2023年7月20日木曜日

バストーニュ包囲戦にてドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍防衛網を突破できなかった。

第ニ次世界大戦の西部戦線の最終戦にて、初雪が降った1944年12月20日に、バルジの戦いで重要な戦闘であるベルギー南部のバストーニュ包囲戦が勃発した。ドイツ軍の大砲が、バストーニュを砲撃して、周辺の森林も標的にした。アメリカ軍の落下傘部隊が、森林に潜伏していた。空挺師団が包囲され、逃げ場を失って、ドイツ軍はアメリカ軍の補給を断ち切った。ドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が雪上の戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍の防衛網を突破できなかった。

 12月21日に、降雪が状況をさらに困難にした。ドイツ軍の戦車は前進できず、バストーニュへの砲撃を続けた。アメリカ軍兵士は、壁が氷で覆われた壕の中で苦闘した。暖をとる術もなく、多くのアメリカ軍兵士が病気や凍傷になった。しかし、アメリカ軍の第101空挺師団は、ドイツ軍の猛攻を撃退し続けて、偵察や戦闘パトロールまで送り出した。

 ドイツ軍の現地司令部は、アルデンヌの森からの撤退を求めた。ヒトラーは予備役の継続起用を命じた。ドイツ軍は、バストーニュ攻防戦では危機的な状況が続いた。バストーニュでは、状況は依然として危機的で、度重なる攻撃でドイツ防衛軍は後退を余儀なくされた。12月22日、ドイツ軍のリュットヴィッツ将軍は白旗を掲げて、包囲された守備隊に名誉ある条件での降伏を要求した。アメリカ軍のアンソニー・マコーリフ将軍からは"NUTS!(地獄に落ちろ)"と、伝説的な返答をした。12月23日に、期待された好天が訪れて、最初の物資を空輸でき、連合軍はドイツ軍の陣地に多くの空襲を加えた。状況は絶望的なままに、12月24日のクリスマスまでに、境界線は26kmに縮小された。

 ドイツ軍はわずかな増援と補給を受けただけで、連合軍の空軍にますます打ちのめされた。12月24日クリスマス当日に、ドイツ軍はあらゆる手を尽くしたが、到着して間もない戦車は大きな損害を被り、防衛線を突破できなかった。アメリカ軍第3軍第4装甲師団が南から進撃し、12月26日午後4時45分に守備隊に合流して、ドイツ軍の包囲網は破られた。1944年の厳冬期、人口4,000人で7本の道路が連結するバストーニュをめぐる攻防戦で、アメリカ軍は約3,000人以上の死傷者、ドイツ軍の犠牲は不明である。




2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2023年7月18日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出すと、取り囲んだアメリカ軍兵士が、狙い撃ちに射撃して殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓の中に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出してくると、取り囲んだアメリカ軍兵士が、一斉に狙い撃ちにして射撃して殺害した。墓の入口に、日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍は、シラミつぶしの如くに、抵抗する日本軍兵士を掃討して排除した。多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカに使われ日本軍陣地の一部となった。亀甲墓はアメリカ軍の攻撃対象となり、避難した兵士や住民が、艦砲射撃から手榴弾や火炎放射器によって殺害された。4月19日に、アメリカ軍3個師団が、日本軍の戦線を突撃したが、大混乱に終わった。日本軍は那覇市牧志の急斜面で反撃を開始し、比較的露出していた低地に大砲と迫撃砲の雨を降らせた。

 アメリカ軍兵士が、沖縄のトーチカの亀甲墓に手榴弾を投げ込む間に、取り囲んだアメリカ軍兵士は、ライフル銃を持って射殺を待機した。射殺されて死んだ日本軍兵士の死体も散見された。アメリカ軍が日本軍の墓のトーチカを一掃した。アメリカ軍兵士が、手榴弾を残骸に投げ込んだ。取り囲むアメリカ軍兵は、ライフル銃を持って警備した。沖縄では、日本軍が墓をトーチカとして使用した。日本軍兵士の死体が、厚いコンクリートで作られた墓の前に横たわった。

 沖縄の地形は、日本軍に有利だった。稜線と断崖絶壁の地形は、戦場を小規模で悪質な銃撃戦の連続に変えた。日本軍は、密生していない植物にて、アメリカ軍に偵察できた。稜線に散在する洞窟やコンクリートで固められた沖縄の亀甲墓から、日本軍は連動した強烈で激しい小火器射撃を可能にした。日本軍の大砲は、丘や稜線の側面に隠蔽した多数の砲撃によって、攻撃してくるアメリカ軍に照準を合わせた。

 アメリカ軍は、襲撃する日本軍と激しい肉弾戦が勃発した。戦場には日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士の胸に戦闘ナイフを突き刺されたり、銃剣で内臓を摘出された。アメリカ軍の手榴弾を浴び、あるいはライフル銃や機関銃の弾丸で銃口が開けられた。

 沖縄戦は3カ月近く繰り広げられ、戦争中最悪の神風攻撃もあった。1945年6月22日、沖縄がアメリカ軍によって占領された。アメリカ軍は約1万2,500人以上の死者・行方不明者を含む約4万9000人以上の死傷者を出した。沖縄戦に巻き込まれた沖縄県民の被害は甚大で、約15万人もの民間人が犠牲と推定された。沖縄島を防御した日本軍兵士のうち、推定約11万人が死亡した。




2023年7月17日月曜日

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。仰向けに倒れた日本軍兵士の死体の側で見守った。1914年秋に、イギリス軍は中国の青島で日本軍とともに戦った。目標は青島のドイツ海軍基地で、約4,000人が駐留した。2ヶ月の包囲の後に、11月にようやく青島は陥落した。犠牲となった日本軍兵士の死者は約733人、戦傷者は約1,282人であった。イギリス軍は死者は約12人、戦傷者は約53人であった。ドイツ軍は、死者は約199人、戦傷者は約504人に及んだ。

 ヨーロッパの西部戦線と東部戦線で戦闘が繰り広げられる一方で、連合軍とドイツ軍との間では、小規模な戦闘が世界各地で勃発した。極東では、連合国は中国の青島にあるドイツの海軍基地を侵略した。イギリスは長い間、中国におけるドイツの存在を、イギリスの利益に対する脅威とみなした。1902年以来、日本と同盟を結んで、日本はアジア大陸に領土的野心を持っていた。

 日本軍は開戦前から、青島を包囲する準備を整えていた。1914年8月15日に、ドイツに最後通告して、ドイツは中国と日本の領海から軍艦を撤退させ、青島を引き渡すよう要求した。拒否されて、1914年8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。8月27日から、140門以上の大砲で武装した約2万人の日本軍が青島に上陸し、軍艦とともに港への砲撃を開始した。9月2日に、日本軍は、9月2日に山東半島北岸の龍口から上陸した。イギリスは、中国北部の天津を守備した海軍部隊と約1,500人のイギリス軍兵士の派遣を決定し、青島港の周辺で日本軍と合流した。日本軍は、艦船からの初の航空攻撃、初の夜間空襲により青島港の包囲戦をした。重榴弾砲でドイツ軍を弱体化しながら、塹壕を徐々に侵攻した。ドイツ軍は約2カ月も持久戦して、11月7日に降伏した。その3日後に青島港を引き渡して、日本軍が占領した。

 好機到来とばかり参戦した日本は、ドイツの租借地である青島を占領した。山東半島をおさえると、5項目二十一か条の要求を中国の袁世凱大総統に手わたした。山東省のドイツの権益を日本にゆずる、旅順・大連、満鉄の権益期限を99か年延長、内モンゴルの権益要求、中国政府に日本人顧問をおくなどである。交渉25回、袁世凱は日本の圧力に屈した。中国民衆は憤激し、要求受け入れの日を「国恥記念日」とよび、日本製品の不買運動を起こした。




2023年7月16日日曜日

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、2022年2月から2023年5月までに約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。2022年3月27日に、ウクライナの首都キエフ郊外のシトニキーで、ウクライナ軍との戦闘中に死亡したロシア軍兵士の死体が、トウモロコシ畑に横たわった。




















Warning: A Russia soldier killed during combats against Ukrainian army lay on a corn field in Sysnyaky, on the outskirts of Kyiv, Ukraine, March, 26,2022. (AP Photo/ Rodrigo Abd, file)

    ロシアの2つの独立系メディアであるメディアゾナ(Mediazona)とメドゥーザ(Meduza)は、ドイツのチュービンゲン大学と戦死者数の共同研究した。ロシア政府のデータを使用して、最も極秘にしたウクライナ侵攻のロシア軍兵士の死者数を統計的推測をした。COVID-19のパンデミック感染で流行した過剰死亡率の統計的手法に準拠した。相続記録と公的な死亡率データから、2022年2月から2023年5月まで約50歳未満の男性が通常期より多く死亡を推定した。

 ロシア軍もウクライナ軍も、軍事的死者数は極秘にしている。敵側の死者数を増幅させて喧伝した。ロシア軍は、約6000人強のロシア軍兵士の死亡数のみ公式に認めた。軍事的死者数の報道は検閲と抑圧された。死者数を公表することは、反国的な行為で、刑事責任に直面した。

 メディアゾナとメドゥーザが、ロシアのネットワークと協力し、SNS投稿やロシア全土の墓地の写真を使って、戦死者のデータベースを構築した。2023年7月7日現在で、約27,423人のロシア軍兵士の死亡を確認した。ロシア政府が執拗に隠蔽した戦死者数を推計した。メディアゾナとメドゥーザは、ロシア当局に提出された相続案件の記録を入手した。全国検認簿には、2014年から2023年5月までに、死亡した1100万人以上の情報が含まれた。2022年に15歳から49歳の男性の相続案件が、予想より約25,000件多く発生した。2023年5月27日までに、超過件数は約47,000件に急増した。

 2022年12月以来にウクライナで、約2万人以上のロシア軍兵士が殺害されたとアメリカ当局の5月の評価とほぼ一致していた。ロシア軍人全体の死者数は、アメリカとイギリスの情報機関の戦死者数よりは低い。イギリス国防省は2023年2月に、約4万人から6万人のロシア人が戦死したと推計した。アメリカ国防情報局は、開戦1年目に戦死したロシア人の数は約35,000人から約43,000人と推計した。イギリス国防省は、7月10日にロシア軍による多くの死傷者(切断も含む)は、約17ヶ月間に、1日平均約400人の死傷者を出した。

 ロシアの公的統計機関であるロススタットから2022年の年齢別・性別の死亡率データを入手した。2022年に死亡した50歳未満の男性は予想より2万4千人多く、相続データ分析と一致している。行方不明は、公式には死亡と認定されないロシア人や、自称ドネツク共和国やルハンスク共和国の部隊で戦っているウクライナ国民は、数に含まれてない。不確実性は数千分の1で、推計結果は全体的に妥当である。

 7月10日にAP通信からメドゥーザとメディアゾナの調査について質問されたクレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は、研究での死亡者数にコメントを拒否し、ロシア国防省のみ特権を持っている。メドゥーザはロシアの独立系メディアで、ラトビアのリガに本部を置いて、約8年前から亡命して活動している。2021年4月、ロシア当局はメドゥーザを 外国代理人に指定し、広告収入を困難にした。2023年1月、ロシア政府はメドゥーザを違法な組織として追放した。ロシア当局は、ウクライナに全面侵攻した後に、独立系メディアゾナをウェブサイトをブロックした。

   ウクライナのドネツク州スヴィアトヒルスクで、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体は、ロシア軍が遺棄して死体と遺骨化した。ウクライナの捜索隊が、ウクライナ軍とロシア軍の死体と遺骨から身元を探索した。













Warning: The Remains of one of the Russian soldiers killed in battles and abondoned by Russian troops in Sviatohirsk, Ukraine, December 21, 2022. Volunteera of a Ukrainian search GRoup looed for the remains of Ukrainian and Russian servicemen to identified them.(AP photo/ Andrily Andriyenko, Files)

2023年7月15日土曜日

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。本格的な発掘作業の結果、約600体分の遺骨と62点の遺品も見つかった。似島は戦時中に、海外からの兵士や軍馬の検疫所があった。原爆投下後により収容所となッタ。原爆で傷ついた被爆者約1万人近く運び込まれた。身元不明の死亡した被爆者は、一カ所に集めて千人塚に埋葬された。1955年に約2,000体の遺骨は、広島平和公園の戦災供養塔に移された。広島にまだどの程度の遺骨が潜在しているかは想定できず、現在も多くの遺族が身内の遺骨を探し求た。

 日清戦争開戦前の1894年9月15日に大本営が東京から広島に移った。明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,広島は臨時首都となった。全国から日本軍兵士が広島に集結して、宇品港から出兵して帰還した。似島が宇品港と対峙して近距離で、似島陸軍検疫所(第一検疫所)が1895年に創設された。1904年に,日露戦争が勃発すると,検疫数は日清戦争時の5倍に及び、第2検疫所(消毒所)が増設された。1日の処理能力は約8千人の死体の大規模検疫所になった。

 1944年夏頃から、海上挺進戦隊などの特攻訓練基地が設置された。ベニヤ板の小型舟艇を用いて教育訓練した。ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(マルハセ)の海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部が使用された。秘密部隊である陸軍船舶練習部の第十教育隊が似島で教育訓練した。

 1945年8月6日の原子爆弾の投下直後から、日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷被爆者を手当する似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容しした。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8kmであった。8月6日は午前10時頃から広島市中で被爆した被爆者が船で似島に続々と運ばれた。常時に被爆者が運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等が、必死の収容,治療,看護業務を昼夜を問わず執行した。似島町の島民も、献身的な救護活動をした。収容者された被爆者数は約1万人余と推定された。証言や発掘された遺骨数から,搬送された被爆者のうち,約7割が死亡したと推計された。

 被爆者が死亡して、火葬が8月10日頃から開始された。死者の急増により,火葬する手間もなくなった。身元不明のまま多くの死体を、隣接する陸軍馬匹検疫所の構内の各所に土葬した。戦後にたびたびに,被爆者の遺骨が収容された。1945年9月に検疫所職員等が、馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)を建立した。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体は,平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。





2023年7月14日金曜日

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。母親の視線は、何かを警戒して、朝鮮戦争中の不安で緊迫しながら周囲を見渡した。北朝鮮から韓国までの数日間にわたり長距離の避難して、一人の幼い韓国人少女は、疲れ果てて栄養失調で、母親の足下に座り込んだ。疲れ果てた朝鮮人の娘は、もはや自らの体を支えることができずに意識を失った。朝鮮戦争から避難した母親は、荷物をたくさん抱えながらも、諦めずに朝鮮人の娘の名前を呼び続けながら、娘の体を引き起こした。

 アメリカ軍の従軍記者らは1950年9月17日に、韓国仁川月尾島に上陸した後に、平沢と五山でアメリカ第2装甲師団と第7歩兵師団に合流して、水原性を経てソウルに入る過程にて写真撮影をした。国際赤十字委員会(ICRC)の東アジア代表処を通じて入手した写真には、遠い道を去る避難民の苦しい姿と負傷者の治療現場、混乱の中で子どもを預かる親の悲惨な姿などが生々しく収められている。戦争写真を通じて戦争の惨状を直接見て、なぜ戦争がこの地から消えなければならず、なぜ平和の世界が来なければならないのかを感じる展示となった。

 朝鮮戦争は、ソ連の支援により軍事力を増強した北朝鮮軍が、1950年6月25日に38度線の全域から南侵して、勃発した。わずか3日間で、首都ソウルを占領した。アメリカ主導で、国連安全保障理事会で、国連軍が派遣された。国連軍が9月15日に仁川上陸作戦で、ソウルを奪還して、鴨緑江まで侵攻した。中国軍が朝鮮戦争に介入して、再び首都ソウルが略奪された。1953年7月27日に休戦協定で一次的に終結した。朝鮮戦争の避難民の総数は、約1,041万人で人口の半数に相当した。朝鮮戦争の犠牲者(戦死者と行方不明者)数は、韓国軍が約98万7000人、民間人約143万人で、北朝鮮軍は約92万6000人、民間人約200万人が犠牲となった。国連軍は約15万人と中国志願軍は約18万3000人、民間中国人が約72万人が犠牲となった。




2023年7月13日木曜日

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

 第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日から1996年8月31日に、ソビエト連邦の崩壊後のロシアが、チェチェン独立運動の鎮圧する紛争であった。第一次紛争はロシア軍の屈辱的な敗北に終わり、チェチェンは壊滅的な打撃を受けた。人口約105万人のチェチェン共和国は、約4万人から約8万人が死亡、20万人が負傷し、数十万人が移民や難民となった。都市、町、村は消滅し、チェチェン市民は、ロシア軍とチェチェン反乱軍や武装派閥などによる広範な残虐行為にさらされた。グロズヌイのチェチェン系住民の大半は、家族と繋がる田舎に逃げ、主にロシア系民族は行き場を失い、市内に残された。

 第一次チェチェン紛争は、ソビエト連邦崩壊後の不安定な情勢から、少数派民族の民族共和国が独立を主張した。チェチェンでは、1943年と1944年にソ連がチェチェン人を中央アジアに大量に強制送還した。旧ソ連空軍大将のジョハル・ドゥダエフが権力を掌握し、1991年にチェチェン共和国の独立を宣言した。チェチェン政府が、1994年11月29日のエリツィン大統領の最後通告に従わず、ロシア軍はチェチェン奪還を命じられた。第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日にロシア軍の空爆作戦で始まり、地域の町や都市が攻撃された。

 第一次紛争では、約25,000人のロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへの三方面から侵攻した。ロシア軍は山岳や森林地帯で、チェチェン軍による待ち伏せや戦術的撤退に遭遇した。首都グロズヌイに到達するのに12月25日まで要した。ロシア軍はグロズヌイへ大晦日に悲惨な略を進めた。ロシア軍は市街に入るや否や壊滅して、約60時間で約2,000人が死傷した。ロシア軍部隊は撤退中に放棄された。

 ロシア軍は1995年1月に約40,000人を増強してグロズヌイへの再攻撃した。空爆と大砲でグロズヌイを地区ごとに組織的に破壊した。1月4日の砲撃開始後に、ロシア軍の侵攻は遅延した。チェチェン反乱軍が都市ゲリラ戦術で、小部隊が壕から出てロシア軍を待ち伏せ攻撃した。最後のチェチェン人戦闘員を都市から追い出すのに2月8日まで要した。約5週間の紛争中にグロズヌイだけで、約27,000人の民間人が死亡して、全市民の約6%に相当した。

 ロシア軍は、チェチェン全土で侵攻して、町や村を組織的に消滅した。1995年4月までにチェチェンの約90%がロシアの支配下に置かれた。征服した領域では、ロシア内務省MVD部隊が、反乱軍や反乱支持者の容疑のある村落の浄化作戦で、残虐行為が行われた。強制収容所が設置され、広範な虐待とともに、民間人が集団拘束された。 

 1995年6月、チェチェン共和国のテロリスト集団が、隣国ブディョンノフスクの病院を占拠し、約1,500人の人質をとった。病院を襲撃したロシア軍の試みは何度も失敗し、約150人の人質が犠牲になった。交渉によって停戦が合意されて、第一次紛争は終結した。チェチェンの反乱は1995年10月に停戦を終了させ、第二次反乱期を開始した。ロシア軍は、チェチェンゲリラ襲撃を受けて、ロシア軍の死傷者の大半はこの段階で発生した。ロシア軍は守勢に回ったため、重爆撃戦略を頻繁に利用できなくなった。強制収容所や浄化作戦は続いた。ロシアのメディアはソビエト崩壊後に紛争の悲惨な映像を流し、ロシアの世論を急速に戦争に反対させた。

 1996年8月6日、1,500人のチェチェン人戦闘員がグロズヌイに潜入し、約12,000人のロシア人守備隊に奇襲攻撃を仕掛けた、大胆なチェチェン人によるグロズヌイを襲撃した。ロシア軍部隊は孤立した集団に追い込まれ、チェチェン人の数は効果的な防御態勢を敷いた増援部隊によってすぐに増強された。ロシア軍の反撃が撃退された後、ロシア軍は市街を包囲し、8月19日にチェチェン人に対し、市街から退去する48時間の最後通告を与えた。閉じ込められた約30万人の市民が大パニックに陥った。8月20日に砲撃が開始され、逃げ惑う多くの市民を襲った。ロシア軍は1996年8月22日にチェチェンからの撤退を命じられ、痛烈な敗北を喫した。8月31日までに、正式にロシア軍が撤退して、チェチェンの事実上の独立を認めるハサヴ・ユルト協定が調印された。





2023年7月12日水曜日

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュにより首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュによりカンボジアの首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。4月17日に、クメール・ルージュは勝利を収めて首都プノンペンに入城した。数時間以内にカンボジアを、国家への奉仕する農村社会に変革して崩壊させた。住民約200万人を田舎へ強制退避させる命令を下した。在留した外国人がタイ国境に追放されて、民主カンプチアにおける大量虐殺の目撃者を失った。1975年から1979年の間の犠牲者のうち約50万人から約150万人は、クメール・ルージュが引き起こした強制労働と飢餓が死因となった。

 1968年1月にニクソンがアメリカ大統領に就任したとき、ベトナム戦争から名誉ある終結を公約した。北ベトナムからの軍隊や物資が、カンボジアを経由して南ベトナムに流入していた。北ベトナム軍に対抗するために、ニクソンは前任のリンドン・ジョンソン大統領が始めたカンボジア空爆作戦を劇的に拡大させた。1969年3月に、ニクソンは北ベトナムの補給路を寸断するため、カンボジア東部で大規模な爆撃作戦をアメリカ空軍に密命した。1970年4月に、アメリカ軍と南ベトナムの地上軍がカンボジア東部に侵攻して、共産主義者の聖域を攻撃した。一方、北ベトナム軍はカンボジアの奥深くへと侵入して、クメール・ルージュのために農村の大部分を占領し始めた。ニクソンはその後に、北ベトナム軍の補給路を断つため、カンボジアへの地上侵攻を開始した。

 カンボジアはベトナム戦争の当事者ではなかったが、アメリカ軍のカンボジア爆撃は、第二次世界大戦中にアメリカが投下したすべての爆弾の総トン数を上回ったと推定された。アメリカ軍の爆撃機は、カンボジアの約113,000以上の地点に約270万トン以上の爆弾を投下し、戦闘員と民間人に多大な犠牲をもたらした。カンボジア空爆作戦で何万人ものカンボジア人が死亡し、何百万人もの人々が難民化した。大量爆撃の投下による破壊と1970年のアメリカ軍の部分的な占領により、その後に大量虐殺を執行する共産主義のクメール・ルージュ政権の台頭を促して、クメール・ルージュの政権は、約200万人のカンボジア人を虐殺したと推定された。




2023年7月11日火曜日

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びていた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。フランス北部への侵攻が始まって、戦争の暴力の悲劇的な道標であるドイツ軍兵士の死体を、降ろす者はいなかった。1914年12月6日付けのル・ミロワール(Le Miroir, 写真週刊誌)の一面に掲載された。特に興味深い戦争に関する写真資料を掲載して刊行した。




  ル・ミロワールは、1910年に創刊した写真を多用したフランスの定期刊行の写真週刊誌である。日刊紙であったル・プティ・パリジャン(Le Petit Parisien)の付録であった。ル・プティ・パリジャンは、1876年10月15日から1944年8月17日まで発行されたフランスの日刊紙であり、第一次世界大戦前夜には、ル・プティ・ジュルナル、ル・マタン、ル・ジュルナルとともにフランス4大日刊紙の一つであった。

 ル・ミロワールは、1914年8月8日から戦争報道に切り替えた。1914年12月6日付けの一面では、木に吊るされたドイツ軍兵士の死体を掲載した。第一次世界大戦中に、ほとんどのヨーロッパ戦線の後方にいるフランス国民に、ル・ミロワールは、戦場で暴力が勃発していることを実にリアルに伝える機関紙として機能した。戦争を語るには、戦争の暴力を再現しなければならなので、実際の出来事の代用として、視覚的衝撃である写真を利用した。未発表である第一次世界大戦の最も衝撃的な写真を入手して、ル・ミロワールに掲載して出版することを可能にした。第一次世界大戦中は、紙不足のためにページ数が少なく、主に写真のを掲載して、価格は25セントで刊行した。第一次世界大戦が1914年7月28日に勃発して1918年11月11日に終結後に、ル・ミロワールは、1920年7月8日からは、写真だけのスポーツ雑誌に変貌した。1939年8月29日発行の1084号をもって休刊した。




2023年7月10日月曜日

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。8月31日夜に、ロシア軍の塹壕内に大突撃をした。塹壕内には、戦死した日本軍兵士とロシア軍兵士の死体が散乱した。首山堡の攻略は、猛烈な犠牲を極めた。1904年8月30日未明、第二軍と第四軍は首山堡塁に対して攻撃を開始した。しかし、ロシア軍の強固な陣地に阻まれて苦戦し戦線は膠着した。8月31日には後に軍神の橘周太が壮絶な戦死を遂げた。戦況を打開するため、第一軍は8月30日夜からひそかに太子河の渡河を開始した。遼陽東方のロシア軍の側面に回り込めた。9月1日には 第二師団が饅頭山を、第十二師団が五頂山を占領した。

  側面に展開した第一軍に退路を危惧したロシア軍は、第二軍、第四軍と対峙した部隊を第二防御線へ撤退させた。その一部を遼陽東方へ投入した。苦戦した第二軍は、退却を始めたロシア軍を追撃しつつ、首山堡一帯を占領できた。今度は第一軍がロシア軍の猛攻を受けた。各方面共に戦線は膠着状態であった。ロシア軍は奉天方面での決戦に向けて9月4日にロシア軍は撤退を命令された。

 日本軍は約13万余の軍隊を集め、ロシア軍もまた約22万余の軍隊を有して、遼陽の戦いが勃発した。8月28日に総攻撃するも、とくに遼陽前面の首山堡の線ではロシア軍主力が第二、第四軍を迎え撃ちたれた。右翼の第一軍だけが侵攻を続け、最右翼の第十二師団は8月30日の夜中に、遼陽を通って遼河に流れる太子河の上流で渡河して、ロシア軍の背後をつく構えを示した。ロシア軍防衛線の中心である首山堡の陣地をできるだけ早く突破するように8月31日に第二軍に命令した。首山堡に突撃を敢行して9月1日に占領した。突撃を指揮して戦死した陸軍歩兵の橘周太は軍神に扱われた。遼陽の戦いで、134,500人の日本軍の死傷者は約23,500人、224,600人のロシア軍の死傷者も約20,000人とされた。




2023年7月9日日曜日

2023年6月16日ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配のケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。

2023年6月16日、ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカ(Nova Kakhovka)ダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配地域ケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。6月6日、ウクライナ南部のケルソン地方のノヴァ・カホフカダムが決壊して、町が水没した。ロシアとウクライナは崩壊の原因を互いに非難している。ウクライナ当局ロシア占領下の南部の町の浸水は減少したが、瓦礫の下には遺体が残った。ロシア軍がドニプロ川の西岸で砲撃を続けているため、資源が不足している。

 ロシア軍が占領しているホラプリスタンの浸水した地域の破壊は壊滅的であり、瓦礫の下にはまだ死体が埋まっていたと、ウクライナ軍政部は、6月21日にテレグラムに投稿した。水位は徐々に下がっているが、ホラ・プリスタンの東部、中部、沿岸部は部分的に浸水したままである。浸水した町の家屋の破壊は壊滅的である。死者の死体は瓦礫の下に埋もれている。町の大部分ではガスも電気も供給されておらず、町の一部の下水道はまだ水没している。

 2023年6月6日未明に、ノヴァ・カホフカダムと水力発電所が崩壊した後に、水位が上昇を続けて、ケルソン地方の占領地域は壊滅的と公表した。住民は、救助もなく、水もなく、ただ浸水した集落の家の屋根の上にいるだけであった。人、動物が死んだ。浸水した家々の屋根からは、溺れた人々が浮かんでいるのが見える。向こう側にもそれが見える。ケルソン地方の占領地域から人々を脱出させるのは非常に難しい。6月7日から、ケルソンでの捜索・救助活動は本格化するも、発砲や着弾する大砲の音は継続していた。ケルソン地域全体で1,400人以上が避難し、ドニプロ川西岸の1,800戸以上の家屋が浸水した。

 ノヴァ・カホフカダムは重要なインフラであり、ザポリツィア原発を含むウクライナ南東部の大部分とクリミア半島に水を供給している。ウクライナ農業省は、1万ヘクタールの農地が氾濫して、ウクライナ南部の畑は砂漠化する見込みを公表した。6月6日午前3時頃に、ロシア軍はカホフカ水力発電所を爆破し、水位を上げてドニプロ川のアプローチと左岸、そこにある集落を氾濫させた。ウクライナ軍が今後反抗攻勢を困難にした。但し、ダムが故意に攻撃されたのか、それとも決壊が構造的な欠陥によるものなのかは不明のままである。衛星画像では、橋の一部が失われたのは6月1日から2日であった。










Warning: Volunteers and municipal workers grab the body from a flooded house in the town of Hola Prystan in the Kherson region, Russian-controlled territory, after flood waters receded following the collapse of the Nova Kakhovka dam, Ukraine on June 16, 2023. (Stringer/Anadolu Agency)

 

2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年7月7日金曜日

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。焼死体は炭化して原型をとどめなかった。遺品から死者数を割り出した。鉄かぶと、ボタン、がま口の口金などで推定した。身元不明者が多く、都内70ヵ所からの公園、寺院、学校などに仮埋葬された死体は約7万7,000体を超えた。警視庁発表では, 3月10日の死者は8万3,793人で、傷者は約4万918人となった。3月10日の死傷者数は計12万4,711名 (警視庁) から, 19万6,132名(帝都防空本部)までの開きがある。

 3月9日夕にマリアナ基地から爆撃目標である東京に飛び立ったB29爆撃機は、日本大本営発表は約130機だった。アメリカ軍側発表は約325機、合計約1,700トンの高性能焼夷弾を搭載した。3月9日22時30分に、警戒警報が発令された。

 本格的な東京大空襲爆撃は、3月10日の零時の打刻の直後であった。3月10日零時8分に、アメリカ軍B29爆撃機の先頭機が, 深川地区(現在の江東区)に侵入して、第一弾を投下した。木場2丁目付近に被弾して、次いで白河町2丁目、三好町1〜2丁目付近も被弾した。材木町から最初の火災が発生した。束ねた材木も無数の運河に浮かぶ丸太も、マッチ棒のように火を噴きはじめた。2分後の零時10分に、火災は隣接した城東区 (江東区) にも発生した。北砂町2〜5丁目付近が帯状に被弾し、約2分経過した12時12分には本所区 (墨田区) が空襲された。一区当り約20〜25万人からの過密地帯の町を、猛火はわずか約2分間隔で跳躍した。第一弾投下から約7分遅れて、零時15分に空襲警報が発令された。7分差の遅延が、逃げまどう庶民にとって致命的な瞬間になった。

 焼夷弾の豪雨は、本所区を南北に縦断し、直線上の大火流線は、運河で刻まれた江東地域を包囲した。3月10日零時20分に、火災は浅草区(台東区)にも発生した。牛込区 (新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区 (文京区)、麹町区 (千代田区)、芝区 (港区) なども相次いで被弾した。独立火点が次々に合流し、一挙に大火流になった。浅草区、日本橋区に広範囲に拡がった猛火は、甚大な火の粉を吹きあげ撒き散らし、巨大な火玉となって宙を飛び交い、幅約200メートルの隅田川を越えて、向島区 (墨田区)と合流した。真紅の火炎帯は、わずか半時間のうちに下町全域へと波及した。B29爆撃機は、目標の周囲に火の壁を作った後、逃げまどう人々にねらいを定め、電柱や屋根に接近した超低空で、連続波状的な無差別焼夷弾爆撃へと移った。

 北北西の風はさらに勢いを増し、地上の大火災にあおられ、火の海の沸騰となり、瞬間風速25〜30mに達した。火は風を呼び、風により火事嵐となった。地表の温度が白熱状態になり、炎は瞬間的に激流した。火の玉は不気味なとどろきを上げて、道を走り、川を渡り、家屋をつらぬき、逃げまどう人々を、つぎつぎと渦中に巻きこんだ。各署の消防自動車は消火活動に全力を上げた。直撃弾を受けて隊員もろとも火の塊になったのを皮切りに、次々に大火流に呑まれ車を焼失し、隊員は猛火の餌食になった。東京都消防隊の犠牲は、消防自動車焼失が約96台、水管焼失が約1,000本、隊員の焼死、行方不明は125人、警防団の死傷者500名以上にもなった。

 主な犠牲者は、非戦闘員の女、子ども、 年寄りの下町庶民であった。住居を無断で退去、避難とは防空法で固く禁じらた。危機的状況でも、バケツリレーなどの防火手段に身をゆだねた。人々は、あきらかに逃げおくれた。被害の中心地の江東地域は、荒川放水路と隅田川とに挟まれ、縦に横に無数の運河で刻まれた。橋が焼失して、運河は人々の退路を断った。水中へ難を逃れた人は多かったが、一命を取りとめた人はすくない。両岸から火炎と熱風、黒煙が川面を吹きなぐり、水面から首だけ出した人びとは一瞬に髪を焼かれて死んだ。火炎の前に煙にまかれて一酸化炭素で中毒死した人、 酸素の急速な減少によって窒息死した人、水温のあまりの低さのためのショック死、凍死、溺死も多かった。

 避難場所と指定された学校校舎に逃げこんだ人々も、ほとんどが痛ましい犠牲となった。安全なはずの鉄筋コンクリートの建物は、たちまち窓ガラスが溶け、荷物や衣服に火炎がまとわりついて白熱状態となり、建物もろ とも人間焼却炉に一変した。炭化した死体が何層にも山積し、講堂がぎっしりとカン詰め状態になった。火に追われた人びとが入口からなだれ込み、先の扉は内扉になって、開扉するひまなく大勢の人びとが積みかさなり、 悲惨な状態に至った。空襲警報の解除は、3月11日午前2時35分で爆撃は終了し、B29爆撃機の機影はなくなった。地獄の却火が鎮火したのは, 明方午前8時過ぎであった。一夜明け東京は、見るも無残な廃墟と変わった。東京29区に被害が波及し、約27万戸の家が焼けて、約百万人からの都民がその住居を失った。




2023年7月6日木曜日

ドイツ軍はソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフの集団墓地にて、ソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペンは、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。

ドイツ軍は1941年6月22日にソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフ(Kraigonev)の集団墓地にて、大量のソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペン(Einsatzgruppen)は、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。ソ連民間人で、共産党員と疑われた者は、ソ連赤軍将校や男性ユダヤ人とともに処刑に選ばれて処刑された。アンザックルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された。占領下のソ連におけるドイツ戦線の背後で、人種的政治的な敵の容疑者を殺害した。

  主なる殺害方法は大量射殺であった。アンザックルッペンは容疑の犠牲者を一網打尽にした。しばしば夜中に、町や村のはずれまで行進や車で連行した。犠牲者は服を脱がされ、小集団になって掘られた墓穴まで歩かされて銃殺された。容疑の犠牲者をうつ伏せにして、首の後ろにピストルを突き射殺した。ユダヤ人を溝の中に下がらせ、すでに射撃された者の死体の上に横たわらせ、死体の山をどんどん増やしていった。広い河川の近くに住むユダヤ人は、はしけに乗せて陸地から離れて曳航させた後に溺水させた。アインザッツグルッペンは、ユダヤ人に集団墓地を掘らせ、生き埋めにした報告もある。1941年10月に、ルーマニアのドイツ軍対応部隊は、オデッサの約19,000人のユダヤ人を、フェンスで囲まれた広場に集めてガソリンをまいて火をつけて焼死させた。

 1941年7月の最終週にはソ連軍の抵抗が強まって、ドイツ軍の進撃は減速し始めた。1941年夏の終わりにアインザッツグルッペンは、手に入る限りのロシア人ユダヤ人を虐殺する大量殺戮作戦を開始した。1941年5月に人種的に劣等なユダヤ人その他を抹殺する激しいイデオロギーに洗脳を受けた約3,000人のアンザッツグルッペン隊員は、4つの主要グループに分散されて、ユダヤ人狩りを開始した。移動虐殺隊は、ドイツ軍が広大な土地を素早く占領したドイツ占領下の最初の約22ヵ月間にポーランドで起こったユダヤ人に対する残虐行為をした。ソ連当局が未公表にした大量虐殺を最大限に利用した。アンザッツグルッペンは町や村のユダヤ人住民の名簿をユダヤ人社会の指導者たちから入手した。組織的抵抗の可能性を減らすために、コミュニティ指導者を最初に殺害もしばしばあった。地元のユダヤ人たちが、ユダヤ人の隣人の捕獲と殺戮に参加するように勧誘した。ドイツ軍は1941年9月19日にウクライナのキエフ市を占領して、約65万人以上の捕虜を押収した。アインザッツグルッペン部隊は、9月29日と30日にバビ・ヤール渓谷で、約3万3000人以上のユダヤ人を大量射殺した。