2020年2月24日月曜日

第一次世界大戦終結前にオーストリア第一共和国を宣言した国民議会を襲撃した武装民兵と共和国軍との銃撃戦で犠牲者が出た。

第一次世界大戦の終結にて、オーストリア=ハンガリー帝國は1918年11月3日に休戦して11月10日に帝國皇帝が退位した。オーストリア共産党による社会的反乱が数回燃え上がった。 1918年11月12日にドイツ系オーストリア国民会議が第一共和国を宣言した。国民議会を襲撃したレッドガードの武装民兵は、共和国軍との銃撃戦があった。共和国軍と共産党デモ参加者が、ウィーン大学前でも武力衝突した。銃撃戦となり共産党デモ参加者が銃殺された。1919年4月17日と6月15日のクーデターも未遂となった。1919年2月に、第2都市のグラーツでも暴動が起きた。
 オーストリア共産党(KPÖ)は、1917年10月25日のロシア10月革命から世界最古の共産党の1つとして、1918年11月3日に正式に設立さた。第一次世界大戦中の連合国軍の海上封鎖により、大戦末期になるとオーストリアで物資から燃料不足と食料不足から飢餓が発生し、各地で労働者の抗議運動が生じた。抗議行動には1918年のイェーナシュトレイクなどのストライキも含まれた。オーストリア労働者運動の左翼がKPÖを結成した。レッドガード(Rote Garde)武装民兵が形成されて、すぐに人民防衛軍(Volkswehr)に統合された。1918年11月12日に、オーストリア共産党はクーデターを試みが、専門的に組織化されておらず、数時間のうちにクーデターは敗北した。
 ナチス・ドイツと1938年3月にオーストリアは合邦となり約7年間も支配された。3月12日にドイツ軍の侵攻に対して、オーストリアは迎合した。ナチス・ドイツは、オーストリアの政敵を粛清して、ナチ党に勧誘して、ユダヤ人の迫害を強要した。


2020年2月23日日曜日

ベトナム戦争にて、8歳の農民の娘が1964年にビンディン省で狙撃されて殺害され、父親が死体を抱きしめて慟哭した。

ベトナム戦争において、ベトナム人の8歳の農民の娘が、1964年にビンディン省で狙撃されて殺害された。殺害されて死後処置された8歳の娘の死体の頭部を抱きしめて、ベトナム人の父親の農民は慟哭しながら道端で喪に服した。ビンディン省は、ベトナムの中央部で南シナ海に面している。
   ベトナム人にとり生まれた故郷は、原則として、可能な限り死の時期が近づいたときにそこに戻るべきだと感じている。ベトナム人は故郷の村を、que cha, que me, dat toと呼ぶ。それぞれ、que chaは父、que meは母、dat toは祖先の土地の発祥地を意味した。これらの呼称は、ベトナムの祖先または祖国という用語に類似した広い意味も持った。ベトナム人の祖先の墓は、彼らの家と畑が占める同じ土地にあった。ベトナム戦争中に執行した鎮圧作戦中に適用された焦土作戦は、西洋の意味では教会の冒涜よりもさらに深刻な屈辱となった。ベトナム南部の何千もの村と村落では、政略的戦闘が日々さまざまな形で発生した。または紛争地域では、異なるアメリカ軍と南ベトナム軍の軍事活動が、政略的戦闘が採用された。単一の村では、特定の日にさまざまな形態の政略的戦闘が同時に展開された。
 アメリカ軍の消耗戦争とその鎮圧作戦はベトナム戦争で惨めに失敗し、南ベトナム開放戦線(ベトコン,NLF)が南部の農村地帯の大部分を支配できた。北朝鮮に対する爆撃の停止と引き換えに、南部におけるベトコン攻撃を中止することを応じるように、1967年を通じて、前例のないレベルまで猛烈な北爆を執行した。アメリカ軍の主要な敵と問題は、北ベトナムではなく南ベトナム領域にあることを、アメリカ軍に気が付かせるために、南の都市部に対するテト攻撃が1968年に展開された。1968年のベトナム正月に開始されたため、南ベトナム側ではテト攻撃と呼び、アメリカ軍は、北ベトナムへの爆撃を中止させられて、南ベトナムにおける虐待と虐殺に追い込まれた。


2020年2月22日土曜日

広島原爆の救護所が8月12日に竹やぶの中でも被爆者が搬送され救護された。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂してから、広島市三滝町に臨時救護所が設置された。8月12日に竹やぶの中にも被爆者が搬送されて救護されていた。救護所、応急処置所、避難所、収容所など機能を特定するのは困難であった。三滝町は、広島原爆の爆心地から約2.5kmに位置した。三滝橋付近には広島第2陸軍病院の三滝分院が、8月6日に設営されて約700人の被爆者を収容していた。爆心地から約半径2km以内ではほとんど家屋が全焼していた。多くの被爆者が道路の両側にいっぱいに倒れて原爆死していた。しかも、死体が約70cmの高さで、両脇に積み重ねられた。どうにか動ける被爆者たちが病院や救護所を求めて避難された。その途中に力尽きて倒れて死亡した。死体が道を塞ぎ通れないため、人々が死体を両側に寄せて積み重ねた。やっと大八車1台が通るほど道幅が狭くなった。
 25歳の女性は、8月6日の夕方に地獄の広島市内から歩けぬ人々を励ましながら、やっと三滝近くの線路土手にたどり着いた。三滝橋を渡ると、太田川放水路の南方の猛火の町と太田川の死体は散乱して漂っていた。己斐方面から歩いて来た男性がそばに来て「広島は大変なことになったけども、助かった今の命をどんな時にでも大切にするんだよ」と私達を励ました。「これをあげます。」と云って、私の水筒にサイダーを入れかえてもらった。死体を前に生き地獄で見た男性からビスケットもたくさんもらった。人情に唯々嬉しく涙こぼれてお礼を申し上げた。広島原爆で亡くなられた人々に合掌した。


2020年2月21日金曜日

第二次世界大戦の緒戦で、イギリス海軍はフランスのダンケルク戦艦に対する砲撃で、甲板上にフランス軍兵士の死体が散乱した。

第ニ次世界大戦の西部戦線の緒戦にて、1940年7月6日にイギリス海軍によるフランス海軍のダンケルク戦艦に対する砲撃後には、甲板上では多数のフランス軍兵士の死体が散乱した。ダンケルク戦艦では、約210人のフランス海軍兵士が殺害された。
 ナチス・ドイツ軍の電撃戦により、6月4日にダンケルクの戦いでイギリス軍とフランス軍が撤退して、6月22日にフランスは占領されて降伏した。イギリスは本土と海上の防衛のために、フランス海軍の艦隊をナチス・ドイツ軍に占拠されないようにメルセルケービル海戦で壊滅した。イギリス海軍はフランス海軍の戦艦を一部を壊滅しただけで、逆にフランス国内はイギリス軍による連合軍の裏切りとして強烈な不信感と不満が溢れた。フランスは7月8日にイギリスと国交断絶した。7月13日にヴィシーでフランス第三共和国を設立してイギリスと対立した。  
 1940年7月3日の夕方にイギリス海軍は宣戦して、フランス海軍の戦艦に対して、メルセメケービル海軍基地で海戦が勃発した。イギリス海軍の巡洋艦がオラン付近で、武装解除されていたフランス海軍の戦艦を攻撃した。短時間の海戦で命中した約36個の砲弾で、約1,297人のフランス海軍兵士を殺害した。それ以降は、イギリス軍とフランス軍の間の衝突が増大した。イギリス遠征軍は、早期にフランス国内からの撤退の対象となった。フランス海軍兵士は、ダンケルク戦艦からの救助の対象から除外された。ナチス・ドイツ軍らの枢軸軍がフランス艦隊を占領して、イギリス軍は深刻な脅威にさらされないように、フランス艦隊を壊滅した。


2020年2月20日木曜日

太平洋戦争のサイパンの戦いにて、バンザイ・クリフのマッピー岬から約80m下に投身自殺して、水没して水死した日本軍兵士の悲惨な死体が海上を浮き上がって漂った。

太平洋戦争の1944年6月15日から勃発したサイパンの戦いにて、アメリカ軍によりサイパン島の北端に追い込まれて逃げ惑う日本軍兵士や在留の日本人が、1944年7月9日に「万歳」と叫びながら、バンザイ・クリフからマッピーの海に飛び込んだ。約80m下に飛び降りて投身自殺して、水没して水死した日本軍兵士の悲惨な死体が、マッピーの海上を浮き上がって漂った。集団自殺した海水は血液で真っ赤に変色して、死体が崖下や海に散乱した。夜間に追い詰められて、行方不明で足を踏み外して転落死した日本軍兵士や在留の日本人も多く出た。
 1944年7月8日には、サイパン島の北西海岸のマタンシャからマッピー、北東海岸のカナベラ峠から月児島にかけて約4kmの間らに、日本軍兵士と在留の日本人が密集した。アメリカ軍は、火炎放射器や爆薬などで徹底的に掃討して壊滅しながら侵攻した。カナベラ峠の北谷に退避した病人と看護婦から慰安婦まで全員が毒薬や手榴弾で自殺した。日本軍兵士と在留の日本人は、逃避するか、自殺するか、降伏して投降に散乱した。7月8日だけで、降伏して投降した日本軍兵士は約350人と在留の日本人は約2,000人に達した。
 7月9日朝から、マッピー岬の断崖から約400mまで日本軍兵士と在留の日本人を追い詰めたアメリカ軍は、一斉に進撃した。日本軍兵士の大半は戦死あるいは自殺した。逃げ場を失った在留の日本人は、手榴弾などで自殺あるいは自ら射殺されて、致し方なくマッピー岬から断崖から自ら飛び降りた。平地に潜在した日本軍兵士と在留の日本人は、アメリカ軍により全員が一掃された。アメリカ軍が容易に進撃できない岩場と断崖から洞窟のあるマッピー岬からパナデルに潜伏した日本軍兵士と在留の日本人は、アメリカ軍の投降を振り切って投身自殺、子どもを道連れに手榴弾などで自殺した。完全なるサイパン島の制圧は、7月9日の約15時15分に終結を宣言した。


2020年2月19日水曜日

第一次世界大戦のギルモンの戦いで虐殺された連合軍兵士の男たちがギルモンの荒野に横たわった多数の死体群が整列された。

第一次世界大戦の西部戦線では、膨大な死体を処理するための墓地を整備した。一時的な木製の十字架が各死体の上に置かれた。第一次大戦後に墓石に置き換えらた。背後には積み上げられた死体を運搬した多数の担架があった。次の死体群は担架に横たえて馬車による運搬を待機した。1916年10月には廃墟となった農村の名称でありギルモンと呼称された。1916年9月3日から6日のギルモンの戦いで虐殺されたオーストラリア軍兵士の男たちがギルモンの荒野に多数の死体群が整列された。1916年10月3日にギルモン村の付近で、戦闘により殺害されて埋葬を待機する連合国軍兵士の若者の死体が墓標とともに横たわった。ギルモンの戦いでは、第一次世界大戦の甚大な犠牲を伴ったソンムの12の戦闘の一つであった。ギルモンの戦いの直後に、北東約1.5kmで9月9日にギンチーの戦いが勃発した。



2020年2月18日火曜日

ブッヘンヴァルト収容所からの「死の行進」にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊は約800人の強制収容所の囚人を虐殺した。

ブッヘンヴァルト収容所からの「死の行進」にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊は約800人の強制収容所の囚人を1945年4月29日に虐殺した。アメリカ軍兵士は、ノインブルク・ヴォルム・ヴァルト近くの森林で1945年5月15日に発掘されたポーランド人、ロシア人、ハンガリーのユダヤ人の死体を検死した。犠牲者は、死の行進中にノインブルクの近くの森林で、フロッセンビュルクの囚人が虐殺された。囚人らは、虐殺前にはノインブルグで強制労働させた。死の行進の囚人たちは、寒さの厳しい中、食料、水、休憩をほとんどなくてあるいはまったく与えられないまま、長い距離を行進させらた。行進に付いていけない人は射殺された。
 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終結に近づき、連合軍はナチス・ドイツ軍を追い込んだ。テューリンゲン州だけでなく、ドイツと占領下のポーランド全体での強制収容所の解散して、囚人に対する犯罪を隠そうと試た。1945年4月に連合国の勢力が西から進軍して以来、危機が迫ったブッヘンヴァルトの中央強制収容所と支部収容所に対して国外に追放する死の行進を、1945年4月7日に命じられた。アメリカ軍から逃避するように約28,000人の囚人が約300km以上の死の行進をした。ダッハウ強制収容所、フロッセンビュルク、テレジエンシュタット・ゲットーの向けて死の行進で強制連行された。ブーヘンベルト強制収容所に残った約21,000人の囚人は、アメリカ軍が到着する直前の4月11日に、強制収容所を解放して支配した。死の行進の全体、特にブッヘンヴァルト強制収容所とそのサブキャンプの犠牲者が何人いたかは、決して明確にはならない。ブッヘンベルトの死の行進による死者数は、死の行進した囚人の約半数の約15,000人に及ぶと推定された。


2020年2月17日月曜日

徐州会戦の戦闘に巻き込まれた中国人の母と女児が虐殺されて、その死体が路上に放置された。

日中戦争の徐州会戦において、1938年5月5日からの徐州市地区の戦いで、日本軍が徐州を5月19日に占領した。その戦闘に巻き込まれた中国人の母と女児が虐殺されて、その死体が路上に放置された。国民党政府は、重慶に撤退した。1938年5月5日から徐州の戦いが勃発した。5月16日には中華民国軍は徐州を放棄して、徐州から南東に向かって江蘇省北部の湖沼地帯に退却した。
 更に、日本軍は南京占領後は戦勝者の立場で和平交渉に臨み、1938年1月に交渉は決裂した。この結果に近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」との声明を出し、中国一撃も外交交渉も断念して、戦争終結の糸口を自ら放棄した。場当たり的な中国作戦を遂行した。
 3月25日に徐州前の台児庄の付近で中国軍の反撃をうけて4月6日には後退した。中国軍は、台児庄の戦いを初の大勝利と宣伝した。4月7日には大本営の戦闘不拡大方針を完全に無視して、徐州攻略を断行した。1938年5月に、徐州付近に終結した約60万の中国軍に対して、徐州会戦で包囲戦を敢行した。約20万人の日本軍は、中国軍を包囲するも、包囲網をすり抜けて脱出した。徐州は占領するも包囲殲滅は失敗に終わった。焦る大本営は中国軍主力が駐屯する武漢と援助物資が流入する広東を占領する作戦に転換した。日中戦争で最大規模の約30万が動員して1938年8月に武漢を、10月には広州を占領した。すでに退却した中国軍は壊滅できなかった。広大な中国に引き込んで、徹底抗戦を訴えた。日本軍は疲弊し、もはや攻勢をかける余力はなく、占領地を維持する持久戦に移行した。日本国力の全てを軍需へ注ぎ込む国家総動員法を発令し、国民を更に戦争へ駆り立てた。1938年末の段階で中国には関東軍を含めて約96万人が動員された。戦死者は約18万人、戦傷者は約32万人で、犠牲を払っても終結を決着させることができなかった。1937年7月から1938年末で日中戦争は、日露戦争は約9万人の戦死者と、戦傷者は約15万人の約2倍にも達した。



2020年2月16日日曜日

ベトナム戦争の虐待と虐殺に巻き込まれたベトナム人母親が、若い3人子供を両腕に抱えて慟哭した。

ベトナム戦争の虐待と虐殺に巻き込まれたベトナム人母親が、若い3人子供を両腕に抱えて慟哭した。ベトナム人父親は、戦傷して重態となり苦悶していた。カメラマンに向けて号泣してベトナム戦争の悲惨を嘆いて訴えた。ベトナム人の村々を掃討するアメリカ軍兵士らが左端に見える。この戦争写真は、アメリカのベトナム戦争の反戦運動の告発映画と出版のシンポルとして貢献した。
 キャロリー・シュニーマン(Carolee Schneemann, Viet-Flakes, 1965, 8:31分, HD, 16mmFilm, https://www.dailymotion.com/video/x59m4ac )1962-67年の5年間にわたり外国の雑誌や新聞から5年間にわたって集められたベトナムの残虐な画像を強迫的なコレクションで構成した。8mmカメラを使用して写真内を移動し、揮発性のアニメーションを作成した。壊れたリズムと視覚的な屈折は、音とコラージュした。ベトナム戦争の効果的な反戦の戦争写真動画となった。彼女などフェミニズムなどの社会運動が、ベトナム戦争を終結する闘争の鍵となった。反戦運動に参加した彼女は、抗議と紛争の反戦の戦略で映画を作成した。政府やマスメディアの公式宣伝とは対照的に、現実の最も急進的な映像によって供給された。
 ベトナム-フレークは、ベトナム人に対して犯された残虐行為を示す多数の写真集で作られた映画である。外国の新聞や雑誌から5年間にわたって収集された写真である。苦痛、拷問、そして死を伴う場面の貼り付けは、さらに不快にする基調で撮影された。サウンドは、ベトナムの聖歌、バッハの断片、1960年代のポピュラーなアメリカ音楽で構成された。戦争の残虐性を強調した。アメリカでは、1968年に世界中で発生した反戦運動に貢献した。 イギリスのCCPGBからは「アメリカのベトナムに対する残忍な戦争を止めてください。(PGBのFarleigh Press、1970年。)」反ベトナム戦争の大型ポスターを啓発した。


2020年2月15日土曜日

19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下した翌日に挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きなガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。

日本赤十字社の19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下して炸裂した1945年8月9日の翌日の9月10日に長崎市内で長崎原子爆弾を被爆して負傷した被爆者を救護した。挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きいガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。看護婦は、医師1名と16人の看護婦と約3人の衛生兵で、長崎の隣県の佐賀市の陸軍病院から救護に派遣された。汽車で、佐賀駅を出発して、長崎原子爆弾の爆心地から北に約3.5kmの道ノ尾駅に9月10日のお昼頃に到着した。直ちに道ノ駅の臨時救護所で診療の補助と療養の世話をした。道の駅の周辺には、横たわった重度の被爆者が散乱していた。白衣に着替える間もなく、制服で救護をした。次々にガラスを抜いたり、チンク油を塗布した。しばらくすると医薬品が枯渇した。軍の命令により、8月15日の終戦まで救護活動を継続した。原爆症により、半年後に白血球が約2,000まで減少した。救護をしていた医療関係者は原爆症を患った。


2020年2月14日金曜日

アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。

アメリカ軍による1964年からベトナム北爆によって、1966年10月21日にハノイのトイダン中学に空爆が直撃した。アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。北爆によりハノイは瓦礫の山となり、爆死から生き埋めになった死体なども掘り出した。
 アメリカ軍は、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件を起点に、最初にアメリカ海軍による北爆が勃発した。1965年初頭からはアメリカ空軍も北爆に参戦した。北ベトナムの北爆は恒常化して、アメリカ軍が本格的なベトナムへの軍事介入をした。1965年4月4日には、北ベトナムのタン・ホア鉄橋を爆撃中に、アメリカ軍と北ベトナム軍の戦闘機が激突した。北ベトナムに対して、ソ連と中国から最新兵器が送り込まれた。アメリカ軍の北爆が激烈になるにつれて、迎撃する北ベトナム軍の戦力も高まった。ホーチミンルートを分断して、ラオス北部においてヴェトナム解放勢力を壊滅するために、最も激烈な北爆を執行した。1967年初頭から激闘に陥り、1967年8月11日には、アメリカ軍はベトナム北部とハノイ市街地を結ぶ重要なポール・ドーマ橋(ロンビエン大鉄橋)が空爆して、修復されると再空爆した。鉄橋は1967年中に3度も破壊され、攻撃と修復の繰り返しは1968年以降も続いた。
 1967年には、アメリカ軍の戦力は最高潮に達するも、泥沼化したベトナム戦争に苦闘した。1968年1月には、北ベトナム人民軍と南ベトナム人民解放戦線が、南ベトナム全土で本格的な軍事作戦であるテト攻勢を展開した。1968年3月31日に、ジョンソン米国大統領は、遂に北爆の部分停止を発表して、北ベトナムに対し和平会談を呼びかけた。1968年11月から、北爆停止が一時的に実施された。1973年1月に和平協定が調印されてから、空爆も終結した。1964年8月から1973年1月までの北爆の全期間を通じて、北ベトナムには約200万個もの爆弾が投下された。


2020年2月13日木曜日

ポーランド在中のドイツ人の自衛準軍隊員は、ポーランドのトルンのバルバルカ森で、多数のポーランド市民を射殺した。

ポーランド在中のドイツ民間人の自衛準軍隊員は、1939年10月にポーランドのトルン(Torun)近郊のバルバルカ(Barbarka)森で、多数のポーランド市民を射殺した。シュトゥットホーフ強制収容所のナチス・ドイツ軍の親衛隊は、処刑場の奥で集団死刑を検分した。バルバルカの森で、1939年10月28日から12月6日までに、約600人のポーランド人が虐殺された。バルバルカは、トルンの北部約3.2km郊外にある森林である。大量のポーランド人の死体は、1994年にナチス・ドイツ軍の証拠隠滅のために、掘り起こして焼滅した。自衛準軍退院はドイツ人の優越性を地域に浸透させるために、ゲルマン系の準軍事的な民間部隊が編成された。
  1939年10月から12月の終わりに、ゲシュタポと自衛軍退院はトルン近郊のバルバルカ森で約600人以上のポーランド人を虐殺した。トルンとその周辺地域にて、特に知識人およびポーランドの社会的および政治的運動家を虐殺した。バルバルカの森での最初の虐殺は、1939年10月28日に執行された。囚人は、強制収容所からバルバルカ森までトラックで強制連行した。次いでポーランド人は強制労働で、大量の墓穴を掘らされた。10月28日初日には、約130人が射殺された。囚人は毎週、時には週2回、バルバルカ森に連行されて射殺された。1940年1月に強制収容所は閉鎖され、生存者はザクセンハウゼン強制収容所とシュトゥットホーフ強制収容所に強制移送された。その後にユダヤ人がバルバルカ森の強制収容所に連行されて強制労働を強要した。1944年にソビエト赤軍が次第に侵攻してくると、虐殺の痕跡を隠すことを目的として、1944年に大量の墓を掘って死体は焼却された。第二次世界大戦後になって、犠牲者の死体がバルバルカの森で発掘された。1945年9月24日と1945年10月19日に、1つの集団墓を除いて空の7つの集団墓が見つかった。残存した見分けできた死体はたった1つの集団墓地で見つかった。トルンの軍事墓地に埋葬された約87人の犠牲者の死体が発見された。戦後になっても、バルバルカ森で虐殺された々の名前は約300個のみが解明された。


2020年2月12日水曜日

ドイツ軍とゲシュタポが、絞首刑された強制労働者のロープが長すぎたために足を地面から離して死刑を執行した。

ナチス・ドイツ軍と秘密警察のゲシュタポは、1944年10月25日にケルンで強制収容所の強制労働者の11人の絞首刑を執行した。民間服を着用したゲシュタポが、囚人のロープが長すぎたために足を地面から離すまで、彼は短時間は生き延びていた。公開処刑に対して、多数の民衆が取り巻いて見詰めた。死体は午後7時までロープ上に残った。ゲシュタポは、1933年4月26日に警察から分離して再編成した。ゲシュタポはドイツ全土に組織を次第に拡大して、無差別の捜査権から密告と虐待を併用した反対者に対する徹底的な弾圧を行い、強制収容所に連行して大量虐殺した。
 第二次世界大戦中に、1939年にはドイツ軍に召集されたために、ドイツの基幹産業などが約120万人の労働者が不足が露呈して、新たな労働力を要求した。ナチス・ドイツの占領地域から約12,000万人もの強制労働者を連行した。ナチス・ドイツが1933年3月29日に政権を奪った。ナチス法に違反した人々に対する死刑の適用を決定が可決された。1933年から1945年の間に法律で処刑された人数は約17,000人に達した。当時の民間市民に対する死刑判決は、人民法院または軍事法廷によって宣告された。特に反逆罪と大量処刑には、死刑が絞首刑によって行われた。特に、ヒトラーの1944年の暗殺未遂の失敗に続いて、ヒトラー自身の命令にり、絞首刑から切断まで死刑を求めて、残忍な方法による大規模な処刑が続いた。
 死刑は、人間社会がその長い歴史の中で最も古い制裁の1つです。 死刑の歴史は、執行者が絞首台に値する犯罪の性質の明確な定義が無かった。歴史上では、多くの死刑の罰が敵に復習する通常の手段であった。17世紀後半にヨーロッパ大陸に広まった啓蒙時代に、先駆者の多くは、法の名の下に政治的敵対者を清算する執行者を再処刑して、教会に閉じ込めた。長年の批判の後に、世界で初めて北イタリアのトスカーナ大公国は、1786年に死刑を公式に廃止した。ヨーロッパは死刑を非人道的な罰として、死刑の廃止を欧州連合への加盟条件とした。犯された犯罪の性質にかかわらず、死刑を拒否が、欧州連合基本憲章に規定された。1950年の欧州人権保護条約は「生命に対する人権」を保護する必要性を確認した。第二次世界大戦後、1949年にドイツ連邦共和国で死刑が廃止されたが、旧東ドイツは1987年に適用された。


2020年2月11日火曜日

日中戦争の南京陥落の前日に、日本軍の空襲を受けて沈没するアメリカのパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。

日中戦争の南京陥落の前日となる1937年12月12日に、アメリカの砲艦であるバナイ(Pany)号が、日本軍の海軍機からの砲弾を受けて、南京上流の約20kmに停泊中に沈没した。日本軍の空襲を受けて沈没するパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。アメリカ海軍の乗組員が約59人、大使館員約4人、記者が約5人、商社員が約2名とイギリスとイタリア記者が各1人らが乗船していた。日本軍による南京攻略戦が1937年12月4日に勃発して、12月13日に南京が陥落した。日本軍の海軍機による連日の爆撃が激しくなり上流に退避していた。アメリカ大使員から日本大使館に、退避しているパナイ号や商船の保護を要請した。上海の日本総領事館から直ちに陸海軍に指示を伝達した。日本軍は午前9時40分頃に、パナイ号を感知して、停止の手旗信号を送った。約20人の日本軍兵士が、パナイ号に乗船して聴取して帰還して、パナイ号はさらに約25km上流にて停泊した。
 アメリカ大使館から警告を軽視して、日本軍兵士には揚子江上の船舶を、無差別な砲撃を指示されていた。アメリカ砲艦であるパナル号は、午前11時の最後の電報からパナイ号からの通信が途絶えた。日本軍の海軍機は、午後13時27分頃から午後2時25分頃までパナイ号を爆撃で空襲した。パナイ号は約24回もの、直撃弾を被弾して浸水した。14時2分頃に、アメリカ砲艦は放棄して非難した。パナイ号を放棄して、救命ボートで北岸に向かった。沈没しているパナイ号に対しても、日本陸軍は対抗した危機防衛として救命ボートにも無差別な機関銃の射撃をした。日本軍機により、死者は約3人と重傷者は約48人に達した。
 その他にアメリカ商船や2隻のイギリス砲艦らも午後3回に空襲されていた。さらに日本海軍の空爆に巻き込まれ、南京に上陸していた日本陸軍の約2人が殺害されて、約3人が負傷した。日本海軍同士の約2隻の船艦にも誤爆をした。近隣の和県から憲兵が、負傷者を病院に搬送したが、重態のアメリカ軍水兵の1人とイタリア記者が死亡した。アメリカ大使館は、日本軍の海軍と陸軍による故意による無差別な爆撃と判断した。



2020年2月10日月曜日

日本軍憲兵は、略奪の横行したビルマのラングーンで、収容施設が枯渇して容疑者らを街路樹に縄で縛り付けた。

日本軍がミャンマー(旧 ビルマ)の首都ぶあったラングーン(現在 ヤンゴン)を占領した。日本軍憲兵は、ラングーン市内で略奪犯が横行するために、ラングーン市民も一味と加担したと容疑した。日本軍は収容施設が枯渇したために、1942年3月頃に容疑者らを街路樹に大きな縄で縛り付けられた。その写真の左端には、不許可の印章とその注意事項が記載された。日本軍から熱帯地方の炎天下にさらされて、虐待と虐殺をされた。略奪犯だけでなく、民間市民も無差別に虐待と虐殺された。
  1942年から1945年にかけて、ヤンゴンはイギリス植民地に代わって日本軍による占領を受けて、第二次世界大戦中は甚大な被害を受けた。日本軍は、1942年3月8日にラングーンを占領して、5月末にはビルマ全域を占領した。日本軍のビルマ占領下で、約17万人から約25万人の民間市民が殺害された。連合軍は1945年5月にラングーンは奪還された。
 日本軍によって日中戦争から太平洋戦争に至る新聞記者が取材した写真群が検閲されて新聞に掲載が不許可となった。大阪毎日新聞社には、従軍カメラマンが撮影した写真が、戦場別に資料室に保管されている。陸軍から海軍および内務省から外務省・逓信省などの官憲が検閲して情報操作と情報隠蔽をした。官憲が検閲を通過した写真で都合の良い写真のみを宣伝に転用した。特に戦場の写真は、掲載される直前に再度の検閲を受けた。不許可写真は掲載さえしなければ、再提出や破棄を求められなかった。日本でわずかに残された軍史料の写真となった。