2021年11月28日日曜日

済南事件において日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した多数の死体を銃剣で検死した。

済南事件において日本軍ならびに中国国民党軍が衝突して双方の民間日本人と中国人を虐待と虐殺した。日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した死体を銃剣で検死した。日本軍と中国国民党軍は、1928年5月3日に日本人家族の近くで双方の兵士が衝突して、約12人の日本人が死亡した。緊張が急速に高まり、済南周辺では散発的な戦闘が勃発した。済南事件または五・三惨案が、山東省の首都済南で起こった。国民党政府は交渉官を派遣して事態の沈静化を図ったが、日本軍側は対話を拒否し、交渉官を拘束した。5月3日夜に、日本軍は済南から撤退したが、中国軍からは日本軍兵士による中国民間人への虐待と虐殺から強姦が報告された。中国軍側の首席交渉官である蔡公主をはじめとする約10人の交渉団はこの頃に処刑された。済南市外からは、日本軍の砲撃が、駐屯している中国国民党軍を民間中国人を巻き添えにして撃ちまくった。 

 1928年5月3日の早朝、春の街・済南では商店が次々と開店し、商売繁盛で街が賑わっていた。 午前9時頃、北方遠征軍の中国国民党軍が、日本軍の警戒区域を通過中とキリスト病院に移動した時に、日本軍は発砲して、同時に中国国民党軍も攻撃を仕掛けた。中国国民党軍側が日本軍と交渉した時に、流れ弾で約2人の日本軍兵士が虐殺された。 日本軍は、中国国民党軍と民間中国人を攻撃して、街中には死体があふれ、血が流れた。日本軍側は、中国国民党軍が済南の日本人に虐殺と虐待した事を口実にした。中国国民党軍側は、紛争中に最初に日本人兵士が中国人兵士の射殺を口実にした。原因は今でも不詳であり、日本軍と中国国民党側で口実が正反対に対立した。

 5月5日に、蒋介石と日本軍司令官の福田彦介は、蒋介石が日本軍の要求を受け入れる形で合意に達した。その後2日間で中国国民党軍が撤退したため、戦闘は縮小した。済南はその後約10カ月間、日本軍に占領された。日本軍は、1929年3月28日に山東省の中国各都市に進駐した。日本軍が山東省にさらに多くの軍隊を駐屯させる口実となった。中国国民党側の資料によると、済南事件では中国の軍人と民間中国人の約6,123人が虐殺されて、さらに約1,701人が負傷したを示唆した。中国国民党の蒋介石と日本の田中義一首相は済南事件後に、両国の関係を修復しようとした。蒋介石は済南事件を、自ら命令に反して中国国民党軍に済南への侵攻を命じた中国国民党軍の何耀図司令官の行動に起因するとした。

 中国国民党軍は、地方の軍閥を排除して中国を統一するため、北伐に乗り出した。国民党軍は、中国東部の山東省を支配していた韓福州を北伐の対象としていた。国民党軍が近づくと、中国の天津に駐留していた日本軍は、東京からの命令に反して、日本の利益を確保するために山東省の済南と青島に進出した。日本軍は、中国国民党軍による中国統一を目指す北伐軍の侵攻に脅かされる山東省に配備されていた。1928年4月30日、日本軍との対立を避けたい蒋介石の命令に反して中国国民党軍が済南に入った。