2019年4月28日日曜日

白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所におけるユダヤ人の大量虐殺による死体の山が散乱した。少なくとも約55,000人もの限界を超えた囚人が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧が絶たれて、ほとんど囚人は飢餓状態に置かれ餓死や病死に陥った。
 若年ドイツ人による抵抗グループである白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。白いバラは東部戦線からの帰還兵であったミュンヘン大学の学生らで構成されたグループであった。ナチス・ドイツによる残虐行為をドイツ市民に認知させる非暴力な抵抗運動を遂行した。結成時のメンバーの一部は、東部戦線におけるユダヤ人の大量虐殺を目撃した。1942年6月にミュンヘンの郵便受けにわずか100枚の「白バラ」と書いたビラを入れた。
 彼らはユダヤ人大量虐殺の実態を示すビラを配布する抵抗運動をした。ビラを手動印刷機で印刷して、1942年6月から7月に無作為に封筒で主要な南ドイツ市民に郵送した。ビラには、ユダヤ人大量虐殺に対する理路整然と反抗を示した文章を掲載した。「ドイツによる占領の後、ポーランドで30万人のユダヤ人がとても残酷な方法で殺されました。これは人間の尊厳に対するもっとも恐ろしい罪でしょう。歴史上例を見ない罪でしょう。ユダヤ人は、われわれと同じ人間なのですから。」
 白いバラは次第に過激な抵抗運動を伴った。1943年2月14日と16日にミュンヘンの大通りに、反ナチス・ドイツをペンキで誇大に広報した。2月18日に、トランクにビラを詰めて、講義室に置いて、中庭にバラまいた。ゲシュタポに目撃されたハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄弟とプロープストの3人は、2月22日に人民法廷で斬首刑の死刑を宣告されて、午後にギロチンで処刑された。関係者メンバーとその他80人も投獄された。死刑が執行された妹であったゾフィーが死刑の処刑場に向かう前に最後の言葉を放った。「今日はとてもよいお天気ね。でもわたしはもう行かなくてはならないわ。戦場でいまもたくさんの人が死んでいる。未来のある若者が死んでいる。そしてわたしも死ぬけど、惜しくないわ。わたしたちは、たくさんの人に警告できたのだから」



2019年4月27日土曜日

日本軍は、日中戦争の南京事件で中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げて見せしめにした。

日本軍は、日中戦争において1937年12月13日に中華民国の南京城に入城して占領した。その後に南京虐殺と虐待が、南京城の中国人の虚構となった。日本軍は、中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げを見せしめにした。日本軍のは虐殺と虐待を、首都である南京で誇示して、中国人を恐怖におののかせ、おびえさせて、中華民国の降伏と占領に追い詰めた。
 日本軍の大本営発表により、南京における報道管制下にて、南京の戦況から日本国民は提灯行列に浮かれた。海外の一部の報道機関では南京虐殺と虐待を直後から公表した。銃後の日本国民には、戦後に初めて極東軍事裁判で公表された。東京裁判のA戦犯の1人と南京裁判のB・C級戦犯の3人が死刑となった。日本軍兵士による無差別な南京虐殺と虐待は事実と裁定した。法廷では、十分な解明もなく終結して、南京虐殺と虐待の量的と質的実態は未知となった。正確な数値や正確な根拠には食い違いが生じることから、大なり小なり南京虐殺と虐待を否認する論理が続出した。戦争に伴う無差別の虐殺と虐待の真実は、いかなる時代の戦争にも必発しており、南京事件以外にも繰り返され続けている。おり、全面否認する一部の論理は破綻した。日本政府も公式に1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている(2006年6月22日)。

南京大虐殺の再検証に関する質問に対する日本政府答弁書(2006年6月22日)
 1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。南京大虐殺事件は、新たな研究成果を含め、種々の議論があることは承知している。既に検証された記録は、文献等から総合的に判断すれば、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。証言録は、外務省として当時直接聞き取り調査を実施したことは確認されていない。記念館にて展写真の中に、事実関係に強い疑義が提起されているものが含まれている旨を指摘している。



2019年4月26日金曜日

日本軍兵士は海岸で防壁するも全滅して、ヤシの丸太の防壁の周囲に膨大な日本軍兵士の戦死した死体が散乱した。

太平洋戦争にて、ギルバート諸島タラワの日本軍と1943年11月21日に上陸したアメリカ軍とに猛烈な戦闘が勃発した。日本軍兵士は海岸で防壁するも全滅して、ヤシの丸太の防壁の周囲に膨大な日本軍兵士の戦死した死体が散乱した。日本軍の守備隊兵士約4,836人のほとんど全員が戦死した。わずか日本人捕虜約17名と朝鮮人捕虜約129人のみが生存した。日本軍兵士の中には捕虜になることを忌み嫌い自決する者もいた。
 アメリカ軍は戦死者約993人と戦傷者2,298人にも達して、多大の犠牲を伴った。アメリカ軍は多数の犠牲を伴ったため、「恐怖のタラワ(terrible Tarawa)」もしくは「悲劇のタラワ(tragic Tarawa)」と呼称された。アメリカ本国ではタラワの戦いも報道されて、アメリカ軍の甚大な犠牲に批判を浴びた。
 ルーズベルト大統領は、1944年3月2日にタラワの戦いの画像と動画の公開に同意して承認した。戦争記録映画を公開したアメリカ軍の死体や重傷者の映像によって一時的にアメリカ人志願兵の応募率が低下する騒動が起きた。戦争記録映画(With the Marines at Tarawa)は、水に浮かぶ死体、半水没した死体、砂の上で不可能な位置にゆがんだ死体を公表して、映画は恐ろしい戦場を冷酷に「これらは海兵隊の死者です。これは私たちが望んでいなかった戦争のために払わなければならない犠牲です。」と解説した。アメリカ軍の検閲局は1943年9月にライフ(Life)誌に初めて戦死したアメリカ人兵士の画像を公開させた。



2019年4月25日木曜日

イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。

オムドゥルマンの戦闘後に、イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。略奪するために呼息ある戦傷者も虐殺してから略奪した。さらに一部のイギリス・エジプト軍兵士も略奪に参加した。
 イギリス・エジプト軍はスーダンに南下を続け、マフディー国の首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達した。1898年9月2日にマフディー国防衛は最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でイギリス・エジプト軍に総突撃をかけた。これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を崩壊した。マフディー軍は総自殺のような騎兵隊の悲惨な突撃を繰り返した。次々と突撃攻撃するマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前に膨大な死傷者がなぎ倒された。早朝に始まった戦いは昼前にはイギリス・エジプト軍が占領して終結した。この戦いでマフディー軍の半分にあたる約11,000人が戦死して約6,000が戦傷して、イギリス・エジプト連合軍は約382人しか死傷者が出なかった。
 熱狂的なイスラム教徒であるマフディー(約束された救世主)が指導する農民主体の反乱は、現在のスーダンで1881年から1889年の間にかけて起こった。何度もイギリス・エジプト軍を退け、約18年間の間独自の統治を行った。しかし相次ぐ対外戦争でマフディー国は疲弊し、イギリス・エジプト軍の巻き返しもあり崩壊して、スーダンはイギリス・エジプトの占領された。北アフリカにあったイギリス・エジプト領スーダンは、1889年から1956年までイギリスとエジプトの共同統治領となった。


2019年4月24日水曜日

リベリア内戦にて反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に虐殺されて腐敗し膨張したリベリア市民の死体が放置された。

リベリア内戦にて、2003年の反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に、戦闘に巻き込まれて虐殺された。放置されたリベリア市民の死体が腐敗して膨張した。道の至るところに、後ろ手に縛られた腐敗した残酷な死体が転がっていた。それを遠巻きに荷物を抱えた避難民が通り過ぎた。
 アフリカ西部のリベリアは、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって1847年に独立した。アフリカの中ではエチオピアに次いで古い独立国家で、首都はモンロビアである。リベリアの国名はLiberty(自由)に由来した。独立して以来国を支配したアメリカ解放奴隷と、先住民族の下剋上に起因して、1989年から断続的に内戦が勃発して、2003年に内戦が激化した。2003年6月に反政府勢力であるリベリアの反政府勢力リベリア和解民主連合(LURD)とリベリア民主運動(MODEL)が首都のモンロビアに侵攻した。2003年6月17日には政府と停戦合意するも、6月24日に反乱に至った。アメリカ合衆国が介入することで、2003年8月にチャールズ・テイラー大統領がナイジェリアに亡命した。内戦により約27万人の死亡して、約79万人が難民・避難民となった。2006年にエレン・ジョンソン・サーリーフがアフリカ初の女性大統領に選出された。


2019年4月23日火曜日

一人のドイツ軍兵士がハリコフ攻防戦にて、一人のロシア軍兵士の右眼から頭部を狙撃銃で射殺した。

一人のドイツ軍兵士が1943年8月13日頃に、一人のロシア軍兵士の右眼から頭部を狙撃銃で射殺した。約16歳のロシア軍兵士は、塹壕に隠れて潜んで材木の下で穴を掘っていた。右眼から頭部を狙撃銃で撃ち抜かれた。塹壕上で息絶えたロシア軍兵士のうつろな死顔の死体が横たわった。二人のドイツ軍兵士が検死するために、下腿をつかんで塹壕から引きずり出した。塹壕の壁の周辺には血液が出血して飛び散った。ロシア軍兵士の脳みそと砕けた頭蓋骨が背中に飛び出した。弾丸の威力で、後頭部にはこぶし大の穴が空いて吹き飛ばされて、頭蓋骨の内部がはみ出た。
 一人のドイツ軍の青年兵士は、初めて銃をかまえて的を人間に絞った。異様に興奮して、胸が締め付けられて、動悸して、震えた。 硬直して痺れたようになり、引き金を引けずにいた。ドイツ軍隊員から、さっさと一発でぶっ殺せと怒号された。急に緊張が解かれ、致し方なく深呼吸をして、思い切って狙撃銃の引き金を引いた。銃声が周囲にとどろき、銃口から煙が立った。ドイツ軍隊員からは、大当たりでお陀仏と称賛された。隊員らは銃撃の成果を確認にするために、すぐさま塹壕のそばに駆け寄った。
 第2次世界大戦にて1941年から1943年まで、ドイツ軍とロシア軍とがウクライナでハリコフ攻防戦あるいはドネツ戦役が勃発した。ウクライナのハリコフを中心にしたドネツ川の周辺地域にて戦闘した。ハリコフ攻防戦は、第二次世界大戦中の1941年から1943年にて、ウクライナのハリコフ制圧を4度にめぐりドイツ軍とソビエト軍の攻防が繰り返された。1943年8月頃に、ソ連軍がアゾフ海沿岸までの南部全戦線で攻勢した。 8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲された。ナチス・ドイツ司令部は8月12日には”いかなる状況でも、ハリコフを保持せよ"との命令を出した。絶望的になり8月21日にドイツ軍は撤退を始め、8月23日にハリコフはソ連軍に占領された。  




2019年4月22日月曜日

ベトナム戦争で散布された枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響を受けた胎児の病理標本に先天性障害が発生していた。

ベトナム戦争で散布された枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響による胎児の病理標本には、先天性障害が発生していた。ベトナムのTu Do病院だけでも100体以上のベトナム戦争による枯葉剤の影響を受けた奇形児の標本が残っていた(2013年)。微量のダイオキシンで、細胞質内の受容から遺伝子の特定部分と結合し、腫瘍、奇形、免疫、発育の異常などが起こる。
 ベトナム戦争でアメリカ軍が枯葉剤を使用した。1962~71年に南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍の勢力が潜伏する森林地帯を枯らせて,農作物を腐らすために、爆撃機を低空飛行して散布した。2,3,7,8-テトラクロロジベンゾパラジオキシン(2,3,7,8-TCDD)のダイオキシンが含まれて少量でも猛毒である。散布された約5000万トンの枯葉剤にはダイオキシンが約170kgも含まれた。1970年代以降に,枯葉剤を吸入あるいは接触してベトナム人に、流産,皮膚疾患,癌,先天性欠損症,先天性奇形と後遺症が異常に高い頻度で発生した。ベトナムで長期に枯葉剤に関与した多数のアメリカ軍,オーストラリア軍およびニュージーランド軍兵士に癌その他の被爆障害が発生した。アメリカ軍の退役軍人らはアメリカ軍向けに枯葉剤を生産した農薬メーカー7社に集団訴訟を起こし、約25万人の被害者と家族のために1億8000万ドルの補償基金が設立された。しかし、アメリカ政府は枯葉剤と先天性障害の因果関係を全く認めていない。
 1967年2月6日にベトナム戦争中のアメリカ軍は、ランチハンド作戦で、南ベトナム解放民族戦線が潜む森林を消失させ、食糧生産を阻止するため、枯葉剤の大規模な散布をした。2,4-ジクロロフェノキシ酢酸(2,4-D)と(2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)の混合剤であった。農業用の除草剤を化学兵器に転用して、ベトナムの森林の約2割が壊滅した。約3000万人以上のベトナム人が被害を受けた。不純物の猛毒のダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD)が、奇形や腫瘍などの発生の原因になり、国際世論の非難を浴びて、1971年に散布を中止した。ベトナムではこの作戦以後に、結合双生児、無脳症児など障害児の出産が約20万人にも達した。枯葉剤は帰還した兵士にも被害を出し、ベトナムでは3世代を経過しても障害が続いている。



2019年4月21日日曜日

第二次国共内戦にて山東省の巨野、金乡、鱼台の地域で、人民解放軍が国民党軍を攻撃して壊滅した。

第二次国共内戦の緒戦に、1946年11月28日から山東省の巨野、金乡、鱼台の巨金魚の戦いで、人民解放軍らは国民党軍を攻撃した。12月18日に中国共産党の中央軍事委員会の指令で、解放した地域の背後から国民党軍を攻撃した。12月22日に聊城で紅軍が包囲されるも、30日夜、巨野、金乡、鱼台の地域から国民党軍を襲撃した。紅軍は1947年1月7日から9日まで、北西部地域も包囲して、国民党軍を壊滅した。引き続いて1月12日から16日まで河南省の国民党軍も壊滅した。巨金魚の戦いでは、国民党軍は約1万6千人以上の犠牲を伴って壊滅した。山東省の9郡町を占領された国民党軍は、山東省南西部に撤退した。 
 太平洋戦争に1945年8月15日に敗退した日本軍は中国から引揚げた。国民党と共産党は共通の敵を失い再び反目した。アメリカが介入するも、蒋介石は1946年6月26日に国民党軍を共産軍支配地域への攻撃を命じて、第2次国共内戦が再び勃発しました。
 国民党は当初は優勢となり、1947年6月には共産党の拠点である延安を攻略した。撤退した共産党は満州の日本軍の武器とソ連の支援から紅軍は次第に侵攻した。共産主義思想は地主から土地を奪い農民に分配する農地改革で、全中国の農民の支持を得て、共産党に有利な戦局になった。紅軍は中国を従来の政治体制や生活から解放する軍として人民解放軍に名称変更した。1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の建国宣言して、国民党は1947年12月7日に台湾に遷都し停戦した。 




2019年4月20日土曜日

長崎原子爆弾により多数の腐敗していた被爆死体を野火で火葬した遺骨が地面に散乱していた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂した。長崎市内は、強烈で甚大な防風、熱射、放射線により、壊滅した。爆心地の周辺では、身元も特定できない膨大な被爆死した死体が散乱していた。長崎市内は壊滅して火葬場も破壊されて火葬できなかった。致し方なく焼け跡から、燃え残りの木材を集めて至るところで火葬した。放置されたままの死体を約3週間すぎた8月26日頃になってから、多数の腐敗していた被爆死を野火で火葬した。火葬したままで遺骨は後片付けも十分にできずに地面に散乱していた。



2019年4月19日金曜日

クラスター爆弾の不発弾を爆弾除去兵が確認する瞬間に、不発弾が爆発して重態となり四肢切断された。

セルビアのスェニッァにおけるドゥビニェ空港の滑走路にて、一人の爆弾除去兵士のみが随行して、不発弾の処理をした。飛行場に立ち入る技術員の一行は、滑走路にて数個のクラスター爆弾の不発弾を発見した。一人の爆弾除去兵士が駆けつけて、草むらに隠れているクラスター爆弾の不発弾を探索した。草むらに見え隠れしているクラスター爆弾の不発弾を確認するために、草むらを取り除こうとした瞬間に、一人の爆弾除去兵に向けて不発弾が爆発した。コソボ紛争で、1999年3月にNATO軍は、コソボとセルビア全土への3月間の空爆で、約1万3000発のクラスター爆弾を投下していた。
 特に被爆した四肢から大量出血して、多数の動脈が切断されて止血困難となった。救急車の中で、固く巻いた包帯でも止血できず、多量の失血のために心不全に陥った。緊急にベオグラードの病院に到着した時は、すでに心肺停止であった。直ちに緊急手術をして、左右の下腿の切断と左右の前腕の切断をして、止血する処置により一命を留めた。4日間の昏睡状態を脱して、四肢を切断して寝たきり状態で意識が戻った。頭部と肺の損傷や聴覚と視覚障害も合併した。2004年10月に退院す4年間の間に、20回以上の再手術を受けた。長期間に全身は包帯を巻かれて、重度の障害の要介護と受容を必要とした。
 1997年に対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)によって、対人地雷の使用と製造、保有が禁止された。多くの不発弾をばらまくクラスター爆弾は、禁止されずに未だに地球上で爆発している。クラスター爆弾は、親爆弾に数百個の小爆弾を収納して、親爆弾が空中で爆発すると小爆弾が広範囲に散布される。小爆弾は、硬度な武器や建物などでは爆発する。やわらかい畑や沼地などは不発弾のままに残存する。不発弾は、そのままに地面や草原に散乱したままになっている。触れて被爆した者の約98%は一般市民が犠牲となった。



2019年4月18日木曜日

エルサルバドルの死の部隊が、敵対勢力に対して暴力的な虐待と虐殺をして、多岐にわたる敵対勢力を毎夜に暗殺し続けた。

エルサルバドルの為政者や権力者と反革命側によるアメリカから間接的支援を受けた死の部隊が、敵対勢力に対して暴力的な虐待と虐殺をした。多岐にわたる敵対勢力を毎夜に暗殺し続け、それ以外の市民から子供までも見せしめのためだけに虐殺されたものも多数いた。
 エルサルバドルは1977年に右派の文民軍事政権が生まれ、左右両派による10年以上もの激しい内戦が勃発して約8万人が死亡した。1980年にロメロ大司教の暗殺事件から、右派政府に対して左翼ゲリラ5組織の連合体のファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が内戦を展開した。FMLNは当初、北部から東部の山岳地帯を中心に優勢な戦いを進めて1983年には国土の3分の1を支配した。
 しかし、アメリカから軍事援助を受けた政府軍に、次第にFMLNは守勢に追い込まれた。1992年に両者は和平協定に合意して、FMLNは政党活動を宣言して武装解除した。内戦後に1994年初の大統領選挙から、右派の民族主義共和同盟(ARENA)が政権を握った。2004年6月にはARENAから大統領に就任し、議会はFMLNが多数派を握った。
 エルサルバドルは中米5ヵ国の最小国家であり、地主が小作人を支配して、多くの市民が外国や隣国へ出稼ぎに出て、国内は混乱に陥ってゲリラ活動が頻発した。難民らが組織したマラスと呼ばれるギャング集団による治安悪化が深刻となった。2016年の10万人当たりの殺人被害者数は、エルサルバドルが99.7人で、戦闘下のシリアに次いで2番目の多さである。


2019年4月17日水曜日

硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊員の死体が砂浜に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊第4師団の兵士の死体が砂浜に横たわった。アメリカ軍と日本軍との猛烈な射撃の縦断の飛び交う中で、上陸して銃撃を避ける場所のない浜辺の上で、日本軍からの弾丸はアメリカ軍の兵士のヘルメットを突き抜けて頭部を貫通して粉砕した。どこからも飛んでくる銃弾や砲弾にアメリカ軍海兵隊員は膨大な戦死傷の犠牲に恐怖して大混乱となった。
 サイパンを出撃したアメリカ軍兵士約25万人と艦艇約600隻が硫黄島の戦いに参戦した。1945年2月16日から空母艦載機の空襲と艦艇の砲撃をした。2月19日の午前9時2分に、アメリカ軍海兵隊の最初の部隊が上陸を開始した。上陸した海兵隊が海岸を埋めつくすと同時に、日本軍からの猛烈な砲火と銃撃が海兵隊員を襲った。海岸はみるみるアメリカ軍の海兵隊員の死体の山となった。上陸から初日のアメリカ軍の損害は第2次世界大戦でもでも最大の犠牲を伴った。
 硫黄島の戦いでは、1945年2月19日から3月26日まで、アメリカ軍の海兵隊員にとって、かつてない極めて悲惨で犠牲の多い戦闘になった。上陸した最初の50時間だけで、海兵隊の戦死傷者は約3,000人以上に達した。上陸してからわずか5日間に、毎日平均約1,200人以上の戦死傷者の犠牲を伴った。上陸した海兵隊員の約3人に1人が戦死傷者に陥った。アメリカ陸軍と海軍兵士の約7,000人が戦死して、約20,000人が戦傷に上った。
 市丸海軍少将から『ルーズベルトに与ふる書』を残して 「あなたの行動から判断すると、有色人種を犠牲にして白人種、特にあなたのアングロサクソン人が世界の果実を独占しています。
  この目的を達成するために、数え切れないほどの黄色人種を奴隷にして、そして最後にそれらをどんな強さからも奪うために使われました。あなたの帝国主義に対する報復として、日本はあなたの懲罰的な絆から東洋諸国を解放しようとしました。あなたは今、あなたのかつての友好的な日本を、あなたの甘美な計画では、絶滅させなければならないたくさんの野蛮人である有害な存在と考えています。この大東亜戦争の終結は、東アジア共同繁栄地域の誕生をもたらします。もちろん、あなたの果てしない帝国主義によって妨げられないのであれば、近い将来、世界の永遠の平和をもたらすでしょう。
 なぜ、あなた、すでに繁栄している国は、東洋の抑圧された国々の自由のための運動を掴むのです。東洋に属するのは東洋に戻ることに他なりません。」と地球平和を託した。




2019年4月16日火曜日

ガイアナの人民寺院で912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。

ガイアナの人民寺院にて1978年11月18日に、912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。何百人の信者が毒をあおり、苦悶しながら自殺させられた。信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児には注射をし、逃亡者は銃殺した。
 教祖ジェイムス・ウォレン・ジョーンズは、1960年代に貧しいゲット―のかなりの黒人たちの信者を抱えた。ジョーンズの人民寺院が1960年代初頭に急成長した。1962年のキューバ危機から、人類滅亡の神のお告げを告げた。生き残るためとカリフォルニア州ユキアに1965年に人民寺院を移転した。この世は唯一の地獄と布教して、被害妄想と迫害体験から精神が狂気となった。
 急増する脱会者を最も恐れて、1977年に約1000人もの信者を南米のガイアナに移転した。死の殉教者として革命的自殺と狂信させた。脱会者には虐待と虐殺した。1978年11月14日に世間の要請を受けたレオ・ライアン下院議員が人民寺院を視察した。脱会希望者が救いを願い出て、ジョーンズの指令を受けた刺客と武装組織が、脱会者から議員や記者までも銃撃と銃殺した。
 狂気のジョーンズは、信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児は注射をして、逃亡者は銃殺した。すべての信者が死滅してから、ジョーンズは銃で頭を撃ち自決した。ガイアナの大虐殺はジョーンズの無理心中であり、大量殺戮となった。常軌を逸した教祖が現世に存在する以上、このような惨劇から大虐待と大虐殺は繰り返されるだろう。


2019年4月15日月曜日

ベトナム人少女はアメリカ軍からのボール弾を全身に被爆して、剛球が組織の深部に達して食い込み、身体を移動して激痛を伴った。

アメリカ軍は、ベトナム戦争において、第2次世界大戦に投下した爆弾の約2.5倍の約1,700万トンも空爆した。アメリカ軍は高度に広範囲に重度に殺傷する先端兵器をベトナム戦争で駆使した。ベトナム人少女は、アメリカ軍からのボール弾を全身に被爆した。ボール状の剛球は、身体組織の深部に達して食い込んだ。剛球は身体組織内を移動して激痛を伴った。多数の剛球を、手術などで取り出すことは非常に困難であった。
 ボール爆弾は、アメリカ軍がベトナム戦争のために開発した散弾型爆弾である。爆心地の周囲の多数の人間を一挙に殺傷する無差別殺人兵器である。長さ約2.1mの紡錘形の親爆弾が、時限信管のセットに応じて空中で破裂する。ボール状の子爆弾が約300~600個が破裂して、子爆弾の安全装置がはずれて爆発する。詰めた孫爆弾のパチンコ玉のような小鋼球(直径約5.6mm)の約280~300個が,秒速約510mの速さで飛散する。1発の親爆弾の散布界は,幅約300~350m,長さ約800~1000mの楕円形で,そこに9万~18万個の鋼球が飛び散る。
 ボール弾は、爆弾の中の多数の小爆弾が、爆発とともにそれが四方八方に飛び散る。ボール爆弾は地面に衝撃すると、中に装備した約600個の小爆弾が飛び散り、小ボール爆弾からさらに小鉄片の多数が人体内を貫き殺傷する。散弾爆弾やクラスター爆弾の一種である。パイナップル爆弾は、落下に方向性をもたせる羽根をパイナップル状につけている。1968年頃より、軍事施設の破壊よりは、もっぱら無差別な殺傷のために、非人道的に多数の市民が犠牲になった。その形がベトナムの「オイ」という果物に似て、ボール弾を「クワ・オイ」と呼ばれた。
その他に、ナパーム弾はゼリー状のガソリンの混合物の爆弾としてベトナムに投下した。第2次世界大戦中に日本への焼夷弾として開発して空爆した。ナパームは非常に高温で燃焼し、燃焼または窒息などによって殺害した。クラスター爆弾は、小さな爆弾を含み、小さな弾薬で殺傷の効果を高めた。特にラオスで、ベトナム戦時中の空爆作戦中に多用された。戦争の間にラオスの上で合計約58万回の爆撃で、約250万トン以上のクラスター爆弾を投下した。アメリカ軍は、ベトナムの隣国のラオスに、人口1人あたり最多の爆撃をした。ベトナム戦争中に、クラスター爆弾、ナパーム弾、対人地雷、その他甚大な爆弾に兵器が投下された。小さな爆弾の多くはすぐには爆発せず、今もラオスの地中に致命的な脅威のままで残存している。



2019年4月14日日曜日

イスラエル軍が殺害して焼けただれたハマス幹部の死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが燃えた車から引き出した。

イスラエル軍の武装ヘリが、2004年にパレスチナのガザ地区で、ハマスの指導者らの同乗した車に向けてミサイル数発を発射して直撃した。ハマスの幹部が殺害されて焼けただれた死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが車から引き出した。自治政府(PLO)はハマスの武器密輸を摘発したが、イスラエルは摘発では不十分として暗殺を2004年に再開した。PLOはパレスチナ人からも反発され、弱体化したPLOに代わりハマスがイスラエルの武力闘争を主導した。
 イスラエル軍は2004年3月22日にイスラム過激派組織であるハマスの最高指導者ヤシン師をミサイル攻撃で殺害した。国家暗殺による相次ぐパレスチナ指導者の殺害が激しい反発を招いた。アナン国連事務総長は、違法な殺害行為と批判した。間もなくイスラエル軍は2004年4月17日に、パレスチナ自治区ガザで、次の最高指導者となったアブデルアジズ・ランティシと同乗の3人の自動車を武装ヘリからミサイル攻撃して殺害した。4月18日にガザ地区で約10万人のパレスチナ人による葬儀が行われ、ハマスは100倍の報復を宣言した。4月19日にエルサレムにてバスの自爆テロで約21人が殺害された。イスラエル政府と軍は、ハマス壊滅のために全ハマス幹部の殺害を表明した。2002年から2008年5月の間には、イスラエル人による約324人の標的殺害で、少なくとも約387人のパレスチナ人が死亡した。
 ハマス(Hamas)は、パレスチナのイスラム原理主義過激派組織である。ハマスは「イスラム抵抗運動(Harakat AL-Mugawama AL-Islamia)」の頭文字である。1987年12月のイスラエル軍事占領に反対する市民蜂起であるインティファーダから、イスラム復古勢力のムスリム同胞団を母体に創設された。軍事部門であるカッサム旅団は、自爆テロを含む武力行動を展開する一方で、パレスチナ市民の救援や貧困救済などでも支持を得た。


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