2023年1月25日水曜日

シオン広場冷蔵庫爆破事件が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムのシオン広場にて、パレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた冷蔵庫が大爆発して、イスラエル市民約15人殺害され、約77人が負傷した。

シオン広場冷蔵庫爆破事件(Zion Square refrigerator bombing)が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムにて、シオン広場にてパレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた中古の冷蔵庫が大爆発した。1975年7月4日、エルサレム中心部のシオン広場にある家電量販店で、パレスチナのテロリストが、約5kgの迫撃砲弾を仕掛けた冷蔵庫を爆発させた。イスラエル市民約15人が殺害されて、イスラエル市民約77人が負傷した。救急車に、多量の死傷者を担架で搬送した。

 パレスチナのPLO(パレスチナ解放機構)司令部から過激派組織が「我々の祖国の地に暮らす奴は皆敵だ。イスラエルに住んでいる者は全員殺す。」と犯行声明を出した。テロ攻撃はタームス・アヤ出身のアラブ系アメリカ人のアーメド・ジャバラ(Ahmed Jabara, 別名アブ・スカー)が執行した。ジャバラは、ナブルスのバスセム・タビラ(Bassem Tabila)により共謀して、タビラは逮捕される前にヨルダンに逃亡した。イスラエル治安機関(ISA)とイスラエル警察の捜査後に逮捕された、1977年6月に軍事法廷で裁判にかけられ、有罪判決を受けて、終身刑と30年懲役刑を追徴された。

 2003年に、アーメド・ジャバラは、イスラエル政府は、ヤセル・アラファトに対する思惑として、27年間服役した後に釈放された。釈放後に、ジャバラはベツレヘムの集会で、イスラエル軍兵士による誘拐を訴えた。その後に、アラファトはジャバラを囚人問題担当顧問とした。ジャバラは2013年7月17日ラマラで心臓発作のため78歳で死去した。

 1975年11月13日にアラブ武装勢力により、再びシオン広場アイスクリーム店爆破事件(Zion Square ice cream shop bombing)が勃発した。午後7時にアイスクリーム店で爆発して、少年3人と少女3人の約6人が殺害され、約42人が負傷した。PLOのヤセル・アラファト議長の国連の演説日と一致させた。




2023年1月24日火曜日

ドイツ民族自衛部隊の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線の地域で、ドイツ軍の占領地域で身体を斬り付けられ、悲惨にも目をくり抜かれて残虐に殺害された。

ドイツ民族自衛部隊 (Selbstschutz)の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線で、ドイツ軍の占領地域で残虐に殺害された。身体を斬り付けられて、悲惨にも目をくり抜かれていた。埋葬する前に死体が死後処理された。

第一次世界大戦にて、ロシアとブレスト・リトフスク条約締結後に、ドイツとオーストリア・ハンガリーが占領された地域で、ドイツ国外に住むドイツ系民族のために準軍事組織であるドイツ民族自衛が結成された。地元のドイツ系民族の地域組織を保護し、ウクライナ南部にてドイツの安全保障と利益に寄与させた。ドイツ民族自衛部隊が反復してシレジアでも設立され、ポーランドの再興に伴って、ポーランド人の居住地をドイツへの返還も目的となり、1921年にはドイツ民族自衛部隊はポーランド人の第三次シレジア蜂起に参戦した。

 1918年に、ドイツ帝国軍とオーストリア・ハンガリー帝国軍はウクライナを占領した。ドイツ軍の占領当局は、ウクライナ南部の多数のドイツ系民族からドイツ民族自衛部隊の設立を支援した。1918年3月にはベラルーシのブレストで、ブレスト・リトフスク条約が締結されれて、ロシアはポーランド・バルト海沿岸からウクライナなどを大喪失した。ドイツ民族自衛軍は、ロシアにて教会共同体も含まれ、モロッチナからチョルティツァの教会共同体からも徴集して、ドイツ軍から訓練と武器の提供を受けた。占領が終わって撤退する直前に、ドイツ軍はドイツ民族自衛部隊の創設を監督して、武器、弾薬、指揮する数人の将校を残した。モロツナの若者たちは、隣接するルター派ドイツ人の占領地も含めて、約20個中隊を編成して歩兵約2700人、騎兵約300人を構成した。ロシア内戦にて、当初は1919年3月は、無政府主義者のネストル・マフノの軍勢を抑えた。マフノのパルチザンが赤軍と同盟を結び、赤軍が強化されると、ドイツ民族自衛軍は最終的に圧倒されて、撤退・解散を余儀なくされた。ロシア内戦が進むと、一部の教会共同体がロシア義勇軍の民族大隊に組み込まれた。

 教会共同体は伝統的な無抵抗主義の教えから逸脱して、多くの占領地出身者を否定した。政府の権威が失墜して、教会共同体の地域組織に対して、無政府主義者は残虐行為が強化された。ドイツ民族自衛部隊は、教会共同体の地域組織を残虐行為から守り、住民が白ロシア軍の支配地域に逃れる猶予を与えた。無抵抗主義の放棄は、非常な分裂を引き起こした。ドイツ民族自衛活動が、教会共同体の民間人に対する無政府主義者の残虐行為に火をつけた。その後に教会大会や代表団は、ドイツ民族自衛部隊の重大な過ちを公式に非難した。




2023年1月23日月曜日

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された人民解放戦線である2人の兄の死体を見守り慟哭した。

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された2人の兄の死体を見守り慟哭した。2人の兄は、人民解放戦線(Janatha Vimukthi Peramuna, JVP)兵士であり、スリランカ政府軍に殺害された死体には、無残な拷問の傷跡が残存した。

 スリランカでは1987年4月15日から1989年12月29日まで勃発したJVP反乱(1987–1989 JVP insurrection)は、マルクス・レーニン主義によるスリランカ政府に対する武装反乱であった。1987年から1989年の暴動は、1971年のJVPの暴動と同様に、失敗した。JVP反乱軍は、破壊活動、暗殺、襲撃、軍や民間の標的へ攻撃した。スリランカ政府軍は、JVP反乱軍を鎮圧する作戦で対応した。約41,813人が死亡あるいは行方不明となった。JVP反乱軍は約6,577人を殺害して、スリランカ政府軍は約34,014人を殺害した。

 JVPの軍事部門であった反乱ゲリラ部隊は、1988年に頂点に達し、すべての民間人のスリランカ市民にまで被害を及ぼした。親政府系のゲリラによる市民への攻撃が、スリランカ内戦の停戦からインド平和維持軍の追放後に、すぐにスリランカ政府軍による大量殺戮が勃発した。多くのスリランカ市民と複数のインド人駐在員が殺害された。インド平和維持軍(IPKF)が、1987年から1990年に、スリランカ内戦の民族紛争に介入して撤退した。

 JVPは、敵であったスリランカ自由党(SLFP)から支援を受けた。しかし、JVPとタミール・イーラム解放の虎(LTTE)が公然と拒否した地方選挙にSLFPが参加したので、同盟は決裂した。スリランカ政府は1987年、JVPとSLFPに選挙参加を期待して禁止令を解除したが、結局失敗に終わった。約2年以上にわたり、若者や労働者の集団武装化、大量処刑、レイプ、襲撃が見られた。反JVP民兵も、左翼の人民革命赤軍(PRRA)を含めて暴力を引き起こした。LTTEが主にスリランカ北部を拠点にして、JVPは南部のジャングル地帯を拠点とした。

 1989年、スリランカ政府軍はコンバイン作戦(Ops Combine)を開始した。JVPの軍事部門であるDJVの暴動が激化した。DJVは、トリンコマリーのLTTE占領地域でも、スリランカ政府軍とIPKFに対抗して攻撃した。DJVは、タミル人武装勢力から支援を受けた。多くの小さな反政府組織の武装闘争を、DJVは1989年12月に断念した。スリランカ政府側だけでなく、反政府勢力であるLTTEが、多くの市民を虐殺した。約2,000人以上の市民を捕獲して、約30人以上を処刑した。




2023年1月22日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。急いで撤退したロシア軍は、兵士の死体から公文書、軍用車両などを放棄していた。逃げ惑うロシア軍に同行した戦場記者たちは、包囲され、恥辱の監禁を受ける危険が大きくなり、ロシア軍は撤退する決定を下した。虚ろな目で意気消沈したロシア軍兵士たちが、命からがらリマンを脱出した。ロシア軍兵士は部隊から離れ、小集団で周囲の森に逃げ込み無秩序に撤退し、多くが殺害うあるいは捕獲された。

ドネツク州のリマンから撤退するロシア軍は、膨大な量の弾薬と物資を跡に残した。ロシア当局にとって屈辱的な撤退で、ロシア国防省は10月1日に、リマンの町を掌握してから約3カ月後に、軍隊を撤退させることを発表した。前日の9月30日にテレビ中継されたクレムリンの式典で、プーチン大統領は、不当な住民投票に基づき、ドネツク州とウクライナの他の3州の部分占領地域の知事に、ロシアに永遠に属するとロシア当局が根拠なく主張する文書に署名した。10月2日に、ゼレンスキー大統領が、リマンの完全掌握を宣言した。

 ドネツク州のロシア側陣地は、ウクライナ軍が9月上旬に北方に隣接するハリコフ州で大規模な反攻を開始して危険にさらされた。ウクライナ軍の東部攻勢で約3,000平方km以上が解放され、リマンのロシア軍への北部補給路を断った。その後、ウクライナ軍はライマン周辺の村々に進出し、町の三方を包囲し、出口を大砲で叩いた。

 しかし、ロシア軍の脱出はあまりに遅すぎた。脱出を開始した時には、北東のトルスケ村への道を除いて、リマン市街地から出る道はウクライナ軍がすべて遮断された。リマンに向かう林道には空爆の跡が散見された。ロシア軍の約7台の車列が一直線に焼け焦げた。破壊された運搬車から散乱した数百発のAK-47弾や、制服、医療用ドレッシング、消臭剤などの物資も山積みになった。ロシアが部隊を撤退させた10月1日には約5000人以上のロシア軍兵士が残存した。















Warning: Local residents pass by the dead bodies of Russian soldiers on a street in Lyman on October 6, 2022, shortly after the town was liberated.(Anastasia Vlasova,EPA-EFE)

2023年1月21日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊していた(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。





2023年1月20日金曜日

イタリアの国営テレビ局RI24は2005年11月8日に、イラク戦争にてアメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたファルージャのイラク軍兵士や民間人の遺体など、凄惨な映像を放映した。

イタリアの国営テレビ局RI24(Radiotelevisione Italiana)は2005年11月8日に、アメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたイラク軍兵士や民間人の遺体、電気ドリルで穴を開けられた男性の遺体、負傷した個人への砲撃など、凄惨な映像を放映した。RAIのビデオでは、空から発光物質が降ってきた。内側から溶けた死体が映し出した。元アメリカ軍兵士が、イランのファルージャの住民に白リン(White Phosphorous)弾を使用したと証言した。ヘリコプターからの白リン散布作戦の映像が映し出された。イタリア人ジャーナリストのスグレナさんらは、アメリカ軍から残虐行為の報道を阻止された。

 白リン弾は、自然燃焼して、燃焼時に酸素を奪う国際禁止兵器である。大量の水がなければ、白リン弾の消火は実質不可能である。白リン弾は開かれた場所でも、隠れた兵器にも効果があり、兵器を破壊する。白リン弾が人体の中まで焼き尽くした。リン燃焼で形成された窒息性ガスは、火による死を免れても毒ガス死した。兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は、1899年にオランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後に、禁止リストは常に拡大した。

 2005年3月3日に、イラク保健省は、アメリカ軍が2004年11月にファルージャ市をほぼ壊滅させた攻撃で、マスタードガス、神経ガス、燃焼剤などの化学兵器を使用したと公表した。アメリカ軍の攻撃の間に、逃げ惑う住民が、溶けた死体を見たと語った。アメリカ軍が死体を溶かすポリスチレンと航空機燃料の毒性化合物であるナパーム弾を示唆した。その他、マスタードガスや神経ガスが使用された証拠も発見した。毒ガスによって死んだ野良犬、猫、野鳥を何百匹も発見した。記事を掲載したアメリカメディアは、1つのウェブサイト上だけであった。アメリカ軍の重大な国際条約違反の報道を無視した。国防総省は、2004年12月の時点ですでに守勢に回った。イスラムのウェブサイトでの告発や、ファルージャに対する白リン爆弾、プロパン爆弾、ナパームの使用を宣伝するGIブログや事後報告によって劣勢となった。白リンは照明用と使用したと主張した。

 イラク戦で、アメリカ軍が国際的に使用が禁止されている白リン弾や濃縮ウランなどを使用した。致命的な破壊兵器により、約150万人以上のイラク人が暗殺され、100万人以上が行方不明になった。戦争中の真っ只中の避難民は約700万人を超えた。イラク侵攻後の悲惨な人道状況は世界最悪です。劣化ウラン感染やその他の化学物質汚染により、先天性欠損症やがんが増加して、毎年5歳未満の子供約4万人が死亡した。




2023年1月19日木曜日

1979年10月31日にフィリピン南部ミンダナオ島にて、旧市庁舎に配属されたフィリピン軍第6IB兵士は、ナタンコップ・ロマプナットと彼の家族全員の7人を銃剣で虐殺した。

1979年10月31日午前0時に、フィリピン南部ミンダナオ島にて、マラウィ(Marawi)にある家は、旧市庁舎に配属されていたフィリピン軍第6IBの兵士に囲まれた。彼らは居住者に降りてくるように命じた。ナタンコップ・ロマプナット(Natangcop Romapunut)と彼の家族を除いて、全員が降りてきた。兵士達は家に上がり、7人の家族全員を銃剣で虐殺した。殺されたのはロマプヌットさん(60歳)、妻のカリモダンさん(58歳)、未亡人の娘ラヤマンさん(45歳)、娘のベドリ・サリックさん(21歳)、その夫サレム・サリックさん(24歳)と若い夫婦の子供2人(4歳と生後7カ月)であった。11月には、ラナオ地方で反政府勢力の活動が活発化すると、軍は報復に出た。反乱軍に入り込めないので、イスラム社会全体を対象にした弾圧作戦であった。

 ラナオ(Lanao)のマラナオ(Maranaos)族は、ミンダナオ島のイスラム教徒が受けた最も残虐なマルコス政権下の軍事行動の犠牲者であった。虐待に関する資料を入手することは困難である。部外者は軍とイスラム教徒の両方から疑いの目で見られている。マラナオ族はラナオの街の人口のほとんどを占めている。彼らは明るくカラフルなマロンを着て通りを歩いている。市場はいつも混雑している。マラナオの少年たちはメロディーを歌いながらアイスドロップを売っている。しかし、重装備の兵士が通りを歩いたり、戦車に乗ったりして、その光景はしばし崩れ去った。1978年10月4日に、またしてもフィリピン軍の奇襲作戦が行われた。マラナオ人約58人が拘束され、中には反乱軍と認める書類にサインさせるために拷問を受けた者もいた。ボールペンで両目をつぶされた人もいた。

 1978年末、マラナオ族からフィリピン軍による弾圧の報告書が届き、助けを求めるようになった。マラナオ族の報告書の最後には、助けを求める言葉があった。私たちマラナオ族の一人一人は、自分が次の犠牲者になる恐怖を常に抱きながら生きている。誰もが心の中に重い不安を抱えている。誰も家から出られなくなった。事件は、世間に知られないようにされている。私たちが軍の手によって苦しめられていることを知ることはできない。

 マラナオ族は、フィリピン南部ミンダナオ島中西部の南ラナオ州のラナオ湖周辺を居住地とする集団で、その大多数はイスラム教徒である。マラナオ語を母語として、人口は約86万9000人で、フィリピン全人口の約1.27%を占める。暴動やテロに1972年9月21日に,マルコス大統領は戒厳令を施行した。ミンダナオ地方西部では、イスラム教徒を含む先住民族(モロ族)による政府への抵抗運動を背景として、1960年代後半に分離主義運動が活発化した。1968年頃に設立したモロ民族解放戦線(MNLF)は、1972年以降に、独立運動からフィリピン軍に対する武力攻撃を繰り返した。さらに1977年から、イスラム国家の設立を掲げるハシムらが離反してモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2023年1月17日火曜日

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の副党首のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺した。

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の創設者で指導者であった副党首のホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。その犯罪首謀者は、社会主義指導者のインダレシオ・プリエトの護衛の1人であったルイス・クエンカ・エステバスであった。殺人犯は、共和国突撃警備隊のラ・モトリザダ旅団の一員であった。カルボ・ソテーロは、旅団所属のトラックで移動した分隊に捕獲されて、頭部で射殺して暗殺された。カルボ・ソテーロの暗殺は、前日7月12日の突撃警備隊のホセ・カスティーヨの暗殺に対する復讐であった。

 警察車両の乗員は東方墓地に行き、死体安置所のドア付近に、カルボ・ソテーロの死体を投げ込んだ。家族は警察に逮捕を報告して、7月14日朝7時頃から捜索を開始した。カルボ・ソテーロの死体は午前中に発見された。7月14日には、カルボ・ソテーロの葬儀が挙行された。その後の出来事は、暴力のスパイラルを助長した。突撃隊と呼ばれる都市警察の部隊と社会党(PSOE/UGT)の活動家の数名によるカルボ・ソテーロの殺害は、スペイン内戦の勃発に大きく影響した。

 カルボ・ソテーロの暗殺を起点に、クーデターが7月17日午後に、モロッコのメリリャ、セウタ、テトゥアンで守備隊が蜂起した。フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍は、カナリア諸島に左遷される予定だった。アフリカ軍の第19戦線のドラゴン・ラビードに乗り込んだ。フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置して、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった。7月18日から19日に、他の部隊が反乱を起こした。戦争状態を宣言して、権力の行使を主張し、左翼当局を逮捕あるいは暗殺した。7月20日にスペインは、2つに分割されて、29州が反乱を起こし、21州が共和党側に属した。フランコは、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出された。翌10月1日には総統に就任した。革命政府の政綱の中で、全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した。




2023年1月17日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年1月16日月曜日

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。しかし、見つかった遺骨は、約1万1千人余りの犠牲者のごく一部に過ぎない。その大半は、プレート川河口や海上の飛行機やヘリコプターから投下された遺骨であった。

 汚い戦争(Dirty War)が、アルゼンチンの軍事政権または独裁政権は、1976年から1983年にかけて、コンドル作戦(Operation Condor)の一環としてアルゼンチンで勃発した。国家テロのために、軍と治安部隊、アルゼンチン反共連合(AAA)による右翼、死の部隊は、あらゆる政治亡命者や社会主義、左翼 ペロニスト、モントネロス運動と容疑者を追い詰めて虐殺と虐待した戦争である。アルゼンチン軍の独裁政権が呼称した用語である。

 コンドル作戦は、アメリカ合衆国が支援する政治弾圧・国家テロ作戦であった。アメリカが支援した政治弾圧と国家テロの作戦で、情報操作や反抗者の暗殺も含んだ。約9,000人から約30,000人が殺害または失踪したと推定された。多くは国家テロにより、正式に記録は不可能だった。コンドル作戦に参加した他の多くの南アメリカ諸国と同様に、主要標的は共産ゲリラや左翼共鳴者だった。学生、戦闘員、労働組合員、作家、ジャーナリスト、芸術家、ペロニストゲリラを含む左翼活動家、容疑者の市民も、コンドル作戦の標的となった。失踪者は、独裁政権には政治的や思想的な脅威の人々、新自由主義経済政策に反抗的な人々も含んだ。社会・政治的反対勢力を黙らせる独裁政権が殺害した。

 国家再編成プロセスにて、軍事独裁政権は1976年から1983年までアルゼンチンを支配して、1982年までアメリカから支援された。1976年3月26日にフアン・ペロン前大統領の未亡人のイサベル・ペロン大統領を失脚して、アルゼンチン軍が政治権力を掌握した。議会と民主主義は停止され、政党は禁止され、市民の権利は制限され、自由市場と規制緩和の政策が導入された。アルゼンチンの大統領と閣僚は軍人の中から任命されて、ペロン派と左派は迫害された。軍部は、拷問、超法規的殺人、組織的な強制失踪を伴う反対派に対する国家テロ作戦を執行した。汚い戦争が勃発して、犠牲者の多くは民間人であった。市民権侵害と経済危機の悪化による国民の反発は、1982年3月19日にフォークランド諸島への侵攻を引き起こした。3月19日から6月14日にイギリスとのフォークランド紛争が勃発した。アルゼンチンは敗北して撤退した後に、軍事政権は崩壊し始めた。1983年にラウル・アルフォンシン大統領が選出され、ついに軍事政権は解放された。



2023年1月15日日曜日

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、2023年1月9日に負傷した兵士が搬送され、緊急手術するも戦傷が重態で死亡した。

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、負傷した兵士が緊急治療のために搬送された。医療関係者は兵士を救うために、2023年1月9日に約30分間ほど緊急手術したが、戦傷が重すぎた。ウクライナ軍兵士は破片がヘルメットを貫通し、頭部を負傷していた。














Warning: Ukrainian military medics carry an injured Ukrainian serviceman evacuated from the battle field into a hospital in Donetsk region, Jan. 9 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

バフムト周辺の激戦地から、2023年1月9日に戦傷した重態のウクライナ軍兵士をドネツク州の病院に、ウクライナ軍の衛生兵は緊急搬送した。直後から、ウクライナ軍医らが戦場から転送された戦傷兵士に、点滴を確保して全身麻酔をして緊急手術をした。緊急治療をするも、ウクライナ軍人は死亡した。その後に、その戦死者の死体を担架に乗せて運搬して死後処置をした。











Warning: Ukrainian military doctors treat their injured comorade who was evacuated from the battlefield at the hospital in Donetsk region, Ukraine, Monday, Jan, 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

 

 ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍は、破壊されたドネツク州のバフムト周辺のウクライナ軍陣地に対する猛攻撃を加速した。ロシア軍によるウクライナ侵略の一部である東ウクライナの支配権をめぐる数カ月間の猛烈な戦闘で、死者と荒廃の新たな悲惨な段階に達した。2023年1月9日深夜に、ドネツク州のバフムト周辺と塩の採掘と加工の都市ソレダールの戦況をウクライナ当局は訴えた。すべてが完全に破壊された。生命はほとんど残っていないソレダール付近の土地全体が、ロシア軍兵士の死体や空爆の傷跡で覆われている。狂気の沙汰である。

 1月10日深夜に、ロシアの民間軍事会社であるワグネルの代表であるドミトリー・プリゴジンは、ロシアのソーシャルメディアに音声を投稿した。ワグネルが、ソレダールを制圧して、中心部で戦闘を続けたと主張した。ウクライナ軍当局はワグネルの主張には関与しなかった。イギリス国防省は、ロシア軍とワグネル民兵が一緒にソレダールまで侵攻し、大部分を支配したと公表した。バフムトの北約10kmにあるソレダールの奪取が、ロシア軍の当面の軍事目標となった。ウクライナ軍は防衛線を深く保持し、補給路を制御した。ワグネルはロシア軍の戦争の補欠から、主要な構成要素になった。ワグネル兵士が、ロシアの戦闘員の約4分の1も占めた。

 10カ月半前にウクライナを侵略したロシア軍は、何度も撤退に見舞われ、勝利に飢えている。ロシア軍は2022年9月にドネツクと他のウクライナの3つの州を不法に併合して、戦況は膠着した。2022年11月にウクライナ軍が南部の都市ケルソンを奪還した後に、バフムト周辺で戦闘が激化した。ロシア軍は、自軍兵士の死体の上を侵攻して、大砲、ロケットランチャー、迫撃砲を大量に使ってウクライナ軍を攻撃した。

2023年1月14日土曜日

広島逓信病院の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、病室前で撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日土曜日午前8時15分に投下され炸裂して、広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、被爆者治療の陣頭指揮を取った(ヒロシマ日記、法政大学出版会)。焼け落ちたヒロシマ逓信病院の病室前で、蜂谷道彦院長は撮影された。8月11日に抜糸して、蜂谷道彦院長はヒロシマ逓信病院内を動けるようになり、さっそく院内回診、被爆患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するように指示した。

 1945年8月6日土曜日の朝、突然と周囲が明るくなり、強い光がすうすうと二度つづけて強い光が差し込んだ。右太腿に棒切れが突き立った。血が胸を伝って流れ出し、右首に刺さったガラスを引き抜いた。頸動脈の付近から血が吹き出した。頸動脈ならもう駄目と観念した。丸裸になって屋内から飛び出した。自宅が、土煙をたてて倒壊した。

 広島逓信病院に避難するも、右下肢が重く、喉がかわき、息切れがした。近くの街角で、兵隊からタオルを貰って腰に巻き、家内のエプロンを取って前にかれてふんどしにした。全身が血みどろになった。右大腿の肉の塊が引きちぎれて出血した。無我夢中に、薄明かりでコンクリート建て広島逓信病院に辿りついた。幽霊のような姿の被爆患者がうろうろしていた。周囲には無言の死体が散乱していた。玄関の待合には、無数の被爆患者が詰めかけた。無理やり担架に載せられて小遣い室の部屋に搬送された。

 静寂の凄惨が、俄然に一変して、現実が阿鼻叫喚となった。病院内が、戦場のように騒々しく唸った。熱風と火の粉が落ちて寝衣が炎上した。四階建ての広島逓信病院の窓から火が吹き出した。渦を巻いて風が一変した。道を隔てて向こうは火の海となった。広島逓信病院のコンクリートの鉄の窓が、焔の中で真赤に揺れた。見通しのきく北側や東側は見渡す限り焼け野原となった。8月6日夕暮れに硬い台上で、身体を次々と約30ヵ所縫合された。



2023年1月13日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上で身体が不自由な老女が逃げ遅れて、アメリカ軍に射殺され倒れて死亡した。

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上でアメリカ軍に射殺され倒れて老女が死亡した。肢体が不自由なために逃げ遅れた老女は、那覇市にてアメリカ軍に射殺された。西海岸の那覇市から首里を経て東海岸の与那原に至るまで、高度に要塞化された日本軍の戦線は、数多くのアメリカ軍の攻撃を撃退していた。5月12日に、アメリカ軍は那覇市郊外に侵入し、家から家へと掃討しながら那覇市内に侵攻した。

 沖縄戦にて、1945年5月から日本軍の抵抗が激化しながら次第に崩壊した。アメリカ軍は沖縄南部の主要な人口密集地に向かって侵攻した。特に那覇市と首里で最も激しい抵抗に遭遇した。日本軍は非常に粘り強い戦闘で、アメリカ軍ならびに沖縄市民には多くの犠牲者を伴った。那覇と首里地域を日本軍は約60,000人で防衛して、5月1日までに日本軍は沖縄南部の約230平方kmに集結した。日本軍は沖縄の洞窟や亀甲墓などに潜伏して、アメリカ軍の大量砲撃の避難所となった。

 アメリカ軍は武器の優れた量と質に大きく依存した。日本軍の陣地に正面攻撃を行って、アメリカ軍は大砲の強力な砲撃の援護を受けて、日々波状に侵攻した。火炎放射器や 戦車が歩兵を率いて、日本軍が保有する洞窟を次々と破壊した。夜間の地上活動は哨戒活動と砲撃に限定された。日本人は捕虜として捕獲されることも、降伏を申し出ることも拒否した。沖縄での接近戦は野蛮であり、最後に死ぬまで執行された。

 沖縄戦の猛烈さは、首里への参道を守る要塞化された日本の陣地で勃発した。約40mのシュガーローフ(52高地)に5日間で3回戦闘した。そのたびに奪還と撤退を繰り返した。約6時間の間に、陸砲と海軍の砲弾が約30,000発の砲弾で丘を覆った。爆撃機がさらに大量の高性能爆薬を浴びせた。アメリカ軍は、日本軍の要塞を個別に破壊して、危険で多大な犠牲を伴った。52高地の片側だけでも、日本軍は地下拠点に約500の入口があり、開口部をダイナマイトで爆発した。52高地は5月16日にアメリカ軍に制圧された。首里は6月1日に陥落した。日本軍抵抗勢力は弱まらず、守備隊はしぶしぶ南端部に撤退した。日本軍の人員と資源は急速に枯渇して、6月中旬までに摩文仁の守備隊の大部分が戦死した。6月21日、主要な組織的戦闘は集結した。




2023年1月12日木曜日

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。多数の尖った杭が設置された塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。塹壕の壁上に、多数の尖った杭が設置されていた。南軍の反撃を食い止めるために、尖った杭は北軍が前線から運び入れて積み上げていた。 

 1865年4月2日の第3次ピーターバーグの戦い(Third Battle of Petersburg)は、包囲戦の最後の戦いとなった。北軍の勝利により、リー将軍はピーターバーグとリッチモンドから撤退を余儀なくされた。リッチモンドで4月3日に降伏した。リーの北バージニア軍は、疲労、病気、飢餓、脱走により致命傷を負った。約1週間も戦い続けて、アポマトックス・コートハウスの戦いで敗れて、ロバート・E・リーは1865年4月9日に、ユリシーズ・S・グラント将軍に降伏した。残存する南軍の降伏が始まり、アメリカ南北戦争が終結した。

 第3次ピーターバーグの戦いは、4月1日のファイブフォークスで南軍は敗北した。北軍は4月2日にピーターズバーグ戦線への総攻撃をした。一握りの南軍兵士によるグレッグ砦の悲惨な防衛により夜まで北軍はピーターズバーグに侵入できなかった。日没後に、南軍のリー将軍は、ピーターズバーグとリッチモンドからの南軍の全面退去を命じた。北軍は、主要な軍事目標の一つであるピーターズバーグ占領を達成して、南軍の首都であるリッチモンドを陥落させた。死傷者は北軍が約3,936人、南軍が約5,000人の犠牲を伴った。

 アメリカ史上最長期の包囲戦は、1864年6月にユリシーズ・S・グラント将軍がリッチモンドを守る南軍ロバート・E・リー軍に対する約6週間の正面攻撃を中止した。ピーターバーグに撤退した後から包囲戦が勃発した。南北戦争は長期戦に突入し、最終的にはリッチモンド郊外からピーターズバーグ郊外までの約48Kmに及ぶ塹壕が掘られた。包囲戦は約9ヵ月半も続き、北軍と南軍との間で約12の主要な戦闘が勃発した。兵士たちは塹壕を掘り続け、長い包囲戦の間に、人命を犠牲にしても、ほとんど戦術的目標を達成できない戦闘が繰り返された。ピーターバーグの戦いは、まるで第一次世界大戦の塹壕戦を予見していた。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。