2019年8月20日火曜日

日本憲兵警察本部では、笞打ちの虐待をする笞刑さらに銃台での拳打、天井吊、指間脱などの拷問を朝鮮人に執行した。

1919年3月1日にソウルのパゴダ公園で日本帝国による1910年8月日の韓国併合に対抗する独立宣言により三・一運動が勃発した。総督府の警察隊により鎮圧されるも、朝鮮半島に抗日運動が拡大した。4月1日には朝鮮の天安郡木川に、その他清州、鎮川、成歓など6郡から朝鮮文化である黒冠白衣の約3千人の市民が集合した。太極旗を打ち立てて、16歳の柳寛順が独立宣言の演説を挙行した。約3千人の朝鮮人が突進して、日本帝国の憲兵隊と衝突した。憲兵分遣隊前からの無差別の銃殺と刺殺で、流血の惨劇となった並川事件が勃発した。虐殺により、新たな朝鮮人市民の怒号から報復をして、憲兵分遣隊前は大混乱と修羅場に陥った。少なくとも血まみれの約19人の死体が散乱した。
 徒手の空拳のみの朝鮮人市民は、憲兵隊により一掃された。4月1日の夕方から市民参加者の数百人を逮捕されて、憲兵警察本部に連行された。憲兵警察本部では、笞打ちの虐待をする笞刑(添付)さらに銃台での拳打、天井吊、指間脱などの拷問を執行された。独立宣言運動の首謀者を割り出すために、過酷な自白を強要した。16歳の柳寛順は、自らを主謀者を名乗って、獄中の闘争をして、軍事裁判で3年の懲役を宣告された。上告して、ソウルの復審法院に送致されて、逆に5年に延長する懲役を宣告された。西門刑務所での長期にわたる留置と虐待などにより、次第に衰弱して刑期をわずか2日残して1920年9月28日に獄死した。石油箱に入った17歳の少女の死体は、梨泰院の共同墓地に埋葬されて、朝鮮独立宣言のジャンヌ・ダルくの象徴となった。本植民地政府は、より寛大な政治的統制の実施に追い込まれた。



2019年8月19日月曜日

イスラエル軍による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑で銃殺された。

イスラエル軍兵士による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑に処刑されて銃殺された。ラマラ中心部の6階建ビルで、警察に扮したパレスチナ人の5人の武装集団が銃撃戦で死亡したと報じた(AP通信2002年3月30日)。
 イスラエル軍が、2002年3月29日から4月18日にかけて、イスラエル軍がジェノンをはじめとするパレスチナ人居住区に侵攻し、おびただしい数の市民を殺害した。ガザ地区とヨルダン河西地域での大量虐殺に対する国際的批判が沈静化すると、イスラエルは小規模のジェノサイド(大量虐殺)政策に戻った。パレスチナ人は、人間以下の「アマレク(聖書出エジプト記でイスラエル人を襲った永遠の敵)」として、虐殺が継続して、シオニスト(ユダヤ民族主義者)の供物となった。ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)から、ユダヤ人国家の擁護と安全のために、パレスチナ人のホロコーストを正当化した。
 2002年3月6日から16日までにラマラなどで、約200人以上のパレスチナ人がイスラエルのパレスチナ占領軍によって虐殺された。3月8日だけで40人が虐殺された。ラマでは、15歳から45歳までの男性を尋問のために集合された。約500が連行されて、拷問を受ける虐待あるいは約150人が虐殺された。イスラエル軍はラマラを閉鎖軍事区域に指定して虐待と虐殺は隠蔽した。4月2日にベツレヘムのキリスト教生誕教会周辺で、イスラエル軍のヘリコプターが襲撃して約10人パレスチナ人をテロリストとして虐殺した。ベツレヘムでは救急車が侵入を阻止されて犠牲者が増大した。4月6日に、ジェノン北部を攻撃して、約30人のパレスチナ市民が虐殺された。4月10日に、イスラエル軍は、ジェニンとナブルスの難民キャンプが襲撃して、約1,000人が虐殺した。報道機関がイスラエル軍による検問を強制されて、閉鎖軍事区域を拡大して、パレスチナ市民に対する集団虐殺は隠蔽された。ジュネーブ条約では、軍事行動が一般市民を巻き込むことを厳しく禁止している。



日本平和の市民連盟
2019年8月20日にBloggerの投稿数は1,100回に達した。

2019年8月18日日曜日

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線により、男性は露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。
 原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し、被爆者は甚大な熱傷を被爆した。爆心地から地面に到達した熱は、1平方センチメートルあたり約100カロリーと推定されて、爆心地から1 km以内で露出して、その熱線を直接に被爆した被爆者は、5度以上の熱傷を被爆した。爆心地から3.kmまでは、1度から4度の範囲の熱傷を被爆した。
 原子爆弾が炸裂して放射された直後のすさまじい高熱は、身体の皮膚などに最重度の熱傷を被爆した。爆心地からの距離が近いほど熱傷は重度になった。重度になると皮膚は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下組織や骨までが露出した。約1.2km以内では熱線は致命的な殺傷となった。爆心地付近では、一瞬のうちに身体が炭化して、水分さえ蒸発した。地上を襲った熱線による瞬間的な熱傷が、被爆死亡者の死因の約3割となった。



2019年8月17日土曜日

イギリス連合軍の兵士らが、インパール作戦にて手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。

大東亜戦争におけるインド(現在はミャンマー)のインパールからビルマまで約470kmも敗退する日本軍兵士は、途中で力尽きて自爆した死体が散乱していた。イギリス連合軍の兵士らが、手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。腐敗して強烈な悪臭が漂う死体には、蛆虫、アブ、蝿、蟻、山蛭などが群がった。
 大東亜戦争の劣勢により、イギリス軍らの連合軍のインドからの進撃に対して、1944年3月8日から日本軍がビルマとインドの国境のインパールを最も無謀に攻略した。約10万人もの日本軍兵士は、約3週間の食糧と弾薬だけで補給もなくインパールに進撃した。約4カ月間もの戦闘に、7月8日から8月12日まで激しいビルマの雨期に約2,000m級のアラカン山系の泥沼を乗り越えた。チンドウィン河に沿った敗走路である「白骨街道」には、甚大な犠牲を伴う悲惨な死体の山が散乱した。イギリス連合軍からの爆撃の上に、熱帯の炎暑と猛烈な豪雨により、日本軍は食糧も弾薬も尽きて、やせ衰えて栄養失調や伝染病で次々に戦死した。撤退中にビルマの農村部は食糧を略奪して、弱肉強食されて荒廃した。
 インパール付近の4月5日コマヒ基地を占領するも、6月1日には遂に日本陸軍初として上官の命令に従わずに撤退する抗命事件が勃発した。ビルマ方面の日本軍兵士は約33万人のうち、生還者は約13万人で、約20万人が戦死して行方不明となった。1945年3月にビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始して、日本はビルマを失った。日本軍への反撃を指揮したのが、「ビルマ建国の父」のアウンサンであり、娘のアウンサー・スー・チーが後にミャンマーの国家顧問を務めた。



2019年8月16日金曜日

東京大空襲で丸焦げして炭素化した死体を、証拠品などから身内を見出して悲嘆した。

東京大空襲によって、ほんど見分けがつかないほど、死体は丸焦げして炭素化した。証拠品となる入歯などから身内を見出しては悲嘆した。吹き飛ばされた建物や破片が散乱して、被爆市民が逃げ惑った。空襲による大火災と噴煙が充満して犠牲者が甚大となった。空襲を受けた市民の恐怖、家族の喪失感や悲嘆に暮れた。市民らは長い棒を突き刺しながら、瓦礫の山に埋もれた死体を探索した。大勢の市民は、空襲で火災した住宅を取り囲み見守るしかできなかった。瓦礫の下で人体が破壊されて、衣服は散乱して焼き焦げた。戦時下の厳しい情報統制により、空襲の実態は市民には極秘にされた。
 東京大空襲により、1945年3月10日が最も無差別に東京の都心や下町が爆破されて、最悪に約10万人に及ぶ市民が戦死した。アメリカ軍のB-29大型爆撃機による市民に対する無差別攻撃の大空襲は、最初の1944年11月24日から終戦の直前まで約100回以上に昇った。海上の空母から発進したB-25による小規模な空襲は、1942年4月に勃発していた。アメリカ軍による大空襲は軍事施設地点だけでなく、市街地域を爆撃の目標とした。11月24日は、B-29の24機体が中島飛行機製作所に約50トン、B-29の64機体は市街地に約3倍もの約150トンの爆弾を投下した。最初の東京空襲から市民への広範囲にわたる無差別爆撃が指令された。市街地への無差別空襲を実施すれば名誉の功績となった。太平洋戦争が勃発する直前の1944年11月に、アメリカ軍の司令部は、焼夷弾による都市焼き払いを構想していた。焼夷弾は、ゼリー状のガソリンを付着させて、消火は困難となり、火力の威力は拡大した。対ドイツ戦では、特定地点を精密爆撃して、対日本戦では都市全体を焼き尽くした。真珠湾の恨みを晴らすために参戦したアメリカ軍は大空襲で日本を復讐した。B-29大型爆撃機は、約5,000kmの飛行距離と約10,000mもの高度を飛行した太平洋戦争に集中して空爆した。



2019年8月15日木曜日

硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、日本軍兵士が手榴弾で上半身を爆破して自殺した。

太平洋戦争にて、1945年2月19日から3月26日までの硫黄島の戦いは、日本軍とアメリカ軍ともに凄絶で苛烈な戦闘となった。日本軍兵士は水分の極度の不足と身体的苦痛を患いながら、生と死の間を彷徨した。地熱と硫黄の臭気がたちこめる洞窟の中で、地中潜伏を強制されて、死へ追いつめられた。硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、1945年2月に日本軍兵士が手榴弾で自決した。左胸部から腹部が破裂した内蔵と左上肢が吹き飛ばされて硫黄島の砂上に散乱した。
 小さな孤島である硫黄島にて持久戦から玉砕戦までが混在して、双方ともに膨大で悲惨な犠牲を伴った。日本軍の約20,933人は、全く硫黄島に孤立した。日本軍は約19,900が戦死して、約1,032人が戦傷した。アメリカ軍は、艦艇は約800隻、航空機は約4,000機、上陸部隊の総数は約111,000人など総兵力は約250,000人も参戦した。アメリカ軍の戦死傷者は約28,686人に昇り、戦闘は36日間にも及んだ。アメリカ軍は、戦死者約6,821人、戦傷者は約21,865人、総計約28,688人で、日本軍よりも総計で約7,753人も上回った。わずか20平方kmの孤島にアメリカ軍は、艦砲射撃約14,250トン以上、投下爆弾約8,360トン以上に及ぶ砲爆撃を加え、上陸からも約450,156発の砲弾を発射して、戦禍を及ぼした。
 日本大本営は、いずれアメリカ軍の攻勢によって、硫黄島は占領されると推定していた。アメリカ軍は硫黄島の占領により、日本本土を爆撃して被弾したB29を約2,400機と総搭乗員の約27,000人を救出した。硫黄島から戦闘機を直接に日本本土に向けて大規模な爆撃により、無差別に市民も空襲に巻き込んだ。
 太平洋戦争の終戦後には、硫黄島は日米間の防衛基地に変貌した。海上自衛隊が硫黄島を管理して、防衛庁は1979年度から硫黄島を自衛隊の防衛基地化した。現在ではアメリカ合衆国と結んで、再び日本の防衛軍事基地として活用された。日本大本営の防衛にとって重要な軍事基地を演じた硫黄島が、戦後になっても、同様に再び軍事の重要性ために軍事基地に復興された。


【閲覧留意】
2019年8月15日 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 270,000回

2019年8月14日水曜日

カトリック教徒の有名人である永井隆は、長崎原爆の荒野を散策して、原爆を神に感謝すべきと信者に説教した。

長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士となった永井隆が、1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂により崩壊した長崎市内の爆心地の周辺の荒野を1948年4月に散策していた。その数日後に原爆症で死亡した。
 永井隆は、被爆前の1945年6月に白血病にて余命3年と診断された。長崎原子爆弾の炸裂によって、爆心地から約700mの長崎医大で診療中に被爆した。受傷した直後から、長崎市三山町木場を拠点とした救護班から巡回回診をした。1948年8月に長崎市浦上天主堂の付近に如己堂にて白血病の療養した。1951年5月1日に長崎大学附属病院で病死した。
 永井隆は、長崎原子爆弾の救護活動を『長崎の鐘』を1949年1月に出版して欧米のベストセラーとなり有名人となる。永井隆は、カトリック信者として、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭(ホロコースト)」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと原爆を肯定した。『生命の河―原子病の話(1948年8月)』では、ナチス・ドイツがドイツ民族の血の純潔を保つホロコーストに対して、難民となったユダヤ人の原子力科学により、アメリカで原子爆弾が案外早く出来上り、戦争を引き起こした日本の長崎市民の血が求められたと説教した。宗教思想の有名人になれば、戦争も大量虐殺も原子爆弾も神に感謝すべきであると信者に説教した。


2019年8月13日火曜日

日本軍の731部隊は、中国人らの囚人の約4人にペストノミを散布して、全員が感染してベットに苦しみ横たわった。

日中戦争中に、日本軍の731部隊が1936年から終戦まで、最も極秘に、国際的に禁忌である人体実験と細菌攻撃の研究をした。中国人らの囚人の約4人にペストノミを散布して、全員感染させてベットに苦しみ横たわった。チフス菌の砂糖水を強制的に飲水させて細菌感染をさせて、約12人が死亡した。チフス菌を注射器で果物に注射して、中国人の約5人に強制的に食べさせ、全員が感染した。人体ワクチン実験は、約50人の囚人で実験した。大量感染を引き起こす細菌爆弾の研究は約10人以上の囚人で実験した。チフス菌の細菌弾を空中や杭上で爆破して、頭から菌を落下して、約半数が死亡した。731部隊で関東軍の凍傷研究で、極寒期の零下約20度に囚人を外に出して、扇風機をかけて凍傷を人工的に作った。1940年12月頃に約5人の中国人の囚人の両手が全て壊死して黒化していた。絶食約3日や一昼夜不眠などで、零度の氷水に指を約30分浸けて凍傷にした。 日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊と呼び、スパイや思想犯を人体材料にした。日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊と呼び、スパイや思想犯を人体材料にした。囚人は頭を丸坊主に刈られて、「マルタ」と呼ばれた囚人は頭を丸坊主に刈られて、悲惨な人材実験をされた。 
 日中戦争に細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊ある関東軍防疫給水部である通称731部隊が、1936年に編成された。終戦から4年後に、旧ソ連の軍事ハバロスク裁判により、細菌兵器開発のために、生きた人間実験が証言された。731部隊が人体実験を、中国東北部ハルビンの郊外約20kmに、731部隊の本部跡周辺で実施した。3階建ビルには中央には周囲から遮断した牢獄が設置され、人体実験材料の囚人が収容された。人体実験の死亡者は、約3,000人以上とされる。表向きは防衛目的の研究開発を進めるため、全国の大学から医学者を集めて最大約3,000人に達した。石井式無菌濾水機を開発して、731部隊となった石井四郎の出身大学である京都大学が最も多く、次いで東京大学であった。約1年間の医学教育を受けた少年隊員も招集された。1937年に、日中戦争が勃発して、中国側の激しい抗戦で日本側の犠牲も増えた。日本軍は反抗する中国人らを匪賊として、掃討作戦を行った。匪賊に対する敵意が高まり、世論は軍による処刑を支持した。戦争が泥沼化していった1940年代に、731部隊は中国中部の複数の都市で少なくとも約3回、細菌を散布した。戦争末期の1945年8月9日に、ソ連が満州に侵攻して、731部隊はただちに撤退を始めて、証拠隠滅のため、全囚人を殺害して焼却して、実験施設を徹底的に破壊した。一部は、ソ連軍の捕虜となり、ハバロスク裁判で審判された。



2019年8月12日月曜日

ペリリュー島でアメリカ軍の砲撃と火炎で、焼け焦げて殺害された多数の日本軍兵士の死体が折り重なり散乱した。

太平洋戦争において、ペリリュー島で74日間の死闘にて、日本軍兵士は全滅した。アメリカ軍は山々に散在する日本軍陣地は、火砲の集中砲火とガソリンを注入した火炎放射器で粉砕して、草木は焼け付くし露呈した。連日の砲撃と火炎で、焼け焦げて殺害された多数の日本軍兵士の死体が折り重なり散乱した。洞窟や塹壕には、砲弾を打ち込まれて、反対側から逃げようとする日本軍兵士は火炎放射器で焼き揚げられて銃殺された。タンク車からガソリンを洞窟や塹壕に注ぎ込まれて、火を放たれて焼き殺された。日本軍兵士をいぶり出す煙弾も砲爆撃した。さらにブルドーザーで、出入口を土砂により埋没した。
 最後には、11月20日には弾丸も打ち尽くして、小銃のみとなった。飲料水が欠乏して、食糧もなくなり絶食となった。重軽傷者も戦闘しながら、その中で戦闘不能者は自決させた。うめいて動けぬ重傷者は壕に集積されて、手榴弾の束を投げ込み轟音とともに肉片が飛び散った。11月24日夕方から残存した約56人の日本軍兵士が斬り込み隊となって突撃して、アメリカ軍は照明弾の中で全員を殺害した。11月27日にアメリカ軍はペリリュー島の戦いを終結宣言して、残存兵を掃討した。ペリリュー島の戦いで、日本軍兵士の戦死者は約12,000人、アメリカ軍は戦死者は約1,684人、戦傷者は約7,160人に昇った。
 約40人の残存の日本軍兵士は、1945年8月15日の日本の無条件降伏を知らずにペリリュー島に潜伏し続けた。1947年3月に生存した日本軍兵士が銃撃した。生きて虜囚の辱めを受けずと、元日本軍少将からの呼びかけや終戦のビラにも応じなかった。日本から家族や知人からの手紙を取り寄せて読み上げた。最終的に1947年4月22日に洞窟から34人が投降した。  



2019年8月11日日曜日

沖縄戦にてアメリカ軍兵士は、即座にハエがたかり、ウジが湧いて死臭が漂った日本人の死体を検死した。

沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が殺害した膨大な日本人の死体を検死した。死体には、即座にハエがたかり、ウジが湧いて死臭が漂った。日中の気温は30度に昇り、衛生状態の悪化して、降雨で泥と炎の戦場となった。
 太平洋戦争では、日本軍兵士の捕虜の数が極端に少なかった。沖縄戦でも、日本軍兵士はほとんど全滅して、わずかに約220人だけが捕虜になった。捕虜になったのは、主に重態な戦傷者であった。沖縄戦で戦死者数は、日本人は約244,136人とアメリカ軍兵士は約12,520人に上った。日本人の戦死者約244,136人の内訳は、兵士が約94,136人(約39%)と沖縄住民は約94,754人(39%)と戦闘協力者は約55,246人(23%)となった。沖縄戦は、市民を巻き込んだ悲惨な無差別の虐待と虐殺の戦闘になった。
 1945年4月19日から、アメリカ軍は首里周辺に総攻撃した。日本軍は丘陵地帯や洞窟から攻撃し、沖縄住民は軍と行動を共にした。突入するアメリカ軍の戦車に対して砲撃だけだなく、日本軍兵士と沖縄住民の防衛隊や少年兵の鉄血勤皇隊も、特攻のように爆弾を抱えて突撃する肉弾戦法で、戦車もろともに自爆した。アメリカ軍は全ての洞窟をしらみつぶしに崩壊して掃討した。首里の戦いでは、多くに兵隊も住民も死ぬまで戦い果て、生き埋めにもなった。5月末までの首里の戦いで、戦死は約6万4000人に達した。アメリカ軍の死者・負傷者は約5,000人以上にのぼり、墓穴をブルドーザーで掘った。最大の犠牲者は沖縄住民で、首里周辺での死亡率は50%にのぼり、一家全滅が全世帯の約4分の1を占めた。
   中部・首里戦線の戦闘では、約6万人もの日本軍兵士が戦死した日本軍に対して、アメリカ軍は、掃討戦により日本軍兵士・沖縄住民・日本人戦闘協力者を追いつめていった。南部一帯は、那覇・首里・中南部などからの避難民と敗走する日本軍兵士とが混乱する悲惨な戦場と化した。アメリカ軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本軍兵士兵や沖縄住民などが隠れている壕に対しては徹底的な「馬乗り攻撃」を行って、膨大な人々が犠牲となった。1945年6月23日に沖縄司令官部の崩壊によって日本軍の組織的戦闘は終結して、最終的には8月15日の日本降伏後の9月7日なって降伏文書に調印して最終結した。



2019年8月10日土曜日

青年被爆者は、帽子から露出した顔面が、広島原爆で焼き尽くされて帽子の跡が残った。

広島原子爆弾の炸裂により、青年被爆者は皮膚の色素が脱出した顔面の火傷を被爆した。帽子から露出した顔面から頸部の皮膚は、広島原子爆弾からの熱線と原爆放射能によってすべて焼き尽くされて、帽子をかぶっていた跡が残った。
 原子爆弾が人体に与える障害や損傷を、原子爆弾症(傷)と呼称した。これらの障害は、(1)熱や光線、(2)爆風、(3)放射能の影響などで発症する。熱や光線は、人体の露出部を熱傷する。爆風により、建物や家屋の倒壊による圧死や外傷を受傷する。放射能は、増殖組織である骨髄、脾臓、リンパ線や生殖線などに損傷を受ける。爆心地からの距離にも相関して、障害を伴った。
 1946年の初頭から原爆放射能によって、熱傷の傷口の皮膚から瘢痕組織が不規則に盛り上がってケロイドが生じて、皮膚が拘縮した。ケロイドは爆心地から約2km以内の地域で、1945年8月6日に原子爆弾の熱線を皮膚に直接に受けた被爆者の約5割程度に発生した。この広島原子爆弾の写真記録などは、終戦後からアメリカ陸軍病理学研究所に保管されて、1973年に日本に返還された。































2019年8月10日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 260,000回

2019年8月9日金曜日

第一次上海事変で墜落して焼き焦げた日本人兵士の死体から、中国人兵士が銃剣で胸を切り裂いて、心臓を引きずり出して転がした。

第一次上海事変にて空母から離陸した爆撃機から、日本海軍飛行士が墜落死した。墜落して焼き焦げた日本人兵士の死体から、中国人兵士が銃剣で胸を十字に切り裂けて、心臓を引きずり出して転がした。その付近には中国軍用列車が、日本軍の爆撃機により空爆された。列車の鉄板に張り付いて、焼け焦げただれ腫れ上がった中国人兵士の死体が散乱した。日本軍が上海事変で猛威を振って、上海人を支配するために虐殺と虐待の異常行動を示威した。
 日本人が多く居住する上海北四川路及び虹江方面に対して日本軍の警備部隊を配置した。その地域からの撤退を拒否した国民党軍の第十九部隊より、1932年1月28日に突然の発砲に日本軍兵士が発砲して、第一次上海事変が勃発した。日本海軍省は先制攻撃を否定したが、戦後になって上海駐在日本公使館の武官が、関東軍の依頼で中国人を買収して突然の発砲させた記録が公表された。満州事変に集中している列国の批判をそらすために、日本軍が上海共同租界の周辺に侵攻した。
 上海市内では小銃や機関銃が鳴り響いて、上海市民が殺害された。上海市民は混乱に巻き込まれて、虐殺と虐待が横行して、強盗、誘拐、暴行がはびこった。日本軍は国民党政権の政府機関、企業、郵便、通信機関などを占領して、上海市民を無差別な虐殺と虐待をした。日本軍は、あらゆる近代兵器を持って約65,000人もの軍隊を投入した。防衛した約45,000人の国民党軍の十九路軍が防衛するも、3月3日に撤退して半数が犠牲となった。


【閲覧留意】

2019年8月8日木曜日

ミャンマー政府軍兵士が群衆に発砲したときに、AFP通信社の長井健司は映像取材中に至近距離から銃殺された。

東京のAPF(Asia Press Front)通信社の記者であった50歳の永井健二は、2007年9月27日にミャンマーの大都市ヤンゴンのダウンタウンにて、僧主導の反政府デモであるサフラン革命を取材した。ミャンマー政府軍兵士が群衆に発砲したときに、長井健司は至近距離から銃殺された。ミャンマー軍事政権の警戒射撃により殺害された31人の抗議者の1人であると2007年12月27日に国連が公表した。ロイターの写真家アドリース・ラティフ(Adrees Latif)は、ミャンマーのヤンゴンで警察によって射殺された日本人ジャーナリストの長井健司が銃殺された写真により、ピューリッツァー賞を2008年に受賞した。
 燃料価格の約5倍もの急騰などに対する8月15日からの最初の小さな抗議デモは、1962年から40年以上にわたる軍事支配と経済的困難に直面して、ヤンゴンやその他の都市の街頭デモ行進に急速に拡大した。9月18日から僧侶があずき色のローブに身を包み聖歌と祈りをしながらデモ行進した。ヤンゴン中心部のスーレーパゴダ(以前はラングーン)にモデ行進を開始した。軍事政権は、9月25日にヤンゴンに夜間外出禁止令を下した。
   長井健二は2007年9月27日に、ミャンマー首都のヤンゴンの旧トレーダース・ホテルから数ブロック離れたスレー・パゴダ近くまで抗議デモを撮影していた。ミャンマー政府軍の治安部隊がデモ隊に発砲した際に、長井健司を射殺した。ミャンマー政府による私服治安部隊が、長井健司を携帯電話で追跡して監視した。デモ隊の一部が銃撃されている写真を長井健司は木の陰から撮影していた。監視者が長井健司の行動を携帯電話で本部に逐一伝えていた。ミャンマー政府軍による監視者が兵士に射殺の命令を下した。長井健司は、ミャンマー軍兵士の警戒射撃により殺害された。長井健司が撮影に使用したカメラはミャンマー政府に取り上げられて、隠蔽されて返還はされていない。ミャンマー軍の機密文書により軍当局が兵士に対しデモ現場にいるカメラ所持者を銃撃するよう指令を出していた。最重要の射撃対象者として長井健司は位置付けられていた。長井健司の銃殺は、偶発ではなく、ミャンマー軍の組織的な指令によるものだった。


2019年8月7日水曜日

長崎原子爆弾の爆心地近くの山里町で、母親とおんぶした子どもが、廃墟にしばらく爆心地付近に立ったまま動かなかった。(長崎)

長崎市の爆心地近くで、母親とおんぶした子どもが1945年8月30日に、廃墟でしばらく爆心地付近に立ったまま動かなかった。長崎市にいた親族を探すため、原爆が落とされた山里町に向かい、焼け焦げた山里町を歩き回った。長崎原子爆弾は、中央後方の立ち木の上空約500mで爆発した。せんだんの巨木は爆風と熱線のため、幹の一部はさけ折れて、枝葉はすべて焼失している。
 長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して大爆発した。爆心地付近の長崎市山里町では、全ての存在物が完全に崩壊と焼滅して、がれきの山となった。長崎原爆戦災誌(長崎市)によると、長崎市山里町は、爆心地である松山町171番地から約500mに位置した。原爆以前の山里町の世帯数は約850戸、人口は約4千人と推定された。原爆で建物は全壊と全焼して、屋外の被爆者は全滅して、生存者は1人も確認されない。少なくとも約1,500人が死亡した。1964年の町名変更で、山里町は現在の平和町と平野町に含まれる。


横浜市立大島中学校の中学生が、2014年5月27日に長崎原子爆弾の被爆者が、原爆や戦争の悲惨さを語り継ぐ「長崎の証言の会」の語り部の9名が、長崎市平和公園で学習会に参加した。語り部の森口貢さんが聴く態度が不良な中学生らを注意すると、グループ学習から離脱した。爆心地から北に約700mの山里小学校にいた生徒に語り部をした時に、不良な5人の中学生がグループ学習にいた森口貢さんに向けて、「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いた。生徒らは、暴言の問題を認識もできず、被爆者を傷つける行為にも気づけなかった。
 

2019年8月6日火曜日

独ソ戦で撤退したソビエト軍はブラヴィエニシュケス収容所の囚人と看守を虐殺した。

1941年6月26日に、ソビエト軍はリトアニアのブラヴィエニシュケス収容所の囚人と看守を大量虐殺した。1941年6月22日からの独ソ戦により、撤退するソ連軍は残存したリトアニア人らの捕虜をプラヴィエニシュ収容所やライネイ森で虐殺された。
 1940年7月に、ソ連のNKVD部隊により、リトアニア人の反政府勢力の約6606人を逮捕した。1941年6月にソ連軍は約17,500人ものリトアニア住民を、ソ連領の厳しい地域に大量追放した。リトアニア人は、1941年6月に反ソ連の六月蜂起をして、ナチス・ドイツはリトアニアと密接な連携を取ったが、臨時政府の独立は認めず占領した。
 1939年8月、ナチス・ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結した。秘密議定書でバルト三国と東欧の分割支配を締結した。1939年9月、ドイツとソ連がポーランド東部に侵攻した。ソ連はヴィリニュス地域をリトアニアに編入して返還された。1940年6月、リトアニアはソ連に侵攻されて独立を失う。侵攻は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいた。1941年に6月22日に、ドイツ軍はソ連への侵攻による独ソ戦が勃発した。リトアニアは独ソ戦の末期まで、ドイツ軍の占領下に置かれた。ナチスとリトアニア人のナチス協力者は、リトアニアのユダヤ人を約19万5000人を虐殺した。
 1944年に、ソ連軍が再びリトアニアに侵攻し、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入された。1944年から1952年にかけて、約10万人のリトアニア人は、パルチザンとしてソ連と戦闘した。約3万人のリトアニア人のパルチザン兵士と支援者は虐殺された。その他にも膨大なリトアニア人が逮捕され、シベリアのグラグへと強制追放された。第二次世界大戦中に、総計で約78万人の住民がリトアニアで虐殺された。























2019年8月6日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 250,000回