2019年2月20日水曜日

イギリス公使パークスに対する攘夷で、罪人は斬首され樽で塩漬けの首を刑場に晒した。

イギリス人公使のハリー・パークスと一行は、1868年3月に京都の知恩院の門に面したまっすぐな道路を、何の妨害もうけずに進んでいった。行列の先頭が居酒屋や芸者置屋の多い新橋通りの角を曲がろうとした時、抜き身の刀を手にした2人の浪人者が飛び出して、怒りに狂って行列に切りかかった。通りは非常に狭く護衛兵の槍は家の軒先で役に立たなかった。
   2人の浪人者のうち、林田貞堅(朱雀操)はその場で斬られて即死した。もう1人の三枝蓊は捕らえられて、後に斬首となりました。ミットフォードは捕らえられた三枝蓊に食事を提供すると、外国人を知らずに襲撃の実行を深く後悔していた。一方のイギリス人一行は負傷者は約10名で、死亡者はなかった。イギリス人公使のパークスを直接に襲撃したが、イギリス側はこの事件を不問にした。明治政府は、狂信者たちが英雄的行為と考えてきた外国人を殺害や侮辱したりする行為は、恥ずべき邪悪な犯罪であり、罪人は刀を取り上げて士族の籍を抹消し、腹切りの特権なく重罪犯人として処刑した。斬殺された林田貞堅(朱雀操)の首は塩漬けにされて樽の上に、三枝蓊は斬首されて刑場に晒しものにされた。



2019年2月19日火曜日

ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺でアメリカ軍兵士からベトナム人女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾け脳みそが吹き出した。

   ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺の写真が、アメリカ軍兵士の大量虐殺の証拠となった。女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾けて、脳みそが吹き出した。多くの女性や子どもは、殺害されて死体が小道に横たわった。
   ベトナム戦争において、アメリカ軍兵士が1968年3月16日にソンミ村の無抵抗の約504人の住民を大量虐殺した。第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊は、1発の攻撃も受けずに、非武装のソンミ村住民を集団で大虐殺した。アメリカ軍兵士の約45人が無差別の虐殺に加担した。ベトナム戦争により、青年兵士を集団虐殺で、無実の村民を無慈悲に残酷に殺害させた。アメリカ軍の青年兵士は、射殺の指令により、女子や子どもたちを虐殺してから精神が動転しと錯乱した。戦争にて一旦殺害すると、殺害をし続けることは容易になった。チャーリー中隊の約105人の兵士は、周りの誰でもあらゆる手段で虐殺が起こり得た。
 ウィリアム・ローズ・カリー中尉のみが、戦争犯罪者として1971年に重労働の終身刑の判決を受けた。判決の直後にニクソン大統領により釈放されて、特権の刑事被告人となり、1974年には保釈された。政権はアメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導かないように、ソンミ村大虐殺を隠蔽し続けた。 ソンミ村大虐殺は、戦争では必ず起こる手本と肯定した。
  本当に人々は戦争の真実を知っているならば、戦争は止めれるでしょう。しかし、もちろん人々は知りませんし、知ることもできませんし、知ろうとしません。戦争は人間には耐え難く、残酷な地獄です。戦争の真実が明らかになれば、血なまぐさい戦争を継続することはできない。



2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。 




2019年2月17日日曜日

真夏の炎天下で、救援トラックに長崎原子爆弾で瀕死の被爆者が避難して集合していた。(長崎)

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。翌日の午前中には、爆心地から南方の約1.1kmの三菱製鋼所第一工場鍛錬工場の付近に、救援トラックは立ち往生した。救援の炎天下で、救援トラックに瀕死の被爆者が避難して集合していた。1人はトラックの荷台に横たり寝たきりで重篤になっていた。トラックの下にも数名の重症の被爆者が横たわっていた。運転台にも、座ったままで前方にうつ伏せていた。救援トラックは、行く手を阻まれて立ち往生して、被爆者は新たな救援を待ち続けた。灼熱の炎天下で被爆者は、倒れて寝たきり、放心状態で座り込んだ。


2019年2月16日土曜日

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺が多発した。

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺は多発した。内モンゴル自治区シリーンゴル市の近郊の内モンゴル人牧畜民が、2011年5月に中国人系住民により虐殺された。付近に石炭の露天鉱が発見されて、中国人系の数百台のトラックが殺到して搾取した。内モンゴル系住民が抗議すると、中国人住民は金の賄賂をして自治区政府を黙らせて、内モンゴル系住民の虐待と虐殺を繰り返した。内モンゴル系住民が反政府運動をすれば、中国人民解放軍が侵攻して武力鎮圧した。
 国共内戦で共産党軍が勝利して、中華人民共和国が1949年10月1日に建国する以前に、1945年5月1日に内モンゴル自治政府が樹立され、中華人民共和国を構成する一つの自治区となった。自治区政府は、内モンゴル系住民から政府の頂点から下層の職種までの仕事を奪った。下層階級のさらなる底辺に、内モンゴル系住民から少数民族に至るまで押し込まれ抑圧された。内モンゴル自治区では、凄惨な事件が多発した。


2019年2月15日金曜日

ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。

連合国軍がナチス・ドイツよる大量虐殺の実態を連合国軍が調査した。1945年5月3日にドイツ人市民らに命じて、ズットロプ町外の集団墓からの悲惨な犠牲者を掘り起こさせた。ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。
 1944年9月からV2ミサイル開発部門はストロップに局在した。終戦の直前の1945年3月に、開発部門の親衛隊長は外国人労働者の虐殺を命じて秩序を取り戻すように命じた。1945年3月21日から23日まで無差別に女性と子供を含む外国人労働者の約208人がアルンスベルクの森で3回の射撃で射殺された。アメリカ軍が4月5日から8日に侵攻した後に、大量の土豪に埋められた遺体が発見され、ドイツ市民によって掘り出させて、個々の墓に埋めさせた。


2019年2月14日木曜日

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期に女子学徒隊に最大の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に建立された。

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期にて女子学徒隊が悲劇の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に1946年4月7日に建立された。ひめゆりは学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組合わせた「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載された。1953年1月に映画「ひめゆりの塔」が上映されて沖縄戦の悲劇を象徴した。沖縄は1972年5月15日に本土復帰して返還された。
 1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。最も犠牲を受けたのは陸軍病院第三外科壕の大きく開いた壕口内の学徒隊であった。第三外科壕は6月19日朝に、黄燐手榴弾などのガス攻撃を受け、壕にいた約96人のうち87人が死亡し、3人が壕から脱出時に銃殺されて、5人のみが生存した。
 ひめゆりの証言によく出てくる第三外科壕のガス攻撃は、ひめゆり同窓会の方では黄燐発煙弾か催涙ガスを想定した。催涙ガスでも第三外科壕のような竪穴では比重が重ければ酸欠を起こす可能性がある。残っていると仮死状態にもなる。黄色いガスからは黄燐弾により、ガスでではなく黄燐自体が体内に入って内臓疾や筋肉壊死がおこる可能性がある。戦闘に巻き込まれたひめゆり学徒隊だけでなく沖縄市民には、催涙ガス、神経ガスなど、ガスが噴出する兵器を投入された。沖縄戦では現在まで日米両軍ともに公式戦闘記録では致死性の毒ガス使用の記述は秘密裏あるは存在していない。


アメリカ軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の是非を問う沖縄県民投票が2019年2月14日に告示され、沖縄県民は2月24日に投票する。

2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。





2019年2月12日火曜日

太平洋戦争で日本軍の守備隊兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸一面に散乱した。

太平洋戦争にて、日本軍の守備隊の兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸の一面に散乱した。北方軍の司令官は、日本軍の守備隊に全滅する玉砕を命じた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。戦争で負傷あるいは自決せずに捕虜となった約29人を除く全員が、戦死あるいは自決した。
 太平洋戦争にて、アメリカ軍は北太平洋のミッドウェイ海戦で日本軍に大勝した直後から、日本軍は守勢に陥った。日本軍はアッツ島とキスカ島を侵略して、初めてアメリカ領土を占領した。北アメリカ大陸から北アジア大陸の間を弧状に連なった約2,000kmのアリユーシャン列島に点在していた。アメリカ軍はキスカ島を孤立するめに、まずアッツ島を先攻して1943年5月11日に海岸に上陸した。大本営は5月20日には、アッツ島からの撤退を内定するも、アッツ島の日本軍兵士は見殺しにされた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。
 アッツ島より北部のアラスカ寄りのキスカ島は、7月28日にアメリカ軍艦が一時退避して、約5,000人の日本軍兵士は霧の晴れ間から逃避した。アメリカ軍が8月15日に上陸した時点で、日本兵全員は撤退して避難できた。



2019年2月11日月曜日

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判の証拠資料となった。

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判において南京虐殺事件の証拠資料として提出された。盧溝橋から快進撃した日本軍は、南京を1937年12月13日に侵略した。東京日日新聞の2人の記者が、大隊副官と歩兵砲小隊長は、中国人の「百人斬り」大接戦と百人斬り超記録(106対105)を達成したと報道した。江南戦線丹陽の2人の特派員が、架空の出来事を想像的に描いた記事であるフィクション(Fiction)を創作した。南京軍事裁判にて、新聞記者の創作と抗弁するも、2人の将校は1950年12月に銃殺された。
 日本は1931年に満州国を樹立した。満州の盧溝橋が1937年7月7日に暴発して、本格的な日中戦争に突入した。日本軍は中国大陸において終戦に至る15年間も侵略をして、別名で15年戦争とも呼称された。盧溝橋にて偶発的な発砲から、日本軍の現地軍である関東軍が反抗的に突撃して、中国大陸の侵攻が勃発した。日本軍は中国大陸の各地の戦闘に巻き込まれて、中国兵士だけでなく、中国人を無差別に虐待と虐殺を繰り返した。



2019年2月10日日曜日

虐殺されうつ伏せのパレスチナ老人の死体が放置されて、膝の下に手榴弾が隠蔽された。

レバノンのベイルートにあるパレスチナ人の難民収容所にて、親イスラエルのレバノン軍団が多数のパレスチナ人を大虐殺した。1982年9月16日から18日かけて、ベイルートのパレスチナ収容所で殺戮事件が勃発した。キリスト教右派の親イスラエルであるレバノン軍団が、サブラ・シャティーラ難民収容所を完全に包囲して、レバノンの右派民兵も加わり、数千人もの市民を殺害した。
 うつ伏せとなったパレスチナ老人の虐殺死体が放置され、老人の膝の下には、安全ピンを外した手榴弾が隠蔽されていた。死体を動かす人々に対して爆発して、自爆テロの犠牲となる。虐殺と虐待の対象となったのは、多くの老人や子どもや女性など無抵抗なパレスチナ市民が犠牲となった。
  1975年から15年続いたレバノンの内戦も、パレスチナ難民に大きな災禍をもたらしました。内戦に巻き込まれた犠牲者の他、1982年にはイスラエル軍のレバノン侵攻があり、ベイルートの難民キャンプでパレスチナ人とレバノン人の約千人以上が殺害されるなど、合計約2万人以上の犠牲者が出た。難民キャンプの包囲などが起き、パレスチナ人と疑われて多くの市民が殺害された。



2019年2月9日土曜日

第2次リベリア内戦により、テーラー政権に反武装勢力LURDはモンロビアに3度の攻撃をして、身の毛もよだつ残酷な内戦となった。

第2次リベリア内戦が勃発して、1999 年頃から武装勢力のリベリア民主和解連合(LURD)やリベリア民主運動(MODEL) のが蜂起し勢力を拡大した。2003年の初めにLURD から分離したMODEL がリベリア南東部地域を支配した。内戦による新たな虐殺、 略奪、レイプの暴力の嵐が、その地域を席巻した。戦闘は続き首都モンロビアに近づき、2003 年には首都モンロビアへ侵攻した。
 殺人とレイプの渦が巻き起こり、町中で激しい戦闘が勃発した。何日もの砲撃により多くの建物が炎上して、がれきやゴミ、壊れた家具の破片などが歩道に散らばった。どの家も、どの店も、略奪され破壊された。人々は弾丸の薬きょうのカーペットの上を走って逃げ、犠牲者を手押し車や背中に載せて運んだ。シエラレオネとギニアに続く道路、モンロビアから西に向かう道路は封鎖された。
 国連安全保障理事会のアナン事務総長はアメリカに介入を依頼した。8月14日、反政府勢力はモンロビアの包囲をやめ、アメリカ軍がアフリカの平和維持軍を支援するため上陸した。3日後、LURD、MODEL、テーラー政権が「アクラ包括和平合意」を締結した。2003年10月に暫定政府が発足して、2005年に暫定政府の下で11月8日の大統領選で、11月8日にアフリカ初の選挙によるサーリーフ女性大統領が誕生した。



2019年2月8日金曜日

被爆した少女は16歳になって、広島原爆病院で、顔面から頸部のケロイドの形成術を9回以上もの植皮手術を受けた。

広島原子爆弾により、4歳の少女が爆心地から約2kmの福島町の自宅の外で被爆した。被爆して気がついた時は、家の下敷きになっていた少女は、ご近所に助けられた。家内にいた家族は無傷であった。
 16歳の思春期になって、広島原爆病院に1957年5月12日に入院して10月21日までに顔面から頸部にかけたケロイドの形成術に9回もの植皮手術を受けた。手術して麻酔から覚める夜中になると、痛がって悲鳴を上げて暴れた。手術から帰ると、絶対安静させるために、帯紐で彼女はベッドに縛られた。8回目の手術の時に、彼女は「今夜はあばれないから、しばらないでね」と懇願した。我慢できずにあばれ始めて、植皮した左頬に出血したあざとなった。植皮のために、両大腿から皮膚を剥ぎ取り、傷だらけとなった。再々の手術を受けて12月14日に退院した。被爆しなかったら美しい少女が、原子爆弾により見るも無残な姿になり、被爆を人知れずに一生悩み恨み続けることになりましょう。



2019年2月7日木曜日

サンタクルス事件は、東ティモールの首都ディリで勃発して、インドネシア国軍が独立を求める市民のデモ行進に無差別発砲して大量の死傷者を出した。

サンタクルス事件は、1991年11月12日にインドネシア占領下の東ティモールの首都ディリで大虐殺が起きた。インドネシア国軍が、独立を求める市民のデモ行進に対して無差別に発砲して大量の死傷者を出した。死者はサンタクルス墓地に埋葬された。その殺害から2週間後に墓へ花を捧げる儀礼に参列していた群集が独立を求めてデモ化した。インドネシア国軍がデモの群集に向かって発砲した。多くの死傷者はディリ南部のウィラフサダ陸軍病院に運ばれた。インドネシア国軍は証言者を消すために虐殺した。
 東ティモールは、インドネシア・バリ島の東方にティモール島東部に位置する。国土は約1万4000平方km、人口は約106.5万人で、ほとんどがキリスト教徒である。1人あたりGDPは368.8ドルと低く、アジアの最貧国である。ポルトガルは1974年、自国の政権の崩壊で、東ティモールの植民地支配を放棄した。東ティモールでは独立に向けて、1975年に東ティモール独立革命戦線が独立を宣言した。直後にティモール島の不安定化に、インドネシアが東ティモールに軍事侵攻した。1976年に27番目の州として併合され、東ティモールではインドネシア政府から独立の活動が途絶えなかった。東西冷戦の終結過程へと突入し、小さな島の独立を巡る闘争が国際社会の注目は少なくなった。1991年に首都ディリのサンタクルス墓地で、若者の葬儀から独立派の抗議集会にインドネシア軍が介入し、多数の住民が殺害されました。国際社会ではインドネシアの人権侵害を強く非難した。流れを一気に加速させたのが、1991年のインドネシアのスハルト政権の崩壊から、東ティモールの自治・独立を容認に転換した、1999年に、東ティモールで独立の住民投票が実施され、住民の約8割が分離・独立を選択した。東ティモールは2002年5月20日に独立を達成して、21世紀最初の独立国家となった。





2019年2月6日水曜日

イラクのハラブジャ事件に化学兵器が使用されて、多数の子供たちを含めて約5,000人のクルド人が虐殺された。

ハラブジャ事件により、イラクのクルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われて、1988年3月16日に多数の子供たちを含めた約5,000人のクルド人が虐殺された。空軍が化学兵器を用いてハラブジャの町を爆撃した。
 イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民に対して、イラクのサッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用して住民を殺害したと報道された。化学兵器は、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の大量の毒ガスが使用された。毒ガスは空気より重いので、その場で倒れて折り重なって死亡した。
 アメリカ陸軍大学の戦略研究所は、イラクではなくイランがハラブジャ事件の主犯と1990年に報告した。シアン塩化物ないしシアン化水素の化学兵器は、イラクは製造する能力もなく、決して使用できなかった。イラン軍兵士はガスマスクと防護服を着用していた。逆にアメリカは化学兵器と大量破壊兵器として、毒ガス事件を湾岸戦争とイラク戦争に仕掛けた。