2021年12月12日日曜日

クメール・ルージュの共産党軍が迫り、首都プノンペンは激しい砲撃を受けて、直撃された民間人の死体が横たわり市場に散乱した。

カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。

 クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。

 クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。

 カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾から放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッドに座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っている姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。






2021年12月10日金曜日

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(GFP)は、クロアチアの山中でパルチザンを虐殺した。その他にユダヤ人、任意の容疑者も虐殺した。

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)は、クロアチアのパルチザンを虐殺した。GFPは東ヨーロッパとバルカン半島の全域でパルチザン、ユダヤ人、任意の容疑者を対象とした虐殺行為を絶え間なく激化させて抑制が効かなくなった。反パルチザン部隊として、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppe)と協力して、ソ連のレジスタンスの容疑で捕虜になった戦闘員や民間人を死刑や拷問した。GFPは協力者の助けを借りて、家や村全体を組織的に焼き払った。GFPは、赤軍に解放される前に囚人を略式で処刑した。1943年に親衛隊と警察のGFP報告書には、東部戦線で約2万1,000人が一部は戦闘中に、多くは尋問後に射殺されたと記された。キエフ近郊のベラヤ・ツェルコフという町で、GFPは子供たちを殺す決定を第6軍の司令部に要望して、後に子供たちは銃殺された。1941年の夏から秋にかけては、ウクライナのジトミル地域でナチス親衛隊とドイツ国防軍からなる治安部隊による掃討作戦に、GFPは参戦した。GFP部隊の報告書では、東部戦線だけで約21,000人が実戦中に殺害あるいは尋問の後に銃殺されたと記録された。

 秘密野戦警察(GFP)は、第二次世界大戦に向けてドイツ国防軍により設立された軍事秘密警察組織である。この部隊はスパイ対策、破壊工作、サボタージュ摘発、対プロパガンダ、軍事施設保護、軍法会議の捜査などといったドツ国防軍への情報提供や占領地及び戦地の警備任務を行うために1939年7月27日に編成された。GFPの要員は防諜警察 (Abwehrpolizei)とも呼ばれ、国防軍の防諜部の執行部隊として、占領下で対レジスタンス、パルチザン活動を取締った。共産党員の政治的粛清とロシア人の劣等民族絶滅(ホロコースト)」を執行した。ドイツ軍の占領地域で住民を監督して、放浪する老人や女性、子供を無差別に敵の容疑者として、憲兵やSDに引き渡された。歩き回って捕らえられ脱走した者は即決で銃殺された。GFP部隊は家や村々を焼き払う作戦も実施した。GFPは拷問や処刑から虐待と虐殺などの戦争犯罪を行った。1943年半ば以降に、GFPはすべてのドイツ軍の脱走兵やソ連軍から脱出した捕虜を追跡して処刑を命じられた。

 GFPの事件は、1948年になって追試で扱われた。ニュルンベルク裁判が始まった1945年11月には、扱うにはあまりにも複雑な内容であった。連合軍検察側はSS、ゲシュタポ、SDを直ちに戦争犯罪の事実を集めたが、GFPの幹部は国際軍事法廷で起訴されなかった。逆に冷戦が始まると、多くの諜報機関が、スパイ活動や破壊工作を実行できるナチスGFP専門家を再雇用した。 


ドイツ秘密野戦警察がクロアチアでパルチザンを虐殺した。



ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)


2021年12月9日木曜日

レイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。

太平洋戦争のフィリピンのレイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。その死体は粉々になり、地面に激突して崩壊した無残な戦闘機の機体の周辺に散乱した。日本軍の高千穂空挺隊の一部は、ほとんど生還の見込みが薄いタクロバン飛行場への独力による攻撃も追加された。当初は、近隣に日本軍が潜伏するブラウエン飛行場のみの戦略であった。タグロバン飛行場を攻撃した戦闘機はほとんど撃墜されて、全員が全滅してマニラに生還できなかった。

 タクロバン飛行場に対する日本軍の挺進部隊の攻撃は、対空砲火によって輸送機が撃墜されて全員が戦死した。タクロバン飛行場では、日本軍との合流ももなく、全くの片道の自滅する攻撃になった。タクロバン飛行場に向かう日本軍の着陸部隊は独力でアメリカ軍の飛行場と滑走路ならびに軍事資材の破壊を命令された。日本軍の空挺隊がアメリカ軍のまっただ中に強行着陸あるいは落下傘で降下した。重爆撃機の約2機の約13人が強行着陸して、輸送機の2機の約13人がパラシュート降下を命じられた。1944年12月6日15時40分にルソン島のアンレレス南・西飛行場から離陸した。アメリカ軍の飛行場を一時的にでも制圧して、多数の日本軍の輸送船団を間接的に防護することが目的であった。

 1944年12月7日にアメリカ軍の大軍が、すでにレイテ島のオルモック湾南方イピールに上陸していた。日本軍幹部は、12月12日にはブラウエン作戦を中止を決定していた。ブラウエン飛行場まで約10kmまで接近した日本軍に撤退が命令された。ブラウエン作戦に参戦した日本軍の高千穂空挺隊は孤立して見殺しにされた犠牲は、アメリカ軍にほとんど無駄となり奏功もなく終滅した。ブラウエン飛行場等を制圧する意義も消失して、イピール方面の防御に転換した。制空権と制海権を失ったレイテ島の日本軍兵士には、食糧がほとんど届かず、深刻な飢餓に襲われた日本軍兵士は、密林で病死あるいは餓死した。レイテ島の戦いにて悲劇の日本軍兵士は、アメリカ軍に殺害された戦死者数よりも、病死あるいは餓死者の数が上回った。1944年10月20日からのレイテ島の戦いで、日本軍兵士は約79,261人が死亡した。アメリカ軍は、戦死が約3,504人、戦傷は約11,991人を伴った。



2021年12月8日水曜日

ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪したドイツ軍兵士が殺害された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪した。その戦利品を持って退却中のドイツ軍兵士が殺害された。手前のドイツ軍兵士の死体の側には、戦利品は明らかにストーブとなるガスボンベがあった。1941-1942年の重要な冬に起きたロシア軍による大攻勢による生々しく悲惨なドイツ軍兵士の虐殺となった。

 飢餓計画は、第二次世界大戦中にソ連から食料等を奪い、ドイツ軍兵士や民間人に与えた。1941年のソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦の後に、何百万人ものスラブ人を飢餓で大量虐殺することを意図した。ドイツでは食料の自給率が低く、戦争を継続してドイツ国内の士気を維持するために、征服地からの食料等が必要であった。政策的に飢餓を発生させ、数百万人を殺害した。ドイツ国防軍の侵攻に備えて、ウクライナの食料品をロシア中北部から、ドイツ侵攻軍やドイツ国内の住民の手に渡るようにした。ソビエト連邦のドイツ占領地域で何百万人もの市民の死を引き起こした。ドイツ軍は、特に肥沃なウクライナの穀倉地帯から穀物の在庫を大量に略奪して、ソビエトから切り離して重篤な飢餓につながった。人種的に劣ると見なす人々からの土地や食料の略奪を正当化した。

 略奪の目的は、兵士が優れた敵の装備を狙った。東部戦線の極端な低温にも耐えられず、厳寒の地では、銃のオイルが凍って使用できない問題が多発した。東部戦線では、コートや毛皮の帽子、ブーツなどの防寒具も略奪した。最高の装備を持っている側は、敵がそれを狙った。東部戦線での激しい戦闘と深刻な物資不足のため、双方ともに略奪が増えた。兵士たちは、相手側の食料や煙草の供給状況をすぐに把握して略奪をした。戦争末期には、略奪が生き残りをかけた復讐行為にもなり得た。

 第二次世界大戦が、多くの兵士にとって常識を大きく覆した。平和時には他人に銃を撃つことなど考えない市民が、戦時には銃を撃って他人を殺す。人生で一度も物を盗んだことのない市民が、カラスらのように盗む。戦時中にては、規範が全く違い、ある種の価値観や行動は通用しない。兵士は他人を殺すために訓練される軍事システムは、民間市民とは全く異なり、戦時中に最も顕著となる。民間市民に対する多くの虐待や、捕虜の処刑などその他も、規範の完全な戦争犯罪を証明している。





2021年12月7日火曜日

第二次世界大戦にロシアで3年間も焦土作戦が繰り広げられ、餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間の全滅など約700万人の犠牲者が出た。

第二次世界大戦の東部戦線では、ロシアは何年も焦土作戦が繰り広げられた。餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間での全滅など、約700万人の犠牲者が出たのである。独ソ戦直後の焦土命令に示されたロシア国民の居住地では、民間ロシア人はロシア軍による焦土作戦に無差別に巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍にロシアの国土と資源を明け渡さない至上目標を掲げた。

 1941年6月22日から勃発した独ソ戦にて、赤軍は撤退にあたり敵軍に利用価値を壊した。ドイツ軍も同様に撤退にあたり敵軍の利用価値を壊した。スターリンはナチス・ドイツ軍がロシアの資源を利用を防ぐため、構造上に疎開できない全ての経済的施設を破壊することを1941年7月3日に命じた。破壊命令の対象とされたのは、大部分が輸送機関と電力の施設だった。余剰した機関車は徹底的に破壊され、多くの修理工場は爆破された。ドニエプル河の水力発電所は水門が開放され、労働者たちが水力タービンや発電機を破壊した。

 ロシア本土の各地で破壊活動が行われたが、特に白ロシアやウクライナ西部ではドイツ軍の迅速な占領により、破壊する時間さえ残っていなかった。ロシアの焦土作戦はある程度まで奏功して、ナチス・ドイツ軍は独ソ戦の開戦前の推定が大きく変更した。クロム、ニッケル、石油などのソ連邦の原料資源は、ドイツの軍需生産に不可欠であり、押収した工場設備や労働者はドイツ国内の労働力不足を解決する予定であった。広大なロシアの領土を侵略するドイツ軍の兵站支援に、機関車と貨車が拘束されて、奪取した資源や工場設備の運搬は後回しにされた。しかし、スターリンの破壊命令はここまでに留まらなかった。赤軍の将兵に対してはモスクワ、レニングラード、ウクライナのキエフといった大都市の死守を厳命した。一方、都市が陥落した際には、ナチス・ドイツ軍に最大限の損害を与えるため、共産党地区委員会と内務人民委員部(NKVD)の特殊工作班に都市の爆破を準備させた。1941年11月17日、スターリンは指令第428号を発布して、以下の司令でロシア国土を焦土へと変えた。

 1. 最前線から奥行き約40~約60kmの距離、道路から左右約20~約30キロの距離に含まれるドイツ軍の後方地域にあるすべての居住地を破壊して、焼き払う、居住地は爆破して焼き払う、直ちに行動範囲内へ航空兵力を投入して、大砲、迫撃砲、偵察隊、スキー部隊、火炎瓶などを装備したパルチザンを広い範囲で焦土作戦に使用する。

 2. 居住地を爆破し焼き払うため、前線部隊の各連隊に約20~約30人からなる破壊工作の志願者隊を編成する。居住地の破壊に貢献した者を表彰した。




2021年12月6日月曜日

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤーは、1933年6月8日にナチスの親衛隊と突撃隊によって暗殺された。

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤー(Heinrich Kiepenheuer)は、1933年6月8日にデュッセルドルフの近郊で、ナチスの親衛隊(SS)と突撃隊(SA)によって暗殺された。その暗殺事件後に警察は、ライン川の橋の上で殺害された無残な死体を検証して写真を撮影した。鉄道員であったキーペンホイアーは、ナチスにとり違法なパンフレットである死(Die)を配布していた。キーペンホイアーは、SSとSAによる追撃からの逃走中に捕獲されて射殺された。

 ナチス・ドイツである国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP, ナチ党)がファシズム支配化する初期段階で、ナチスにとって邪魔者を暗殺した。ヒトラーがドイツ帝国首相に就任した1933年1月30日から、いわゆるレーム一揆が発生した1934年6月30日までのテロの犠牲者は、ナチス政権の権力の掌握と強化の開始点と終了点として研究されている。ナチスの初期段階で殺害された人々の総数は推定である。新聞報道の分析では、1933年1月31日から8月23日の間に約220人(ナチス反対派約196人、国家社会主義者約24人)が殺害された。歴史学者は、1933年10月までに殺害された人数を約500~600人と推定された。伝記作家は、ナチス支配の初期に少なくとも約500から約600人が殺害されたと推定した。警察本部からプロイセン内務省への秘密の報告書では、1933年2月27日の国会議事堂放火事件から3月25日までの間に、ベルリンだけで約247人が殺害された。リストには、SAやSSなどの国家社会主義組織のメンバーや、秘密国家警察などの国家の弾圧機関によって殺害された明らかな人数のみが含まれている。具体的なテロ犠牲者約353人は、名前、少なくとも関連する個人的な調書が網羅されている。

  1933/1934年の権力掌握期における国家社会主義者のテロによる犠牲者が分類された。

1) 悲惨なテロ対象となった犠牲者 

 共産主義者、社会民主主義者、ユダヤ人など排除者に属して、恣意的にSAや他の国家社会主義部門によって殺害された。公道や自宅、SAの地下室、ストームルーム、宿舎などで虐待と虐殺での死亡者、逮捕後に刑務所や強制収容所で殺害された者、さらに逃走中に逮捕されたキーペンホイアーも含む。

2) 裏切り者による犠牲者

ナチスの特定の有力者、孤立者は下級幹部から特に嫌われて、標的テロで殺害された。

3) 強制収容所や監獄で非業の死を遂げた犠牲者

強制収容所または刑務所の収容者は、看守らの野蛮な攻撃で、暴力による殺害、裁判所判決とは対照的に、非公式の殺害、上司からの命令、偽装されて意図的な殺害、(看守に殴り殺される、銃で撃たれる、首を吊らるなど)、看守による組織的または無慈悲な虐待と虐殺の結果として殺害された、過酷な労働条件の下で疲労困憊して倒れた心身の障害として死亡した。

4) 司法の場での殺人事件の被害者

1933年までのドイツの死刑制度にて、裁判所により不正に死刑判決が下された。1933年までドイツ帝国の刑事犯罪(殺人、強姦など)ではなく、政治犯罪(反対運動、腐敗など)で処刑された、問題のある法律や慣行に基づいて死刑判決を受け処刑された。







2021年12月5日日曜日

日清戦争にて平壌の戦いで、平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。

日清戦争において平壌の戦いが、1894年8月15日に勃発した。北朝鮮の平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。夕方頃に雨のために戦闘が中断されて、清国軍は平壌の高所を失って、約1日の戦闘だけで残った弾薬ではもう1日の戦闘を持続できなかった。食糧も尽きていることから、平壌の放棄を決定した。清国軍は、食料と弾薬が尽きて、わずか1日で平壌を捨てて午後9時から敗走を余儀なくされた。清国軍兵士は雨の中を群がって義州街道を北に向かって退却したが、日本軍の警戒線で追撃を受けて、清国軍兵士は甚大な犠牲を伴った。清国軍は、9月24日まで中国に全面退却した。

 1894年8月下旬頃に、北朝鮮の平壌に清国軍が集結した。日本軍は速やかに平壌の清軍を撃破するために、9月15日早朝から、各日本部隊は一斉に突撃を開始した。16時40分頃には、清国軍は白旗を掲げて降伏した。夜の風雨の中を北方に向けて撤退した。日本軍は、9月16日朝に平壌を占領した。日本が清国軍を朝鮮半島から追放するための決戦となった。日本軍の侵略を加速させ、平壌を迅速に占領して、清王朝の国境を直接に脅かした。日本軍兵士の犠牲は戦死者は180人、戦傷者は約506人で、行方不明が約12人であり、一方の清国軍兵士は戦死者約2,000人、捕虜約683人であった。

 1875年9月の江華島事件を起点として、1876年2月26日江華島条約(日朝修好江華条約)が締結された。朝鮮の独立を承認して、約65年ぶりに日朝修好が復活した。条約により、清国の朝鮮への宗主権を否認した。1894年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦争(東学党の乱)が、李王朝への反発から欧米や日本の侵入に対する反対運動に進展した。朝鮮政府は、鎮圧のために清国に救援を求めた。清国から朝鮮への出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵して清国軍と共同して朝鮮の内乱を鎮圧した。朝鮮への内政干渉を宣言して、清国は拒否すると、日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。1894年7月25日の日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)から成歓・牙山の戦闘が起点に、日清両国は8月1日に、両国とも宣戦布告して日清戦争が勃発した。  





2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。  
   広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。  
  被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。  
   広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年12月3日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発して、ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて死体が散乱した。

太平洋戦争で1942年8月7日から勃発したガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発した。ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍の陣地内では、ほぼ全員が戦闘態勢のまま死亡した。補給も途絶えて形成不利となり、1943年1月23日午前2時30分に最後の特攻を指示された日本軍兵士は、約100人が戦死した。アウスティン山周辺だけで、日本軍兵士は約400人が戦死して、アメリカ軍兵士は約112人と戦傷者は約268人に及んだ。

 1942年12月15日から1943年1月23日に、ガダルカナル北部のマタニカウ川付近の丘陵地帯で、主にアメリカ軍と日本軍の戦闘が勃発した。アメリカ軍兵士は、ソロモン諸島の先住民にも支援されて、丘や尾根の上で要塞化された日本軍陣地を攻撃した。最も目立つ丘は、アメリカ軍によってアウステン山、ギャロッピング・ホース、シーホースと呼ばれた。アメリカ軍はガダルカナルの日本軍の防御陣地を崩壊した。双方ともに、戦地の鬱蒼としたジャングルや熱帯の環境の中での戦闘は非常に困難で悲惨であった。アメリカ軍の多くは、初めての戦闘に参加した兵士であった。日本軍はほとんど補給を受けることができず、栄養失調と病気に苦しんだ。苦戦の末に、アメリカ軍はアウステン山の奪取した。その過程で日本の山地地帯であるギフ(岐阜)と呼ばれる強固な防御陣地や、ギャロッピング・ホース、シーホースなどを占領した。12月31日に大本営ではガダルカナル島からの撤退が決定された。日本軍はガダルカナルの放棄を決定し、ガダルカナル島の西海岸のエスペランス岬に撤退した。1943年2月の第1週に、生き残った約12,682人の日本軍兵士は無事に撤収した。

 アウスティン山の高さは約560mで、ガダルカナル島の尾根や谷間にある一つの丘であった。ジャングルが、熱帯雨林の巨木で、まっすぐな幹を高く伸ばしてから枝を広げ、絶対に日の当たらない屋根を形成した。幹の間の地面には、巨大なシダ類、イバラ類、あらゆる種類のつる性植物やヤシの木のような植物が密集した。オースティン山の戦いで、熱帯条件での負傷感染や病気により兵士は死に続けて、これらの損失に加えて、熱帯病、暑さ、戦闘の士気の低下を伴った。アウステン山の戦い頃から、立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日と生命の予後が示唆された。




2021年12月2日木曜日

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。銃撃戦の後に、殺害したベトナム人の死体に、デス(死)カードであるスペードのエースを残した。アメリカ軍兵士たちは見えないベトコンへの恐怖に常にさらされて、恐怖にさまざまな方法で対応した。死は最後には誰にでも訪れるものであり、王であっても逃れることはできない切り札としてスペードのエースを使用した。

  ベトナム戦争で、アメリカ軍兵士がスペードのエースを使った民間伝説が広まった。アメリス軍兵士はスペードの象徴は死と不幸を意味すると考え、迷信深いベトコンや北ベトナム軍兵士を怖がらせて士気を下げるために、殺害したベトナム人の死体にスペードのエースを誇らしげに置いた。狼のように、自分たちの縄張りを示すために、森や野原にもカードをまき散らかした。この習慣は非常にアメリカ軍兵士の真理に効果的であった。しかし、ベトナム人にはスペードのエースを死の象徴として恐れる文化的根拠はなかった。カードは空襲の際に、ベトナムの村やジャングルにわざとばらまいた。スペードのエースは、ベトコン人にとって迷信的な恐怖の象徴ではなかった。アメリカ軍兵士の士気を高める効果があった。反平和のサインとして、カードをヘルメットに貼り付けた。

 スペードのエースは、戦争の場で使用された。第一次世界大戦では、イギリス軍がスペードのエースを徽章として使用した。 第二次世界大戦では、インド陸軍がが緑地にスペードのエースを徽章として使用した。第二次世界大戦では、アメリカ軍兵士は、ヘルメットの側面にスペードのマークが描かれていた。アメリカ軍がカードを死のシンボルとして使われたのは、第二次世界大戦の頃からである。トランプ遊びの幸運を表すために使用された。それから約20年後の2003年のイラクのフリーダム作戦で、アメリカ軍兵士に配布されたイラク人指名手配のトランプには、写真が描かれた。

 スペードのエースが関連する冬の始まりであるユールは、昔の農民が恐れていた日であった。冬の始まりは飢餓の時代、つまり狼の時代の到来を告げるものであった。スペードのエースは、12月21日から始まる冬の第1週を表した。物資が不足し、最後の肉が屠殺され、数ヶ月後に食べるために熟成された。死者には供物が捧げられ、高齢者は自分の番が回ってきたときのために、最後の願いを伝えておいた。






2021年12月1日水曜日

極右翼であるネオナチの若者が、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。

1980年9月26日22時19分に、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。メインエントランスで即席爆発装置(IED)が爆発した。救助隊の前に横たわる被害者と正面玄関の歓迎ゲートが後方に写っている。ドイツの検察当局は水曜日、1980年にミュンヘンのオクトーバーフェストで13人が死亡、約221人以上が負傷しそのうち約68人が重傷となったと発表した。重傷者の中には、命にかかわる火傷を負った人も多くいた。手足の切断や臓器の摘出を余儀なくされた。死者の中には、襲撃容疑者である21歳の学生であったグンドルフ・ケーラー(Gundolf Köhler)も含まれており、彼は禁止されている極右団体の支持者であった。ケーラーの扇動者、内通者、共犯者は証明も排除もできなかった。

 1980年にミュンヘンで起きたオクトーバーフェスト(Oktoberfest)の爆弾テロ事件の容疑者のケーラーは、極右思想が動機となっていたとドイツ連邦検察が公表した。彼は、ビール祭りの入口にあったゴミ箱に仕掛けた爆弾を炸裂させて、13人の死者のうちの1人となり、約200人以上が負傷した。ケーラーと極右過激派(ネオナチ)との関係が明らかになった。連邦検察官は、ケーラーが、禁止されているネオナチの民兵組織で訓練を受けて、ベッドの上にはナチスの指導者であるヒトラーの写真を飾っていた。1972年のミュンヘンの大虐殺と並んで第二次世界大戦後のドイツで最も死者を出した。ドイツ当局は極右過激派の危険性を軽視して、右翼的な過激主義を容認していると非難を受けた。近年の極右の過激主義は、ドイツが直面する最大の安全保障上の脅威となった。

 1980年代から、極右翼であるネオ・ナチによる不法行為が多発した。爆弾テロからユダヤ人の迫害、落書きまで多様な暴動から、一連のテロ行為が暴走した。1980年12月24日のドイツ民族主義運動の労働党が武器の密輸をして、1981年10月に手榴弾のテロ行為をした。1983年11月にネオ・ナチの一揆のデモを仕掛けた。1981年12月にユダヤ人出版業者を殺害した。1982年にアメリカ軍に対する爆破攻撃をした。逮捕されて有罪になったのは主に戦後世代の低所得のドイツ人の若者であった。将来への不安感、弱肉教職の肯定と無力感から不況と外国人労働者による就職難から、青少年の一部が極右主義に迷入して暴走した。先進国には、特有なネオ・ナチ社会に共通した環境因子と個人因子が潜伏している。















爆破テロ容疑者で爆死した21歳学生のグンドルフ・ケーラー

2021年11月30日火曜日

1945年3月10日の東京大空襲後に東京本所菊川橋にて、隅田川の多数の死体を、軍隊から警防団、民間市民等も総出にて陸揚げした。

東京本所菊川橋にて、1945年3月10日の東京大空襲後に隅田川の多数の死体を、軍隊だけでなく警防団、民間市民等も総出にて陸揚げした。隅田川の川中に浮かんだ焼死体が川岸に漂着した。3月10日の東京大空襲後には、火葬能力を越えた。人目に触れないように多数の死体は、隅田河畔、上野両大師脇、六義園などに一次仮埋葬された。日本の木造の家屋はすぐに火災を引き起こし、着物にも燃え上がり、大火傷しながら焼死した。

 アメリカ空軍の約130機の爆撃機B-29により、1945年3月10日の午前0時から午前2時40分頃まで真夜中にかけて、東京は大規模な夜間空襲された。東京東京都江東区に雨のごとく約10数万発の焼夷弾が投下された。火災が四方八方から立ち登った。東京の民間市民の群れは、押し合いながら火災から盲目的に逃げ惑った。四方から燃え上がる紅蓮の灼熱地獄となり、生きながら焼かれて無残な焼死体に変貌した。隅田川の周辺で立ち往生して、風を巻きながら火災に追いやられて、河の中にずるずると突き落とされた。大火災により河の両岸にいた民間市民は窒息して黒焦げに焼け尽くした。焔に追われた江東区の被災者は、隅田川の河中で溺死した。

 東京大空襲後に隅田川には、無数の水死体と膨大な死体が浮かび上がった。身内や関係者が、肉親を探索するために集散した。東京本所菊川橋にて、1945年3月10日に隅田川の多数の死体を、軍隊だけでなく民間市民も総出にて陸揚げした。肉親の死体を目の前にして悲嘆に暮れた。死臭の漂う死体の山を探索した。一家全員が巻き込まれて行方不明として死体が処理された。市民の憩いの場である浅草東本願寺も消失して、仲見世も瓦礫の廃墟となった。

 東京は黒焦げの瓦礫の山となり、道端に無数の死体が散乱した。東京は全く機能不全に陥った。死者は約21,489人、負傷者は約4,230人、行方不明は無数であった。全焼は約233,394戸、 半焼は約557戸、罹災者は約1,045,392人の空襲の被害を伴った。翌日の3月11日の新聞には、東京大空襲だけでなく、「仏印を単独で防衛、断呼敵性勢力を一掃」とアジア民族の独立を支援して、領土的企図なしと報道した。

 それ以後約10日間に、東京、名古屋、大阪、神戸等の大都市に爆弾が投下された。B-29は、約3分の2は無差別に民間都市に、約3分の1に軍事工業地帯を標的にした。太平洋戦争を通じて日本本土にB-29等により約約160,800トンを投下した。B-29はのべ約33,041機が出撃した。アメリカ空軍は、約485機を損失して、約2,707機を損傷して、約3,041の搭乗員が戦死した。




2021年11月30日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2021年11月29日月曜日

ドイツ軍将校とイスラム教徒のボスニア人から編成されたドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ユーゴスラビアのボスニアにてクロアチア人のパルチザンを掃討して虐殺した。

1943年3月にドイツ軍将校とイスラム教徒のボスニア人から編成されたドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ユーゴスラビアのボスニアにて、ソ連軍から主導されたクロアチア人のパルチザンを掃討して虐待と虐殺した。ドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ボスニア地域の戦闘にて2人のクロアチア人のパルチザンを両手を縛ったままで虐殺した。1941年春、ドイツ国防軍がユーゴスラビアを占領し、多民族国家が崩壊した後、民族主義グループが、第二次世界大戦における最初のパルチザン部隊として、セルビアでドイツ軍との戦いに挑んだ。武装していない民兵と一緒に山の中に撤退し、そこから小規模な作戦でドイツ占領軍と戦った。民間人虐殺を避けるために、反乱軍は大きな反撃を控えた。本格的な武装蜂起は、ドイツ占領軍が小規模な戦争で疲弊して、一般的な戦況も不利になってから宣言された。

 1942年に中隊として設立されたナチス親衛隊の山岳師団であるカルストイェーガー(カルストの狩人)は、第二次世界大戦中、ドイツのナチス党の武装組織である武装親衛隊(Waffen-SS)の山岳歩兵師団であった。正式にはドイツ国防軍の一部ではなかったが、ドイツ国防軍と一緒に活動した。戦後のニュルンベルク裁判で、Waffen-SSは、戦争犯罪や人道に対する戦争犯罪に大きく関与した犯罪組織であると宣言された。山岳師団は、Waffen-SSが配備した38師団のうちの1つでした。山岳師団は、大隊、師団、旅団としての存続期間中、主にユーゴスラビア、イタリア、オーストリアの国境にあるカルスト高原でのパルチザンの掃討に従事した。山岳地帯であるため、特殊な山岳部隊と装備が必要であった。

 山岳部隊は、ユーゴスラビアやイタリアの南チロル州出身のドイツ系オーストリア人を中心に構成された。対パルチザン鎮圧に重点を置いていた。イタリア降伏後にはタルヴィジオでのイタリア軍の武装解除やイタリア国内のドイツ系民族社会の保護などにも活動した。第二次世界大戦末期にはオーストリアへの通路を確保して、ドイツ軍兵士がバルカン半島からソ連軍の追撃を脱出して、イギリス軍に降伏することを可能にした。1945年5月9日にイギリス軍に降伏したとき、山岳部隊の残党は武器を捨てた最後のドイツ軍の一部となった。ニュルンベルグ裁判のイタリアとドイツの合同調査では、イタリアが降伏してから戦争が終わるまでの間に、山岳部隊は合計約277人等のパルチザンの殺害からその他に23種類もの戦争犯罪に関与しているとされた。






ドイツ軍親衛隊山岳部隊がクロアチア人パルチザンの掃討

2021年11月28日日曜日

済南事件において日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した多数の死体を銃剣で検死した。

済南事件において日本軍ならびに中国国民党軍が衝突して双方の民間日本人と中国人を虐待と虐殺した。日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した死体を銃剣で検死した。日本軍と中国国民党軍は、1928年5月3日に日本人家族の近くで双方の兵士が衝突して、約12人の日本人が死亡した。緊張が急速に高まり、済南周辺では散発的な戦闘が勃発した。済南事件または五・三惨案が、山東省の首都済南で起こった。国民党政府は交渉官を派遣して事態の沈静化を図ったが、日本軍側は対話を拒否し、交渉官を拘束した。5月3日夜に、日本軍は済南から撤退したが、中国軍からは日本軍兵士による中国民間人への虐待と虐殺から強姦が報告された。中国軍側の首席交渉官である蔡公主をはじめとする約10人の交渉団はこの頃に処刑された。済南市外からは、日本軍の砲撃が、駐屯している中国国民党軍を民間中国人を巻き添えにして撃ちまくった。 

 1928年5月3日の早朝、春の街・済南では商店が次々と開店し、商売繁盛で街が賑わっていた。 午前9時頃、北方遠征軍の中国国民党軍が、日本軍の警戒区域を通過中とキリスト病院に移動した時に、日本軍は発砲して、同時に中国国民党軍も攻撃を仕掛けた。中国国民党軍側が日本軍と交渉した時に、流れ弾で約2人の日本軍兵士が虐殺された。 日本軍は、中国国民党軍と民間中国人を攻撃して、街中には死体があふれ、血が流れた。日本軍側は、中国国民党軍が済南の日本人に虐殺と虐待した事を口実にした。中国国民党軍側は、紛争中に最初に日本人兵士が中国人兵士の射殺を口実にした。原因は今でも不詳であり、日本軍と中国国民党側で口実が正反対に対立した。

 5月5日に、蒋介石と日本軍司令官の福田彦介は、蒋介石が日本軍の要求を受け入れる形で合意に達した。その後2日間で中国国民党軍が撤退したため、戦闘は縮小した。済南はその後約10カ月間、日本軍に占領された。日本軍は、1929年3月28日に山東省の中国各都市に進駐した。日本軍が山東省にさらに多くの軍隊を駐屯させる口実となった。中国国民党側の資料によると、済南事件では中国の軍人と民間中国人の約6,123人が虐殺されて、さらに約1,701人が負傷したを示唆した。中国国民党の蒋介石と日本の田中義一首相は済南事件後に、両国の関係を修復しようとした。蒋介石は済南事件を、自ら命令に反して中国国民党軍に済南への侵攻を命じた中国国民党軍の何耀図司令官の行動に起因するとした。

 中国国民党軍は、地方の軍閥を排除して中国を統一するため、北伐に乗り出した。国民党軍は、中国東部の山東省を支配していた韓福州を北伐の対象としていた。国民党軍が近づくと、中国の天津に駐留していた日本軍は、東京からの命令に反して、日本の利益を確保するために山東省の済南と青島に進出した。日本軍は、中国国民党軍による中国統一を目指す北伐軍の侵攻に脅かされる山東省に配備されていた。1928年4月30日、日本軍との対立を避けたい蒋介石の命令に反して中国国民党軍が済南に入った。