2019年1月29日火曜日

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、重罪人をドラム缶に縛り付ける公開処刑により銃殺した。

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、1985年2月23日に銃殺刑が執行された。重罪人はドラム缶に縛り付けられて公開処刑により銃殺された。ナイジェリアでは,1960年10月の独立から 1999年5月のオバサンジョ文民政権成立までの38.7年間のうち,文民政権下の期間は9.8年間ほどでしかなく,残りの28.9年間は軍事政権期間となった。第2次軍政では、1983年の選挙で将軍ら軍政派によるクーデターが勃発して、再び軍政に戻った。国民に強圧的な体制を敷いて、経済はさらに悪化した。
 1983年12月31日にナイジェリア軍の中上位将校がクーデターを起こし、腐敗したシャガリ文民政権を打倒して、ブハリが元首となる軍事評議会議長に就任した。軍事政権の奪取を正当化して、無規律との戦いにより、国民に綱紀粛正の運動を強制した。報道を抑圧し、罪状なしでも反対派を拘禁した。労働者や市民のストライキやロックアウトも禁止した。さらにナイジェリア初の秘密警察であるナイジェリアセキュリティ機構を設立した。ブハリ政権は財政均衡のために輸入を抑えて、多くの会社が倒産や閉鎖された。物価は上昇し生活水準は低下した。緊縮政策の失敗、汚職の蔓延、さらに経済の悪化を受け、ブハリ政権は1985年8月27日に中級将校のクーデターで、ババンギダ軍事政権によって打倒された。ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。 



2019年1月28日月曜日

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。動乱を起こした兵士や監獄から解放された犯罪者らが、武装してさまざまな暴力行為や略奪、脅迫、無差別な虐待や虐殺により、約1,433人もの犠牲者が出た。
 ロシア帝国の首都であったペトログラードで、国際婦人デーである1917年2月23日に大規模な女性が隊列を組んでデモを挙行した。ヴィボルグ区の繊維工場の女性労働者が、食料パンの不足に抗議のデモ行進をした。氷の張ったネヴァ川を渡った男性労働者と合流した。2月24日にも約15 万人もの市民が市内に集まり膨大なデモに参加した。2月25日には、地域全体のデモとなり参加者が増大した。午後8時30分にロシア皇帝のニコライ2世は、軍隊に対して暴動を2月26日中に鎮圧する命令を出した。2月26日に日曜日に、ペトログラードに厳戒態勢を敷いた。ネフスキー大通りやズナメンスカヤ広場では、軍隊と警察が機関銃でデモ隊を狙って、砲撃をしてペトログラード市民ら約150人以上が銃殺された。2月27日には身内である市民に発砲した兵士らが懺悔して、デモ隊に参加して襲撃を拒否して、市民と兵士らがまず監獄を攻撃した。暴動による略奪や暴力に巻き込まれて多数の市民も犠牲者となった。2月28日に労働者・農民・兵士の評議会であるソビエトが自然発生的に形成された。1917年の10月革命では、10月26日にソビエトには共産主義である独裁政権が樹立された。



2019年1月27日日曜日

ベトナム軍がカンボジアに侵攻した途上の様々な場所にて、カンボジア軍に殺害された膨大なベトナム人の死体が散乱していた。

カンボジア領内に居住するベトナム人に対して、カンボジア軍が膨大なベトナム人の虐待と虐殺を繰り返した。1977年4月からカンボジア軍がさらにベトナム領内にも侵攻した。ベトナム人の殺害に対する報復のために、1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻した。カンボジア政権勢力であるクメール・ルージュが多地域に多様な収容所や処刑センターを構築していた。ベトナム軍がカンボジアに侵攻した途上の様々な場所にて、ベトナム人の死体が散乱していた。
 1975年4月17日に、クメール・ルージュが首都のプノンペンを占領して、ロン・ノル政権が崩壊した。その直後の4月30日に南ベトナムのサイゴンが陥落してベトナムが統一した。1976年からクメール・ルージュのポル・ポト独裁政権が樹立した。カンボジア人の民族主義を誇張した。ベトナムが独立を犯して脅かしているとして、ベトナムと敵対した。親ベトナムの容疑者は、全て処刑された。カンボジアの少数民族や国境付近のベトナム人を攻撃して虐待と虐殺を繰り返した。1977年4月にクメール・ルージュ軍がベトナム領内に侵攻した。



2019年1月26日土曜日

長崎原子爆弾により、30歳の女性が左側頸部と右頬部に介達弾片創を受傷して、大村海軍病院に収容された。(長崎)

長崎原子爆弾により、30歳の女性が左側頸部と右頬部に介達弾片創を受傷した。大村海軍病院の八病舎に1945年9月6日に収容された。女性は左側頸部に斜めに約2cmと右頬部に約2cmの介達弾創部を認めた。右頬部の上方に弾創部の瘢痕があった。弾創部の周囲は、びまん性に膨隆した。リバノールガーゼを創部に貼付した。収容されてから、溢血斑や脱毛が約3日目の9月9日から認められた。
 長崎原子爆弾の炸裂により、瞬時に建造物が崩壊して、被爆者は建築材の破片が飛弾して弾片創を受傷した。



2019年1月25日金曜日

ノルマンディ戦闘中に、連合軍兵士がドイツ軍により射殺されて放置された死体に、ライフル銃と木片で十字架の目印を付けられた。

第2次世界大戦において、1944年6月6日にアメリカ軍・イギリス軍・フランス軍・カナダ軍の連合軍が、フランス北部のノルマンディ海岸に上陸を敢行した。ノルマンディに上陸する戦闘中に、連合軍兵士がナチス・ドイツ軍により射殺された。海岸にうつ伏せまま放置された死体に、ライフル銃と木片で十字架の目印を付けられた。
 連合軍はノルマンディの海岸に夜明けに上陸を開始した。特にオマハビーチに上陸したアメリカ軍兵士は瞬時に、崖の上方から下方に猛烈なドイツ軍の射撃を受けて、約100人以上が戦死した。上陸用舟艇のタラップがおりた瞬間、先導の中隊は活動不能、指揮官不在、任務遂行不能となり、指揮をとる全ての士官と下士官はほぼ死亡もしくは負傷したと公式記録された。部隊は、生存と救出のためもがいていた。ノルマンディに上陸したD-DAYの初日だけで、戦死者は約2500人と行方不明・捕虜等は約10,000人にも達した。特にアメリカ軍兵士が最も犠牲となり、戦死者は約1,456人、行方不明は約1,928人、戦傷者は3,184人にも達した。



2019年1月24日木曜日

グアテラマの街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかっり、虐待して虐殺した。

グアテマラ内戦が、グアテマラ軍内の親米派と反米派及び左派勢力などの間で1960年から1996年まで内乱が継続した。 1990年3月4日にグアテマラの首都であるグアテマラ・シティにて、数千人もの子供たちが身寄りもなく路頭の困窮生活をしていた。仲間と街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかった。13歳の男児だけ捕まり、道路に押し付け、蹴り上げて虐待を受けて絶叫して意識を失って虐殺された。2本の指、肋骨骨折、頭皮切傷など全身の虐待を受けていた。
 アメリカから支援をうけてホンジェラスから軍事侵攻した武装勢力から、1958年に成立した軍事政権の親米的政策に対して、不満を抱いた軍若手将校が1960年に反乱を起こした。同反乱は鎮圧されたものの,その指導者グループが山中に潜伏して,ゲリラの源泉となり,以後36年間にわたり内戦が継続した。1965年改正憲法により,1966年の大統領選挙で民主的に政権が交替したが、しかしながらテロ活動が活発となった。1970年以降は,軍人大統領が政権を掌握した。1986年に20年振りの民政移管を達成して、1987年に中米和平合意に署名した。1991年1月,軍部の影響を受けた文民政権となるも、1993年6月に自主クーデターを行って、国内外の強い反発を招き、崩壊して国外に亡命した。1993年6月に人権擁護官が大統領に就任して,政府・ゲリラ間の和平交渉,貧困対策,人権改善等を積極的に推進した。1996年12月29日に政府・ゲリラ間で最終和平合意が成立し,中米最後の内戦が終了して、和平プロセスが開始された。1997年5月に国連軍事監視団の下,ゲリラの武装解除が完了した。1997年12月に軍警察が解体されて,国家文民警察に移行した。




2019年1月23日水曜日

日中戦争にて南京郊外で、日本軍兵士が得意げに中国人兵士の背中を銃剣で突き刺して刺殺した。

日中戦争にて、日本軍は1937年12月に中華民国の首都であった南京に侵攻した。南京郊外にて、日本軍兵士が得意げに中国人兵士の背中を銃剣で突き刺して刺殺した。場所は南京郊外で撮影された写真を、日本軍の自動車輸送大隊所属の1等兵が、極秘に日本に持ち帰り公表した。
 1937年12月13日に、日本軍は南京を占領した。12月14日から少なくとも約6週間にわたり、日本軍が膨大な中国兵から南京市民の殺害から虐殺、虐待、捕虜、暴行、強姦までの猛威を奮った。
 1946年8月に、終戦後の東京裁判で、南京大虐殺が取り上げられれた。日本軍の大将が組織的虐殺を命令を下したと判決を受けて絞首刑となった。判決では、約12,000人の非戦闘員である南京市民、約20,000人の中国軍兵士、約30,000人の捕虜が虐殺され、総犠牲者数は約20万人と推計された。
 1970年代から日本では南京大虐殺の肯定派、少数派、否定派と諸説が対立した。中高校の歴史検定や記載に対しても批判や格差を伴った。中国人側では南京大虐殺は89.3%も肯定して、日本との見解が断絶している。その争点の一つは、主に中国人の犠牲者数の信頼性でああ。南京虐殺は虚構としているが、完全なる無視まではされていない。



2019年1月22日火曜日

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘でアメリカ軍と北ベトナムの解放戦線の戦死体が散乱した。

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘で戦死した死体が散乱した。中部高原地帯のアンケで、アメリカ軍と北ベトナムの解放戦線が激突した。アメリカ軍兵士約200人が戦死して、10月10日から14日までに約363人が戦死して、10月27日には約583人が戦傷して、10月30日から11月18日で約1,700人が戦死した。
 アンケの周辺の散乱した死体には、アメリカ軍兵士だけでなく、北ベトナムの解放戦線の兵士も含まれていた。ベトナム戦争までは、軍隊に所属したカメラマンのみが、戦死した死体の撮影は許可された。ベトナム戦争になってから、軍隊のカメラマンだけなく、民間のカメラマンにも撮影が許可された。ベトナム戦争では、戦死した死体の公開には全く制限がなかった。
 第1次世界大戦から太平洋戦争等まで、全ての戦争が終結するまでは戦死あるいは虐殺の写真は厳重に秘蔵されて不許可となった。朝鮮戦争になって、初めて戦死あるいは虐殺の死体が公開された。しかし、1960年代から戦死あるいは虐殺の公開は、戦闘における敗北であり、死者の冒涜と国民的な非難を受けた。それ以後も地球上で多数の戦争や紛争が勃発しているが、戦死や虐殺の死体の公開は漸減した。人間として最も悲惨で、隠したい悪、不正義な倫理と道徳などに蓋をして自覚することを避けた。日本平和の市民連盟は、悲惨な戦争を繰り返さないために、思い出の戦争の真実を直視して市民に公開している。


2019年1月21日月曜日

イラク戦争後に、イスラム教の宗派対立とテロ等とアメリカ軍の掃討の内戦に巻き込まれて多数のイラク市民が虐殺された。

イラク戦争後に、2005年1月に内戦に巻き込まれて、多数のイラク市民が虐殺された。アメリカ軍が2003年3月の開戦からフセイン政権が崩壊して、5月1日に戦闘集結宣言した。しかし、イスラム教スンニ派とシーア派の宗派対立と、国外から流入したテロリスト等によるイラク市民への虐待と虐殺も増大した。多国籍軍やイラン治安部隊への攻撃も激化して、イラクは内戦状態となった。
 イラクの国内は、シーア派・スンニ派間の宗派対立、反米・反政府勢力による攻撃、国際テロ組織の活動、シーア派の内部抗争などの複雑な内戦となった。アメリカ軍は、イラク人口の約60%を占めるシーア派政権に転換して、2004年6月に暫定政府を樹立した。政権の移行にて各宗派・民族が利益や権力を確保する対立が激化して、治安が悪化して、武力を伴う内戦となった。
 イラク国内の民間人死者数は2007年3月28日には約65,880 人にも達した。アメリカ軍も死者約3,191人、戦傷者23,924人に達して、イラク国内でテロの発生数やアメリカ軍兵士の戦死者数が増大し続けた。イラク暫定政府の下で 2005 年1月の移行国民議会選挙が実施され、シーア派主導下でイラク政権が樹立されると強い反動が勃発した。



2019年1月20日日曜日

ボーア戦争にて南アフリカのモダー川の主戦場で、イギリス軍兵士は射殺された犠牲者の側から銃撃をした。

ボーア戦争において南アフリカのモダー川の主戦場にて、イギリス軍兵士は1900年12月18日で射殺された犠牲者を伴い銃撃をした。
 イギリス連合王国は、1815年のウィーン会議にて、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得した。1652年からケープ植民地に移住して植民地化していたオランダ系ボーア人らと対立した。ボーア人は北隣のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵攻した。トランスヴァール共和国からの金鉱とオレンジ共和国のダイヤモンドが発見された。イギリス連合王国は、両国の併合と植民地政策に乗り出した。
 イギリス軍の露骨な侵略政策により、ついに1899年10月11日から南アフリカで本格的なボーア戦争が勃発した。ボーア人の原住民による抵抗により、ボーア戦争は長期化した。近代で初めてイギリス軍は強制収容所を設置してボーア人の少年少女を含めて約34,000人を強制収容して、約20,000人が虐殺した。最終的には、イギリス帝国が膨大な犠牲を伴って1902年5月31日にボーア人が降伏して終結した。ボーア戦争の緒戦には、ナタール植民地のレディスミスにて、イギリス軍はボーア軍に包囲されて、甚大な犠牲を伴いながら、1900年2月28日に撤退させた。イギリス軍は、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグを撃破した。ボーア人の多くは困窮して、敵国人であるイギリス人と協調して、人種隔離政策であるアパルトヘイトによりアフリカ黒人からの徹底的な収奪を通して困窮を脱出した。






2019年1月19日土曜日

広島原子爆弾により成人男性が特に身体の露出部があった顔面から両上肢に重度の熱傷を被爆して、比治山国民学校で救護された。

広島原子爆弾に被爆して、熱戦と放射能による熱傷により比治山国民学校の救護所に収容された。比治山は爆心地から東に約1.8kmに位置して、爆心地側の西側は壊滅したが、東側は比治山が遮って被災が少なかった。成人男性が、特に身体の露出部があった顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。左顔面から頸にかけて重度の熱傷も伴った。両前腕の被爆創に包帯が巻かれていた。被爆者は、安全な場所となる救護を求めて比治山の救護所に避難や護送された。比治山に救護所が設置されるも、すぐに被爆者で詰まった。
 1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市永年防空計画により広島市内の国民学校33校が、300 人から 5,000人を収容とする救護所にされた。 近隣の多聞院には1945年8月6日の当日に壊滅した広島県庁が臨時に避難した。1949年から比治山の頂上付近にアメリカ合衆国が開設した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casuality Comission)が移設され、原爆症の長期的調査研究が行われた。



2019年1月18日金曜日

カンボジア人の母親が、タイに向かう列車から転落死して、息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。

カンボジアのポル・ポト政権が崩壊して逃亡した。まもなくベトナムの影響下のヘン・サムリン政権によるカンボジア人民共和国が成立した。経済政策の転換により、プノンペンからタイ国境のバッタンバンに列車やトラックで群衆が大挙した。その喧騒にて、カンボジア人の母親が、列車から転落死した。息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。
 ベトナム国内に避難していたカンボジア人により結成されたカンプチア救国民族統一戦線がベトナム軍と、1978年12月25日にカンボジア国内に侵攻した。クメール・ルージュのポル・ポト政権は、国民の粛清と弾圧の影響による混乱により、わずか2週間で崩壊した。カンボジアはベトナム軍によって、大量虐殺を招いたポル・ポト政権からやっと解放された。1979年1月7日に、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響を受けたヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が樹立された。ベトナムはカンボジアを長期間にわたり影響下に置いた。クメール・ルージュ軍およびポル・ポト政権はタイの国境付近のジャングルへ逃れて潜伏した。



2019年1月17日木曜日

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウランによる放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウラン(DU: Depleted Uranium)による放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。2ケ月前までは健常に家族と暮らしていた5歳の男児が、突然に死に至る重症の白血病を引き起こした。サダム中央教育病院の小児科病棟では、アメリカ軍が湾岸戦争で甚大な劣化ウラン弾による被爆により、多数の小児に癌や肉腫から特に白血病を発症していた。
 劣化ウラン弾に含まれるウラン238の放射能の半減期は約45億年である。劣化ウラン弾で貫通して破壊されて放置されていた戦車の穴からは、放射線測定器が極大値を示した。湾岸戦争直後から、特に小児に癌から肉腫の白血病、さらに異常児の出産が多発した。発症した。湾岸地域だけでなく、それ以外の非武装地域に放置された劣化ウラン弾に被爆した戦車や装甲車の車輪などの部品が、戦後の貧困の代償として各地で使用され劣化ウランの被爆がイラク各地に分散した。
 劣化ウラン弾は湾岸戦争、イラク戦争などで使用され、戦後に市民だけでなく、アメリカ軍兵士にも、癌、白血病、免疫不全など湾岸戦争症候群を発症した。劣化ウランの放射線毒性や化学毒性による危険性を指摘されている。しかし、世界保健機関(WHO)やアメリカ国防省などは科学的根拠が不十分と否定的主張をしている。



2019年1月16日水曜日

文学作家である小林多喜二は、特別高等警察に治安維持法で逮捕され、拷問と虐待で虐殺された。

文学作家である小林多喜二は、1933年2月2日に東京の赤坂の街頭で警察庁スパイからの通報により特別高等警察に逮捕された。直ちに、東京築地警察署に勾留された。官憲による拷問と虐待によって29歳の若さで虐殺された。同日には、獄中の囚人らは小林多喜二の虐殺を察知した。拘置所にて裸にした全身が強打されて、遺体には特に両方の大腿部には青黒い大量内出血が認められ、両足には刺し傷があった。通夜や告別式に参列した市民らも検挙された。
 小林多喜二は、1928年頃からプロレタリア文学作家として代表作『蟹工船』で、家畜のように弾圧される船員の実態から、国家権力の本質を暴露した。1928年3月28日に日本全国で数千人の反戦主義者を弾圧するために逮捕された。「一九二八年三月十五日」を執筆した。1930年8月には治安維持法による不敬罪で逮捕されて勾留された。1932年3月頃から文化団体は特別高等警察から狙われて思想犯として大弾圧を受けた。逃避して、潜伏して非合法な活動と執筆を継続していた。拷問から虐殺されてからも、太平洋戦争中も、市民が小林多喜二の作品を所持しただけで検挙された。



2019年1月15日火曜日

太平洋戦争にてアンガウル島の海岸の水際に、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵死士の死体が波打ち際を漂った。

太平洋戦争にて、パラオ=マリアナ諸島では最後にアンガウル島に侵攻して、アメリカ軍は1944年9月17日に上陸した。持久戦となるも10月19日になって、日本軍兵士が全員が玉砕して全滅した。アンガウル島の海岸の水際にて、アメリカ軍兵死士は殺害されて死体が波打ち際を漂った。
 アウンガル島に配置された日本軍は約1250人に対して、アメリカ軍は約21,000人と圧倒的な武力差があった。アメリカ側の海から艦砲射撃と空からも爆撃も日本側には犠牲を伴った。水際作戦による障害物や地雷もアメリカ軍に対して一部の被害を与えた。広範囲にわたる空爆や艦砲射撃により多くの犠牲が出た。アメリカ軍の武力を前に多くの日本兵が戦闘不能になった。日本軍は生存兵を再編した夜襲をかけたが、戦車や爆撃等で、日本軍の攻撃部隊は全滅した。残りの守備部隊は持久戦に変更、島の洞窟壕に籠って抵抗を続けた。10月9日に最後の斬り込みを行って玉砕された。日本側の犠牲は戦死 1,191人と捕虜 59名、アメリカ側の犠牲は戦死 260人と負傷 2,294人にも達した。アンガウル島で行った水際作戦から持久戦に持ち込む作戦が後の硫黄島や沖縄戦へも継続された。