2023年3月11日土曜日

広島原子爆弾の炸裂して、33歳の陸軍将校は爆心地から約2kmの木造2階で被爆して、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。

広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。




  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。




 経過

1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)

2023年3月10日金曜日

太平洋戦争のウェーク島の戦いに、1978年からの遺骨収集で、どの遺体も北枕で整然と埋葬されていた。属島のピール島(羽島)では約786柱の遺骨を焼骨した。

ウェーク島はグアムとハワイの中間に浮かぶ中部太平洋の要衝であった。隆起した珊瑚礁からなる島で、全島が小石と砂のみで、石がなかったので大日本麦酒の瓶を墓標とした。太平洋戦争のウェーク島の戦いに、1978年からの遺骨収集で、どの遺体も北枕で整然と埋葬されていた。属島のピール島(羽島)では約786柱の遺骨を焼骨した。





 太平洋戦争が勃発して、1941年にアメリカ軍を撃退し日本軍が占領して、大鳥島と改名した。1943年から、アメリカ軍が猛空爆で反攻した。相次ぐ輸送船の撃沈で兵站が途絶え、潜水艦による補給もままならず食糧が尽きた。一日の支給は乾パン五個、カツオ節の粉が匙に2杯で、あとは、海鳥、野ネズミを捕まえ、ボサと呼ばれる灌木の芽やヤドカリを煮た。特殊艇で比較的元気な日本軍兵士が漁に出た。落ち葉をかき集め腐葉土をつくり、小松菜、インゲンのタネを蒔いた。守備部隊約4,000人は、戦没者1,300人のうち、餓死者は約1,000人に及んだ、ウェーク島の動植物を食いつくした。栄養失調の兵士たちは歩行も困難で、ふらふらになりながら、戦友の死体を運搬した。ウェーク島北部の平坦な砂地を、集団墓地にして埋葬した。東西冷戦の終結するまで、アメリカ軍の空軍基地となった。アメリカ軍の許可が下り、1978年に、日本政府による遺骨収集が実施された。深く埋める余力がなかったため、約30cmも掘ると、つぎつぎと遺骨が出現した。遺骨は同様な骨格標本に見えた。遺留品は、万年筆、ベルトのバックル、ホウロウの食器、セルロイドの眼鏡、印鑑、ガラス板に焼き付けたブロマイドなど個別性があった。



 1943年10月6日と7日、アメリカ軍がウェーク島に対して合計約738機を繰り出して空襲を行った。重巡洋艦によって艦砲射撃を実施して、日本軍に大きな損害を与えた。特に、備蓄してあった食糧の大半が焼失した。その直後に日本軍司令官の酒井原は、ウェーク島に残してあったアメリカ人捕虜約98人をウェーク島の北部に集めて、機関銃で虐殺した。1944年5月頃から、ウェーク島の防備部隊に食料と医薬品の補給の枯渇により、飢餓と不衛生と栄養失調が覆い始めた。野鳥を絶滅するまで食べつくし、海燕の卵を採取して食糧とし、潅木の葉で草餅を作った。1944年9月だけで、日本軍兵士約145人が栄養失調で戦病死した。1945年3月から食料は激減して、4月に補給が途絶えた。6月に空襲を受けて、全員が栄養失調となった。1945年7月に病院船高砂丸が、悲惨な約1,000人もの栄養失調と戦傷者を輸送した。8月1日に、アメリカ軍の艦砲射撃と空襲を受けた。8月15日に、日本が降伏して、8月16日夜に終戦を拝受した。遂に、1945年9月4日に残存して潜伏していた日本軍のウェーク島の守備軍は、アメリカ軍に降伏した。

 ウェーク島守備部隊は、終戦までに栄養失調による戦病死者約1,340人、戦死者約291人を出した。その後酒井原は、1943年10月の捕虜虐殺の戦争犯罪により、グアムで戦犯裁判を受け死て刑判決が下され、1947年6月に死刑が執行された。1953年1月に、ウェーク島に、南方遺骨収集慰霊船日本丸から吉田茂首相の碑銘が記入された二尺四寸の自然石の慰霊碑がウェーク島に持ち込まれた。1966年12月29日に、アメリカ軍戦没者記念塔の横に移設された。


2023年3月9日木曜日

朝鮮戦争で殺害された北朝鮮軍兵士の死体を見ながら、1950年10月18日に沙里原でアメリカ軍下肢士官兵(GI)はクッキーを頬張った。

朝鮮戦争で殺害された北朝鮮軍兵士の死体を見ながら、1950年10月18日に沙里原(Sariwon)で、アメリカ軍下肢士官兵(GI)はクッキーを頬張った。沙里原の戦いは、1950年10月17日に、韓国を侵略した北朝鮮軍に対する国際連合(UN)の反攻作戦の中で勃発した。多くの朝鮮人民軍(KPA)部隊が国連軍の圧力で後退する中、イギリス連邦軍第27旅団は、混乱した一方的な反撃でサリウォンの町を占領しました。アメリカ軍第7騎兵連隊の部隊も参戦した。北朝鮮の朝鮮人民軍の死傷者は約215人、捕虜約3,700人以上に及んだ。イギリス連邦軍の死者は1人、戦傷者は3人であった。

 沙里原は、北朝鮮の黄海北道の西部にあり、近隣北部に北朝鮮の首都平壌が位置した。沙里原から北朝鮮の首都平壌までは約60km離れて、沙里原と平壌の間には、時折低い丘があるだけであった。北朝鮮軍は首都平壤の防衛戦が、平壤近郊の沙里原の手前の高台で、10月17日に勃発した。

 突然に北朝鮮のライフル射撃が、イギリス連邦軍に襲いかかった。北朝鮮軍は果樹園に潜伏していた。戦車が果樹園に砲撃を開始すると、数人の北朝鮮軍兵士が果樹園から走り出した。直後に、大量の北朝鮮人が果樹園を抜け出し、稜線に向かって突進し、頂上を越えて潜伏した。果樹園に突入し、残存する北朝鮮軍を一掃した。短期の攻撃で、約40人の北朝鮮軍兵士を殺害して、他の者を捕らえた。逃げる北朝鮮軍は、10門の機関銃を残し、峠では対戦車砲の砲台を放棄した。沙里原に侵入したが、国連軍の爆撃でひどく損傷していた。この日の損失は、連邦軍は死者1人、負傷者は約3人であった。

10月17日から、奇怪な事件が次々と起こり、沙里原の夜は大混乱となった。町の南にいたイギリス軍の偵察隊が、北上中の北朝鮮軍兵のトラックと遭遇した。北側の出口が閉鎖されて引き返し、再び偵察隊と遭遇した。2度目の遭遇で、偵察隊は約20人の北朝鮮軍兵士を殺害した。

 沙里原での掃討の夜には、約150人の北朝鮮軍兵士が殺された。イギリス具はたった1人の兵士を失っただけで、北朝鮮軍のほとんどは沙里原を通過した。北朝鮮小隊の降伏は白昼に行われ、すぐに陣地の東側から北朝鮮軍兵士が押し寄せて降伏した。西側では、暗くなるまで小銃の射撃が続き、多くの北朝鮮軍兵士が降伏した。その夜に、第1大隊に投降した北朝鮮兵は約1,700人以上、女性看護婦は約13人であった。






2023年3月8日水曜日

第二次世界大戦末期に、ドイツの首都ベルリンにおける市街戦により、ブランデンブルク門前で、ドイツ国防軍兵士が殺害されて戦死した死体が散在した。

第二次世界大戦末期に、ドイツの首都ベルリンにおける市街戦により、ブランデンブルク門前で、ドイツ国防軍兵士が殺害されて戦死した死体が散在した。首都ベルリンは1945年4月23日から5月2日に、ヨーロッパ東部戦線における第二次世界大戦の最後の破滅行為の戦場となった。ソ連の赤軍は、絶望的な、時には自滅的な防衛手段に対する約3週間の残酷な戦いの後に、ベルリンを占領し、東部に残る最後のドイツ軍を粉砕した。ベルリンの戦いで、ドイツ軍兵士は約150,000から約173,000人が戦死して、戦傷は約200,000人に及んだ。ソ連の赤軍は、約81,116人が戦死して、戦傷は約280,251人に達した。

 1945年の4月23日に、陸上通信と電力線がほとんど途絶えた状態で、アドルフ・ヒトラーは大ドイツラジオで、苦境に立たされた首都ベルリンを救うための命令を放送した。エルベ川でアメリカ軍と対峙したドイツ国防軍を撤退させ、人口約400万人の都市ベルリンを救出するために北上させた。ベルリンは、ソ連軍の大砲とトラック搭載ロケット弾の絶え間ない砲撃を受けた。テオドール・ブッセ元帥の寄せ集めの第九軍とワルター・フェンク元帥の第十二軍(約90%は17から18歳の訓練生で、武器を持つ者は半分以下)らの援軍が合流させた。使える戦力をすべて回して連携させて、首都ベルリンを解放せよと厳命した。

 ベルリンの大混乱の中で、首都のドイツ軍兵士の数は約8万人で、外周の防衛線に配置するのがやっとの状態であった。首都ベルリン防衛の約半分は、未経験の人民民兵、市警、意気消沈した10代の若者、焦ったヒトラーユーゲント、高齢者の寄せ集め、時には引き抜かれた幹部であった。少年兵同様に、武器、弾薬、対戦車溝掘り道具、基礎訓練すら十分ではなかった。残余のドイツ軍兵士は、東部戦線での戦闘で疲れ果て、不潔でひげを生やし、充血した目で戦意を喪失した退役軍人たちであった。半飢餓状態のドイツ軍に対して、約150万人以上の戦闘力、装備も食事も整ったソ連軍兵士が対峙した。

 4月26日に、首都防衛のドイツ軍はヒトラーの地下壕から数kmの距離まで撤退した。4月27日には、ドイツ軍の防衛地域は、約50km平方まで縮減した。4月29日から30日夜に、ヒトラーまだ救出されることを望んでいた。4月30日夜にヒトラーと妻エヴァは自殺した。拳銃と劇薬であるシアン化物で、ヒトラーの遺言で、夫妻の死体はガソリンで炎上した。残骸は赤軍により回収された。ソ連軍は、ヒトラーの死体は秘密裏に埋めて、1970年に掘り起こされ、焼却後にエルベ川に散骨した。冷戦終結後の1992年に、旧ソ連のKGBと後継FSBの記録が公開された。




2023年3月7日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦の上陸直後にて、1945年4月4日に沖縄戦での戦闘で死亡した3人の仲間のアメリカ軍兵士の死体の側で、アメリカ軍兵士が悲嘆に暮れた。

太平洋戦争の沖縄戦にて1945年4月1日朝に沖縄本島にアメリカ軍が上陸した。その直後の1945年4月4日には、覆われたアメリカ軍兵士の3体の死体の列の上で、一人のアメリカ軍兵士が、厳かにしゃがみこんでいた。沖縄戦での戦闘で死亡した3人の仲間の死体の側で、アメリカ軍兵士が悲嘆に暮れた。戦争では人は変わるものだ。毎日、人が殺され、毎日、人が傷つけられるのを目の当たりにした。死体はすぐに硬く、とても硬くなる。アメリカ軍兵士の親友が戦車に轢かれて死んだとき、何の感傷も受けなくなった。その戦闘後に1カ月ほどして、トラックが私たちに突っ込んできて、トラックの荷台に男子がひどくつぶされた。彼らを病院に運ぶのを手伝いに行って、気分が悪くなった。戦争であっという間に人が変わっていた。

 1945年4月から6月にかけて沖縄戦でのアメリカ軍の損害は、日本本土に向けた侵攻の第一段階で、どれだけのアメリカ軍兵士が犠牲となるかを示す一つの指標となった。トルーマン大統領とアメリカ軍の参謀たちは、沖縄の侵攻と征服を犠牲者を日本本土の侵攻の指標とした。沖縄戦での日本軍の抵抗の激しさを、日本軍兵士と何百万人もの民間人が、天皇陛下のために、祖国の最終防衛のために戦った場合に予想される犠牲と比較した。1945年4月から6月にかけて沖縄戦では、約12,638人のアメリカ軍兵士、海兵隊員、水兵隊員、航空隊員が命を落として、約36,631人が負傷した。沖縄戦の犠牲者は、侵略の第一段階である九州攻略戦の犠牲者を予見させた。1946年春には、本州への侵攻と東京の占領という最終攻撃が計画されて、九州の戦いよりもはるかに大きな犠牲を伴うと予想された。マッカーサーは早速、九州侵攻から約30日間のアメリカ軍兵士の死傷者、行方不明者合わせて約50,800人の想定書をアメリカに送信した。

 当初にアメリカ陸軍省は、アメリカ軍兵士の死体を帰還させる考えに抵抗があった。任務の規模と2億ドルの費用がかかるためであった。1946年5月16日に、議会は公法第383号を制定して、遺族が息子や夫の帰還を国立墓地か民間の墓地に要請することを許可した。1947年秋に、死体は帰還を開始した。帰還と再埋葬が完了するのに約6年の歳月を要した。第二次世界大戦のアメリカ軍兵士の戦没者のうち、約9万3千人の死体は海外のアメリカ軍墓地に埋葬されたままとなった。




2023年3月6日月曜日

南アフリカで、アパルトヘイト時代における人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。

南アフリカの真実委員会は、アパルトヘイトによる人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。南アフリカは、1960年から1990年の間に処刑された政治犯の死体を発掘した。アパルトヘイト時代の人権侵害を調査している真実委員会は、死体や墓の発掘は、警察が幹部を待ち伏せして逮捕せずに殺害し、密かに埋葬するパターンを示唆した。南アフリカでは、アパルトヘイト体制の末期に、軍や警察は証拠隠滅をしていた。1992年3月には、南アフリカ公安本部は捜査記録を破棄する通達を出した。

 南アフリカは1995年に国民統合和解促進法34により、真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)の法廷機関を設立して、アパルトヘイト時代に起きた人権侵害の真実を明らかにし、国民の和解をもたらした。第二次世界大戦後のドイツのニュルンベルク裁判や日本の極東国際軍事裁判とは異なり、被害者と加害者の双方から証拠を集め、情報公開に重点を置いた。1998年10月29日に最終報告書5巻が、2003年3月21日に最終報告書2巻が公表された。1960年代から1990年代に、何千人もの南アフリカの人々が拉致され、拷問され、殺害される悪辣な闘争が浮かび上がった。

 1990年に、F.W.デクラーク大統領による解放運動と野党の禁止解除、ネルソン・マンデラの釈放、南アフリカの非常事態解除により、アパルトヘイト政権と対抗する人々と和平調停で、南アフリカは300年以上続いた植民地主義とアパルトヘイトを解決を図った。当時の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラは、デズモンド・ツツ大主教を委員長に任命した。被害者から約2万2千件以上の意見書を受け取り、公聴会を開いて、アパルトヘイト国家による拷問、殺害、失踪、拉致、重度の虐待と定義される重大な人権侵害を証言させた。アフリカ民族会議、インカサ自由党、汎アフリカ主義会議などの解放運動の指導者も、委員会に姿を現し、解放運動の手によって侵害を受けた人たちが証言した。委員会は7,000件以上の恩赦申請を受理して、2,500件以上の恩赦公聴会を開催し、アパルトヘイト時代に犯した何千もの犯罪に対して1,500件の恩赦を与えた。

 アパルトヘイトとは、20世紀後半に南アフリカで少数民族である白人と多数民族である非白人の関係を支配した政策で、人種隔離と非白人に対する政治的・経済的差別を是認した。1948年以前の南アフリカでは、法律による人種隔離政策が展開した。1948年に国民党が、アパルトヘイトと呼称して、1950年人口登録法で分離隔離が拡充した。。1950年の集団地域法で、種ごとの居住区と営業区を設け、他の人種の居住、営業、土地の所有を禁じた。南アフリカ国内には常に反対運動があった。黒人グループは、一部の白人の支援を得て、デモやストライキを行い、暴力的な抗議活動や破壊活動も数多く行われた。1960年3月21日、シャープビルでアパルトヘイトに反対する最初の、最も暴力的なデモが行われた。警察はデモ隊に対して発砲して、約69人の黒人アフリカ人が死亡、多数の負傷者が出た。1976年、アフリカ系黒人の学生にアフリカーンス語を強制して、ソウェト暴動が発生した。




2023年3月5日日曜日

ロシア軍のウクライナでの侵攻開始から2023年2月24日金曜日に1年が経過して、ロシアのサンクトペテルブルクで、ウクライナ詩人のタラス・シェフチェンコ記念碑に花を手向けた数人を、警察官が拘束して逮捕して連行した。

ロシア軍のウクライナでの侵攻開始から2023年2月24日金曜日で、ちょうど1年が経過した。ロシアのサンクトペテルブルク都市で、ウクライナの作家であるタラス・シェフチェンコ(Taras Shevchenko, 詩人)の記念碑に花を手向けた男性を、警察官が拘束して逮捕して連行した。




さらに同じ記念碑に花を手向けた2人の女性グループも、警察官が拘束して逮捕して連行した。



政治犯人の逮捕を追跡する団体(OVD-Info)によると、サンクトペテルブルクではタラス・シェフチェンコ記念碑に花を持って行った少しとも7人が拘束されたと公表した。オンライン・ニュースSotaが撮影した映像には、警察官が夫婦にコロナウイルス規制に違反していると説明する様子が映し出された。モスクワでは、同じくウクライナの著名な詩人であるレシャ・ウクラインカの記念碑に人々が集まり、花を捧げていた。警官隊が一行を監視したが、ほとんど邪魔はしなかった。

 モスクワや他の都市のロシア人は、モスクワのウクライナ侵攻1周年を記念して、ウクライナの詩人に花を手向け、反戦スローガンを掲げた1人ピケッティングを金曜日に実施した。ロシアのメディアや市民権団体は、戦争開始以来に急増した反対意見に対してクレムリンの徹底的な弾圧の一環として、少なくとも12人が拘束された。OVD-Infoによると、ロシア第4の都市エカテリンブルクでは、市内にある政治的弾圧の犠牲者を悼む記念碑に花を持って来た少なくとも8人が拘束された。

 シベリアの都市バルナウルでは、シベリア・リアリ(Sibir.Realii)通信によると、"Stop being silent(沈黙を守る) "と書かれたプラカードを持って中央広場にピケッティングした男性を含む5人が拘束された。シベリアの別の都市コムソモリスク・オン・アムールでは、私たちは喪に服していると書かれた横断幕を持って抗議した女性が拘束された。ウクライナ侵攻の最初の週には、全国のロシア人がウクライナでの戦争に積極的に抗議していた。

 大規模な集会は数千人が拘束されたためすぐに立ち消えになったが、単独でのピケや拘束は1年を通して続いた。ロシア当局は、侵攻後すぐに制定した法律を施行し、プーチン政権はウクライナでの特別軍事作戦に反対するあらゆる公的表現を事実上犯罪とした。ロシア議会は、ロシアの軍隊がウクライナに侵攻した1週間後に、ロシア軍の信用を落とすことや虚偽の情報を広める行為を違法とする法案を可決した。

 OVD-Infoは2023年2月24日金曜日の声明で、戦争中の365日のうち305日間、ロシア治安部隊はロシアと併合されたクリミアの各都市で、反戦の立場を理由に人々を拘束した。2022年12月中旬の時点で、同団体は、ロシアの約69の地域と、2014年にロシアがウクライナから奪取したクリミア半島で、反戦の立場を理由に刑事訴追を受けた人々は約378人を数えた。ロシア軍の信用を失墜させた罪状で、約5,500件以上の行政事件を数えた。



2023年3月4日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約2.5kmにて、1945年8月9日の長崎原爆の翌日には、長崎駅前からやや北方宝町(旧・寿町)付近の県道上で、長崎市民が浦上地区方面(爆心地方向)に向かって退避した。

長崎原子爆弾の爆心地から約2.5kmにて、1945年8月9日の長崎への原爆投下に伴い、翌日には長崎市民が逃げ惑いながら、生存者を探した。1945年8月10日の朝に、長崎駅前からやや北方宝町(旧・寿町)付近の県道上で、長崎市民が浦上地区方面(爆心地方向)に向かって退避した。林立する電柱の向こう正面には、爆心地から南1.9km地点の三菱造船所幸町工場が見えた。山端庸介が1945年8月10日に撮影した119枚の写真は、広島・長崎の原爆投下直後の広範な唯一の写真記録であった。

 原子爆弾による物理的被害は、爆風と火災によるすさまじい破壊が、瞬間的に生じた。広範囲の建物が破壊されると同時に、火災が炎上した。長崎原爆における建物の全壊全焼の範囲は、爆心地から約2km以上離れた地点にまで及んだ。

 山端庸介が撮影した写真の一部が「毎日新聞」(1945年8月21日号)に掲載された。この写真は、第二次世界大戦の広島・長崎への原爆投下後、1945年9月末から1946年7月にかけて身元不明のアメリカ軍MPによって押収された。GHQとアメリカ軍は日本を占領して、原子爆弾の投下に関する報道・公表を厳しく制限した。山端庸介の写真も含めて証拠を押収・廃棄するように命じた。

 アメリカ軍の占領軍が日本を去った後に、その写真の一部が1952年9月29日付の『ライフ(Life)』誌に掲載された。山端庸介は『記録写真 原爆の長崎』(学風書院、1959年)を出版できた。この写真集を出版した直後に、山端庸介は自分の写真集をプロパガンダに利用する平和団体に幻滅した。そのほとんどの写真集を流通から退けた。1995年、スミソニアン博物館で「ナガサキ・ジャーニー」と名付けられた写真展が開催され、物議を醸した。その後中止されたが、山端庸介の写真集が、『Nakasaki Journey The Potographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945』(Pomergranate, 1995/05)で、写真をコンピューター修復して再現された。1995年7月〜9月にサンフランシスコ、ニューヨーク、長崎で開催された。日本では『NHKスペシャル 長崎よみがえる原爆写真』(日本放送協会, 1995/08)で再現された。




2023年3月3日金曜日

1941年秋に、フィンランド南東部からソ連の北西部にわたるカレリア攻防戦の林道で、ソ連軍のT26戦車がフィンランド軍により撃破された。その爆破された戦車の周囲に殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。

1941年秋に、フィンランド南東部からソ連の北西部にわたるカレリア攻防戦の林道で、ソ連軍のT26戦車がフィンランド軍により撃破された。その爆破された戦車の周囲に殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。フィンランド軍部隊が、その破壊した戦車の側から南下した。

 第ニ次世界大戦の1941年6月22日に、ドイツ軍はソ連への侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始した。その直後にソ連・フィンランドの継続戦争が勃発した。カレリア地峡攻防戦にて1941年6月30日に、フィンランド軍は南方への攻勢に転じて、カレリア地峡からソ連軍を一掃する侵攻した。ソ連のレニングラードとフィンランドの間にある狭い土地は重要な防衛拠点であり、冬戦争の以前はフィンランドの領土だった。地峡は冬戦争(1939年11月30日〜1940年3月13日)で最も激しい戦闘が行われた。フィンランドの3軍団が攻め込んだ。挟撃作戦が開始され、8月末までにヴィイプリを奪還し、ポルランミにソ連軍の3個師団を閉じ込めた。1941年12月までに、フィンランド軍は地峡の全域を取り戻し、新たな防衛線を敷いた。ドイツ軍はレニングラードを占領することを望んだが、フィンランド軍は拒否した。

 東カレリア攻防戦にて1941年7月に、フィンランド軍の司令官マンネルヘイムは、フィンランド軍が最も成功した攻防戦となるラドガ湖東部の豊かな農業地帯である東カレリアを奪還するための作戦を開始した。フィンランド軍の2つの軍団と、オイヴォネン集団のドイツ軍第163師団を巻き込んだ。捕獲されたソ連軍の戦車の多くは、第1ヤーカリ旅団とともにラグス群(後のフィンランド・パンサーリ師団)に編入された。第5師団は7月10日に、コルピゼルカで素早く突破口を開いた。攻撃はすぐにフィンランドのソルタヴァラ町を奪還し、ソ連の2個師団をラドガ湖に閉じ込めて侵攻した。1941年9月末には、失われたフィンランドの領土をすべて回復した。マンネルハイム司令官は、ソ連の東カレリアの残りを占領して攻勢をかけた。より短く、より防御しやすい前線を確保ができた。10月に、第4師団と第8師団がカレリア地峡から移送されて前線を強化した。先鋒は南下し、約3日以内にラグス集団はラドガ湖とオネガ湖の間のシヴァリ(スヴィール)川沿いの安全な防御位置に達した。

 1941年10月1日、オネガ湖畔のペトロスコイが陥落した。1941年12月6日の独立記念日に、冬戦争で失われた地域がフィンランドに復帰したを宣言した。冬戦争で避難した難民が故郷への再移住を開始した。フィンランド軍は約26,000人の兵士を失い、国土を回復させた。ソ連軍は、約60,000人の兵士が戦死傷した。フィンランド軍は東カレリアを占領し、1944年までそれを保持した。




2023年3月2日木曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いにて、日本軍兵士が彼の野戦砲の側で一緒に殺害された。日本軍兵士の死体の中央手前には手榴弾が保持されていた。

太平洋戦争のペリリュー島の戦い(1944年9月15日から11月27日)にて、日本軍兵士が彼の野戦砲の側で一緒に殺害された。日本軍兵士の死体の中央手前には手榴弾が保持されていた。野戦砲の日本軍兵士が、アメリカ軍が砲撃されたのは、あまりに前方に侵攻しすぎていた。野戦砲の日本軍兵士は、アメリカ軍を敵の支援部隊として、日本軍の砲撃が、アメリカ軍の上を通過して、後方で爆発した。不幸なことに、日本軍の野戦砲と識別して救ってくれたアメリカ軍兵士が、戦車から降りた時に日本軍の狙撃手に撃たれて殺害された。アメリカ軍兵士は小道に沿って潅木の端に一列に並び、伏せをして、出来るだけ身を隠そうとした。ペリリュー島では最初から最後まで、硬い珊瑚の岩を掘ることは困難であった。アメリカ軍兵士は自分の周りに石を積み上げたり、丸太や瓦礫の陰に隠れたりした。

 日本軍の反撃は、過去の太平洋戦争の経験から予想された荒々しく自爆的なバンザイ突撃ではなかった。ペリリュー島上陸日である1944年9月15日に、経験豊富なアメリカ軍兵士は、日本軍兵士はバンザイ攻撃をすると独断的に主張していた。日本軍の反撃はバンザイ攻撃よりは、戦車と歩兵の連携した攻撃であると判明した。飛行場を慎重に横切った日本軍の歩兵約1個中隊と戦車約13両は、左側のアメリカ軍に全滅された。

 ペリリュー島の上陸日に、第1海兵師団の死傷者数は、戦闘の厳しさと日本軍の防衛の獰猛さを反映した。上陸初日の夜は、小さな日本軍の潜入部隊が、アメリカ軍を何度も襲う過酷な戦闘であった。アメリカ軍の師団参謀は、上陸日の死傷者数を約500人と予想したが、熱中症患者を除いた死傷者数は約1,111人に上った。ペリリュー島の戦いでアメリカ軍の死傷者は約1,336人、戦傷者約5,450人、歩兵第81師団の死傷者は約1,393人、うち戦死者約208人、アンガウル島では歩兵第81師団の戦死者196名を含む1,676名が犠牲になった。日本軍は推定約10,695人が犠牲になり、さらに約301名が捕虜として捕らわれた。




2023年3月1日水曜日

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部のサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師を殺害して、ARP監視員と看護師たちが死体を死後処置した。

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部にあるサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師が殺害されて犠牲になった。学校現場には、空襲警報(Air Raid Precautions, ARP)監視員と看護師たちが集合して、死体の死後処置をした。写真には当然のことながら検閲のマークがついて、イギリスでは公表不可となった。

 サンドハースト・ロード校(Sandhurst Road School)の空襲事件は、1943年1月20日にドイツ軍のロンドン空襲にて、ロンドン南東部のキャットフォードのミナード・ロードにある学校が深刻な被害と犠牲を受けた。ドイツ軍の戦闘爆撃機が、午後12時30分に約500kgの爆弾1発を学校に投下して炸裂した。38人の子供(学校で32人が死亡して、さらに6人が搬送された病院で死亡した)と6人の職員が死亡した。さらに60人が負傷して、多くの被爆者が瓦礫の下に何時間も埋まった。

 学校空襲で、学校の食堂にいた24人の生徒と2人の教師が死亡した。さらに5人の児童が階段で、9人が2階の教室で死亡した。職員室も破壊されて、3人の教師が死亡した。その他1人の先生は理科室で死亡した。その他に約60人が負傷した。空襲で死亡した38人の児童と6人の教師のうち、31人の児童と1人の教師がヒザー・グリーン墓地の民間戦死者区画に集団埋葬された。

 ドイツ軍の空襲は、1月20日の正午にドイツ占領下のフランスの飛行場から離陸した。ドイツ軍の戦闘爆撃機はテロ襲撃として、あらゆる標的を攻撃した。イギリス空軍が、このテロ攻撃の約3日前にドイツ首都ベルリンを爆撃した。ヒトラーは報復の空襲を要求した。非効率の警報システムから、ドイツ軍の爆撃機が到着するまで空襲サイレンは鳴らなかった。爆撃機はまず学校を通り過ぎた後に、復路で爆撃を行った。別の戦闘爆撃機は運動場や地元の通りにも空爆を行った。

 空襲警報は、空襲の危険から市民を守るために、イギリスで策定された多くの組織と指針である。1920年代から1930年代に空襲対策への政府の機運が高まり、1937年には爆撃事件の報告を行うレイドウォーデンサービスが設立された。各地方自治体はARP監視員、使者、救急車の運転手、救助隊、警察や消防隊との連絡を組織する責任を担った。

電撃戦ではドイツ軍の爆撃が激しくなり、ARPは爆撃の報告や対処に中心的な役割を果たした。空襲のサイレンを管理し、人々を避難所に誘導した。1941年からは、ARPの正式名称を民間防衛局(Civil Defence Service, CD)と改め、より幅広い役割を担った。 




2023年2月28日火曜日

イラン・イラク戦争末期の1988年3月16日深夜に、イラク軍の化学兵器の毒ガス攻撃により、イラン国境から約15km離れたイラク国内の人口約8万人のハラブジャで犠牲者の死体が路上に散乱した。

イラン・イラク戦争末期の1988年3月16日深夜に、イラク軍の化学兵器の毒ガス攻撃により、イラン国境から約15km離れたイラク国内の人口約8万人のハラブジャ(Halabja)で犠牲者の死体が路上に散乱した。民間人を中心に約5,000人が毒ガス死した。地下室に避難した住民は、リンゴのような異臭を感じ、爆弾の音は静音であった。羊やヤギが道に落ちたり、鳥が木の枝から落ちたりと、不吉な予兆もあった。やがてクルド人は、化学兵器の影響を感じ始め、目を刺すような痛み、抑えきれない嘔吐、震え、混乱した。逃走する住民は、地上に立ちこめるガスの煙と白い粉に巻き込まれた。祖父母も子供も含め、多くの人が体調を崩し、路上で命を落とした。クルド人は、トルコ、シリア、イラン、イラクの4カ国が交わる広大な地域に住む独自の国家を持たない約4000万人の民族であり、国際的ジェノサイドに翻弄された。

 ハラブジャでは、マスタードガス、サリン、VX神経ガスの混合ガスが投下され、推定5,000人が殺害された。イラク軍は、ハラブジャを空襲して窓やドアを壊し、人々を地下に閉じ込める前線爆撃の後に、サリンとマスタードなどの致命的な化学兵器が投下された。ガスは空気より重く、窓もドアもないため、地下室や防空壕に無防備に閉じ込められていたのである。イラン・イラク戦争でサダムは、再び反抗を始めたクルド人に対する大量虐殺を行った。1980年代後半に、イラク軍は約5万人から約18万人のクルド人を、化学兵器を多用した恐ろしい手段で殺害した。レーガン政権は、サダムがクルドの市民に神経ガスを使用しても、サダムを支援し続け、イラクに対して軍事援助を送った。

 神経剤は極めて致死率が高く、青酸カリの強力な毒物よりもはるかに強い。ピンの頭に乗るほどの量でも2分以内に死に至る。通常、暴露後に約25分以内に死亡する。神経剤は、蒸気の形で吸い込んだり、液体の形で皮膚に触れると死に至ることがある。極端な場合には、痙攣と呼吸不全が起こり死に至る。基本的な神経剤はG系と呼ばれ、サリンやタブンなどがあり、VXのV系より強力である。V系は無臭で無色の液体である。G系は無臭でも、少し果実の匂いや茶色の外観を持った。




2023年2月27日月曜日

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。その写真は、アメリカ人のバートン・ホームズ(Holmes Burton)が日本軍の第3軍に従軍して撮影した。第三軍は、日露戦争にて1904(明治37)年5月29日に編成され、司令官は乃木希典である。日露戦争後の1906年(明治39年)1月26日に解散した。司令官は、第1回旅順総攻撃を8月19日から、第2回旅順総攻撃を9月19日から、第3回旅順総攻撃を11月26日から指令した。ホームズの日露戦争の写真が、日本の職人の筆に助けられてひときわ異彩を放った。日露戦争の撮影時期は1904(明治37)年秋から1905年の初めである。 

 写真がすべて人工着色された点は貴重である。ガラス乾板に筆で精細に彩色するもので、作業はすべて日本人の職人が行った。ホームズは技術に惚れこみ、のちに世界各地で撮った写真を日本に送り、着色させた。当時も従軍写真家・画家、従軍記者は内外を問わず決して少くはなかった。日本陸軍陸地測量部による膨大な記録も残っている。写真に色をつける器用な手先は、日本人に求められた。明治初期のすぐれた写真技術者である下岡蓮杖は、外国人の土産用に絵蒔絵の装釘をほどこした日本風俗の四ツ切大着色写真帳を売り出して、遠く欧米の骨董屋に並んでいた。その弟子の鵜飼玉川はコロジオン法のガラスの膜面に着色している。上野彦馬は土産用に水彩着色のミニュアチュール風な風物写真を輸出している。

 ホームズが初めて日本を訪れたのは1892年(明治25年)の秋22歳のときであった。以後、1932年まで10回にわたり日本の土を踏む。当時として驚くほど広範囲に世界各地を撮影した。写真が色彩を求めたのは自然の成行きだった。スライドで見せたらどんなに人が驚くかとホームズが考えた。軍装に詳しい方がみると、その着色上いくつかのミスがある。フランス式、イギリス式、ドイツ式と幾多の曲折を経てきた軍装に関して、職人も通暁してなかったろう。多年の保存で生じたキズやかびの跡さえも新鮮にみえる。日本軍の写真とロシア軍の写真が、どうして一緒に撮れたのかという疑問も湧く。他の人の写真が入っているのは、ホームズの写真が報道を旨としないためである。世界の各地を歩きまわり、成果をトラベローグという名で全米で講演した。約百万フィートの映画も撮影している。写真家でなく、旅行家とした表現方法が成り立ったのも、やはり良き時代であろう。日本でも、明治来、旅行案内の幻灯が町々を回って、写真はマジック仕立ての旅へのいざないとなった。

 



2023年2月26日日曜日

プーチン・クレムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP)は、2022年3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡し、約16153人が戦傷したとネット発表した。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後の2022年3月5日に、ウクライナのシトニャキ(Sytnyaky)付近にて、ロシア軍とウクライナ軍の間で直前に激しい戦闘があった。その道路脇に、殺害されたロシア軍兵士の死体散乱した。



   







Warning: A corpse of a dead Russian soldier sits on the side of the road where there was recent heavy fighting between Russian and Ukrainian forces, near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. (MARCUS YAM / LOS ANGELES TIMES)

 プーチン・レムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP:Komsomolskaya Pravda)は、3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡して、約16153人が戦傷したとネット発表した。3月20日にKP紙のウェブサイトに掲載されたKPの記事のスクリーンショットである。ロシア国防省の報告を引用して、ウクライナ戦争開始以来に、約9861人のロシア軍兵士が死亡したと報じた。約4時間後、この9861人の数字が記事から削除された。その後、同紙の編集者は、この情報の公開はハッカーの攻撃によ数値であると発表した。



















 3月20日のネット記事で、KPがロシア国防省の数字を参照して、2月24日にロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に、約9861人のロシア軍兵が死亡したと記載された。ロシア軍当局が、公式に3月2日に認証したのは、約498人の戦死と約1597人の戦傷したロシア軍兵士だけであった。3月22日にロシア国防省で殺害されたロシア軍兵士に関する情報は皆無であった。KP紙のウラジミール・スンゴルキン編集長はイギリスBBCに対し、約9861人の戦死数は、ハッキング攻撃の結果であると示唆した。

 ロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に約1ケ月間の犠牲者は、ほぼ1万人のロシア軍兵士の殺害を示唆した。1980年代のアフガニスタン戦争では、ソ連軍は約9年間で約1万5千人のソ連軍兵士が殺害された。アメリカ軍が主導した9年間のイラク戦争で殺害された連合軍兵士の死者数の約4825人(アメリカ軍約4,507人、イギリス軍約179人、その他約139人)の2倍以上に達した。アメリカとウクライナ当局は、ロシア軍の死者数を約7000人以上から1万人近くと推定した。モスクワ当局は、3月上旬に新しいメディア法を導入して、ロシア軍に関する誤報には厳しい罰則を課した。3月5日に、ウクライナのシトニャキー近郊の荒原には、殺害されたロシア軍兵士の死体が横たわった。



















Warning: A corpse of a Russian soldier lies in a field near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. Los Angeles Times / Polaris

2023年2月25日土曜日

広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、一戦災患者治療所と掲示された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。