2021年4月25日日曜日

スペイン内戦中に左派の共和党派の民兵による赤色テロで、バルセロナのカトリック教会の修道院で埋葬された尼僧の棺桶と死体を、修道院前で公然にさらして冒涜した。

スペイン内戦中の1936年9月から10月にかけて、左派の共和党(ロイヤリスト)派の民兵が、バルセロナのカトリック教会を襲撃した。修道院で埋葬されていた尼僧の棺桶と死体を掘り起こして、カトリック教会の修道院前に尼僧の死体を棺桶を開いて、公然とさらして冒涜した。教会の墓が開かれ、聖人、司祭、尼僧の死体が通りで発掘されて、展示して冒涜された。
 スペイン内戦の1936年から1939年の間に、左派の共和党派(ロイヤリスト)による赤色テロで、スペインの約6,800人以上のカトリックの聖職者と宗教者が殺害された。約13人の司教、約4,172人の司祭と神学校、約2,364人の僧侶と修道士、さらに283人の尼僧が犠牲となり、約2万もの教会が破壊された。19世紀から20世紀に、カトリック教会はスペインの君主制を支援した。スペイン内戦の中で、共和党派は、反道者としてカトリック教会を虐待と虐殺した。西洋史にて暴力的で残酷なカトリック教会の甚大な迫害となった。

 当時スペインでは貴族らが、自分の支配地で専制君主であり、全能絶対の支配者として、農民や市民達の生活のすべてを支配した。カトリック教会の司祭達は貴族らと結びその支配を助け利益を得た。教会は堕落したカトリック教会の牙城となり、宗教会を支配した。まずカトリック教会から政治的支配権を奪うために、スペインの新興の農民と市民には、赤色テロで貴族と結びついたカトリック教会が宿敵に至った。
 スペイン内戦中に、戦闘戦線での死と破壊は、その背後での殺人と弾圧と一致していた。スペイン内戦の最初の数か月間の死者のほとんどは戦死ではなく、赤テロあるいは白テロの政治的処刑よる執行であった。民間人と戦闘員の区別を曖昧になり、社会的および政治的な敵に対して残虐行為が横行した。赤色テロの犠牲者数は、約38,000人から約72,344人と推定された。赤色テロは、主要都市で反乱が失敗した後に、反政府勢力の殺害から始まった。右翼またはカトリック教会に対する大規模な逮捕と処刑に拡大した。
 スペイン内戦に勝利した反乱軍(ナショナリスト)のフランコ主義者たちは、共和党派の血なまぐさい赤色テロが、膨大な仲間の市民の絶滅を主導したと喧伝した。ナショナリスト派で死亡した犠牲主は、正当かつ高貴な理由で殉教者として奉られた。共和党派は犯罪者および反スペイン人として非難されて、大部分は無印の墓に埋葬された。1987年からカトリック教徒の総本山であるバチカンで、殉教者として約1,916が列福と約11人が列聖された。



2021年4月24日土曜日

広島原子爆弾により24歳の被爆者は、母親の胎内で被爆を受けて、頭囲が著しく小さい小頭症による重度の知的障害を伴った。

広島原子爆弾によって、胎内被爆した24歳の小草信子さんが、1946年3月7日に誕生した。原子爆弾の炸裂によって、母親の胎内で約2月程度の胎児が、放射能による遺伝子障害を受けた。小頭症は頭囲が著しく小さい。爆心地より近距離からの早期の被曝による小頭症と、1967年9月7日に原爆症に認定された。重度の知的障害を伴って、児童程度の知能に留まって、日常生活活動と社会活動に支障を伴う。重複障害を伴って、先天性奇形により、生後から右足関節の機能全廃の障害を受けた。知的精神障害だけでなく、重度の身体障害も伴っている。24歳の女性であるが、身長は小学生程度の発育にとどまっている。
 広島市中局私書箱第119号に、原子爆弾の胎内被爆で原爆小頭症を受けた子供を持つ親達の18人と支援者らがきのこ会を結成している。アメリカが占領期に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)は、1952年には原爆小頭症を伴った16人の障害児を論文発表していた。広島における胎内被爆児の小頭症について調査と研究したABCCは、原爆小頭症を患う子の親には、妊娠中の栄養失調が原因であると説明していた。1957年の原爆医療法の対象から除外されていた。当事者らが広島研究会の調査により、1965年に原爆小頭症の科学的根拠である1952年の学術英語論文を発見した。1965年に、18人の原爆小頭症を患う子と親のきのこ会が結成された。きのこ会の関係者らの社会運動によって、1967年に日本政府は原爆小頭症と原子爆弾の因果関係を認めて、被爆者手帳を交付した。
 きのこ会の名称の由来は、「きのこ雲の下で生まれた命。たとえ日陰で暮らしいようとも、落ち葉をおしのけ成長するきのこのようにすくすくと育ってほしい」と親子と支援者の願いであった。原爆小頭症のきのこ会は、被爆者と障害者であることに対する二重の差別に苦悩した。

 


 

2021年4月23日金曜日

日露戦争の奉天会戦中に、李官堡の戦いにて殺害されて累々と散乱した軍隊兵士の死体を通り過ぎながらロシア軍を追撃した。

日露戦争の奉天会戦中に、1905年3月7日の李官堡(りんかんほ)の戦いにて、殺害された軍隊兵士の死体が累々と散乱した。その多数の死体を通り過ごしながら、日本軍兵士らはロシア軍を追撃した。日本軍は、奉天から西方に約120kmに位置する李官堡から、直路にて奉天城に迫った直後に、李官堡から北方にロシア軍を侵攻した。李官堡は、ロシア軍を迂回して包囲する中心軸をとなっていた。李官堡の戦いで、ロシア軍は日本軍の中心軸となる李官堡を襲撃した。
 猛烈な戦場となった李官堡の東方約2kmの干洪屯とその南側の3軒屋において、ロシア軍の包囲攻撃で、日本軍は崩壊して追い詰められていた。李官堡の戦いの三軒屋で戦死した吉岡友愛、日本軍の危機を報告できず自決した大越兼吉、遼陽会戦で武功した市川紀二の戦死が、ロシア戦争後に壮烈無比の忠勇美談を国民に浸透させて語り継がせた。
 しかし、一部のロシア軍は既に3月7日の早朝に李官堡から渾河まで撤退を開始していた。日本軍は、一部撤退を始めたロシア軍に対して追尾をして攻撃した。連日の戦闘で、日本軍は著しい損害を受けて、補給も不足して、寒気と過大な消耗で、疲労困憊した。3月8日も、ロシア軍から猛烈な攻撃を受けた日本軍は甚大な損害を受けて壊滅して混乱した。日本軍の総司令部は、追い詰められた日本軍を緩慢な長蛇の列と批判して、奉天付近のロシア軍に迅速で果敢な追撃を要求した。3月10日に、ロシア軍は、背後から日本軍に襲撃されて分断されて、奉天城の付近は大混戦に陥った。ロシア軍は、3月10日から本格的に北方に撤退を開始するも、失墜した日本軍はロシア軍に対する北方追撃は困難となった。 
 日露戦争にて、日本軍は旅順を陥落して、ロシア軍を追撃した。1905年2月21日から、中国満州の奉天(瀋陽)で、日本軍約25万人とロシア軍約35万人が、日露戦争で最も犠牲を伴った奉天会戦が勃発した。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、甚大な損失を伴ってロシア軍の追撃は困難となった。3月10日に、日露戦争の最大の犠牲で最後の奉天会戦は、ロシア軍が撤退して、日本軍が奉天城を占領して終結した。日本軍の死傷者は約7万(うち戦死者は約1万5000)。ロシア軍の死傷者は約6万(うち戦死者約9000、行方不明者約8000)、捕虜2万800にも達した。奉天入城した3月10日を祝勝する陸軍記念日なった。


 

2021年4月22日木曜日

ゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップの近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域にて、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。

アメリカの南北戦争のゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップ(Little Round Top)の近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域で、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。ゲティスバーグの近くの丘の中で、4人の南軍兵士が戦死していた。
 リトルラウンドトップは、ペンシルベニア州ゲティスバーグの南にある2つの岩だらけの丘のうち小さい方である。ビッグラウンドトップという名前の隣接する背の高い丘の同類である。北軍と南軍の双方は強烈な銃撃を続け、繰り返しの突撃と反撃を行った。南北戦争中のゲティスバーグの戦いの第2日目である1863年7月2日に、南軍による北軍の左翼への攻撃が失敗した戦場であった。
 リトルラウンドトップの戦いは、北軍の軍団によって首尾よく防御された。大佐は戦闘中に致命傷を負い5日後に死亡した。チェンバレンが指揮した北軍のメイン州志願歩兵連隊は、南軍に対して血なまぐさい会戦を戦った。弾薬が枯渇して、固定銃剣で反撃を命じられて、劇的な下り坂から降りて銃剣で南軍に突撃して、混乱した南軍はリトルラウンドトップから降伏に追い込まれた。リトルラウンドトップを保守した北軍の戦いは、ゲティスバーグの戦い中で、南北戦争全体の中で最も重要な交戦の1つになった。南軍がすでに消沈した北軍を打ち砕き、北軍政府を南北戦争の和平交渉のテーブルに押しやる可能性が消滅した。
 リトルラウンドトップで北軍に従軍していた約2,996人のうち、約134人が戦死、約402人が負傷、約29人が行方不明となった。南軍の犠牲は、約4,864人のうち、約279人が戦死、約868人が負傷、219人が行方不明となった。


2021年4月21日水曜日

ウクライナの首都キエフにて、ソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。

ウクライナの首都キエフにて、1919年にソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。その地区は、ボリシェヴィキによるテロルの拠点であった。ソビエト赤軍は、ウクライナのボルシェヴィキは、プロレタリアを独裁者の敵として虐殺した。ウクライナのボルシェビキによる犠牲者らは、裸にされて切断されて虐殺された死体を土中に埋められていた。
 1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、首都キエフであるウクライナ人民共和国と、ソビエトおよびその傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国との間で、ソビエト・ウクライナ戦争が勃発した。ロシア革命後に起こった紛争で、ソビエト赤軍派の勝利で終わった。戦争中にはウクライナ人が著しい虐待と虐殺を受けて、約10人に1人が殺害された。1922年12月にウクライナ社会主義ソビエト共和国は、ソビエト連邦に取り込まれて支配された。
 第一次世界大戦中に、1917年の2月革命にてロシア帝国が崩壊した。その後に1917年7月に,ウクライナでは中央ラーダ政府が誕生した。ロシアは10月革命を経て、革命左派により臨時政府が樹立した。中央ラーダ政府は1917年11月に「ウクライナ人民共和国」の建国を宣言した。ロシアの臨時政府と中央ラーダ政府は、ウクライナの自治領域の拡大を巡って対立した。ロシア・ソビエト政権はウクライナ人民共和国を認めず、1917年12月ウクライナにソビエト赤軍を派遣した。それ以後約4年間にもわたるウクライナ・ソビエト戦争に突入した。
 ウクライナの首都キエフを放逐された中央ラーダ政府は、1918年4月にドイツ帝国が介入して締結して抵抗した。1919年2月から1921年3月までのポーランド・ソビエト戦争に対するリガ平和条約により,ウクライナ人民共和国の領土は、ポーランドとソ連に分割・解体されて支配された。
 一方で,ロシア・ソビエト政府の支援の下で,1919年第3回全ウクライナ・ソビエト大会で、ウクライナ社会主義共和国が成立した。1922年12月に,ソビエト連邦を構成する共和国となった。また,クリミアにおいても,1917年12月にクリミアのタタール人を中心とする世俗国家「クリミア人民共和国」の建国を宣言するも、1918年1月にロシア・ソビエト政府により占領されて滅亡した。



2014年3月16日に、ウクライナにおけるクリミア半島のクリミア自治共和国は、「共和国政府」による違法な「住民投票」を実施をした。ロシア編入をクリミア住民の約96.6%も支持したと誤報した。ロシア軍は2014年3月18日にクリミアを「併合」した。ウクライナ政府はこれをロシアの武力による違法占拠とし承認していない。その後、東部でも情勢が不安定化し、武装勢力等が地方行政府各施設を占拠したことを受け、ウクライナ政府軍と武装勢力の戦闘が開始された。クリミア危機とウクライナ東部紛争は現時点も継続している。

2021年4月20日火曜日

アメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、連合軍司令部はアメリカ軍幹部に多数の囚人の死体を視察させた。

アイゼンハワー連合軍総司令官は、1945年4月4日にアメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、多数の囚人の死体を4月12日に視察した。ナチス・ドイツのホロコーストの認否を防ぐために、軍関係者を含む近隣のすべての連合軍の要員に対して強制収容所を通過して視察するように命じた。
 アメリカ軍兵士はナチス・ドイツの残虐行為の恐怖を免れなかった。アメリカ軍が最初に解放したナチスの強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の支部であったオーアドルフ(Ohrdruf)強制収容所が1945年4月4日に解放された。アメリカ軍によって解放された後に、4月12日に連合軍総司令官であるドワイト・D・アイゼンハワーがオーアドルフ収容所を視察して、近隣のすべてのアメリカ軍幹部にオーアドルフ強制収容所の視察を命令した。1937年から1945年の間に約25万人が、ブーヘンヴァルト強制全収容所に投獄されて、恐らく約11,000人のユダヤ人を含む少なくとも約56,000人の囚人が虐殺された。
 アメリカ軍はさらに4月11日になって、オーアドルフ強制収容所部の本部であるドイツのワイマール州にあるブーヘンヴァルト(Buchenwald)強制収容所を解放した。強制収容所に到達した時には、取り巻く厚い有刺鉄線の柵を突破した。囚人が恐ろしい死の収容所から逃げるのを防ぐ柵は電気で熱くなっていた。柵を突破すると、予期せぬナチス・ドイツ軍兵士は退散していた。強制収容所を偵察すると、火葬場となった大きな煙突のある複数の建物を目撃した。収容所の建物に近づくと、やっかいな目付きをした囚人を横切った。囚人らは極度の飢餓で皮膚と骨であった。収容所を通り抜けるとき、ホロコーストの犠牲者の集団墓地にて恐ろしい光景に遭遇した。集団墓地は、高さ約1.5mの裸の死体の山、悪臭と恐ろしい臭いが充満していた。死体は薪のように積み上げられ、強制収容所の全域に散らばっていた。毒ガス室に連行されて殺害した方法にアメリカ軍兵士はショックを受けた。
 アメリカ軍がブーヘンバルト強制収容所を解放した時には、約21,000人の衰弱して飢えた囚人と死体の山を発見した。アイゼンハワーは、「雌犬の息子が、これは決して起こらなかったと言う日が来るだろう」と思い込み、できるだけ多くの兵士に強制収容所を視察されたいと思った。軍人にその恐怖を目撃するように命じた。強制収容所の犠牲者にはユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人の囚人にも残虐行為があった。その他のナチス強制収容所が解放された時、多くのアメリカ軍兵士は 目撃した恐怖に感情的な心的外傷後症候群を負わされた。涙、悲鳴、否定、そして憎しみが含まれた。死の強制収容所で、囚人が扱われ、殺され、埋葬された野蛮な方法は、非人道的であった。囚人の解放は、ホロコーストの壊滅的な影響の一部を和らげても、悲劇的な出来事は永遠に悩まされる。

2021年4月19日月曜日

イギリス艦隊は、旧式のアレクサンドリアの要塞に砲撃して爆破して、エジプト軍兵士が要塞で殺害されて多数の死体が散乱した。

エジプト軍は、イギリス艦隊に対して旧式のクルップ砲でアレクサンドリアの防御を強化した。イギリスの地中海艦隊は、1882年7月11日から13日にかけて、要塞化したエジプトのアレクサンドリアを砲撃した。イギリス艦隊は、時代遅れの要塞に向けて砲撃して爆破した。多数のエジプト軍兵士が砲撃された要塞内で殺害されて、多数の死体が散乱した。イギリス艦隊からの砲撃が、アレクサンドリアの都市部に命中して、民間市民を殺傷した。多くの建物を損傷して、地域に火災を引き起こした。火災が発生して、大混乱して、略奪、放火により、都市部は燃え尽きた。(アレキサンドリアの砲撃を約50ページのアルバムで記録した) 
 スエズ運河が1859年から1869年にかけて開通した以降に、イギリスにとってエジプトの重要性は劇的に高まった。イギリスとインドの移動時間が約半分に短縮された。1805年以降は、エジプトをオスマントルコ帝国が支配していた。エジプトは多額の投資で財政破綻に陥り、1875年にスエズ運河会社の株式をイギリスに売却した。エジプトのウラービー陸軍大臣が、1882年1月にクーデターでエジプトを軍事政権に転換した。エジプト軍事政権は、スエズ運河を占領するイギリス艦隊に対抗するために地中海沿岸のアレクサンドリアを要塞化した。1882年6月11日に、ロバの運賃をめぐる争いがアレクサンドリア市内で暴動を引き起こした。約50人の外国人を含む数百人が殺害された。
 イギリス軍は7月13日にアレクサンドリア砲撃した直後に上陸した。スエズ運河の利益を保持して、ウラービー反乱によるアレクサンドリアの無政府状態を鎮圧した。アレクサンドリア上陸から9月6日までに、イギリス軍約24,000人とインド人部隊約7,000人がエジプトに集結した。アレクサンドリアとスエズ運河の間のテルエルビルで、エジプト軍と戦闘が9月13日に勃発した。イギリス軍が9月14日にカイロを占領して、イギリス軍は、ウラービー革命を鎮圧した。エジプトは1914年から1922年までイギリスの保護領となった。1936年にエジプトは独立したが、第二次世界大戦後もイギリスにスエズ運河は支配された。エジプトはスエズ運河を1956年7月26日に国有化して、スエズ危機が勃発した後に支配下に置いた。


 

2021年4月18日日曜日

湾岸戦争の終結の直前にイラクの南東部の死のハイウェイの砂漠の路上にイラク軍兵士の仰向けに死体が残存した。

湾岸戦争にて1991年2月25日から26日にイラクの南東部で、イラク軍兵士が殺害されて、砂漠の路上に仰向けに死体が残存していた。1991年2月25日から26日に、死のハイウエイを撤退するイラク地上部隊を標的に攻撃した。クウェート市外約8kmからイラク国境のすぐ手前の約80kmまでくすぶった約1,800台の車両から残骸と死体が放棄された。約10,000人のイラク軍兵士が攻撃されて、数千人のイラク人が死傷した。
 湾岸戦争は1990年8月2日から1991年2月28日まで勃発して、イラク軍に対して約30カ国の連合軍を率いるアメリカ軍が戦闘をした。クウェートがイラク国境を越えて石油を不法に掘削したイラクの主張に続いて、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻した。戦闘は、イラク、クウェート、およびサウジアラビアの国境地帯に限定された。イラク軍は、クウェートの女性、子供、障害者を含む約1,082人の民間非戦闘員を殺害した。
 国連安保理決議が11月29日に可決した決議678で、イラクに1991年1月15日の撤退期限を与え、決議660ですべての武力手段を承認した。1991年1月12日、アメリカ議会はイラクをクウェートから追い出す軍事力を承認した。撤退期限直後に、砂漠の嵐作戦の空中作戦を執行し、1991年1月17日の早朝から1日あたり1,000回以上の出撃を開始した。
 ペルシャ湾岸戦争は、甚大な殺傷力を保持する精密誘導爆弾、クラスター爆弾、BLU-82、巡航ミサイルなどが空中作戦で使用された。1月23日に、イラクの石油タンカーが攻撃されて約100万トンの原油がペルシャ湾岸に流出した。劣化ウラン(DU)は、湾岸戦争で初めて対戦車砲として戦場で使用された。DUは、腎毒性および催奇形性もたらす重金属および化学毒物であった。湾岸戦争の退役軍人は先天性欠損症の子供が1.8(父親)から2.8(母親)倍に高まった。1991年2月13日、レーザー誘導された2つのスマート爆弾が民間イラク人が住宅地帯に投下されて犠牲となった。2月26日からイラク軍は国境を超えて撤退して、アメリカ軍はクウェートのすぐ西のイラク軍に装甲攻撃を開始して、イラク南部の無防備な砂漠地帯に大規模な空襲をした。アメリカ軍は2月27日にクウェートが解放されたと宣言した。 
 アメリカ軍における湾岸戦争空軍力調査(1993年)では、推定で約10,000人から約12,000人のイラク人が死傷した。さらに約2,300人の民間イラク人が湾岸戦争に巻き込まれて死傷した。アメリカ商務省の国勢調査局は、連合軍によって殺害されたイラク人男性は86,000人、女性は39,000人、子供は32,000人と推定した。約2,000人のイラク軍軍隊が降伏した。しかし、1991年2月24〜25日の2日間の暴動中に数千人のイラク兵を生き埋めにした。湾岸戦争は大々的に放映され、世界中の人々が初めてミサイルが標的に命中し、戦闘機が空母からの離陸を生放送してアメリカ国民は興味本位で興奮した。
  1990年8月にイラクがクウェートに侵攻した後に、アメリカ軍は南西アジアで大規模な軍事力の動員を行った。大規模な参戦とペルシャ湾岸戦争の短期間の終結により、アメリカ軍の軍事的犠牲者はイラク軍に比較して極小であった。アメリカ国防総省により構築された世界的な死傷者システムから、死傷者数を抽出した。アメリカ軍の死傷者数は219人(男性が212人と女性が7人)のうち、154人が湾岸戦争の戦闘で死亡した。65人が戦闘以外の原因で死亡した。戦闘による死亡のうち35人は、同士討ちの結果であった。全死傷者の83%は白人であり、全死傷者の平均死亡年齢は26.9歳であった。
 
 

2021年4月17日土曜日

4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが左顔面と両手に後遺症が残った16歳の少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成するために、16歳時に広島原爆病院に入院した。

広島原子爆弾が1945年8月日午前8時15分に投下されて、炸裂によって膨大な広島市民が被爆した。4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが、左顔面と両手に後遺症が残った。 被爆した少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成してもらうために、1957年5月12日に16歳時に広島原爆病院に入院した。入院してから、熱傷とケロイドを、大腿部からの植皮の手術によって形成した。

   金時さんというニックネームの少女は、約4歳の時に、爆心地から約2kmの広島市福島南の自宅で、縁側に腰掛けた時に被爆した。意識を失って、他の家の下敷きになった。近所の知り合いに助け出された。1957年5月12日に、広島赤十字原爆病院に入院して形成手術を受けた。左頸部、左前頸部、右肘関節の瘢痕など合計9回の形成手術を受けた。10月21日の大腿部から患部への皮膚の植皮術後には、絶対安静が必要なので、帯紐でベッドに縛り付けられた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。両方の大腿の皮膚を移植のために皮膚を引剥いで、その傷跡が残存して、醜くなった。少女が大人になるに従い、瘢痕や傷跡な人知れず悩むことが手紙に示唆された。12月14日に少女はまずは退院した。

 広島原爆病院は1954年に、1955年度のお年玉くじ付き年賀はがきの利益の一部が配当された。広島赤十字病院の構内に、広島原爆病院が設置された。1956年9月20日に開院した。長崎にも、1958年5月に、お年玉年賀はがきの利益の一部の配当で、原爆病院が設置された。  1957年当時は、病院の内科病棟には白血病の患者、外科病棟には瘢痕の形成手術を受ける若者も多かった。1967年頃になると、内科病棟が担当する悪性腫瘍や癌の患者が多くなっていた。
 

2021年4月16日金曜日

ベトナム戦争で、アメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の水しぶきの出血で覆われた。

ベトナム戦争の戦場で、1966年10月頃にアメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の明るい水しぶきの出血で覆われた。アメリカ軍兵士は即座に彼の腕を固定して、中国製の軽自動小銃を奪った。アメリカ軍兵士が激しく戦闘したベトコン兵士を首をつかんで引き上げた。ベトコン兵士は頭から血がにじみ出ていた。彼は息を切らして、すぐに気を失って、その直後に彼は死亡した。アメリカ軍兵士は彼を溝に蹴り出した。
 水田地帯を横切って、アメリカ軍の戦車部隊は砂丘に広がる薄い森に入って、無線で部隊とヘリコプターと連絡を取り合った。空中から砲撃している爆撃機から偵察すると、南ベトナム解放戦線(NLF:National Liberation Front)が隠れていた地域をかなり近隣に見えた。ベトナムの薄い森は、杉と広葉樹の椿で構成された。アメリカ軍兵士はすでに戦闘の中心的な領域にかなり深く入っいた。銃声はかすかに聞こえて、戦車の轟音に圧倒された。
 ほぼ同時に、自動小銃の弾丸の跳ね返りが、戦車から聞こえた。ゴムボールのように戦車に跳ね返った。ベトコンによる攻撃により、アメリカ軍兵士が戦車から転落した。ベトコンが木々の上から発砲した。アメリカ軍兵士は、必死に機関銃で射撃して、加熱された薬莢が周辺に散らばった。木々から狙撃された直後に、不用意には外を覗けなかった。前日には戦車が、ロケット砲弾に襲われて、戦車内に留まったアメリカ軍兵士が殺害された。時々に立ち上がっては、ベトコンを覗き見した。継続的に機関銃を撃ち続けて、戦車部隊は薄い森に広がる農地まで達した。そこには3つの孤立した農家があった。主婦のベトナム人女性が通り過ぎて、戦車を冷酷に見つめた。悲惨な一戸建ての小屋があった。アメリカ軍兵士とベトコン兵士たちが混乱の中で、戦場は並外れた悲惨な光景であった。5つの戦車は分散しながら、ベトコンを砲撃した地域に多数の色付きの煙の殻が落下していた。戦車は標的に向かって、機関銃の射撃を行った。砲手の座席は、戦車の外側にあり、厚い鋼板で保護された。戦車の中は日焼したアイロンの灼熱で、スチームバスでたっぷりと汗をかいた。武装したベトコンを射撃するために、戦車は地面に止まった。アメリカ軍兵士たちは戦車から飛び降りた。手前の約5mに農場と歩道の間の溝に、2人のベトコンが上下に転倒していた。彼らはまだ生存して、お腹を上にして転倒した。アメリカ軍兵士が近づいて、自動小銃を彼らに向けると、1人のベトコンがふらつき不安定に立ち上がった。
 黒人のアメリカ軍兵士はもう一人の重傷を負ったベトコン兵士を助け、彼に治療を施した。戦車の中で唯一の黒人であった。負傷したベトコン生存者を腕に抱いて戦車に戻した。血を大まかに拭き取った後に、戦車に入れるのを手伝おうとした。しかし、警官であるPIOは拒否し、負傷した身体を戦車の端に置くように命じた。黒人の兵士は命じられたとおりに行動した。端の幅はわずか約60cmで、土嚢で覆われた。ベトコン兵士は横になって、頭部から血が流れ続けた。淡い表情で、目が空いていた。彼は15歳か16歳の無実の少年であった。司令部から、より強力なベトコン部隊が近くで発見されたと報告された。戦車部隊は、重傷を負った少年兵士が端に横たえてサトウキビ畑を駆け抜けた。黒人のアメリカ軍兵士はベトナム人の少年の腕を持って脈を取って、救急箱から包帯を取り出して、「まだ生きている!」と言った。出血が戦車に滴り始めて、男子の真下に座っていると、すぐに帽子と腕に血が飛び散った。