2018年10月23日火曜日

太平洋戦争にてタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発して、最後の日本軍の突撃により玉砕した死体が散乱した。

 陸軍大臣であった東条英機によって、1941年1月8日に『戦陣訓』が日本軍に対して、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と告知された。太平洋戦争において、日本軍は1943年5月12日から5月29日までアメリカ軍とアッツ島の戦闘が勃発して、日本軍兵士は全滅した。大本営は、救援が不可能となり、追い詰められた日本軍に対して5月23日に玉砕を命じた。「最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電された。最後の5月29日に「共に生きて捕虜の辱しめを受けざる様覚悟せしめたり」と電報して、夜間にアメリカ軍に壊滅的な突撃をした。
 大本営は初めて玉砕による敗北を初めて公表した。5月31日の朝刊には、「アッツ島に皇軍の神髄発揮。部隊長ら全将の壮絶・夜襲を刊行玉砕。敵2万・損害6千を降らず。」と日本国民に通知した。初めて玉と砕けて散る美化されたアッツ島の『玉砕』を通知されて、寂寥感ではなく哀愁から玉砕の魅力に酔いしれた。
 それ以後の太平洋戦争において引き続いて沖縄戦から終戦に至るまで、日本軍は玉砕してアメリカ軍に敗北して敗退し続けた。しかし、大本営はアッツ島は玉砕と公表したが、それ以後の太平洋戦争では『総員壮烈なる戦死』と発表した。さらにサイパン島や沖縄では、民間市民も巻き込んで玉砕の戦闘をした。
   太平洋戦争中の 1943年11月にギルバート諸島のタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発した。11月 20日にタラワ環礁に約5,000人のアメリカ軍が上陸した。約 4700人の日本軍が、水ぎわで激しい抵抗して戦闘は4日間続いた。 11月25日に日本軍は最後の突撃により玉砕した。11日24日からアメリカ軍は残存した日本兵を掃討した。

タラワ環礁で恐怖と悲惨な最後の日本軍の突撃による玉砕した死体が散乱した。


2018年10月22日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの道端で散乱した餓死や病死のユダヤ人の死体を運搬と処理した。

ワルシャワ・ゲットーの道端には餓死や病死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れ出して路上で意識を失い倒れて餓死した。 ナチス・ドイツは、ユダヤ人の隔離政策であったゲットーの破綻が、ユダヤ人の絶滅政策であるホロコーストに移行する要因が示唆された。ポーランド侵攻により、1939年9月11日にユダヤ人を隔離と移送するために都市部のゲットーに送還した。1939年11月4日にゲットーを形成のめに、ワルシャワのユダヤ人を3日以内に、特定のユダヤ人居住地区に収監させた。11月15日にワルシャワのユダヤ人居住地区から腸チフスなどの伝染病が大流行した。1940年3月27日から汚染地区の周辺に壁を設置させた。さらに発疹チフスの流行から、10月2日にワルシャワの約50万人のユダヤ人を隔離するためにゲットーの設置が公式に命令された。ゲットー地域に居住していたポーランド人の約11万3,000人を移住させて、代わりに約13万3,000人のユダヤ人が収監された。ゲットーは極端に狭く密集した不衛生であった。
 ドイツは必要に応じてユダヤ人を街頭で拉致して強制労働させた。やがてゲットー内部支配のユダヤ人評議会が代行して調達した。収容の過程で財産を没収された貧困のユダヤ人ばかりを選別して苛酷な強制労働を強制した。粗末な食事で夜明けから夕暮れまで労働を強要された。食料の供給が限界になるにつれて、労働力の生産性が低下して、食料価格が高騰した。労働不可能なユダヤ人は厄介者になり、さらに食事が切り詰められた。ゲットーでは、道端に餓死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れて路上で意識を失い倒れて餓死した。
 1941年7月16日に保安諜報部の親衛隊が、ドイツ本国の国家公安本部ユダヤ人課長に「冬季にはユダヤ人全員には食料は供給できなくなる。労働不可能なユダヤ人は、ユダヤ人が餓死するよりも気持ち良い即効性のある方法で始末する必要がある。」と報告した。やがて1941年8月にロシア戦線からユダヤ人絶滅政策であるホロコーストが執行された。労働不可能なユダヤ人が絶滅の対象となり、特に病人、虚弱者、女子供であった。


https://drive.google.com/file/d/1j0735wBTi33puQctfR7ahmY4lN6-UUVP/view?usp=sharing

2018年10月21日日曜日

ミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する市民集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。

2007年10月6日にミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する大衆集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。 
 ビルマの歴史で、多くの反抗的な反乱があった。自由のための紛争は60年以上続いた。王たちは下層のビルマ市民から税金の徴収や奴隷を集めるために軍隊を送り出した。19世紀のアングロ・ビルマ戦争は、侵攻したイギリス軍と占領に反抗し初めてビルマの自由の戦いとなった。
 1930年には、バーマン協会の知識人と学生がラングーンに集まった。国家の英雄となる若いアウン・サンがいた。1938年〜39年に全国的に激しい抗議が行われ、警察が残酷に抑圧した。アウン・サンは植民地のビルマを解放するために日本軍の支持を求めた。30人の同志は日本軍に訓練され、後にビルマ独立軍(BIA)を設立した。日本軍と一緒にBIAは1942年3月にラングーンを占領してイギリスの植民地支配を終結させた。独立に無関心の日本軍は、引き続きビルマを抑圧した。1944年にビルマがイギリス軍の助けで、日本軍から解放された後でも、ビルマは、非常に不安な基盤に立った。ビルマ以外の民族も1944年 2月12日全ての民族がパングロン協定に署名し、ビルマ以外の民族は平等な権利と実質的な自治となった。1948年カレンニ民族進歩党(KNPP)を通じてカレンニ革命を引き起こした。1949年にパオとモンも独自の革命を開始した。
 1962年にネー将軍が、政治的不安定により軍事クーデターを勝ち取った。ラングーン大学の学生たちは、民主主義の回復を要求し、軍隊がキャンパスを取り囲み、生徒に火を放ち流血された。兵士たちは連合ビルを爆破した。1963年に軍事政権は民族革命家に停戦を拒否したシャン族、カレン族、カチン族、カレン族およびモン族の他の集団は、軍事政権に反抗した。ビルマ軍は残忍に反抗者に野蛮な報復をした。 1960年代半ばに軍事政権はフォー・カットス政策を導入し抵抗を一気に押しつぶした。
   政府軍の悪質な抑圧の下で、民族国境地域は虐待され、学生と反対派は血まみれのデモを続けた。1974年に学生と修道士は再び怒りを表現するデモをした。数十人が死亡して、刑務所に留置され国境地域に逃げた。国民民主戦線(NDF)が設立され、民族族集団が同盟を結成し、ビルマ全域で共同戦線を構築した。1988年には数千人のデモ参加者が殺害された。軍事政権の経済不全に対する大規模なデモで全国が揺れ動いた。国防長官の軍事クーデターの反抗者は膨大に逮捕され、多くの学生らは国境地域に逃げた。ビルマ軍は、農村地域は支援や避難場所を与えたとして引き締め続けた。多くの野党が集まり、1990年にはビルマ民主連合(DAB)とビルマ連合(NCGUB)の連合政権を、EUは実質的に認可した。(軍事政権は1989年に、英語名称のビルマ(Burma)から、ビルマ語のミャンマー(Myanmar)に国名を変更した)
 1995年にビルマ軍に侵略されて、反抗者は海外に逃げて、国境を越えて自由の闘いを続けた。革命勢力は国境を越えて全域に広がって、ビルマ軍に対抗するゲリラ戦をした。政府は、植民地時代の手法で、民族を分裂させ、経済的譲歩、麻薬の栽培で。停戦協定に誘い出した。ビルマに頻繁に自発的なデモが起こり、多くの流血で粉砕された。刑務所で何年も投獄された元学生たちは、引き続き抵抗運動に参加した。 ビルマで2007年の9月と10月のサフラン革命は20年間の最大の抗議運動であった。多くの人が命を奪われ、刑務所に投獄された。 ビルマの自由に対する闘いには、武装抵抗運動はビルマ軍を攻撃し、国境地域を防衛するためにゲリラ戦、多くの政治活動家が国境を越えて遠く離れた土地に逃げた。国際レベルでは、政権に経済制裁を課し、国連安全保障理事会に世界的な措置を強いた。



  • (1)1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。(2)1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間、3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。(3)2003年8月、キン・ニュン首相(当時)が民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表。(4)2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表し、新首都をネーピードーと命名。(5)2007年9月、全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。(6)2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生。(7)2008年5月10日、新憲法草案採択のための国民投票を実施(一部地域は24日に実施)。92.4%の賛成票で(投票率99%)で新憲法承認。(8)2010年11月7日、総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が大勝。スー・チー氏率いるNLDは総選挙をボイコット。(9)2011年1月31日、総選挙の結果に基づく国会が召集。(10)2011年3月30日、テイン・セイン大統領率いる政権が発足し(同時に国名も変更)、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進。(11)2011年6月、国軍とカチン独立軍(KIO)との戦闘が再発。以後、ミャンマー北東部にて複数の武装組織との衝突が断続的に継続。(12)2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが45議席中43議席を獲得。(13)2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が発生。(14)2015年10月15日、ミャンマー政府は、カレン民族同盟(KNU)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)に署名。(15)2015年11月8日、総選挙開催。アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝。(16)2016年3月30日、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行。
  • (ミャンマー連邦共和国の内政の現代史、外務省)

2018年10月20日土曜日

イラクにてバース党が軍事クーデターで政権を奪還して、バクダットのユダヤ人を、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。

イラクにてバース党が1969年2月の軍事クーデターで政権を奪還してから、まもなくバクダットのユダヤ人に対して、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。
 バースとはアラビア語で復興と再生を示唆する。アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則とするアラブ民族主義政党が1947年にシリアのダマスカスで結成された。1952年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・バース社会主義党となった。アラブ民族主義は、郷土や祖国を植民地から独立を目指すワタン主義の限界から、第2次世界大戦後にはアラブの統一を掲げるカウム主義に転換した。1947年国連パレスチナ分割決議と1948年イスラエル建国が大きく影響した。カウム主義には、バース党によるバース主義、エジプトのナセル主義、共産主義のアラブ民族運動があった。
 バース党はアラブ世界で広範な支持を受けて、アラブ統一に至る戦略となった。アラブ民族による統一国家というカウム主義では、アラブ民族の統一国家は巨大となる。バース主義はアラブ諸国にバース党を結成して、各国のバース党政権が合体してアラブ統一国家を形成する現実主義となった。
 1950年代後半からアラブ統一を掲げるも、権力の奪取や維持を優先した。シリアは、1963年の軍事クーデターにより初のバース党政権が誕生した。アラブ統一よりも社会主義が優先された。1970年にアサド国防相は2度目の軍事クーデターにより大統領に就任した(2000年に息子のバッシャール・アサドが就任した。2011年3月中旬以降に反政府デモが発生し、反政府勢力に過激派武装勢力なども参戦し、暴力的衝突から内戦に発展した。国連の推定では、2016年6月全土で約25万人の死者、約650万人の国内避難民が発生し、周辺諸国に約480万人の難民が流出した)。
 イラクでは1951年に地域指導部が成立し、1963年軍事クーデターで政権に参加したが、短期間で排除された。1966年にバクル書記長と1967年にサッダ―ム・フセイン副書記長でバース党勢力が拡大した。1968年軍事クーデターで、バクルが大統領に就任した。1969年に副大統領であったフセインがバクルを排除して大統領となった。フセインはイラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部(RC)と革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
 現在では、シリア以外のバース党の政治勢力は極めて小さい。ヨルダンは、ヨルダン民族民主戦線という政党になっている。レバノンは、シリア系とイラク系に分裂状態である。イエメンでもイラク系のバース民族党が分離した。チュニジアでは非合法となった。

https://drive.google.com/file/d/1ZxI6ws_SF080go21MLEC9-PQ97_ngcbn/view?usp=sharing



2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回

2018年10月18日木曜日

ベトナム・カンボジア戦争で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。

ベトナム戦争後に勃発したベトナム・カンボジア戦争からのカンボジア内戦で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が東シナ海の国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。
 1965年から始まったベトナム戦争中に、カンボジアのシアヌーク殿下は、国内のベトナム解放戦線の活動を黙認した。1970年にシアヌークが外遊後にに、カンボジア軍のロン・ノル将軍がクーデターを起こした。アメリカの全面的支援を受けて、国内の北ベトナム軍を掃討した。シアヌークは中国を経てカンボジアに戻って、共産主義勢力のクメール・ルージュによる内戦を勃発した。クメール・ルージュは中国から武器援助を受けて、親アメリカのロン・ノル政権との内戦に侵攻した。カンボジアは内戦で混迷して、約50万人のカンボジア人が死亡した。
 アメリカがベトナム戦争から敗退すると、1975年にプノンペンが陥落してロン・ノル政権は終焉した。共産主義勢力のクメール・ルージュによりポル・ポト政権が樹立し、国名を1976年に現 語由来の民主カンプチアとした。生産手段を共有し、生産物を社会全体で平等に分け与える自給自足の原始共産制を強行した。国外追放されたヘン・サムリン将軍は隣国ベトナムにより政権の樹立を目指した。ポル・ポト政権のカンボジアは親中国で、隣国ベトナムは親ソ連であった。1978年にベトナム戦争でアメリカを敗退させた屈強なベトナム軍は、ヘン=サムリンのカンプチア救国民族解放戦線を支援する名目で、カンボジアに侵攻して、ベトナム・カンボジア戦争が勃発した。ベトナム軍は、山中から銃痕がある頭蓋骨が膨大に発掘した。ベトナム軍は、ポル・ポト政権による約100万人に及ぶ大量虐殺事件を公表した。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権が1979年1月に樹立され、中国・タイに支援されたポル・ポトはゲリラで内戦した。2月には中国が報復する中越戦争が勃発するも3月には中国は撤退した。
 1867年7月にベトナム新政権が刷新するドイモイ政策から国際協調に転換した。1989年に約5万人もの死者を出してベトナム軍がカンボジアから撤退した。1990年に国名が英語由来のカンボジアに改称された。1991年にはパリで和平協定が結ばれ、カンボジアを統治権限は国連に移行した。国連カンボジア暫定統治機構が明石康が主導して1993年には総選挙が実施された。



2018年10月17日水曜日

ロシア内戦で、骨が浮き上がりやせ細り疲弊して、農民家族が餓死を直前に虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。

骨が浮き上がるほど全身がやせ細って疲弊して、餓死を直前にして、農民家族が虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。膨大な農民がレーニン新政権の割当て徴収制度に反発して、農作業を放棄して穀物料が極端に落ち込み、飢饉と餓死に陥った。
 第1次世界大戦が1914年7月に勃発して、兵士と市民の死亡は約365万人にも達した。ロシア革命により、1917年2月に約300年にわたるロマノフ王朝は崩壊した。10月からレーニンの新政権が樹立された。1918年5月から内戦による対ソ連干渉戦争で、14ケ国が約13万人をロシアに派兵するも、1920年秋に終結した。特にロシア南東部の穀倉地帯が戦闘に巻き込まれた。新政権と干渉国の双方が、膨大な農民から強制的に食糧を徴収した。さらに穀倉地帯では、降雨量の減少と気温上昇の天候不順が拍車をかけて、食糧価格が急騰した。ロシアで1921年から1922年に甚大な飢饉が発生した。1921年にソ連の総生産は戦争前より約7分の1まで落ち込んで国家経済は統制されて民間経済が禁止され疲弊して落ち込んだ。レーニン新政権は1921年3月に民間規制して国家経済を独占して、農業には現物税制にする新経済政策(ネップ)を導入して、食糧の価格が高騰して偏在した。長期間の戦争により、穀物と家畜が極端に減少した。広大な地域における飢餓に陥った市民は、ソ連人口の約4分の1に相当する約3,500万人にも達した。収穫不良から飢餓に陥って、栄養摂取量が低下して、体力を奪われ流行した伝染病で死亡した。


2018年10月16日火曜日

太平洋戦争にて、日本軍がニューギニア東部のブナを拠点に対して、連合軍兵士が塹壕に潜伏した日本軍の全兵士を射殺した。

太平洋戦争において、アメリカ軍とオーストラリア軍らの連合軍は1942年11月からニューギニア東部にある日本軍の拠点であるブナに侵攻した。ブナを拠点とした日本軍は1943年1月2日に全滅して全兵士が戦死した。しかし、大本営は全滅して全戦死を極秘にした。連合軍兵士が、ブナの塹壕に潜む日本軍の全て兵士を射殺した。
 ブナを拠点とするため1942年7月21日に日本軍が上陸した。11月中旬から連合軍が、ブナ・ゴナ地区へ侵攻した。ブナ方面の日本軍は疲弊して孤立していた。連合軍の侵略により12月8日にバザブアに配備された日本軍の兵員は全滅した。1943年1月2日にはブナの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。ギルワの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。の一連の陸上戦により、日本軍兵士の約11,000人のうち約7,600名が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、バザブア、ギルワにて、連合軍の日本軍兵士の捕虜は約200人程度のみ生存した。ブナの最後拠点であるギルワは、連合軍が1月21日に侵攻して、極度に衰弱した日本軍兵士が全戦死して、ブナ地区の戦闘は終結した。1943年2月9日、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と誤報した。
 1943年春頃から日本軍兵士は連合軍に追い詰められ、内地からの補給も途絶え、南部のバボに撤退を命令された。ニューギニアの地図上で斜線を引っ張っただけで、絶望的な約2ケ月にわたるニューギニアの死の行進が強行された。道なきジャングルに置き去られ、徘徊して、飢餓と伝染病に侵されて膨大に戦死した。


2018年10月15日月曜日

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
 大都市の成長の陰では多くの市民の犠牲を伴った。大火災が1911年3月25日に、婦人用古着再生工場であるトライアングル・シャツウェスト工場で発生した。アメリカでは多くの工場で労働運動の対立と和解があった。トライアングル社は最後まで決着がつかなかった。トライアングル社は8から9階のビルが工場であり、8階から火災が発生して、多くの女工が死亡した。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になった。火災により500人のうち縫製工146人(女性123人、男性23人)が、火災や煙の吸引による窒息、さらに転落から飛び降りにより死亡した。犠牲者の大半は16歳から23歳までのユダヤ人やイタリア人の移民女性であった。46~60人以上がの人が火災からの逃げ場を失って、窓枠から飛び降りて死亡した。窓から落下して、街頭に叩き付けられて即死した。多くの死体は道路に積み上げられていた。
 1929年にニューヨークの州知事となったフランクリン・ルーズベルトは、工場調査委員会により州内の労働問題を一掃させた。ルーズベルトは、大恐慌を克服し、経済の蘇生から労働者の待遇を改善するニューディール政策を公約して、1933年に大統領に選出された。日本軍による1941年12月8日の真珠湾攻撃に対して、ルーズヴェルトは正義の戦いを市民に訴え、日本と同盟国に宣戦布告した。
 2001年3月11日のニューヨークの同時多発テロにより、突入した航空機の燃料で火災が発生し、高熱で強度の低下した鉄骨に、荷重が下層に座屈の連鎖を起し、短時間で2つのタワーは崩壊した。約2749人も死亡する大惨事となり、世界貿易センターは崩壊した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタン・イラクに宣戦布告した。





2018年10月14日日曜日

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。
 グラーグは、スターリン時代に生まれた恐怖の収容所である。ソ連内で市民同士の密告システム、秘密警察が拿捕する。何ら証拠もなく市民は手当たり次第に逮捕される。一度囚えると裁判なども省略して、シベリアの強制収容所に送られる。極寒の中で餓死状態で悲惨な重労働を何十年も強制され、生還はほとんど皆無である。
 強制収容所は、敵対者や反体制勢力を隔離する施設であった。シベリアの開発のために労働力の確保も必要な収容所でもあった。ソ連邦の社会主義は、初期には強制収容所が基盤となった。ゴルバチョフは、収容所システムに迫害された勢力の出身であった。ペレストロイカとともに、強制収容所は実質的に閉鎖された。ソ連邦崩壊に伴って、存在すら化石になっている。生き証人もなくなると、強制収容所の全貌を明らかにできない。
 アブグレイブやグアンタナモの捕虜収容所等では捕虜虐待が起きている。強制収容所の教訓が生かされていない。戦争捕虜の処遇の問題であり、ソ連の強制収容所は、完全に社会体制の一部として機能していた。グラーグの問題は、囚人の待遇以前の問題である。
 反対勢力は、強制収容所を否定し隠蔽してきた。社会主義はすばらしい、決めつけでっちあげ裁判ですら肯定し、強制収容所はデマだウソだと言い続けた。否定できなくなったときには適当に言葉を濁してごます。ソルジェニーツィン『収容所群島』も世界にソ連強制収容所の実態を初めて、西側世界に衝撃をもたらした。




2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月12日金曜日

日本軍の襲撃で虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は夫の右手を握り、子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。

日本軍による襲撃により虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は左手で夫の右手を握り、妻の右手で子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。
 満州の奉天郊外で柳条湖にて1931年9月18日の南満州鉄道の爆破を、国国民軍の犯行であると提訴し、鉄道防衛から軍事衝突を繰り返して満州事変に拡大した。日中間の緊張がにわかに高まり、上海にて日本軍は中国人の抗日運動を1932年1月28日から3月3日にかけて弾圧した。上海市の共同租界周辺で衝突して市街戦となり、第一次上海事変が勃発した。上海にて1月18日に日本人僧侶ら約5名が襲撃されて、中国人の容疑とした。1月27日に日本総領事の抗議で、上海市当局は陳謝と処罰を受諾しながら、戒厳令を強要した。各国租界の警備隊が警備につく中、1月28日に日本海軍は日本政府の許可を受けずに海軍陸戦隊による戦闘が勃発した。終戦後の東京裁判では、関東軍が満州事変に対する国際連盟などの非難を逸らすため、買収された中国人の無頼漢に日本人僧侶を襲撃させたと証言した。上海の共同租界には列強の権益が集中して、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアは日本に対して、上海事変の停止の協議を求めた。その会議日程中の4月29日に、上海派遣軍司令官が、爆弾テロリストによって虐殺された。中国人の犠牲者は、死者が約12,354人、戦傷者が約12,070、行方不明者は約10,400人にも達したと中国政府が報告した。そのうち民間市民の犠牲者は、約6,000人の死者と行方不明は約10,000人と推定された。それに比較して、日本軍の犠牲者はわずかで、死者は約769人、戦傷者は約2,322人と指摘された。イギリスの妥協案による調印が5月5日に成立して、 日本政府は上海からの撤兵を決定して、5月中旬に陸兵のすべてを上海から撤退することを閣議決定した。



2018年10月11日木曜日

フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がった「戦場のバレエ」の写真を終戦まで未公開にした。

第1次世界大戦中において、フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がっていた「戦場のバレエ」の写真を、終戦まで公開するのを禁止した。フランスもドイツも徹底した検閲を行いながら、大規模な宣伝戦を繰り広げた。第1次世界大戦では、連合国も同盟国も、写真班を従軍させて、写真による戦争記録を残した。写真は徹底した当局の検閲により、自国に有利となるプパガンダのみが公表された。
 フランスはドイツ占領下の地域に手紙を出すには、直接に郵便物のやり取りは不可能で、フランス検閲局の印章がある専用葉書で20語以内の伝言だけが許可された。戦争中の検閲により、重要な情報が敵国に漏れないためだけでなく、市民らに敗北や莫大な犠牲者の数を秘密裏にした。終戦後になってから、フランスの犠牲者は、兵士が約140万人、民間人が約30万人、戦傷者は約430万人に達した。フランスの人口は約4000万人弱なので、人口の15%が戦死あるいは戦傷した。終戦後に、膨大な犠牲者の公表により、連合国は全ての戦争責任をドイツに転嫁して膨大な賠償金を課した。莫大な賠償金が、ドイツに大きな経済的な低迷を強して、ヒトラー政権を生む要因となった。
 終戦後になってから、アメリカのニュヨークで1919年に「イラステッド・デイリーニュース」紙、フランスでは1929年に 「ビュ」誌、1936年に「ライフ」誌が創刊された。その他にも、イギリスでは1939年に「ピクチャー・ポスト」誌、フランスでは「パリ・マッチ」誌、アメリカでは「ルック」・「ホリディ」誌、ドイツでは「デル・シュピーゲル」誌などが次々に発刊された。戦争中の写真は、日刊新聞・週刊新聞・週刊誌に掲載されて、「ライフ」雑誌は、創刊して3年間で約300万部にも達した。しかし、従軍した写真は厳しい情報管理下で規制されていた。戦時下で検閲局が最も規制したのは、「死者の写真」であった。検閲で却下された一例は太平洋戦争中に1934年のニューギニアの戦いにて「ブーナ海岸で待ち伏せにあった3人のアメリカ兵」は、検閲局により1943年2月に「ライフ」誌の掲載が禁止された。しかし、アメリカ軍の方針転換して、市民の好戦を高揚するために、同じアメリカ兵の3人の死体写真が、「ライフ」誌の1943年9月20日号に掲載された。彼らの顔はヘルメットで隠れて見えず、ジャングルと座礁した船舶のみで、戦意高揚のために「死者の写真」を掲載させた。



2018年10月10日水曜日

強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者であったカポが看守として火ばさみで引きずり出した。

ナチス・ドイツの強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者らであったカポ(Kapo)が看守として火ばさみで引きずり出した。
 ナチス・ドイツの親衛隊が、軍務として強制収容所を監視した。1942年から1943年にかけて、ソ連との東部戦線が苦境に陥るにつれて、次第に親衛隊の幹部が戦地へ徴用された。そのために、高齢の親衛隊を中核として、予備警察隊として非ドイツ人が徴用された。予備警察隊は、親衛隊を支持しながら、強制収容所の看守や監視役も担った。少数の親衛隊のみが、収容所長や副官として監督していた。さらに強制収容所内では、親衛隊の地位や規律が崩れて、野蛮な虐待と虐殺が執行された。強制収容所は、ユダヤ人だけでなく、様々な出身者や多数の犯罪者も収容された。元犯罪者らが、カポと任命される囚人の看守に成り上がった。カポは牢名主として、直接的に囚人らに強制収容所の規律を遵守させて、ナチス・ドイツの親衛隊が嫌悪する作業などを執行した。生き延びるために、カポは他人に対して残虐となり、囚人たちを拷問から虐殺に陥れた。アウスビッツ強制収容所では、カポが数千人にも達した。強制収容所の囚人には、既決囚人は緑、エホバの証人は紫、政治犯は赤、同性愛者はピンク、浮浪者は黒の三角形のバッジを胸に付けられた。特に緑のバッチの既決囚人が劣悪なカポに任命された。ユダヤ人の囚人だけは特別に区別できるように、三角形を2つ重ねたダビデの黄色いバッチを付けられた。1951年から1964年の間に、主にカポであると訴追された約40件が裁判された。



2018年10月9日火曜日

アメリカ兵士はレイテ島の飛行場に撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。

レイテ島のタクロバン飛行場にて、アメリカ軍兵士は撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。
 太平洋戦争のレイテ島の戦闘にて、日本軍兵士が軽装備をして落下傘で敵陣地に降下する奇襲作戦をした。太平洋戦争が勃発する以前の1940年11月頃から落下傘部隊が編成された。最初の落下傘部隊は、第二次大戦中の1940年4月にドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下した。約476人の日本軍の落下傘部隊が、レイテ島でアメリカ軍が奪取した飛行場を奪回する戦闘をした。ブラウエン北(ブリ)飛行場には1944年12月6日朝から日本軍歩兵の斬り込み突撃をした。ブラウエン北(ブリ)とブラウエン南(パユグ)及びサンパブロの各飛行場には、12月6日夜間に日本軍兵士は落下傘で降下するも、全滅して生存者が1人も無かった。アメリカ軍が既に奪還していたブラウエン飛行場は草地に覆われて重爆撃機には利用価値が乏しかった。それらの飛行場の奪回の戦況はアメリカ軍の記録しかない。全滅となる甚大なる犠牲により、その後日に日本軍は落下傘部隊によるレイテ島の飛行場の奪回は中断となった。日本軍の爆撃機が12月7日にタクロバン飛行場とドラッグ飛行場の奪回に向かった。同様に日本軍兵士は全滅により生存者はなく、アメリカ軍には、飛行場の奪回する戦闘に関する記録は皆無であった。アメリカ軍は、タクロバン飛行場に撃墜された日本軍の爆撃機の残骸と、搭乗した日本兵士の焼死体の戦場写真(下記)のみが残存した。