アメリカの南北戦争のゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップ(Little Round Top)の近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域で、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。ゲティスバーグの近くの丘の中で、4人の南軍兵士が戦死していた。
リトルラウンドトップは、ペンシルベニア州ゲティスバーグの南にある2つの岩だらけの丘のうち小さい方である。ビッグラウンドトップという名前の隣接する背の高い丘の同類である。北軍と南軍の双方は強烈な銃撃を続け、繰り返しの突撃と反撃を行った。南北戦争中のゲティスバーグの戦いの第2日目である1863年7月2日に、南軍による北軍の左翼への攻撃が失敗した戦場であった。
リトルラウンドトップの戦いは、北軍の軍団によって首尾よく防御された。大佐は戦闘中に致命傷を負い5日後に死亡した。チェンバレンが指揮した北軍のメイン州志願歩兵連隊は、南軍に対して血なまぐさい会戦を戦った。弾薬が枯渇して、固定銃剣で反撃を命じられて、劇的な下り坂から降りて銃剣で南軍に突撃して、混乱した南軍はリトルラウンドトップから降伏に追い込まれた。リトルラウンドトップを保守した北軍の戦いは、ゲティスバーグの戦い中で、南北戦争全体の中で最も重要な交戦の1つになった。南軍がすでに消沈した北軍を打ち砕き、北軍政府を南北戦争の和平交渉のテーブルに押しやる可能性が消滅した。
リトルラウンドトップで北軍に従軍していた約2,996人のうち、約134人が戦死、約402人が負傷、約29人が行方不明となった。南軍の犠牲は、約4,864人のうち、約279人が戦死、約868人が負傷、219人が行方不明となった。
戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族に生命の尊厳が失われている。それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦から原爆による終⽌符で、市⺠は多くの悲惨な戦争の被害者となり加害者となった。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNの掲載における閲覧注意も慎重に留意してください。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。⽇本から地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNW, May/12/2016 Access 900,000 (3,251), 9/23/2025 JNWは戦争歴史の保存と資料の配慮を図る。[NSFW: Not Safe For Work]
2021年4月22日木曜日
ゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップの近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域にて、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。
2021年4月21日水曜日
ウクライナの首都キエフにて、ソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。
ウクライナの首都キエフにて、1919年にソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。その地区は、ボリシェヴィキによるテロルの拠点であった。ソビエト赤軍は、ウクライナのボルシェヴィキは、プロレタリアを独裁者の敵として虐殺した。ウクライナのボルシェビキによる犠牲者らは、裸にされて切断されて虐殺された死体を土中に埋められていた。
1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、首都キエフであるウクライナ人民共和国と、ソビエトおよびその傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国との間で、ソビエト・ウクライナ戦争が勃発した。ロシア革命後に起こった紛争で、ソビエト赤軍派の勝利で終わった。戦争中にはウクライナ人が著しい虐待と虐殺を受けて、約10人に1人が殺害された。1922年12月にウクライナ社会主義ソビエト共和国は、ソビエト連邦に取り込まれて支配された。
第一次世界大戦中に、1917年の2月革命にてロシア帝国が崩壊した。その後に1917年7月に,ウクライナでは中央ラーダ政府が誕生した。ロシアは10月革命を経て、革命左派により臨時政府が樹立した。中央ラーダ政府は1917年11月に「ウクライナ人民共和国」の建国を宣言した。ロシアの臨時政府と中央ラーダ政府は、ウクライナの自治領域の拡大を巡って対立した。ロシア・ソビエト政権はウクライナ人民共和国を認めず、1917年12月ウクライナにソビエト赤軍を派遣した。それ以後約4年間にもわたるウクライナ・ソビエト戦争に突入した。
ウクライナの首都キエフを放逐された中央ラーダ政府は、1918年4月にドイツ帝国が介入して締結して抵抗した。1919年2月から1921年3月までのポーランド・ソビエト戦争に対するリガ平和条約により,ウクライナ人民共和国の領土は、ポーランドとソ連に分割・解体されて支配された。
一方で,ロシア・ソビエト政府の支援の下で,1919年第3回全ウクライナ・ソビエト大会で、ウクライナ社会主義共和国が成立した。1922年12月に,ソビエト連邦を構成する共和国となった。また,クリミアにおいても,1917年12月にクリミアのタタール人を中心とする世俗国家「クリミア人民共和国」の建国を宣言するも、1918年1月にロシア・ソビエト政府により占領されて滅亡した。
2014年3月16日に、ウクライナにおけるクリミア半島のクリミア自治共和国は、「共和国政府」による違法な「住民投票」を実施をした。ロシア編入をクリミア住民の約96.6%も支持したと誤報した。ロシア軍は2014年3月18日にクリミアを「併合」した。ウクライナ政府はこれをロシアの武力による違法占拠とし承認していない。その後、東部でも情勢が不安定化し、武装勢力等が地方行政府各施設を占拠したことを受け、ウクライナ政府軍と武装勢力の戦闘が開始された。クリミア危機とウクライナ東部紛争は現時点も継続している。
2021年4月20日火曜日
アメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、連合軍司令部はアメリカ軍幹部に多数の囚人の死体を視察させた。
アイゼンハワー連合軍総司令官は、1945年4月4日にアメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、多数の囚人の死体を4月12日に視察した。ナチス・ドイツのホロコーストの認否を防ぐために、軍関係者を含む近隣のすべての連合軍の要員に対して強制収容所を通過して視察するように命じた。
アメリカ軍兵士はナチス・ドイツの残虐行為の恐怖を免れなかった。アメリカ軍が最初に解放したナチスの強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の支部であったオーアドルフ(Ohrdruf)強制収容所が1945年4月4日に解放された。アメリカ軍によって解放された後に、4月12日に連合軍総司令官であるドワイト・D・アイゼンハワーがオーアドルフ収容所を視察して、近隣のすべてのアメリカ軍幹部にオーアドルフ強制収容所の視察を命令した。1937年から1945年の間に約25万人が、ブーヘンヴァルト強制全収容所に投獄されて、恐らく約11,000人のユダヤ人を含む少なくとも約56,000人の囚人が虐殺された。
アメリカ軍はさらに4月11日になって、オーアドルフ強制収容所部の本部であるドイツのワイマール州にあるブーヘンヴァルト(Buchenwald)強制収容所を解放した。強制収容所に到達した時には、取り巻く厚い有刺鉄線の柵を突破した。囚人が恐ろしい死の収容所から逃げるのを防ぐ柵は電気で熱くなっていた。柵を突破すると、予期せぬナチス・ドイツ軍兵士は退散していた。強制収容所を偵察すると、火葬場となった大きな煙突のある複数の建物を目撃した。収容所の建物に近づくと、やっかいな目付きをした囚人を横切った。囚人らは極度の飢餓で皮膚と骨であった。収容所を通り抜けるとき、ホロコーストの犠牲者の集団墓地にて恐ろしい光景に遭遇した。集団墓地は、高さ約1.5mの裸の死体の山、悪臭と恐ろしい臭いが充満していた。死体は薪のように積み上げられ、強制収容所の全域に散らばっていた。毒ガス室に連行されて殺害した方法にアメリカ軍兵士はショックを受けた。
アメリカ軍がブーヘンバルト強制収容所を解放した時には、約21,000人の衰弱して飢えた囚人と死体の山を発見した。アイゼンハワーは、「雌犬の息子が、これは決して起こらなかったと言う日が来るだろう」と思い込み、できるだけ多くの兵士に強制収容所を視察されたいと思った。軍人にその恐怖を目撃するように命じた。強制収容所の犠牲者にはユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人の囚人にも残虐行為があった。その他のナチス強制収容所が解放された時、多くのアメリカ軍兵士は 目撃した恐怖に感情的な心的外傷後症候群を負わされた。涙、悲鳴、否定、そして憎しみが含まれた。死の強制収容所で、囚人が扱われ、殺され、埋葬された野蛮な方法は、非人道的であった。囚人の解放は、ホロコーストの壊滅的な影響の一部を和らげても、悲劇的な出来事は永遠に悩まされる。
2021年4月19日月曜日
イギリス艦隊は、旧式のアレクサンドリアの要塞に砲撃して爆破して、エジプト軍兵士が要塞で殺害されて多数の死体が散乱した。
エジプト軍は、イギリス艦隊に対して旧式のクルップ砲でアレクサンドリアの防御を強化した。イギリスの地中海艦隊は、1882年7月11日から13日にかけて、要塞化したエジプトのアレクサンドリアを砲撃した。イギリス艦隊は、時代遅れの要塞に向けて砲撃して爆破した。多数のエジプト軍兵士が砲撃された要塞内で殺害されて、多数の死体が散乱した。イギリス艦隊からの砲撃が、アレクサンドリアの都市部に命中して、民間市民を殺傷した。多くの建物を損傷して、地域に火災を引き起こした。火災が発生して、大混乱して、略奪、放火により、都市部は燃え尽きた。(アレキサンドリアの砲撃を約50ページのアルバムで記録した)
スエズ運河が1859年から1869年にかけて開通した以降に、イギリスにとってエジプトの重要性は劇的に高まった。イギリスとインドの移動時間が約半分に短縮された。1805年以降は、エジプトをオスマントルコ帝国が支配していた。エジプトは多額の投資で財政破綻に陥り、1875年にスエズ運河会社の株式をイギリスに売却した。エジプトのウラービー陸軍大臣が、1882年1月にクーデターでエジプトを軍事政権に転換した。エジプト軍事政権は、スエズ運河を占領するイギリス艦隊に対抗するために地中海沿岸のアレクサンドリアを要塞化した。1882年6月11日に、ロバの運賃をめぐる争いがアレクサンドリア市内で暴動を引き起こした。約50人の外国人を含む数百人が殺害された。
イギリス軍は7月13日にアレクサンドリア砲撃した直後に上陸した。スエズ運河の利益を保持して、ウラービー反乱によるアレクサンドリアの無政府状態を鎮圧した。アレクサンドリア上陸から9月6日までに、イギリス軍約24,000人とインド人部隊約7,000人がエジプトに集結した。アレクサンドリアとスエズ運河の間のテルエルビルで、エジプト軍と戦闘が9月13日に勃発した。イギリス軍が9月14日にカイロを占領して、イギリス軍は、ウラービー革命を鎮圧した。エジプトは1914年から1922年までイギリスの保護領となった。1936年にエジプトは独立したが、第二次世界大戦後もイギリスにスエズ運河は支配された。エジプトはスエズ運河を1956年7月26日に国有化して、スエズ危機が勃発した後に支配下に置いた。
2021年4月18日日曜日
湾岸戦争の終結の直前にイラクの南東部の死のハイウェイの砂漠の路上にイラク軍兵士の仰向けに死体が残存した。
湾岸戦争は1990年8月2日から1991年2月28日まで勃発して、イラク軍に対して約30カ国の連合軍を率いるアメリカ軍が戦闘をした。クウェートがイラク国境を越えて石油を不法に掘削したイラクの主張に続いて、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻した。戦闘は、イラク、クウェート、およびサウジアラビアの国境地帯に限定された。イラク軍は、クウェートの女性、子供、障害者を含む約1,082人の民間非戦闘員を殺害した。
国連安保理決議が11月29日に可決した決議678で、イラクに1991年1月15日の撤退期限を与え、決議660ですべての武力手段を承認した。1991年1月12日、アメリカ議会はイラクをクウェートから追い出す軍事力を承認した。撤退期限直後に、砂漠の嵐作戦の空中作戦を執行し、1991年1月17日の早朝から1日あたり1,000回以上の出撃を開始した。
アメリカ軍における湾岸戦争空軍力調査(1993年)では、推定で約10,000人から約12,000人のイラク人が死傷した。さらに約2,300人の民間イラク人が湾岸戦争に巻き込まれて死傷した。アメリカ商務省の国勢調査局は、連合軍によって殺害されたイラク人男性は86,000人、女性は39,000人、子供は32,000人と推定した。約2,000人のイラク軍軍隊が降伏した。しかし、1991年2月24〜25日の2日間の暴動中に数千人のイラク兵を生き埋めにした。湾岸戦争は大々的に放映され、世界中の人々が初めてミサイルが標的に命中し、戦闘機が空母からの離陸を生放送してアメリカ国民は興味本位で興奮した。
2021年4月17日土曜日
4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが左顔面と両手に後遺症が残った16歳の少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成するために、16歳時に広島原爆病院に入院した。
広島原子爆弾が1945年8月日午前8時15分に投下されて、炸裂によって膨大な広島市民が被爆した。4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが、左顔面と両手に後遺症が残った。 被爆した少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成してもらうために、1957年5月12日に16歳時に広島原爆病院に入院した。入院してから、熱傷とケロイドを、大腿部からの植皮の手術によって形成した。
金時さんというニックネームの少女は、約4歳の時に、爆心地から約2kmの広島市福島南の自宅で、縁側に腰掛けた時に被爆した。意識を失って、他の家の下敷きになった。近所の知り合いに助け出された。1957年5月12日に、広島赤十字原爆病院に入院して形成手術を受けた。左頸部、左前頸部、右肘関節の瘢痕など合計9回の形成手術を受けた。10月21日の大腿部から患部への皮膚の植皮術後には、絶対安静が必要なので、帯紐でベッドに縛り付けられた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。両方の大腿の皮膚を移植のために皮膚を引剥いで、その傷跡が残存して、醜くなった。少女が大人になるに従い、瘢痕や傷跡な人知れず悩むことが手紙に示唆された。12月14日に少女はまずは退院した。
2021年4月16日金曜日
ベトナム戦争で、アメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の水しぶきの出血で覆われた。
ベトナム戦争の戦場で、1966年10月頃にアメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の明るい水しぶきの出血で覆われた。アメリカ軍兵士は即座に彼の腕を固定して、中国製の軽自動小銃を奪った。アメリカ軍兵士が激しく戦闘したベトコン兵士を首をつかんで引き上げた。ベトコン兵士は頭から血がにじみ出ていた。彼は息を切らして、すぐに気を失って、その直後に彼は死亡した。アメリカ軍兵士は彼を溝に蹴り出した。
水田地帯を横切って、アメリカ軍の戦車部隊は砂丘に広がる薄い森に入って、無線で部隊とヘリコプターと連絡を取り合った。空中から砲撃している爆撃機から偵察すると、南ベトナム解放戦線(NLF:National Liberation Front)が隠れていた地域をかなり近隣に見えた。ベトナムの薄い森は、杉と広葉樹の椿で構成された。アメリカ軍兵士はすでに戦闘の中心的な領域にかなり深く入っいた。銃声はかすかに聞こえて、戦車の轟音に圧倒された。
ほぼ同時に、自動小銃の弾丸の跳ね返りが、戦車から聞こえた。ゴムボールのように戦車に跳ね返った。ベトコンによる攻撃により、アメリカ軍兵士が戦車から転落した。ベトコンが木々の上から発砲した。アメリカ軍兵士は、必死に機関銃で射撃して、加熱された薬莢が周辺に散らばった。木々から狙撃された直後に、不用意には外を覗けなかった。前日には戦車が、ロケット砲弾に襲われて、戦車内に留まったアメリカ軍兵士が殺害された。時々に立ち上がっては、ベトコンを覗き見した。継続的に機関銃を撃ち続けて、戦車部隊は薄い森に広がる農地まで達した。そこには3つの孤立した農家があった。主婦のベトナム人女性が通り過ぎて、戦車を冷酷に見つめた。悲惨な一戸建ての小屋があった。アメリカ軍兵士とベトコン兵士たちが混乱の中で、戦場は並外れた悲惨な光景であった。5つの戦車は分散しながら、ベトコンを砲撃した地域に多数の色付きの煙の殻が落下していた。戦車は標的に向かって、機関銃の射撃を行った。砲手の座席は、戦車の外側にあり、厚い鋼板で保護された。戦車の中は日焼したアイロンの灼熱で、スチームバスでたっぷりと汗をかいた。武装したベトコンを射撃するために、戦車は地面に止まった。アメリカ軍兵士たちは戦車から飛び降りた。手前の約5mに農場と歩道の間の溝に、2人のベトコンが上下に転倒していた。彼らはまだ生存して、お腹を上にして転倒した。アメリカ軍兵士が近づいて、自動小銃を彼らに向けると、1人のベトコンがふらつき不安定に立ち上がった。
黒人のアメリカ軍兵士はもう一人の重傷を負ったベトコン兵士を助け、彼に治療を施した。戦車の中で唯一の黒人であった。負傷したベトコン生存者を腕に抱いて戦車に戻した。血を大まかに拭き取った後に、戦車に入れるのを手伝おうとした。しかし、警官であるPIOは拒否し、負傷した身体を戦車の端に置くように命じた。黒人の兵士は命じられたとおりに行動した。端の幅はわずか約60cmで、土嚢で覆われた。ベトコン兵士は横になって、頭部から血が流れ続けた。淡い表情で、目が空いていた。彼は15歳か16歳の無実の少年であった。司令部から、より強力なベトコン部隊が近くで発見されたと報告された。戦車部隊は、重傷を負った少年兵士が端に横たえてサトウキビ畑を駆け抜けた。黒人のアメリカ軍兵士はベトナム人の少年の腕を持って脈を取って、救急箱から包帯を取り出して、「まだ生きている!」と言った。出血が戦車に滴り始めて、男子の真下に座っていると、すぐに帽子と腕に血が飛び散った。
2021年4月15日木曜日
セーヌ川とオワーズ川の北部流域マニーで検挙したレジスタンス4人のフランスの若者を、ナチス・ドイツ軍は後頭部から銃殺した。
ナチス・ドイツ軍は、1942年11月11日にフランス全土を占領してから1945年5月にナチス・ドイツの降伏まで、フランス国内でレジスタンス指導者らを検挙しては、後頭部から銃殺した。フランス愛国者(Patriots)が、フランス中西部に流れるセーヌ川とオワーズ川の北部流域のマニーにおいて検挙されたレジスタンスの4人のフランス人の若者が、ナチス・ドイツ軍によって後頭部からの銃殺刑を執行された。
1940年6月18日午後6時に、シャルル・ド・ゴールがロンドンのBBCで、約6分間の演説から自由フランス運動が始まった。ヴィシー政権のペタンとナチスドイツとの休戦を熱烈に拒否して、世界大戦を喧伝した。フランス全土で、1940年後半から1941年に、ドゴールとは無関係に、互いに独立して、草の根グループのレジスタンスが誕生した。1940年12月に民間軍事組織(CMO: Organisation Civile et Militaire)がパリで生まれ、中産階級の市民と予備役から構成されて、ナチス・ドイツ軍に対する反抗と連合国軍への内部支援する地下準軍事組織が潜伏した。1942年11月11日に、ナチス・ドイツ軍がフランス全土を占領した。1943年5月に自由フランスの背後でレジスタンスが団結した。ナチス・ドイツ軍のレジスタンスに対する虐待と虐殺が激化した。容疑者は約21,600人のフランス人が強制収容所に強制送還された。イギリスBBC放送を妨害して、レジスタンスを投獄した。1942年の間に、約300万人のフランス人が自由フランスに同調した。影のレジスタンス軍隊は常に少数派の象徴であり、1945年の人口約3,960万人のうち30万人から50万人の男性と女性がレジスタンスに参戦した。1939年にフランコ政権から逃亡した約12万人のスペイン人の多くが、反ファシスト闘争の継続からレジスタンスに参戦した。
フランス北部では、レジスタンスの標的はナチス・ドイツ軍のみであったしたが、南部ではヴィシー政権はドイツ軍と同様に標的となった。最初のレジスタンス運動は、フランス北部で、1940年末までに挙行され、6つの地下新聞が北部で定期的に印刷された。1941年6月までに、レジスタンス運動はより組織化された。1940年7月に設置さつれたイギリスの特殊作戦執行部(SOE: Special Operations Executive)の指令により、レジスタンスと協調して、危険な諜報活動をした。1943年1月から1943年9月までに、鉄道線路などに対する約530回の妨害行為を挙行した。1943年から1944年の間にフランスの約150の工場に対して妨害行為を挙行した。連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸から1944年8月末にパリの解放をして、1945年5月8日にナチス・ドイツ軍を全面無条件降伏させた。
2021年4月14日水曜日
朝鮮戦争の戦線の後方には、仮設墓地が設置されて、韓国軍兵士の死体のみが仮設墓地に埋葬され、アメリカ軍兵士の死体はアメリカ本国に送還された。
朝鮮戦争の戦場から遠く離れたアメリカ軍兵士の軍事墓地への死体の運搬は、とても困難な危険を伴った。戦闘の緊急性により移動できない死体は、迅速な埋葬を可能にする任意な軟弱な地面に急いで埋葬された。戦線の後方には、仮設墓地が設置された。韓国軍兵士の死体のみが、仮設墓地に埋葬された。戦死したアメリカ軍兵士の死体は、棺桶に入棺して、アメリカ本国に送還された。孤立した墓地は常に保守できずに、粗い指標の多くが失われたり、住民または北朝鮮軍によって抜去されたり、戦闘で破壊された。
1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争が激化して、アメリカ軍兵士の死亡が増加するにつれ、各戦闘部隊が独自の墓地を設立して運営する必要が生じた。韓国で最初の一時的な国連記念墓地は、1950年7月9日にアメリカ軍が大田に設立した。しかし、大田はその後まもなく北朝鮮軍に占領された。約46もの埋葬地がある墓地は放棄された。その他の仮墓地は、クワンウイ、クムチョン、シンドンにも設立されたが、国連軍が釜山の境界まで撤退して、北朝鮮軍の支配下に占領された。
独自の墓地を設営する時期に困難な戦況に直面して、戦闘部隊が墓を掘るのを避けれなかった。戦闘地域からの脱出する朝鮮人が難民となり、町や村を放棄したため、民間人の墓地設営の労働力の使役は不可能となった。墓地が掘られて記録の作成まで死体を保持する遺体安置所が設置された。不利な戦況のために、釜山周辺への国連軍の撤退に伴って、他に一時的な国連墓地が設営された。アメリカ軍が仁川に上陸して逆襲して、1950年9月8日に仁川に一時的な国連軍事墓地を開設した。北朝鮮軍から奪還された地域で、分化あるいは劣化しやすい死体の捜索と回収作業を直ちに開始して、死体は墓地へ集積された。
崩壊する北朝鮮軍を強化するため1950年10月25日から中国軍の膨大な大軍の北朝鮮への参入は、国連軍が緊急的な撤退に追い込まれた。退地域のすべての一時的な墓地は、興南から郊外にある墓地を含め、さらに平壌も共産主義の管理下に置かれた。国連軍の最高司令官は、すべてのアメリカ軍の死者の死体は日本への輸送のために準備されて、国連軍事墓地に集積された。仁川に集積した国連軍の死体は、1950年12月28日に積載船が仁川港を出港した。アメリカ軍の死体は、日本の小倉に設立されたアメリカの墓登録施設に1951年1月3日から避難した。挑戦戦の敵対行為の最中に死亡したアメリカ軍兵士の約16,000人の死体をアメリカ本国に返還する決定した。
2021年4月13日火曜日
沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得は、アメリカ軍に土地を奪われたうえに爆死した。
沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得さんは、1959年9月6日に、アメリカ軍に土地を奪われたうえに、爆死した(沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』1970年)。比嘉良得さんはアメリカ軍に土地を奪われて、仕方なく畑に落下した爆弾を拾ってスクラップに出して暮らしていた。その爆弾を解体中に爆死した。阿波根昌鴻が、1950年代の伊江島の市民が、アメリカ軍と闘争する多数の写真を撮影した。1953年4月からアメリカ軍による伊江島の強制土地接収が開始された。1954年にアメリカ軍は、伊江島の住民に立ち退き通告した。1955年3月に伊江島真謝地区から約300人の武装したアメリカ軍兵士による強制的な土地の取り上げた。1956年から伊江島ぐるみ土地闘争が盛り上がった。
沖縄県伊江島は、かつての沖縄戦の激戦地であった。アメリカ軍が占領した後は、伊江島の約6割が、爆弾の投下や落下傘部隊の降下等の演習地として使用された。伊江島の農民らは肥沃な土地で、農耕に生きるはずであった。アメリカ軍は、伊江島の農民たちから、農地を取り上げて、家屋を取り壊された。伊江島の農民らは、致し方なくアメリカ軍を相手に必死の闘争に立ち上がった。沖縄戦後も苦難に満ちた生き方を負わされた伊江島の農民らは、長く粘り強くアメリカ軍と闘争した。しかし、伊江島は、沖縄本島から北西約9kmと近い場所にあるとはいえ、やはり離島であるために、アメリカ軍との闘争は秘密裏に処分された。
太平洋戦争後のアメリカ軍の施政権の下に、各地で半ば強制的に基地や施設を建設した。アメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発して、沖縄県民の死傷者も相次いだ。沖縄県民はアメリカ軍の施政に幻滅して日本本土復帰を訴えた。沖縄県民有志は島ぐるみ闘争などの抵抗運動を起こした。アメリカ軍がベトナム戦争から1973年3月31日に完全撤退を控えて、沖縄返還は1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄は本土に復帰した。
日本平和市民連盟 視聴回数 480,000回
2021年4月12日月曜日
日米安保闘争で1960年6月15日に重態の樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送され、警察病院で死亡と診断された。
樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日生まれ1960年6月15日没)学生運動家として、日米安全保障(安保)闘争で死亡した東京大学3年生の女子学生である。安保闘争で1960年6月15日に重態となった樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送された。死亡した当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。護送された警察病院で死亡と診断されて、学生らは国会構内で、樺美智子さの死に黙祷を捧げた。
学生や労働者や市民が安保反対・岸内閣退陣を要求して国会議事堂を十重二十重に取り囲んだ。1960年6月15日のデモで全学連主流派が、国会の衆議院南通用門から国会に突入した。その中で警官隊と衝突した際に、22歳で死亡した。警察病院の検死では死因は、胸部圧迫及び頭部内出血とされた。警察側は樺美智子さんの転倒が原因の圧死と主張した。デモ隊が国会敷地内に突入後、折り重なり倒れた人々の下敷きになって胸腹部が圧迫され、呼吸困難で死亡したと結論付けた。鑑定結果が遺族にも開示されず、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
1957年に東京大学文科二類(現在の三類)の文学部国史学科に入学した。イギリスの水爆実験に反対するデモで、アメリカ軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争に参加した。歴史研究会に所属して、歴史を動かす原理の探求を目指した。東大文学部の自治会副委員長となった。迫りくる安保闘争に向けて日本共産党に入党した。教員に対する勤務評定に反対する日教組の勤評闘争や警察官の権限を強化する警職法の反対闘争をした。1958年12月に、共産党の学生党員らが脱党して、より先鋭的な思想・方針を掲げて結成した前衛党・共産主義者同盟に加盟した。全学連主流派として羽田事件で逮捕されるなど過激な闘争をした。激越な言葉は人を熱狂させるが、熱狂は冷めやすく、分裂しやすい。
1960年5月20日未明に、新安保条約案を衆院本会議で強行採決した。在日米軍として、アメリカ軍の日本駐留を引き続き認め、憲法に抵触する集団的自衛権を認めた。新安保条約案が自然成立を迎える6月19日まで安保闘争が一気に熱狂した。1960年6月16日には,予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止された。その1ヶ月後の7月15日には、新安保条約を強行採決した岸内閣が総辞職した.樺美智子の死亡は日本社会に重大な影響を及ぼした事件となった。
「最後に」(1956年 樺美智子作) 誰かが私を笑っている、向うでも こっちでも、私をあざ笑っている、でもかまわないさ、私は自分の道を行く、笑っている連中もやはり、各々の道を行くだろう、よく云うじゃないか、「最後に笑うものが、最もよく笑うものだ」と、でも私は、いつまでも笑わないだろう、いつまでも笑えないだろう、それでいいのだ、ただ許されるものなら、最後に、人知れずほほえみたいものだ (樺家之墓には、美智子の詩が掲げられている)
2021年4月11日日曜日
アメリカ軍による圧倒的な軍事力により、日本軍兵士は全滅して死体がクェゼリン島の砂浜上に散乱した。
クェゼリン環礁の占領するために、アメリカ軍は標的と世論に時間を置いた。日本軍の戦車は軽量で装甲が不十分で、乗組員の保護は皆無であった。クェゼリン環礁がアメリカ軍に陥落するまでに、日本軍は約8,122人を損失した。飛行場の滑走路を持っていた南部のクェゼリン島と北部のロイ島とナムル島は、マーシャル諸島で最初に奪還された島であった。主な戦闘の目的は、ほとんどの諸島にある滑走路を占領することであった。滑走路は爆撃機用に改造されて、東京大空襲への踏み台になった。
太平洋戦争にて1944年1月31日に、アメリカ軍はマーシャル諸島の中心部にあるクェゼリン環礁に対して水陸両用の攻撃を行った。1944年2月1日に、クェゼリン環礁の戦いの前に、日本軍に対して約2ケ月間にわたり最も集中した砲撃の標的となった。近くの小島からの艦艇と地上砲から、約3万6千発もの砲弾がクェゼリン環礁を襲った。アメリカ軍のB-24爆撃機が島を空中から爆撃して崩壊した。クェゼリン環礁に配備された約8,782人の日本軍兵士(韓国人の強制徴集者も含む)のうち、約7,870人の日本軍兵士が殺害された。約90%の死亡率で、わすが917人が生き残った。1943年11月21日から11月23日に中央太平洋のギルバート諸島の小さなタラワ環礁で、日本軍を壮絶な犠牲を伴って血なまぐさく全滅させた。その後の太平洋戦争は、日本軍兵士を最後まで殲滅する前兆となった。
マーシャル人の多くは戦闘直前にカヌーで島から逃げたが、戦闘中に約200人が死亡した。塹壕に避難したマーシャル人は、手榴弾によって避難所が破壊されて殺害された。1944年2月6日に、クェゼリン環礁は、マーシャル諸島の他の地域とともに、アメリカ軍の下で国連の信託統治領として指定された。
2021年4月10日土曜日
CP-1原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。
CP-1(Chicago
Pile
1)原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。CP-1原子炉により、原子爆弾の材料となるプルトニウム239を生成する原子炉となった。その4周年記念日である1946年12月12日に、シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で、CP-1の原爆科学者らは原子爆弾に寄与して栄光の勝利を得た集合写真を撮影した。アメリカは1942年8月3日からニューヨークのマンハッタンに拠点を設置して、科学者のグループと軍隊が秘密裏に協力して原子爆弾を実験し始めていた。その直後にCP-1は、マンハッタン計画の原子爆弾開発に組み込まれた。
核兵器時代は、1945年7月16日午前5時30分に始まった。ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティで核兵器が炸裂した。日本の降伏を余儀なくさせて、第二次世界大戦を終結させた広島と長崎への原爆投下の前奏曲となったトリニティ実験は、科学者、民間企業、アメリカ軍による原子核分裂を引き出す脅威的な悪魔の集大成であった。第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツが、もし最初に原子爆弾を設計できたら、連合国の勝利もほとんど失われる。アメリカのマンハッタン計画は、世界初の原子爆弾を設計するために、世界大戦から地球大戦までも巻き込んだ。オークリッジ、ハンフォード、ロスアラモスでの秘密裏の核兵器の起源から、アメリカ軍が枢軸国の勝利を奪い、日本に勝利した日まで、マンハッタン計画が展開された。
核兵器の歴史の頂点に立つマンハッタン計画は、アルバート・アインシュタインの有名な方程式
E = MC2 を驚異的な専制国家に対して炸裂させた。アインスタインは1907年に、エネルギー(E)= 質量(m) ×
光速度(c)の2乗 質量とエネルギーの等価性の方程式を仮設した。つまり、どのような物質からも光速度の2乗もの無限で膨大なエネルギーを生み出すことを証明した。宇宙空間の無限で膨大なエネルギーから物質の誕生を示唆した。原子爆弾を生み出したマンハッタン計画は、科学者のロバート・オッペンハイマーが率いて、1945年7月16日に実戦的な核兵器を実現した。そのプロジェクトは、実際にはアインシュタインとレオ・シラードの手紙からルーズベルト大統領が発現された。マンハッタン計画は、核連鎖反応を引き起こした最初のプロジェクトであり、原子核が分裂し続けて炸裂する地球の存在を脅かした。
シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で行われたCP-1(Chicago Pile 1)原子炉のパイオニアが4周年記念で再会した。後列、左から右:ノーマン・ヒルベリー(Norman Hilberry)、サミュエル・アリソン(Samuel Allison)、トーマス・ブリル(Thomas Brill)、ロバート・G・ノーブルズ(Robert G. Nobles)、ウォーレン・ナイアー(Warren Nyer)、マーヴィン・ウィルケニング(Marvin Wilkening)。中段:ハロルド・アグニュー(Harold Agnew)、ウィリアム・シュトルム(William Sturm)、ハロルド・リヒテンベルガー(Harold Lichtenberger)、レオナ・W・マーシャル(Leona W. Marshall)、レオ・シラード(Leo Szilard)。前列:エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)、ウォルター・H・ジン(Walter H. Zinn)、アルバート・ヴァッテンベルク(Albert Wattenberg)、ハーバート・L・アンダーソン(Albert Wattenberg)。
2021年4月9日金曜日
朝鮮戦争にて韓国側の巨済島の捕虜収容所にて、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発し、連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。
韓国の巨済島の捕虜収容所において、1953年6月に、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発した。連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。射殺された北朝鮮軍兵士の多数の死体は、収容所内に並列して安置された。雑誌LIFEには、死者の顔は撮影しない内規があったが、写真には多数の死体から多量の出血が流出して、全裸とされて下半身だけを毛布等で覆われた。もう1ケ月もすれば、韓国軍とアメリカ軍が、北朝鮮と休戦協定により、捕虜収容所は解放される予定であった。
巨済捕虜収容所(Geoje-POW Camp)は、朝鮮戦争当時に、捕らえた朝鮮人民軍と中共軍捕虜を収容するために1951年2月に巨済市を中心に巨済島の一帯に設置されて、1953年7月まで運営された捕虜収容所である。韓国の南端の巨済島に位置した朝鮮戦争当時の捕虜収容所は、1951年2月末までに朝鮮人民軍捕虜約15万人、中国軍捕虜約2万人など、最大約17万千人もの捕虜を収容した。1953年6月18日に、連合軍の管理下にあった巨済捕虜収容所の北朝鮮への強制送還を拒否する反共捕虜の約27、389名を李承晩大統領が釈放させて、7月27日の停戦協定の調印に合意して収容所は閉鎖した。
休戦会談の最大の障害となったのは捕虜問題であった。国連軍の持つ捕虜は適正に管理されるが、北朝鮮の共産軍の捕虜数は半分以下しかない。中国と北朝鮮は、捕虜の全面的な交換を求めた。共産軍は捕虜を虐殺して、さらに捕虜を自軍に編入して戦闘に強要した。共産軍側はソウルやその他の都市を占領した時に、占領地域で多くの若者を強制徴募して北朝鮮軍に編入した。そのため捕虜の朝鮮人は、捕虜交換で北朝鮮に送還されるのを拒否した。中国軍兵士も含めて過半数が北朝鮮に帰還するのを拒否して、問題は複雑になった。巨済捕虜収容所では統制が緩いため、共産と反共産の捕虜が分離していない集団の中で多数の暴力事件が発生した。
1952年5月7日、共産捕虜は巨済捕虜収容所所長のアメリカ陸軍のFTドッド准将を拉致した。その釈放の条件として捕虜の処遇改善、自由意思による捕虜の送還方針の撤回、捕虜の審査を停止し、捕虜の代表委員団認定などを提示した。この暴動は、洛東江戦線にて、アメリカ軍1騎兵師団に降伏したイハクグらが主導した。アメリカ軍は交渉を拒否して対立して、アメリカ軍が発砲して捕虜が約70人死亡し、140人余りが負傷した。
共産捕虜は拷問・暴行・虐待などを拒否し、平壌からの指示に基づいて、1952年6月20日を期して全捕虜収容所で一斉に蜂起する反乱計画を立てた。新た国連軍司令官に任命されたマーク・クラークは、暴動事件を防ぐために捕虜の分散収容を決定して、HLボート准将を捕虜収容所長に任命した。6月7日から10日に釜山捕虜収容所で共産捕虜がガードに反抗している途中に1人が殺害された事件をきっかけに、改めて暴動が起きた。ボートナー准将は6月10日にドッド准将を救出しながら捕虜を分散収容し始めたが、その過程で105人の反共捕虜が共産捕虜によって殺害された。
2021年4月8日木曜日
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。焼夷弾により黒焦げになった焼死体が散乱していた。その焼死体をかき集めて、トタン板で覆って収容した。多数の横浜市民が周囲に立ち尽くして、身寄り親族を探索した。
横浜大空襲(Bombing of Yokohama)は、第二次世界大戦末期の1945年5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心街に対する無差別爆撃である。B-29爆撃機の約517機とP-51戦闘機の約101機による焼夷弾攻撃により、約14,157人の横浜市民の犠牲を出した。横浜市の旧市街地に無差別の約2,570tの焼夷弾の爆撃とP-51により銃爆撃されて壊滅した。約79,017戸の家屋が破壊されて、市街地の約42%が焼失した。
連合軍は第二次世界大戦中に日本に多くの空襲を行って、都市部を大規模に無差別に破壊して、約333,000人が死亡して、約473,000人の日本人市民が負傷あるいは行方不明となった。太平洋戦争の戦略的爆撃は1944年6月から始まり1945年8月15日の終戦まで続いた。マリアナ諸島の航空基地が利用可能になった1944年11月頃から大幅に拡大された。アメリカ陸軍航空軍のカーチス・E・ルメイは、1945年3月初旬に、選択された標的に対する昼間の精密爆撃から、日本の都市の夜間の焼夷弾攻撃に切り替えを決定した。日本軍の武器製造する多くが小さな工房や自宅に対して、爆撃機は都市部に対する低高度の夜間の焼夷弾の投下に切り替えた。日本の軍事防衛は連合国の空襲を止めれず、戦闘機と対空砲は不十分であり、頻繁に運用されるB-29爆撃機の高度に到達するのが困難であった。
日本の都市部は木造建造物が多く、焼夷弾攻撃に対して脆弱であり、消防訓練と装備が不足して、民間市民のための防空壕は乏しく、深刻な犠牲が出た。都市部は人口が密集しており、ほとんどの建物は紙や木などの可燃性の高い材料で建造されていた。都市部の産業および軍事施設は、人口密度の高い住宅地帯に囲まれていた。アメリカ軍が火炎放射器や焼夷弾に使用したナパーム弾の生産量は、1943年の約0.23ktから1944年には約3.6 ktに増加した。ナパーム弾の多くはアメリカの9つの工場から爆弾組立工場に移転された。焼夷弾による無差別爆撃は、標的の精密爆撃からの逸脱の戦争犯罪であり、アメリカ軍は戦争を迅速な終結する必要性と犠牲を喧伝して戦争を正当化した。














