2020年8月27日木曜日

ドイツ軍の落下傘兵士がイタリア戦線にて殺害されて、死体の鼻や口から出血して、右手の中指には結婚指輪をはめていた。

第二次世界大戦のイタリア戦線にて、イタリア北部のトレンティ付近のイディツェにて、連合軍によりドイツ軍の落下傘兵士が1945年4月20日に殺害された。イタリア戦線にてドイツ軍が降伏して終戦日となる5月2日まで、生き延びることはできなかった。野原に放置された死体は、鼻や口から出血していた。死体の右手の中指には、結婚指輪をはめていた。左手の近くには、手榴弾が併置されていた。どのような戦争でも、犠牲になるのは市民と家族である。

 イタリア戦線は、第二次世界大戦中に西側連合国にとって最も困難で多大な犠牲に物議を伴った。ドイツ軍が1943年9月から1945年の春の戦争の終結まで双方に多大な犠牲を伴う遅延攻防戦となった。イタリア戦線の最終戦となる1945年春の連合国軍のイタリア北部の侵攻は、1945年4月6日から5月2日まで勃発した。その死闘で連合軍は約16,258人が犠牲となり、ドイツ軍は約30,000人が犠牲となった。1943年7月2日から1945年5月2日のイタリア戦線の間に、連合国軍兵士は約60,000人〜70,000人、ドイツ軍塀はで約38,805〜約150,660人の兵士が死亡したと推定された。イタリアのファシスト政権が崩壊するまでに、イタリア人は約200,000人が犠牲となった。イタリアの民間市民は、約150,000人が死亡した。 
 終局となる1945年4月6日から、連合国軍はイタリア北部で、ドイツ軍と供給源を大爆撃した。約825機もの重爆撃機と砲兵隊が北部近郊に大爆撃した。4月14日には、アメリカ軍が約2,000機体の爆撃機と約2,000人の砲兵により大爆撃した。4月20日までに連合軍は、ドイツ軍の防御地帯を突破して、ポー渓谷に到達した。イタリア北部地帯を侵攻してドイツ軍を圧倒して、4月21日にボローニャ、4月22日にポー川、4月23日にボンデノ、4月29日にバドヴァなどの各都市を占領した。その途上で、イタリア人のパルチザンは、約5,000人のドイツ軍の駐屯隊を捕虜にした。
 1945年4月の侵攻により、ドイツ軍はあらゆる地域からで撤退し、戦闘力のほとんどを失った。ドイツの抵抗が崩壊するにつれて、連合国は圧倒的な追撃をした。ドイツ軍兵士の列が必死にドイツ本国に戻ろうとした。ドイツ軍は独断で4月29日に連合国軍に休戦を求めて、5月2日に正式に降伏して、イタリア戦線は終結した。



2020年8月26日水曜日

アメリカ軍の空爆されたバグダッドの住宅地の建物から、イラク人の救急隊員が黒焦げに炭化した子供の死体を回収した。

1991年2月14日の湾岸戦争にて、アメリカ軍の爆撃機の空爆により、防空壕となる避難所を爆撃した。バグダッドの西郊外の住宅地であるアミリヤ地区の建物から、イラク人の救急隊員が黒焦げに炭化した子供の死体を回収した。さらに約500人以上の女性と子供が、アメリカ軍の爆撃機機からの2つの精密爆弾ミサイルが地域を攻撃した後に殺害された。多国籍軍は、最新鋭の兵器でピンポイント攻撃を強調したが、その精度が逆に民間市民に近距離の爆破となり、多数の無差別に民間市民が巻き込まれて死傷した。2月24日にはバグダット西部のアメリーヤ地区の司令部へのミサイル攻撃により、非戦闘員のイラク市民の約293人が殺害された。
 イラク軍は、1990年8月2日からのクウェート侵攻と占領から湾岸戦争が勃発した。国連は1990年11月29日に、イラク軍に対して1991年1月15日までに撤退を勧告した。その後なら国連は多国籍軍による武力行使を容認した。1月17日の深夜から、アメリカ軍は巡航ミサイルをイラクに発射して、首都バグダットなどを空襲した。1月23日には、アメリカ軍は、戦闘爆撃機によりイラクをイラク爆撃した。逆に、イラク軍は、1月22日から1月25日にイスラエル・サウジアラビアにスカッド・ミサイルを打ち込んで、甚大な被災で殺害あるいは負傷された。1月31日にも、多国籍軍は首都バグダットが空爆して、サウジ領内でイラク軍に反撃を受けた。2月22日にイラク軍は、クウェートの油田地帯を破壊と放火をした。
 2月15日にイラクは条件付き撤退を表明したが、アメリカ軍が拒否して2月23日の最終期限を切った。2月24日午前4時から、地上戦に突入した。多国籍軍が一斉に、イラク領内に侵攻した。アメリカ軍を主体とする多国籍軍による地上戦により、約100時間でイラク軍は撤退して湾岸戦争は終結した。多国籍軍の圧倒的な最新の殺人兵器により、イラク軍は圧倒された。アメリカ軍は、ベトナム戦争の二の舞を避けて、膨大な軍隊と武器を集結した。砂漠上でイラク軍の抵抗は減弱して、それまでに逃亡者が続出した。クウェートからイラクのバスラの間の道路上に多数の爆破された車両が残存した。 2月24日からアメリカ軍の多国籍軍は、電撃的にイラク領内に侵攻した。2月26日には国営イラク放送が、イラク軍に対してクウェートからの撤退命令を伝えた。2月27日にクウェートは開放された。イラクは、2月27日に国連決議を受け入れて停戦を国連に通告した。アメリカは、2月28日に午前0時に湾岸戦争の戦闘停止を宣告した。

 


2020年8月25日火曜日

タラワの戦いにて、若い日本軍兵士がアメリカ軍に殺害された。その死体が海外に仰向けに倒れて、太平洋の波打ちに漂った。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、若い日本軍兵士がアメリカ軍に殺害された。その死体が海外に仰向けに倒れて、太平洋の波打ちに漂った。タラワ環礁のベティ島の周囲には、水に浮かんでいる死体、半水没した死体、砂浜で無理な姿勢で変形した死体が散乱した。 
 第二次世界大戦中に太平洋戦争において、タラワの戦い(battle of Tarawa)が1943年11月20から23日に勃発した。ギルバート諸島のタラワ環礁にある小さなベティオ(Betio)島に派遣された約18,000人のアメリカ軍兵士は、多大な犠牲を伴って占領した。干潮により、一部のアメリカ軍の着陸船はペティオ島を一周するタラワ環礁のサンゴ礁で頓挫した。沿岸の日本軍の砲火が停滞した着陸船を叩き、絶望的なアメリカ軍塀は、着陸船を解放することをあきらめ、代わりに数百ヤード離れた岸に向かって、日本軍の砲火に囲まれて、胸までの深い海中を歩いた。タラワ環礁のベティオ島を要塞化して潜伏した約4,800人の日本軍からの激しい抵抗にもかかわらず、アメリカ軍は双方が犠牲を負った流血の約76時間の戦いの後に、ついにアメリカ軍はペティオ島を占領した。
 1943年11月20日だけで、約5,000人のアメリカ軍兵士がペティオ島に上陸するまでの過程で、少なくとも約1,500人が戦死傷あるいは行方不明であった。11月23日には日本軍の残兵が、アメリカ軍と兵器の場所を偵察し、夜間と早朝を通していくつか部隊がアメリカ軍のバンザイ突撃した。アメリカ軍は砲兵と海軍の砲火に支えられて、初めて数時間の近接戦闘である白兵戦にて撃退した。アメリカ軍兵士は、約1,696人以上が戦死して、2,300人が戦傷した。夜間には野原に約600人近くの日本軍兵士の死体が散乱していた。日本軍兵士は全滅して約4,800人の約97%が殺害された。捕虜は約146人で、その内の17人のみが日本軍兵士で、その他が強制徴兵した朝鮮人であった。占領した陣地には、転がる日本兵の死体の多くは自決した痕跡が残っていた。戦争に巻き込まれた市民らは、日本軍兵士として時代の思想で操られ、時代に翻弄された。私意が許さない時代に諦めて、戦争を唯一の選肢とした。全員が突撃して玉と砕け散る玉砕が、強制的な自殺となる自決はとても悲惨で無益に至った。アメリカ軍兵士が戦闘するのは、世界で最強である信念と連帯意識による名誉であった。最も敵を憎むものこそ最もよく敵を殺す。ただ仲間が大勢日本兵に撃ち殺されるのを体験すれは、激しい憎悪で洗脳された。

 

 

2020年8月25日 Japan No War (JNW) 
日本平和の市民連盟 視聴回数 440,000回

 

2020年8月24日月曜日

日中戦争中の1937年に、日本軍により殺害された中国軍の中国人兵士が殺害されて地面上に上向きに倒れて死亡して、大量出血した血液が体内から流出して地面に流れ込んだ。

1937年7月7日に北京郊外にて勃発した盧溝橋事件を起点として、1945年9月22日まで第二次日中戦争が、中国全土にて繰り広げられた。日本政府は直ちに日本軍に華北派遣を決定した。国民党政権に対抗して衝突した。日本軍は、7月30日に北京と天津を占領した。直ちに、8月13日には上海事変から日中戦争が中国本土の一帯に膨大に拡張した。日中戦争中の1937年に、日本軍により殺害された中国軍の中国人兵士が殺害されて地面上に上向きに倒れて死亡した。大量出血した血液が体内から流出して地面に流れ込んだ。

 日本軍はすぐにすべての主要な中国の港湾と中国の首都南京や上海などの都市を含む産業の中心地を占領した。残忍な紛争となり、日本軍も中国軍の双方が「焦土」戦術を使用して、虐殺と残虐行為が一般化した。最も悪名高いのは、1937年12月の南京陥落後に、日本軍は推定30万人の南京の民間市民を虐殺して、約8万人の女性を強姦したと証言された。日本の空軍による都市の無差別爆撃で、何千人もの中国人が殺害された。日本軍の侵略者に対して、中国軍兵士はゲリラ戦争を繰り広げて、補充された隊列が待ち伏せして孤立した日本軍部隊を攻撃した。中国軍兵士のパルチザンによる攻撃に対する報復として、中国人の農民に対して行われた野蛮な報復もあった。日中戦争の犠牲者は、日本軍兵士は約455,700人から約700,000人が戦死した。約1,934,820人が戦傷または行方不明と推定された。中国軍兵士は約1,320,000人が戦死して、約1,797,000人が戦傷して、約120,000人が行方不明と推定された。

 1937年11月には日露戦争から以来の大本営が東京に設置された。大本営からの指令で、12月13日に南京を占領した。日本軍は、占領後に非戦闘員の南京市民や捕虜に対して、略奪、虐待、虐殺を執行して南京虐殺事件を引き起こした。1938年には、徐州、広東、武漢の三鎮を占領した。11月3日に、日本政府は東亜秩序建設を宣告したが、和平交渉は頓挫した。さらに日本軍は、南進政策により、南部仏印であるフランス領インドシナ半島に侵攻して、連合軍と日本軍との対立と緊張とが高まった。日本政府は中国の侵略を聖戦として、世界の八隅を一つの屋根の下の八紘一宇をプロバガンダとした。1940年に、聖戦を信じる国会議員連盟を発足させた。1941年12月に中国と日本の双方が正式に宣戦布告したとき、大東亜戦争に置き換えられた。日本に対して最も重要な石油の経済制裁による西側の連合国の介入が、日本軍が真珠湾でアメリカを攻撃して、極東で第二次世界大戦を勃発する応答となった。

 

 

2020年8月23日日曜日

イスラエルと同盟したレバノン軍団が、サブラ・シャチラパレスチナ難民キャンプに侵入して、無差別に残忍な大虐殺を行った。

1982年9月、イスラエルとの同盟を結んだ急進的なキリスト教マロン系右派民兵のレバノン軍団が、レバノンのサブラ難民キャンプとシャチラパレスチナ難民キャンプに侵入した。 ライフル、斧、ナイフなどで、女性、子供、祖父母も含めて無差別に残忍な大虐殺を行った。パレスチナ人難民の頭部を骨折され、舌を切り落とされ、目を刺さされ、皮膚をはがれた。一部は削られて細かく砕かれた。9月23日までに、国際赤十字は約2,750人もの死体を発掘して収集した。逃避するすべてのパレスチナ人を収容所を囲むイスラエル軍によって撃たれた。1982年9月16日、イスラエルのレバノン侵攻に続いて、右翼のクリスチャンファランゲ民兵が西ベイルートのサブラ難民キャンプとシャティラ難民キャンプを襲撃し、虐殺を開始した。
 サブラとシャティラ難民収容所は、ほとんどの居室は2つの非常に小さな部屋で構成された。1つは家族全員が眠る寝室、もう1つは一種のリビングルームである。換気もなく、電気はほとんどない。ほとんどの家族は電池式の照明を使用した。水道のパイプは腐食して、水は細菌が多く、飲用は禁止された。下水も流れる狭い路地から、収容所を通り抜けた。混雑した状態から悪臭が発生して、衛生状態が悪かった。病気の薬は不足して、病気が蔓延した。
 イスラエル軍のレバノン侵攻は1982年6月6日から勃発した。パレスチナ人の軍事的・政治的勢力を一掃して、ベイルートに親イスラエルな政権を確立を目指した。多くの破壊の後に、難民収容所を擁護してきたパレスチナ解放機構(PLO)は、1982年8月にレバノンの撤去を同意した。PLOは、取り残された市民が保護されるアメリカの保証を得ていた。キリスト教の最強民兵であるレバノン軍のリーダーであるバシール・ジェマイエルが大統領の就任宣誓の前の9月14日に暗殺された。ベイルートでの大爆発による暗殺、はキリスト教徒に衝撃を与え、民兵のレバノン軍団を激怒させて、わずか2日後にサブラとシャテーィラを攻撃して報復した。イスラエル軍は侵略して、西ベイルートを占領して、難民が逃避できないように収容所を包囲した。イスラエル軍は、パレスチナ人の既知の敵であるファランゲ民兵の侵入を許可した。イスラエル軍は夜間に照明弾を発射して、殺害領域を照らした。ファランげ民兵は、難民収容所の狭い路地を通り抜けた。それからパレスチナ人難民を約36時間も虐待と虐殺した。大量虐殺が終了してから、イスラエル軍はブルドーザーで、パレスチナ人難民の死体を埋葬する大量の墓を掘った。
当時の国防相だったアリエル・シャロンは流血と復讐の危険を無視した責任を負されて辞任した。

 

2020年8月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して8月下旬頃に、城山町の荒野に「故人の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市に投下されて炸裂した。爆心地からわずか約500mの城山町は、全域が壊滅して原爆死した。8月下旬頃に、城山町の荒野に「倉橋満嘉子の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。おそらく原爆死を免れたと思われる夫か父親のどちらかの身内が、妻や娘の遺体を火葬した後に、そこに目印として置いていた。その銘板の地下には、火葬した遺骨の一部は埋葬されたと思われる。その他の不詳不明の多数の多量の遺骨は、そのままに城山町の荒野にそのまま放置された。

 長崎市城山町は爆心地からわずか500mの近距離で甚大な被害を受けた。秒速約250m以上もの猛烈な爆風と熱線を受けて、一体は崩壊して炎上した。城山小学校の近くの住宅は全滅で道路だけが残存した。まっ黒に焼かれた死体が散乱した。付近の浦上川は、長崎原爆の被爆者が水を求めて集まり、折り重なり死体で一杯であった。骨だけの上に皮膚がぶら下がった死体、真っ黒い顔の死体、一面焼け野原の中に無数の真っ黒な死体が転がり、異臭が漂っていた。城山町は全焼して、生存者でも生きながらに炎に包まれ焼け死んだ。泥水に水を求めて、無数の死体で埋まった。つかむように手を上げて、目をむき出して、すごい形相していた。被爆者は家族との再会を願いあちこち探しまわった。 

 城山町の周辺では、家屋や工場が一瞬にして破壊され、人間や動物が殺害された後に、数え切れないほどの火災が発生し、翌日8月10日の午前1時まで燃え続けた。空襲警報の解除後に原子爆弾が炸裂したため、避難所に避難したのはごく少数であり、結果として比較的大きな被害が出た。夏季であり、灼熱のためにうじ虫とひどい死臭のために、死体はすぐに火葬する必要があった。1945年9月中旬に長崎市を訪れたアメリカ海軍将校は、原子爆弾の炸裂から約1か月以上経過した後も、「死と腐敗の匂いが地域に広がっていた」と報告した。 

 

 

2020年8月21日金曜日

ナチス・ドイツ末期に、母親は2人の子供に目隠して殺害した後に、母親も自殺をして、隣人の婦人が子供らに毛布で覆い隠した。

第二次世界大戦のナチス・ドイツの終末期に、1945年5月にドイツのシュヴァインフルトにて、家族の集団自殺の悲劇が起こった。ナチス・ドイツ軍の父親は、シュヴァインフルト侵攻して来る連合軍と郊外で戦闘をして殺害された。それを知った母親は、敵方の連合軍の報復によって、家族はすべて虐待と虐殺されると思い込んだ。その前に、安らかな死を迎えられるように、母親は2人の子供に目隠しをして殺害した。その殺害後に、母親も自殺を遂げた。隣人の婦人が、殺害された2人の子供に毛布をかけて覆い隠した。

 アドルフ・ヒトラーの第三帝国の野望は、1945年の春に時期尚早に消滅して、988年の第二帝国で終結した。ヒトラー自身は、1945年4月29日に結婚後して、わずか1日半の妻であるエヴァ・ブラウンと一緒にベルリンの地下壕でヒトラー自身の手によって自殺して心中した。敗北した高位から低位までのナチス・ドイツ人は、それを模倣した自殺が繰り返された。発見されて逮捕されたナチス幹部の当局者は、連合軍により、戦争犯罪法廷に拘留された。

 ヒトラーの枢軸同盟国であるイタリアのベニート・ムッソリーニは、彼と彼の愛人クラーラ・ペタッチは、イタリアの正規軍ではない反武装組織であるパルチザンに北部国境で捕まり処刑された。ヒトラーの自殺の2日前である1945年4月28日に裁判もなく銃殺された。ミラノに運搬された死体は、ロレート広場で報復されて逆さ吊りの悪名高く残酷な終焉を迎えた。ドイツ中にて、十字軍以来ヨーロッパが見た最も雑多な群集が移動と集散した。ホームレスのポーランド人、チェコ人、ハンガリー人とロシア人、そして終戦で突然に発生した何百万人ものホームレスのドイツ人がが殺到した。市民をホームレスにした特権階級らは、ドイツ人市民への同情は乏しかった。連合軍が見ていない時はいつでも、彼らはかつて新秩序の基礎として称賛された都市や町を略奪することにより、彼らが受けた以前の苦痛への復讐をした。

 シュヴァインフルトは、バイエルン州北部のマイン川沿いに位置する約52,000人の工業都市であるった。第二次世界大戦中の減摩軸受製造の中心であった。特に航空産業に必需品であった。連合軍は、ナチス・ドイツ軍のベアリングの約半分を製造していた。連合軍は、1943年8月17日に最初に空襲をした。ドイツ空軍の反撃で、連合軍は約341人の犠牲を伴った。その後に、空襲で被害を最小限にするためにベアリング産業を国内に分散化していた。その後にもシュヴァインフルトは、連合軍の約2,285爆撃機で、約22回も膨大な空襲を受けて、工場地帯だけでなく市内全域に無差別の空襲により報復されて廃墟になった。しかし、分散化により、ベアリングの供給は保持された。

 

 

2020年8月20日木曜日

エンゲビ島の戦いで、手榴弾を投げるために穴から出た日本軍兵士を、アメリカ軍は火炎放射器で生きたまま黒焦げに焼死させた。

太平洋戦争にてエンゲビ島の戦いは、マーシャル諸島のエネワタク環礁の北端で勃発した。1944年2月17日に、アメリカ軍はエンゲビ飛行場を爆撃した。1944年2月18日に、アメリカ軍海兵隊がエンゲビ島に水陸両用車両で上陸した。約6時間の戦いで、エンゲビ島にほとんど上陸した。日本軍兵士が手榴弾を投げるために穴から出てきた。アメリカ軍は火炎放射器で日本軍兵士を生きたままで黒焦げに焼死した。火炎放射器から約10秒遅れて洞窟から這い出そうとした日本軍兵士を、アメリカ軍は投降を拒否したと冷酷に判断した。1944年2月22日に、エンゲビ島は掃討を継続して正式に占領したと宣言した。
 火炎放射器は、恐ろしい肉体的傷害と激しい精神的外傷を負わせる。第二次世界大戦で、アメリカ軍はすぐに携帯型火炎放射器を汎用した。火炎放射器の敵兵への威力を観察した。現代は火炎放射器による犠牲者を、不必要に苦痛で非人道的な方法であると考える。犠牲者は、第二次世界大戦中に、アメリカでは化学物質による「慈悲殺害」と呼称した。当時は、火炎放射器の致死性を不十分で不完全な評価であり、迅速で痛みがなく、傷まない殺害と信じた。その結果、火炎放射器による低酸素症や一酸化炭素中毒などによる致命的な評価が欠落した。ギリシャ人が火炎放射器を紀元前424年頃に戦争で初めて使用した。ドイツ軍が初めて携帯式の火炎放射器を、第一次世界大戦に使用した。アメリカは1918年まで戦争に参戦せず、大戦中に火炎放射器の研究または開発しなかった。アメリカ軍が第二次世界大戦の初期の1940年7月にヨーロッパで火炎放射器に注目した。
   第二次世界大戦中の太平洋戦争で、アメリカ軍は火炎放射器の広範な開発、製造、使用するも、致死性、生理学的および毒物学的な影響の不詳であった。火炎放射器は太平洋戦争で、強力な要塞化された陣地をとる日本軍兵士に対して採用された。1944年の1つの化学兵器速報では、アメリカ軍にとり、 火炎放射器が敵に死をもたらす限り、正確な生理学的反応、または死がどのくらい早く支配されたかは重要ではなかった。太平洋戦争で火炎放射器の使用が増えるにつれて、武器の可能性を最大化する優れた戦術を開発した。利用の増加は宣伝が増加して、火炎兵器は論争を引き起こした。新聞は火炎放射器を野蛮で非人道的な恐怖の武器と呼んだ。日本軍兵士は恐怖の武器であると脅迫され、火炎放射器の攻撃に直面したときにアメリカ軍の命を奪ったと報告した。対照的な描写がアメリカ軍によって公開され、要塞化に対する火炎放射器の有効性だけでなく、瞬間的な死をもたらすと報告した。特に弾丸や高爆発物と比較すると、火炎放射器は「慈悲殺人」であると主張した。恐ろしい武器の有効性と殺害力の研究は、火炎放射器の慈悲の武器を終わらせ、火傷、熱曝露閾値、窒息、煙と化学刺激剤による吸入損傷、および一酸化炭素中毒に関する生理学と毒物学の証拠が提示された。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年2月20日のエニウェトク環礁の侵略した。1914年以来日本軍が支配していたマーシャル諸島の支配権がアメリカに渡った。エニウェトク環礁は主に航空基地と艦隊の停泊地として整備された。砂とサンゴ礁の約30の小島からなるエニウェトク環礁に、エンゲビ島は三角形で、両側が約1.6kmの距離にあり、ラグーン側に上陸用の海岸があった。アメリカ軍は、エンゲビ島の南東にある環礁の5つの小島に1944年2月18日着陸した。約5日未満の迅速な水陸両用作戦でエニウェトク環礁を占領した。環礁の北端を形成するエンゲビ島は、環礁で最も重要な滑走路が存在していた。エンゲビ島の砲撃は昼も夜も続き、2月19日から攻撃が激化して、内陸部に急速に侵攻して、エンゲビ島は午後遅くに占領した。環礁の北部では掃討が継続した。2月20日の朝、エニウェトク環礁の南東の最大の島であるエニウェトク島に上陸した。2月21日朝遅くまでに、日本軍は排除された。2月22日に、エニウェトクの北東にある水上飛行機基地のあるパリー島に着陸し占領した。 
 


 

2020年8月19日水曜日

1919年8月6日に、シベリアのカワイグチウンジンスキー付近の岩場の野原で殺害された日本陸軍の山本上等兵の戦死体が発見された。

第一次世界大戦中から日本軍はシベリア出兵(Siberian Intervention)に参戦していた。第一次世界大戦の終結後にて1919年8月6日午後1時30分の曇日に、シベリアのカワイグチウンジンスキー付近の岩場の野原で殺害されていた日本陸軍の山本上等兵の戦死体が発見された。死後に十数日は経過していた無残な死体であった。ロシアの農民主体のゲリラ部隊であるパルチザンにより、山本上等兵は頭部から頸部にかけて開放した創部により上向けに殺害された。

   日本軍のシベリア出兵は、第1次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)末期の1918年8月2日に勃発した。ロシア本土からの撤退は1922年10月25日、北樺太からの最終撤兵は1925年5月15日と、約7年にも及ぶシベリア出兵となった。ロシア革命後に、1918年2月9日にブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和を実現して、ロシア軍は東部戦線から離脱した。ドイツ軍は全勢力を西部戦線に振り向けた。イギリスとフランスは強い危機感から、ロシア政権を倒して、東部戦線に復帰させる作戦をした。東部戦線で捕虜となった同盟軍は、ロシア各地に収容された。同盟軍の捕虜には、チェコスロバキア人が含まれた。チェコスロバキア軍は、ロシア反革命軍として抵抗した。シベリアで孤立したチェコスロバキア軍団を救出する名目で、連合軍と日本軍を中核としてシベリア干渉をした。

  緒戦から日本軍は圧倒的な武力で、ロシア軍を壊滅した。現地の農民主体のゲリラ部隊によるパルチザンで反抗した。1919年2月25日には、日本軍兵士の約44人がパルチザンに包囲されて全滅した。それに対抗して日本軍は報復するために、パルチザンの潜伏する各地の村全体を容赦なく略奪から虐殺して焼失した。アムール川河口のニコラエスクで、約4,000人のパルチザン部隊が、1920年5月24日に包囲した約6,000人の日本人移民と約700人の日本守備隊が虐殺されて焼失した。民間人は約292人、軍関係は約487人、領事館は約5人が殺害された。それ以後は、日本軍は単独のシベリアに残存した出兵となった。日本軍は、その報復として北樺太を占領した。日本軍の士気は低下して、不法行為に至り、軍紀も品行も荒廃していた。

 シベリア出兵には、第一次世界大戦に関与が少ない日本軍は圧倒的に最多で約73,000人、次いでアメリカ軍が約7,950人が参戦した。西部戦線が主力であるイギリス軍が約1,500人、フランス軍が約800人とわずかな参戦であった。第一次世界大戦が1918年11月11日に終結して、連合軍が1920年6月から撤退しても、日本軍だけは1925年10月25日まで残留した。約73,000人もの日本軍は、約1399人が戦死、1717人が病死、総計3,116人が死亡した。ロシア人部隊は、約2,189人が戦死、1,421人が戦傷、約3,482人が病気や傷害の犠牲者が出た。


2020年8月18日火曜日

摩文仁の丘の沖縄戦で、犠牲となったアメリカ軍兵士が、点滴してタンカに載せられるも戦死となり、取り巻いて見守られた。

沖縄戦の最後の攻防戦となった摩文仁の丘の戦いで、アメリカ軍兵士が犠牲となり、点滴してタンカに載せられるも戦死した。その死に至るまでのアメリカ軍の犠牲者を、アメリカ軍兵士が悲壮に取り巻いて見守った。沖縄戦は、沖縄南端の摩文仁で最後の激烈な戦闘に突入していた。アメリカ軍は、司令部のある沖縄南部の摩文仁の丘を占領する攻防戦が勃発した。連結した洞窟とトンネルに潜伏して日本軍から、アメリカ軍は約2,662人の犠牲者を出した。

 1945年4月1日に、アメリカ軍がの嘉手納海岸への上陸して沖縄戦が勃発した。日本軍に劣勢となった沖縄戦も5月中旬には、司令部を置く首里近郊にまでアメリカ軍が迫った。しかし、那覇と首里の戦線をアメリカ軍が突破すると、突如に5月22日に司令部では首里で玉砕するのではなく、南部の喜屋武半島に撤退の指令が下達された。数日の間に各部隊は首里を放棄して南部に撤退した。
 アメリカ軍の上陸から首里攻防に至るまでは、当初か地域の住民の避難や疎開は想定されていた。沖縄南部地域の住民の避難は、軍による突然の変更により、地域住民の多くを巻き込むことになった。深刻な悲劇が引き起こされた。軍の後退とともに住民もその後を追って避難をはじめたが、それはアメリカ軍の砲爆撃と掃討にさらされながらの逃避であり、多くの老幼婦女子がその途上で悲惨な殺害を受けた。

 6月1日未明に、日本軍の司令部は摩文仁の丘の洞窟に到着した。後退の途中、アメリカ軍の砲撃や爆撃機で犠牲となった住民の死体は野ざらして散乱した。6月17日になると南部の沖縄戦は、八重瀬岳と与座岳がアメリカ軍によって侵略されて、摩文仁の丘付近迫った。アメリカ軍の中将は降伏勧告するも、日本軍の砲撃が殺害した。6月18日に、日本軍司令部は、上官の指揮に従い祖国のために最後まで敢闘せよ、と最後の命令を下達した。6月21日に、摩文仁の丘の司令部にアメリカ軍が迫り、反撃するも集中砲火を浴びて全滅して、爆雷を抱いて自爆攻撃を続けた。6月22日に、喜屋武岬でも日本軍は切り込みの突撃攻撃して全滅した。6月22日に、摩文仁の丘司令部の洞窟周辺にアメリカ軍が迫り、摩文仁の丘の山頂も占領された。6月23日の早朝に、摩文仁の丘司令部の洞窟の海側の開口部で司令官は自決した。摩文仁の丘は、第二次世界大戦の最後の地上戦となった。その後にも、アメリカ軍による掃討が続き7月2日に終結した。

 沖縄平和祈念公園は、沖縄南部の糸満市の摩文仁の丘の台地にある。沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」が、戦後50周年となる1995年6月23日に設置された。平和の広場に向かってメイン通路の左側が沖縄出身者、右側が他の都道府県出身者、右手のサブ園路の奥側が外国出身者の刻銘ゾーンとなっている。平和の礎の刻銘者数は、沖縄県149,547人、他府県77,456人、アメリカ人14,010人、韓国人382人、北朝鮮人82人、イギリス人82人、台湾人34人が刻銘されている。

 

 

2020年8月17日月曜日

ニューギニア戦線で、着陸船から狙撃していた日本軍兵士を、アメリカ軍兵士はピストルで射殺して、死体に立ち向かった。

太平洋戦争のニューギニア戦線で、アメリカ軍兵士はピストルで射殺した日本軍兵士の死体に立ち向かった。左の着陸船から狙撃をしていた日本軍兵士と仲間らを殺害した。アメリカ軍は、日本軍兵士を捕虜にすることを望んだ。しかし、日本軍兵は、捕虜となることを良しとせずに、殺害されることを望んだ。破損した着陸船の近くのブナ海岸では、数名のアメリカ軍兵士が、日本軍兵士に殺害されて、死体がブナ海岸にうつ伏せで横たわった。アメリカ軍は、戦争の犠牲者である死体を検問により情報統制を開放して、ブナ海岸に横たわるアメリカ軍の死体の公表を認可した。文字だけでは決して十分でなく、戦争写真が公開されるとアメリカ国民が衝撃を受けて、太平洋戦争に向けた反撃の国威の高揚に導いた。

 太平洋戦争における極東の日本軍に対するアメリカ軍の反撃は、ソロモン諸島、西に約500マイルのニューギニアのパプア半島で重複する戦闘から勃発した。1943年1月までに、数か月前にブギナからニューギニア島に侵攻して、ダグラス・マッカーサーの下で、アメリカ軍とオーストラリア軍は、アメリカ軍を撃退した日本軍を、ポートモレスビーの戦いは、ジャングルでの激しい衝突と戦闘が勃発した。夜中の悪夢は、「暗闇の中で、生きているアメリカ軍兵士は生きている日本軍兵士に遭遇した。」一方で、昼間の戦闘では「殺害されたアメリカ軍兵士の死体に、殺害された日本軍兵士の死体が散乱していた。」ことを訴えた。約6週間の絶望的な戦闘に、マッカーサー司令官は、アメリカ軍の新兵を急いで送り込んだ。司令官は「ブナを捕まえるまで、生き返えるな」と命令した。アメリカ軍は、ブナを占領するまでにさらに約1か月もかかり、約787人のアメリカ軍兵士の命が奪われた。

 ブナの戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦争のニューギニアの戦いの一部であった。1942年11月16日に、アメリカ軍とオーストラリア軍がニューギニアのブナ、サナナンダ、ゴナの海辺から日本の主要な陣地を攻撃した。ポートモレスビーを重要視して、日本軍の幹部らはガダルカナル島を保守することを優先した。ニューギニアでは北東に海岸に撤退するように日本軍に命令した。1942年6月に北海岸に到着して以来、日本軍は十分に隠蔽した何百もの塹壕を相互の連絡を構築した。ココダ・トラックから戻ってきた部隊と合流して、日本軍は当初、北部沿岸に約5,500人近くの軍隊を保持した。戦闘の後半では約6,500人に増員した。日本軍と連合軍の双方が伝染病に襲われ、薬や食料などの最も基本的な物資が不足した。1943年1月2日、連合軍はブナを占領し、1943年1月22日に、非常に困難な状況で激しい戦闘の後、連合軍はほとんどすべての日本軍を殺害または捕獲した。

 ガダルカナル島では、テナル川を渡ろうとする日本軍兵士約200人を殺害する戦闘中に、あるアメリカ軍海兵隊員が失明して英雄となった。日本軍兵士は約は35人から約50人の集団で、アメリカ軍を襲撃した。その夜に、テナル川を渡ろうとした約1,200人の日本軍兵士のうち、約18人が負傷し、約2人が捕らえられて、残り全員を殺害した。しかし、戦闘を乗り越えた時に、英雄となるアメリカ軍兵士は、日本軍の手榴弾により突然目がくらむ閃光と爆発があり、顔面を損傷した。顔面が、湿った粘着性のある果肉となった。英雄は盲目の地獄となり、ピストルでで大騒ぎした。アメリカ軍の仲間は「自分を撃たないで、心配する必要はない。到来する日本軍兵士は殺害する、しかし、盲目な英雄はそれを見ることができない」と諭した。英雄は「目はもう必要ないでしょうね」と諦めた。  

 

2020年8月16日日曜日

広島原子爆弾により、女性が顔面から頸、胸部に熱傷を被爆して、発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。

 広島原子爆弾の炸裂によって、広島市民の女性が顔面から頸、胸部にかけて熱傷を被爆した。熱傷部位から発生したケロイドが皮膚を引きつらせた。 女性ホルモンであるエストロゲンは瘢痕化を促進すると推定された。結果として、閉経前の女性は、閉経後の女性と男性の両方よりも瘢痕が悪化することがよくある。特に、顔面など真皮が厚い皮膚部位は、真皮が薄い部位に比べて、瘢痕が大きくなる傾向があった。

  被爆者の火傷や傷が治癒したように見えた後に、傷跡は厚くなり、ケロイドとして知られる瘢痕をもたらした。ケロイドは、爆心地から約2km(約1マイル)以内で熱線に曝された生存した被爆者の約50〜60%に発生した。ケロイドは、損傷後に形成される瘢痕組織の線維性過成長である。ケロイドの語は、鳥の鉤爪を示唆するギリシア語に由来した。深刻な程度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕形成の比較的高い発生率は、被爆者が2度または3度の重症度である閃光火傷の治癒後に発生した。ケロイドは放射線の被爆で悪化して、しばしば触覚に非常に敏感で、痛み、灼熱感、かゆみを引き起した。

 ケロイドに関連する放射線は、爆弾から1分以内に原子爆弾によって放出された初期放射線と、初期放射線の後に放出された残留放射線の2種類に影響を受けた。身体の未熱傷部分から採取された皮膚移植しても、ケロイドを発達させた。ケロイドは被爆者の心と身体に永久的な傷跡を残した。特に、顔にケロイドを持っている被爆者は、避難所を退所しても、家を離れることを拒否することが多く、背中や肩にケロイドを持っている被爆者は、肌を見えることをためらっていた。広島の多くの被爆者は、原爆攻撃後の夏期でも長袖のシャツを着ていた。他の日本人は「原爆病」を恐れて、その傷跡のために明らかである被爆者の障害者を軽蔑した。 被爆から年月が経つにつれ、精神的および肉体的な深刻な傷跡と逆境に悩まされたる女性と子どもは、一般の健常な市民の軽率な視線に直面して苦悩したいた。

 

 

2020年8月15日土曜日

1942年4月18日の東京の初空襲により、荒川区尾久の民家が炎上して居住した一家6人が残酷にも焼死した死体が散乱していた。

太平洋戦争にて、1942年4月18日の早朝午前8時15分から、アメリカ軍の16機の爆撃機により東京が初めて空襲(Doolittle Raid)された。東京より東方に約965kmの空母から、約13機のB-35爆撃機が飛来した。爆撃機が到来した時には、空襲警報は発令されずに、空襲した後になってから鳴った。東京都民は、初めての戦争の現実に直面して大混乱した。逆に、日本国民は、アメリカ軍の空襲の衝撃よって、戦争の意思が高揚した。アメリカ国民は、空襲が劣勢を挽回して歓喜した。大本営は、平和から戦争の現実から、ますます戦争に突入する起因とした。東京初空襲に引き続いて、川崎市、横須賀市、名古屋市、神戸市なども空襲した。

 アメリカ軍機は、東京湾の海面すれすれの低空飛行で、大川南浜川に侵攻して、海岸の周囲に空爆した。次いで大井滝王子町の付近に多数の焼夷弾を投下した。その他に、荒川区尾久9丁目、王子区稲付1丁目、小石川区関口水道町、牛込区鶴巻町、馬場下町等にも、焼夷弾を投下した。その焼夷弾によって、多数の民家が延焼した。月島方向から品川方面かけて、空襲の弾幕が立ち上った。1942年4月18日の東京の初めての空襲により、荒川区尾久の民家が炎上して居住していた一家6人が残酷にも焼死した死体が散乱していた。爆弾が炸裂して、土穴が開いて、建物は爆風で壁などが吹き飛んで、火災が発生して、残骸が散乱した。警察と消防隊員が、焼死体の検死をして、焼トタンの上に課さるた。無差別な空襲により、男女の区別もできず、哀れな子どもの死体もあった。 東京初空襲による市民の死者数は、約39人に留まった。その他の都市では、約48人の民間市民が死亡した。東京大空襲とは1945年3月10日 の夜間空襲を示唆して、死者数は約10万人以上にも達した。

 

 
 
全国戦没者追悼式 2020(令和2)年8月15日 日本武道館
本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来75年,人々のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき,誠に感慨深いものがあります。
私たちは今,新型コロナウイルス感染症の感染拡大により,新たな苦難に直面していますが,私たち皆が手を共に携えて,この困難な状況を乗り越え,今後とも,人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。
 ここに,戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,過去を顧み,深い反省の上に立って,再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,全国民と共に,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
徳仁(なるひと)上皇第1皇男子 宮内庁

2020年8月14日金曜日

グアム島の戦いで、潜伏した日本軍の地下壕はアメリカ軍に火炎放射器で攻撃され、日本軍兵士の約4人が全身が焼け焦げて焼死した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年7月9日にサイパン島を占領した。アメリカが1898年にスペインから獲得したグアム島を、真珠湾攻撃の直後の1941年12日10日に日本軍は占領していた。日本軍は1944年3月4日に、満州の遼陽から関東軍の一部をグアム島に防御の派遣していた。次いで、グアム島の奪還するために、7月21日から砲撃をして上陸を開始した。圧倒的なアメリカ軍の武力で、上陸地点の緒戦で日本軍は全滅状態となった。グアム島に約5,4891人ものアメリカ軍が上陸した初日だけで、日本軍兵士の約8割に掃討する約17,000人が戦死した。アメリカ軍も初日の上陸日には、約600人異常もの多数の戦死者を伴った。最後に日本軍はアメリカ軍に何度も夜襲をかけるも、ほとんどは壊滅した。残存して潜伏する日本軍の地下壕に対する火炎放射器で攻撃されて、燃え上がった。アメリカ軍の重砲撃と火炎放射器で、日本軍兵士の約4人が全身が焼け焦げて焼死した。日本軍は7月25日に最後のマンガン山攻防戦を決行した。夜襲による白兵線で、武器も弾薬も切れて玉砕して、日本軍兵士は死体山となった。マンガン山攻防戦だけで日本軍兵士の約3,000人が殺害された。犠牲者は、日本軍が約18,500人が戦死して、約1,250人が捕虜となった。アメリカ軍が約2,124人が戦死して、約5,676人が戦傷した。日本軍はサイパン島に次ぐ犠牲者数となった。

 大本営は壊滅状態になった7月27日になっても、グアム島の生存兵士に対して「玉砕戦を避け持久戦を望む」と打電している。生存したわずかな日本軍兵士は、グアム島の北部に逃避した。敗走できない負傷した兵士は自決した。1944年8月11日に、グアム島の司令部の幹部が自決して、グアム島の戦いは終結した。しかし、生存している日本軍兵士らは、ジャングルで飢餓と病気に苦闘しながら、終戦後り1945年9月15日にアメリカ軍に投降した。何人かの日本兵がジャングルに隠れて、1945年12月8日に、3人のアメリカ軍兵士が殺害された。但し、終戦後の28年目の1972年1月24日に最後の日本軍兵士であった横井庄一がグアム島で発見されてた。満57歳で日本本土に「恥ずかしながら帰って参りました」と帰還した。(終戦後の29年目に、1974年2月20日にフィリピンのルバング島で小野田廣郎が発見されて帰還した。)

 

 

2020年8月13日木曜日

日中戦争に向かう済南事件にて日本軍により、済南後方病院に入院していた中国軍の負傷兵が虐殺されて死体が散乱した。

日中戦争に向かう済南事件にて日本軍により、済南後方病院に入院していた中国軍の負傷兵が虐殺されて死体が散乱した。済南事件による中国人の犠牲は、国民革命軍と民間中国人を合わせて、約3,000人から約6,123人、負傷者は約1,450人から約1,701人と中国側の資料に記録された。日本人の犠牲は、日本人居留民の被害者は約400人で、死者は14人、虐待約30人、略奪戸数約136戸、生活困窮者約280人と日本軍参謀本部は記録した。
 済南事件(五・三惨案)は1928年5月3日午前9時半頃に、中国山東省の済南にて発生した虐殺事件である。国民革命軍の一部による日本人襲撃事件から、さらに日本の権益と日本人居留民を保護するために第二次山東出兵された日本軍と、北伐中であった国民革命軍(南軍)と武力衝突事件である。日本軍は旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16人を殺害した。中国側は重大事件として、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。済南事件から、日本軍は第三次山東出兵を派遣した。武力衝突はいったん収まったが、日中軍事当局間の交渉が決裂した。1928年5月8日早朝に、日本軍は済南城への攻撃を開始した。安全地帯と避難路を指定して、国民革命軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。1928年5月11日、日本軍は済南を占領した。1929年3月に日本軍と国民革命軍の合意が成立して、日本軍が撤退した。

 1928年春に国民革命軍は、イギリスとフランスに支援されて、北上して奉天系の軍閥である張作霖を攻撃した。日本軍は、国民革命軍が北方に侵攻するのを阻止するために、日本人移民を保護する名目で、済南を占領した。5月1日に、国民革命軍は済南に入城した。日本軍が発砲して、中国人の兵士と民間市民を大量に虐待と虐殺した。5月3日に、日本軍は再びに大挙して国民革命軍を攻撃した。国民革命軍は、反撃もできずに済南から撤退した。国民革命軍の撤退後に、済南にて日本軍による虐待と虐殺が横行した。中国人兵士と民間市民の約5千人以上も虐殺して済南大虐殺を執行した。
  日本外務省は、済南事件を次のように概説している。北方軍閥を打倒する北伐により、蒋介石が率いる国民革命軍が北上すると、日本政府はこれに対抗して、1927年から1928年にかけて、居留民保護の名目で、3度にわたる山東出兵を挙行した。特に、第2次出兵をきっかけとする両軍の武力衝突は「済南事件」として周知された。済南事件は、外務省記録「済南事件」をはじめ、50冊に及ぶ関係記録があり、アジア歴史資料センターでも公開され、『日本外交文書』(昭和期I第一部第二巻・第三巻)などにも史料が採録された。
 第2次山東出兵にて、日本軍(陸軍第六師団)の先遣部隊が済南に入った一週間後に、蒋介石の国民革命軍も同地に到着した。済南の治安維持を国民革命軍が引き受けることを日本軍側に申し入れた。日本軍側がこれに同意して、済南市内は一旦平和裡に明け渡された。しかし、1928年5月3日、国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店の舗略奪事件をきっかけに、両軍は衝突した。この衝突は即日に停戦となるも、日本軍は5月8日から済南城の占領行動を開始して、再度に戦闘を誘発した。4日間にわる済南城攻撃は極めて激しく、中国軍側に数多くの死者を出した。さらに、済南事件中に、第三次山東出兵により日本軍の増援部隊が派遣されたこともあり、中国軍の排日感情を煽った。6月に開始された両軍による事件解決交渉は、蒋介石の陳謝を強く求める日本軍側に対して、国民革命軍側が態度を硬化させて妥結せず、事件解決は外交交渉に委ねられた。日本側の上海総領事と中国側の外交部長との3回の会談でもまとまらなかった。翌1929年に至り、南京と上海で日本側公使と中国側外交部長との会談で、3月28日に解決諸文書への調印となった。