2019年1月15日火曜日

太平洋戦争にてアンガウル島の海岸の水際に、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵死士の死体が波打ち際を漂った。

太平洋戦争にて、パラオ=マリアナ諸島では最後にアンガウル島に侵攻して、アメリカ軍は1944年9月17日に上陸した。持久戦となるも10月19日になって、日本軍兵士が全員が玉砕して全滅した。アンガウル島の海岸の水際にて、アメリカ軍兵死士は殺害されて死体が波打ち際を漂った。
 アウンガル島に配置された日本軍は約1250人に対して、アメリカ軍は約21,000人と圧倒的な武力差があった。アメリカ側の海から艦砲射撃と空からも爆撃も日本側には犠牲を伴った。水際作戦による障害物や地雷もアメリカ軍に対して一部の被害を与えた。広範囲にわたる空爆や艦砲射撃により多くの犠牲が出た。アメリカ軍の武力を前に多くの日本兵が戦闘不能になった。日本軍は生存兵を再編した夜襲をかけたが、戦車や爆撃等で、日本軍の攻撃部隊は全滅した。残りの守備部隊は持久戦に変更、島の洞窟壕に籠って抵抗を続けた。10月9日に最後の斬り込みを行って玉砕された。日本側の犠牲は戦死 1,191人と捕虜 59名、アメリカ側の犠牲は戦死 260人と負傷 2,294人にも達した。アンガウル島で行った水際作戦から持久戦に持ち込む作戦が後の硫黄島や沖縄戦へも継続された。



2019年1月14日月曜日

無差別爆撃による報復で空襲が泥沼化して、1943年のベルリン空襲で悲惨な市民ら親子が死亡した。

ドイツ空軍は1940年8月24日にロンドンに対して無謀な市民への無差別爆撃をした。イギリス空軍は直ちに報復として8月25日にベルリン空爆をした。被害は軽微であったが、市民への無差別爆撃を激怒して空襲が泥沼化した。
 1943年にベルリン大空襲が勃発した。ベルリン爆撃は1943年3月24日の夜に開始され、1944年3月24日に終わるまで約16回にも達した。イギリス空軍が1943年3月1日夜にベルリンを空襲して甚大な被害を与えた。悲惨な空襲により、約500名を越す市民が犠牲となった。イギリス空軍は3月27日夜と29日夜にも、再びベルリン空襲を行った。
 ベルリンの攻防における1943年の最後の2ヶ月は8回にも渡る空襲で、イギリス空軍は延べ3,656機から約14,074トンの爆弾をベルリンに投下した。この空襲によるベルリン市民の死者は約6,000名で、約470,000人を超す人々が家を失った。1944年には連合軍の空襲も新たな凶悪な段階へと至り、ドイツ全土に爆弾が通り雨のように降り注ぐことになった。



2019年1月13日日曜日

広島原子爆弾の被爆者の収容者名簿の掲示板に、被爆者の親族や関係者が群がり名前を捜した。(広島)

広島原子爆弾で、行方不明になった肉親をや被爆者を捜すために、焼け残った日本銀行のビル前に親族が群がった。そこには多数の収容者名簿が掲載されていた。そこで抹消されていた我が子の名前を見出して、その場に泣き崩れる母親の姿も多かった。肉親の名前が見い出せなかった親族は、その他の焼け残りのビルや、国民学校などの収容所や救護所の掲示板や収容所内に肉親の名前や生存を捜し巡った。
    焼跡には親類や縁故者の安否を探ねる多く人々が、広島市街から広島市内に入って来て、収容所はいずこも混雑をきわめた。収容所でも、発見できずむなしく帰っていく人々も多くあった。原爆爆発直後に被災者が避難するだけでなく、家族や親族の安否を気遣って逆に爆心地に向かった。救援と救護のために被害の中心地へ赴いた人々もあった。



2019年1月12日土曜日

ボスニアのNATOから支援されたムスリム人は中東の聖戦として、ボスニア人の首断して虐殺して頭部を右足で押さえつけた。

ボスニア紛争にて民族浄化の名目のもとに、敵対する民族が他の民族の虐殺が横行した。ボスニアの西部から支援されたムスリム人は中東のムジャヘディーン(聖戦)として、1992年にボスニア人の囚人の首を切断して虐殺して、その頭部を右足で押さえつけた。NATO軍はセルビア人を囚人と悪魔化して戦闘行為を正当化した。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、1991年からユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで内戦が継続した。1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。ユーゴスラビアは約430万人が、約44%がボシュニャク人(ムスリム人)で、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。セルビア人は反対し分離を目指した。ボスニア内戦で、クロアチア内戦と同様に厳しい民族浄化が勃発した。セルビア勢力・クロアチア勢力・ムスリム勢力の3つの民族が、各々に民族浄化で対立した。市町村で、勢力の多い民族が、支配してその他の民族を追放・虐待・虐殺が頻発した。プリエードルでは、セルビア勢力が幹線を挟んだムスリム勢力を追放・虐待・虐殺した。逆にムスリム人が支配するゴラジュスやスレブレニッッツアなどではモスリム人によってセルビア人が追放・虐待・虐殺された。ムスリム人の傭兵や私兵部隊も民族浄化を遂行した。ムスリム人から逃避できなかったセルビア人は、民族浄化による追放・虐待・虐殺を受けた。
 民族浄化するために、セルビア人の人家には☓印、クロアジア人には十字架を、イスラム教徒には緑の印章が付けた。ボスニア内戦の緒戦では、その印章を目印に民族浄化による追放・虐待・虐殺が横行した。ボスニアの北東部の町でも、セルビア勢力にイスラム教徒が共存した。セルビア勢力が反乱分子と決め付け、イララム教徒も反抗して。敵対攻撃をした。オジャッツ町では、クロアチア勢力が突然にセルビアの人家を襲撃して焼き尽くした。




2019年1月11日金曜日

イラク戦争後にもアメリカ軍はサマラ北東部の無差別攻撃をして、子供や女性を含む一族11人のイラク人が機銃掃射された。

イラク戦争にて、アメリカ軍はバクダット北方約100kmのサマラ北東部に対して2006年5月16日に猛烈な無差別の攻撃をした。手始めに子供や女性を含む一族11人を集めて機銃掃射した。その虐殺された子供の死体を父親が悲しみながら抱いた。「イラクを解放するのに、何人の子供が死なねばならないのか?}とイラーキ・リーグが6月28にに広報した。アメリカ軍は、攻撃はアルカイダの外国人同士を連絡調整する幹部の拘束と対抗した。
 皆殺しにあった家族の隣人のムハンマド・ムジユマイは、「アメリカ軍のヘリコプターに援護されたアメリカ軍部隊が2006年5月16日午前1時半に、イスハーキ小学校の教員のファイーズの自宅を急襲した。周辺の自宅も制圧し、家族をしばり、殴打した。主人夫妻と子供3人、主人の妹とその子供3人、主人の父親、親族の女性の1族を全員を射殺した。子どもたちの年齢は2ケ月から6歳であった。」一族殺害後にアメリン軍部隊は、この自宅に爆発物を仕掛けて犠牲者もろとも爆破は、ヘリコプターが爆撃した。
 駐留部隊がアメリカ人軍兵士にイラク人に対する蔑視、暴力的傾向と差別感を助長した。サマラ事件に対して、4人のアメリカ軍兵士が有罪となった。当初に、民家の窓ぎわに立っていた老人を虐殺した。民家の中の3名を外で殺害した。殺害を実行した兵士が、公報すると殺すとアメリカ兵を脅迫した。



2019年1月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 190,000回

2019年1月10日木曜日

発煙煙で演出された映画で上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊の虚偽写真が世論形成による対日反抗宣伝となった。

中華民国政府の宣伝担当者が、1937年8月の上海付近の片田舎の駅のプラットホームで焼けただれた1歳半の赤ん坊の写真を世界に向けて発信した。中華民国の一片の騙し写真による騙し視覚的対外宣伝の活動が拡充された。真実は発煙煙で演出された映画の1シーンであった。視覚的喧伝に特に注意すべきは、虚偽の写真は、真実を解明して暴露する必要がある。
  "LIFE"の1937年10月4日号に、日中戦争の状況を示す写真が掲載された。「海外からの写真: 上海南駅を約1億3600人が見聞した。その写真の中に、日本軍によって空襲された後の駅で、1人泣き叫ぶ赤ん坊が報道された。膨大な人々が見聞した写真は、「ニュース映画」の1シーンと記事に記載され、ニュース映画の35mmフィルムの1コマを転写した。それに反応して、日本の大量虐殺を停止せよ、対日ボイコットのために、日本製品の輸入制限、日本とドイツを侵略国家の非難する隔離演説と喧伝された。中華民国は、反日宣伝で日本に対抗した。
  1936年1月23日にアメリカで絶大な人気を誇ったグラフ週刊雑誌"LIFE"が創刊された。報道写真と戦争は、物語を語り納得させる報告の位置を示した。報道写真と戦争は世論の革命だけではなく、世論の形成され方の革命となった。日本平和の市民連盟は、わずかな戦争の真実と虚偽の写真を暴露することで解明する。 


2019年1月9日水曜日

アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容された23歳男性が悲観して鉄道自殺にて列車により頸が切断された。

第2次世界大戦にて、アメリカの日系人は強制収容された。父親、継母、結婚した姉とともに、アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容されていた23歳男性のジョン・ヨシダが悲観して鉄道自殺にて、列車により頸が切断された。
 1941年12月7日の真珠湾攻撃に引き続いて、アメリカ合衆国は8日にルーズベルト大統領は宣戦布告した。直後からアメリカ西海岸に居住していた4万人以上もの日系人は、アメリカ市民であった7万人子供達とともに、自宅から追放されて、転住収容所に収容された。ル1942年2月9日に日系人の西海岸からの強制退去の行政命令9066に大統領は署名した。日系人種だけは、世代を超えても薄まらない敵国人種と宣告した。西部防衛軍司令部はすべての日系人を、市民権の有無に関わらず、西海岸から退去を命令した。3月19日に議会は、日系人に刑事罰を下す公法503を成立させた。
 日系人全体の共同体はショック状態に陥った。日系人は静かに長い列に整列して、首に家族を特定する番号札をぶら下げて、子供をあやし、軍司令部に身を任せて、列車で未知の収容所に移送された。強制収容所には最小は約8,000人を、最大は約20,000人を収容させた。1943年初頭から陸軍が10ケ所の収容所での日系人を軍隊に入隊させる命令に反動が勃発した。
 1944年12月に連邦政府は日系人の集団退去命令を撤回したが、1945年8月の終戦時になお約44,000人の収容者が残存した。財産を喪失した日系人には帰るべき土地もなく、外界での敵対行為を恐れるも、強制的に望まれていない地域社会に押し戻された。



2019年1月8日火曜日

日露戦争の奉天会戦で、ロシア軍が敗退した満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。

日露戦争における奉天会戦で、ロシア軍が敗退して後に、満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。果てしない荒野には、見渡すかぎりの死体の山、焼け落ちた民家、煙がくすぶり続ける物資が散乱した。
 日露戦争の奉天会戦が1905年3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦となった。1905年1月に日本軍が旅順攻略したのち、日本の満州軍総司令部は日本軍兵士の約250,000人を終結し、ロシア軍を殲滅して戦局を決定することを意図した。現在の瀋陽である奉天を拠点とするロシア軍も約320,000人のロシア人兵士を集結して対峙した。3月1日に両軍は全線で戦闘が勃発した。戦局は容易に進展しなかったが、ロシア軍は3月7日までに約8,705人の戦死者と約51,438人の戦傷者と総計で約90,000人もの死傷者を出したた。次期に反撃できるロシア軍兵士を保持するために伝統的な戦略的撤退をした。3月10日に日本軍は奉天を占領した。日本軍も約15,892人の戦死者と59,612人の戦傷者と総計約70,000人もの犠牲を受けた。追撃の戦力を失って、特に戦闘の前線の先頭を侵攻する下級将校が犠牲となり、ロシア軍の追撃は達成できなかった。奉天会戦の犠牲で、日本軍は戦力の低下から、これ以後大規模な会戦は困難となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を醸成した。奉天会戦を機に日露講和が議論に上るも頓挫した。日本軍は戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。


2019年1月7日月曜日

日中戦争にて、日本軍が占領した南京城内で虐殺した大量の遺棄した死体が南京城内に散在した。

日中戦争にて日本軍が南京城内で虐殺した大量の死体が遺棄されて城内に散在した。日本軍は1937年12月13日に中華民国の首都である南京を陥落した。12月14日に南京郊外の幕府山の付近だけで、南京城内から敗走した中華民国兵士の約14,777人を捕虜にした。12月18日には南京攻略の総合的な戦果を、「遺棄死体は約80,000万人から90,000人を下らず、捕虜は数千を算する」と公表した。12月13日以降は、籠城した中国軍の戦闘行為は喪失した。
 戦闘行為による戦死者は限定された。籠城して戦闘行為を喪失した中華民国兵士の捕虜や敗残兵は約50,000人以上と推定された。日本軍の南京城内で戦闘行為を喪失した大半の捕虜や敗残兵中華民国兵士を完全に掃討した。南京城の捕虜や敗残兵は数千のみとなり、無抵抗のままに虐殺や抹殺された遺棄死体が80,000万人から90,000人にも達した。遺棄死体数には、南京城内に居住した一般市民も多く含まれた。南京城内だけでなく、揚子江の投棄死体、親族や地域住民の埋葬死体、城外の燕子磯など多数の虐殺なども想定された。無差別な地域住民だけでなく、子供女性の虐待、略奪、放火などの残虐行為も勃発した。
 日本軍が占領した当初に、約5人の外国人記者が南京城内に残存して惨状を海外に報道した。南京虐殺には、偶発的な戦闘なのか、軍指令による組織的虐殺であるのか、虐殺された兵士や住民の総数の隔たりなどが争点になった。約45年も経過して、1987年の教科書検定において、中国政府と日本政府との南京虐殺に関する見解の不一致が表面化した。



2019年1月6日日曜日

日本軍若年兵は、アメリカ軍の戦車に体当たりして自爆する直前に射殺されて、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。

太平洋戦争にて日本軍が劣勢になるにつれて、南方諸島の日本軍への資源の補給が断絶した。アメリカ軍の攻勢により、日本軍は近代的武器や食糧も失った。大本営は日本軍に対して降伏を拒絶して全滅する玉砕の指令を出した。日本軍若年兵士は最終的な玉砕に追い込まれて、爆弾を抱いてアメリカ軍の戦車に体当たりした。肉弾特攻して自爆する直前に射殺されて、横倒しになり、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。
 太平洋戦争のフィリピン戦末期や沖縄戦末期には、フィリピンの戦いのバギオのイリサン谷では、日本軍の戦車は1945年4月17日にアメリカ軍の戦車に体当たりする特攻を敢行した。直前にアメリカ軍の集中砲火を受けて、日本軍の戦車は爆発して散々となった。さら沖縄では鉄血勤皇隊という14~17歳の少年による学徒兵が組織化され、日本軍の敗退に追い込まれた末期の沖縄戦では、補給もなく装備も十分ではなく、十分な軍事訓練もなく、知識や実践もなく、日本軍少年兵が爆薬を背負って敵陣地や敵戦車の前に飛び込んで自爆する攻撃をかけた。勝ち目もなく戦車1台を壊すために走行用ベルトであるキャタピラーにめがけて、下っ端の少年兵は爆弾を抱えて体ごと突っ込んた。無駄死にとなり、ほとんど戦果もなく、虚しく絶命した。終戦直前の満州では、爆薬の詰まった木箱を抱いてソ連軍の戦車に突っ込んで行って、爆発してこっぱみじんになっるも、ソ連の戦車はなにごともなく前進し続けた。日本本土は、若年兵士が体当たりする肉弾特攻は、戦略だけで終わった。
 



2019年1月5日土曜日

生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。

ドイツ軍による東部戦線では、ウクライナ中央部におけるキーロボグラードにて民間市民を含めた大量虐殺をした。ソ連軍が1944年にドイツ軍を敗退させて解放した時に、生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊行動部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。
 ウクライナのリボフ市のソ連秘密警察(NKVD)は、1941年6月22日にドイツ軍の侵攻を受けた。撤退する前に、主にウクライナ人のウクライナ主義者である囚人を約4,000人を大量処刑した。ドイツ軍は6月30日に大量の死体を検知したが、主犯者をユダヤ人であると喧伝した。地域ウクライナ住民だけでなくドイツ軍も7月3日にユダヤ人を約11,000人を大量虐殺した。
 ドイツにとっては、ソ連のボリシェヴィキは第一義的にロシアの共産主義者であり、帝政ドイツからナチス時代まで、社会民主主義よりさらに急進的な左翼過激派であった。ソ連のボリシェヴィキは、ユダヤ人と同様に大量殺戮による絶滅の対象となった。第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツ軍は1942年から1943年におけて、東部戦線を突破して、ウクライナからソビエトに侵攻した。ソ連侵攻には。親衛隊・保安警察から編成された特殊行動部隊(Einsatzgruppen)が、大量殺戮のために随行した。ポリシェビキやユダヤ人から地域住民を、地域外に行進させて、土中に自らの深い塹壕を掘らされた後に、射殺されて土中に埋められた。1944年からソ連軍の攻勢により、ドイツ軍が東部戦線まで全面撤退した。特殊行動部隊は殺戮現場に戻りながら、死体を掘り起こして、焼却して痕跡を消滅した。


2019年1月4日金曜日

朝鮮戦争の直後に、韓国軍は思想政治犯を射殺して死体を塹壕下に捨て、死体の検証して生存した囚人たちを直ちに処刑した。

朝鮮戦争が勃発した1950年6月25日の勃発時には、韓国政府は大田刑務所に左翼系の国民保導連盟員、左翼事件の関係者や被疑者らが約2,000を拘束していた。特に国防警備法・特別措置令・布告令違反で逮捕された者は、全て思想政治犯人として、1950年7月8日から10日の間に処刑にて直ちに虐殺された。トラックから思想政治犯を引きずり下ろして、射殺された多くの死体は塹壕下に捨てられた。死体の検証して、射殺後に生き残っていた囚人たちは直ちに処刑にて虐殺された。
 朝鮮戦争が勃発した直後から、戒厳令下にて、大韓民国の韓国軍も北朝鮮の人民軍も、軍事裁判にて処刑執行人となった。両国家権力は、敵対国の協力者や容疑者となった民間市民を、反逆者として虐待と虐殺をした。戦争下における軍事的対決の危機の防衛のために、民間市民ら自国に服従と隷従に導いた。韓国軍あるいは人民軍は、占領した地域で、軍事裁判や人民裁判によって、反対勢力や左・右翼の関係者や容疑者を処刑した。朝鮮戦争の直後から、北朝鮮の人民軍が南下して押し寄せて来た。大田などの南下領域でも、韓国軍は7月8日から16日の間に人民軍に同調する思想政治犯人や民間市民らを急遽に虐殺して抹殺した。アメリカ軍と韓国軍は9月16日に仁川から上陸して、9月28日にソウルを奪還して。人民軍を以北まで撤退させた。韓国軍が朝鮮半島の南部を再占領した時には、人民軍に付随した容疑者や民間市民らを摘発して報復的な虐殺をした。


2019年1月3日木曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線のテト攻勢により、北ベトナム兵士がサイゴンのアメリカ大使館を約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のテト攻勢により、北ベトナム兵士が1968年1月31日にサイゴンのアメリカ大使館に侵入して約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。
 南ベトナム解放戦線兵士が1968年1月31日午前3時を期して、南ベトナムの首都サイゴンなど主要都市、軍事基地にいっせいに攻撃を仕掛けて、サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃された。午前3時ごろ約20人のベトコン・ゲリラが、正門と塀に対戦車ロケット砲を打ち込んで破壊して、機関銃を撃ちながら大使館に乱入した。テトの旧正月のために、アメリカ大使館には海兵隊の警備兵6人とベトナム人警官の数人、宿直のアメリカ人職の員数人だけが残っていた。アメリカ大使館側は、不意を衝かれて劣勢となり、1階から4階へと追い詰められた。アメリカ軍の救援がヘリコプターで屋上に降下して、地上からのアメリカ軍兵士と憲兵らが、アメリカ大使館内に突入したベトコン・ゲリラを攻撃した。ベトコン・ゲリラは上からと下から挟み撃ちにされ、ついに捕虜1人を残して他は全員射殺された。アメリカ側も海兵隊員と憲兵隊員にも数人の犠牲者が出た。
   テト攻勢が最初に終結するまでに約1か月かかった。態勢を立て直したアメリカ軍や南ベトナム政府軍の反撃で、推定約67,000人のベトコンの兵力は3分の2が壊滅した。水面上に姿を現した秘密工作員たちや民間市民らも、南ベトナム政府の秘密警察や公安当局、米軍特殊部隊に、鎌で刈り取られる芦のように次々に攻撃と摘発されて処刑された。南ベトナムの戦場では、テト攻勢から立ち直ったアメリカ軍と南ベトナム政府軍が、ベトコンに巻き返した。
 アメリカ合衆国では政府への不信、ベトナムから手を引く反戦機運が一気に噴き出した。大統領、リンドン・ジョンソンは大統領選挙の再選をあきらめ、北ベトナムに和平交渉を申し入れた。大統領選挙では、ベトナムからの撤退を旗印にした共和党のリチャード・ニクソンが勝った。



2019年1月2日水曜日

第1次世界大戦でドイツ軍はイーペル戦線で毒ガスを初めて使用して、ゾンネベーケの塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した。

第1次世界大戦にて、西部戦線のベルギーの国境付近のイーペル地域のゾンネベーケにて激しい戦闘が勃発した。ドイツ軍は1915年4月22日にイーペル戦線で毒ガスを初めて使用した。5月1日には塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した死体が散乱した。
 塹壕戦は、敵の小火器砲撃から防御して、 砲兵から実質的に保護される。第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が最も駆使された。武力と機動力が一致せず塹壕戦は行き詰まり、損耗 、包囲、戦闘には無益も示唆した。防御者が優位に立った過酷な戦争が起こった。1914年から1918年にかけて西部戦線では、両陣営は互いに複雑な溝、地下、掘り出し、有刺鉄線、地雷、障害物による攻撃から保護された。向かい合った塹壕線の間の地域は、両軍から完全に砲撃にさらされた。 攻撃は侵攻してもしばしば深刻な犠牲者を伴った。毒ガスにより、守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大くなった。
 塹壕戦では、ほぼ確実な死をもたらす銃撃の中へ、塹壕を越えて敵の塹壕線を攻撃した。ソンムの戦いで、イギリス軍は約6万人近くの犠牲者を出した。ヴェルダン戦でフランス軍が約38万人の犠牲者を出した。第一次世界大戦は大量虐殺となり、塹壕戦は、すべての戦闘兵士の約10%が殺害された。第2次ボーア戦争で5%、第二次世界大戦で4.5%の死亡率の倍にも達した。西部戦線でイギリス軍と英国連邦軍の死亡率は12.5%であり、死傷者の合計は約56%にも達した。



2019年1月1日火曜日

少女がロシア飢饉のため飢餓に陥り、頬が落ち込み顎がせり出し、顔や四肢が痩せ細り腹部が腫れて死期が近づいた。

   ロシアの大飢饉により、ペトログラード(レニングラード)では食糧と燃料不足のために、1921年に抗議デモが発生して戒厳令が敷かれた。少女が飢饉のために極度の栄養失調に陥り、頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、顔や四肢が痩せ細り、腹部が腫れて死期が近づいていた。
 第1次世界大戦で、ロシア帝国は約1,600万人もの兵士を戦線に駆り出して、兵士と市民らが約1,600万人も死亡した。ロマノフ王朝は1917年2月に崩壊して、10月にレーニン政権が樹立した。1918年5月から1920年まで諸外国の14ケ国は約130,000人を参戦させて内戦となった干渉戦争が勃発した。ロシア西部の最大の穀倉地帯が戦場となり、強制的に農民は食糧などを徴収された。干渉戦争の前後で、播種耕地は約31%、家畜は約40%も減少した。内戦の終結時に、気温が上昇して降雨量が低下する干ばつの悪天候となり、穀物生産が激減した。大部分の市民は、食糧価格の高騰で購入が困難となった。ロシア全土にわたり飢饉の規模と程度が拡大して深刻化した。
 深刻な飢饉により、約2,800万人以上の市民が栄養失調となり飢餓に陥った。特に弱者である約700万人の14歳未満の子供と約539万人の乳幼児が飢餓に陥った。栄養失調による飢餓と伝染病で、死亡率は約16%にも達した。両親が捨てたり死亡して約100万人前後の孤児や浮浪化から餓死を招いた。頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、死期が近づくと顔や四肢が腫れて、全身が浮腫んで死亡した。最悪の場合は、餓死した幼児の死体を、親族らが食べ合う人食いも横行した。