライナ人に残酷な政策を実施した。ソ連はウクライナ飢餓を1980年代になり承認した。2014年2月からロシア軍による軍事干渉クリミア自治共和国の住民投票から、3月17日にロシア軍の支配下で編入が決議された。ウクライナの東部2州(ドネツィク州、ルハーンシク州)の抗議運動が、武装した分離主義勢力による反乱へと広がり、暫定政権が軍事的弾圧をした。




2018年7月14日土曜日

アメリカ軍等による激しい空爆等によるイラク戦争の犠牲となった瀕死イラク人児童を母親が側で見守った。

アメリカ軍は、2003年3月20日にイラクの首都バグダードへの空爆からイラク戦争が勃発した。42日間の戦闘で,有志連合軍の死者は172人,イラク人死者数は約100,000人以上と推計された。2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件からイラクの大量破壊兵器を敵視した。ジョージ・W.ブッシュ大統領は2003年3月20日にアメリカ軍は国連を無視して、イラク攻撃を先制攻撃した。4月9日にアメリカ軍がバグダードを陥落させてフセイン政権は崩壊した。2003年5月1日の戦闘終結宣言したが、連合軍による占領が 2004年6月のイラク暫定政府まで続いた。イラクに駐留を続けて、2005年12月にアメリカ系イラク政権を成立させた。駐留や宗派偏向的政権に、住民の反発と反米・反政府勢力による攻撃が増加した。2006〜07年には宗派対立から内戦が悪化し,駐留軍とイラク民間人ともに死者が急増した。イラクの不安定化とアメリカ軍の犠牲や,大量破壊兵器が未確認などから,アメリカ国内ではイラク戦争反対のバラク・オバマ政権が2009年1月に成立した。2010年8月18日にアメリカ軍はイラクから撤退をした。開戦以来のアメリカ兵の死者は 2010年4月までで 4,000人に上った。2009年10月にイラク政府は 2004〜08年のイラク人犠牲者数を,市民と兵士で終結後から85,000人以上と推計した。最後のアメリカ軍約 500人が 2011年12月18日に完全撤収した。



2018年7月13日金曜日

無差別大空襲で完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。

第2次世界大戦において、連合国がドイツのハンブルグに無差別空襲をして壊滅した。1947年9月7日から1942年5月10日までロンドン大空襲を受けたイギリス軍は、ドイツ軍を「悪事を犯した奴らが今こそ酷い報いを受ける番だ」とゴモラ作戦の空爆で復讐した。特に1943年7月27日は、異常に乾燥し温暖であり、地域に爆撃が集中し、消防隊が火災の現場へ到達できなかった。空襲は甚大な被害をもたらし、爆撃は「火災旋風」を引き起こした。家屋の石炭やコークスなどの燃料が火災の規模を拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、屋外は溶鉱炉様となった。最大風速は240km/h、気温は800℃に達し、市街は21kmに渡って焼け落ち、防空壕に避難した市民もしない市民も無差別空襲を受けた。無差別大空襲で、完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。ハンブルグの犠牲者は民間市民であり、約50,000人の多くが空爆で死亡した。第二次世界大戦が終結するまでハンブルクは7月24日から1945年4月14日にかけて約69回空爆を受けた。最も甚大な空爆を受けたハンブルグは、イギリス政府は「ドイツのヒロシマ」と大戦後に宣告した。



2018年7月12日木曜日

塹壕からフランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。

第1次世界大戦の西部戦線では、緒戦の突撃肉弾戦から、全長で約700kmにも及んだ塹壕に立てこもる長期の消耗戦に至った。イギリス・フランス軍とドイツ軍ともに網の目に鉄のワイヤーを張り巡らせた。重ねた鉄条網の柵を塹壕の前に構築した。双方ともに、敵兵の侵入を阻止するために、鉄のワイヤーの鉄条網をいたる所に設置した。フランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。塹壕を鉄条網から銃身と周辺の地雷で防御した。北はドーバー海峡からスイス国境まで塹壕が繋がった。張り巡らした鉄条網は、約300,000kmにも達した。進撃と反撃の繰り返しによる消耗戦で、膨大な犠牲者を出した。1916年2月から12月に、ドイツ軍とフランス軍とのヴェルダン戦では、数キロの進退戦で、フランス軍は約360,000人、ドイツ軍は約340,000人の死傷者は犠牲となった。戦場は砲火で焼き尽くされ、砲弾による夥しい戦死者の死体と兵器が散乱したまま放置された。




2018年7月11日水曜日

激しい戦闘があったブーゲンビル島で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。

太平洋戦争にて、1942年3月に日本軍はソロモン諸島のブーゲンビル島を占領して、飛行場を整備した。日本軍は、砲火力が低く対戦車装備も不足していた。島内の交通路の整備も不十分で、迅速な部隊機動も難しかった。アメリカ軍は、1943年11月1日にタロキナ岬に上陸した。 激しい戦闘があった105高地とアオギリ丘で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。湿地帯で膠着状態になったが、11月9日にアメリカ軍が日本軍を撃退して、日本軍は補給も続かず11月11日に撤退した。アメリカ軍は12月までにタロキナ岬に飛行場を完成した。ジャングルに潜む日本軍は激しい空襲を受けて犠牲が続出した。圧倒的な火力でのアメリカ軍の1944年3月8日の反撃により3月25日に攻撃停止をした。日本軍の死傷率80%を超え、死傷1万3千人で、4,000以上は病死して壊滅的であった。アメリカ軍は、日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令して多数が虐殺された。日本軍は1944年2月には補給は途絶えて食料は減少した。現地自活体制から、大多数の餓死者を出したガダルカナル島には至らなかった。ガダルカナル島の「餓島」に対して、ブーゲンビル島の「墓島」と呼ばれた。1945年8月15日に日本が降伏して、ラバウルからの停戦命令で日本軍は戦闘を停止し、9月3日に武器を引き渡して降伏した。



2018年7月10日火曜日

ソ連に抑留された元日本軍兵士が舞鶴港に上陸するたびに、母と子は必死で兵士の顔を探し求めた。

ソビエト連邦軍が1945年8月9日に日本に対して参戦して、満州で防衛した膨大な日本軍兵士が捕虜となった。第2次世界大戦後に長期間にわたり、シベリア抑留されて強制労働させられた。引揚船が着くたびに母子が岸壁でいつまでも肉親を探し続けた。いつも見られた喜びと悲喜こもごもの光景であった。歳月の経過とともに、毎回に同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられれた。これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられた。
 思い出の戦争の真実として、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)の子供である端野新二(1926年生)は満洲国に渡り関東軍として、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。戦後に、いせは新二の生存と復員を信じて1950年1月から引揚船が舞鶴に初入港してから以後6年間にわたり入港する度に舞鶴の岸壁に立った。1954年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956年には東京都知事が1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行した。しかしながら、帰還を待続けた新二は戦後も上海で生存していたのが、明らかになったのは、母の没後の2000年8月であった。1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子の「岸壁の母」は100万枚以上の国民的反響を受けた。






作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
歌唱:菊池章子
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(二)
呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 (三)
 悲願十年 この祈り
 神様だけが 知っている
 流れる雲より 風よりも
 つらいさだめの つらいさだめの
 杖ひとつ

2018年7月9日月曜日

日本軍は、武装解除した中国人兵士や警察官の数百人を南京の安全地帯から連行して銃殺した。

日本軍の南京軍政部の向かいには処刑場が設置された。防空壕のそばの処刑場には、30人の中国兵の死体が散乱していた。日本軍による即決の軍事裁判によって、1937年12月17日に銃殺刑が執行された。その後に中国兵の死体は、無造作に溝に投げ込まれていた。日本軍は1937年12月8日に南京を包囲して、12月10日には攻撃を開始した。12月13日には中国軍は総崩れとなり南京城は陥落した。12月16日には、武装解除した中国人兵士が数百人が、安全地帯から連行されて、銃殺された。その中には、中国人兵士を安全区に入れた罪状で、約50人の中国人警察官も含まれた。下関の周囲の道端は、死体置き場となり、片付けられていない中国人の死体が散乱して、一面に悪臭を放っていた。強制収容所となった最高法院からは約500人の中国人兵士が連行されて機関銃で銃殺された。12月19日から、日本軍が南京を焼き払い炎に包まれた。



2018年7月8日日曜日

日露戦争の満州侵略の途上にて、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の戦死者を集積しては火葬した。

日露戦争の緒戦にて、満州を侵略するために、日本軍は中国と北朝鮮の国境となる鴨緑江を渡河した。日本軍は1904年4月25日の夜に、北朝鮮北西部の虎山として知られる鴨緑江に面した九里島に侵攻した。4月26日朝に義州元化洞の九里島に攻撃して上陸して占領した。それを阻止するロシア軍の砲兵隊に砲撃を受けて、多数の戦死者を出した。日本軍は4月30日から5月1日まで鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、それを防御するために待機していたロシア陸軍との間で戦闘が勃発した。戦争下の日本軍は不利な状況になり窮地に至って、日本軍はロシア軍の砲撃により多大な犠牲を受けた。苦しい状況で攻めあぐねて、悲惨な戦況ともなった。ロシア軍も、悪路・悪天候の戦地の環境にも混迷して、戦地で苦戦をした。鴨緑江渡河の途上で、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の日本人兵士の戦死者の死体を集積しては火葬して処理した。5月1日の午後にはロシア軍の撤退によって日本軍は九連城一帯を占領した。



2018年7月7日土曜日

アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦などで戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。

連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸から6週間もの消耗戦の後に、連合軍はサン=ローでドイツ軍の防衛線を突破した。ドイツ軍の西半分は撃破されて、8月1日にはアメリカ軍はアヴランシュを占領した。ドイツ空軍の空爆にも関わらず、ブルターニュ港から、西方向のブレスト、ロリアンの港まで進撃をした。ドイツ軍の側面と後方まで進撃して、8月7日までにル・マンを占領した。ドイツ軍はリュティヒ作戦で8月6日にモルタンを占拠したが、8月12日まで高地を守ったドイツ軍兵士の約700人のうち、約300人以上が戦死した。8月13日にドイツ軍はモルタンから駆逐されて、8月19日にはドイツ軍の約150,000人が閉じ込めらた。8月21日まで包囲網を突破しようとするドイツ軍の攻撃は封じ込められてて、約50,000名のドイツ軍将兵が降伏した。アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦において戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。


2018年7月6日金曜日

ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士をウクライナの首都キエフで絞首刑にして死体を見上げていた。

第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍がウクライナの首都キエフ近郊で、1941年7月7日から防衛するソビエト赤軍を包囲した。バルバロッサ作戦の一環として9月26日までキエフの包囲戦を続けた。ドイツ軍のキエフ東側での包囲戦により、ソビエト赤軍は膨大な犠牲を伴って壊滅した。ドイツ軍はソビエト赤軍兵士の約452,700名を包囲して、その内の約15,000人だけが10月2日までに包囲網から脱出した。作戦の全体として、ソビエト南西方面軍は犠牲者は約700,544名人となり、約616,304名がキエフでの戦いの1ヶ月間で戦死するか捕虜となり、ソビエト赤軍の南西方面軍はほとんど壊滅した。キエフを占領したナチス・ドイツ軍は嬉々として、抵抗勢力から難民まで虐待と虐殺して、その死体を焼き尽くした。有刺鉄線を取り巻いて4階建ビルに監禁したソビエト赤軍兵士を、1941年12月13日の夜間に銃撃して、窓から逃避した約70人のソビエト赤軍兵士の多くは虐殺された。ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士を絞首刑にして死体を見上げていた。戦死していたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、ロシア人を絞首刑した場面のスナップ写真が検出された。



2018年7月5日木曜日

沖縄戦にて、日本軍は反転してアメリカ軍に総攻撃して、虐殺された2人のアメリカ軍海兵隊の死体が大地に散在した。

沖縄戦にて、日本軍は反転して1945年5月3日から4日にアメリカ軍に総攻撃して、虐殺されたアメリカ軍海兵隊の2人の死体が大地に散在した。3日の深夜に日本軍は約5,000発以上もの砲弾を撃ち込んだ。日本軍はアメリカ軍の最前線に接近して、赤色の吊光弾を合図に総攻撃を開始した。日本軍の砲撃が激しさを増すにつれ、翁長北側高地のアメリカ軍は稜線上から撤退した。日本軍は奇襲攻撃して、駆け上がりす早い進撃にアメリカ軍は重機関銃の陣地から撤退した。日本兵が機関銃を奪い、アメリカ軍に対して掃射をした。夜明け頃からは、アメリカ軍は反撃して約2,000名の日本兵に対して、直ちに戦車を前進させ砲撃して撃退した。日本軍は廃墟となった小那覇集落に撤退して、これに対してアメリカ軍は集中射撃を加えた。直後に日本軍将校が軍刀を振りかざし日本人兵士を集結させ、最後の一兵まで戦えと命じた。追い込まれた日本軍は前進も後退もできず、撤退経路は重火器で完全に遮断され壊滅した。



2018年7月4日水曜日

ノモンハン事件により満洲西北部のハルハ河東部で、日本軍は土中に埋まった日本人兵士の死体を掘り起こし移送して処理した。

ノモンハン事件により、満洲西北部付近のハルハ河東部で、日本軍兵士は、土中に埋まった兵士の死体を掘り起こして移送して処理した。ノモンハン事件は、モンゴル軍警備隊に不法越境として、満洲国軍警備隊が攻撃を加えて、1939年5月11日に大規模な戦闘が勃発した。国境衝突事件に、ソ連はモンゴルに駐屯するソ連軍が参戦した。ソ連の近代兵器により、膨大な犠牲を受けて敗退した。1939年5月から9月にソ連・モンゴル連合軍と日本・満州軍との激戦にて、日本・満州軍は約18,155人が戦死して戦傷者等は約4,8649人に及んだ。ソ連・モンゴル軍は約9,865人が戦死して、戦傷者等は約163532人が犠牲となった。 周到な装備をしたソ連の近代化兵力により、日本軍は壊滅した。1939年9月15日のノモンハン事件停戦協定して、日ソ両国の軍事的また政治的緊張関係の帰結として1941年4月の日ソ中立条約が締結された。日ソ中立条約でソ連はドイツのみに対して総力戦をした。日本軍はノモンハン事件でソ連に敗北して、侵略を北進から南進に方向転換した。



2018年7月3日火曜日

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、切断した頭部を見せしめに公開した。

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、1991年に切断した頭部を吊り下げて見せしめに公開した。東ティモール独立革命戦線であるフレティリン(FRETILIN)は、1975年11月8日に東ティモールの独立宣言をした。12月7日からインドネシア軍は、東ティモールに全面攻略により、混乱に陥れて占領した。東ティモールの山岳部に逃れたフレティリンの抵抗勢力は、インドネシア軍に独立運動を継続した。村民らをフレティリンに接触させないように、再定住村の収容キャンプに強制移住させた。都市部の市民には、ニンジャの暴力組織や秘密警察に監視された。東ティモール人をインドネシア軍に徴用して、分断してフレティリンなどに戦闘をさせた。フレティリン勢力の容疑者らは、逮捕、尋問による虐待から虐殺もされた。国連主導の選挙によるフリティリン政権が、2002年5月20日に21世紀で最初の東ティモール民主共和国が独立して建国された。



2018年7月2日月曜日

空襲の被災者にベッドを確保と喧伝して、ナチス・ドイツは精神病入院患者をバスに積込み安楽殺人施設に移送した。

ヒトラーは、施設のベッド数をより多く確保するために、1942年7月28日の「安楽死」計画から本格的に実施した。第2次世界大戦の戦局の犠牲者を想定して、治療も効果のない精神病院などの精神障害者らを社会的に抹殺した。戦傷者や罹災者の収容所に代用するために、ドイツ各地の被災状況に合わせて、精神障害者の安楽死数を施策するブラント作戦を実施した。1943年2月1日以降には、戦争被災から精神病者を保護する名目と喧伝しながら、全精神障害者を登録して、6月末から安楽殺人を実行した。空襲による被災者にベッドを確保するために、精神病の入院患者をバスに積み込んで安楽殺人施設に移送した。被災者が急増すると、安楽殺人数は急上昇した。大量殺戮の必要性から、安楽殺人施設まで移送した。1943年7月末の甚大な犠牲のハンブルグ空襲から、安楽殺人を老人ホーム入所者から戦争精神病者までも含めた。無選別で無鑑定して、労働の非生産的な障害者を無差別に虐殺した。ナチス・ドイツによる1936年から1945年までの安楽殺人の犠牲者は、精神障害者と精神病患者は約80,000〜100,000人、障害児は約5,000人から8,000人と推定された。



2018年7月1日日曜日

日露戦争でロシア軍兵士は203高地で死体を検分して、日本軍は戦闘は2回の攻略は失敗し、膨大な犠牲者は軽視された。

日露戦争は、旅順港の防御の重要地点であった203高地が最も悲惨な戦闘となった。ロシア軍兵士も膨大な死体群が旅順要塞に散在した。ロシア軍兵士らは、犠牲となった死体を検分した。日本軍は戦闘は数ヶ月にわたる2回の攻略は失敗して、膨大な犠牲者は軽視された。ロシア軍は、203高地の防御の重要性は軽視して、要塞攻略はあまり重要ではなかった。ロシア軍側も203高地一帯は不利な地点でり、前進基地としての運用しか考えていなかった。日本軍は2度にわたり攻略は失敗して、バルチック艦隊の出撃を受けた。要塞正面への攻撃による消耗戦に突入するため、1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するも、ロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。結局12月5日に203高地は陥落した。ロシア軍は要塞の予備兵力が消耗枯渇した。日本軍も203高地の占領は戦略的にも戦術的にも寄与しなかった。多くの戦死者を出した。旅順攻略戦として犠牲者は、戦死者約16,000人、戦傷者約44,000人に及んだ。ロシア側の被害も大きく、予備兵や臨時に海軍水兵水兵までも、203高地で虐殺された。