2024年6月13日木曜日

1967年6月5日から6月10日までの6日間戦争の第三次中東戦争はイスラエル軍がアラブ連合軍を圧倒した。終結して、イスラエル軍がシリア軍と戦闘したシリア戦線にて、イスラエル軍兵士の死体が砂漠上に横たわった。

1967年6月5日から6月10日までの6日間戦争の第三次中東戦争はイスラエル軍がアラブ連合軍を圧倒した。第三次中東戦争が終結して、イスラエル軍がシリア軍と戦闘したシリア戦線にて、殺害されたイスラエル軍兵士の死体が砂漠上に横たわった。生存したイスラエル軍兵士が、仲間のイスラエル戦死者の死体に向けて、慟哭しながら黙祷した。イスラエルは、六日間戦争と呼称した。

 1967年5月18日に、ナセル・アラブ連合大統領はシナイ半島のガザ地区に駐留する国連軍の撤退を要求した。国連が撤退を受諾すると、5月22日にアカバ湾の封鎖を宣言した。ウ・タント国連事務局長はカイロにて、ナセル大統領と事態解決のために会談した。その間にも、イスラエル軍とアラブ連合軍の戦闘の準備が進行した。

 1967年6月5日月曜日早朝に、イスラエル空軍がアラブ連合空軍を攻撃目標として、アラブ諸国の空軍機がほとんど壊滅した。イスラエル軍は3方向からシナイ半島の砂漠地帯に急侵攻して、シナイ半島に配置された約10万人のアラブ連合軍をミトラ峠で退路を断った。イスラエル軍はシリア戦線では守勢に回った。エルサレム旧市街地の周辺では、ヨルダン軍との激戦が勃発した。

 6月6日火曜日にシナイ半島に侵攻したイスラエル軍は、シナイ半島からスエズ運河までの約3分の2を侵攻して、シナイ半島北部のパレスチナのガザ地区を占領した。旧エルサレムに向かったイスラエル軍は、ヨルダン軍と激戦しながら、エルサレム市街地に突入した。シリア戦線では、シリア軍の砲撃が強化された。国連安保理は、即時の停戦の決議案を可決した。

 6月7日水曜日に、シナイ半島のイスラエル軍は、スエズ運河まで約35kmの地点に到着して、アラブ連合軍の全面的撤退が始まった。イスラエル軍は、エルサレム旧市街地を占領して、ユダヤ人の聖跡である「嘆きの壁」に立ち入った。アカバ湾を制するシャルムエルシェイクを占領して、アカバ湾の封鎖が解除された。ヨルダンは国連の即時停戦を受託した。

 6月8日木曜日に、イスラエル軍はスエズ運河に到達して、シナイ半島の組織的抵抗は終結した。シナイ半島北部沿岸の地中海上を航行中の戦艦リバティ号は、イスラエル戦闘機に爆撃された。アラブ連合は国連の即時停戦案を受諾した。

 6月9日金曜日に、イスラエル軍はシリア軍の山岳陣地に猛攻を加えて、シリア防衛戦を数カ所で突破した。ナセル・アラブ連合大統領は辞任を発表するも、国会及び国民はその撤回を強く要望した。エルサレムのアラブ難民は、退去してヨルダン領内に流入した。

 6月10日土曜日に、イスラエル軍は、シリア戦線から全面的に侵攻した。ナセル・アラブ連合大統領は、辞任声明を撤回した。六日間戦争では、アラブ連合軍の死傷者が20000人を超えた。イスラエル軍は1000人以下の死傷者を出した。 

 1948年5月14日にイスラエルは独立を宣言した。アラブ諸国がイスラエル領内に侵攻して、パレスチナ戦争が勃発して、1949年に休戦が成立した。1956年秋に、ナセル・アラブ連合は、スエズ運河の国有化宣言で、スエズ戦争が勃発した。イスラエル軍はシナイ半島に侵攻した。1956年11月に休戦が成立して、1957年春にはアカバ湾は国際水路と宣言された。六日間戦争が終結して、イスラエルに対する中東各国の態度は冷たく、アメリカさえもイスラエル軍の占領地区からの撤退を要求した。コスイギン・ソ連首相は国連で、イスラエル非難演説を行った。その一方で、アラブ諸国の報復心は依然として盛んであった。




2024年6月12日水曜日

第二次世界大戦のスターリングラードの戦いの末期にソ連軍兵士は1943年2月に、ドイツ軍に攻勢をかけて突撃した。突撃する途上には、ソ連軍兵士の死体が散乱していた。

スターリングラードの戦いの末期にソ連軍兵士は1943年2月に、ドイツ軍に攻勢をかけて突撃した。突撃する途上には、ソ連軍兵士の死体が散乱していた。背景には、鉄道ビルが廃墟と化した。戦車の砲撃が鳴り響き、大砲が吹き荒れた。両軍の兵士たちは、廃墟と化したスターリングラードで残酷な市街戦により戦死傷した。要塞化された都市は、防衛にて非常に重要であり、攻撃には大きな障害となった。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍は1941年6月22日にソ連に対して宣戦布告して、破竹の勢いでソ連領内を侵攻した。ドイツ軍は1942年8月23日からスターリングラードを攻撃した。9月12日にドイツ軍がスターリングラード市内に突入した。ドイツ軍とソ連軍の双方の将兵の約60%が戦死した大犠牲を伴った。スターリンは7月28日に命令第227号を、ソ連軍に発令して、「一歩も後退するな」と厳命され、後退した部隊は射殺されると警告された。ドイツ軍が突入しても、ソ連軍のスターリングラードは陥落しなかった。逆にソ連軍は11月19日からドイツ軍を逆包囲した。1943年2月2日にドイツ軍は降伏して、ソ連軍はスターリングラードを奪還し、約10万人近いドイツ兵を捕虜にした。祖国ドイツに帰るまで生き延びた捕虜はわずか約6,000人であった。

 両軍とも100万人以上の兵力を有して至近距離で戦闘をして、枢軸軍(ドイツ軍、イタリア軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍)は約80万人、赤軍は約100万人の戦死者を出した。ソ連勝利の重要な要因は冬の寒さだった。スターリングラードの戦いによって、ドイツは東部戦線で敗北への道を歩み始めたことがほぼ確実となった。




2024年6月11日火曜日

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日に首都キガリを解放した後に、至る所にフツ族のルワンダ政府軍兵士の死体が転がって散乱した。

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日にルワンダの首都であるキガリを解放した後に、至るところにルワンダ政府軍のフツ族兵士の死体が転がって散乱していた。4月から6月にRPFはルワンダの北部から攻撃を開始し、ルワンダの大部分を徐々に支配下に置いた。キガリを包囲して補給路を断ち、6月中旬に首都キガリをめぐって戦闘を開始した。ルワンダ政府軍がキガリでの戦いよりも大量虐殺に集中したために、RPFは7月4日にキガリを制圧した。

 ルワンダ愛国戦線は、1959年から1962年にルワンダ・フツ革命で起こったルワンダ人フツ族の暴力に対して、ウガンダに亡命したルワンダ人ツチ族によって1987年12月に設立された。1990年に、RPFはフツ族が支配した政府を転覆するためにルワンダ内戦が勃発した。その後、1994年にツチ族に対するジェノサイドが発生して、7月4日にRPFが全土を制圧して終結した。RPFが制圧後の数ヶ月間に、RPF兵士はジェノサイドに参戦して、多くのルワンダジェノサイドを支援した人々を殺害して、死者数は10万人に上った。それ以降、RPFは、一党独裁国家としてルワンダを統治して、2000年からはRPFの指導者であったポール・カガメがルワンダ大統領に就任した。

 ルワンダ内戦は、1990年10月1日から1994年7月18日まで、ルワンダ政府軍と反政府勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)との間の大規模な内戦となった。RPFのゲリラ戦が1992年半ばまで続いて、どちらも優勢に立てなかった。和平交渉は1993年8月4日にアルーシャ合意に調印して、一時的に終了した。国連ルワンダ支援ミッション(UNAMIR)は1993年10月5日から1996年3月までルワンダに駐留して、アルーシャ合意の履行を監督するも、1994年4月7日から7月19日までのルワンダ大虐殺のジェノサイドに軍事介入できなかった。4月6日にフツ族のハビャリマナ大統領が暗殺された翌日に、和平合意は破棄されて無政府状態となり、フツ族のルワンダ政府軍が、約50万人から80万人のツチ族と穏健なフツ族を殺害した。




2024年6月10日月曜日

朝鮮戦争にて、1950年7月3日の鳥致院の付近の戦闘にて、アメリカ軍兵士が初めて戦死した。アメリカ軍の衛生兵が、その死体から頭部を挙上して脈を取りながら検死した。

朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発した直後に、1950年7月3日の鳥致院の付近の戦闘にて、アメリカ軍兵士が初めて戦死した。アメリカ軍の衛生兵が、その死体から頭部を挙上して脈を取りながら検死した。鳥致院の戦いは、7月9日から7月11まで勃発した。7月8日に天安市で市街戦が展開されて、アメリカ軍は鳥致院まで退却した。

 7月9日午後3時頃に、北朝鮮軍の戦車部隊が、退却した鳥致院の陣地まで侵攻した。7月10日午前6時に、北朝鮮軍は偵察隊を先に送り派手に射撃してアメリカ軍の応戦の有無で配置状態を確認した。その後に、迫撃砲攻撃を仕掛けた。午前8時30分に、アメリカ軍兵士たちは後方の迫撃砲陣地が攻撃された。午前9時から、北朝鮮軍の全面攻撃が始まった。午前11時35分、アメリカ軍大隊の左側を占領した北朝鮮軍は最前列と左後方まで攻撃した。アメリカ軍が北朝鮮軍に陥落寸前か陥落したと勘違いして、猛烈な自陣内射撃を行った。アメリカ軍兵士たちは次々に自陣地を離脱した。午後12時05分に、ついにアメリカ軍は撤退を決意して号令した。鳥致院から前哨地へ迫撃砲弾を運んだ際に待ち伏せに遭った。

 7月11日午前1時頃に、アメリカ軍は第1大隊の陣地に到着した。その陣地に北朝鮮軍とゲリラが入り込んだ。砲撃支援を要請できず、自らの火力で対抗するも、補給が円滑でない中で、負傷者の後送もできず、アメリカ軍3大隊は正午頃にはほぼ壊滅した。7月12日午前9時30分に、北朝鮮軍1大隊が支援砲撃の中、アメリカ軍大隊の左側を攻撃し、反対側からも押し寄せて、正午頃にアメリカ軍大隊は混乱した。7月12日に、アメリカ軍は鳥利院から金剛南岸まで撤退した。





2024年6月9日日曜日

2023年12月8日に、イスラエル国防軍はガザ地区のパレスチナ人を目隠し、下着を剥ぎ取り、両手を拘束してトラックの荷台に載せた。10代から老人までのパレスチナ人の男たちを集団的に逮捕して、服を脱がした。

2023年12月8日に、イスラエル国防軍はガザ地区のパレスチナ人を目隠し、下着を剥ぎ取り、両手を拘束してトラックの荷台に載せた。イスラエル国防軍は、10代から老人までのパレスチナ人の男たちを集団的に逮捕して、服を脱がした。イスラエル国防軍に逮捕されたガザンの市民が、失踪、屈辱、拷問の苦しみを分かち合った。イスラエル国防軍は数千人のパレスチナ人を拘束された。イスラエル国防軍は、爆発性のベルトを身に着けるのを防御した。さらに囚人が何時間も半裸で拘束された。

 釈放された囚人のモハメッド・アル・ラン医師は、イスラエル国防軍がハマスとの関係を排除した後に、看守と囚人との連絡役や通訳を務めるために数週間拘束されたと語った。イスラエル国防軍は、囚人を必要以上に拘束することを否定している。強制連行された時に、下着まで剥ぎ取られ、手錠をかけられ、目隠しをされ、トラックの荷台にほぼ裸の囚人たちの上に放り投げられた。イスラエルが改正した法律では、不法戦闘員に分類されると、司法の承認なしに最大75日間、弁護士との面会なしに90日間の拘束が認められた。イスラエル人の医療従事者は、倫理的、専門的、さらには精神的苦痛に直面した。

 イスラエル南部のネゲブ砂漠にあるスデ・テイマン収容施設は、イスラエル国防軍が2023年10月7日以降にパレスチナ人の収容キャンプに転換し拡張した。電気棒での死亡、ガザ地区のレイプ命令、熱い金属棒に座らされた国連職員などの深刻な人権障害報告された。イスラエル国防軍(IDF)に対するレイプの疑惑が伴った。安全保障上の脅威でないと判断されるまでは、囚人に手錠をかけた。捕らえられ腐敗臭が充満したスデ・タイマンに収容されるより殉教者がいいと警告した。囚人はおむつをされ、トイレを使用できず、手足を縛られ、目隠しをされた。極度の身体拘束下に置かれる囲いと、負傷者がベッドに縛り付けられ、おむつをはめられ、ストローで食事を与えられる野戦病院に分かれた。2024年5月下旬までに約,000人の被拘禁者が最長3ヵ月間、スデ・テイマン施設に強制収容された。 






















Warning: Israeli soldiers stand by a truck packed with blindfolded Palestinians in Gaza, December 8, 2023 (AP Photo)

2024年6月8日土曜日

辻キクは、爆心地から約2.4kmにて長崎原爆で両足に火傷を負った。左足の治癒は長引いた。皮膚移植後の部分や皮膚移植を取った大腿部には、大量の瘢痕組織が再発した。

          非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-273302




SC-273302

FEC-47-70150 6 DEC 46

"BURNS OF NAGASAKI ATOMIC BOMB SURVIVOR HEAL WITH HEAVY SCAR TISSUE:" KIWA TSUJI SUSTAINED BURNS OF BOTH LEGS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT NAGASAK!. HEALING OF THE LEFT LEG WAS PROLONGED. A LARGE AMOUNT OF SCAR TISSUE RECORRED IN THE AREAS AFTER SKIN GRAFTING HEAVY SCAR TISSUE ALSO APPEARED IN DO NOR SITES ON THE THIGHS USED FOR SKIN GRAFTING. SHE WAS ABOUT 2.2 KM. FROM THE GROUND CENTER AT THE TIME OF THE EXPLOSTON.

PHOTOGRAPHER: DR. HENSHAW

RELEASED FOR PUBLICATION, BUREAU OF PUBLIC RELAIONS, WAR DEPARTMENT, WHASHINGTON

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Atomic Bomb Casualities 

Potography by Signal Coorp.U.S. Army



SC-273302

FEC-47-70150 1946年12月6日

長崎原爆被爆者の火傷は、重い瘢痕組織で治癒した。

辻キクは、長崎原子爆弾で両足に火傷を負った。左足の治癒は長引いた。皮膚移植後の部分には、大量の瘢痕組織が再発した。皮膚移植に使用した大腿部にも重い瘢痕組織が現れた。

彼女は長崎原子爆弾に被爆した当時、爆心地から約2.2km離れていた。

カメラマン:Dr. ヘンショー

ワシントンの陸軍省広報関係局にて公開された。

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原爆死傷者 

米陸軍通信社撮影

2024年6月7日金曜日

イギリス軍の特別奇襲部隊のコマンドは、1942年3月にフランスのサンナゼール港の奇襲にて多数の死傷者をだした。ドイツ軍兵士が、掃討して殺害したイギリス軍の下士官の戦死体の側を通って侵攻した。

イギリス軍の特別奇襲部隊のコマンドは、1942年3月にフランスのサンナゼール港の奇襲にて多数の死傷者をだした。ドイツ軍兵士が、掃討して殺害したイギリス軍の下士官の戦死体の側を通って侵攻した。サンナゼール港の奇襲で、最大の犠牲者となった約782人のコマンドを損失した。
 第二次世界大戦の勃発して以来のあいつぐ敗北に、イギリス本国の危機感と本土防衛のために、イギリス軍のコマンドは死を覚悟でドイツ軍の戦線に赴いた。コマンドは、特別奇襲部隊として徴兵ではなく、募集して志願して組織されたイギリス軍部隊であった。
 コマンドはイギリス海峡を渡ってサンナゼール港に奇襲して、駆逐艦をドイツ軍の戦艦が利用するドックの水門に激突させて、ドックを使用不能に陥れた。ボーア戦争(1899年~1902年)に、25万人のイギリス軍部隊に、約2年間抵抗したボーア軍部隊からコマンドと呼称した。コマンド部隊を編成して19日目の1940年6月23日から24日の夜半に、最初の奇襲作戦としてブーローニュからルーツケを奇襲した。7月14日夜には、イギリス海峡のガーンジー島のドイツ軍駐屯地に奇襲した。
 コマンドによるフランス西部、ロアール川河口にあるサンナゼール港の奇襲は、最大の規模となった。フランスの大西洋岸にあるドイツ軍の大水門にあるドックを破壊した。着岸できる海岸がなく苦難した。1942年3月26日に、コマンド奇襲部隊がイギリスのファルマス港を出港した。3月28日に、ドイツ軍はロアール川の両岸からの探照灯でコマンドを捉えて、激しい砲火を浴びせた。イギリス軍の駆逐艦が、水門に激突した。コマンドは上陸を敢行するも、機関銃掃射を受けた。コマンドは、砲撃を受けて、サンナゼール港の南岸に退避した。旋開橋に近いトーチカと建物で銃撃を受けた。防空壕内で降伏した約20人のコマンドは、ドイツ軍の司令部に強制連行された。トラックでサンナゼール港の約20km西のラホールのレストランに収容された。親衛隊が、至近距離から虐殺した。モーターランチから上陸できた一部のコマンドが、大損害を受けて全滅した。





2024年6月6日木曜日

1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。

ベトナムの仏教徒蜂起により、仏教徒を弾圧するベトナム共和国政府のチャン・バン・フォン首相の内閣をアメリカ政府が支持するのをやめろと訴えるために、1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。1965年1月に、フォンはアメリカからの援助金と装備品を使って軍事費を拡大し、徴兵条件を拡大して軍隊の規模を拡大した。

  仏教徒危機により、1963年5月から11月にかけて、南ベトナム政府による一連の仏教徒に対する弾圧行為に対して、主に仏教僧が主導した市民抵抗運動が勃発した。1963年6月11日に、僧侶のクァン・ドゥックが、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の仏教徒の迫害に抗議して、カンボジア大使館前で焼身自殺した。僧侶の焼身自殺が世界報道写真賞となり、ゴ・ディン・ジェムの暗殺の起点となった。

 南ベトナムのゴ・ディン・ジェム初代大統領が1963年11月2日に暗殺された後に、南ベトナムは1年半の間に、複数のクーデターやその他の反乱の失敗が多発して、持続的で深刻な不安定期が継続した。上級将校間の個人的な対立とは別に、内紛は宗教的な圧力運動間の対立によってもかき立てられた。仏教徒は、ゴ・ディン・ジェム政権の親カトリック政策の撤廃を働きかけた。カトリックに改宗するゴ・ディン・ジェムの政策を精力的に実行して急速に出世した将校たちも親カトリック政策の撤廃を求めた。一方で、ゴ・ディン・ジェムの暗殺後に、特権が後退させられたカトリック教徒は、グエン・カーン将軍の政権が、仏教徒のために自分たちを迫害していると非難した。この時期には宗教暴動が勃発することもあった。




2024年6月5日水曜日

プラハの春にて1968年8月21日にチェコスロバキアに侵攻したワルシャワ条約機構軍が、プラハのヴィノフラドスカー通りのチェコスロバキア・ラジオを攻撃して、プラハのヴィノフラドスカー通りで、非武装の市民とラジオ局員ら17人が殺害された。

プラハの春により、1968年8月21日にチェコスロバキアに侵攻したソ連軍とワルシャワ条約機構軍が、チェコスロバキア・ラジオを攻撃した。プラハのヴィノフラドスカー通りにあるチェコスロバキア・ラジオをソ連軍の占領軍から守るため、非武装のチェコスロバキア市民とラジオ局員ら17人が殺害された。

 プラハの春は、ソ連軍に対するチェコスロバキア社会主義共和国における政治的自由化と大衆抗議である。改革派のアレクサンダー・ドゥブチェクが チェコスロバキア共産党(KSČ)の第一書記に選出された1968年1月5日に始まり、ソ連軍とほとんどのワルシャワ条約加盟国が改革を弾圧するために侵攻した1968年8月21日まで続いた。

 チェコスロバキア・ラジオの戦いは、ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻した1968年8月21日に、チェコスロバキア・ラジオを守るチェコスロバキア市民とソ連軍兵士との間で起きた衝突事件である。1968年8月21日午前2時にチェコスロバキア・ラジオは、約20万人ものワルシャワ条約機構軍が国境を越えたと放送した。プラハのヴィノフラドスカー通りにあるチェコスロバキア・ラジオをソ連軍の占領軍から守るため、非武装のチェコスロバキア市民とチェコスロバキア・ラジオ局員ら17人が殺害された。ソ連軍がラジオの建物に侵入しようとしたとき、防衛隊員たちは石を投げ、ツルハシで戦車の外部ディーゼル燃料タンクを突き破り、火を放ち、いくつかの戦車を破壊した。

  チェコ共産党中央委員会のチェコスロバキア・ラジオの建物の前には約500人の群衆が集まったが、そこはまだソ連兵が占拠しており、デモ隊に発砲した。この虐殺で4人が死亡した。7時頃、戦闘はラジオ局に移動した。デモ隊はヴァーツラフ広場方面に高いバリケードを築いた。数百人が広場へのソ連軍の進撃を止めようとした。

 7時半、6台のソ連軍戦車がラジオ局の真正面に到着した。デモ隊は戦車に石を投げつけて攻撃したが、その後、戦車の乗員と激しい口論になった。この緊迫した状況は数時間続いて、一台の戦車がトラックのバリケードに突っ込んで炎上した後に、状況は一変した。バリケードを守る一人が戦車の上に乗り、チェコスロバキアの国旗を振り始めた。戦車の運転手は、戦車を操縦してデモ隊を追い出せなかった。結局、デモ隊はソ連軍兵士の一人に射殺された。ソ連軍はこの騒乱のデモ隊に発砲し、ほとんどのデモ隊を解散させた。デモ隊はヴァーツラフ広場とその周辺地域に撤退した。大虐殺で多くのデモ隊が負傷し、死亡したため、デモ隊は国立博物館下の噴水に緊急診療所を設置した。午後には、ヴィノフラドスカー・トリダから銃声が聞こえ、ハジノフカ付近の家々が炎上し、ラジオはソ連軍の管理下に置かれた。チェコスロバキア・プラハの放送は5ヶ国語の10分間の地下番組を9月9日に終結して、9月9日から共産党の放送が再開された。




2024年6月4日火曜日

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。バルセロナの共和国政府に対する最初の反乱軍の反乱を、自治政府と労働者民兵が敗北させた。カタルーニャは共和国陣営に制圧された。1936年7月に共和主義派の民兵と共和国軍が、カタルーニャの国民党軍を打ち破って、アナキストを中心とする労働者の自衛民兵が街頭の実権を握った。カタルーニャではファシストや右翼シンパに対する厳しい弾圧が始まった。

 両陣営は、戦線の "反対側 "で捕まった約5万人以上の人々が、暗殺されるか、あるいは即座に処刑された。スペイン内戦は、イデオロギー上の敵対者を根絶しようと躍起になった交戦国は、大量残虐行為の温床となったり、内戦で約50万人が命を落とした。国民党派と共和党派は、それぞれの領土を整理し、反対派や反対派と疑われる勢力を弾圧した。共和派の暴力は主に法治が回復する前の戦争初期に起こったが、国民派の暴力は意識的な恐怖政策の一環であった。

 スペイン内戦(1936-1939)は、1936年7月17日に、首都マドリードでの出来事に端を発したモロッコでの軍事蜂起によって勃発した。数日のうちに、スペインは2つに分裂した。一方は第2スペイン共和国からなる共和主義派または忠誠主義派である。他方は、最終的にはフランシスコ・フランコ将軍の指導下にある民族主義派の国民党の反乱軍である。両陣営の虐殺行為が勃発した。ソビエト連邦は共和主義派の共和党を支援して、ファシストのイタリア・ドイツは民族主義派を支援した。




2024年6月3日月曜日

国際人道法(4つのジュネーブ条約と3つの追加議定書)の重要な障害は、批准した国にのみ適用されて、武力紛争の大部分を十分に詳細に規制しない。各紛争当事者は、死者の識別のため、処分の前に利用可能なすべての情報を記録しなければならない。

 国際人道法(4つのジュネーブ条約と3つの追加議定書)

 国際人道条約法はよく発達しており、戦争のさまざまな側面をカバーし、戦争の犠牲者を保護し、許容される戦争の手段や方法を制限している。4つのジュネーブ条約と追加議定書は、武力紛争に参加しない、あるいは参加しなくなった人々を保護するための広範な制度を提供している。しかし、2つの重要な障害ある。第一の障害に、条約はそれを批准した国にのみ適用される。第二の障害に、この豊富な条約法は、今日の武力紛争の大部分を十分に詳細に規制していない。

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1

Ⅰ. 区別の原則 (第1章から第6章)

Ⅱ. 特に保護される人と物 (第7章から第14章)

Ⅲ. 具体的な戦法 (第13章から第31章)

Ⅳ.  民間人と非戦闘員の扱い (第32章から第39章)

第35章 死者

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1

第112(死者の捜索と収集)事情が許すときはいつでも、特に交戦の後においては、紛争当事国は、遅滞なく、死者 を捜索し、収容し、及び避難させるためにあらゆる措置を執らなければならない。

第113規則(死者の取扱い)各紛争当事国は、死者が略奪されることを防止するため、すべての可能な措置を執らな ければならない。死体の切断は、禁止する。

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1/rule113

第114規則 (遺骨・遺品の返還) 紛争当事国は、死亡者の属する当事国の要請又は近親者の要請があれば、その遺体の返還を 促進するように努めなければならない。紛争当事国は、遺留品を返還しなければならない。

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1/rule114

第115規則(死者の処理)死者は丁重に処分され、墓は尊重され、適切に維持されなければならない。

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1/rule115

第116(死者の記録) 規則各紛争当事者は、死者の識別のため、処分の前に利用可能なすべての情報を記録し、 墓の位置を標示しなければならない。

https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1/rule116

Ⅵ. 実施 (第40章から第44章)




2024年6月2日日曜日

2022年5月17日に、ウクライナのマラロハンに、遺棄されたロシア軍兵士の死体は所持品や残骸の中に横たわった。戦死したウクライナ軍兵士の死体とロシア軍兵士の死体と交換するために、非公開の場所に運ばれた。

2022年5月17日に、ウクライナのマラロハンに、遺棄されたロシア軍兵士の死体は所持品や残骸の中に横たわった。死体を処置するウクライナ軍兵士は、ロシア軍兵士の死体からの死の臭いは勝利の臭いと感じた。

 ハルキフの郊外の死体安置所には、人肉が腐敗した濃厚でねっとりとした悪臭が漂った。太陽が照りつける中、ロシア軍兵士の死体は死体袋に入れられ、体液で濡れた軍服姿で横たわた。ウジ虫がロシア軍兵士の死体の皮膚をほじくり、頭蓋骨を露出させた。

 2022年6月初旬の暖かい日、ウクライナ軍兵士たちの多くが、悪臭を隠すために口からタバコをぶら下げて、約80体以上のロシア軍兵士の死体を冷蔵車両からセミトラックの荷台に運んだ。戦死したウクライナ軍兵士の死体と交換するために、非公開の場所に運ばれた。

 ロシア軍が2022年2月24日にウクライナに侵攻して以来に、東部国境地帯のハリコフにいるウクライナ軍の部隊は、戦場で殺害されて遺棄された何百人ものロシア軍兵士の死体を集めて、身元を確認した。

 ウクライナ軍は、開戦した2022年2月14日以来3万人のロシア軍兵士が死亡したと発表したが、その数値は確認できない。ロシア軍は2022年3月25日に、戦争ではなく "特別軍事作戦 "であり、死亡したロシア軍兵士は約1351人に過ぎないと発表して以来、死者数の情報を提供しない。ロシアが死者の引き取りが消極的であり、ウクライナ軍は2022年6月4日に、2月24日の開戦以来初めて公式に死体交換を認めた。ザポリツィア地方の前線で計約320人の死体が交換されて、双方が160人の死者を得たと発表した。

 交戦中の国々は、国際条約に従って、戦場に残された死者を捜索し、記録し、身元を確認するためにあらゆる努力を払う義務がある。このプロセスを通じて、紛争当事国は敵の死者の個人的尊厳を維持することも求められる。記録のために死者の写真を撮るのは、軍の標準的なやり方である。遺体を粗末にするのはジュネーブ条約違反だが、しかし、死体の記録と殺人を祝うことの境界線は、戦争の霧の下ではすぐに曖昧になる。




2024年6月1日土曜日

長崎原子爆弾により少女の永富郁子は、爆心地から約1.4kmの地点で火傷を負って、瘢痕組織と色素脱失した傷跡の治療を受けた。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-273303



SC-273303

487

FEC-47-470143

6 DECEMBER 1946

#GIRL BEING TREATED FOR SCARS FROM BURNS OF ATOMIC BOMB:" TKUKO NAGATOMI SUSTAINED BURNS FROM ATOMIC BOMB EXPLOSION AT NAGASAKI. THESE HEALED WITH LARGE AREAS OF SCAR TISSUE AND DEPIGMENTED SKIN AREAS REMAINING. SHE WAS ABOUT 1.4 KM. FROM THE GROUND CENTER.

PHOTOGRAPHER : ?

RELEASED FOR PUBLICATION 

BUREAU OF PUBLIC RELATIONS WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by

14468

Photography by Signal Corps U.S. Corps U.S. Army

Atomic Bombing  Casualties


SC-273303

487

FEC-47-470143

1946年12月6日

# 原爆の火傷の傷跡の治療を受けている少女:永富郁子は長崎の原爆の爆発で火傷を負った。瘢痕組織と色素脱失した皮膚部分が大きく残ったまま治癒した。彼女は爆心地から約1.4kmの地点にいた。

カメラマン:?

出版用に公開 

ワシントンの陸軍省広報局

写真提供

14468

撮影:アメリカ陸軍通信兵団

原爆犠牲者


2024年5月31日金曜日

1954年5月7日に、フランス軍のヒム・ラム司令部は、ベトナム(ベトナム独立同盟会)にてディエンビエンフーの戦いでベトミンの手に落ちた。司令部の周辺には、殺害された多数のベトミンらの死体が散乱した。

1954年5月7日に、フランス軍のヒム・ラム司令部は、ベトナム(ベトナム独立同盟会)にてディエンビエンフーの戦いでベトミンの手に落ちた。司令部の周辺には、殺害された多数のベトミンらの死体が散乱した。ベトミンのディエンビエンフー作戦は成功裡に終了し、ディエンビエンフーのフランス軍の拠点がベトミン軍によって破壊された。ヒム・ラム司令部の陣地壕には、戦う決意と勝利の決意のベトミンの旗がはためいた。同日にベトナムのフランス植民地軍は、ディエンビエンフーの戦いで、独立派のベトミンに事実上敗北した。 

 1954年3月13日、ベトミン(ベトナム独立連盟)の大砲が最外郭のヒム・ラムに撃ち込まれ、北西部の人里離れた谷間の静けさが破られ、ディエンビエンフー作戦が始まった。約49,000人のベトミンが人海戦術で、フランス軍の守備隊の外側の強拠点を襲撃した。滑走路は絶え間なく砲火にさらされ、ベトミンの大砲を排除するフランス軍の対砲台射撃は絶望的に効果がなく、多くのフランス軍砲が破壊された。

 55日間にわたる残忍な包囲戦が勃発した。1953年11月20日に、フランス軍の空挺部隊と工兵が、谷間のディエンビエンフーにパラシュート降下し、防御陣地の構築を開始した。最初の4日間の戦闘で、フランス軍の9つの要塞のうち3つが失われ、1,000人以上のフランス兵が死傷した。激戦の末、ベトナム軍はディエンビエンフーの砦を崩し、16,200人のフランス軍兵を殺害・捕虜にし、62機の航空機を撃墜し、敵フランス軍のすべての軍事物資を奪取した。1954年5月7日午後5時30分、ベトナム軍の赤と黄色の旗がフランス軍司令官デ・カストリ将軍の壕の上に上がった。同日深夜までに、フランス軍主導の部隊はすべて捕虜となった。約2,000人以上のフランス兵が死亡し、10,000人以上が負傷または捕虜となった。ベトミンは23,000人以上の死傷者を出した。




2024年5月30日木曜日

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃が成果を収めた。その攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。その死体が路上に放置された。1992年に、クロアチアがクロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナからなるユーゴスラビア連邦から分離独立した後に、ミロシェヴィッチセルビア大統領は、残る2つの国家であるセルビアとモンテネグロからなる新ユーゴスラビア連邦を宣言した。

 クロアチア独立戦争は、1991年から1995年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRY)からの独立を宣言したクロアチア政府に忠誠を誓うクロアチア軍と、セルビア人支配下のユーゴスラビア人民軍(JNA)と現地のセルビア人勢力との間で戦われた武力紛争であり、JNAは1992年までにクロアチアでの戦闘活動を終結させた。

 クロアチアは、1980年代末の東欧諸国の民主改革が進む中、1990年4月、戦後初めての複数政党制による選挙が実施された。共産主義者同盟の政権が敗退し、民族主義的傾向の強いクロアチア民主同盟(HDZ)が圧勝して政権の座についた。新政権設立後に、1990年12月に民族主義的性格の濃い新憲法が採択されて、ユーゴスラビア連邦から離反の動きは加速した。1991年5月、独立を問う住民投票で94%が旧ユーゴからの独立を支持して、議会は独立宣言を採択した。セルビア人は住民投票をボイコットした。これを起点にクロアチア人勢力とセルビア人勢力との間で戦闘となった。1992年1月に一旦停戦合意が成立し、国連保護軍が展開した。欧州諸国を皮切りに各国がクロアチアの国家承認を行った。但し、同停戦合意は守られず、その後も多数の停戦合意がなされたが、戦闘は1996年初頭まで継続した。1995年、クロアチアはセルビア勢力より国土の一部を奪還して、残された東スラボニア(クロアチア北東部)では1996年から国連暫定統治機構による統治が行われたが、1998年1月に撤退したことにより、クロアチアは全領土に主権を回復した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年4月、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)からの独立を巡ってムスリム系、クロアチア系、セルビア系住民の間で大規模な紛争が勃発した。各民族がボスニア全土で覇権を争って戦闘を繰り広げ、その結果死者20万、難民・避難民220万と言われる戦後の欧州で最悪の紛争となった。その後、1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息し、ボスニアはムスリム系、クロアチア系住民を主体とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」、セルビア系住民を主体とする「スルプスカ共和国」という2つのエンティティから構成される一つの国家となった。上級代表事務所(OHR)、NATO中心の多国籍部隊SFORが民生面及び軍事面での和平履行を担った。