2019年4月7日日曜日

マニラの戦いは、太平洋戦争で最大規模の市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。

太平洋戦争において、アメリカ軍が1944年10月20日の上陸から1945年6月28日までフィリピンの戦いで日本軍と激烈な衝突を繰り返した。首都のマニラの戦いは、1945年2月3日から3月3日までフィリピンの首都のマニラで攻防した日本軍とアメリカ軍の市街戦が勃発した。日本軍は敗退して、約3年間に及んだ日本軍のフィリピンの占領と統治は終結した。太平洋戦争では最大規模となる市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人の市民が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。
 日本軍の主力は、持久戦のために北部ルソンに転進した。マニラに残存した日本軍は、悲惨な激戦地となったエルミタ・マテラ地区で、建物や民家などに潜伏して徹底抗戦をはかった。日本軍は背後の敵となる恐れがあるマニラ市民なども大量に虐殺した。マニラ市民は日本軍の銃剣や機銃掃射で殺害され続け、地区全てにて女子と子供らの弱者は組織的に虐待した。アメリカ米軍は、建物や民家からの狙撃の損害を抑止するために、重砲火による無差別砲撃でマニラ市街を次々と壊滅した。マニラ市民の犠牲の約6割は日本軍による殺戮、約4割はアメリカ軍の重砲火による殺害と推定された。日本軍の戦死者は約16,665人、アメリカ軍の戦死者は約1010 人と戦傷者は約5,565人であった。
 マニラ市内の随所で繰り広げた日本軍による虐待と虐殺は、無差別の非戦闘員である市民の殺害の範囲を超えたジェノサイド(大量虐殺)となった。南京虐殺事件は日本軍の占領開始からの十分な記録が残らず、論争が絶えない。マニラの戦いは、アメリカ軍と対峙してマニラの開放までに、日本軍の残虐行為を捜査して記録された。激戦となったエルミタ・マラテ地区は、アメリカ人とフィリピン人だけでなく、多数の外国人を含む富裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが密集する地区でもあった。太平洋戦争のマニラの戦の残虐行為は、東京裁判やマニラ裁判などに提出された宣誓口供書と日記・回顧録などを証拠として、日本軍史上で最も詳細に記録された蛮行として大将の死刑が執行された。



2019年4月6日土曜日

原子爆弾の熱線による重度の背中の火傷に伴う疼痛により、救護所で背中を下にできず苦悶してうつ伏せに寝込むんだ。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力などが複合して押し寄せた。男性は、熱線による悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷によるひどいびらんは、一面に表皮が破れ落ちた。火傷に伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れして、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の約0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線と熱傷は、広島で爆心地から約3.5km、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3km、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体に致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後から発したわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服から十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離や方向で火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷になると表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放し露出した。

https://drive.google.com/file/d/1-9zbST5bNNtIYo-k2zrYS2O1mBK6HW8A/view?usp=sharing


2019年4月5日金曜日

イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。

第一次世界大戦にて、1916年7月1日にボーモン・アメルの戦いが勃発した。連合国軍によりソンム攻勢に対抗して、ドイツ軍が大規模な地下要塞をボーモン・アメル他8つの村に敷設した。イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。
 イギリス軍は、ボーモン・アメルの要塞を侵略するために、地下要塞の最前線の塹壕の地下に大規模な時限付きの10個の地雷を設置した。地雷が午前7時20分にドイツ軍の塹壕で大爆発した。ボーモン・アメルの要塞で多数のドイツ軍兵士が塹壕の下で爆死した。その付近に設置されていたホーソン・リッジ要塞に対するイギリス軍の大規模な地雷は、イギリス軍の攻撃を始める予定時間よりも約10分ほど前に爆発した。イギリス軍は地上攻撃した後で大爆発して犠牲者が出た。さらに、塹壕から乗り出したイギリス軍兵士は、横一列に隊列を組んで進軍した。ドイツ軍は、爆発によってできた巨大な塹壕に潜入して、イギリス軍を狙い撃ちした。イギリス軍は、ドイツ軍の占領の境界に設置された有刺鉄線に阻まれて、わずか約40分間で多数の犠牲者を出して壊滅した。さらにイギリス軍は前線壕に撤退する前に犠牲を出し、自軍の有刺鉄線の切れ間を抜けた後退に、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。ジョン・メイスフィールドは「第一波のイギリス軍兵士が胸墻をよじのぼる。叫喚と暗闘、そして死の気配」とオールド・フロント・ラインで記録した。
  予備隊であったカナダ兵士の約778人のうち戦死傷者は約684人にも達した。戦闘初日のイギリス軍は、一日の犠牲としては史上最多のとなる戦死者約2万名を含めた約6万人の戦傷者を出した。一方のフランス軍の犠牲は初日で約7000人で、ドイツ軍は約1万人といわれも、その犠牲者数の記録は残存せず不詳となった。ソンムの戦いは、冬が到来し進撃が困難になり、約4ケ月後の1914年11月18日に戦いは終わった。しかし、結局は相互に戦線の突破はならず、10km程度の前線の東進と引き替えに、イギリス連邦は約42万(内死者行方不明10万)人、フランス軍は20万(内死者行方不明5万)人、ドイツ軍は犠牲者約47万(内死者行方不明は16万、捕虜3万)を伴ったと言われる。相互とも多くの血を流し、人命を無駄にしても戦線には大きな影響は無かった。



2019年4月4日木曜日

ナムル島の空爆と砲撃で爆死した日本軍兵士は、軍服は剥ぎ取られて荒野に吹き飛んだ。

太平洋戦争にて、マーシャル群島におけるクェゼリン島の近隣のナムル島に対する空襲による空爆と戦艦からの砲射撃は、すさまじい武力による破壊力でほとんどが壊滅した。ナムル島における地上の日本軍兵士は壊滅して爆死して、、上下の軍服から剥ぎ取られて、荒野に吹き飛ばされた。地上にあった建造物や樹林などは、強烈なる爆破力と爆風から大震災などにより破滅した。
 第一次世界大戦後に、日本はマーシャル群島など赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアを委任統治領として、国際連盟脱退後も統治していた。アメリカ軍は、太平洋戦争が勃発して以来に、初めて日本軍の統治領域に侵攻して占領した。世界最大のクェゼリン環礁の北島群のナムル島に対して、1944年1月30日から約7,000トンもの爆撃と砲弾で空爆をした。アメリカ軍は2月2日から上陸して、北島群の日本軍兵士の約2,900人は2月3日にはほとんど全滅した。クェゼリン環礁を始めマーシャル群島における日本軍兵士の約11,660のうち、戦死者数は約10,840で戦死率は約93%にも達して、生存した捕虜はわずか約774人であった。日本軍の大本営は、2月25日になって全滅した玉砕を公表して、戦死して上官の大尉が少佐に一階級の進級した。陸軍大将かつ首相であった東条英機は、日本軍兵士が玉砕して全滅しても、「物事は考ヘ様で、寧ろ敵の背後に我が基地があると考へればよい。而して機を見て両方より挟撃、反撃しなければならない。」と言明した。



2019年4月3日水曜日

パレスチナ難民キャンプでイスラエル民兵に虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。

イスラエル軍が1982年にレバノンの首都であるベイルートに侵攻した。イスラエル人民兵は、難民キャンプのパレスチナ人を無差別に大量虐殺した。難民キャンプで虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。頸の周囲が腫れ上がった少年の死体は、路上の瓦礫に放り出されて放置された。9月16日から9月18日に、サブラとシャティーラ難民キャンプのパレスチナ人らを大量虐殺した。9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りから勃発した。イスラエル軍のレバノン侵攻により、約75,000人のレバノン人とパレスチナ人が戦死傷した。
 イスラエル軍は1982年にレバノン国境を越えて侵攻して、ベイルートなどのパレスチナ解放機構(PLO)のテロ拠点を攻撃した。イスラエル軍は圧倒的な浮力でベイルートは壊滅した。PLOはレバノンからチュニジアに拠点を移してから、イスラエル軍はレバノンのベイルートを侵攻して大量虐殺が勃発した。レバノンのパレスチナ人難民を、ヨルダン川より東に追いやった。1985年から2000年までレバノン南部を侵略した。
   イスラエル軍はレバノン侵攻とベイルート包囲して、PLOがベイルートから撤退した後、親イスラエルのキリスト教右派民兵が難民キャンプ地域に入り大量虐殺をした。大規模な死者数や犠牲者数は確定されない。家族ごと死んで集団で埋葬されたり、行方不明のまま死亡が確認されなかた。国連総会で「ジェノサイド(大量虐殺)」とする決議が採択された。2001年9月11日の同時多発テロ事件後に、アメリカ軍の対テロ戦争と呼応して、2006年7月からイスラエル軍は、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府をヨルダン川西岸で包囲して、国連の撤退決議で10月に撤退した。



2019年4月2日火曜日

日露戦争に向けた雪中行軍演習に巻き込まれて、積雪の中で日本軍兵士の凍死体が、八甲山の山中に散乱した。

八甲田山雪中行軍遭難事件に巻き込まれて、積雪の中で凍死した死体が、八甲山の山中に散乱した。1904年に勃発した日露戦争に向けて、青森県内で冬季寒冷と厳寒の軍事演習で甚大な悲惨な凍死者を出した。
 1902年1月に日露戦争の軍事演習として、耐寒雪中に行軍が挙行された。青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍で遭難した。弘前連隊の兵士38人は1月20日から行軍して、約240kmを11日間で全員無事に踏破して帰還した。弘前連隊は、7人の村民に過酷な八甲田超えの道案内の酷使をさせられて、町が見えたとたんにその場に置き去りにした。村民は7人全員が凍傷を負い、うち1名は重度障害者となり16年後に死亡、うち1人は凍傷のため頬の穴で飲水困難となった。
 青森連隊は1月23日から行軍して、八甲田山の周辺で遭難した。雪中行軍兵士210人のうちで、山中で193人の凍死者を出して、救出後に6人が死亡して、11人のみが生存した生存率約5%の大惨事となった。193人の凍死者のうちで、発見されて死亡が確認できたのは135人のみで、最終的に58人の凍死体は発見できなかった。生存者のうち8人が凍傷のため四肢が切断された。体温は通常37℃前後で、約32℃まで下がると脳機能の低下により思考や活動ができなくなり、さらに体温が下がると昏睡から死に至る。将校は下士官に比べて装備が良く生還できた割合も高く、将校が脱いだフランネルの服を着れた伍長が助かった。
 青森連隊が予定日の1月24日にも帰還しないため、1月25日の捜索隊によって遭難が確認された。捜索は、厳寒のために困難をきわめて、2月7日には約3,000人もの兵士と地元民が投入された。捜索隊からも、多数の凍傷者が続出した。捜索には、厳寒の北海道のアイヌの人びとも加えた。陸軍は弁明のため歪曲した『遭難始末』を1902年7月23日に報告して、1971年9月に新田次郎が「八甲田山死の彷徨」でさらに陸軍を美談化して映画化された。




2019年4月1日月曜日

舞鶴港の引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。

ソビエト連邦や中国大陸からの引揚船が、最終引揚の前年となる1957年5月24日に舞鶴港に到着した。舞鶴地方の引揚援護局が設けたアーチの下に日本各地から多くの人びとが集まった。その引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。舞鶴港の大浦中学校の女子生徒の首から遺骨箱を白布よって引き下げた。緊張気味に両手で丁重に持ち運んだ。無念に遺骨を待ち迎える縁者は、摘んだ菊の花束を持って待ち受けた。
 次いで病人や戦傷者らが担架で緊急に護送された。待ち受ける関係者の歓声の中で、両手に荷物や子供を抱えた引揚者が降りて来た。実感をもって、しっかりと日本の本土を踏みしめた。引揚者は肉親の出迎えを受けて、再開を果たして手を握りしめて共に涙を流した。舞鶴港では、引揚船が入港するたびに家族だけでなく地元も心から歓迎して慰問した。いまだ帰れぬ我が子や夫を待つ母親の姿が、「岸壁の母・妻」と呼ばれて、人びとも歌や映画で悲嘆に暮れた。
 1945年8月15日に第2次世界大戦の終戦に伴って、海外に残留していた日本人は、兵士約350万人と民間人約310万人の約660万人以上にも達した。海外の残留者が日本に帰国する引揚げが始まった。日本政府は、中国大陸に近い舞鶴港を引揚港として指定した。1945年10月7日に約2,700人が乗船した第一引揚船「雲仙丸」が入港した。舞鶴港は1958年9月7日の約472人が乗船した最終引揚船「白山丸」の入港まで、13年間で、のべ約426隻もの約13年間の引揚事業を担った。
 日本政府は1945年9月に邦人引揚計画と引揚応急援護要綱を決定し、その施策の一部として引揚民事務所を開設させ、引揚者の援護などの事務を行わせた。9月28日に、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司の10港を引揚港と指定した。1950年からは日本国内の唯一の引揚港となった舞鶴港は、主として中国大陸やソビエト連邦からの引揚者を、約13年間で約16,269柱の遺骨と約664,531人の生存者を受け入れた。終戦直後から約60万人の日本人がソビエト連邦に送還された。約472,000人が極寒のシベリア各地や北極圏からコーカサス等に悲惨な収容所に抑留されて強制労働を強要された。


2019年3月31日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に悲しみ、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。


2019年3月30日土曜日

アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体も引きずり出した。

太平洋戦争の終局の沖縄戦で、アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体を引きずり出した。
 アメリカ軍は1945年4月1日から日本本土の侵攻の緒戦であるの沖縄戦の攻防が勃発した。アメリカ軍は、沖縄の海と空を制圧した。圧倒的な武力を持ったアメリカ軍に対して、劣悪な日本軍は、戦闘地域に散在してゲリラ戦で対抗した。そのために陸上戦に巻き込まれて、アメリカ軍からの無差別攻撃だけでなく、日本軍からも虐待から虐殺も受けた。
   沖縄住民らの防空壕となっていた亀甲墓を、アメリカ軍はゲリラ拠点として徹底的に掃討した。沖縄住民の避難場所であったが、被爆弾死、火炎放射器による焼死、手榴弾、銃殺死などで、無差別攻撃で膨大な沖縄住民が虐待と虐殺に巻き込まれた。甚大な銃弾、砲弾、火炎により、沖縄住民は、針の穴をくぐって避難した。
 亀甲墓は横穴式で、山の斜面や崖などを横から掘り出して、その入口部分に石や漆喰で塞いだ。亀甲墓の奥部分は山の斜面や崖の中に詰まっていた。特に明治時代から、沖縄戦争の中部から南部にかけて、亀甲墓は明治時代の中頃から増大していた。大きく独特に埋葬する沖縄の亀甲墓は、結局、沖縄戦で壊滅して、戦後にて亀甲墓は撤去される対象とった。亀甲墓は女性の子宮を象ったお墓に自分が回帰する信仰であった。安置している遺体の周りに石を積み上げたり、漆喰で入口を塞いで、破風墓や亀甲墓の形へと変化していた。



2019年3月29日金曜日

アメリカ軍は、太平洋戦争にて火炎放射器で洞窟やトーチカを焼き払って、追い立てた日本軍兵士を焼殺した。 

燃え尽きた洞窟やトーチカの付近から這い出した日本軍兵士の焼死体が散乱した。アメリカ軍の火炎放射器は、太平洋戦争中に日本軍兵士を丸焼けにした。火炎放射器で洞窟やトーチカを焼き払って、追い出した日本軍兵士を焼殺した。 
 太平洋諸島は島全体が緑の木々に覆われたジャングルで、日本軍はジャングルの茂みに潜んだ。太平洋諸島は、艦砲射撃や爆撃、火炎放射器で、森林が焼き払わて、茂みに潜む日本兵を狙い丸焼きにした。
 日本軍兵士は、荒野から洞窟やトーチカに潜み、ゲリラ攻撃を仕掛けた。爆弾では、洞窟やトーチカには入り組んだ内部まで攻撃が届かない。火炎放射器は、要塞を攻撃して日本軍兵士をあぶり出した。直接に当たれば焼死、避けても熱死亡、酸素不足で窒息死になり、内部は高温で焼死した。火炎放射器を使うアメリカ軍兵士は、特に狙い撃ちされて圧倒的に戦死率が高かった。



2019年3月28日木曜日

ソマリアの内戦の激化によりバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。

ソマリアの内戦の激化により、1992年8月頃にバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。ソマリアで最も人口が集中して流動も高く多様な民族的地域であるバイドアに、大量の難民が殺到した。 多くの難民は飢餓状態となり、無表情に座り込み、横になり、やがて動けなくなった。死体からは糞尿と血の匂いの入り混じった悪臭である死臭が漂った。死体は汚物としてしばらく放置されて、まとめて捨てられた。
 アフリカ北東部のソマリアは、1977年からエチオピアとのオガデン戦争により、1980年代初頭から内戦が勃発して継続した。1991年1月に、統一ソマリア会議の反政府勢力が首都モガディシオを制圧した。6月には北ソマリアのソマリランド共和国が分離独立して、統一された政府が樹立されず無政府状態となった。各部族を中心とする軍閥が、群雄割拠した内戦状態に陥った。
 1992年になると、内戦の戦闘が激化する一方となった。その夏期には大量の難民も発生した。飢餓による餓死や病死が膨大となり悲惨な状況に至った。1992年に国連から平和維持活動(PKO)が派遣された。1993年10月にアメリカ軍が首都モガディシュの戦闘の惨敗から撤退して、1995年3月には国連PKOも撤退した。2000年8月 にジブチの仲介で,暫定国民政府が成立するも、2003年に崩壊した。2005年1月に周辺諸国の仲介で,暫定連邦政府(TFG)が成立した。2006年6月にイスラム法廷連合(UIC)が中・南部ソマリア地域を制圧し、2006年12月にTFGの要請を受けたエチオピアがソマリアに侵攻した。2012年9月に連邦議会により新大統領に選出されて、21年ぶりに統一政府が樹立した。新政府がソマリアの統合を実現して、秩序の回復は予断は困難である。



2019年3月27日水曜日

ベトナム戦争でアメリカ軍はナムディン縫製工場に無差別な北爆をして、3歳と7歳と10歳の子供が殺害された。

北ベトナムの重要な生産拠点の一つだったナムディン縫製工場は、ベトナム戦争時代に数度にわたって米軍による空爆を受けた。ナムディン省は、ベトナム北部のデルタ地帯に位置して、トンキン湾まで最短で35km程度である。アメリカ軍は1965年7月27日にナムディン縫製工場を北爆した。その無差別な北爆によって、3歳と7歳と10歳の子供が殺害された。10歳の女子の頭蓋骨と脳みそが飛び散って虐殺された。
 トンキン湾事件により、1965年2月7日からベトナム戦争にてアメリカ軍による北ベトナム爆撃が勃発した。3月26日から最初の大規模な限局的的な北爆をした。5月5日から最初のアメリカ陸軍の戦闘部隊の約3,500人が沖縄から派遣それて、ビエンホア空港を南ベトナムの軍事基地として強化した。初期は地域限定的攻撃であったが、次第に軍事基地だけでなく村や町など無差別爆撃を行った。6月18日から戦略爆撃B-52が南ベトナム解放戦線の支配区に大量の爆弾を炸裂させた。南ベトナム解放戦線に対抗するために、南ベトナムにも北爆と呼称された攻撃が繰り返された。アメリカ軍は、1965年には約13,000波わたる爆撃により、約250,000トンの爆弾を投下した。7月12日にアメリカ軍が地上戦闘部隊を大量投入して、ベトナム駐留のアメリカ軍兵士の総員は約125,000人にも達して、ベトナム戦争が泥沼化した。





2019年3月26日火曜日

太平洋戦争で硫黄島の浜辺一帯にアメリカ軍の海兵隊の殺戮された死体が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、アメリカ軍の海兵隊は史上で最も多数の激烈な戦死傷を伴った。浜辺一帯に散乱したアメリカ軍の海兵隊のアメリカ人の死体が、すべておよそ可能なかぎり最大の猛威によって殺戮された。
 海兵隊は、1945年2月19日に上陸した最初の50時間だけで、戦死傷者は約3,000人に達した。上陸からはじの5日間には、毎日平均1,200もの戦死傷者を伴った。硫黄島での総計の戦死傷者数は、海兵隊が日本軍よりも約7,753人も上回った。
 硫黄島の戦いでは、アメリカ軍の海兵隊の戦死者数は約6,821人、戦傷者は約21,865人で、総計の戦死傷者数は28,686人にも達した。日本軍は戦死者数は約19,900人、戦傷者数は約1,033人で、総計の戦死傷者数は約20,932人と海兵隊より下回った。しかし、戦死者数は、日本軍が海兵隊よりも、約13,079と膨大な戦死者数が上回った。戦死傷数のうちに戦死率は、海兵隊が約23.8%であり、日本軍は約95.1%にも遥かに上回った。日本軍はほとんど全滅して戦死した玉砕に陥った。1945年3月26日に、最終的に日本軍からの戦闘は終結した。
  1944年6月19日のマリアナ沖海戦で、マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領して、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカの手に陥ち、太平洋戦争の大局は判明されていた。その後は、一死をもって国に殉じて、一人十殺主義で、自分が死んでアメリカ軍兵士を多数を殺戮する算術上の絶望的な戦いに陥った。




2019年3月25日月曜日

沖縄戦で、特攻隊員は確実に命を投げ出し激突して絶命するためにセメントを担いだ。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月24日に戦死を覚悟した特別攻撃隊の操縦兵士が沖縄本島の崖に激突死した。その身体には、確実に戦死するために約25cm角のコンクリート・ブロックを体に結びつけていた。特攻隊員の多くは、ひきょう者を恥じ命令だから死にますと出撃していった。特攻隊員が生きて帰るのは名誉をけがす、死ねないのは、国賊でツラよごしと非難された。特攻隊員は確実に命を投げ出して絶命するためにセメントを担いだ。
 沖縄戦の特攻作戦には、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、当時日本が占領していた台湾など多くの基地から出撃した。4月6日から九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに約11回にわたり約1,800機が特攻に出撃して約2,600人が戦死しました。本土最南端の知覧基地からは全特攻戦死者のうち約439人が知覧基地から出撃した。特別攻撃は82日間と連続的に行われたが、昼夜にわたる攻撃により、アメリカ軍の大艦は一隻も沈まなかった。特攻攻撃は、空母の撃沈に自らの命と引き換えた。しかし、巡洋艦と駆逐艦で護衛されて、空母からは戦闘機が特攻機を撃墜した。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を受けて、特攻機が巡洋艦以上の大型艦、正規空母と軽空母は1隻もなかった。





2019年3月24日日曜日

ワルシャワ・ゲトーで蜂起したユダヤ人の抵抗者の死体が、ナチス親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。

ナチス・ドイツ軍に対するユダヤ人の抵抗者の死体が、ワルシャワ・ゲットー蜂起の抑圧する親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。ドイツ軍は「無法者が戦闘で殺害された」と記録した。
 ナチス親衛隊と警察部隊が、1943年4月19日にワルシャワゲトーに生き残ったユダヤ人を移送するためにゲットーに侵入した直後に、ワルシャワのゲットー蜂起が始まった。ゲットーのユダヤ人ほとんど全員が隠れ家や地下壕に身を潜めた。強制移送の再開が、ゲットーの武装蜂起の合図であった。1943年5月16日までにドイツ軍はユダヤ人の反乱を武力で粉砕した。生き残ったゲットーのユダヤ人は強制収容所や絶滅収容所に移送されて虐殺された。
 蜂起して3日目から、ナチス親衛隊と警察部隊は、ゲットーの徹底捜索をして、建物をひとつひとつ破壊して隠れているユダヤ人を地上に叩き出した。ユダヤ人戦闘員も要塞から反抗するも、ドイツ軍の組織的な攻撃でゲットーは崩壊した。その後は小さなグループおよび個人戦闘員が、身を潜めて約1か月近くも抵抗した。個人になったユダヤ人はゲットーの廃墟に隠れ、ドイツ軍や補助部隊のパトロールに攻撃を続けた。ワルシャワゲットーの蜂起は最大規模であり、最大なユダヤ人の蜂起であった。ドイツ占領下のヨーロッパで最初に起きた都市の武力蜂起であった。