戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年4月26日木曜日
2018年4月25日水曜日
日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦により、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。
太平洋戦争にて、フィリピンのルソン島のマニラ戦は1945年2月3日から3月3日の4週間も続き、最も悲惨な犠牲となった。日本軍のマニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、建物や民家を陣地化して徹底抗戦をはかった。アメリカ軍が完全に包囲するなか、マニラ地区では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留され、銃剣や機銃掃射で殺戮され続けた。全地区にて婦女子が組織的に強姦された。アメリカ軍は、狙撃による兵員の損害を抑えるために重砲火の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。民間市民被害者の6割を日本軍による殺戮、4割をアメリカ軍の重砲火による死亡と推定された。アメリカ軍記録では、日本軍はほぼ全滅(1万6665名の戦死)、アメリカ軍戦死は1010名であった。最大の犠牲者はマニラ市民で、食糧と水が欠乏する状態と無差別砲撃で民間人犠牲者の総数は約10万人にも達した。日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦によって、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。
2018年4月24日火曜日
イランのイスラム法の裁判で、将官に対して死刑が執行され、死体が置き場に集積された。
アメリカに追従していたパフレヴィー朝が1979年1月のイラン革命で倒れた。シーア派ホメイニのイスラム原理主義のイラン=イスラム共和国が1972年2月に成立した。ファギーフ(イスラム法学者)による統治を掲げ、アメリカ文化を否定して厳格なイスラームの規範を復活させた。宗教色の強い、イスラム原理主義の政治が展開された。裁判ではシャリーア(イスラム法)が適用された。イランのテヘランの裁判により、1979年2月に最初の4人の将官に対して死刑が執行されて、死体が置き場に集積された。
1979年11月14日にはイラン人学生らによるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、1981年1月20日まで占拠された。メジャーズ(国際石油資本)が撤退して、イランが石油国有化に踏み切り石油輸出を制限して、石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらした。
2018年4月23日月曜日
アメリカ軍曹の「死の日記」から、ベトコンの1人を殺害した死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。
20歳のブルース・F・アネロ( Bruce F. Anello ) 3等軍曹は1968年5月31日にベトナムで殺害された。彼の日記は戦場で拾われ、ハノイに捕獲された。彼の日記は反戦運動家を介して米国に戻り、国民解放戦線(National Liberation Front)により、アメリカで「死の日記」が公表された。
1967年12月29日: 私たちは3日間戦闘に出ようとした。私たちは全面的に狙撃兵の射撃を受けた。私はベトコンの1人を殺し、もう一人を創傷した。死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。上官がヘリコプターから現れても、「残念だが、天気が悪いので、どんなやつも乗せれない」彼は飛び去って私たちに新たな命令を残した。
2月12日: このベトナム戦争はおそらくニュースに合うでしょう。マスコミを満足させるために十分な人々が死んだ。ヘリコプターが身体を運ぶのを見ていると、嫌な思いです。しかし、私は北ベトナム人の精神に感心します。誰も精神を持っていないのでしょうか? 彼らには死の目的がある。それは彼らの国だから。私たちには何も得られません。我々はベトナムを望んでいない。だから何もないときに勝つことは何ですか?
2018年4月22日日曜日
ナチス親衛隊員が、ラトビアのリーガで、5人のユダヤ人女性と少女も服を脱いだ直後に撃ち殺されて穴に埋められた。
ドイツの支配地域からユダヤ人の排除は,第2次世界大戦の戦前から戦中を通じて,ナチス・ドイツの目標であった。ラトビアの首都リーガの南郊外区にゲットーの設置が1941年8月に決まり,ユダヤ人は10月25日から鉄条網で囲まれたゲットーの以外に住むことを禁止され,完全に外界から隔離されて消滅した。ヒトラーは,1941年9月に大ドイツ国家領域のユダヤ人を東方のリーガに移送した。収容できる施設はないため、11月30日と12月8日の2日間に,リーガのゲットーのユダヤ人をルンブラの森で殺害した。労働力として約250人のユダヤ人以外,残りの約2万780人のユダヤ人が殺害された。12月8日にユダヤ人がゲットーから引き出され,リーガから約10キロ離れた大きな穴に,全員男も女も子供もナチス親衛隊員により約2,700人が撃ち殺され埋められた。5人のユダヤ人の女性と少女は服を脱がされて、その直後に射殺された。
2018年4月21日土曜日
ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦では、中心街の空襲や砲撃などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。
第2次世界大戦で、ナチス・ドイツは1941年6日22日にソビエトとの不可侵条約を破棄して、ドイツ軍は東部戦線でソビエトと戦闘が勃発した。ドイツ軍は、ソビエトの第2番目の都市であるレニングラード(旧名 サンクトペテルスブルグ)を、1941年9月8日から1944年1月18日までの872日間にわたり完全に包囲した。ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦の緒戦では、1941年10月には中心街に対する空襲や砲撃の炸裂の被爆などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。市民の死体、死体、死体が市内の街路や雪だまりに放置された。ドイツ軍の包囲戦の期間には補給が途絶して厳しい生活環境や激烈な飢餓と砲撃や空襲などによって、人口約319万人のうち約67万人以上のソビエト市民が虐殺された。
2018年4月20日金曜日
太平洋戦争のガダルカナル島では、つるはしやスコップだけを背にしてアメリカ軍に惨殺された日本兵士の死体が散在した。
太平洋戦争にて、日本軍が侵略したガダルカナル島に、アメリカ軍は1941年8月7日から侵攻した。川口支隊は、飢餓状態に陥りながら、険しい山岳地帯を抜けるために、装備を捨てつるはしとスコップで侵攻した。ヘンダーソン飛行場の奪還を目指して、「ガス・アタック、ガス・アタック」と叫びながら、全兵士がアメリカ軍に突撃した。圧倒的なアメリカ軍の武力により、集中砲火と射撃を受けて壊滅した。つるはしやスコップだけを背にした惨殺された日本兵士の死体が散在した。日本軍の残存兵が、9月12日夜には第2次攻撃を加えるも血染めの嶺となり、約600人以上が戦死した。ガダルカナル島のジャングルでは、激しい雨季とマラリア、朝晩の寒暖と栄養失調で飢餓島となった。日本軍はアメリカ軍に圧倒的に撲滅されたが、大本営は国民に戦況の悪化を「転進」と情報捜査した。
2018年4月19日木曜日
第4次中東戦争で涙の谷にてシリア軍との戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。
第4次中東戦争が、エジプトとシリアが第3次中東戦争の失地回復のため、1973年10月6日にイスラエルに先制攻撃をかけて勃発した。イスラエルは贖罪日(ヨム・キプール)で、対抗が後手になった。エジプト軍はスエズ運河とシリア軍はゴラン高原から侵略した。イスラエル空軍と機甲師団は大打撃を受けた。イスラエル軍は10月9日から反撃をして、シリアとの北部戦線から集中的に侵略した。イスラエル軍は、シリア軍とモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を撃退して、ゴラン高原を再占領した。その涙の谷の戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。イスラエル軍はシナイ半島も10月15日からの反撃で、16日にはスエズ運河を逆渡河して西岸の一部を占領した。国際社会による調停で10月23日に停戦となった。10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助する非友好的な西側諸国に石油供給の段階的削減を決定して、原油価格が急騰して第一次オイルショックに至った。両国の平和認識に変化が生じて、エジプトとイスラエルは交渉して1978年9月のキャンプ・デービッド合意の平和に繋がった。
2018年4月18日水曜日
日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。
1917年11月にロシア革命が勃発して、第1次世界大戦の捕虜となったチェコ軍が、1918年5月に西シベリアを占領した。チェコ軍がソ連軍と戦闘となり、連合国がソ連にシベリアに出兵して、軍事干渉をした。ロシアの労働者や農民などの市民が、パルチザンとして闘争して、激烈な抵抗をした。日本軍は約70,000人も増員して、11月に強引に東シベリアにも侵略を企てた。日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。日本軍だけは、日本人の保護を名目に軍事占領を継続した。1920年5月の尼港事件で、パルチザン部隊がニコラエフスクにて約6,000人を無差別に大量虐殺をした。さらにパルチザンとの戦闘が激烈となり、連合国は1920年6月までにシベリアから撤兵した。日本軍だけ残留するも、約3,500人の戦死者を出して1922年10月になって撤兵した。
2018年4月17日火曜日
イギリス軍は、解放した強制収容所で死亡したユダヤ人の死体を、ナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせて処理させた。
ベンゲル・ベンゼン(Bergen-Belsen)収容所は、第1次世界大戦中は戦争捕虜収容所であった。東部戦線のロシアやソ連兵士を収容して虐待と虐殺していた。1943年4年以降は、ナチス・ドイツにより強制収容所に改変された。当初はドイツ以外の国籍も持つユダヤ人を強制収容した。次第にユダヤ人の収容者が約50,000にも達して、食事の配給が欠乏して、栄養失調による衰弱と感染症で死亡した。「アンネの日記」のアンネ・フランクも絶命した。1945年4月15日になってイギリス軍により解放された。しかし、チフスの大流行により、6月20日までに約15,000人も感染死した。イギリス軍はユダヤ人の死体をナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせ処理させていた。大量に積まれた死体、道端に転々と転がる死体、野原一面を埋め尽くす死体、疫病の蔓延を隔離するため、ブルドーザーで死体を投棄して、収容所を焼き払った。
2018年4月16日月曜日
第2次世界大戦のソ連軍の東部戦線にて、イタリア軍は膨大な戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置してドン河から撤退した。
第2次世界大戦にて、ソ連軍によるドン河流域における第3次攻撃を1943年1月から受けて、イタリア第8軍の山岳軍団はドン河流域から数日内に崩壊した。当初は10万人の兵力を擁していたイタリア第8軍は、約1か月間の戦闘で約8万5000人の将兵を戦死または行方不明として失った。東部戦線のドン河流域から離脱して、イタリア軍は戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置しながら撤退した。イタリアの補充兵など含めた約3万人が凍傷などで戦線から撤退した。豪雪により、ソ連軍の攻勢はさらに勢いづき、ソ連軍により包囲されたドイツ軍は重装備を放棄しながら西方に脱出した。ドイツ軍が1942年6月から占領したロシア南部地域の大部分を3月間にソ連軍の攻勢で失った。
2018年4月15日日曜日
日本人作業員が強制連行された朝鮮人を矢作村で襲撃して、死者3人を虐殺して重軽傷者22人を暴行した。
岩手県の矢作村で、1932年5月4日に日本人作業員が強制連行された朝鮮人作業員を襲撃して虐殺した矢作事件が勃発した。国鉄大船渡線の建設工事現場で、日本人が朝鮮人を襲撃して、死者3人を虐殺して重軽傷者22人を虐待した。不良な下請業者が不当な要求を次々と朝鮮人作業員に対して過酷な労働を強制した。過重労働に対して、朝鮮人作業員が土木業者に抗議行動を起こして、要望を受け入れさせた。工事に重大な支障をきたす日本人業者と日本人作業員らは日頃の朝鮮人に対する反感から、虐待と襲撃を共謀した。日本人の約100人が、朝鮮人作業員の飯場など6ヶ所を襲撃した。盛警察署が直ちに81人を検挙して、1933年1月に盛岡地方裁判所は53人に対して、わずか懲役2年以下の有罪判決をした。
2018年4月14日土曜日
南アフリカのアパルトヘイト反抗者が、裸で枷で尋問を受け、頭部を殴打され脳挫傷で虐殺された。
南アフリカのアパルトヘイトに対抗するために、スティープ・ピコは、1968年に南アフリカ学生機構(SASO)を結成した。1969年には、SASOの初代代議長に選出された。1972年にダーバンで黒人共同体プログラム(BCP)の活動して、名誉議長に任命された。BCP東ケープ支部の活動制限処分を受けたが、BCP東ケープ支部で社会運動した。1975年にテロリズム法により、有罪判決もなく101日間勾留された。さらに1977年8月18日に再び拘禁された。収容所では、裸で枷をはめられで尋問を受けた。9月12日の頭部を殴打されて、脳挫傷で虐殺された。妻と2人の子供を残して膨大な黒人市民らに葬儀された。全世界からアパルトヘイト不正に抗議が勃発した。1994年に南アフリカの大統領となるネルソン・マンデラ大は、南アフリカ全土で光輝いた野火と呼称した。
2018年4月13日金曜日
アメリカ軍の爆撃機が、砂嵐の強風でリビア砂漠上に不時着して、脱出途上の白骨の死体と墜落機が偶像化された。
第2次世界大戦中に、アメリカ軍は爆撃機にて、各都市部を無差別爆撃をした。リビアから離陸してイタリアのナポリに爆撃をしたB-24が、1943年4月4日に戦闘して帰還中にリビア砂漠上で消息不明となった。ナポリ港湾への連続爆撃するための9名の乗務員が搭乗した「善良なる貴婦人(Lady Be Good)」と呼称されていた。砂嵐の強風のために編成隊に合流できずに、単独の爆撃機となり、夜間飛行となり、燃料が切れてアフリカのリビア北岸のリビア砂漠上に不時着した。リビアのスルーク基地から探索されたが未発見となり、乗務員らは地中海方面にむけて灼熱の砂漠上から脱出を試みた。極限の疲労すと脱水により、全員が砂漠に埋もれて死亡した。1958年に偶然に現場の上空から墜落機かぜ発見されて、アメリカ軍は1962年から本格的に大規模な遺体の捜索をして8名の白骨が発見された。搭乗員を英雄化して、航空機をは名誉化するために、敵の対空砲火により墜落したと根拠もなく偶像化されて各地空軍博物館に展示されている。
2018年4月12日木曜日
オデッサで地域住民がユダヤ市民を破滅するポグロムによる死体を、生存者のユダヤ人を悲嘆しながら見守った。
ロシア帝国の市民らが、ウクライナ地方のオデッサにて、1821年にユダヤ住民に対して破滅的な暴力や虐待をする「ポグロム」と呼称される暴動をした。それ以後にロシア南部の広範囲にわたり、ユダヤ人に対してポログムが執行された。宗教的反ユダヤ主義を許容して強化するために、地元の役所や警察署や軍隊までもが、ユダヤ市民に対するポログムをロシア市民に奨励して誘導した。1905年にはオデッサで市民によるユダヤ市民に対するポログムが再発して勃発した。多数のユダヤ人が虐殺されたユダヤ人の死体を、生き延びたユダヤ人が集積して呆然と悲嘆しながら見守った。ロシアの内戦や革命中にもポログムが全域に拡大した。1938年11月9日にはドイツ各地までポログムが波及した水晶の夜が暴発して、先導したナチス・ドイツによる組織的な大量虐殺するホロコーストに繋がった。
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