2023年11月11日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病で、 広島市基町の母子療で死亡した。母親が原爆病で死亡して孤児となった子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病のために、 広島市基町の母子療で死亡した。母親は原爆病で死亡して孤児となって残された子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。広島原子爆弾が炸裂して母親が被爆した当時は男子は約二歳で、広島原子爆弾のことは何も知らず記憶になかった。原子爆弾の被害は戦後になってもまだ続いていた。

 母子寮は、18歳未満の子どもを養育している母子家庭等の女性が、子どもと一緒に安心して生活し、自立できるように生活・住宅・養育・就職など総合的な支援を行う児童福祉施設である。入所の要件は、配偶者のいない女性または、これに準ずる事情にある女性で、生活上の色々な問題を抱え、児童の養育などで支援が必要な母子である。児童福祉法にて、配偶者の無い女子またはこれに準ずる事情にある女子およびその者の監護すべき児童を入所させてこれらの者を保護するとともに、これらの者の自立の促進のためにその生活を支援し併せて退所した者について相談その他の援助を行うこを目的とする施設である。1998年児童福祉法第38条改正によって母子寮から母子生活支援施設へと名称が変更された。

 母子寮は、1929年の世界大恐慌後の社会不安の中、1932年に施行された救護法で法律に位置づけられた(救護法第十二条 幼者ト併セ其ノ母ノ救護ヲ為スコトヲ得)。1938年に厚生省が設置され、母子保護法により規定された。第二次世界大戦後、混乱する社会の中で、着の身着のままで荒廃の中をさまよう母子の保護が、社会的に大きな課題となった。1949年の国会で、「授産場、母子寮、保育所を増設すること」決議がなされ、1947年に212か所の母子寮は、母子生活支援施設は2023年に215か所、定員4,441世帯で現員は3,135世帯で減少傾向となった。終戦当時は戦争で住宅を失ったり、夫の戦災死による死別母子家庭が圧倒的に多かった。「屋根、寝る場所と住む場所」と、戦争で夫を失い、家を失い、家族を失った、切実な課題の母子に、母子寮が戦後の母子家庭対策と支援した。戦後の時代に入ると、「死別母子家庭」から、離婚などを理由とする「生別母子家庭」が増加して、住居課題から、複雑で多様な生活課題の利用が増加した。