2019年11月9日土曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれて、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルの中に放置されて腐敗してハエが集った。

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれ、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルに放置され腐敗してハエが集った。
 太平洋戦争の有名な激戦地は、ガダルカナル、硫黄島、そして沖縄である。ガダルカナルの戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、硫黄島の戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、沖縄戦の日本軍兵士の死者数約8~10万人と推定された。しかし、中国戦線を除いて、太平洋戦争で最も日本軍兵士の戦死者が多かったのは、フィリピンの戦いであった。大本営は比島決戦と称して、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を大東亜戦争の天王山と位置づけて、都合約75万人もの大兵力を送ったが、実に約50万人もの日本軍兵士が戦死した。日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に日本軍は南方資源地帯の確保のため南方作戦で、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を占領した。1944年10月20日から、約20万人ものアメリカ軍がフィリピン奪還の戦闘を始動した。1945年1月4日にアメリカ軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下して首都マニラを侵攻した。
 それから終戦までの約10か月、フィリピンの海上では、日本海軍の神風特別攻撃隊の自爆突撃が勃発した。陸上では日本陸軍の敗残兵が最後までジャングルや山岳奥地に立てこもって持久戦に陥った。ルソン島で防衛準備をしていたが、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると、戦力の逐次放出をしては圧倒的火力のアメリカ軍に殲滅された。困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執して、膨大なマニラ市民が戦闘の巻き添えになり大量虐殺された。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を昇った。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人市民が犠牲になった。背後の敵となる恐れがあると見なしたフィリピン人市民を日本軍は無差別に大量殺戮した。アメリカ軍は、マニラではトーチカや建物からの狙撃による犠牲の損害を最小限に抑えるため、重砲火による無差別砲撃で街区を次々と破壊した。近年の戦史研究は、マニラの民間市民の約10万人の犠牲の約6割は日本軍による殺戮で、約4割はアメリカ軍の重砲火による死亡と推定した。近年から戦争を撲滅することは人類の悲願であるも、兵器で闘争することが途絶えない。戦争が勃発すれば、必ず多くの市民が巻き込まれて犠牲となった。


 

2019年11月8日金曜日

日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸の雲南省とビルマとの国境にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。

日中戦争にて1944年9月7日に拉孟(松山)の村で、日本軍の守備隊が全滅した。さらに9月13日には、騰越の日本軍守備隊が全滅した(写真下)。騰越城内は、砲爆撃によって壊滅した。その瓦礫の中に、日本軍兵士の死体が散乱した。拉孟の戦いでは、日本軍の約1,300人全兵士が戦死して全滅した。騰越の戦いでは、日本軍の約2,800人の全兵士が戦死して全滅した。1944年9月頃から、国民党軍の雲南に向かった遠征軍が押し寄せて、日本軍は包囲されて、全滅が相次いだ。騰越城陥落の際、多くの慰安婦達が犠牲になる中で、救出され中国軍の捕虜となった慰安婦達がいた。
 拉孟・騰越の戦いは、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある滇西と呼ばれる拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で勃発した。日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘が炸裂した。すでに南部を占領していた日本軍の小規模な部隊は、援蒋ルートの遮断のために派遣された。日本軍が侵攻した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていた。援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続された。連合軍の支援によって近代的な装備を身につけた中国軍が、1944年より反撃に転じた。日本軍は補給路を断たれて孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に全滅して玉砕した。太平洋戦争で多くの島々にて日本軍は全滅して玉砕した。日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。陣地に立てこもる日本軍の防御戦により、中国軍も部隊比率では日本より多数の死傷者を出した。
 日本軍の一次資料は消去あるいは非公開で、アメリカ軍とイギリス軍の一次資料に準拠するしかない。その軍事史や戦史は、過去の戦争の戦訓や作戦と功績を導き出す研究が中軸であった。



2019年11月7日木曜日

約3年間も監禁された人質の救出作戦中に、海賊のソマリア人が殺害された。

パナマの貨物船アイスバーグ1が2010年3月29日に、機械設備輸送のためアラブ首長国連邦に向かう途中で、ソマリア沖の海賊に乗っ取られた。イエメン、インド、パキスタン、ガーナ、スーダン、フィリピン国籍の約24人の乗員が人質となった。ソマリア沖の海賊は、約1,400万ドルを要求した。人質救出作戦中に、海賊のソマリア人を殺害した。2012年12月24日に、貨物船アイスバーグ1に約3年近くソマリア沖の海賊により監禁された約22人乗員の人質が解放された。24人のうち1人は自殺、もう1人は虐殺された。海賊に監禁された期間としては過去最長となった。南アフリカ人の傭兵とプントランド海洋警察とともに、ソマリア沖の海賊と戦闘した。ソマリアから分離したプントランドの武装集団に属するソマリア軍兵士が、ソマリア人の海賊に侵攻した。
 ソマリアは1969年のクーデターによるバレ政権が,1991年に崩壊して以来,全土を実効的に支配できない無政府状態に陥った。劣悪な治安の下,大量の難民と国内避難民が発生し,干ばつの深刻化、食糧不足の悪化から、深刻な人道危機が生じた。ソマリア沖の海賊の一つ原因であるソマリア国内の貧困や若者の就職難等は未解決で、海賊による脅威は引き続している。1988年からソマリアに内戦が勃発して無政府となり、アデン沖で漁民による海軍が多発した。2012年11月にケニア軍と共同してソマリア連邦共和国が成立した。海賊被害のピークは2009年から2011年で、年間200件以上の襲撃があッタ。2012年からは減少して、2015年にはほとんど発生しなかった。
 アフリカの発展途上国では、主として民族対立を誘引として、厳しい紛争が各地で勃発した。特に、ソマリア、コンゴ共和国、ルワンダのように、紛争が終結しない状況が継続している。国連は1991年の「公正な希望」の作戦により、飢餓に迫る民間市民を救出して戦争を停戦させるために、ソマリア紛争に介入した。残忍なソマリア軍閥が屈強に国連軍に抵抗した。作戦は惨敗して、ヘリコプターが撃墜されて死亡したアメリカ軍兵士の裸体を首都モガディシュ市内を引きずり回した。犠牲者が公開されると、アメリカ軍は利権が潜んだ戦闘を、アメリカ市民民に正当化させるのが困難となる遺体袋症候群が発症して、アメリカ軍と国連PKOも撤退した。イスラム過激派組織であるアッシャバーブが台頭してアルカイダと連携してテロを引き起こした。


2019年11月6日水曜日

18歳のピーター・フェクターという東ドイツの若者が友人と一緒に、国境検問所からは遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとして射殺された。

1961年8月13日に有刺鉄線がベルリンの壁に設置されて、数日後からコンクリートの壁を増設した。その出現からほぼ1年後の1962年8月17日に、18歳のピーター・フェクター(Peter Fechter)という東ドイツの若者が友人のヘルムート・クルベイクと一緒に、国境検問所からあまり遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとした。友人はベルリンの壁を乗り越えたが、ピーター・フェヒターは東ドイツの警備員に撃たれて死亡した。約1.8mのベルリンの壁の有刺鉄線に絡まれて転倒したビーター・フェヒターは、東ドイツの警備員に射殺された。警備員は、彼の助けの叫びにもかかわらず、大量出血で致命傷となる肺と骨盤部を射撃した。ベルリンの壁の向こう側の西ドイツ警察官とアメリカ軍兵士も、彼の援助に誰も来れなかった。群衆が両側に集まり、行動を促したが無駄であった。最後に、射撃されてうめき声を上げても放置されて約50分後に、催涙ガスの雲の下で、警備員らが青年の身体を抱えて引きずりながら、救急車ではなく車で搬送した。2時間後に、高層アパートにいた東ドイツ人が、窓に看板を掲げ、西ベルリンに集まって興奮している群衆に「彼は死んでしまった」と知らせた。
ピーター・フェヒターの虐殺は、国際的な注目を集めした。東西の分裂以来、西ベルリンで最悪の暴動が勃発して、4日間続いた。それらの行動の多くは、衝撃的なことに、反米的志向であった。ピーター・フェヒターは、ベルリンの悲劇であり、東ドイツと西ドイツの両方で無力感が漂い、東洋に閉じ込められた人々を助けるアメリカ人の無力さを象徴した。ピーター・フェヒターは、約50人目の虐殺されたベルリンの壁の脱走者となった。少なくもと約938人が脱走者が虐殺された。それに失敗して逮捕された約75,000人は投獄された。ヴォルフガングベラが撮影した4人の警備員に連れ去られる写真は、世界中の新聞の第一面を飾った。総延長は約155Km達したベルリンの壁は約27年後の1989年11月9日に崩れ始めました。彼の死は、近くの主要な脱出トンネル(NBCが資金を提供)を掘り、他の若い男性にも影響を与えた。


 

2019年11月5日火曜日

朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定された。

韓国真実和解委員会(TRCK)は、朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定した。1950年8月25日におけるアメリカ軍は下記の写真を、ソウルの漢江北岸のある龍山近郊で、北朝鮮軍から避難していた朝鮮人市民が、ゲリラ部隊による夜間攻撃を受けて殺害されたと釈明している(米国国立公文書館)。
 朝鮮戦争中、南北が犯した民間人の大量虐待と大量虐殺があった。その大半は韓国側が執行した。多くは朝鮮戦争が勃発した直後から挙行した。1950年6月28日の北朝鮮軍によるソウル大学病院の虐殺から、大韓民国大統領李承晩は、政府関係者と右翼団体により、左翼と疑われた朝鮮人と家族を大量虐殺した。虐殺された人数は、少なくとも約60,000人以上と推定された。大虐殺の期間に、イギリス軍は同盟国に抗議して、一部の民間市民を救った。アメリカ軍は、朝鮮戦争の戦線に近づく民間難民を阻止する政策を持っていた。アメリカ軍が韓国中部の老斤里の村でも、1950年7月26から29日に、約300人の避難民を変装し​​た朝鮮人民軍兵士として虐殺した。
 2005年から韓国真実和解委員会は、朝鮮戦争の前、最中、後の虐殺行為を調査した。朝鮮戦争の虐殺のうち、82%が大韓民国軍によって実行され、18%が北朝鮮軍によって実行された。委員会は、済州島の南西にある済州島の南朝鮮ゲリラに対する大韓民国軍と準軍事部隊が関与した1949年から49年の済州島蜂起で、約14,373人の民間人と約16,000人の南北戦闘員が虐殺した。大部分の虐殺は1949年までに沈静化するも1950年まで続いた。委員会は、民間人の86%が大韓民国軍に虐殺されたと推定した。アメリカ軍に関連する虐殺は、正当防衛として擁護した。



2019年11月4日月曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷とケロイドを受傷した。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


2019年11月3日日曜日

南京大虐殺後に、死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。

日本軍兵士による南京大虐殺によって、1938年1月に、非情にも幼児が日本軍によって虐殺された。大虐殺後には、死体の処理は市民は誰もが嫌がっていた。死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。虐殺された幼児は、両足には裕福な靴を履かせてもらえていた。埋葬隊が幼児の死体を背景にポーズをとっていた。左中段の幼児の死体は、肉親がベット上のマットにくるめて、悲嘆していた。約14万人もの日本軍は、南京の国民党政府を防御していた約40万人の中国人兵士らを、攻撃して壊滅して、内陸部に撤退させた。ホームレスとなった若い中国人らは、目立つ功績を上げるために、日本軍に対するゲリラ戦を仕掛けた。
(ライフ雑誌, 1938年2月21日、54ページに掲載)


2019年11月2日土曜日

ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体がニューギニアのブナ海岸の波に横たわった。

ニューギニアの戦いで、北海岸の約16マイル(約25 km)に沿って、西はゴナ、東はブナ、中央はギルワ(サナナンダ)の3つの重要な軍事拠点があった。1942年11月16日から、アメリカ軍とオーストラリア軍は、ニューギニアで日本軍が占領する主要な海岸、ブナ、 ギルワ(サナナンダ)、ゴナを攻略した。ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体が1943年1月にブナ海岸の波に横たわった。 その背後には、破壊された上陸船があった。
 アメリカ軍は、ニューギニアのブナを占領した日本軍に甚大な損害を負わせた。ニューギニアのパプア地域における日本軍の最後の抵抗地点であるブナの戦いの海岸に、殺害された日本軍兵士の死体は、破壊された着陸船から近距離で散乱した。日本軍はこの戦闘で重度の損失を被り、最終的にアメリカ軍とオーストラリア軍によって完全に占領された。浜辺での多数の日本軍と連合国の死体から蛆虫が繁殖して、ブナは「Maggot Beach(蛆虫の海岸)」と別称された。
 ブナ海岸で死んだアメリカ軍兵士の死体の写真は、第二次世界大戦中にライフ誌で初めて発表された。ルーズベルト大統領は、アメリカ国民が戦争の犠牲に慣れることを恐れた。アメリカ政府は、戦争の初期は一般国民の人々の士気を低下させるために、写真の公開を禁止した。オーストラリアでは、ダグラス・マッカーサー司令官は、特派員に公式許可なしにインタビューを行った兵士を軍法会議にかけると脅した。
 太平洋戦争の勃発から21ケ月経過して、ルーズベルト大統領がその公開を承認した後に、ライフ誌の1943年9月20日版で3人のアメリカ兵がブナビーチで死んだブナ・ゴナの戦いの写真の公開できた。ルーズベルト大統領と国防省らは、アメリカ人が自分たちの少年たちが戦場に戦死したことを見るべきと決定した。






2019年11月2日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 320,000回

2019年11月1日金曜日

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。ポーランド侵攻の2日後の1939年9月3日「ブルンベルグ血の日曜日(Bromberg Bloody Sunday)」事件で約5,347人のドイツ人が殺害された。血の日曜日では、イエズス会教会の牧師たちが暴徒に武器を配った。ポーランド人は教会に行く前に、隣人のドイツ人に挨拶して、教会の後に発砲した。家や地下で射殺されなかったドイツ人は、他のドイツ人と縛られて、様々な方法で拷問、切断、殺害された。何日もの間、死体まだ畑や中庭や庭、あるいは彼らの家の前に横たわり、小枝や葉だけで覆われて、表面的に埋められた。死体は何日もの間、野原、庭や庭、家の前に横たわり、多くの場合枝と葉だけで覆われるか、浅い墓に埋めた。死体の多くは、街路に沿って2つまたは3つに集積された。犠牲者の多くは、後になって遠く離れた場所で発見された。
 ポーランド軍とボルシェビキ部隊は、1939年にダンツィヒ回廊にて約58,000人のドイツ人を虐殺した。少なくとも1939年4月からポーランド人は無差別にドイツ人を虐殺した。ナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻に至るまでに、ドイツ軍はすぐに打倒できると確信したポーランド人とロシア内務人民委員部(NKVD)とユダヤ人らは、多数のドイツ人を大量虐殺した。1939年9月1日のナチス・ドイツ軍のポーランド侵略以前からの虐殺であり、推定では約58,000人のドイツ人市民が虐殺された。ポンツ、ロッツ、ワルシャワ郊外のドイツ人農民を殺害し始めた。ドイツ人の子供たちは納屋に釘付けにされ、女性は強姦され、侵入してドイツ人は処刑された。1939年9月3日のブロンベルグの血の日曜日事件は、殺人乱交の恐ろしい結末であり、ドイツ民族に対するポーランドの全滅キャンペーンの集大成であった。1939年のダンツィヒ虐殺は、ナチス・ドイツにポーランドを攻撃するための完璧な口実を与えた。ナチス・ドイツはポーランドの侵攻を、ドイツ国民に対して正当化した。「血の日曜日」という用語は、ナチス・ドイツのプロパガンダによって作成されて支持された。
 ブロンベルグとその周辺では、ポーランド人の殺人集団は、避難できなかった数千人のドイツ人を虐殺した。ポーランド人の襲撃隊が地域に居住したリストを持っていた。犯罪が容認されただけでなく指示された。殺人集団は、ドイツ系民族の家を捜索し、捕獲するか、その場で射殺した。ポーランドの聖職者は、1939年7月3日にポーランドの教会当局の命令によりドイツ語でのカトリック教会の礼拝が禁止された。司祭は教会の礼拝中にポーランド人がドイツ人を絶滅するように扇動した。血の日曜日に、イエズス会教会の聖職者が暴徒に武器を手渡した。ポーランド人が教会に行く前にドイツ人の隣人に挨拶し、教会を出た後にはドイツ人を撃った。家や地下室で撃たれなかった人は、束縛されるか、他の人に縛られ、街から連れ去られ、あらゆる方法で虐待され、切断され、殺害された。ポーランド軍隊でさえ、束縛されて捕縛されたドイツ人の殺害に参加した。


2019年10月31日木曜日

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。その多数の死体を市民らが、街路から担ぎ出して処理した。マドリード攻防は、1936年11月8日から1939年3月28日まで継続した。
   反乱軍は、最も猛烈な攻撃により首都マドリードを1936年11月8日に侵略した。11月17日に午後には、約2,000発の爆弾がマドリードの中心部に投下された。榴散弾がスペシン広場などで炸裂した。焼夷弾が市民の居住地を炎上した。さらにドイツ群の爆撃機が、火災の焔を手がかりにして、一波に約12機で飛来して、爆弾を大量に投下した。マドリードには、防空壕も対空砲もほとんど皆無であり、甚大な犠牲を伴った。
 1936年7月17日に、左派の反ファシズム派である人民戦線政府に対して、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。右派の反乱軍側がドイツやイタリアと日本などのファシズム政権から軍事援助を受けた。人民戦線側もソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦となった。近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦によって勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する約60,000人の国際旅団などの義勇兵も加わった。武力に勝る反乱軍側が有利に戦いを進めて、1939年3月にはマドリードが陥落して、1939年4月1日に内戦は反乱軍側の勝利で終結した。



2019年10月30日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。インデペンデンス街路とエンゲルス通りとの交差点で、抵抗勢力のユダヤ人らが絞首刑にされた。通りがかったドイツ人市民と役人が、絞首刑されたユダヤ人の死体を見上げた。さらに約250人が射殺された。カジッツ・イサイ・パブロビッチら約28人は武装抵抗による射撃で、数人のゲシュタポ将校を負傷や殺害したが、3月28日に逮捕されていた。
 ドイツ軍は、1941年6月23日に首都ミンスクを空爆して、6月27日に侵入した。建物が燃え上がり崩壊して、市内には死体が散乱した。占領直後にドイツ軍は15歳から45歳までの約40,000人ものすべての男性を登録した。ミンスク郊外のドロッディの畑で、ユダヤ人、赤軍人、非ユダヤ人民間人の3群に隔離された。非ユダヤ人を釈放して、数千人の知識階層のユダヤ人全員を、近くの森に連行して、機関銃で射殺した。1941年11月7日に約12,000人と11月20日に約5,000人のユダヤ人が、トゥチンカに連行されて殺害された。
   ナチス・ドイツ軍が占領しても、ミンスクの住民は、ユダヤ人迫害に関して無関心であった。ミンスクの人口約238,948のうちベラルーシ人は約51.9%で、ユダヤ人は29.7%も占めた。ミンスクはユダヤ人労働運動が発祥し発展した都市の1つでもあった。ベラルーシ人市民自身によるユダヤ人の浄化運動であるポログロムはほとんど発生しなかった。ドイツ軍は、ミンスクの北西部に、少なくとも約85,000人のユダヤ人を隔離居住区として最大のゲットーに強制居住させた。そのゲトー内で、ユダヤ人が抵抗運動の地下組織を結成した。非ユダヤ人とパルチザンとの連携も構築された。



2019年10月29日火曜日

23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴ってしまう。

ハノイ平和村には、ベトナム戦争にてアメリカ軍の枯葉剤散布の後遺症で、2008年に23歳の青年が、ベッド上で寝たきりとなった。全身の奇形と変形、神経障害、臓器障害などで完全な要介護状態となった。23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴って過ごす。ベトナムの首都ハノイ郊外のタイスワン地区には、枯葉剤の被害者の治療施設であるハノイ平和村がある。入所希望者が殺到して、定員の約1,000倍にも達する。ベトナムは1975年にベトナム戦争が終結してから約15年経過した1990年頃からやっと枯葉剤の全国調査が開始された。
 ベトナム戦争にて、アメリカ軍はベトナム中部から南部にかけて、非人道的な化学兵器となる膨大な枯葉剤を田畑地域や森林地帯に散布した。およそ約90,000キロリットル、散布面積は約2,400,000ヘクタールにも及んだ。1961年から1971年まで約10年間も散布された枯葉剤によって、植物だけでなく、生態系まで崩壊した。早朝に油の匂い嘔吐する枯葉剤の白煙を散布されると、夕方には植物はすべて枯れ落ちた。無差別な枯葉剤の散布によって、ベトナム人の被害者は約300万人にも達した。遺伝子にも異常な影響を受けて、胎児には先天異常である結合双生児、単眼児、無脳児などの重度の奇形なども伴った。
 アメリカ軍が散布した枯葉剤の主成分はエージェント・オレンジの製造過程で、高濃度の猛毒のダイオキシンが混在する。ダイオキシンは、人類史上で最も毒性が強い合成化合物である。わずか約80gのダイオキシンで、約700万人を殺害される。わずか約10億分の1gでも先天異常や異常出産を誘発させる。ダイオキシンは簡単に分解されず、脂溶性で脂肪に残存する。食物連鎖により、小動物から大動物へと濃縮されて、体内に蓄積する。神経から臓器までも侵害して、悪性新生物の発症、遺伝子までも破壊されて子孫まで悪影響が出る。
 枯葉在の被害者は、ベトナム人だけでなく、ベトナム戦争に従軍したアメリカ人、韓国人、台湾人、オーストラリア人らにも拡散した。アメリカの国内法では、戦争中の被害は国を訴えることが不可能である。1980年代に約16,000人のアメリカ軍帰還兵が、枯葉剤の被害補償を製薬メーカー7社に提訴した。1985年に裁判所が製薬会社に約1億8,000万ドルの和解金を提示して、責任の所在が不明瞭となった。ベトナム枯葉剤被害者の会は、2004年と2007年にニューヨーク連邦地裁に提訴したが、2005年3月と2009年にも却下された。



2019年10月28日月曜日

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放時に、ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱した。

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放した。ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱していた。ナチス・ドイツ軍は、キエフを1941年9月11日から約2年間も占領してユダヤ人と住民を大量虐殺した。キエフ北西部に約3.2kmのバビ・ヤール渓谷の虐殺は、歴史上で最大のユダヤ人の大量虐殺の地点となった。
 1939年以前にソビエト連邦の地域では、ユダヤ人の大量絶滅は、ナチス・ドイツ軍は、地域の占領後すぐにユダヤ人の大量虐殺が執行された。キエフでは、ナチス・ドイツ軍かが占領した1941年9月19日から29日までのわずか10日間で、ユダヤ人住民は大量絶滅に襲われた。バルバロッサ作戦の前夜に、ドイツが占領したポーランドの領土からの難民を含む約23万人のユダヤ人がキエフに在住していた。1941年9月19日にドイツ軍がキエフを占領した時、多くのユダヤ人が前線に徴兵されて、避難または脱出した後に、都市にはまだ約6万ものユダヤ人が残存していた。ほとんどは、女性、子供、病人、高齢者であった。
 ドイツ軍による占領した数日後の9月24日に、ソ連軍の分遣隊がキエフの中心部であるクレシャティクの建物を爆破した。9月26日に爆破の責任と罰として、キエフのユダヤ人に報復した。キエフとその周辺のすべてのユダヤ人に、1941年9月29日月曜日の午前8時までに指定場所に強制集合を命じた。ユダヤ人に激しい敵意のある地元のウクライナ人警察は、ユダヤ人をキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷に連行した。ナチス・ドイツ軍により9月29日と30日の2日間で約33,771人のユダヤ人がバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。潜伏していた約17,000人ものユダヤ人が、10月1日から3日にもバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。1941年11月には、セント・シリル精神病院の約300人のユダヤ人患者も、バビ・ヤール近郊の果樹園で虐殺された。
 1943年8月に、キエフでユダヤ人の大量殺人の証拠を隠滅する1005作戦が開始された。シレック収容所の男性囚人のユダヤ人と非ユダヤ人は、バビ・ヤール渓谷で膨大な犠牲者の遺体を掘り起こし焼却した。1943年9月29日に約327人の囚人は反乱を起こし逃亡した。逃げて生き延びたのはわずか約18人で、残りはすべて射殺された。





2019年10月27日日曜日

ポル・ポト派のクメール・ルージュにより虐殺された骸骨が、チェンエク処刑場博物館で極悪な非情さを展示した。

ポル・ポト派のクメール・ルージュによる罪なき市民らの虐殺された頭蓋骨、骸骨が、チェンエク処刑場博物館で展示されて、極悪な非情さを示した。カンボジアの首都であるプノンペンから南西約15kmに位置するチェンエク村に、クメール・ルージュの秘密刑務所部局S21(mandir S 21)で拷問を受けた囚人たちが、1977年から1979年まで夜間にトラックで運搬された。刀や剣類で、後頭部への鍬の一撃で殺害された。約20,000人ものカンボジアの住民が死刑となり、死体が共同墓地に投げ込まれた。1979年に侵攻したベトナム軍により発掘されて、保護措置された。非行の死の記憶として処刑場博物館が1988年に整備された。共同墓地から死体を掘り出して、約9,000人もの頭蓋骨が、一連の木床に段々に並べて約10mもの高さに及んだ。カンボジアにおける大量虐殺の処刑場は、キリング・フィールドとも呼称された。囚人は24時間待機した後、頭部に一撃で殺害されて、その後喉元が切断された。赤ちゃんは頭を木にぶつけて殺害された。男性用、女性用、子供用に別々の86の集団墓地があり、そこから8,985人の男性、女性、子供がクメールス・ルージュの解放後に発掘された。頭蓋骨、骨、衣服の一部は近くの巨大な仏塔に保管された。外国人の死体は、骨を残さないように焼失した。
 秘密刑務所部局S21(mandir S 21)は、カンボジアのクメール・ルージュの拷問絶滅施設であった。1979年1月に、ベトナム軍がプノンペンに侵入して拷問施設を開放した。切断された死体が、床や金属ベット上に放置されていた。鉄格子、独房、鉄鎖などが虐待と虐殺の痕跡となった。暗号S21の秘密裏な代表的な施設は、地名からトゥール・スレンと呼称されている。1976年から1979年にかけて約20,000人が収容されて、生還者は約12人のみであった。



2019年10月26日土曜日

第一次世界大戦後のギリシア・トルコ戦争にて、トルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。

第一次世界大戦の終結後に勃発したギリシア・トルコ戦争によって、1922年にトルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。トルコ人農民が、荒野に散乱したギリシア人の死体を通り過ぎた。
 第一次世界大戦の終結に1918年10月30日に同盟国であるオスマン・トルコ帝国は、連合国と休戦協定を締結して降伏した。オスマン・トルコ帝国から1830年に独立したギリシアは、降伏後にギリシア人居住地の併合を挙行した。1919年5月15日にギリシア・トルコの戦いが勃発すると、キリスト教徒とイスラム教徒が相互の残虐行為が激化した。トルコの海岸都市のスミルナに上陸したギリシア軍は、武器を持たないトルコ人を大量虐殺した。トルコ軍は、ギリシア正教会の村人を念入りに焼き払い、ギリシア人を虐待して虐殺した。
 1921年3月23日にギリシア軍は、トルコ内陸部のアナトリア侵攻するも、トルコのケマル軍によって直ちに撃退された。ギリシアは6月22日に連合国の調停を拒否した。7月10日にギリシア軍は、トルコに再侵略した。ギリシア軍はサカリア川を渡河すると、補給を絶たれて、9月14日に再撤退した。ギリシア軍は、1922年8月26日にトルコ軍にギリシア軍の南部戦線を撃退されて撤退した。ギリシア軍のトルコからの撤退により、宗教と民俗主義によるトルコ軍の復讐により、特にギリシア人地区とアルメニア人地区で大量虐殺が勃発した。1922年にトルコから約150万人ものギリシア人難民が避難した。10月11日に休戦協定が合意された。11月にトルコ大国民会議がスルタン制を廃止して、約500年間も中東を支配したオスマン・トルコ帝国が崩壊して、1923年にトルコ共和国が建国された。1923年のローザンヌ条約による講和により、宗教と民族の交換をして、トルコからギリシアに約110万人のキリスト教徒、ギリシアからトルコに約38万人のイスラム教徒は、移民交替を強要された。