2023年4月21日金曜日

太平洋戦争のフィリピンのミンダナオ島の戦いで、日本軍兵士は1945年4月26日にミンダナオ島のディゴスにてゲリラ容疑のフィリピン人を射撃して、ジャングルの中で倒れたフィリピン人を日本刀で斬首して虐殺した。

太平洋戦争の末期のフィリピンの戦いにて、ミンダナオ島でアメリカ軍に追い込まれた日本軍兵士は、1945年4月26日にミンダナオ島のディゴス周辺にてゲリラ容疑のフィリピン人を射撃した。その直後に、日本軍兵士はジャングルの中で倒れて絶命したフィリピン人を、日本刀で断頭して斬首して虐殺した。ミンダンオ島の貧弱な道路網と起伏の多い地形のため、アメリカ軍の侵攻は非常に障壁であった。機械化された軍隊や追跡車両を使用するのは困難であった。 

 太平洋戦争のフィリピンの戦いにて、アメリカ軍はミンダナオ島中部への進出するために、パラン上陸作戦を1945年4月17日に決行した。アメリカ軍が、急速にミンダナオ島の内陸に侵攻した。アメリカ軍の砲艦はミンダナオ川を遡り、4月22日にカバカンの分岐点を押さえた。その近隣で守備した日本軍は、北西に撤退した。ミンダナオ川は上流から配給される主要な補給線になった。ミンダナオ島はフィリピン諸島の最南端に位置し、面積は36,000平方マイル以上、ルソン島に次ぐ大きさである。ミンダナオ島の険しい地形、破壊された橋、狭い道路が前進の最大の障害となった。

 ミダナオ島に上陸したアメリカ軍は、4月22日にマラバンに到着した。予定より早く上陸して、アメリカ軍はハイウェイ1号線をディゴスまで侵攻した。その後にダバオ市を占領した。セイレ・ハイウェイを北上してマカジャラル湾に向けて侵攻した。日本軍はアメリカ軍にカバカンの重要な道路分岐点を占領された。日本軍はアメリカ軍の侵攻で絶望的に分散して、最終的に彼らは全滅する玉砕に繋がった。アメリカ軍が急速に侵攻して、ダバオ周辺の日本軍をほぼ制圧した。4月27日に、ディゴスに到着したアメリカ軍は、守備した日本軍を瞬時に制圧した。直ちに北上し、ダバオ市へ侵攻した。ミンダナオ島の戦いで、日本軍兵士は約25,000人が戦死して、約7,000人が戦傷した。アメリカ軍とフィリピンゲリラは、約820人が戦死して、約2,880人が戦傷した。




2023年4月20日木曜日

朝鮮戦争で1950年9月18日に仁川を攻略後に、ソウルに至る途上の金浦路で、多数の北朝鮮軍兵士が殺害された。アメリカ軍将校や兵士に囲まれ、マッカーサー元帥は、自慢気に北朝鮮軍兵士の死体群を見下していた。

朝鮮戦争にて1950年9月18日に、仁川(Incheon)攻略した後に、ソウルまでに至る途上の金浦路で、多数の北朝鮮軍兵士が殺害された。その死体を、アメリカ軍将校や兵士に囲まれながら、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、自慢気に北朝鮮軍兵士の死体群を見下していた。1950年9月17日の夜明けに、北朝鮮の縦隊が金浦路に沿って、仁川とソウルの間で海兵隊を攻撃した。海兵​​連隊が待ち伏せし、北朝鮮軍が射程内に入ると、海兵隊は道路沿いの丘から北朝鮮軍を攻撃した。戦車隊が北朝鮮軍に徹甲弾を打ち込んで、約6台の北朝鮮軍の戦車は炎上して、地面には約200人の殺害されて死んだ北朝鮮軍兵士の死体で覆われた。

 1950年9月15日に、第X(10)軍団の兵士、水兵、海兵隊が、仁川に上陸した。上陸した最初の軍隊は、ほとんど抵抗なく内陸に急速に移動した。北朝鮮軍は上陸の準備がなく、過去の水陸両用作戦よりも少ない死傷者で達成した。月尾島と小月尾島の占領で、上陸部隊は約108人の北朝鮮軍兵士を殺害し、約136人を捕獲した。いくつかの洞窟で約100人を洞窟に生き埋めにした。海兵隊の軽傷約17人のみであった。9月18日に、アメリカ軍は金浦飛行場を占領した。仁川の陥落後には、アメリカ軍は、約40km離れた旧韓国の首都ソウルに焦点を合わせた。漢江の障壁と約20,000人を超える北朝鮮軍が都市を占領していた。1950年9月22日までに、第10軍団がソウルの西端に到達して。激しい市街戦が続いた。1950年9月29日にソウルはアメリカ軍によって陥落した。簡単な式典で、韓国の李承晩大統領にソウルの支配権が与えられた。

 1950年6月25日に、北朝鮮の朝鮮人民軍(KPA)は突如38度線を越えて強引な攻撃後に、朝鮮半島を執拗に南下した。韓国軍(ROKA)とアメリカ軍は、準備不良で戦力不足の部隊が追い込まれた。朝鮮人民軍のほぼ全員が釜山攻撃に関与していた。朝鮮人民軍の背後に上陸した仁川の戦いで、アメリカ軍は約224人が戦死して、約809人が戦傷した。朝鮮人民軍は約1350人が戦死して、約70,000人が捕虜となった。



2023年4月19日水曜日

第1次世界大戦の西部戦線にて、1995年に塹壕の中には生存したフランス軍兵士とその側で射殺されて殺害された死体が散乱した。

第1次世界大戦の西部戦線にて、1995年に塹壕の中にフランス軍兵士とその側で射殺にて殺害された死体が散乱した。前線に来た新兵は、塹壕を見るよりずっと前に、塹壕の死臭と異臭を感じ、ゴミや腐乱した死体を餌に細菌が群がった。塹壕から出た途端、敵は機関銃で砲撃してくる。ほとんど塹壕から突撃は失敗した。

 1915年に連合国軍は西部戦線でドイツ軍に対して一連の攻撃を行うも、頓挫した。ドイツ軍は、1915年4月のイープルの戦いの毒ガスで連合国軍は壊滅した。連合軍の反撃されて、ドイツ軍は1915年の大半を防御に費やした。1914年末までに、連合国軍とドイツ軍は海峡からフランスとスイスの国境まで続く一連の塹壕を構築した。塹壕への砲撃は、迅速に構築され、塹壕を急速に破壊した。悪天候と戦前の排水溝の破壊も、広範囲にわたる洪水につながった。どんなに寒くても濡れても、兵士たちは塹壕にとどった。砲撃で敵を叩き、歩兵に突撃命令を出して、銃剣を固定し、塹壕の上を越え、有刺鉄線をかき分けて塹壕に突撃した。

 両陣営は、西部戦線に塹壕網を構築し、北海からスイスまで約965kmに及ぶ塹壕を築いた。両陣営とも、ジグザグに走る3列の塹壕を築いた。前線の塹壕は、敵の塹壕から約約965km離れた地点にあった。塹壕の深さは約2.5m、幅は約1.5mであった。土嚢や土砂を上部に積み上げて保護した。塹壕の側面には、兵士が宿泊する穴があった。土の階段が地中深くの壕まで続いた。数100m後方には支援塹壕があった。その奥には、予備塹壕があった。前線の塹壕から支援塹壕、予備塹壕へは連絡塹壕が走った。塹壕に冬には雪が降り、塹壕に氷が張った。春と秋には、雨が降って塹壕が泥になった。

 西部戦線では、1914年にドイツ軍が急速にフランス国内に攻め込んだ。連合軍は第1次マルヌの戦いで阻止した。ドイツ軍の攻勢が止まり、西部戦線は膠着状態となり、その後約3年間は両軍とも前進できなかった。開戦から2ヶ月で、フランス軍は約329,000人の兵士を失った。1914年のクリスマスまでに、約50万人近いフランス軍兵士が死亡した。1916年12月までに、約300万人のフランス軍兵士が死傷した。




2023年4月18日火曜日

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。フォンニ(Phong Nhi)村にて、ベトナム人の母親レディン・ディエン(34歳)は、赤坊のレ・ ディン・マンを抱いたまま、韓国軍の銃によって撃たれて殺害されて倒れた。母親ディエルの上着がめくれたまま、胸がむき出しになったまま死亡した。母親より死体の上方にも、ベトナム人の村人グエン・ティ・トが韓国軍に殺害された。赤ん坊を抱いて韓国軍の銃撃によって死亡したディエンは、生前に所持していた市民証を保持していた。

 赤坊は、うつ伏せのまま死んだ母親を仰向けにすると現れた。母親の血が付着して、赤ん坊は傷ひとつなく生存していた。額に汗まで流し、ディエンの赤ん坊は眠り続けて、母親が死亡して生死の見分けもできず、た悲しみを知らない。家や村が燃え、母も、祖父も、おばも失った。赤坊は、眠りから覚めてにこにこ笑ったり泣いたりしてた。

 父親レディン・トゥク(40歳)は、生活のために南ベトナム民兵隊員として働いた。自宅から約2km離れたキエムル哨所のそばに家を建て、夜を過ごした。わずかに支給される給料で、4人の子供に食事を食べさせていた。子供たちを戦災から逃れさせた。妻ディエンの死体を見て号泣した。祖父と姉まで死んでいた。家族を失った村の住民たちが、妻ディエンの死体を背負ってキエムル哨所に駆けつけた。アメリカ軍と村を守る南ベトナム軍の一人として、韓国軍の虐殺に憤った。

 兄弟の兄レディン・ムクは、父親がいるキエムル哨所でふざけながら遊んでいた兄。フォンニ村に鳴り響いた銃声に、無感覚となった。耳が銃声の音にとても慣れた。ベトコンと南ベトナム軍が、また撃ち合ったとやり過ごした。まさか母が末っ子の赤ん坊を残した死亡は想像もできなかった。母とおばと祖父の死の前で、兄はようやく生と死の境界を理解するようになった。

  韓国は1964年から1973年の間に約320,000人の韓国軍をベトナム戦争に派遣し、共産主義の北朝鮮に対抗して南ベトナムを支援して、アメリカに次ぐ最大の外国軍を派遣した。アメリカ軍は、1968年3月16日に、アメリカ軍がソンミ(The Mỹ Lai massacre)村で民間人のベトナム人347人を虐殺した。




2023年4月17日月曜日

サラエボから約16km離れたヴラコヴォにある集団墓地は、ボスニア・セルビア人が、ボスニア・クロアチア人やイスラム教徒を殺害して埋葬した場所で、発掘調査隊が死体を発掘した。

サラエボから約16km離れたヴラコヴォにある集団墓地は、ボスニア・セルビア人が、ボスニア・クロアチア人やイスラム教徒を殺害して埋葬した場所である。サラエボのヴラコヴォ墓地近くで発掘調査隊は、約71体の死体が発見された集団墓地には、少なくとも他に約10体の死体が横たわった。

 ボスニア当局は1997年6月に、サラエボ近郊の村の集団墓地から約20体近い遺体が発掘されたと公表した。集団墓地は、1996年3月に和平協定に基づきイスラム系クロアチア人の支配下に戻った後に、サラエボの西約16kmにあるヴラコヴォ(Vlakovo)村のサラエボ市墓地で発見された。約3日間で約20体近く死体が発掘されて、墓地にはその他の死体があった。ブルドーザーが草むらの土を取り除き、吐き気を催すような悪臭が辺り一面に広がる腐敗した死体を発見した。ヴラコヴォ村は、サラエボ周辺の他の多くの村と同様に、ボスニア・セルビア人勢力に征服された。紛争中にセルビア人勢力が保持していた都市周辺に組み込まれた。

 発見された死体はすべて、1992年4月から3年半に及ぶボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の勃発時に殺害された。死体が地面にねじれ、絡み合っている様子から、集団墓地にトラックから投棄された。1995年11月に締結されたボスニア和平協定により、サラエボは再び統一都市となり、セルビア人はイスラム教徒とクロアチア人の支配下で暮らすことを嫌って郊外から撤退した。イスラム教徒とクロアチア人の墓地職員が、墓地の風景が変わって、ボスニア当局に通報した。サラエボの再統一以来、当局と法医学専門家は、市内のさまざまな場所で約300体の遺体を発見した。赤十字国際委員会は、ボスニアで約11,000人が行方不明にと推定した。




2023年4月16日日曜日

ウクライナ軍によるドネスク州の州都ドネスクの砲撃攻撃で、民間人の7人が2023年4月6日に死亡したと、ロシア軍当局とロシア系報道各社が発表した。

ウクライナ軍によるドネスク州の州都ドネスクの砲撃攻撃で、民間人の7人が2023年4月6日に死亡したと、ロシア軍当局とロシア系報道各社が発表した。ウクライナ東部で、ロシア軍が支配しているドネツク州の州都ドネツクに、ウクライナ軍がドネスクに対して2023年4月6日に砲撃を行ったとロシア軍当局者が公表した。ウクライナ軍が砲撃した直後に、ドネツクの露店の路地にビニールで覆われた民間人の死体が横たわった。








WARNING: A lifeless body covered by plastic lies on the ground at a street market after the shelling that Russian officials in Donetsk said was conducted by Ukrainian forces, in Donetsk, in Russian-controlled Donetsk region, eastern Ukraine, Friday, April 7, 2023. (AP Photo) 

 ウクライナ東部でロシア軍が支配しているドネツク州の州都ドネツクに、2023年4月6日にウクライナ軍が砲撃したとロシア当局者が公表した。ウクライナ軍の砲撃後に、ドネスクの民間労働者が、停車場付近でウクライナ軍の砲撃で殺害された。同僚の労働者が、ウクライナ軍の砲撃で殺害された死体の横に立って死体を見下した。



 








Warning: A man stands next to the bodies of killed workers near a motor depot after the shelling that Russian officials in Donetsk said was conducted by Ukrainian forces, in Donetsk, Russian-controlled Donetsk region, eastern Ukraine, Thursday, April 6, 2023. (AP Photo)

  ウクライナ東部、ロシア軍の支配下のドネツク州ドの州都ネツクで、ドネツクのロシア当局者が2023年4月6日のウクライナ軍による砲撃を公表した。ウクライナ軍の砲撃後に、自動車の修理工場の倉庫内で従業員が殺害された。仲間の男性従業員のイヴァン・ソロキン(Ivan Sorokin, 58歳)が、毛布に覆われて死亡した労働者の死体の横に立っていた。










 Warning: A man stands next to a body of killed worker in a motor depot after the shelling that Russian officials in Donetsk said was conducted by Ukrainian forces, in Donetsk, Russian-controlled Donetsk region, eastern Ukraine, Thursday, April 6, 2023. (AP Photo)

 ウクライナ東部のロシア軍当局は支配地域のドネスク州の州都ドネスクで、2023年4月6日に、ウクライナ軍による2回の砲撃で、合計7人の民間人が死亡したとロシア当局とタス通信社は公表した。タス通信社は、ドネツクでは砲弾が駐車場に直撃して、民間人4人が死亡して、さらに6人が負傷した。さらにドネツクの北東約120kmにあるリシチャンスクのバス停では、爆発により3人が死亡したと述べた。それに対して、ウクライナ軍当局から反論はなかった。ウクライナ州の州都ドネツクは、2014年以来、ロシア軍の代理勢力によって支配された。ロシア軍とウクライナ軍との戦争の最前線に近く、定期的にウクライナ軍から攻撃を受けた。

2023年4月15日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。その建物の多くは木造だったが、広島原子爆弾の爆風被害は、ガラス窓の破損と屋根瓦が飛んだ程度でわずかだった。8月6日午前8時15分の被爆直後から被爆した負傷者たちは続々と船舶練習部に避難して殺到した。各々の被爆者に応急処置をして収容するのは困難であった。8月6日午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運搬され続けた。停電の中で、懐中電灯やロウソクで徹夜の救護活動が続いて、戦場の野戦収容所を呈していた。

 大和人絹広島工場は、太平洋戦争時下に1942年12月に操業を休止して、日本陸軍に接収された。1943年2月から日本陸軍が賃貸して工場の約3の2が陸軍船舶練習部に使用された。大和人絹工場(大和紡績工場)の中央上部の従業員寮は、東京第一陸軍病院の職員が、負傷者の治療の病院として使用した。工場敷地内には、その他に陸軍船舶練習部、陸軍砲兵教導聯隊が所在した。1945年8月9日に、臨時陸軍野戦病院が設置された。

 8月25日になって、広島第一陸軍病院宇品分院に転属となった。船舶練習部(南3.9km)の正門に、廣島第一陸軍病院宇品分院の門標がかかった。陸軍船舶練習部は、臨時野戦病院から次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり、約6,000人以上の被爆患者が収容された。宇品分院には被爆直後に収容された患者のほか、その後に他救護所から次つぎと患者たちが護送された。広島第1病院宇品分院が一般から原爆専門病院として認識された。原爆病の探求のために、東京陸軍病院、軍医学校、東大医学部などの多くの医療専門家の拠点となった。アメリカ軍の医学調査団が、10月14日は広島第一陸軍病院を接収した。陸軍船舶練習部の敷地は、現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存した。




2023年4月14日金曜日

1927年の四・一ニ事件から国民党軍は、共産党の革命的民衆を処刑して虐殺した。残虐に国民党軍に殺害された共産主義者や革命家たちの死体が散乱した。

1927年の四・一ニ事件から国民党軍は、共産党の革命的民衆を処刑して虐殺した。残虐に殺害された共産主義者や革命家たちの死体が散乱した。1927年4月12日の上海大虐殺(四・一ニ粛清、四・一ニ事件)にて、蒋介石を支持する勢力と国民党の保守派が、上海の中国共産党組織と左派勢力を暴力的に弾圧した。4月9日に、蒋介石は上海に戒厳令を敷いた。4月11日に、蒋介石は国民党から共産主義者を粛清する国民党軍の管理下の全省に密命を発した。4月12日未明に、国民党軍第26軍は、閘北、南市、浦東など共産党組合員が支配する地区事務所を襲撃し始めた。蒋介石は緊急令により国民党軍第26軍に労働者民兵の武装解除を命じて、労働者民兵の約300人以上が死傷した。4月13日には、労働組合が蒋介石を非難する集会を開いて、数千人の労働者と学生が、国民党軍第26軍に抗議に向かった。国民党軍兵士たちは発砲して、約100人が殺害されて、多数の負傷者が出た。蒋介石は上海臨時政府、労働組合、その他共産党の支配下の全組織を解散させた。国民党に忠誠を誓い、杜躍成の支配下にあった労働組合を再編成した。約1000人以上の共産党員が逮捕されて、約300人が処刑され、約5000人以上が行方不明になった。約5000人から約10,000人もの共産党員が殺害された。欧米の報道で、国民党軍の白崇禧将軍は共産主義者の首を刈る男と呼称された。

 


  1927年3月21日から3月22日に、国民党左派と中国共産党の労働組合が上海で武装蜂起した。四・一ニ事件後に、国民党の保守派は支配下の全地域で共産主義者の全面的な粛清を行った。広州や長沙でも激しい弾圧が行われた。この粛清により、国民党の左派と右派の分裂が公然と起こった。蒋介石は、王景偉(汪兆銘)を中心とした武漢の左派国民党政権と対立して、南京にある右派の指導者として4月18日に南京国民政府を成立した。6月1日に、王景偉はソ連と武漢の共産主義に決別して、蒋介石に接近するも武漢国民党政府は崩壊した。広州、厦門、福州、寧波、南京、杭州、長沙の約1万人以上の共産党員が逮捕されて20日以内に処刑された。

 1927年7月15日までに武漢政権は共産主義者を追放し、国民党と中国共産党との第一次国共合作による統一戦線は事実上終了した。1927年から残りの期間に、中国共産党は政権を奪還するために中国内戦が勃発した。広州での広州蜂起の失敗と鎮圧により、共産党の勢力は大きく低下し、再び大規模な都市攻勢は困難となった。1927年4月以降の3年間だけで、中国全土で約30万人が内戦により殺害された。






2023年4月13日木曜日

1943年夏のクルスク近郊でソ連軍とドイツ軍の戦車戦が激突した。両軍の戦車は大破されて、戦場には多数の兵士の死体が散乱した。

1943年夏のクルスク近郊でソ連軍とドイツ軍の戦車戦が激突した。両軍の戦車は大破されて、戦場には多数の兵士の死体が散乱した。ソ連軍司令部が、ドイツ軍の作戦に関する情報を入手していた。ソ連軍は事前にドイツ軍の攻撃を察知して、明らかに脅威となる峡谷内の陣地から主力のソ連軍を撤退させ、ドイツ軍は次第に劣勢となった。

 クルスクの戦い(1943年7月5日~8月23日)は、第二次世界大戦中に、ロシア西部のクルスク市周辺のソビエント軍に対する攻撃にてドイツ軍が大敗した。ドイツ戦線に対して、クルスク周辺にてソ連軍の戦線が南北約240km、西方約160kmと突出して膨張していた。ドイツ軍は、東部戦線での攻勢を回復するため、南北両方から渓谷への奇襲攻撃して、渓谷内のソ連軍を包囲して崩壊することを狙った。ドイツ軍の突撃部隊は、約50個師団近く、約90万人のドイツ軍兵員で構成された。そのうち17個師団は約2700台の戦車と機動突撃砲を有する機動装甲師団であった。

 ドイツ軍は7月5日朝4時半から攻撃を開始した。直後に、ソ連軍がドイツ軍の攻撃を想定して設置した深い対戦車防御と地雷原に、ドイツ軍は遭遇して破壊された。ドイツ軍は北側で約16km、南側で約48kmしか侵攻できなかった。その過程で多くのドイツ軍の戦車とドイツ軍兵士を失った。7月9日までにドイツ軍の攻勢は遂に行き詰まった。7月12日の戦闘の最中に、ソビエト軍は反撃に転じて、それまでに兵力、戦車ともに圧倒的にドイツ軍よりも、優勢になった。7月10日に、イギリス軍とアメリカ軍がイタリア戦線のシチリア島への侵攻をして、クルクスの攻勢を中断した。ドイツ軍は7月16日からクルスクから撤退を開始した。8月5日には近郊の都市オレル(現オリョール)を、8月23日にはハリコフ(現ウクライナ・ハリコフ)を奪還する大攻勢を展開した。

 クルスクの戦いは、約6,000台の戦車、約200万人の兵士、約4,000機の戦闘機が参戦した史上最大の戦車戦となった。クルスクの戦いでドイツ軍は死傷者・行方不明者は約43万人が戦死・行方不明・戦傷となった。戦車・突撃砲は約1500台、戦闘機は約3700機以上、銃3000門を失った。ソ連軍は、約254,470人が戦死・行方向不明、約608,833人が戦傷・病気を伴った。第二次世界大戦の東部戦線におけるドイツ軍の攻撃力を決定的に低下させた。1944年から1945年にかけてソ連軍の大攻勢への道が切り開いた。




2023年4月12日水曜日

ドレスデン空襲による地下室のシェルター内の集団虐殺によって、一家全員が焼却処刑の犠牲となった。焦げた死体が乾燥熱を受けて、皮膚、頭皮、眼窩に裂け目ができた。

第二次世界大戦末期に連合国軍のドレスデン空襲によって、地下室のシェルター内の集団虐殺によって、一家全員が焼却処刑の犠牲となった。焦げた死体が乾燥熱の影響を受けた。皮膚、頭皮、眼窩の周囲に裂け目ができた。地下の壕に隠れていた市民でさえ殺害された。火は煙毒を引き起こし、一方で強い火力は酸素を消費して、壕に隠れた市民は窒息死した。多くの市民が熱で殺害されて、生きながら焼け、溶けた。市内は焼夷弾によって約1500℃の火の竜巻が発生した。散らばった火が合わさり巨大な篝火となった。上空の空気は熱せられ、密度が低下して上昇し、行く手すべてを焼き尽くした。竜巻は逃げる市民、大きな重量物も勢いよく引き寄せた。死者数は約100,000人から約200,000人の死者と推定された。

 1945年2月13日から15日にかけて行われたイギリス空軍とアメリカ陸軍航空隊によるドレスデン爆撃は、第二次世界大戦で最も疑問を呼んだ軍事行動の1つである。連合軍の爆撃機が開発した火力は、長崎と広島に投下された原子爆弾にも匹敵した。間接的な軍事目標(カーペット爆撃)のみで、歴史的な市街地を完全に破壊し、民間人の大虐殺を引き起こした。1945年2月13日火曜日の夜10時頃から約796機のイギリス空軍機から空襲を勃発した。2月14日12時17分から約311機のアメリカ空軍機が空襲を開始した。 

 1945年の初めは、連合国軍は、ヨーロッパの東部戦線にて、ソ連に戦略爆撃の手段で支援する問題が提起された。ベルリンなどる東ドイツの多くの都市を爆撃する作戦を立てた。戦略爆撃は、爆撃機の優先目標は製油所、ジェット機工場、潜水艦建造現場の破壊にとどまっていた。ドレスデン自体は、軍事的な意義は乏しかった。ドイツ空軍により本土に空襲を受けていたイギリス王立空軍(RAF)は、ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツに早急な空襲を命じられた。戦争末期と戦争終結後には、広島・長崎原子爆弾にも匹敵する最も血なまぐさい大量虐殺が勃発した。民間人を意図的に標的にした巨大な悲劇は、何年もの苦しみと破壊と虐殺を市民に与えた。




2023年4月11日火曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて、1945年5月24日夜間に日本軍の特攻機がアメリカ軍の対空砲火により撃墜され、読谷飛行場に不時着した。搭乗した日本軍の義烈空挺隊員は、アメリカ軍に特攻機の側で射殺された。

太平洋戦争末期の沖縄戦において、1945年5月24日夜間に日本軍の特攻機がアメリカ軍の対空砲火により撃墜されて、沖縄の読谷飛行場に不時着して激突した。その特攻機に搭乗していた日本軍兵士の義烈空挺隊員は、アメリカ軍に特攻機の側で射殺されて殺害された。翌日にアメリカ軍兵士が、読谷飛行場に散乱した死体を側から見下して検死した。大破して崩壊した特攻機の処分作業をした。義烈空挺隊は、アメリカ軍の飛行場に強行着陸をして、自殺的特攻によりアメリカ軍の陣地を撹乱する自殺突撃する特別攻撃隊(特攻隊)であった。

 日本軍の義烈空挺隊の双発爆撃機の5機が、5月24日夜10時半ころ伊江島の方向から低空で飛行した。アメリカ軍の対空砲がただちに砲撃した。読谷飛行場の上空で炎上して墜落した。義烈空挺隊の1機のみは、アメリカ軍砲火をくぐって、読谷飛行場の滑走路に胴体着陸した。約8人の完全武装の日本軍兵士が爆撃機から周囲に突っ走った。滑走路沿いに並べたアメリカ軍の軍用機に手榴弾を投げつけた。コルセアの2機、C―54型輸送機の4機、プライベティアーの1機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機の1機、ヘルキャットの3機、コルセアの22機、合計26機体が撃破された。日本の特殊部隊は、約70,000ガロンの航空燃料が入っている燃料貯蔵庫が炎上した。

 読谷飛行場の地域にて、アメリカ軍兵士は2人が殺害されて、18人が戦傷した。日本軍兵士は全員が戦死して、10人が殺害されて、13人が飛行機の中で戦死した。義烈空挺隊の他の4機には、各機とも14人ずつ乗り組んでいた。陸軍中野学校出身者の10人が指揮官や隊員として配属され、隊員として沖縄出身者2人が搭乗した。全員とも撃墜された特攻機が炎上してそのまま戦死して、死体は69体に上った。最後の日本軍空挺隊の一人は、翌日5月25日に残波岬でアメリカ軍に殺害された。





2023年4月10日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、反体制派の粛清のために、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。

1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。銃殺の処刑場にて、一人ずつ杭に縛られた。約39人は、全員が共産主義を信奉した容疑にて、韓国政府によって逮捕され、裁判もなく処刑された。韓国軍憲兵は囚人の目を目隠しで覆った。身体には銃殺する射撃の標的である心臓の部分を特別にマークを付けた。処刑者は、二列になっている銃殺の行列を形成した。処刑現場には約200人の韓国軍と警察官、6人のアメリカ軍将校がいた。アメリカ軍は、自ら処刑を行わず、監視のような役割を担った。指揮官が発砲命令を出すと、処刑人のライフル銃が一斉に発砲した。韓国憲兵は政治犯に近づき、一人ずつ検死した。その場で一度に殺害されなかった者は、2度目の銃殺が行われた。韓国の憲兵が囚人を縛る縄を解いて、囚人たちの死体を、次々と棺桶に入れた。


 1945年8月15日の日本の降伏後に、朝鮮半島は38度線に沿って2分割された。北はソ連が占領して、南はアメリカが占領した。1948年8月に南部に大韓民国、9月には北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立した。その後、アメリカが軍事顧問団を韓国に残した以外は、アメリカ軍とソ連軍は、朝鮮半島から撤退していた。北朝鮮でも韓国でも、反体制派の粛清が執行された。韓国では、親北の共産主義者が大量に逮捕され、銃殺された。その2か月後の1950年6月25日早朝に、北朝鮮軍が南方に奇襲攻撃を仕掛け、朝鮮戦争が勃発した。

 1945年8月15日の日本降伏後に、朝鮮半島の朝鮮戦争の前後から、組織的で意図的な大量虐殺(Genocide)や集団虐殺(Massacre)が勃発した。1948年5月10日に、韓国のみ総選挙され、それに対抗して左翼勢力が武装闘争が勃発した。左翼は、韓国だけの総選挙に対してニ・七救国闘争で敵対した。1948年の済州島四・三事件にて、大韓民国の李承晩政権は大討伐作戦を強行した。1948年11月から1949年3月まで、焦土作戦が本格化した。討伐軍は、中山間地域の約100地域を焼き払って無差別に戒厳令下で虐殺した。済州島では、武装勢力は約500人だけでなく約3万人も集団虐殺した。鎮圧軍による住民全体の民間人集団虐殺が発生した。1949年1月10日に、韓国陸軍は、反乱軍の軍事裁判は、2817人に対して約410人が死刑を受けた。1948年12月1日に、国家保安法が制定されると、弾圧された左翼は武装闘争に移行した。朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、敵味方の区別が困難な内戦に至った。韓国軍とアメリカ軍は、北朝鮮が活動する地域の民間人も含めて無差別に殺害した。





2023年4月9日日曜日

ロシア軍とウクライナ軍の間で激しい戦闘が行われたウクライナの首都キエフ北部のモシュチュン村で2022年3月30日に、民家の間にロシア兵の遺体が横たわった

ロシア軍とウクライナ軍の間で激しい戦闘が行われたウクライナの首都キエフ北部のモシュチュン(Moshchun)村で2022年3月30日に、民家の間にロシア兵の遺体が横たわった(Heidi Levine for The Washington Post) 。他にも約10体の死体がモシュチュン村に散乱し、そのうちの数人は森の端にあった。無数のロシア軍の死体が戦場に放置された。ウクライナ軍の安置所や冷蔵鉄道車両に約7,000体の引き取らないロシア軍兵士の死体があった。ロシア軍は、行方不明として報告するのが安上がりであった。

 モシュチュンの戦いは、ロシア軍のウクライナ侵攻の2022年3月5日から3月21日に、モシュチュン村で軍事交戦が勃発した。北方玄関口となり、キエフ防衛中の最も激烈で重要な戦闘の一つであった。ロシア軍は、約600人が戦死して、約600人が戦傷して、ウクライナ軍は約55人が戦死した。

 ウクライナ首都キエフの北にあるウクライナの村、モシュチュンの住民は、4月21日には自分の家に戻ることができた。ロシア軍が撤退する前に、対人地雷やその他の爆発物の痕跡を残した。この地域所には、まだ死の危険が潜んでいた。ロシア軍の侵攻で、焼かれ、爆撃を受けた自宅に戻るには、住民は死傷のリスクを書面で受け入れ、村の入口を警備するウクライナ軍からの免責書に署名が必須であった。

 住民は部分的に清掃しても、庭に爆発物が残存した。2022年2月24日のロシア侵攻の開始後に、ウクライナ国外に避難した数百万人のウクライナ人のうち、特に首都キエフ北部の住民は、ウクライナ軍の激しい抵抗に遭ってロシア軍が撤退した地域に帰還した。大部分の家が略奪され、窓は割れ、壁には破片が飛び散った。一部は、完全に焼失した。すべてを元の状態に戻す前に、不発弾が洗剤する可能性を慎重に検証が必須である。公式の地雷除去チームは、村のすべての建物を調査できない。不発物や罠のリスクがある。ロシア軍は、地面に置いた宝石の下に穴を掘って、爆発物を置いた。子ども用のおもちゃやウクライナ軍兵士の死体にもリスクがある。住民は、脱出の際、村民の中には書類や着衣以外は、爆発や火災で焼かれた。生き残った喜びを感じつつも、住民に対する暴行を目撃したトラウマを背負った。ロシア軍の爆撃から逃れるために、異なる家の地下室に潜んだ。











Warning: Bodies of Russian soldiers lie among civilian homes on March 30 in the village of Moshchun, Ukraine, where heavy fighting between Russian and Ukrainian forces (The Washington Post by Heidi Levine).

2023年4月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。




2023年4月7日金曜日

アメリカ軍の海兵隊は、ペリリュー島の戦いで日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体から指紋を採取した。ペリリュー島の海岸では、兵士が頸に下げた認識票(Dogtag)によって死体を検証した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、戦死傷を負ったアメリカ軍の海兵隊員は、治療と避難のために上陸した海岸の上陸拠点の救護所に運送された。戦場から戦死傷者を担架で抱えて、担ぎ手は戦場の前線から駆け戻った。医師や衛生兵は、負担のかかる重体の戦死傷者を海上の病院船にまで避難させるまで生命の維持に尽力した。

 アメリカ軍の海兵隊は、ペリリュー島の戦いで日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体から指紋を採取した。ペリリュー島の海岸では、兵士が頸に下げた認識票(Dogtag)によって死体を検証した。死体を埋葬する前には、指紋を採取することで、死者の身元を確認した。バウンティフル級海軍病院船に、避難できた戦傷者の生存率は90パーセント以上に上った。バウンティフル級海軍病院船は数少ない血液貯蔵庫を設置して、1944年9月17日にペリリュー上陸作戦の戦死傷者をソロモン諸島の病院に運搬した。

 認識票のタグの片面に、右手人差し指の指紋が刻まれた、もう一方の面は、個人のイニシャルと姓、入隊の年月日(1916年5月1日など数字で表記)、出生の年月日年(同様に表記)が刻まれた。将校の場合は、イニシャルと姓、保有する階級、任命年月日を記載した。タグへの記載は、医務官が指定する病院部隊が処置した。野外で腐敗した死体は病気を蔓延させ、部隊の士気を低下させ、死体を可及的に埋葬した。恐怖とパニックが増悪しないように、兵士の死体には遭遇させなかった。法医学的な理由もあり、身元を確認するだけでなく、兵士の死体から情報を集め、どのように殺害された情報も収集した。

 ペリリュー島の戦いでアメリカ軍の戦死傷者数は、戦死者約1,544人、戦傷者6,843人に上った。第1海兵連隊が6日間の戦闘で約70%の戦死傷者、第7海兵連隊は約46%の戦死傷者の犠牲を伴った。日本軍は約11,000人近くが戦死して、生存した捕虜はわずか301人であった。多大な犠牲を払って獲得したペリリューは、太平洋戦争の末期には重要な役割を果たせなかった。