2023年1月10日火曜日

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。ブナ、ゴナ、サナンダ分岐点の日本軍は、数百の塹壕壕と深く整備された機関銃で構築された。日本軍兵士には食料が欠乏して、日本軍は死者の埋葬を管理する気力も能力も低下した。ブナ地域の多数の日本軍兵士の死体が放置されていた。

 パプア・ニューギニア島の北部の海岸平野にあるブナは、日本軍がココダ・トレイルに沿って進攻する際の主要な拠点であった。ブナ地域に日本軍が最初に上陸したのは、1941年7月21日にブナの東にあるゴナで、その後にブナは日本軍歩兵部隊に占拠された。8月21日にブナで大規模な上陸が行われた。日本軍の存在は、ブナで基地を構築する連合国自身の計画を妨げた。ブナ地域は西から東に、ブナ村、ブナ政府基地、そして数km東にある2つの滑走路に囲まれた。

 ブナで大きな戦闘が起こったのは、日本軍がココダ・トレイルに沿って侵攻して、後退した後であった。アメリカ軍は1942年11月16日にまずブナに迫り、南からブナ村に向かって攻撃し、別の1つが東から滑走路に向かって侵攻した。日本軍の要塞化された壕を前にほとんど頓挫した。オーストラリア軍が、12月中旬にミルンベイから移動してアメリカ軍を援護した。当時はブナ村は日本軍に占領されたが、日本軍は飛行場と政府庁舎周辺に鎮座した。オーストラリア軍の最初の攻撃は、12月18日朝に飛行場周辺へ攻撃した。日本軍の塹壕を一つ一つ破壊して掃討した。連合軍は12月23日までに飛行場と海岸の間の地域の掃討を達成した。

 オーストラリア軍は、12月24日から29日に日本軍の抵抗の中心である旧地区のブナ西端周辺の陣地を攻撃した。最小限の砲兵支援のみで、日本軍の塹壕を侵攻して、不十分な攻撃に振り回され、大きな犠牲を伴った。1943年1月1日朝に攻撃し、日没までに日本軍陣地の大部分を破壊した。アメリカ軍はブナ村から東に攻撃し、ブナ政府局を確保し、1月2日に旧地区から西を占領した。1月22日に日本軍の組織的抵抗は終結した。ブナでの戦闘で連合軍は約2,870名の死傷者を出した。初めてアメリカ国民はアメリカ軍の死体の映像に直面した。日本軍の死者は約1,400人近くに上ったが、破壊された壕の中で死亡したり、生き埋めになり、日本軍の死者数はもっと多かったと想定された。




2023年1月9日月曜日

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカにて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍の爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカ(Zamalka)にて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍が爆撃した。多数のシリア人の住民が死傷した。爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。両足の下腿が粉砕して、一部が切断されていた。政府軍は、地上軍がゲリラ攻撃を受ける反体制派が潜伏する都市部に、重火器による無差別攻撃、戦闘機による爆撃をして、甚大なる一般市民の犠牲が発生した。

 2011年3月15日に、チュニジア、エジプト、リビアで成功した「アラブの春(Arab Spring)」の 反乱に触発されたデモ参加者が、シリアに結集して、自国の抑圧的な政権の終結を訴えた。民衆の反乱や武装蜂起に直面して、シリアのアサド大統領は、最初の抗議行動の数日後に、シリア軍兵士がデモ隊に発砲して、数十人が死亡した。内務省総合治安局(アムン)と警察機動隊がデモ隊に実弾で弾圧した。政権派の民兵(シャビーハ)が一般市民に無差別の虐殺を執行した。シリア内戦は、アサド大統領と反乱軍が対立しただけでなく、アメリカ、イラン、ロシア、トルコなどを複雑な代理戦争を巻き込んだ。その過程で、民族や宗派の対立が生まれ、過激派武装組織「イスラム国」の台頭を促して、数百万人のシリア市民が避難し、ほとんどは民間市民の数十万人の死者が出た。シリア人権監視団は、シリア内戦の戦闘を避けて約1,200万人以上超が国外に流出し、うち約660万人は難民となり、死者は約60万人を超えた。

 シリア内戦が勃発した2011年3月から2012年月19日までに、シリアでは約28,000人以上が殺害された。内訳は、シリア政府軍兵士が約7,095人、反体制派兵士が約1,148人、非戦闘員の一般市民が20,755人が殺害された。政府軍の圧倒的な武力に対して、反体制派が都市ゲリラ戦で対抗して、都市部では攻防を繰り返した。シリア政府軍の装備は、旧ソ連・ロシア製であり、地中海のシリアのタルトゥース港がロシア海軍には唯一の拠点である。ロシア軍は、2015年9月から反対派軍に対して、空爆と地上作戦を実施した。2016年9月からロシア・シリア政府軍は、反政府派が支配するアレッポ東部を襲撃して、2016年12月にアレッポの反政府派は崩壊した。




2023年1月8日日曜日

2022年12月31日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。

20221231日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。ロシア軍の複数の爆撃が、首都キエフと地域の住宅地を襲った。ロシアは1231日午後に、ウクライナ上空に約20発の巡航ミサイルを発射した。撃墜できなかった約8発の巡航ミサイルが爆発した。首都キエフのソロミアンスキー地区の複数階建ての住宅でも起った。多くの都市で住宅地、ホテル、道路、車庫も攻撃を受けた。少なくとも1人が死亡、約14人が負傷し、ロシアの攻撃が新年の2023年を前に加速した。




















Warning: A husband reacts next to the body of his wife, besides her son crying to his mother, who was killed during a Russian attack in Kyiv, Ukraine, Saturday, Dec. 31, 2022. (AP Photo/Roman Hrytsyna)

 

   ロシア軍は意図的に市民を標的にし、恐怖の情勢を作り出した。ロシア軍が1229日にエネルギー関連施設に損害を与えるミサイル攻撃してわずか約36時間後に無差別に爆撃した。ロシア軍は10月以降に、ほぼ毎週ウクライナの電力と水の供給源に空爆を行った。ロシア軍は電力供給を損傷して、何百万人ものウクライナ市民は電力不足となり、ウクライナには夜間外出禁止令が出され、時計が新年を迎えた。

 南部の州都ヘルソンの一部でも夜間砲撃があり、1人が死亡、小児病院が損傷した。ロシア軍がヘルソン市を二分するドニエプル川を越えて撤退した後、11月9日にロシア軍が全面撤退して、ウクライナ軍がヘルソンを奪還した。1231日夜、小児病院を砲弾が襲った時に、近くの村で重傷を負った13歳の少年を手術中であった。直後に約99km離れたミコライフの病院に移管された。東部の町クメルヌィツキーで、1231日のロケット弾攻撃で、22歳の女性が死亡した。

 ゼレンスキー大統領は、1231日にロシア国民に向けてロシア語で演説して、「ロシアは、プーチン大統領の権力を死ぬまで維持するために戦争を仕掛けている」と述べた。

 ロシアの国防省は、東部ドネツク州のマキイウカ(Makiivka)の支配地域で、12月31日にロシア軍兵舎がウクライナ軍のハイマース攻撃を4発を受けた。異例の軍人約63人から約89人が死亡したと発表した。兵舎には当時約600人がいて、携帯電話を使用して特定されて、保管した弾薬の爆発などから犠牲が拡大した。

2023年1月7日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して約23人が即死、旧福屋1階の東消防署は全焼して約24人が即死して、消防機能は全廃となり、広島市内から多数の黒い煙の火炎が市内から立ち昇った。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して、直後から発生した火炎によって、全てが焼失して灰塵に帰した。爆心地から南南東約2.6kmにあった西消防署庁舎の建物は、1945年4月に設置された木造3階建ての新庁舎は崩壊した。焼跡中央部に見えるのは、無残にも焼けただれたはしご車である。西消防署の倒壊から炎上によって、西消防署の署員の約23人が即死して、その後に約34人が原爆死した。消防車は約8台が焼失した。



 東消防署は、広島原子爆弾に被爆した直後に、爆心地から東に約700mの旧福屋内の耐火性の建物内は全焼して、建物の構造は留めた。被爆によって、署員の約24人が即死して、約16人がその後に原爆死した。消防車は約7台が焼失した。消防車は無残にも焼き焦げた。すべてのタイヤは、焼失していた。東消防署の消防機能は、全く停止して、消防活動も不可となった。



 広島市の消防の本拠地として、大手町に西消防署、八丁堀の旧福屋1階に東消防署があった。甚大なる建造物の崩壊、火炎、火傷などが瞬時に同期した。本拠地の消防機能は焼失して、火炎が各地で散乱した。特に壊滅的な被害は、爆心地に近い西消防署と東消防署に及んだ。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の閃光に続いて激烈な爆風が通過して直後に、広島市内から黒い煙の多数の火炎が市内から立ち昇った。午前10時から午後2時までが、火炎が最も強力であった。夕方から火炎は萎縮するも、その後も約3日間燃え続けた。

 広島市の比治山には、殉職消防組員之碑が建立されている。この碑は、被爆以前には、水主町武徳殿に設置されていた。原子爆弾によって三つに割れた碑を、1950年11月に修復して比治山に移管され、約785柱が合祀された。

2023年1月6日金曜日

イラク戦争にて、ファルージャにてテロとの戦いで、イラク人テロリストが殺害された。多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、イラク軍政府軍兵士はテロリストのイラク人に襲撃された。

イラク戦争にて、イラク中部の都市ファルージャにおけるテロとの戦いにて、イラク人のテロリストが殺害された。4人のイラク住民らが、テロリストの死体を運搬させられた。死体は、収納する運搬袋に封入した手提げ袋を4人のイラク住民らが搬送した。死後に数日も経過して、死体からの悪臭が漂って、4人のイラク住民はマスクを装着して防臭した。



 テロとの戦いにて、広大な戦場から、都市部の戦闘に移行した。都市部における軍事作戦に戦闘の形態が変遷した。都市部の場合は、一般市民や住民も戦闘に巻き込まれた。非戦闘員が武装民兵組織に所属したり、自らの地域や民族を防衛するために民兵に変身した。地の理を生かして、都市部の障害物を活用して徹底抗戦した。都市部では、複雑な迷路となり、視界も遮り、武器の使用も制限された。大量の武力でも、各建物をそれぞれに掃討する必要がある。民間人が居住する地域には、戦争犯罪の防止から、爆撃や砲撃などを無差別に侵攻することが国際法で制限されている。

 2003年3月20日に勃発したイラク戦争では、逆に反政府テロリストやゲリラは、国際法を無視して、戦争犯罪の攻撃も執行した。イラク政府軍だけでなく、アメリカ軍を含む多国籍軍も、攻撃対象となった。イラク政府軍に敵対する勢力は、テロリストよりも、暴徒が主体であった。多国籍軍主導のイラク政府の運営に対して、不平と不満が高まって非協力となり、反対勢力に支持が高まった。さらに、国外からテロリストがイラクに侵入して、都市部の戦闘は混迷を極めた。

 報道機関が、民間人の犠牲者や崩壊した建物を公表すれば、逆に反対派勢力に同上が集まった。圧倒的な武力を保持する多国籍軍は、非難の対象となる。都市の郊外のゲリラには、地域の作戦範囲が広大となり、戦闘期間も長期化した。治安維持と軍事作戦の境界が曖昧となり、暴徒だけでなく多くの民間人が巻き込まれた。自爆テロリストは、事前に察知できなければ、あたかも民間人として接近して、直後に自爆攻撃を挙行する。

 ファルージャでのテロとの戦いにて、イラク政府軍兵士は、多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、突如としてテロリストのイラク人に襲撃された。この襲撃で、多国籍軍兵士の1人が殺害されて、約40人が戦傷して、民間イラク人は約8人が殺害された。襲撃されて瀕死のイラク政府軍の兵士は、アメリカ軍の衛生兵から救護する手当を受けた。



2023年1月5日木曜日

アメリカ軍兵士はマーシャル諸島のクェゼリン島で、1944年2月3日に最後まで残存した日本軍兵士を掃討した。激しい戦闘の後に、海岸線上に殺害された日本軍兵士の死体を検分しながら、侵攻した。

アメリカ軍兵士はマーシャル諸島のクェゼリン(Kwajalein)島で、1944年2月3日に最後まで残存した日本軍兵士を掃討した。クェゼリン島で激しい戦闘の後に、海岸線上に殺害された日本軍兵士の死体を検分しながら、侵攻した。戦闘はますます激しくなり、日本軍は地形の不安定さを活用して、残存した迫撃砲や大砲を集中的に撃った。アメリカ軍の砲撃による惨状にも関わらず、まだ多くの隠れ場所から巧みに陣地を隠した。アメリカ軍は火炎放射器や手榴弾から重火器を使用して十分に破壊した。日本軍の将校は、むき出しのサーベルだけでアメリカ軍の戦車に突撃して殺害された。夕暮れ時に、日本軍の小銃兵が、椰子の枝を身体の前に持ってアメリカ軍の陣地に侵入して殺害された。火炎放射器を持ったアメリカ軍兵士が要塞に近づくと、戸口から反撃する日本軍将校が飛び出しながら消火器を噴射するも、足元で焼け死んだ。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年1月30日に、約2カ月間の大規模な空襲と海襲の後に、水陸両用攻撃部隊の約8万5000人と軍艦約300隻がマーシャル諸島に迫った。2月1日に、アメリカ軍はクェゼリン島に上陸し、北に約72km離れたロイ島とナムール島の2つの島に上陸した。上陸した初日にロイ島を占領し、ナムール島は2日目の正午までに陥落した。クェゼリン島の戦いはさらに難しく、2月4日に安全が確認される3日間、日本軍を攻撃し続けた。日本軍の海岸線防衛戦から深く縦深防備戦が準備され、ペリリュー島、グアム島、マリアナ諸島などの戦いは、アメリカ軍にとってはるかに大きな犠牲を強いられた。 

 クウェゼリン島の日本軍は最初から約4万人以上のアメリカ軍に多勢に無勢であったが、最後に全滅するまで戦い抜くことを選択した。ロイ島とナムール島での日本軍の死者は約3,500人以上、捕虜は約200人、アメリカ軍の死者は約200人以下、戦傷者は約500人であった。クェゼリン島では、約5,000人近い日本軍兵士が死亡し、捕虜はほんの一握りで、アメリカ軍は戦死者は約177人、戦傷者は約1,000人まで及んだ。

 アメリカ軍の犠牲は、第二次世界大戦の過去4年間の戦闘で、約107万524人の死傷者を出した。そのうち約261,608人が死亡し、約32,811人が行方不明、約数十万人が負傷した。第二次世界大戦で使われた戦闘機よりも破壊力のあるロケット・ミサイルの方が、戦争の惨禍をもたらすのか、それとも平和を手に入るのだろうか?もし近くに核兵器が炸裂したらどうなるのだろうか?悲惨な光景が目に浮かぶ。戦場では、死、苦悩、破壊が戦争の代償である。戦争の犠牲をなくすことが、国連安全保障理事会の大きな役割である。




2023年1月4日水曜日

特攻隊員の若者が、知覧特攻基地から戦友の遺骨とともに、アメリカ軍の軍艦に自爆するために戦闘機に飛び去った。遺骨を、軍艦を自爆攻撃で瞬時に沈没する轟沈と記した手拭いで縛った。

特攻隊員の若者が、知覧特攻基地から戦友の遺骨とともに、アメリカ軍の軍艦に体当たりして、自爆するために戦闘機に飛び去った。遺骨袋を、アメリカ軍の艦船を自爆攻撃で瞬時に沈没する轟沈と記した手拭いで縛った。



 1945年3月25日に、アメリカ軍はついに沖縄戦の緒戦である慶良間列島に上陸した。日本軍大本営は局面を打開するために、フィリピンのレイテ沖作戦に1944年10月21日から挙行した特別攻撃隊(特攻)を激化を強行した。まず沖縄列島に最も近距離で最南端である鹿児島の大隅半島にあった知覧飛行場が特攻本部に選定された。沖縄戦の最前線の陸軍特攻基地となり、日本各地から特攻隊員が結集した。約15歳から約22歳までの青年で構成された。その他に少年飛行兵や学徒出身の特別操縦見習士官も参戦した。

 神風戦闘機の胴体の下に、約250kgから約500kgの爆弾を装着した。沖縄までの片道だけの燃料で、知覧基地を離陸して、その後に特攻すれば二度と復帰しなかった。陸軍の最後の知覧特攻基地から出撃した特攻隊員は、薩摩半島の最南端に位置する薩摩富士と呼称する約922mの開聞岳を展望して飛び去った。知覧基地から沖縄の戦場まで、約650kmを約120分から約140分で到達した。1945年8月13日まで特攻が厳命された。

 知覧基地から特攻した戦死者は、約436人に及んだ。その他に、知覧基地には、特攻本部が設置された。知覧基地から、各地の飛行場に特攻の出撃命令が下った。万世から約121人、都城から約83人、台湾から約134人、熊本から約127人、鹿屋から約12人、太刀洗から約14人などの特攻隊員が、知覧基地からの命令で自死して玉砕した。

 特攻の戦果は不詳である。アメリカ軍側の損害は、軍艦(航空母艦・巡洋艦含)は約32隻沈没、輸送船は約75隻沈没、艦船の損傷は約223隻、戦死者は約12,260人、戦傷者は約33,769人に及んだ(クロンステル『空戦』)。レイテ沖作戦から挙行した特攻作戦において、海軍は約2,535人、陸軍は約1,844人が戦死した。特攻作戦に参戦した約3,461機体のうち、約132機体が命中して、約122機体が至近弾で爆破した(『知覧特別攻撃隊』, ジャプラン,1989年4月25日)。













Warning: U.S. aircraft carrier USS Bunker Hill CV-17 on May 11, 1945. Photograph taken after the attack by two Japanese pilots on her flight deck Pacific Front.

2023年1月3日火曜日

1933年3月3日から6月末に、ナチス・ドイツによる約500人以上の殺人があった。民間人女性のグレーテ・メッシングは3月6日、男性のハインツ・べスラーは4月4日に虐殺された。

ナチス・ドイツによって殺害された労働者と知識人のリストを抜粋した。1933年3月3日から6月末までに、ナチス・ドイツによって執行された約500人以上の殺人に関する明確な情報源がある。その情報源は、ドイツの公式発表、否定されない報道、認証された目撃者の報告に基づく。殺人の総数のほんの一部であり、大部分は、ナチス・ドイツによる厳しい検閲から、親族、友人、目撃者に対する脅迫によって隠蔽された。

 ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下の、1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されて、1945年5月まで全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランド侵攻がイギリス・フランスの宣戦を招き、第二次世界大戦が勃発した。ソ連赤軍によるベルリンの戦いを目前にヒトラーが1945年4月30日に自殺した。1945年5月7日に連合国軍に敗北して中央政府の不在が宣言され、解体されて滅亡した。

 既婚で2人の子供がいて働く女性のグレーテ・メッシング(Grete Messing)は、1933年3月6日の午後6時頃に、バイエルン州セルブのゾンマーミュール通りに、家を出て買物に町の方へ行った。自宅から約40mほど離れた地点で、同じ通りに住む国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)党員の男性ラガーに出会った。彼は彼女の前に出て、「ハイル・ヒトラー!」と挑発した。メッシング夫人は押返して復帰し、彼を追い越そうとした。ラガーは彼女を呼び止め「拳銃で、お前を撃ち殺すぞ!」と脅した。彼女は冷静に「撃ってしまえ!」と答えた。

 ラガーは拳銃を彼女の喉元に当て、引き金を引いた。メッシング夫人は致命傷を負った。彼女の夫は彼女を自宅まで運び出血多量で死んだ。犯人のラガーはナチの宿屋に行き酒を飲んだ後に、特別警察に出頭して、ラガーは逮捕された。約10日後に、ラガーは警察署から釈放された。セルブの駅で儀仗兵がラガーを出迎えた。ラガーはナチス突撃隊から追放されなかった。一方、殺害された女性の夫と19歳の息子は、バイロイトの刑務所に 保護拘束された。警察と特別警察は、ゼルブの労働者階級の家々で繰り返し捜索を行って、犯人でも殺人犯でもなく、殺人の証拠となる写真を探して検閲した。



 ハインツ・べスラー(Heinz Bässler)は、1933年4月4日にデュッセルドルフにて、ナチから逃走中に射殺された。射殺されたウィルヘルム・ドリュース社のベルリンの労働者のハインツが発見された (ベルリン・ターゲブラット新聞)。ベスラーは元ナチス党員で、突撃隊のリーダーであった。1930年12月頃にナチスの真実を理解し始めて、ナチを離党し、後に共産党に入党した。

 4月4日朝4時頃に、7人の保護隊員と2人の刑事によって、ハインツは服を着て連行された。彼らは午前3時には通りを封鎖し、戒厳令下でハインツを拳銃で連行して、通りで射殺した。ハインツの心臓に3発、腕に1発、首に1発、骨盤に1発、その他にも2発、全部で8発撃たれた。死体は放置され、農民たちが死体を見つけた。棺桶の上で、残酷に扱われたハインツがいた。新聞には、ハインツは逃走して射撃された、弾薬2つ発見されたなど嘘の偽ニュースが書かれた。戦争犯罪に圧倒されて、何も信じられず、卑劣で残忍を執行した。ハインツの葬儀は4月7日午後1時半から、南墓地に聖職者によって埋葬された。



2023年1月2日月曜日

六日間戦争(第三次中東戦争)で圧勝したイスラエルのモサド(イスラエル諜報特務庁)のスパイであったエリ・コーエンに、1965年5月18日にシリアで絞首刑が執行された。

1965年5月18日にイスラエルのモサド(イスラエル諜報特務庁)のスパイであったエリ・コーエン(Eli Cohen)に、シリアで絞首刑が執行された。コーエンは、1961年から1965年にかけて、イスラエル軍にシリアの膨大な量と幅広い情報データを提供した。コーエンのシリア要塞の植樹の秘密情報などにより、イスラエル軍は約2日間で、シリアのゴラン高原を占領できた。 

 1965年1月24日に、シリア治安部隊がコーエンを逮捕した。軍事裁判でスパイ行為で有罪となり、戒厳令下で死刑を宣告された。国際恩赦キャンペーンが巻き上がるも、40歳のコーエンは1965年5月18日に、シリアの首都ダマスカスのマルジェ広場で公開処刑された。死刑執行後、反シオニストの文字が書かれた白い羊皮紙が彼の体に貼られ、6時間吊るされたままだった。死後は、イスラエルの国家的英雄となった。

 第三次中東戦争(6日間戦争)は、1967年6月5日から6月10日にイスラエル軍と アラブ諸国(主にエジプト、シリア、ヨルダン)の連合との戦争である。アラブ軍側は約2万人以上が戦死して、イスラエル軍は約1,000人未満の戦死であった。イスラエル軍は、ゴラン高原・ヨルダン川西岸、市内半島、ガザ地区を占領した。コーエンのシリア要塞の植樹の秘密情報などにより、イスラエル軍は約2日間で、シリアのゴラン高原を占領できた。

 六日間戦争は、イスラエル国防軍が先制空爆を行って、エジプトとその同盟国の空軍は機能不全に陥った。その直後に、イスラエル軍は地上攻撃で圧倒して、エジプトからシナイ半島とガザ地区を、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレムを、シリアからゴラン高原を奪還した。六日間戦争は国連の仲介により停戦で一時停止した。中東の地図を大きく変わり、地政学的な摩擦が勃発した。イスラエル軍は約766人から983人が戦死して、約4,517人戦傷して、約15人が逮捕された。エジプト軍は約9,800人から15,000人が死亡あるいは行方不明、ヨルダン軍は約696人から約700人が戦死して、約2,500人が戦傷、シリア軍は約1,000人から約2,500人が戦死した。 




2023年1月1日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年4月18日にウクライナのマリウポリで、ロシアの分離主義勢力が支配する地域のイリチ鉄鋼工場冶金工場のトンネルでビニール袋に入れてウクライナ軍兵士の死体が散乱した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年4月18日にウクライナのマリウポリで、ロシアに支援された分離主義勢力が支配する地域にあるウクライナで2番目に大きい冶金企業であるイリチ(Illich)鉄鋼工場冶金工場が戦場となった。その一部にあるトンネルで、ビニール袋に入れてウクライナ軍兵士の死体が散乱した。4月13日からロシア軍がイリチ工場を襲撃した。ドネツク州の親ロシア派のドネツク人民共和国の民兵たちは、その死体群を検分した。アゾフ海の戦略的な港であるマリウポルは、ロシア軍とウクライナ東部の分離主義地域の軍によって6週間以上に包囲された。4月18日から、ウクライナのマリウポルでロシアに支援された分離主義勢力の支配地域で、激しい戦闘により冶金コンビナートのアゾフスタリ地区のイリッチ製鉄所の冶金工場が破壊されて、車両が損傷して燃えた。 

 人口が戦前に約43万人だったマリウポリは、食料、水、暖房、医薬品が欠乏い状態で、10万人以上が閉じ込めらた。マリウポリ市長室の顧問は、アゾフスタリ(Azovstal)製鉄所に約2,000人のアゾフ大隊のウクライナ人兵士、負傷した兵士5約00人とともに、約1000人の民間人も閉じ込めらた。特に女性と子供は、水、食料、新鮮な空気がない状況にあった。ロシア軍の約2ヶ月に及ぶ致命的な砲撃により、マリウポルは煙の立ち込める廃墟と化した。負傷したウクライナ人兵士は、適切な治療を受けられず、苦しみながら戦死した。ウラジーミル・プーチン大統領は4月20日に、マリウポリでの戦いに勝利して占領したと主張した。アゾフスタル製鉄工場からハエ一匹通さないように、アゾフスタリ製鉄工場を封鎖するように指示した。ロシア軍は戦闘に巻き込まれて死亡したマリウポルの住民を埋葬するために、約9,000体の死体を埋葬した約200以上の新しい墓を周辺に増設したとウクライナ当局は主張した。

 国連と国際赤十字が、4月30日より、製鉄所から民間人が避難した。5月18日からロシア国防相は5月16日から、ロシア軍が包囲を続けてきたウクライナ東部の要衝マリウポリのアゾフスタリ製鉄所から、5月20日までにウクライナ側から合わせて約2439人が投降したとロシア国防相は公表した。アゾフスタリ製鉄所は1933年からソ連が製鋼し、1941年ドイツ軍が占領して停止し、1443年9月に開放されて再建された。





















Warning: Servicemen of the Donetsk People's Republic militia look at bodies of Ukrainian soldiers placed in plastic bags in a tunnel, part of the Illich Iron & Steel Works Metallurgical Plant, the second largest metallurgical enterprise in Ukraine, in an area controlled by Russian-backed separatist forces in Mariupol, Ukraine, April 18, 2022.(ABCnews, April 29, 2022, Alexei Alexandrov/AP) 

2022年12月31日土曜日

1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で治療を待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けた。

1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で治療を待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けていた。松本栄一が撮影した。8月6日の広島原子爆弾の炸裂した直後から、広島市内の被災の復興から、9月18日には、被爆者の死体や遺骨は処理された。

 朝日新聞社の出版写真部に所属した松本栄一は、「科学朝日」の取材で、長崎原子爆弾を8月25日から9月15日まで、被爆地の長崎市内を撮影した。その後に広島原子爆弾の被爆を9月18日から9月25日まで広島市内で撮影した。枕崎台風が広島を直撃した翌9月18日から広島市内に入って撮影した。爆心地から全壊全焼の区域に残った建造物などや被爆者の被害を記録した。呉の江田島駐在の暁部隊が広島原子爆弾が炸裂した直後から広島市内に駐屯していた。

 朝日新聞大阪本社は、8月10日付け(半沢・松本特派員発)に「浦上天主堂も壊滅、長崎の惨禍」の見出しの約100行ほどの記事で、初めて原爆の報道が発信された。朝日新聞大阪本社は、8月15日付で「正体を残した原爆」で、はしごの人影の写真が掲載された。 

 アメリカ軍の検閲とネガ提出命令に対し、個人で写真を守り通した。撮影された数百枚の写真は、GHQ占領下にて原子爆弾に関する報道は、占領軍によって厳しい検閲をされた。写真だけでなく、ネガの提出も求められ、自主的処分と弁明して、個人ロッカーに秘蔵した。その後に、1952(昭和27)年8月6日の『アサヒグラフ』で、原子爆弾の戦争被害の特集が約70万部で初公開された。1952年4月28日にアメリカとの旧安保条約発効に伴って、プレスコードが廃止された直後に出版され、全世界に強烈な衝撃を与えた初の原爆被害写真集となった。







2022年12月30日金曜日

1984年8月のエルサルバドル政府軍による侵略初日に迫撃砲で殺害された子供の葬儀が両親らに挙行された。当時の政府軍侵攻の大虐殺跡が、チャラテナンゴ州で発掘された。

1984年8月のエルサルバドル政府軍による侵略の初日に迫撃砲で殺害された子供の葬儀が両親らに見守られて挙行された。チャラテナンゴ州のタマリンドの周辺のエル・パライソには、要塞化された第4旅団の基地があった。エルサルバドルへのFMLNゲリラの主要な供給ルートは、北部のチャラテナンゴ地域に潜伏した。



 エルサルバドル内戦(Salvadoran Civil War)は、エルサルバドル政府と左翼のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN, 1980年10月10日にキューバの要請で結成)の間で約12年間続いた内戦である。1979年10月15日のクーデターとそれに続く政府による反クーデター派の殺害が内戦の勃発となった。内戦は1992年1月16日にメキシコシティでのチャプルテペック和平協定まで公式には終結しなかった。内戦を終結させ平和のために、報復することなく、双方が譲歩した。

 国連は、内戦によって1979年から1992年の間に約7万5千人以上が死亡し、約8千人が行方不明になったと報告した。最も人権侵害、特に国家治安部隊と準軍事的な死の部隊によるFMLN派の誘拐、拷問、殺人は蔓延した。エルサルバトル政府軍は、約7,000人が戦死した。FMLNゲリラ側は、約20,000以上が戦死した。民間人も含めると、約7万から8万人が殺害されて、約8,000人が行方不明、約55万人が国内難民、約50万人が国外難民となった。

 エルサルバドル政府は冷戦下ではアメリカの同盟国とみなさた。カーター政権からレーガン政権の間に、アメリカはエルサルバドル政府に1日あたり約100万から200万ドルの経済援助を行った。アメリカは政府軍に多大な訓練と装備を提供した。1983年5月までに、アメリカ軍がエルサルバドル最高司令部内で戦略戦術的決定を行った。

 エルサルバドル政府は執行した対反乱戦術(COIN)は、しばしば民間人の非戦闘員を標的にした。国家治安部隊の右翼の死の部隊は、国内の脅威を排除するために、デモ・反乱・テロ行為は残忍に抑圧された。国家治安部隊は何度も偵察して、ゲリラの場所を突き止め、数千人の兵士と飛行機で侵攻した。国連は、内戦中の残虐行為で、FMLNゲリラは約5%、サルバドル治安部隊が約85%の犯罪責任を負うと推定した。内戦時代の残虐行為の説明責任は、1993年の恩赦法で妨害された。2016年にエルサルバドル最高裁は、違憲であり、戦争犯罪人を起訴が可能と判決を下した。1984年8月の政府軍の侵攻による大虐殺の跡が、チャラテナンゴ州で発掘された。



2022年12月29日木曜日

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、1936年2月13日に帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。そのうちの何人かの死体は性器を切断されて去勢された。ゴンドランドの虐殺(Gondrand Massacre)は、1936年2月13日にアフリカのエチオピアにて、ゴンドランド社のイタリア人の男性労働者が襲撃されて虐殺された事件である。ファシスト・イタリア当局は、エチオピアの征服を正当化するプロパガンダのために公表した。

 ゴンドランドの虐殺事件は1936年2月13日に、エチオピア北部の町マイ・ラーラ(現ラマ)付近で発生した。当時に、道路建設に従事していた物流会社ゴンドランドの民間イタリア人労働者の宿舎が、ラス・イムルの命令を受けた帝国エチオピア軍によって夜明けに襲撃された。建設現場には約15丁のマスケットが備え付けられ、イタリア人労働者も作業道具を防衛用武器として使用した。帝国エチオピア軍の奇襲に虐殺された。1936年2月10日から19日にかけて、マイ・ラーラの南約200kmで行われたアンバ・アラダムの戦いとほぼ同じ時期にゴンドランドの虐殺事件が勃発した。

 約130人の労働者のうちで、約68人のイタリア人が殺された。そのうちの約17人の死体は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの「敵の死体を切断するな」という命令に反して帝国エチオピア軍は去勢した。他の27人は負傷し、約4人が行方不明となった。このうち約2名は後に捕虜となっていた。攻撃で約40人の帝国エチオピア軍兵士が死亡したが、その多くはゲルグナイトの貯蔵所の爆発で殺害された。この攻撃の後、イタリア軍兵士によるエチオピア市民への報復する虐殺が行われ、数え切れないほどの死者を出した。

  第二次エチオピア戦争(1935年10月3日から1936年5月5日)にイタリア王国とエチオピア帝国との戦争である。約15,000人のイタリア人と約275,000人のエチオピア人が殺害された。第一次エチオピア戦争(1894年12月15日から1896年10月23日)で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行って、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスにてエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。イタリアはエチオピア全土を占領した状況を背景に、アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国した。国際紛争の解決にて大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われたが、イタリアに対して実効的ではなかった。イタリアは孤立して、ドイツおよび日本と枢軸国を形成する道をたどった。




2022年12月28日水曜日

第一次世界大戦後にオーストリア内戦による1934年2月内乱にて、オーストリア政府軍と社会民主党員との間に武力衝突した。殺害された社会民主党側の市民らは殺害されて、死体が路上に倒れた。

第一次世界大戦後にオーストリア内戦による1934年2月内乱にて、オーストリア政府軍と社会民主党員との間に武力衝突した。シュロベエベルクの政府軍兵士が、社会民主党員側に射撃した。殺害された社会民主党側の市民らは殺害されて、死体が路上に倒れた。



 第一次世界大戦後、オーストリアは帝国を喪失して、荒廃した。オーストリア内戦(Austria Civil War、2月蜂起)は、オーストリアで1934年2月12日から2月16日間に、オーストリア連邦軍と社会主民主党員の共和国保護同盟の間で起きた内乱である。衝突はウィーンのリンツで始まり、主にウィーン、グラーツ、ブルク・アン・デア・ムール、ユーデンブルク、ウィーン・ノイシュタット、シュタイヤーの各都市で、オーストリア東部と中部の他の工業都市でも勃発した。

 まず1934年2月12日に、オーストラリア警察が、ウィーンの社会民主党所有のシッフ(Schiff)・ホテルを捜索した。リンツにおける市民軍団が最初に過激に抵抗した。ハイムワーフ、警察、国家憲兵隊、連邦軍が、非合法の社会主義市民軍団と武力衝突を始めた。両陣営の小競り合いは、オーストリアの他の都市や町にも広がった。オーストリアの社会主義運動の拠点であったウィーンの市営団地に、バリケードを築いた。警察と準軍事組織が、要塞の外側に陣取り、両陣営は当初の小銃からライフル攻撃で交戦して、戦闘は工業都市でも発生した。

 比較的に独立したオーストラリア連邦軍が参戦した。ドルフース首相は、オーストラリア連邦軍に軽大砲による砲撃を命じた。何千人もの市民の生命を危険にさらした。多くの建物が破壊されて、社会主義闘争者に降伏を強要した。オーストリア内戦の戦闘は2月13日までにウィーンでは終結した。その他の都市では、2月14日から15日まで激しく続いた。社会主義者の小集団が武装勢力と戦ったり、逃亡して、1934年2月16日までに、オーストリア内戦は終結した。社会民主党側は約137人が殺害され、約399人が負傷して、内戦後に約10人が死刑を執行された。連邦軍側は、約105人が殺害されて、約319人が負傷した。



2022年12月27日火曜日

太平洋戦争のサイパンの戦いにて、1944年6月22日に日本軍兵士が、ガラパンのアメリカ軍基地に、日本刀を持って突撃して切り込んだ。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体から日本刀を取り上げ誇らしげに検分した。

太平洋戦争のサイパンの戦いにて、1944年6月22日に日本軍兵士が、ガラパン(Garapan)のアメリカ軍基地に、日本刀を持って突撃して切り込んだ。アメリカ軍兵士は、殺害した日本軍兵士の死体から日本刀を取り上げた。アメリカ軍兵士らは、奪った日本刀を持って、日本軍兵士の死体に当てて、自慢して誇らしげに検分した。

  6月21日夕暮れから、アメリカ軍の前線部隊は日本軍の夜間潜入に備えた。日が沈む間もなく、日本軍兵士の侵入者は第2海兵師団弾薬庫を爆破して、夜通しに海岸に砲弾の破片をまき散らし続けた。哨戒隊同士の衝突や小規模な日本軍の潜入があった。さらに4人の日本軍兵士がガラパン周辺の丘で殺害された。アメリカ軍は6月19日に掃討して、ススぺ湖周辺の湿地に潜伏した約7人の日本軍兵士を殺害した。6月21日に湿地帯を丹念に探索したが、潜伏している日本軍兵士を皆殺しにできなかった。

 7月1日に、サイパン最大の市街地であるガラパンへの攻撃が開始され、3日後に占領した。日本軍は最大かつ最後の攻撃を開始した。7月7日早朝に、数千人の日本軍が最後の決死のバンザイ突撃をした。アメリカ軍は至近距離から榴弾銃を発射し、拳銃、ライフルを奪って歩兵として戦った。日本軍の攻撃の勢いでアメリカ軍は新たな陣地に後退したが、その後日本軍は撃退された。

  サイパンの戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦争にて、1944年6月15日から7月9日にマリアナ諸島のサイパン島での戦闘である。6月5日に真珠湾を出発し、9日後にサイパン島に侵攻して、太平洋のDデイと呼称された。斎藤義次中将が指揮する日本陸軍第43歩兵師団を撃破した。少なくとも約24,000人の日本軍兵士が戦死して、自殺者は約5,000人にも達した。民間人にも多大な犠牲となる約22,000人が死亡した。アメリカ軍は約3,426人が戦死して、10,369人が戦傷した。アメリカ軍も数千人単位で戦死者が出ており埋葬が間にあわなくなった。死体袋が砂浜にうず高く積み上げられた。途中から軍艦に積んで沖合で水葬にした。日本列島は アメリカ軍のB-29爆撃機の射程圏内に入った。