2022年9月19日月曜日

フィンランド白軍は1918年にソ連赤軍を侵攻して、ソ連の赤軍領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。

フィンランド白軍の侵略者は、1918年にソ連領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。フィンランド白軍は、ソ連赤軍がサンクトペテルブルクを防衛するイノ砦を攻撃し、ヴィボルグを攻略した。ヴィボルグでは、反ロシアのドイツ軍養成イェーガー部隊が占領して、ロシア人系住民を数日で約800人ほどを虐殺した。残酷な虐殺による民族浄化は、ドイツ軍には理解されないが、フィンランド軍には、国内の結束を維持する方策として、民族浄化を執行した。1918年5月には、フィンランド白軍はレニングラード州北部のラウタ(現在のソスノボ)を占領した。

 第一次世界大戦の煽りを受けて1917年ロシア革命が起こると、フィンランド議会は1917年12月6日に独立を宣言した。新フィンランド国家では、ロシア赤軍とフィンランド白軍との間で内戦が勃発した。フィンランドの白軍は、1918年1月15日にフィンランド民族主義者から結成された。ドイツ軍はフィンランド白軍に十分な兵器を供給した。フィンランド白軍は、地元赤軍の主力部隊を打ち破った。

 フィンランドをめぐる内戦の一方で、ロシアでの内戦が壮絶な様相を呈した。赤軍、白軍、国民党が広大な国土を二分して、情勢が変化した。カレリアは結局フィンランドに占領された。カレリア人の民族運動があり、ロシアの情勢が悪化すれば、カレリアはフィンランドに加わると宣言した。フィンランド人義勇軍がソ連領内深くまで入り、ソビエト連邦に正式に宣戦布告した。フィンランド白軍はカンダラクシャとケムに侵攻して、フィンランド内戦で白軍が勝利した後、赤軍の多くが東方に逃亡した。ソ連には約1万〜1万3千人のフィンランド人難民がいた。ソ連軍が武装させたフィンランド赤軍の義勇軍が、フィンランド白軍の侵攻を阻止した。西方から来た侵略者は、大フィンランド構想は村々で朽ち果て、カレリア人の間で急速に失望された。第一次世界大戦後に、カレリアでは食料が不足し、悲惨な状況が続いた結果1921年11月に、カレリアではフィンランドに対する本格的な蜂起が始まった。




2022年9月18日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は2022年9月7日に、ロシア軍から解放されたハリコフ州のグラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が9月9日に実施された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、ハリコフ州のグラコボ村を2022年9月7日に、ロシア軍から解放された。グラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が、9月9日に実施された。グラコボ村には、約753人が住んでいた。ロシア軍の占領下で生存した者には、半年以上の地獄だった。目の前に巨大な血の水たまりが見えた。ロシア軍が撤退するとき、ウクライナ軍に取り囲まれないように破壊と荒廃の痕跡を残した。ロシア軍によって多数の民間人が殺害された集団墓地が残存した。9月8日には、ウクライナ軍はハリコフ地方の30以上の集落を取り戻した。

 ロシア国防省は9月10日に、ウクライナ東部ハリコフ地方の2つの地域から部隊を撤退させると発表した。ウクライナの第2の都市ハリコフの南側に、ウクライナ軍が侵攻した数日後に発表された。2月24日にロシア・ウクライナ戦争が始まった当初、首都キエフを侵略するロシア軍を阻止して以来、ウクライナ軍に最大の戦果となった。ロシア国防省は、バラクリヤとイジウム地域から東部のドネツク地区へ部隊を撤退させて再編成すると述べた。

 ロシア国防省は、ドンバス解放のための特別軍事作戦の目標を達成するための撤退とした。ドンバスは、ロシア軍が主権を宣言している西のドネツク州と東のルガンスクの2つの分離主義がある東部地域である。ドネツクに集中するための撤退という主張は、ロシアが今年初め、首都キエフ地域から軍を撤退させた正当化と類似した。9月9日に、ウクライナ軍は、ハリコフ地方のイジウム周辺の供給源を断った。イジムへの主要供給ルート沿のクピアンスクを奪還した。イジウムから北に73kmの鉄道の拠点クピエンスクを占領した。東部の突破口により約2,500平方kmを奪還した。

 イジウム当局は、住民をロシア軍から避難させ始めた。ウクライナ東部での戦闘は、南部のヘルソン周辺での攻防が続く中で発生した。東部からロシア軍兵士が南部に連行されて、ウクライナ軍が弱体化した東部前線を攻撃した。東部のロシア軍は補給線を断ったために、物資も食料も欠如した。











Warning: Ukrainian police work during the exhumation of unidentified bodies of people killed by the Russian troops in the village of Grakovo freed by the Ukrainian army two days ago in the Kharkiv region, Ukraine, Friday, Sept. 9, 2022. (AP Photo/Andrii Marienko)

2022年9月17日土曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。




2022年9月16日金曜日

1936年4月28日に白人暴徒は黒人ショーを独房から引きずり出し、白人女性を強姦したコルベールで、裁判を受ける4月28日の約8時間前にリンチで殺害され、白人暴徒はショウを木に吊るし、何度も何度も銃で撃った。

木に縛られたアメリカ黒人のリント・ショウ(Lint Shaw)の弾丸だらけの死体があり、首を締めたロープも見える。少なくとも12人の白人男性が、リンチしたショウの死体のそばでポーズをとり、カメラを見つめている。1936年4月10日、42歳の黒人農夫であったショウは、コルベールの道路沿いで18歳の白人女性オラ・フランクリンを強姦で襲ったと告発された。4月28日に白人暴徒がジョージア州ロイストンにある刑務所を襲撃し、ミルショール・クリーク近くの並木道の小川床に、ショウ引きずって殺害した。

 保安官は黒人ショウを逮捕した4月10日に、ジョージア州ダニエルズビルのマディソン郡拘置所に収監した。ショーが刑務所に入って間もなく、約150人の白人暴徒がバールやハンマーを振り回して刑務所に押し入ろうとした。マディソン郡の保安官T・L・ヘンリーは、暴徒を鎮圧できず、ベリー・T・モズレー判事を呼び寄せた。モズレーは、ダニエルズビルにショウを護送する州兵を呼び寄せた。マディソン郡の刑務所への護送中にショーは発砲されて傷を負って、アトランタのグレーディ・メモリアル病院に護送された。

 ショウは病院の療養後から4月27日にマディソン郡の刑務所に連れ戻された。怒った白人暴徒に遭遇した。保安官のヘンリーは、ショウを小さな監獄に移したが、白人暴徒に見つかった。4月28日真夜中ごろ、白人暴徒は黒人ショーを独房から引きずり出し、白人女性を強姦したとするコルベール地域まで約32kmを強制連行した。ショウは裁判を受ける4月28日の約8時間前にリンチで殺害された。白人暴徒はショウを木に吊るし、何度も何度も銃で撃った。ショウの死体はその日の朝、地元の農夫によって発見された。現場には目撃者がいなかったと裁判所文書に記録された。ショウの死体は、家族が怖がって引き取らず、郡に引き渡された。

 1882年から1968年の間に、アメリカでは約4,000件以上のリンチが行われた。NAACPによると、約531人がジョージア州で殺害され、全米で2番目に多い犠牲者であった。ミシシッピ州は約581人で最も多く、テキサス州は約493人で3番目であった。最も多い犯罪は、白人への暴行や殺害、白人女性に対する性犯罪だった。しかし、リンチの約半数は軽微な犯罪、あるいは全くない犯罪であった。人種的恐怖の時代、黒人男性に対する暴行未遂の告発は、単に白人女性を見た、偶然にぶつかった、微笑んだ、ウインクした、近づきすぎた、間違った場所に白人女性と二人きりになったなど軽微な理由でも執行された。南部社会には深い人種的敵意があり、黒人に対する告発、特に白人女性や少女による黒人男性に対する告発は、警察、マスコミ、暴徒によってリンチが頻発していた。



2022年9月15日木曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、戦傷した瀕死のアメリカ軍兵士は、1944年9月16日に担架で運れる間に、仲間の水筒から水を飲まされ水分を補給した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、戦傷した瀕死のアメリカ軍兵士は、1944年9月16日に担架で運れる間に、仲間の水筒から水を飲まされ水分を補給した。ペリリュー島の気温は約40度も超えて、洞窟に囲まれた要塞を攻撃した間に、多くのアメリカ軍兵士は熱中症でも倒れた。灼熱の中、死臭、火薬臭、湿地臭が鼻孔を包むような厳しい戦場であった。

 ペリリュー島の戦いは、1944年9月15日から11月27日まで続いた大惨事となった。約27,000人のアメリカ軍兵士と約11,000人の日本軍兵士が参戦した。アメリカ軍もひどい犠牲を強いられて、死者約1,039人、戦傷者約5,142人、行方不明者約73人に及んだ。アメリカ軍と日本軍の死者の比率は1対10でああり、約10,937人の日本軍兵士が死亡し、約2,500人が捕虜となった。

 ペリリュー島の上陸作戦はアメリカ軍には予想以上の犠牲を伴った。上陸したアメリカ軍は日本軍兵士約1万人によって防御され尾根に沿って連動した洞窟を攻撃して掃討した。日本軍が全滅するまでに、アメリカ軍はその過程で恐ろしいほどの犠牲を払った。日本軍はペリリュー島で砲撃に耐える3種類の洞窟を掘っていた。1)天然の石灰岩の洞窟、2)人工の洞窟、3)改良された天然の洞窟である。日本軍兵士たちは約100日間は生き延びるのに十分な物資を持った。水は洞窟からの滲出水で、鍾乳石から糸を垂らした水を樽に集めた。石灰岩は比較的軟らかく、掘りやすく、洞窟の多くは複数の入口があり、トンネルでつながった。

 アメリカ軍は主に大砲と火炎放射器を使ってペリリュー島の約500の要塞化された洞窟に攻め込んだ。大砲はしばしば洞窟を直撃したが、大砲は険しい地形では定位置に移動するのが困難であった。戦車に搭載された火炎放射器は、約137mにも及ぶ化学薬品を噴射した。砲弾よりも効果的で、日本軍兵士が潜む隅々まで火炎を行き渡せた。傾斜のある洞窟には、油やガソリンを流し込んで、一番低いところに配置されるた日本軍兵士は、ガソリンやオイルに火がつくと、焼け殺された。日本軍兵士はガスマスクをつけるも、洞窟から脱出して、機銃掃射で射殺された。要塞化された洞窟に残った日本軍兵士の排除は、死傷者、時間、資源の面で大きな犠牲を伴った。




2022年9月14日水曜日

文化大革命の犠牲者の巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、大勢の観衆が待つ公開刑場に連行され銃殺された。

黒竜江省の省都ハルビンの工場技術者だった巫炳源が166845日に処刑された。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを印刷して配布したのが、毛沢東の反ソ連路線への批判されて命を奪われた。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられて、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける公開刑場に連行されて、銃殺された。死刑宣告を受けた巫炳源は、空を見上げて、この世はあまりに暗すぎる、と大声で叫び眼を閉じて、処刑されるまでその眼は閉じられたままだった。銃殺で合計8(7人の男性と1人の女性)が射殺され、そのうち巫炳源と永增蒙の2人がハルビン電気計器工場の技術者で、謄写印刷されたタブロイド紙「北へ」を配布したことで「反革命グループの主要犯罪者」としてレッテルを貼られて銃殺された。

 文化大革命が始まった1966年の春に、大連生まれの李振盛は23歳となり、ハルビンの共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった。上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。李振盛は、文化大革命により196845日の銃殺刑を撮影した。暴走する文化大革命に疑問を抱き始めた。公表されない現実を密かに現像して自宅の床下に秘蔵した。文化大革命を真に記録した約20,000枚のネガは、保存された。

 1966516日に党中央政治局拡大会議は五一六通知(中国共産党中央委員会通知)で文化大革命を指示した。1966818日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1,300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。




2022年9月13日火曜日

日本軍の福栄真平中将は、シンガポールのセララン兵営事件で、死刑判決を受けて1946年4月27日に2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵士を銃殺したチャンギーの場所にて、銃殺刑が執行された。

太平洋戦争の終戦後に、日本軍の福栄真平(Shimpei Fuyei)中将は、シンガポールのセララン兵営事件で戦犯容疑により逮捕された。福栄真平は死刑判決を受けて、1946年4月27日にかつてチャンギー(Changi)捕虜収容所で、2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵士を銃殺したチャンギーの場所に連行された。4月27日に福栄真平は天皇陛下万歳を叫んだ後に、銃殺刑が執行された。

 セララン兵営事件は、1942年9月2日にシンガポールのチャンギーの捕虜収容所である馬来俘虜収容所で、捕虜の脱走の再発防止のため、先に脱走して再収容した4人の連合軍捕虜を見せしめに銃殺した。馬来俘虜収容所の所長は、福栄真平であった。ベティン・クサの防空訓練所に近い海岸で、5月12日に収容所から脱走しようとした2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵を、9月2日お昼過ぎに銃殺した。軍事裁判もなく問答無用で、4人は目隠しをされないままに、インド人銃殺対4人が手や腹を撃ってから止めを刺した。 

 第二次世界大戦中の1942年2月に、日本軍がシンガポールー占領すると、日本軍は約3000人の民間人を、わずか600人収容のチャンギ刑務所に収容した。1942年9月初旬に、その刑務所近くにあったイギリス軍のセララン兵舎を、馬来俘虜収容所として捕虜約15,000人を、収容人員900人弱のセララン兵営に強制送還して虐待と虐殺した。その後に、イギリス軍とオーストラリア軍を中心とする連合国の捕虜50,000人強を収容する捕虜収容所として使用され。ジュネーブ協定違反である捕虜全員に脱走しない旨の誓約書への署名を強要した。イギリス軍のシンガポール裁判で、1946年2月22日から28日にかけて、ヴィクトリア記念館で裁判が行われた。1946年2月28日に福栄真平は有罪で、銃殺刑の判決が下った。4月27日に福栄真平は天皇陛下万歳を叫んだ後に、銃殺刑が執行された。




2022年9月12日月曜日

ベルゲン=ベルゼン強制収容所で、イギリス軍部隊が強制収容所を解放後に、ナチス・ドイツ軍親衛隊将校らに囚人の死体を集団墓地に埋葬するトラックに積ませて運ばせた。

1945年4月15日に、ドイツ・ニーダーザクセン州チェレ近郊のベルゲン=ベルゼン強制収容所で、イギリス軍の部隊が強制収容所を解放後に、ナチス・ドイツ軍親衛隊の将校らに囚人の死体を集団墓地に埋葬するためにトラックに積ませて運ばせた。強制収容所を運営していたのはナチス・ドイツ軍の親衛隊員であった。ドイツ軍兵士は、囚人を獣として扱っ、人間が文明の階段を落下するのは、ユーモラスだった。彼らは自分の仕事を愛し、自分たちが見た囚人苦しみをほくそ笑んでいた。強制収容所のドイツ人女性陣は、石のような顔をして、硬くて、タフな女性たちであった。時には、親衛隊の男たちよりも悪質で極悪非道なこともあり、地獄の花嫁と命名した。

 1945年5月18日付のチャーチ・タイムズに、従軍牧師であるT・J・ストレッチが語った。約6万人の囚人が、別の敷地の小屋に集まった。各小屋には約500人から1,000人ほどが住み込み、3段の寝台に身を寄せ、寝台のない者は床に寝転んだ。小屋は、わずか長さ約30m、幅や区10m、高さ約3m程度に密集した。

 イギリス軍が解放する前に、3月の1カ月間で1万7000人が死亡した。到着する3週間、囚人には食料が支給されず、1週間は水もなかった。強制収容所内を回ると、約2000体以上の死体が横たわった。杭の一番下に約100人も集団埋葬した。毎朝、約200~300人の死体が建物から運ばれて、外地に安置され回収された。

 約500人以上の囚人は、小屋で地面に横たわった。約400人が、もう二度と立ち上がれず、死んだ。収容所には衛生設備がない。各小屋の便所は、ずっと前に機能停止した。不潔な生活環境、飢餓で、骸骨になった。身体も心も壊されて、何も感じず、何も考えず、物言わぬ動物のようである。横たわって眠ると、二度と起き上がれず、墓に運ばれた。集団墓地には、殺害され、飢えや伝染病で死んだ膨大な囚人の死体が横たわった。収容所の一角に、約500体ほどの死体が山積みになった。死体のそばに、何人もの囚人座り込み、死体が、日常生活の一部になった。




2022年9月11日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で2022年4月10日に、ウクライナの首都キーウ西約15kmのブゾワ村のガソリンスタンドの裏で、母親のリュドラはマンホールの中に、息子23歳のイエベニイと別の男性の死体があるのを目撃した。

ロシア・ウクライナ戦争にて2022年4月10日に、ウクライナの首都キーウの西約15km離れたブゾワ(Buzova)近郊にある破壊されたガソリンスタンドの裏で、母親のリュドミラ(Liudmila)は泣き崩れ、膝をつき、大地をかきむしった。母親がのぞき込んだマンホールの中に、23歳の母親の息子であるイエベニイ(Yevgueni)ともう一人別の男性の遺体があるのを目にした。「私の坊や」と、女性の悲痛な声が響いた。

 息子の死体は水に漬かっており、軍の寝袋の一部に覆われていた。しかし、特徴のある靴を見た母親は、息子と確信した。悲しみに打ちひしがれた母親は、マンホールの縁から動かなかった。その場から離れるよう促されても、「もう少しの間、息子を見せて、私はどこにも行かない」と拒み、涙を流した。マンホールで見つかった2人はウクライナ軍の予備役である国民防衛隊の隊員で、3月16日から行方不明になっていた。死因は不明だが、1人は頭部から出血していた。

 警察は、マンホールから水がくみ出されると、周囲に規制線を張り、警官1人がマンホール内部に入った。最初の死体は、細いロープがくくり付けられ10人がかりで引き揚げた。1人目の男性よりも体重が軽かった母親の息子の遺体は、9人の力で収容された。息子の遺体が地面に横たえられると、母親はロープの規制線をくぐって駆け寄った。「見せて、私は見たい」と懇願する母親を、男性4人が制止した。















2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

 長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。



2022年9月9日金曜日

第1次世界大戦のヴェルダンの戦いで、1917年8月後に多数のドイツ軍兵士が、致命的な欠陥があった全長約1kmのクロンプリンツ坑道の地下シェルターで死亡した。

第1次世界大戦のヴェルダンの戦いで、1917年8月後に多数のドイツ軍兵士が、クロンプリンツ坑道内で死亡した。第一次世界大戦中の1917年の死者の戦い(Mort Homme)でドイツ軍の避難所となった全長約1kmの地下シェルターである。1917年8月17日には北口が被弾して、18日には砲弾で約100人のドイツ軍兵士が戦死した。8月19日に砲弾が直撃し、一酸化炭素で多くの兵士が死亡した。8月20日に約600人のドイツ軍兵士が降伏した。

  1917年半ばまでに、ベルダンにおけるドイツ軍の陣地は、右岸に5つの防衛線、左岸に3つの防衛線であるモルト・ホムの3つの坑道で構成された。3つの坑道には、クロンプリンツ坑道、ビスマルク坑道、ガルヴィッツ坑道があった。防衛線に広範な鉄道網が敷かれ、約130砲台、爆撃機、戦闘機、索敵機、偵察機、通信機の約20航空護衛隊で支援された。歩兵は、右岸に4個歩兵師団、左岸に3個歩兵師団が在留した。

 ドイツ軍の坑道は、フランス軍が上空からの観測と捕虜の尋問によって察知された。坑道は、激しい戦闘が休止した1916年夏から、ドイツ第7軍が前線と後方を安全に結ぶ3つの地下通路の坑道の掘削を開始した。工事は約9ヶ月かかけて、多くは鉱山労働者の開拓兵と歩兵が担当して、1917年5月に3つの坑道の開通式が挙行された。

 クロンプリンツ坑道は、モート・ホム北側斜面の谷から、丘陵の斜面を貫いて、中間線の深い塹壕からシュレジエ・グラベンに通じた。ドイツ軍の捕虜の報告から、フランス軍は坑道が、長さ約1000m弱、幅2~4m、高さ約2mと認知した。石灰岩を掘るのに、ジャックハンマーや空気圧のドリルを使って、1日に約7mほど侵食した。当初は掘削くずを入口近くに捨てながら、覆いをした。坑道が侵食してレールが敷かれ、掘削くずは馬車に積まれた。坑道の北端と南端の正面出入口、12個の側面出入口、急峻な階段で連隊指揮所、救護所、ベッド部屋に出入りした。機械室には、4馬力のモーター、コンプレッサー、パワーユニット、発電機があり、ドリルの電源と作業場の照明に使用された。動力装置はガソリンエンジンと照明用ダイナモで構成され、トンネルの照明に活用された。北端の短い支坑道に厨房があり、南端の湧水は機械室と鉱泉場に供給された。出口はすべてガスドア、内部にバリケードがあり、攻撃からトンネルを守れた。幹部は土木工学の最高傑作と評したが、他の人々は難色を示した。

 1917年5月に、坑道を日常的に使用した予備歩兵35連隊長は、致命的な設計上の欠陥があり、坑道の弱体化の不満を口にした。特に厨房トンネルが分岐する一番広い部分の木材が不十分である。中央部の屋根が弱い、入口の補強が必要なこと、厨房トンネルに独立した避難路がないことを酷評した。坑道は素人臭い作りであると不満であった。連隊長は宿舎があれば喜ぶと叱責して、彼のドイツ軍兵士に悲惨な犠牲を招く坑道の報告は却下され無視された。




2022年9月8日木曜日

ソ連の東南シベリアのイルクーツク州に、膨大な日本人捕虜の集団墓地が散在して、イルクーツク市には埋葬地で集団墓地でもあったマラトボ墓地が2003年に撤去された。

ソ連の東南シベリア地域のイルクーツクに、膨大な日本人捕虜の集団墓地が散在していた。イルクーツク州には日本人埋葬地には、約280箇所の墓標が散在した。イルクーツクは、バイカル湖近隣の東南シベリアの中心都市で、イルクーツク市には埋葬地で集団墓地でもあったマラトボ墓地が2003年に撤去された。訪ロの日本人が必ず参拝する墓地でもあった。

 第二次世界大戦に、ソ連軍の参戦により降伏した終戦後に、膨大な日本軍捕虜がシベリア等の荒野に強制連行と強制収容されて、厚生労働省の約55,000人からロシア研究者の約9万人と推定された。満州の荒野を含めれば、約30万人もの日本人が死亡した。シベリアには、約60万人もの日本軍捕虜が抑留されていた。ドイツでは、特に約350万人ものドイツ人がソ連に抑留されて、約110万人が死亡したと推定された。日本人のシベリヤ抑留では、厳しい極寒、過酷な労働、食料と水不足、飢餓や病気、劣悪な環境に追い込まれた。強制労働は、土木工事約43%、鉄道工事約30%、採炭鉱約14%、生産工業約11%の重労働であった。捕虜収容所の体格検査で、尻の肉を引っ張り、皮下脂肪の厚みで等級を決めて作業と食事が措置された。

 シベリア捕虜収容所では、日本人の主食は黒パンが1日約350g以下で、慢性的で過酷な飢餓状態に陥った。あらゆる強制作業に従事させられ、過酷なノルマを課せられた。毎日開かれる集会で、民主化運動により日本人捕虜は共産主義の思想教育により洗脳された。天皇制の批判とインターの合唱を繰り返した。

 抑留開始から1946年12月19日に日本人引き揚に関する米ソ協定が締結され、少人数ずつの引き揚げが開始された。日本に最後の引き上げ船で約1,025人が乗船した興安丸が1956年12月26日に帰還して、最大で約11年間も抑留され、引揚者総数は約47万3,000人に及んだ。独ソ戦から、日本が降伏するまで(1941年6月~1945年9月)に、ソ連内に抑留され、強制労働に従事した捕虜は、約24カ国、総数約417万人にも及んだ。その内訳はドイツ人が約2,389,560人、日本人が639,635人、ハンガリー人が513,767人にも及んた。1991年4月16日にゴルバチョフ大統領が訪日の際に、約3万7,800人の日本人死亡者リストを持参し、ソ連抑留の犠牲となった抑留者や家族に哀悼の意を示した。




2022年9月7日水曜日

ドイツ軍の戦車の8.8mm徹甲弾が、ソビエト軍のSU152戦車の砲塔を全面から貫通した。ソ連軍のSU152搭乗員は、砲台に閉じ込められ炎上して黒焦げの焼死体になり、悲惨な最期を遂げた。

第二世界大戦の東部戦線にて、1944年11月にネウェル地区でソ連軍は、ドイツ軍のティーガーに対抗する新型の突撃砲を搭載したSU122とSU152を出撃した。ドイツ軍の回転砲塔付きのティガーは、ソ連軍のSU152の固定式戦闘室よりも、起動射撃能力と発射速度が勝っていた。11月10日にドイツ軍の戦車大隊は、ネウェルで逆襲してソ連軍戦車の侵攻を遮断した。ドイツ軍の戦車の8.8mm徹甲弾が、ソビエト軍のSU152戦車の砲塔を全面から貫通した。ソ連軍のSU152搭乗員は、砲台に閉じ込められ炎上して黒焦げの焼死体になり、悲惨な最期を遂げた。破壊されたソ連軍のSU152戦車の戦闘室内には、乗務員の焼死体が散乱していた。ソ連軍の歩兵らは、戦車内は鉄の棺桶になることを知り、装甲車の乗務員を羨ましくなかった。

 1944年7月22日に、オットー・カリウス少尉が、レニングラード近郊のムガー周辺でドイツ軍のティーガー戦車で参戦した。その後11月4日には、ロヴェツとネウェル間で防衛戦に参戦した。広大な平野上でゆるい登りの稜線上に、ソ連軍の約12両のT34型戦車隊に遭遇した。ティーガーから発射した砲弾は、T34戦車の砲塔と車体を貫いた。黒煙を吹き出しながら側溝に転落して大破した。その他のT34戦車も撃破して、約10両の燃える戦車の車列ができた。ソ連軍の約2両のT34戦車が稜線上を遁走した。その2日後にも、約5両のT34戦車を、3両はティーガーの戦車と2両は高射砲で撃破して、黒炎が立ち登った。

 11月23日には、ドイツ軍の戦車が、木橋を渡河の途上で、砲身が上方に、戦車は後方からひっくり返って川床へ転落した。砲手は巻き込まれて瀕死の重症を負った。12月2日にゴルシュカで、ソ連軍の対戦車砲、迫撃砲、対戦車銃の猛攻撃を受けて、ドイツ軍は撤退をした。12月16日には、ソ連軍は爆撃機の大編隊と大量洗車軍によりドイツ軍を総攻撃した。12月27日には、残留したドイツ軍は次々にレニングラード行き命令されて、ソ連軍は最後の大攻勢を準備していた。




2022年9月6日火曜日

1956年のハンガリー動乱下でハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士を、ソ連のレーニンの肖像を握らせて、喉奥に金属棒を突き刺して虐殺した。

1956年にハンガリー動乱が勃発して、ハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士が虐殺された。レーニンの肖像を握らせ、喉に金属棒を突き刺した。1956年にハンガリーの首都プタペストの通りには、武装したハンガリー民族主義者が警戒していた。ソビエト軍がハンガリーの暴動を鎮圧すると、数千人のハンガリー人が強制収容所であるグラーグに送還された。

 1956年10月23日にハンガリーで暴動が勃発した直後は、ハンガリー民族主義者は、塹壕やトンネルを偽装して防御した。海外に亡命したハンガリー人からの支援を受けた。武器、無線、冊子、資金などの支援を受けた。ソビエトの行政官や民警であるミリツィアなどもテロ攻撃して、ソビエト軍の治安軍に抵抗した。ハンガリー民族主義者等は、装甲兵員輸送車やー機関銃によって、秘密警察官や共産党役員を殺害した。11月4日には新たにソ連軍は戦車約2500両と約15万人のソ連軍兵士で侵攻した。ソ連は膨大な軍隊と戦車で圧倒して直ちに鎮圧した。

 スターリン時代にはロシア国外で、ソビエト国家保安委員会(KGB:Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)におけるスパイ情報機関がスターリン個人の意向で、暗殺などの特殊工作をした。スターリンが1953年3月5日に死去して、フルシチョフ政権下では、共産党中央委員会の合意に見せかけた。1961年にKGBスパイのスタシンスキーがアメリカに亡命して、KGBがフルシチョフ政権下での暗殺を暴露して、国際的非難が殺到した。ソビエト連邦内務省(MVD)が、KGBの悪行を調査して過程で、関係者の家族がKGBに虐待を受けて、調査途上で頓挫した。1991年12月3日、KGBは正式に解散され、その後ロシアでは対外情報局(SVR)と1995年に連邦保安局(FSB)に引き継がれた。

 プーチンはレニングラード大学を卒業して、旧ソ連国家保安委員会(KGB)工作員となり、旧東ドイツ・ドレスデンに駐在した。ベルリンの壁崩壊後に帰国し、サンクトペテルブルク副市長などを経て、1996年に首都モスクワに移り、大統領府副長官、FSB長官、首相などを務めた。大統領代行を経て、2000年3月の大統領選挙で当選して、1期4年の任期を2期務めた。その後に首相を務め、2012年に再出馬して当選した。現在は1期6年の任期の2期目で、ロシア・ウクライナ戦争下で、憲法改正で2024年の任期切れ以降も出馬は有効となった。




2022年9月5日月曜日

フィリピンのマルコス政権の戒厳令下で、4人のイロカノ農民はカパロン地区農場で1978年10月21日に、5人のフィリピン軍兵士により発砲され全員が殺害された。

フィリピンのカパロン地区マニキの4人のイロカノ農民は、カパロン地区カリアンのフェルナンド・カナルの農場で、4日間の収穫を終え、1978年10月21日に自転車で帰宅した。5人のフィリピン軍兵士が、カリアンの結婚式に出席後に、酒に酔って青いフォード・フィエラに乗った。兵士たちは何の前触れもなく、4人の農民に向かって発砲した。目撃者は、4人の農民が負傷し、自転車と一緒にフィエラに積み込まれるのを見た。彼らは手傷を負ったものの、まだ生きていた。翌日、セラフィノ・マラケ(32歳)、ビルジリオ・フェルナンド(29歳)、レスティ・トゥート・バリクアト(25歳)、ロドルフォ・バリ(20歳)の死体が 本部から親族が引き取った。殺害に関与した兵士は、ホルヘ・プヘダ、ノルベルト・ビラール、ヒレヒト・フォルニヨス、ビルジリオ・キコイ、ハイメ・ソノリアであった。11月8日、調査官は犯人の4人を無罪とした後に、ブロサン大佐が2人の兵士のキャンプ制限と武装解除を命じた。

 フィリピンのイロコスノルテでは、ビンタール、ドゥマルネグ、ソルソナ、マルコス、ピディグの町の様々な農民が人権侵害を受けた。マルコス戒厳令の発令によって、マルコス政権は、特に独裁政権と戦った政敵である学生活動家、ジャーナリスト、宗教者、農民、その他を標的とした人権侵害が勃発した。る。アムネスティ・インターナショナルは、フィリピンの抑留者、および人権監視団体の文書に基づき、マルコス独裁政権は約3,257人に超法規的殺人をした。約35,000人に対して拷問、約77人の失踪、および約70,000人の監禁によって人権侵害が挙行された。約3,257人の殺害された被害者のうち約2,520人は、彼らの死体が一般大衆に印象づけるように様々な場所に捨てられて。身体切除さた。一般大衆の間に恐怖心を植え付ける戦略であり、引き揚げ(salvaging)と呼称された。

 フィリピン大統領フェルディナンド・E・マルコスの戒厳令は1972年9月23日にテレビを通じて宣言された。マルコスの統治が憲法の2期制限を超えて延長されると発表した。政令によって支配し、報道の自由と他の市民の自由をほとんど消滅させて、議会とメディア施設を閉鎖し、反対派の指導者と過激派の活動家の逮捕を命じた。戒厳令は14年間も継続して、独裁者マルコスが追放されるまで、1981年1月17日に正式に解除された。1935年憲法で許可された2つの大統領任期を超えて任期を延長するために戒厳令を使用した。 

 マルコス独裁時代には、フィリピン軍(AFP)が全域で様々な人権侵害が行った。定期的に人権侵害を行ったのは、フィリピン軍情報局(ISAFP)、MISG(Metrocom Intelligence and Security Group)、そして第5治安部隊(5CSU)であった。5CSUとMISGは、マルコスの遠縁が率いるフィリピン警察(PC)の一部であった。人権侵害の他に、部隊は、メディア団体、企業経営者、野党グループを脅迫、威嚇、暴力で追い回した。民間家庭防衛隊(CHDF)と呼称された非正規の準軍事部隊は、州知事や市町村長によって監督され、配備されて、様々な悪名高い人権侵害を行った。