1984年8月のエルサルバドル政府軍による侵略の初日に迫撃砲で殺害された子供の葬儀が両親らに見守られて挙行された。チャラテナンゴ州のタマリンドの周辺のエル・パライソには、要塞化された第4旅団の基地があった。エルサルバドルへのFMLNゲリラの主要な供給ルートは、北部のチャラテナンゴ地域に潜伏した。
エルサルバドル内戦(Salvadoran Civil War)は、エルサルバドル政府と左翼のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN, 1980年10月10日にキューバの要請で結成)の間で約12年間続いた内戦である。1979年10月15日のクーデターとそれに続く政府による反クーデター派の殺害が内戦の勃発となった。内戦は1992年1月16日にメキシコシティでのチャプルテペック和平協定まで公式には終結しなかった。内戦を終結させ平和のために、報復することなく、双方が譲歩した。
国連は、内戦によって1979年から1992年の間に約7万5千人以上が死亡し、約8千人が行方不明になったと報告した。最も人権侵害、特に国家治安部隊と準軍事的な死の部隊によるFMLN派の誘拐、拷問、殺人は蔓延した。エルサルバトル政府軍は、約7,000人が戦死した。FMLNゲリラ側は、約20,000以上が戦死した。民間人も含めると、約7万から8万人が殺害されて、約8,000人が行方不明、約55万人が国内難民、約50万人が国外難民となった。
エルサルバドル政府は冷戦下ではアメリカの同盟国とみなさた。カーター政権からレーガン政権の間に、アメリカはエルサルバドル政府に1日あたり約100万から200万ドルの経済援助を行った。アメリカは政府軍に多大な訓練と装備を提供した。1983年5月までに、アメリカ軍がエルサルバドル最高司令部内で戦略戦術的決定を行った。
エルサルバドル政府は執行した対反乱戦術(COIN)は、しばしば民間人の非戦闘員を標的にした。国家治安部隊の右翼の死の部隊は、国内の脅威を排除するために、デモ・反乱・テロ行為は残忍に抑圧された。国家治安部隊は何度も偵察して、ゲリラの場所を突き止め、数千人の兵士と飛行機で侵攻した。国連は、内戦中の残虐行為で、FMLNゲリラは約5%、サルバドル治安部隊が約85%の犯罪責任を負うと推定した。内戦時代の残虐行為の説明責任は、1993年の恩赦法で妨害された。2016年にエルサルバドル最高裁は、違憲であり、戦争犯罪人を起訴が可能と判決を下した。1984年8月の政府軍の侵攻による大虐殺の跡が、チャラテナンゴ州で発掘された。