2018年11月2日金曜日

ナチス・ドイツ親衛隊は、森林の野原でユダヤ人労働班に、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所にて、1944年8月にガス室兼焼却炉(第5クレマトリウム)の前方にある森林の片隅で、ナチス・ドイツ親衛隊は、ユダヤ人の大量虐殺が執行された。森林に囲まれた野原で、ユダヤ人労働班は、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。強制収容所内のユダヤ人抵抗グループが、秘密裏に写真を撮影した。
 大量虐殺を撮影された写真は、メモ書きとともに強制収容所の外に持ち出された。それらのメモ書きには、緊急、カメラ用のフィルム・ロールを可及的に早めに補給してくれ。この命をかけて撮影した写真は無駄にしないでほしい。ガス殺害の場面を送る。死体が焼いた薪を積み上げた写真がある。ガス室兼焼却炉では容量不足になり、死体を焼却している。死体を投げ込むために、死体を積み上げた。森の中で、シャーワーを浴びると騙して、衣服を脱がせて、ガス室だけでなく、森林へ向かわせて虐殺した。クラクフにおけるポーランド・ユダヤ人地下活動組織に渡ることを祈る。
  ナチス・ドイツ親衛隊は、アウシュビッツの第1収容所の被収容者増を補強するため1941年10月に、ポーランドのブジェジンカ村に絶滅収容所である第二強制収容所ビルケナウが開所された。総面積は1.75平方kmで、約300以上の施設があった。1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかにロマ・シンティが介在した。ガス室は、農家を改造したガス室が2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があった。撤退時に証拠隠滅により壊滅して破壊された。 1945年1月27日にソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放した。



2018年11月1日木曜日

ベトナム戦争で射撃を受けたベトナム人夫の側に、妻が児童を抱えて側に近寄り悲しみうなずいた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍は1966年にベトナムのハウギア省の農村部を攻撃した。アメリカ軍は農村部を戦闘した。アメリカ軍兵士は、南ベトナム解放戦線のベトナム人兵士を狙撃した戦果に興奮していた。射撃を受けて重態で倒れた農民であったベトナム人兵士の妻が児童を抱えて、すぐさま側に近寄って来た。瀕死の状態の夫にうなずきながら何か話しかけていた。夫は自分の戦傷の宿命を悟ったように、息苦しさを耐えながら、一生懸命に妻と子供に話しかけた。おそらくベトナム人兵士の夫は死亡した後のベナム戦争中の生活を話し合っていた。妻と児童は悲しみに満ちながら、慟哭するのを抑えて、しきりにうなずきながら夫の声を何度も拝聴した。瀕死の父親を、少し離れたところで子供たちが見守っていた。子供たちは何も言わず、突然に襲われた父親の不幸にじっと耐えていた。
   アメリカ軍兵士は戦傷して重態の夫もさらに尋問するために、板の上に乗せて連行した。妻は子供を抱えながら、連行される夫を追った。ベトナム人妻はアメリカ軍兵士に、何度も一緒に連行してくれと必死に頼むようだ。アメリカ軍兵士は、ベトナム戦争の非情さから妻からの依頼を無視した。残された妻は子供達の手をとり悲しみながら、ふるさとの農村部にとぼとぼと戻った。



2018年10月31日水曜日

ハイチの警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。

ハイチの首都ポルトープランスで、警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。約10,000人にも及ぶ抗議活動者らは、デュヴァリエ親子の独裁政権による犠牲者を追悼した。市民らに対する政権の弾圧は、デュヴァリエ息子が脱国した直後からも再燃した。
 アメリカからの圧力で、1986年1月までに最悪独裁国家のハイチから外国の銀行、投資家、生産者は国外に引き抜かれ操業を停止した。エイズの高い発生率で傷ついた観光産業は廃墟になった。アメリカ国務省はハイチの援助を全面停止して、デュヴァリエ息子に政権の放棄を警告した。首都ポルトープランスで暴動が広がり、企業や工場が閉鎖し、ハイチ経済は低迷した。 「デュヴァリエ野郎!」と叫ぶ抗議活動者は、車を壊し窓を閉鎖して、タイヤを燃やしゴミで道路を塞いだ。デュヴァリエ息子は状況が悪化したために、父親から独裁政権でハイチ人を弾圧した。無秩序と無秩序が状況を悪化した。首都の死体安置所には、抗議中に虐殺された7人の死体があった。警官らは、死体をトラックで運搬して、土中に投げ込み、カルシウムを注入し、薄い土壌で覆った。警察は潮で舞い戻るので死体を海に投げ込まなかった。
 2月6日の木曜日の夜、デュヴァリエ息子はアメリカ大使館に政権の放棄を告げた、空港に向ってアメリカ空軍の貨物機に乗り込み、フランスに亡命して飛び降りた。しかし、デュヴァリエ息子はすでに誰が政権を運営するかを決めていた。脱国する前に、新大統領を選出し政権を引き継ぐ4人の軍人と2人の民間人からなる6人の与党評議会を選んだ。 6人のうち5人は軍事勢力のアンリ・ナンパフィ大佐を含む長年のデュヴァリエ政権支持者であった。


2018年10月30日火曜日

ソ連軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人夫は妻と娘が撲殺された死体の側で路地に座り込み悲嘆した。

ソビエト連邦軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人の妻と娘が撲殺された。その死体の側で、ユダヤ人の夫は路地に座り込み、悲しみに暮れて慟哭した。
 連合軍がノルマンディーに上陸した1944年6月6日には、ソ連の赤軍がハンガリーの首都であるブタベストに約数100kmに迫った。その頃に後方の支援を受けて、ドイツ親衛隊の虐殺者たちは、わずか12週間でハンガリー・ユダヤ人約43万5,000人を強制連行した。列車を毎日操業して、1日あたり約14,000人にものぼるハンガリー・ユダヤ人が強制連行された。
 1944年7月7日には強制連行されたハンガリー・ユダヤ人はすぐに虐殺された。それに報復するために、7月2日に連合国のアメリカ軍はブタペストに空爆した。それに逆ってナチス・ドイツ軍は7月14日にユダヤ人評議会を拘束して、さらに約1,500人も連行して輸送した。
 強制連行されたハンガリー・ユダヤ人は途中の中継もなく、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室に直送され虐殺された。焼却場による膨大な死体処理は困難となり、ガス虐殺された死体を集積して、戸外の穴で焼却した。強制収容所の周囲は炭化した死体の悪臭で満ち溢れた。
 1944年10月14日にハンガリーのファシストである矢十字党がクーデターを起こして、元首ホルティ・ミクローシュは失脚した。テロリズムは最後の瞬間まで続き、ソ連軍がブタペストまで約100Kmに迫った11月6日に、ハンガリー・ユダヤ人約40,000人は徒歩でオーストリア国境まで連行された。その行軍の途中で数千人のユダヤ人が絶命した。


https://drive.google.com/file/d/1H6FYqi_MgRpO239VeDrvCzp8VGOgyqdR/view?usp=sharing

2018年10月29日月曜日

モロッコは植民地である 西サハラの独立活動家を、劣悪な監獄に押し込め悲惨な暴行と尋問で虐待と虐殺した。

西サハラの独立活動家の多数を、劣悪なモロッコの監獄に押し込められて、モロッコ占領当局から、悲惨な暴行と尋問を受けて瀕死の状態となった。
 アフリカ大陸で、未だに最後の植民地として西サハラはモロッコに占領され続けている。北をモロッコに国境を接して、西サハラの有用な国土の約80%を、地雷防御である砂の壁でモロッコに占領支配されている。残り20%の不毛な砂漠地帯を、アルジェリアのティドフに西サハラ難民政府が関与している。
 1884年にスペインはボハドール岬からブラン岬までの海岸を植民地とした。1958年にスペインは地域を併合してスペイン領サハラとした。1975年の11月に非武装のモロッコ人の約30万人が、タルファヤに集結して、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入する緑の行進が勃発した。遂にスペインは1975年11月14日に西サハラを手放した。
 モロッコは1976年から西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコはモーリタニア共和国の撤退後1979年に領有地を占領した。1976年2月27日からポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国を建国宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立した。モロッコに対してゲリラ戦を開始した西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。停戦の合意であったモロッコからの独立か併合かを選択する住民投票は未実施で、西サハラはモロッコの植民地である。
 モロッコによる被占領民が、2010年10月10日から約2万人が、蜂起キャンプの抗議活動を起こした。11月8日に、モロッコ軍は非武装の蜂起キャンプを襲撃して、無差別に虐殺した。連行された被占領民には、暴行と拷問による虐待を受けた。国連や国際社会が蜂起キャンプの虐待と虐殺を非難するも、逆にモロッコは西サハラを戒厳令下で占領した。

https://drive.google.com/file/d/1ZjHp5Am6lqiF31HE8tLZSkavKjSyyU2n/view?usp=sharing

2018年10月28日日曜日

ソマリア人群衆は激怒してアメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。

 1990年代初め、ソマリアは一族戦争により荒廃した。飢饉が広がった。アメリカ主導の多国籍軍は供給ラインを回復したが、その存在が新たな緊張を生じた。1993年7月、4人のジャーナリストが怒っている暴徒によって殴られて虐殺された。ほとんどのヨーロッパのジャーナリストは逃げた。
  ソマリアの武装勢力が1993年9月下旬にアメリカ軍のヘリコプターを撃墜したとき、数人のジャーナリストが同乗していた。 目撃者によると、アメリカ軍兵士の死体の一部は袋に入れて展示された。アメリカ国防省は、アメリカ人の死体の一部が、ソマリアのモガディシュ通りを通り過ぎて見せしめになったことを平然に否定した。
  アメリカ軍部隊は1993年10月3日に、ソマリアの武装勢力であるモハメド・ファラ・アイディドと激しい戦闘に従軍していた。その結末に、ソマリアの武装勢力は一人のアメリカ軍兵士を抑留した。ソマリア人の暴徒は、アメリカ軍兵士の死体を引っ張って、群衆の暴徒が脅威となった。
  ソマリア人の群衆は激怒して、アメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。ソマリア人の群衆は恐怖に敏感に反応した。アメリカ軍は1994年3月にソマリアから完全撤退した。
    1988年にソマリア内戦が勃発した。1969年のクーデターからバーレ軍政権を1991年 1月に排除して、アリ・マフディ・ムハンマドが暫定大統領に就任した。1991年5月に反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧した。USCの内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派が、アリ・マフディ暫定大統領派と対立した。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂した。1991年6月に北部の旧英国領地域が「ソマリランド共和国」として独立宣言した。
    1991年 アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。1992年6月にアイディード将軍がいくつかの軍閥を統合してソマリ国民同盟(SNA)を結成した。1992年12月にクリントン大統領が派遣するアメリカ軍を主体にして、国連は多国籍軍によるPKO部隊を派遣した。1993年5月に武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を展開した。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告した。1993年10月にモガディシュの戦闘が勃発した。1993年にアメリカ合衆国は、ソマリアから撤兵した。


https://drive.google.com/file/d/1JbTTdOsltBUtLner6w5ZXENaLdYAdOt5/view?usp=sharing

2018年10月27日土曜日

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。
 日中戦争にて、中国国民政府軍は1937年8月13日から10月36日までの第2次上海事変に敗退により、中国から南京の郊外に撤退して防衛を図った。中国国民政府は、中国軍の13個師の約11万人の中国人兵士を、南京の防衛のために終結させた。日本軍は、1937年12月8日に南京の郊外に接近した。中国国民政府は、日本軍と軍事衝突が勃発するも、中国軍の形勢が不利となった。中国国民政府は敗北する前に、12月12日夕刻には南京放棄を内定して、南京に中国国民軍を放置して揚子江北岸に遁走した。
 しかし、置き去りにされた南京防衛軍の大部分の中国人兵士らは、日本軍の南京の包囲網から敗退することが困難となった。そのために、突破を放棄した中国人兵士は、武器と軍服を捨てて、南京の国際安全区の周辺などに潜伏した。12月13日に日本軍は、南京城南の入り口の中華門を突破して南京市内に突入して、日本軍は南京を侵略して占領した後には、中国防衛軍は無力となっていた。日本軍は南京を占領した後に、潜伏した敗残兵を掃討する名目により、約6週間にわたり、民間市民も含めて大量の虐待と量の虐殺が執行された。日本軍は、無差別に膨大な人数の南京市民を取り調べては、青年や軍人らを容疑者として無差別に虐殺した。多数の青年や軍人の容疑者を捜査して逮捕して、南京郊外に連行して大規模に集団虐殺した。


https://drive.google.com/file/d/1v_xtJMligJHCro3iT2ECVd8WbmcQuklA/view?usp=sharing

2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


https://drive.google.com/file/d/1qndgKoFcGvNjgNFMVB-ykToyWDt5lgYW/view?usp=sharing


2018年10月2日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 800回

2018年10月25日木曜日

カンボジアのタソー村の魔の森の処刑場で、ポルポト派により虐殺された親族の死体の人骨を土中から掘り出した。

カンボジアのタソー川に沿って、「魔の森」と呼称された森の地域があった。ポル・ポト政権は、南東部のスペイリエン省のタソー村の近隣にあった魔の森を処刑場とした。タソー村や近隣の大多数の住民は、魔の森に連行されて虐殺された。虐殺された死体は、地中に埋められた。タソー村の住民の約2,500人が連行されて、約1,800人が虐殺された。特に、1977年3月頃に、カンボジア住民らを親ベトナム派と疑われて、親類も含めてほぼ全員が摘発されて最大の大量虐殺が執行された。その頃にはカンボジア・ベトナム戦争が1975年5月から勃発して、ベトナム軍が侵攻した1978年12月25日から大規模な戦闘に転移した。魔の森の土中を掘り起こすと、多数の白骨が散乱した。人体が土中で腐って人骨となるために、表面の土砂は窪んだ。人骨だけでなく、黒い農民服であった衣服も絡んだ。カンボジアの各地には、魔の森のような処刑場が散在していた。スペイリエン省全体で、摘発され虐殺された知識人らは約5,000人以上にも達した。1976年初頭から1977年末までに住民から知識人も摘発されて虐殺された。
    大虐殺時代の当局の命令のすべてはオンカー組織からであった。オンカーとは何か、当局も誰にも知らされず、上層部からの命令系統であった。オンカーの命令は上位組織から下位の組織と一方的に伝令される。ポル・ポト派のカンプチア共産党を頂点とする極秘のオンカー組織であった。市民らには伏せられた支配者であるオンカーによる恐怖政治が君臨した。オンカーは市民らを摘発すると、市民自ら土中を掘らせて、後手に縛られて撲殺して虐殺して、土堀に落とし込んで埋めた。


https://drive.google.com/file/d/1lRxds0fKaMg_FhkJ2Uhdb3Z6PInkAhtO/view?usp=sharing


日本平和の市民連盟は2018年10月25日にBloggerの投稿数は700回に達した。


2018年10月24日水曜日

河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。

太平洋戦争において、1943年後期頃から日本軍は総員壮烈なる戦死して、厳しく膨大なアメリカ軍の戦闘に広範囲に敗北して敗退に陥った。日中戦争中の関東軍の一部は、太平洋戦争への兵力が転移された。中国大陸にも浸出したアメリカ軍の爆撃機B-29による本土と近海の空襲を阻止して東シナ海に至る陸路を確保するために、大本営は1944年1月に関東軍に大陸打通作戦を指令した。公式には一号作戦として、華北から華中、華南などに至る中国大陸を約1,500Kmを突破する本土の都合主義による指令を出した。日本軍は1944年4月17日から12月10日にかけて中国大陸を縦断した。4月から大陸を縦断する京漢作戦と5月から鉄道と空軍基地を侵略する湘桂作戦により、華北から仏領インドシナまでの長大な地域を侵攻した。桂林、柳州、遂川などの航空基地を占領した。B-29はすでにマリアナ諸島の航空基地から日本本土に対する空襲が勃発していた。中国大陸打通作戦の戦果はすでに失われて、補給が困難となり日本軍に大量の戦死傷者と病死者が生じた。
 京漢作戦では北京周辺から漢口まで貫通して、食糧と資材を略奪して補給するために、膨大な地域住民が犠牲になった。河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。大陸打通作戦では、戦闘は常に村や街であり、多くの住民が戦火に巻き込まれて、虐待と虐殺の犠牲者となった。


https://drive.google.com/file/d/1ZtK4lykpisgn8eZOlHkTjBprhQL0Y0Nw/view?usp=sharing

2018年10月23日火曜日

太平洋戦争にてタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発して、最後の日本軍の突撃により玉砕した死体が散乱した。

 陸軍大臣であった東条英機によって、1941年1月8日に『戦陣訓』が日本軍に対して、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と告知された。太平洋戦争において、日本軍は1943年5月12日から5月29日までアメリカ軍とアッツ島の戦闘が勃発して、日本軍兵士は全滅した。大本営は、救援が不可能となり、追い詰められた日本軍に対して5月23日に玉砕を命じた。「最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電された。最後の5月29日に「共に生きて捕虜の辱しめを受けざる様覚悟せしめたり」と電報して、夜間にアメリカ軍に壊滅的な突撃をした。
 大本営は初めて玉砕による敗北を初めて公表した。5月31日の朝刊には、「アッツ島に皇軍の神髄発揮。部隊長ら全将の壮絶・夜襲を刊行玉砕。敵2万・損害6千を降らず。」と日本国民に通知した。初めて玉と砕けて散る美化されたアッツ島の『玉砕』を通知されて、寂寥感ではなく哀愁から玉砕の魅力に酔いしれた。
 それ以後の太平洋戦争において引き続いて沖縄戦から終戦に至るまで、日本軍は玉砕してアメリカ軍に敗北して敗退し続けた。しかし、大本営はアッツ島は玉砕と公表したが、それ以後の太平洋戦争では『総員壮烈なる戦死』と発表した。さらにサイパン島や沖縄では、民間市民も巻き込んで玉砕の戦闘をした。
   太平洋戦争中の 1943年11月にギルバート諸島のタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発した。11月 20日にタラワ環礁に約5,000人のアメリカ軍が上陸した。約 4700人の日本軍が、水ぎわで激しい抵抗して戦闘は4日間続いた。 11月25日に日本軍は最後の突撃により玉砕した。11日24日からアメリカ軍は残存した日本兵を掃討した。

タラワ環礁で恐怖と悲惨な最後の日本軍の突撃による玉砕した死体が散乱した。


2018年10月22日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの道端で散乱した餓死や病死のユダヤ人の死体を運搬と処理した。

ワルシャワ・ゲットーの道端には餓死や病死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れ出して路上で意識を失い倒れて餓死した。 ナチス・ドイツは、ユダヤ人の隔離政策であったゲットーの破綻が、ユダヤ人の絶滅政策であるホロコーストに移行する要因が示唆された。ポーランド侵攻により、1939年9月11日にユダヤ人を隔離と移送するために都市部のゲットーに送還した。1939年11月4日にゲットーを形成のめに、ワルシャワのユダヤ人を3日以内に、特定のユダヤ人居住地区に収監させた。11月15日にワルシャワのユダヤ人居住地区から腸チフスなどの伝染病が大流行した。1940年3月27日から汚染地区の周辺に壁を設置させた。さらに発疹チフスの流行から、10月2日にワルシャワの約50万人のユダヤ人を隔離するためにゲットーの設置が公式に命令された。ゲットー地域に居住していたポーランド人の約11万3,000人を移住させて、代わりに約13万3,000人のユダヤ人が収監された。ゲットーは極端に狭く密集した不衛生であった。
 ドイツは必要に応じてユダヤ人を街頭で拉致して強制労働させた。やがてゲットー内部支配のユダヤ人評議会が代行して調達した。収容の過程で財産を没収された貧困のユダヤ人ばかりを選別して苛酷な強制労働を強制した。粗末な食事で夜明けから夕暮れまで労働を強要された。食料の供給が限界になるにつれて、労働力の生産性が低下して、食料価格が高騰した。労働不可能なユダヤ人は厄介者になり、さらに食事が切り詰められた。ゲットーでは、道端に餓死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れて路上で意識を失い倒れて餓死した。
 1941年7月16日に保安諜報部の親衛隊が、ドイツ本国の国家公安本部ユダヤ人課長に「冬季にはユダヤ人全員には食料は供給できなくなる。労働不可能なユダヤ人は、ユダヤ人が餓死するよりも気持ち良い即効性のある方法で始末する必要がある。」と報告した。やがて1941年8月にロシア戦線からユダヤ人絶滅政策であるホロコーストが執行された。労働不可能なユダヤ人が絶滅の対象となり、特に病人、虚弱者、女子供であった。


https://drive.google.com/file/d/1j0735wBTi33puQctfR7ahmY4lN6-UUVP/view?usp=sharing

2018年10月21日日曜日

ミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する市民集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。

2007年10月6日にミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する大衆集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。 
 ビルマの歴史で、多くの反抗的な反乱があった。自由のための紛争は60年以上続いた。王たちは下層のビルマ市民から税金の徴収や奴隷を集めるために軍隊を送り出した。19世紀のアングロ・ビルマ戦争は、侵攻したイギリス軍と占領に反抗し初めてビルマの自由の戦いとなった。
 1930年には、バーマン協会の知識人と学生がラングーンに集まった。国家の英雄となる若いアウン・サンがいた。1938年〜39年に全国的に激しい抗議が行われ、警察が残酷に抑圧した。アウン・サンは植民地のビルマを解放するために日本軍の支持を求めた。30人の同志は日本軍に訓練され、後にビルマ独立軍(BIA)を設立した。日本軍と一緒にBIAは1942年3月にラングーンを占領してイギリスの植民地支配を終結させた。独立に無関心の日本軍は、引き続きビルマを抑圧した。1944年にビルマがイギリス軍の助けで、日本軍から解放された後でも、ビルマは、非常に不安な基盤に立った。ビルマ以外の民族も1944年 2月12日全ての民族がパングロン協定に署名し、ビルマ以外の民族は平等な権利と実質的な自治となった。1948年カレンニ民族進歩党(KNPP)を通じてカレンニ革命を引き起こした。1949年にパオとモンも独自の革命を開始した。
 1962年にネー将軍が、政治的不安定により軍事クーデターを勝ち取った。ラングーン大学の学生たちは、民主主義の回復を要求し、軍隊がキャンパスを取り囲み、生徒に火を放ち流血された。兵士たちは連合ビルを爆破した。1963年に軍事政権は民族革命家に停戦を拒否したシャン族、カレン族、カチン族、カレン族およびモン族の他の集団は、軍事政権に反抗した。ビルマ軍は残忍に反抗者に野蛮な報復をした。 1960年代半ばに軍事政権はフォー・カットス政策を導入し抵抗を一気に押しつぶした。
   政府軍の悪質な抑圧の下で、民族国境地域は虐待され、学生と反対派は血まみれのデモを続けた。1974年に学生と修道士は再び怒りを表現するデモをした。数十人が死亡して、刑務所に留置され国境地域に逃げた。国民民主戦線(NDF)が設立され、民族族集団が同盟を結成し、ビルマ全域で共同戦線を構築した。1988年には数千人のデモ参加者が殺害された。軍事政権の経済不全に対する大規模なデモで全国が揺れ動いた。国防長官の軍事クーデターの反抗者は膨大に逮捕され、多くの学生らは国境地域に逃げた。ビルマ軍は、農村地域は支援や避難場所を与えたとして引き締め続けた。多くの野党が集まり、1990年にはビルマ民主連合(DAB)とビルマ連合(NCGUB)の連合政権を、EUは実質的に認可した。(軍事政権は1989年に、英語名称のビルマ(Burma)から、ビルマ語のミャンマー(Myanmar)に国名を変更した)
 1995年にビルマ軍に侵略されて、反抗者は海外に逃げて、国境を越えて自由の闘いを続けた。革命勢力は国境を越えて全域に広がって、ビルマ軍に対抗するゲリラ戦をした。政府は、植民地時代の手法で、民族を分裂させ、経済的譲歩、麻薬の栽培で。停戦協定に誘い出した。ビルマに頻繁に自発的なデモが起こり、多くの流血で粉砕された。刑務所で何年も投獄された元学生たちは、引き続き抵抗運動に参加した。 ビルマで2007年の9月と10月のサフラン革命は20年間の最大の抗議運動であった。多くの人が命を奪われ、刑務所に投獄された。 ビルマの自由に対する闘いには、武装抵抗運動はビルマ軍を攻撃し、国境地域を防衛するためにゲリラ戦、多くの政治活動家が国境を越えて遠く離れた土地に逃げた。国際レベルでは、政権に経済制裁を課し、国連安全保障理事会に世界的な措置を強いた。



  • (1)1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。(2)1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間、3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。(3)2003年8月、キン・ニュン首相(当時)が民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表。(4)2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表し、新首都をネーピードーと命名。(5)2007年9月、全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。(6)2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生。(7)2008年5月10日、新憲法草案採択のための国民投票を実施(一部地域は24日に実施)。92.4%の賛成票で(投票率99%)で新憲法承認。(8)2010年11月7日、総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が大勝。スー・チー氏率いるNLDは総選挙をボイコット。(9)2011年1月31日、総選挙の結果に基づく国会が召集。(10)2011年3月30日、テイン・セイン大統領率いる政権が発足し(同時に国名も変更)、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進。(11)2011年6月、国軍とカチン独立軍(KIO)との戦闘が再発。以後、ミャンマー北東部にて複数の武装組織との衝突が断続的に継続。(12)2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが45議席中43議席を獲得。(13)2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が発生。(14)2015年10月15日、ミャンマー政府は、カレン民族同盟(KNU)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)に署名。(15)2015年11月8日、総選挙開催。アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝。(16)2016年3月30日、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行。
  • (ミャンマー連邦共和国の内政の現代史、外務省)

2018年10月20日土曜日

イラクにてバース党が軍事クーデターで政権を奪還して、バクダットのユダヤ人を、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。

イラクにてバース党が1969年2月の軍事クーデターで政権を奪還してから、まもなくバクダットのユダヤ人に対して、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。
 バースとはアラビア語で復興と再生を示唆する。アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則とするアラブ民族主義政党が1947年にシリアのダマスカスで結成された。1952年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・バース社会主義党となった。アラブ民族主義は、郷土や祖国を植民地から独立を目指すワタン主義の限界から、第2次世界大戦後にはアラブの統一を掲げるカウム主義に転換した。1947年国連パレスチナ分割決議と1948年イスラエル建国が大きく影響した。カウム主義には、バース党によるバース主義、エジプトのナセル主義、共産主義のアラブ民族運動があった。
 バース党はアラブ世界で広範な支持を受けて、アラブ統一に至る戦略となった。アラブ民族による統一国家というカウム主義では、アラブ民族の統一国家は巨大となる。バース主義はアラブ諸国にバース党を結成して、各国のバース党政権が合体してアラブ統一国家を形成する現実主義となった。
 1950年代後半からアラブ統一を掲げるも、権力の奪取や維持を優先した。シリアは、1963年の軍事クーデターにより初のバース党政権が誕生した。アラブ統一よりも社会主義が優先された。1970年にアサド国防相は2度目の軍事クーデターにより大統領に就任した(2000年に息子のバッシャール・アサドが就任した。2011年3月中旬以降に反政府デモが発生し、反政府勢力に過激派武装勢力なども参戦し、暴力的衝突から内戦に発展した。国連の推定では、2016年6月全土で約25万人の死者、約650万人の国内避難民が発生し、周辺諸国に約480万人の難民が流出した)。
 イラクでは1951年に地域指導部が成立し、1963年軍事クーデターで政権に参加したが、短期間で排除された。1966年にバクル書記長と1967年にサッダ―ム・フセイン副書記長でバース党勢力が拡大した。1968年軍事クーデターで、バクルが大統領に就任した。1969年に副大統領であったフセインがバクルを排除して大統領となった。フセインはイラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部(RC)と革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
 現在では、シリア以外のバース党の政治勢力は極めて小さい。ヨルダンは、ヨルダン民族民主戦線という政党になっている。レバノンは、シリア系とイラク系に分裂状態である。イエメンでもイラク系のバース民族党が分離した。チュニジアでは非合法となった。

https://drive.google.com/file/d/1ZxI6ws_SF080go21MLEC9-PQ97_ngcbn/view?usp=sharing



2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回