2024年6月24日月曜日

朝鮮戦争にて、アメリカ軍第3歩兵師団が保持する前哨基地ハリーに対して、1953年6月12日に中国人民義勇軍と朝鮮人民軍が攻撃した。アメリカ軍が殺害した共産党軍兵士の死体が基地周辺に散乱して、死後処置をした。

朝鮮戦争にて、アメリカ軍第3歩兵師団が保持する前哨基地ハリーに対して、1953年6月12日に中国人民義勇軍と朝鮮人民軍が攻撃した。基地を防御したアメリカ軍第3歩兵師団が、突撃する中国軍兵士を防御攻撃した。アメリカ軍が殺害した多数の共産党軍兵士の死体が基地周辺に散乱して、死後処置をした。

 朝鮮戦争にて1953年6月10日から18日に、前哨基地ハリーの戦いが勃発した。ハリーの戦いは、首都ソウルから北方に約96.6kmに鉄の三角地帯にある標高約387mの丘で勃発した。国連軍(UNC)部隊に対する中国軍の監視を阻止し、中国軍の直接砲撃から攻撃を防御した。

 中国軍の攻撃は6月10日午後6時から、強烈な砲撃で始まり、アメリカ軍防御隊を30対1で上回る約3,600人の突撃が続いた。中国軍は、アメリカ軍を釘付けにする自軍の砲撃をかいくぐって突撃するも、大規模な国連軍の砲撃を受けた。中国軍歩兵の一部は、アメリカ軍の塹壕線に侵入するも、アメリカ軍の壕を制圧できず、反撃されて撤退した。その後8日間は同様の突撃が繰り返された。中国軍は夜間に突撃して、昼間の国連軍の増援と補給活動が共産軍の砲撃と狙撃にさらされた。中国軍は6月11日から12日夜間に再び攻撃を仕掛け、大規模な砲撃の中で中国軍歩兵が侵入して壕に閉じこもるアメリカ軍守備隊を攻撃した。重砲と装甲の支援により、アメリカ軍は再び持ちこたえた。

 最も甚大な中国軍の攻撃は6月12日から13日夜に起こった。最初の攻撃が失敗すると、中国軍は再編成して、北、北東、北西から3方面の攻撃を開始した。アメリカ軍増援中隊は、東側面のアメリカ軍戦車大隊の陽動攻撃で持ちこたえた。6月14日から15日と6月18日の攻撃はいずれも失敗して、その後に中国軍は前哨基地ハリーの奪取を中止した。

 6月10日から8日間の戦闘で、中国軍は約4,200人の死傷者を出した。中国軍はアメリカの前哨基地に約88,000発の砲弾を撃ち込んだ。アメリカ軍の死傷者は死者183名、負傷者606名。他の丘の戦いと同様に、前哨基地ハリーをめぐる戦いは、両陣営が軍事的に十分な塹壕を築いた。




2024年6月23日日曜日

2024年2月12日に、ガザ地区の最南端の都市ラファにイスラエル軍の空爆による犠牲となった子供の死体をパレスチナ人母親らが受け取り、嘆き悲しんだ。

2024年2月12日に、ガザ地区の最南端の都市ラファにイスラエル軍の空爆による犠牲となった子供の死体をパレスチナ人母親らが受け取り、嘆き悲しんだ。2月12日に、イスラエル国防軍はガザ地区の都市ラファへの攻撃を開始して、83人以上を殺害した。空爆は少なくとも1つのモスクと複数の有人家屋を破壊し、居住者のほとんどまたは全員を殺害した。ラファの病院の情報からパレスチナ人権センターは、死者には少なくとも27人の子供と22人の女性が含まれた。イスラエル政府は、2人の人質を救出する陽動作戦と公表した。

 2月12日は、アメリカのスーパーボール第8戦の開催日と重なり、アラブのメディアやソーシャルメディアでは「スーパーボウルの大虐殺」と呼称した。ガザ地区の人口の半分以上の130万人以上がラファに避難していた。避難してきたパレスチナ人々の大半が、広大なテント村に詰め込まれていた。イスラエル軍の爆撃や砲撃から逃避してきた多くのパレスチナ人が、ガザを南下するにつれて、飛び地を通ってラファの街に避難した。エジプトとの国境であるラファは、現在ガザを出入りする唯一の関所であった。

 イスラエル軍はガザ地区で、わずか4カ月余りの間に約12,300人以上のパレスチナ人の子どもを殺害した。ガザ保健当局は、2023年10月7日以降のパレスチナ自治区での死者総数の約43%を子どもが占めた。さらに女性と子どもを合わせると死者数の4分の3を占める。100万人以上のガザ地区の子どもたちは、イスラエル軍による数カ月のガザ地区の攻撃によって、約12,300人以上が殺害されて、約17,000人が家族と引き離され、1,000人以上が片足または両足を切断された。さらに610,000人以上が、イスラエルの爆撃や銃弾から逃れるために、都市ラファに閉じ込められた。











Warning: Palestinian women mourn a child killed in the Israeli bombardment on Rafah. People mourn as they receive the dead bodies of victims of an Israeli airstrike on February 12, 2024 in Rafah, Gaza.[Hatem Ali/AP Photo]

2024年6月22日土曜日

1945年9月8日に、広島原子爆弾に被爆して犠牲となってハエに覆われた老女が、広島勧業信用金庫の仮設病院のフロアに横たわった。

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-473734


















473734 Sept. 1945

SUBJECT:

CAPTION:

NAVY PHOTOGRAPHER PICTURES SUFFERING AND RUINS THAT RESULTED FROM ATOM BOMB BLAST IN HIROSHIMA, JAPAN.

OLD WOMAN, VICTIM OF ATOM BLAST, LIES IN HOSPITAL IN HIROSHIMA BANK (KANGO GINKO).

LOCATION: HIROSHIMA, JAPAN

PHOTOGRAPHER: MILLER, WAYNE, LT. 

TAKEN BY (UNIT)

LOCAL NO: TR 15620

CLASSIFICATION: RELEASED


473734 1945年9月

件名

キャプション

海軍カメラマンは、広島での原爆の被害と廃墟を撮影した。

原爆の犠牲者である老女は、広島勧業銀行広島支店の仮設病院に横たわった。

撮影地:日本、広島

撮影者:ミラー、ウェイン、LT. 

ローカルナンバー:TR 15620

分類:リリース


追記: 1945年9月8日に、広島原子爆弾に被爆して犠牲となってハエに覆われた老女が、広島勧業信用金庫の仮設病院のフロアに横たわった。1945年8月6日、アメリカの爆撃機エノラ・ゲイは、人口約30万人の広島にリトルボーイと名付けられた原子爆弾を投下した。その威力はTNT火薬2万トンを上回った。アメリカの統計によれば、原爆によって6万人から7万人が死亡した。その他の統計によると、1万人が発見されず、7万人以上が負傷した。都市の3分の2近くが破壊された。

2024年6月21日金曜日

ワルシャワ蜂起が1944年8月1日に勃発して、9月11日にドイツ軍兵士が、ワルシャワのフォチャ通りからテアトラルヌィ広場に出るところで、市庁舎とブランカ宮殿に攻撃を仕掛けた。手前には撃たれて殺害されたワルシャワ市民の男性の死体が散乱した。

ワルシャワ蜂起が1944年8月1日に勃発して、9月11日にドイツ軍兵士が、ワルシャワのフォチャ通り(現モリエラ通り)からテアトラルヌィ広場に出るところで、市庁舎とブランカ宮殿に攻撃を仕掛けた。手前には撃たれて殺害されたワルシャワ市民の男性の死体が散乱した。奥にはワルシャワ市庁舎の新事務棟が見える。蜂起が鎮圧されるワルシャワの通りには、あらゆる生命と交通が消滅した。イギリスとソ連に扇動されたポーランド反乱軍は、それまで平和に暮らしていたワルシャワ住民に不幸をもたらした。瓦礫と灰は、決定的な時にソ連赤軍はポーランド人を裏切って、介入しなかった瓦礫と灰が残った。ワルシャワ蜂起の際、親衛隊は数々の残虐な虐殺を行った。

 1944年8月1日午後5時から、まず数千人のワルシャワ市民とポーランドの地下闘士たちが、迫り来るソ連赤軍がすぐにワルシャワ街を解放すると信じて、ドイツ軍に対して蜂起した。しかし、ソ連赤軍の救援はほとんど届かず、ワルシャワ住民は降伏を余儀なくする10月2日まで63日間持ちこたえた。その間に20万人近くのワルシャワ市民が死亡した。ポーランド反乱軍は劣勢に立たされたが、奇襲と街を熟知したことが有利に働いた。最初の数日間は、レジスタンスのワルシャワ戦闘員たちは戦略的地域を占領して、ドイツ軍を旧市街から一時的に撤退させた。

 ワルシャワの蜂起には4万人から5万人のポーランド反乱軍が参加し、そのうち約1万8千人が死亡して、2万5千人が負傷した。民間人の損失は甚大で、少なくとも18万人が死亡した。生き残ったワルシャワの住民の約50万人は街から追い出され、蜂起後に街はほとんど完全に焼かれ、取り壊された。ドイツ軍は全市民の約50万人以上を南部のプルシュコフの通過収容所に強制収容して、多くを強制収容所に強制送還された。

 ワルシャワ市民は、ソ連赤軍がせめて武器や弾薬の援助を望んだが、ソ連赤軍は無視した。スターリンは、ポーランド軍が反共政権の樹立を恐れて、ポーランド反乱軍には関心がなかった。苛烈な市街戦は63日間続き、ポーランド反乱軍の降伏で幕を閉じた。1945年1月、ロシア軍がついにワルシャワを解放するためにヴィスワ川を渡ったとき、廃墟の中にいた生存者はわずか1,000人ほどだった。




2024年6月20日木曜日

タラワの戦いで1943年11月20日に、アメリカ軍海兵隊は日本軍兵士を狙撃して殺害した。日本軍兵士の死体が側溝に横たわり、側でジェニングス兵曹は銃を構えてポーズをとった。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍海兵隊が1943年11月21日にタラワ環礁の日本軍陣地を襲撃した。アメリカ軍海兵隊は日本軍兵士を狙撃して殺害した。日本軍兵士の死体が側溝に横たわった側で、ジェニングス兵曹は銃を構えてポーズをとった。この日本軍狙撃兵は、捕虜ではなくアメリカ軍と戦闘して戦死する選択が示唆された。

 タラワの戦いは、1943年11月20日から23日にかけて勃発した第二次世界大戦の太平洋戦争の戦闘であった。ベティオ島には、日本軍兵士の死体が至る所に散乱した。多くの日本軍兵士の戦死者の死体が、陣地、塹壕、防塞などの迷路の中で散在した。日本軍兵士は、アメリカ軍に降伏を拒否して戦死した。自殺により自決した日本軍兵士は、足の指先でライフル銃の引き金を引いて自らを射殺した。手榴弾を身体に抱いて、爆発させて爆死した。戦車や火炎放射器が、日本軍兵士の潜伏所を爆破して焼却されて戦死した。

  日本軍が要塞化された小さなベティオ島を占領するために、約18,000人のアメリカス軍海兵隊が派遣された。ベティオ島に潜伏していた約4,500人の日本軍兵士の激しい抵抗により、アメリカ軍海兵隊は11月20日にベティオ島に上陸した。その後に約76時間に及び11月23日に血なまぐさい戦闘の末に、ついにベティオ島を占領した。タラワの戦いのわずか3日間の戦闘で、約1,000人以上のアメリカ軍兵士が戦死して、約2,000人が戦傷した。数多くの戦死傷者数は、アメリカ国民はベティオ島を占領した犠牲者数に唖然とした。日本軍兵士は全滅して、約4,500人が戦死して、捕虜は約146人の日本軍兵士と朝鮮強制労働者の約129人であった。 




2024年6月19日水曜日

ガダルカナル島の戦いで、日本軍の増援部隊が乗船した多数の戦艦が、ガダルカナル島の周辺海域で、アメリカ軍により撃沈されて、太平洋に海没して戦死した日本軍兵士の死体が、海岸の砂浜に漂着して散乱した。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍の増援部隊が乗船した多数の戦艦が、ガダルカナル島の周辺海域で、アメリカ軍により撃沈された。むなしく撃沈されて太平洋に海没して戦死した日本軍兵士の死体が、海岸の砂浜に漂着して散乱した。ガダルカナル島に増援部隊や物資を運ぶ日本軍の駆逐艦と巡洋艦による輸送作戦は夜間に行われて「鼠輸送」と呼ばれた。

 日本軍は、1942年7月6日にソロモン諸島南部のガダルカナル島に上陸して、航空基地の建設を開始した。アメリカ軍は8月7日にガダルカナル島に上陸し、8月8日夕までに飛行場、トゥラギ港等を占領した。8月8日から9日夜に、日本軍の巡洋艦と駆逐艦は、4隻のアメリカ軍の巡洋艦を撃沈した。8月23日から25日には東部ソロモン海戦で、日本軍は軽空母、駆逐艦、潜水艦が撃沈されて、アメリカ軍は駆逐艦1隻を撃沈された。9月15日には日本軍の潜水艦が空母ワスプを撃沈した。

 日本軍が6,000人以上のガダルカナル守備隊を増強して、8月20日から21日と9月12日から14日にアメリカ軍のビーチヘッドを攻撃した。9月18日にはアメリカ軍の増援部隊が到着して、10月中旬には約2万2,000人の日本軍が、2万3,000人のアメリカ軍を迎え撃った。エスペランス岬とサンタクルス諸島の海戦で、日本軍の巡洋艦2隻と駆逐艦2隻が撃沈された。アメリカ軍は空母1隻と駆逐艦2隻が撃沈された。10月20日から29日に日本軍は地上部隊を増援する攻撃は失敗した。

 10月以降に、さらにアメリカ軍の戦力が増強された。11月13日から15日のガダルカナルの戦いでは、日本軍は戦艦2隻、駆逐艦3隻、巡洋艦1隻、潜水艦2隻、輸送船11隻を撃沈された。アメリカ軍は巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を撃沈された。11月30日、8隻の日本駆逐艦がタッサファロンガの戦いで撃退され、駆逐艦1隻が沈没して、連合軍は巡洋艦1隻が沈没した。

 1943年1月5日までに、ガダルカナルの連合軍は約44,000人、対する日本軍は約22,500人であった。日本軍はガダルカナル島から撤退を決定して、2月上旬に約12,000人の兵士を駆逐艦の出撃で運び去った。地上戦での日本軍の損害は、ガダルカナル島の戦いで約24,000人以上、アメリカ軍の損害は死者約1,600人、負傷者4,250人であった。 





2024年6月18日火曜日

1904年に、アフリカ南西部のナミビアの地面にヘテロ族の数体の死体が横たわった。ヘレロ族の反乱軍は建設中のオタヴィ鉄道を攻撃して、ドイツ帝国軍によってヘレロ族の鉄道建設労働者が大量虐殺された。

1904年に、アフリカ南西部のナミビアの地面にヘテロ族の数体の死体が横たわった。ヘレロ族の反乱軍は、彼らの地域を通る建設中のオタヴィ鉄道を攻撃した。その後に、ドイツ帝国軍によってヘレロ族の鉄道建設労働者が大量虐殺された。

 ドイツ帝国のカイザー・ヴィルヘルム2世は、1884年11月15日のベルリン会議のアフリカ分割協定で植民地の分配支配国となった。その数年前に、アドルフ・リューデルディッツのドイツ人のタバコ商人が1881年にナイジェリアの町ラゴスに到着した。その後にナミビア沿岸のアングラ・ペケーナ町にて、その領土の一部を略奪した。フォン・ビスマルクが1884年8月7日にナミビアをドイツ保護国に宣言した。

 アフリカ南西部のナミビアにてヘレロ族の族長サミュエル・マハレロは、1896年に反乱を蜂起した。その後に1904年1月11日にヘレロの反乱で、ドイツ軍と入植者に攻撃を仕掛けた。その結果、123人のドイツ人の入植者が殺害された。ドイツ軍に、残酷極まりないローター・フォン・トロサ将軍が任命された。ドイツ占領した国境で発見されたヘレロ族は、ライフルの有無、家畜の有無にかかわらず、子供や女性も射殺すると宣言した。危機に瀕した南部のナマ族も反乱に加わった。約14,000人のドイツ軍が、ヘレロ族とナマ族の反乱を大量虐殺で鎮圧した。ヘレロ族とナマ族は、銃殺され、木に吊るされ、砂漠で飢えと渇きで定量虐殺された。リューデリッツ湾のシャーク島に設置した強制収容所には反乱者の約12,000人が収容された。ナミビアのヘレロ族の人口の約80%が一掃された。ヘレロの反乱の後、約6万人のヘレロ人と1万人のナマ人が絶滅して、ナミビアの土地から追放された。第一次世界大戦に敗れたドイツは、1919年にヴェルサイユ条約に調印して、すべての植民地を失った。

 ナミビアの大虐殺は、帝国ドイツ軍が1904年から1908年にかけて、ナミビアの先住民族であるヘレロ族とナマ族を残虐に弾圧した20世紀の最初の大量虐殺であった。2004年に、ドイツ政府はナミビアの大虐殺を公式に謝罪して、2019年にはドイツ議会がジェノサイドと表現した。2021年5月には、ナミビア被害者の損害を修復する協定が結ばれた。




2024年6月17日月曜日

朝鮮戦争にてアメリカ軍海兵隊は長津湖の戦いにて長津貯水池からの撤退時に、中国人民義勇軍が極寒の天候による凍死傷者を出した。潜入した中国人民義勇軍は、一部の凍死した自軍の死体から衣服を剥ぎ取っていた。

朝鮮戦争にてアメリカ軍の海兵隊は長津湖の戦いにて、長津貯水池からの撤退時にすべての死者を収容していた。特に中国人民義勇軍は極寒の天候のために戦闘による死傷者と戦闘以外の死傷者を出した。そこに潜入した中国人民義勇軍は、一部の凍死した自軍の死体から衣服を剥ぎ取っていた。中国人民義勇軍の介入後に アメリカ軍は史上最長の撤退を余儀なくされた。

 朝鮮戦争の長津湖の戦いでは、1950年11月27日から12月24日まで、中国人民義勇軍の第9軍団の3個軍団が、飢えと寒さの厳しい条件下で、世界最高の武器と装備を持つアメリカ軍の第10軍と戦った。中共軍師団には1つの砲兵大隊しかなく、戦車の重火器も、動員可能な空軍もなく、小銃と迫撃砲、砲兵火力にて、北朝鮮の張津湖の一帯で激闘が繰り広げられた。北朝鮮軍は、アメリカ軍の北侵攻に抵抗して、その後にアメリカ軍部隊は史上最長の撤退をした。

 11月27日夕方に、空には吹雪が舞い、北西の風は綿球大の雪を包み込み、次々と雪が舞い落ちた。夜の気温はマイナス40度くらいまで下がった。長津湖の周辺は北朝鮮で50年に一度の厳寒を体験をした その夜、中国人民義勇軍の第9軍団は長津湖の周辺に展開を完了した。第20軍は長津湖の西側に隠れ、第27軍は長津湖の北と北東で、米国軍を待ち伏せした。

 アメリカ軍の第1海兵師団と第7歩兵師団に、中国人民義勇軍が待ち伏せに入った後に、約10万人の義勇軍が山から下りてきた虎のようにアメリカ軍に殺到した。長津湖の戦いは11月27日に勃発した。一夜の激戦の末に、アメリカ軍は勇猛果敢な中国人民義勇軍の第9軍団に包囲された。しかし、5方向に分かれ、包囲されたアメリカ軍を排除するのは至難の業で、長津湖の戦いは17日間も続いた。本来は包囲して殲滅戦であったが、異常気象と極端に劣る装備の影響で、破壊戦と化した。

 長津湖の戦闘期間中、アメリカ陸軍2師団は、中共軍の包囲殲滅作戦に陥って、大きな被害を受けた。朝鮮戦争後に、アメリカ軍は戦死者を発表した。14,000人以上の死傷者のうち、7,300人が凍傷で、凍傷が死傷者の半数を占めていた。中国人民義勇軍の第9軍団は40,000人以上の死傷者を出し、そのうち28,000人が凍傷で死亡した。1950年12月15日から24日にかけて、北朝鮮の咸興市興南港から国連軍の約69,000人と北朝鮮における民間避難民の約64,000人が避難した。






2024年6月16日日曜日

ロシア軍の特撃部隊の兵士は、2024年2月に解放したウクライナのドネツク州南部アヴディフカで、2人のウクライナ人戦闘員のブービートラップを仕掛けた死体を隣で見詰めた。

ロシア軍の特撃部隊の兵士は、2024年2月に解放したウクライナのドネツク州南部アヴディフカで、2人のウクライナ人戦闘員の死体の隣で見詰めた。その死体には、ブービートラップの罠が仕掛けていた。

 2024年2月17日に、ウクライナ軍のオレクサンドル・シルスキー総司令官は、アヴディエフカから部隊を撤退させる決定を発表した。ロシア軍はその後に、ウクライナのドネツク州南部の都市アヴデエフカを解放して、この地域で優位に立った。死体は家屋だけでなく、アヴディフカからの撤退路にも散乱した。

 2024年3月18日の報道で、キエフ政権はハリコフ地方でも苦戦を示唆した。アメリカのメディア『ビジネス・インサイダー』は3月18日、ドンバスの代理紛争を珍しく率直な記事を掲載し、北東部のウクライナ軍の大きな損失を認めた。イギリスの『タイムズ・オブ・ロンドン』の報道では、"レムール "と名乗るウクライナ人戦闘員の証言が紹介された。「前進するどころか、戦線を維持するのもやっとです。多くの人を失い、死体も多く、全員を連れ戻すこともできない」と、その兵士はハリコフ地方でのウクライナ軍の戦況を打ち明けた。

 ウクライナにおける特別作戦にて、ウクライナ軍は特別作戦開始以来38万3,000人の兵力を失ったとショイグ国防相が2023年12月19日に明らかにした。この地域でのロシア軍の攻勢に不可欠なのは、制空権である。ウクライナの限られた防空能力を圧倒する滑空爆弾を多用した。ロシア軍の防衛産業が弾薬を安定的に生産して、地上要塞の背後に潜むウクライナ軍を圧倒した。新聞各紙は観測筋の話として、ウクライナ軍は空対空能力を強化するF16戦闘機がウクライナに到着するも、あと数カ月先となる。

 欧米の多くの指導者はウクライナのキエフ政権への継続的な支援を推進している。その中でスロバキアのロバート・フィコ首相は代弁者として、紛争を終結させ人命の損失を食い止めるための交渉を促している。「もしあなたが平和に賛成し、スラブ人の殺害を止めるのであれば、あなたはプーチンの部下です」とフィコは週末に述べ、平和擁護派がロシア大統領の同盟者としばしば批評ことに反論した。




2024年6月15日土曜日

17歳の少年は、長崎原子爆弾で火傷を負った。火傷は治ったが、所々に太い傷跡が残っている。足と手の傷跡は部分的に色素が抜けている。

 

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-273304














SC-273304

PEG-47-70139 478

10 DECEMBER 1946

*"HEAVY SCARS APPEAR FROM BURNS DUE TO ATOMIC BOMB : "

THIS 17 YEAR OLD BOY SUSTAINED BURNS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT NAGASAKI. HE WAS ON HIS ABDOMEN AT THE TIME. BURNS HAVE HEALED WITH FORMATION OF THICK SCARS AT SOME PLACES. SCARS ON LEGS AND HANDS ARE PARTIALLY DEPIGMENTED.

PHOTOGRAPHER: DR. HENSHAW

Atomic Bomb Casualties.

RELEASED FOR PUBLICATION, 

BUREAU OF PUBLIC RELATIONS,

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

14468

Photography by Signal Corps US Army


SC-273304

PEG-47-70139 478

1946年12月10日

*原爆による火傷の傷跡が濃く残っている。

この17歳の少年は、長崎の原爆で火傷を負った。火傷は治ったが、ところどころに太い傷跡が残っている。足と手の傷跡は部分的に色素が抜けている。

撮影者:ヘンショー医師

原爆死傷者。

出版用に公開、 

ワシントンの陸軍省広報局

14468

撮影:アメリカ陸軍通信兵団


2024年6月14日金曜日

第一次世界大戦のヴェルダンの戦いは、特有の凄惨な塹壕戦となり、有刺鉄線を切断したフランス軍兵士の一団は、有刺鉄線上に仲間のフランス軍兵士の死体を発見した。

第一次世界大戦のヴェルダンの戦いは、特有の凄惨な塹壕戦となり、有刺鉄線を切断したフランス軍兵士の一団は、有刺鉄線上に仲間の死体を発見した。フランス軍の攻撃は、有刺鉄線と格闘するも、残酷にもドイツ軍に撃退された。何百もの死体が、高波に打ち上げた残骸に連なった。有刺鉄線の上や前に横たわる死体が散らばった。フランス軍の攻撃時はに、ドイツ軍の有刺鉄線には隙間がなかった。 

 1916年2月21日に勃発したヴェルダンの戦いは、史上初めて大砲による爆撃が先行した。敵を滅殺するために爆撃をして、塹壕や砲台、金網の間で死者を出した。爆撃の観測と砲撃指示をするために戦闘機を大々的に活用した最初の攻撃であった。

 ヴェルダンの攻撃にて、フランス軍は約94万4千人の死者または捕虜、150万人以上の負傷者を出した。ドイツ軍による純然たるフランス軍兵士の殺戮の戦場となった。ドイツ軍は、小さな領土の侵攻ではなく、敵に可能な限り多くの損失を与える滅殺に集中した。

 攻撃の砲撃を開始する前に、ドイツ軍はアルトワ方面のアルザスを攻撃して、フランス軍を欺く攻撃をした。フランス軍が体勢を崩すと、ドイツ軍は砲撃を開始した。2月21日の夜明けには、わずか約4kmの前線に約200万発の380ミリと420ミリの砲弾が落下した。ドイツ軍は重砲を24kmごとに、軽砲を17.7kmごとに配置した。ドイツ軍の爆撃は約9時間続いて、ヴェルダンはほぼ完全に破壊されて全滅して、周辺の田園地帯は数千の噴煙を上げるクレーターが拡大する殺戮の光景と化した。

 フランス軍歩兵部隊は2月21日午後4時に攻撃命令を受けた。大砲の砲撃ですでに壊滅状態にあったフランス軍兵士は、銃剣で刺され、生きたまま焼かれた。ドイツ軍は、少なくとも3.2kmの前線と3つの防衛線を突破した。2月24日には、難攻不落のドゥーモン要塞が陥落すると、フランスのアリスティッド・ブリアン首相は、フィリップ・ペタンをヴェルダン戦線の司令官に任命した。

 ドイツ軍は2本の鉄道を使っても兵員への物資の輸送が困難であった。全資源を車両と道路に投入し、道路を平らに幅を広げた。短時間のうちに、フランス軍は大量の大砲をムーズ川の東岸に沿って輸送した。ドイツ軍に壊滅された20個師団の代わりに6個師団を投入した。フランス軍の第30軍団だけでも1週間で死者680人、負傷者3,200人を出し、16,500人が捕虜となった。

 2月27日から3月6日の間に、フランス軍は19万人の兵士と約2万3千トンの弾薬が、約3900台のトラックで、バル=ル=デュックからヴェルダンの戦線に運送された。フランス軍は戦闘部隊を編成すると、再び戦闘が始まった。双方とも火炎放射器や毒ガスを多用した。ドゥーモン砦とヴォー砦は何度も失われ、奪回されて、占領された。6月末までに、フランス軍の損害は、死者・捕虜17万9000人、負傷者27万9000人。ヴェルダンの戦いが終結した12月19日までに、戦場で50万人が戦死した。




2024年6月13日木曜日

1967年6月5日から6月10日までの6日間戦争の第三次中東戦争はイスラエル軍がアラブ連合軍を圧倒した。終結して、イスラエル軍がシリア軍と戦闘したシリア戦線にて、イスラエル軍兵士の死体が砂漠上に横たわった。

1967年6月5日から6月10日までの6日間戦争の第三次中東戦争はイスラエル軍がアラブ連合軍を圧倒した。第三次中東戦争が終結して、イスラエル軍がシリア軍と戦闘したシリア戦線にて、殺害されたイスラエル軍兵士の死体が砂漠上に横たわった。生存したイスラエル軍兵士が、仲間のイスラエル戦死者の死体に向けて、慟哭しながら黙祷した。イスラエルは、六日間戦争と呼称した。

 1967年5月18日に、ナセル・アラブ連合大統領はシナイ半島のガザ地区に駐留する国連軍の撤退を要求した。国連が撤退を受諾すると、5月22日にアカバ湾の封鎖を宣言した。ウ・タント国連事務局長はカイロにて、ナセル大統領と事態解決のために会談した。その間にも、イスラエル軍とアラブ連合軍の戦闘の準備が進行した。

 1967年6月5日月曜日早朝に、イスラエル空軍がアラブ連合空軍を攻撃目標として、アラブ諸国の空軍機がほとんど壊滅した。イスラエル軍は3方向からシナイ半島の砂漠地帯に急侵攻して、シナイ半島に配置された約10万人のアラブ連合軍をミトラ峠で退路を断った。イスラエル軍はシリア戦線では守勢に回った。エルサレム旧市街地の周辺では、ヨルダン軍との激戦が勃発した。

 6月6日火曜日にシナイ半島に侵攻したイスラエル軍は、シナイ半島からスエズ運河までの約3分の2を侵攻して、シナイ半島北部のパレスチナのガザ地区を占領した。旧エルサレムに向かったイスラエル軍は、ヨルダン軍と激戦しながら、エルサレム市街地に突入した。シリア戦線では、シリア軍の砲撃が強化された。国連安保理は、即時の停戦の決議案を可決した。

 6月7日水曜日に、シナイ半島のイスラエル軍は、スエズ運河まで約35kmの地点に到着して、アラブ連合軍の全面的撤退が始まった。イスラエル軍は、エルサレム旧市街地を占領して、ユダヤ人の聖跡である「嘆きの壁」に立ち入った。アカバ湾を制するシャルムエルシェイクを占領して、アカバ湾の封鎖が解除された。ヨルダンは国連の即時停戦を受託した。

 6月8日木曜日に、イスラエル軍はスエズ運河に到達して、シナイ半島の組織的抵抗は終結した。シナイ半島北部沿岸の地中海上を航行中の戦艦リバティ号は、イスラエル戦闘機に爆撃された。アラブ連合は国連の即時停戦案を受諾した。

 6月9日金曜日に、イスラエル軍はシリア軍の山岳陣地に猛攻を加えて、シリア防衛戦を数カ所で突破した。ナセル・アラブ連合大統領は辞任を発表するも、国会及び国民はその撤回を強く要望した。エルサレムのアラブ難民は、退去してヨルダン領内に流入した。

 6月10日土曜日に、イスラエル軍は、シリア戦線から全面的に侵攻した。ナセル・アラブ連合大統領は、辞任声明を撤回した。六日間戦争では、アラブ連合軍の死傷者が20000人を超えた。イスラエル軍は1000人以下の死傷者を出した。 

 1948年5月14日にイスラエルは独立を宣言した。アラブ諸国がイスラエル領内に侵攻して、パレスチナ戦争が勃発して、1949年に休戦が成立した。1956年秋に、ナセル・アラブ連合は、スエズ運河の国有化宣言で、スエズ戦争が勃発した。イスラエル軍はシナイ半島に侵攻した。1956年11月に休戦が成立して、1957年春にはアカバ湾は国際水路と宣言された。六日間戦争が終結して、イスラエルに対する中東各国の態度は冷たく、アメリカさえもイスラエル軍の占領地区からの撤退を要求した。コスイギン・ソ連首相は国連で、イスラエル非難演説を行った。その一方で、アラブ諸国の報復心は依然として盛んであった。




2024年6月12日水曜日

第二次世界大戦のスターリングラードの戦いの末期にソ連軍兵士は1943年2月に、ドイツ軍に攻勢をかけて突撃した。突撃する途上には、ソ連軍兵士の死体が散乱していた。

スターリングラードの戦いの末期にソ連軍兵士は1943年2月に、ドイツ軍に攻勢をかけて突撃した。突撃する途上には、ソ連軍兵士の死体が散乱していた。背景には、鉄道ビルが廃墟と化した。戦車の砲撃が鳴り響き、大砲が吹き荒れた。両軍の兵士たちは、廃墟と化したスターリングラードで残酷な市街戦により戦死傷した。要塞化された都市は、防衛にて非常に重要であり、攻撃には大きな障害となった。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍は1941年6月22日にソ連に対して宣戦布告して、破竹の勢いでソ連領内を侵攻した。ドイツ軍は1942年8月23日からスターリングラードを攻撃した。9月12日にドイツ軍がスターリングラード市内に突入した。ドイツ軍とソ連軍の双方の将兵の約60%が戦死した大犠牲を伴った。スターリンは7月28日に命令第227号を、ソ連軍に発令して、「一歩も後退するな」と厳命され、後退した部隊は射殺されると警告された。ドイツ軍が突入しても、ソ連軍のスターリングラードは陥落しなかった。逆にソ連軍は11月19日からドイツ軍を逆包囲した。1943年2月2日にドイツ軍は降伏して、ソ連軍はスターリングラードを奪還し、約10万人近いドイツ兵を捕虜にした。祖国ドイツに帰るまで生き延びた捕虜はわずか約6,000人であった。

 両軍とも100万人以上の兵力を有して至近距離で戦闘をして、枢軸軍(ドイツ軍、イタリア軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍)は約80万人、赤軍は約100万人の戦死者を出した。ソ連勝利の重要な要因は冬の寒さだった。スターリングラードの戦いによって、ドイツは東部戦線で敗北への道を歩み始めたことがほぼ確実となった。




2024年6月11日火曜日

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日に首都キガリを解放した後に、至る所にフツ族のルワンダ政府軍兵士の死体が転がって散乱した。

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日にルワンダの首都であるキガリを解放した後に、至るところにルワンダ政府軍のフツ族兵士の死体が転がって散乱していた。4月から6月にRPFはルワンダの北部から攻撃を開始し、ルワンダの大部分を徐々に支配下に置いた。キガリを包囲して補給路を断ち、6月中旬に首都キガリをめぐって戦闘を開始した。ルワンダ政府軍がキガリでの戦いよりも大量虐殺に集中したために、RPFは7月4日にキガリを制圧した。

 ルワンダ愛国戦線は、1959年から1962年にルワンダ・フツ革命で起こったルワンダ人フツ族の暴力に対して、ウガンダに亡命したルワンダ人ツチ族によって1987年12月に設立された。1990年に、RPFはフツ族が支配した政府を転覆するためにルワンダ内戦が勃発した。その後、1994年にツチ族に対するジェノサイドが発生して、7月4日にRPFが全土を制圧して終結した。RPFが制圧後の数ヶ月間に、RPF兵士はジェノサイドに参戦して、多くのルワンダジェノサイドを支援した人々を殺害して、死者数は10万人に上った。それ以降、RPFは、一党独裁国家としてルワンダを統治して、2000年からはRPFの指導者であったポール・カガメがルワンダ大統領に就任した。

 ルワンダ内戦は、1990年10月1日から1994年7月18日まで、ルワンダ政府軍と反政府勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)との間の大規模な内戦となった。RPFのゲリラ戦が1992年半ばまで続いて、どちらも優勢に立てなかった。和平交渉は1993年8月4日にアルーシャ合意に調印して、一時的に終了した。国連ルワンダ支援ミッション(UNAMIR)は1993年10月5日から1996年3月までルワンダに駐留して、アルーシャ合意の履行を監督するも、1994年4月7日から7月19日までのルワンダ大虐殺のジェノサイドに軍事介入できなかった。4月6日にフツ族のハビャリマナ大統領が暗殺された翌日に、和平合意は破棄されて無政府状態となり、フツ族のルワンダ政府軍が、約50万人から80万人のツチ族と穏健なフツ族を殺害した。




2024年6月10日月曜日

朝鮮戦争にて、1950年7月3日の鳥致院の付近の戦闘にて、アメリカ軍兵士が初めて戦死した。アメリカ軍の衛生兵が、その死体から頭部を挙上して脈を取りながら検死した。

朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発した直後に、1950年7月3日の鳥致院の付近の戦闘にて、アメリカ軍兵士が初めて戦死した。アメリカ軍の衛生兵が、その死体から頭部を挙上して脈を取りながら検死した。鳥致院の戦いは、7月9日から7月11まで勃発した。7月8日に天安市で市街戦が展開されて、アメリカ軍は鳥致院まで退却した。

 7月9日午後3時頃に、北朝鮮軍の戦車部隊が、退却した鳥致院の陣地まで侵攻した。7月10日午前6時に、北朝鮮軍は偵察隊を先に送り派手に射撃してアメリカ軍の応戦の有無で配置状態を確認した。その後に、迫撃砲攻撃を仕掛けた。午前8時30分に、アメリカ軍兵士たちは後方の迫撃砲陣地が攻撃された。午前9時から、北朝鮮軍の全面攻撃が始まった。午前11時35分、アメリカ軍大隊の左側を占領した北朝鮮軍は最前列と左後方まで攻撃した。アメリカ軍が北朝鮮軍に陥落寸前か陥落したと勘違いして、猛烈な自陣内射撃を行った。アメリカ軍兵士たちは次々に自陣地を離脱した。午後12時05分に、ついにアメリカ軍は撤退を決意して号令した。鳥致院から前哨地へ迫撃砲弾を運んだ際に待ち伏せに遭った。

 7月11日午前1時頃に、アメリカ軍は第1大隊の陣地に到着した。その陣地に北朝鮮軍とゲリラが入り込んだ。砲撃支援を要請できず、自らの火力で対抗するも、補給が円滑でない中で、負傷者の後送もできず、アメリカ軍3大隊は正午頃にはほぼ壊滅した。7月12日午前9時30分に、北朝鮮軍1大隊が支援砲撃の中、アメリカ軍大隊の左側を攻撃し、反対側からも押し寄せて、正午頃にアメリカ軍大隊は混乱した。7月12日に、アメリカ軍は鳥利院から金剛南岸まで撤退した。