2021年12月31日金曜日

1944年9月4日に拉孟の横股で籠城した日本軍は、最後に手榴弾や昇汞で自殺して、籠城内で兵士13体と慰安婦2体の死体が散乱した。

中国雲南省の拉孟にて1944年9月6日に日本軍が全滅して、日本軍兵士の死体の約106体が遺棄された。その中に女性の死体の約6体も含まれた。1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。15体の死体の中には、2体の慰安婦の女性死体が含まれた。横股陣地では、重傷兵で溢れてうめき喘いだ。毒薬である塩化水銀である昇汞の服薬あるいは手榴弾で自殺した。慰安婦には昇汞が配られた。

 1944年初頭からのインパール作戦で、日本軍が連合軍に惨敗した。連合軍は北ビルマのミチナ方面には5月17日から、雲南方面には5月11日から日本軍に反攻した。連合軍の北ビルマ反攻は、ベンガルからの鉄道の終点である北ビルマのレドから、アラカン山系からミチナ、中国の雲南省に入る騰越、拉孟、保山、昆明に至る補給ルートの再開を目指した。駐インド軍と中国国民党軍が、飛行場があるミチナと雲南の両方面から攻撃した。北ビルマ方面と雲南方面の防御のために、日本軍は北方の騰越と拉孟の周辺で完全に孤立して手薄になった。やがて中国軍の反攻に対して、日本軍は籠城戦をするも、9月8日に拉孟、9月14日に騰越が、最終的に全滅した。

 ビルマロード上の拉孟にて、1944年9月3日に中国国民党軍は4人の朝鮮人女性と2人の日本人女性の6人の日本軍の慰安婦を獲得した。拉孟の近郊で日本軍が最後に立て籠もった松山で、日本軍慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。日本軍慰安婦の年齢は、24歳から27歳であった。1942年4月に日本軍の官憲が朝鮮の平壌で、18人の朝鮮人女性は挺身隊の募集に応募して徴集された。日本軍慰安婦として、ビルマのラングーンから北方の最前線に強制連行された。拉孟の慰安所は1942年末から裏山陣地に設置された。日本軍が拉孟に籠城して全滅に巻き込まれた慰安婦は手榴弾で虐殺された。

 拉孟の横股陣地から、数人の慰安婦が脱走した。その中に、妊娠した朝鮮人女性の朴永心も含まれた。地獄で惨死を逃れて生き延びて、山を下って川の方へ逃げて、とうもろこし畑で、中国国民党軍に保護された。朴永心は、妊娠した大きな腹で流産しかけて切迫流産となり、処置を受けるも死産となった。その後に日本軍慰安婦は昆明捕虜収容所に連行された。収容所では、朝鮮人女性25人のうち23人は慰安婦であった。そのうち約10人の慰安婦が、拉孟の周辺から中国国民党軍に捕獲された。朴永心は北朝鮮に戻るも罪人として恥を忍んで耐えて苦難した。北朝鮮の対策委員会が1992年8月から日本政府に対して朝鮮人慰安婦の補償を訴えた。1993年8月4日に、日本政府の河野洋平内閣官房長官は、慰安婦関係調査結果発表に関する談話で、日本軍の関与を認めて、おわびと反省を表明した。北朝鮮で朴永心は補償もされず85歳で2006年8月7日に死亡した。



1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍兵士は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。




中国雲南省の拉孟の近郊の松山で、日本軍の慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。


2021年12月30日木曜日

1927年3月に北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。

満州の奉天派の軍閥であった張作霖が1926年12月に北京政府の代表となり、1927年3月から北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、虐待と虐殺をした。斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。北京の群衆も、断頭された頭部を興味と恐怖にかられて見上げた。共産主義者の弾圧と粛清のために、木製の首かせをはめられて、公開のさらし首にされた。張作霖は3月3日に、過激化する共産主義を防ぐ為に国民革命軍と戦闘する意思を国内外に示した。国民党軍も、1927年4月に上海で共産党を弾圧と粛清して、1927年7月からは武漢にても共産党の弾圧と粛清をした。

 1927年4月12日に中華民国にて蒋介石の国民党軍が、労働組合連合である上海総工会の武装労働者が、3月22日に上海で起こした暴動に対して、労働者と共産党員を粛清する四・一二反革命政変と呼称される上海クーデターを起こした。1927年3月下旬に、上海では第3次労働者武装蜂起が勃発した後に、国民党軍は上海に入り、治安上有利な地域を占領した。その後に、蒋介石は上海に赴き、4月上旬に反共秘密会議を開き、直ちに暴力的手段で共産党の粛清を行うことを決定して、共謀して反革命クーデターを準備した。4月11日の夜に、蒋介石は密かに占領した全省にて共産党を粛清せよと命じた。4月12日の早朝に、蒋介石から買収された武装青年団が労働者を装って、各地に駐屯する労働者のストライキを襲撃して対抗した。4月13日の朝、上海総工会は、閘北の青雲路広場で約10万人の労働者を集めて大集会を開いた。労働者の行列が宝山路に達したところで、国民党軍に虐待と虐殺されて、約100人以上が死亡して、無数の人々が負傷した。その後も、蒋介石の国民党軍は共産主義者や革命的大衆を逮捕して、虐殺し続けた。わずか約3日間で、約300人以上が虐殺されて、約500人以上が逮捕されて、約5,000人以上が行方不明になった。上海クーデターにより、共産党と労働者の粛清につながり、統一された南京国民政府が樹立された。

 1928年4月から蒋介石は中国国民党軍を率いて、上海クーデターで頓挫していた北京の軍閥政権を打倒する北伐を再開した。1928年5月の山東省済南で日本軍に武力衝突した。国民党軍は、済南を迂回して北上して、北伐を継続した。6月4日に満州奉天派であった北京政府の張作霖政権は撃破されて、北京から張作霖が逃亡中に日本軍により爆殺された。中国国民党軍は6月15日に北京を占領して、北京政府は消滅して、中国国民党は中国統一を宣言した。 




2021年12月29日水曜日

ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。

 ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。殺害された日本軍兵士の死体が道端に散乱して、連合軍兵士が見回りながら検死した。海からの砲撃と空から爆撃、戦車と火炎放射器からの武力に支えられたオーストラリア軍は、日本軍守備隊を圧倒し、ラブアンに残っていた抵抗勢力を一掃した。ラブアン島の戦いに引き続く数日間に、オーストラリア軍のパトロール隊はラブアン島に残っていた日本軍兵士を殺害したり、捕獲した。ラブアン島での日本軍の戦死者は約389人、捕虜は約11人であった。オーストラリア軍の死傷者は約34人で、負傷者は約93人であった。

 ラブアンの戦いとは、1945年6月10日から6月21日まで、ボルネオ島沖のラブアン島で行われた連合軍と日本軍の戦いである。ラブアン島の戦いは、オーストラリアの北ボルネオ侵攻作戦の一環で、ブルネイ湾を攻略して侵攻拠点とする作戦であった。ラブアン島を占領した6月21日から、連合軍は周辺地域をパトロールして、日本軍を排除した。各部隊はラブアン島の異なる地区に割り当てられて、7月中旬までに任務を完了した。パトロール中に、主に6月24日のBBCAU施設への襲撃を撃退するために、パトロール戦隊は約27人の日本軍兵士を殺害して、1人の囚人を捕らえた。

 太平洋戦争の勃発した直後1942年1月3日に、日本軍はボルネオの戦いで抵抗もなくラブアン島を占領していた。数週間にわたる空爆と短期間の艦砲射撃を経て、1945年6月10日に、アメリカ軍とオーストラリア軍の艦船からラブアン島に上陸した。オーストラリア軍はすぐにラブアン島の港と主要飛行場を占領した。多勢に無勢の日本軍守備隊は、主にラブアン島の内陸部の要塞に集結して、上陸にはほとんど抵抗しなかった。侵攻から数日後に、オーストラリア軍が最初に日本軍の陣地に侵入したが奏功せず、この地域は激しい砲撃にさらされた。日本軍の遊撃部隊も6月21日に連合軍の陣地を攻撃したが、撃破された。6月21日のうちにオーストラリア軍は日本軍の陣地を襲撃した。ラブアン島を確保した連合軍は、ラブアンを重要な拠点として整備していった。オーストラリア軍は6月下旬に、ラブアン島からブルネイ湾の東岸を攻略するのに、飛行場はオーストラリア空軍部隊を受け入れるために修理・拡張された。ラブアン島を占領している間、連合国は島のインフラを再建し、侵攻前の砲撃で家を失った数千人の民間人を支援した。




2021年12月28日火曜日

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。日本軍が捕虜収容所にした疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬の死体が発見された。ダバオ刑務保留地は、1932年1月21日にフィリピン南部のミンダナオ島に約30,000ヘクタールもの土地に開設された。1941年12月7日に太平洋戦争の勃発した直後に、日本軍が約1,000人の日本人を収容したとフィリピン憲兵隊がアメリカ軍に報告した。1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した時に、多くの警備員はただ逃げ出し、多くの囚人が混乱の間に逃げた。日本軍のフィリピン占領期間中に、捕虜収容所として利用された。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオ刑務収容所に拘束された。捕虜は、この時期に日本軍が運営した捕虜収容所で厳しく扱われた。

 バターン死の行進の生存者から、アメリカ軍は1942年4月に連合軍が降伏した後に、日本軍が犯した残虐行為を知った。強制行進に強要された人々のほとんどは、ルソン島のさまざまな場所で捕らえた。捕虜はマニラの南からルソン島の北にあるさまざまな収容所まで、熱帯の太陽の下で5日から12日かけて約100km歩かされた。斬首、銃撃、殴打は、バターン死の行進の試練の間に、水や食料をほとんど使用せずに行進されられた連合国の捕虜の多くにとって、その日の日課となった。娯楽のために、日本軍兵士は何人かのフィリピン人に生の埋葬さえ強制した。アメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人死亡した。マニラ北部のいくつかの刑務所収容所に配置されて、生存は引き続き困難となった。

 バターン捕虜のほとんどは、カパスのキャンプオドネルとカバナトゥアン周辺の3つのキャンプという2つの収容所に収容された。キャンプオドネルでは、収容が始まってから数週間で、毎日約50人以上のアメリカ人が死亡した。19キャンプカバナトゥアンでは、最初の2か月で約1,200人以上が死亡した。死者を埋葬することは、食料や水がほとんどない状態で存在していた生存者にとって、日常の作業になった。病気で衰弱した状態で、連合軍の捕虜は集団埋葬のために塹壕を掘り、死体を埋葬地に運び、その他のさまざまな仕事に従事することを要求された。オドネルに入った約7,000人のアメリカ人のうち約2,000人が最初の6週間で死亡した。同時に、約28,000人のフィリピン人兵士が死亡した。ほぼ同数のアメリカ人を収容していたいくつかのカバナトゥアン収容所では、状況は良くなかった。カバナトゥアンから移送された約1,000人の囚人は、すでにアメリカ人で埋め尽くされていたダバオ刑務収容所に収容された。




2021年12月27日月曜日

朝鮮戦争中にアメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。

朝鮮戦争中に、アメリカ軍兵士は白い雪原の中の山岳部を北方に侵攻した。アメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。1950年10月19日に中国人民志願軍は凍てついた朝鮮半島に参戦して戦局は再び動いた。約10万人以上の中国軍が奇襲をかけて、アメリカ軍を最も過酷で辺鄙な土地に閉じ込められて、気温は常に氷点下25度まで下がった。極寒の地域で、爆発物やブルドーザーがなければ狐穴を掘ることもできない。戦闘員は土嚢の代わりに凍った死体を積み上げた。ブーツの中で足が凍り、氷の塊になる。弾丸の傷口も凍り、暖房の効いたテントに入るまで出血が止まらなかった。

 朝鮮戦争は、1950年6月25日、北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)が隣国の韓国(正式には大韓民国)に対して奇襲攻撃を行ったことから始まった。北朝鮮とソ連の予想に反して、米国は直ちに韓国に軍事支援を行い、国連安保理は北朝鮮に38度線までの撤退を要求する決議(国連安保理決議82)を採択した。マッカーサー元帥率いる国連軍は、最初の攻撃から数日のうちに大規模な反撃作戦を計画し始め、1950年9月のインチョン海戦でその頂点に立つ。インチョン攻略後、国連軍は北朝鮮軍を後退させ、首都平壌を占領し、鴨緑江で北朝鮮最北端の国境に到達した。1950年10月から11月にかけて、モスクワの密かな支援を受けて、数十万人の中国軍が北朝鮮に進駐し、韓国軍と国連軍を撤退に追いやった。1951年夏には、地上での争いは膠着状態に陥った。北朝鮮への空爆と局地的な戦闘や小競り合いは続いたが、その後2年間、両者の間で交わされた領土はほとんどなかった。1953年7月27日休戦協定に調印して紛争は終結した。休戦協定は、戦前の朝鮮半島の地理的分断を維持し、北朝鮮軍と韓国軍は軍事境界線の反対側で活発な警戒態勢を維持した。

 1953年の戦争終結後、国防総省は約54,260人、戦死は約33,643人とその他の死約20,617人の合計である。北朝鮮の国勢調査報告は、1950-53年の朝鮮戦争中に人口の20%を失った。人口は1948年の約9,368,592人から1953年には約7,425,939人まで減少した。北朝鮮の民間人死傷者の総数は約120万人であり、爆撃で約282,000人が死亡し、約796,000人が朝鮮南部に逃亡あるいは行方不明となった。残りの約80万人の人口減少は、朝鮮戦争と自然の原因による死亡の総数と朝鮮日報は報告した。朝鮮戦争の犠牲は "忘れられた戦争 "と呼ばれている。

 韓国軍は、戦死者は約227,800人、戦傷者は約717,100、行方不明は約43,500人、総死亡者は約984,400人の犠牲であった。中国軍の犠牲者数に関する広範な推定値は、約180,000人から約900,000人である。朝鮮戦争での中国軍兵士の死者数は、中国政府が公式な死者数を発表していない。朝鮮戦争が民間人に与えた影響は、特に悲劇的だった。朝鮮戦争による民間人の犠牲者は、死者、負傷者、行方不明者を合わせると、約3年間(1950-1953)で約300万から約400万人にのぼった。朝鮮戦争は、1960年、中国はソ連から離脱し、中ソ分裂の事件が起こり、すべての共産主義国の間に緊張が走った。




2021年12月26日日曜日

第一次世界大戦の西部戦線で、ドイツ軍兵士が1918年に殺害された死体が、爆発した強い衝撃波により、陥没した道端に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線末期の戦闘の余波によって、1918年にドイツ軍兵士が殺害された死体が、陥没した道端に散乱した。戦場には常に戦況によっては、戦闘で死亡したドイツ軍兵士の身なりが悪く、ズボンが欠損していた。爆弾が爆発したときに発生する強い衝撃波により、ゆるいズボンを吹き飛ばしたり、きつい軍服を粉々にした。

 1917年のロシアの二月革命と十月革命で12月3日にドイツは休戦協定を結び、東欧の大部分を獲得して、東部戦線から解放されたドイツ軍は、春にフランスに対して大規模な攻勢をかけた。1918年3月21日からドイツ軍は、西部戦線で春の大攻勢を開始した。ドイツ軍はアラスの南側約80kmの戦線で進撃を遂げ、連合軍を約60km後退させた。戦線が伸びきったドイツ軍は、アメリカ軍が大量に参戦して攻勢を持続できなかった。1918年7月からアメリカ軍の援軍を受けた連合軍は、百日攻勢により一連の持続的に攻勢した。7月18日に、フランス軍は約8万5千人のアメリカ軍の支援を受け、マルヌ河畔でドイツ軍を撤退させた。1918年8月に、連合軍はアミアンで奇襲攻撃を開始した。一連の戦闘でドイツ軍はさらに東方に押しやられ、ドイツ軍幹部は敗戦を認めていた。連合軍がドイツに侵攻する直前の1918年11月11日に、休戦協定が締結されて、西部戦線は終結した。フランス北部のコンピエーニュの列車車内で、ドイツ軍は降伏して、フランスとベルギーからドイツ軍の撤退に休戦した。多くのドイツ軍兵士は幹部に裏切られたと感じた。1918年11月11日午前11時に第一次世界大戦は終結した。1919年6月18日のベルサイユ条約は、ドイツに戦争の責任を認めさせ厳しい条件を課して、第二次世界大戦の遠因となった。

 第一次世界大戦において、連合軍兵士約42,612,810人のうちで、戦死者は約5,211,809人、戦傷者は約13,003,004人、行方不明は約7,754,719人、総死傷者数約22,165,219人が犠牲となった。中央同盟軍兵士約65,462,009人のうち、戦死者約8,598,009人、戦傷者約21,391,452人、行方不明は約7,754,719人、総戦傷者は約37,569,768人が犠牲となった。最も戦死者数が多くなったドイツ軍約11,000,000のうち、約1,773,700人が戦死して、約4,216,058人が戦傷して、約1152,800が行方不明者、総戦傷死者約7,142,558人の犠牲となった。




 

2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月24日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦で沖縄南部に撤退して、射殺されて死ぬまで戦った日本軍兵士死体を、アメリカ軍兵士が検死した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月24日と5月29日の撤退命令により沖縄南部に撤退していた日本軍兵士をアメリカ軍兵士が銃殺した。日本軍兵士が射殺されて死ぬまで戦った死体を、アメリカ軍兵士が検死した。殺人的となった日本軍兵士は死ぬまで死闘して自ら全滅した。戦傷者は負傷で死亡あるいは最前線に戻って殺害された。6月10日にも日本軍兵士は死ぬまで戦線を守り続けるよう命じられた。沖縄戦場は混乱状態となり、すべての日本軍兵士は上官の命令に従い、アメリカ軍兵士を巻き込んで死ぬまで戦った。6月22日に洞窟に閉じ込もって、狂気的に防御した日本軍兵士の生存者を一掃して、沖縄戦は終結した。

 沖縄戦にて、1945年6月前後からの日本軍は首里から退却は、アメリカ軍からの砲撃を受けながらも、豪雨に紛れて、夜間に沖縄南部に向けて脱出した。日本軍軍は、喜屋武半島の最後の防衛線に、約3万人近くの戦闘員を投入することが可能となった。これが不幸にも、数千人の沖縄民間人の死亡含む、沖縄戦の末期における最大の大量虐殺につながった。さらに、約9,000人の日本軍と約1,100人の民間兵士が援護した。約4,000人の日本軍兵士が飛行場の東側、小禄半島の沖縄海軍基地を見下ろす丘の中腹にある地下司令部に立てこもった。

 6月4日に、アメリカ軍が喜屋武半島への水陸両用の攻撃を開始した。6月13日に、地下司令部の手作りトンネルの中に立て籠こもった日本軍兵士約4,000人が全員が自殺して自決した。6月17日に、日本軍の残党が、糸満の南東にある島の最南端の小さな洞窟に押し込まれた。6月21日には一部の日本人が潜伏していたが、最後の抵抗は終わった。戦闘終了後、89号地の司令部で日本軍幹部は切腹して自殺した。「お前が死ねば、沖縄戦の真実を知る者は誰もいなくなる。一時の恥を忍んで耐えてくれ。これは君の陸軍司令官からの命令だ」幹部の矢原大佐のみが、沖縄戦で生き延びた最も上級な将校となり、後に『沖縄戦』という本を執筆した。6月22日に、アメリカ軍は、沖縄戦での組織的抵抗が終わったことを示す旗揚げ式を行った。6月23日には掃討作戦が開始されて、6月30日に終結した。

 沖縄戦の1945年4月1日から1945年6月22日まで続いた82日間の戦闘は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いとなった。沖縄戦で判明した死者は、沖縄県立平和祈念資料館にある「平和の礎」の碑に記載された。第2次世界大戦中に沖縄戦で死亡した一人一人の名前が記載された。平和の碑には約240,931人の名前が記された。内訳は、沖縄県民が約149,193人、日本軍兵士約77,166人、アメリカ軍兵士は約14,009人、その他、韓国人は約365人、イギリス人は約82人、北朝鮮人は約82人、台湾人は約34人となった。犠牲者数は、1945年3月26日のアメリカ軍の慶良間諸島への上陸から1945年9月2日の日本の降伏調印までの沖縄戦での死亡者に加えて、さらに満州事変から約15年間の太平洋戦争での全ての沖縄人の死亡者、太平洋戦争の前年と降伏した翌年まての戦争に関連した事件で沖縄で死亡者も記載された。除幕までに約234,183人の名前が刻まれ、毎年新しい名前が追加された。沖縄の民間人の死者のうち約4万人は、日本軍に徴兵されたり、洗脳されたため、戦死として統計された。



2021年12月23日木曜日

スーダンのウム・ディワカラートにて、イギリス・エジプト軍が手前にカリファ・アブダラ匕首長と右手にアフマド・ファディル将軍を殺害してスーダン軍の死体が散乱した。

スーダンのウム・ディワカラートにて1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍が手前に首長のカリファ・アブダラ匕と右手に将軍のアフマド・ファディルを殺害してスーダン軍兵士の死体が散乱した。処刑する戦いとなり、死体は広大な土地に均等に散らばっていた。イギリス軍のレジナルドウィンゲートとエジプト軍は、カリフとコスティの南西にいる約10,000人の軍隊を追い詰めた。その後の戦闘で、カリフは約1,000人の部下と共に殺害された。イギリス・エジプト軍は、わずかに約3人が死亡して、約23人が戦傷した。 

 1896年に、イギリス・エジプト軍がスーダンの再征服を開始した。アブダラヒは2年近く抵抗した。イギリス軍の攻勢により、1898年9月2日に新首都でのオムドゥルマンの戦いで、約52,000人のスーダン軍が壊滅して、撤退を余儀なくされた。イギリス軍の機関銃と一斉射撃により、スーダン軍の約12,000人が殺害されて、約13,000人が戦傷した。イギリス・エジプト軍側は、わずかに約48人の戦死と第382人が戦傷した。スーダン軍の残党を率いて南方に逃亡を続けた。1899年1月のコンドミニアム協定により、スーダンはほぼイギリスの保護領となった。多くのスーダン人はこれに憤慨して、1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍がマフディスト残党と交戦して、アブダラヒは殺害された。 

 アブダラヒは、1885年6月にマフディの突然の死後、ムハンマド・アフマドが創設したマフディ派の指導者の地位を継承した。自らをカリファト・アル・マフディ、すなわちマフディの後継者と宣言した。アブダラヒは、1885-1886年、1888-1889年、1891年に数回の反乱を鎮圧し、唯一の指導者になった。当初、マハディヤはジハード国家として、イスラム主義の軍事カリフ制で運営して、裁判はシャリーア法とマハディの戒律で執行した。その後に、アブダラヒはカリファとして、より伝統的な行政を確立した。マハディヤは、スーダン部族間の不和を乗り越えてスーダンを統一するために、自称イスラム主義の軍事カリフ制を維持するために、エチオピアとエジプトの一部にも侵略した。1899年からスーダンは、再びイギリス・エジプトの共同統治となった。1924年から再びスーダンの独立運動が勃発して、1954年に自治政府が発足して、1956年にスーダン共和国が独立した。






2021年12月22日水曜日

スターリングラード攻防戦を降伏して、何十万人ものドイツ軍兵士の犠牲の中で、一人のドイツ軍兵士の死体が横たわっていた。

ドイツ軍はスターリングラード攻防戦を降伏して、何十万人ものドイツ軍兵士の犠牲の中で、一人のドイツ軍兵士が死体となって横たわっていた。1942年11月23日に自らを史上最高の将軍と考えていたヒトラーは、次のようなメッセージを受け取った。「スターリングラードの南と西から攻めてくるソ連軍を、総力を結集して壊滅的に倒さなければ、ドイツ軍は最短で全滅に向かう。」と在留ドイツ軍総司令官パウルスから発信された。約30万人のドイツ軍兵士を従えて、スターリングラードでソ連軍に包囲された。しかし、ヒトラーはスターリングラードからの撤退を禁止した。1943年2月2日には、ドイツ軍兵士がソ連軍からの砲射撃を受けて、約30万人以上ものドイツ軍兵士が、戦死傷したり、捕虜になり命を落とし、かなりの人数のドイツ軍兵士が自殺した。ナチス・ドイツの独裁政権の軍事的な終焉が見えてきた。

 1939年9月1日にポーランドへの侵攻により、ドイツ軍は第2次世界大戦を勃発させた。ドイツ軍の戦車部隊がポーランドのドゥナジェック川を渡った。戦争が始まったばかりの頃、ヒトラーと将軍たちは、家畜商が一日の稼ぎを記録するように、軍事的勝利を記録した。総統は、帝国陸軍の2等兵だったにもかかわらず、自分が史上最高の指揮官であると考えた。ドイツ軍はポーランドで容赦なく侵略した。その後にドイツ軍はソ連に侵攻し、勝利の誇りを胸に、1942年8月23日からスターリングラードの攻防戦が勃発した。1942年11月23日に、ロシアにおけるドイツ軍司令官パウルスは、助けを得られなければ軍は消滅に向かうと発信した。スターリングラードで、ソ連の赤軍に包囲され、ロシア軍兵士がひたすら攻撃してきた。ヒトラーはドイツ軍の撤退を禁じた。ソ連の赤軍の砲撃で、何十万人ものドイツ軍兵士が死亡した。スターリンググラード攻防の敗戦により、ナチス・ドイツの終わりの始まりが迫った。 

 ヒトラーはあきらめようとは思わなかった。ドイツ帝国の宣伝大臣であるヨーゼフ・ゲッベルスが総力戦を宣言した。しかし、モロッコ、アルジェリア、シチリアには、すでに連合軍の部隊が上陸していた。資本主義のアメリカは、共産主義のロシアの連合軍となった。アメリカはソビエト連邦に軍需物資を提供した。当時、アメリカ軍とロシア軍が連合をして、大戦後には殴り合ったことが、東西ドイツの運命となった。ドイツの都市への空襲が頻繁に行われ、防空壕での恐怖と、戦争と経済物資の不断の生産が、家庭の人々の生活を追い込んだ。逆に、国内でも前線でも総力戦を目指す若者たちは、「ユダヤ人の体に包丁を忍ばせる。血は三角巾のように厚く流れなければならない、我々はユダヤ共和国の自由に糞をする。因果応報の時が来れば、どんな大量殺人にも対応できます」と、下品なナチスの叙情詩を臆面もなく享受していた。



2021年12月21日火曜日

第2次世界大戦のバルカン侵攻からクロアチア人のウスタシャ民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。

1941年にクロアチアの住宅の中に横たわる虐殺された家族全員の死体が散乱した。テロリストであるクロアチア人のウスタシャ(Ustaše: 蜂起する者)民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。その他にユダヤ人やジプシーも標的にした。ウスタシャは、徴兵年齢の男性だけでなく、特に無力な老人、女性、子供たちに対しても虐待と虐殺した。村全体が破壊され、セルビア人の犠牲者を切り刻むために使用された肉切り包丁、フック、斧なども使用された。

 ウスタシャは、1930年に設立されたクロアチアの超国家主義者、テロリスト、革命運動で、第2次世界大戦中は極めて活発に活動し、1945年に解散した。彼らは、何十万人ものセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反ファシスト、反体制派のクロアチア人とボスニア人を強制送還、強制移住、拷問、殺害した。彼らは猛烈な民族主義者で、ローマ・カトリック教徒であり、異質なものは誰でも迫害した。ナチスと違ったのは、ローマ・カトリックへの改宗を強制したり、国外追放や死を予告した。ウシュタシェは、正統派キリスト教とキリスト教を正しい宗教と考えた。多くのカトリック大司教らは、暴力に直接参加しなくとも、ウスタシャを賛美して、クロアチアの繁栄を確保する非情な措置に同意した。

 第2次世界大戦前にはテロ組織として宣言したが、1941年4月6日からの枢軸国軍のバルカン侵攻に伴い、ウスタシャは独立クロアチアとしてユーゴスラビアの大部分を支配するナチス・ドイツ傀儡国家となった。ウスタシャは占領軍であるドイツ軍やイタリア軍に進んで協力した。ナチスやイタリアのファシストと協力して、ユダヤ人、セルビア人(正統派キリスト教徒)、ユーゴスラビアのパルチザン、ロマなど、反体制派のグループを迫害した。1941年4月17日の国民と国家の保護法により、大量虐殺が正当化された。ウスタシャは、ナチスの幹部から野蛮とされ、特にウシュタシェは管理する収容所や虐殺で、残虐性と殺人欲に倒錯した。ウスタシェによって約30万人のセルビア人、約3万人のユダヤ人、約29,000人のジプシーをして、約30万人近くを国外追放して、約20万人が強制的に改宗させられた。

 大量虐殺は、バルカンのアウシュビッツと悪名の高いヤセノヴァッツ強制収容所で発生した。これは、ザグレブの南にある5つの収容所で、バルカン半島最大の絶滅収容所であった。この地域では最も悪名高い強制収容所であった。いくつかの収容所や虐殺は、司祭が指揮していた。ヤセノヴァツ強制収容所は、食料はほとんどなく、汚いバラックには害虫や排泄物があり、辺りには腐敗した死体が散乱した。囚人たちは死体を捨てていたサヴァ川から飲水させられた。ウスタシャは、第2次世界大戦末期の1945年5月9日にオーストリア国境近くでパルチザンと戦闘した。降伏したウスタシャ約40,000人を、ユーゴスラビア人民解放軍のパルティザンが銃殺して死体を溝に捨てた。




2021年12月20日月曜日

ルソン島パンガシナン州北部ビナロナンで、アメリカ軍の砲撃で日本軍の戦車兵士は戦車から飛び散って殺害されて炎上した死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のルソン島の戦いにて、アメリカ軍が上陸したリンゲ湾近隣であるパンガシナン州北部ビナロナンの西方約2kmで、日本軍とアメリカ軍の戦闘が1944年1月23日に勃発した。アメリカ軍の約100台の戦車が攻撃して、日本軍の戦車約40台が車体もろともに大破した。日本軍の戦車兵士は戦車から飛び散って殺害されて炎上した死体がジャングルに散乱した。日本軍の戦車の砲弾は、アメリカ軍の戦車の装甲を貫通できなかった。逆にアメリカ軍の砲弾は、日本軍の戦車の装甲を溶かすように貫通して炎上した。さらに、アメリカ軍の艦隊と戦闘機からも、襲撃された。連日のアメリカ軍の激しい攻撃から、1月下旬には日本軍は北方のバギオ山麓に撤退した。疲れ切った日本軍兵士は、這うようにジャングルの狭い道を上った。

 アメリカ軍は、ルソン島のパンガシナン州の近隣のリンガエン湾に1945年1月9日に上陸した。激戦は地元住民から家や田畑、家畜など財産を根こそぎ奪い去っていた。日本軍が突撃するも全滅を繰り返した。アメリカ軍は、戦車、迫撃砲、火炎放射器などで日本軍兵士を掃討した。アメリカ軍は空からナパーム弾を投下してジャングルの森林を焼き尽くして、露出した日本軍自治を砲撃して崩壊した。日本軍は、ゲリラ戦による夜間の切り込みや手榴弾するも犠牲を重ねた。

 ルソン島の戦いの末期に、首都マニラを脱した日本軍は、北方の尾根付近や谷に点在する台地に陣地を築きながら、パンガシナン州方面から攻め上ってくるアメリカ軍軍を迎え撃った。激しい局地戦が1945年2月から6月まで約4カ月間続いて、日本軍兵士約4600人、アメリカ軍兵士約3,200人が死亡した。1日平均の戦死者数は双方合わせて約70人にも達した。1945年3月4日に、ルソン島バタンガス州リパ市ルンバンの全住民約1000人が、川土手や斜面においてリパ大虐殺をされた。アメリカ軍の侵攻を迎えて、自暴自棄になった日本軍兵士が突然狂気のような住民虐殺が勃発した。住民には逃げる場所も防御もできなかった。日本軍につくか、アメリカ軍につくかという二者択一で、住人同士がお互いに銃を向け合って生き残る手段となった。日本軍がルソン島北部へ去った1945年4月には、周囲の住民の大部分が殺害された故郷は、敗走する際に日本軍兵士が放った火炎とアメリカ軍の爆撃により、多くの家々が焼失した。敗走した多くの日本軍兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまって、負傷や伝染病にて死亡した。




2021年12月19日日曜日

ソ連のグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥って死亡して、木の板をベッドにして厳寒の気候から身を守る毛布をかけただけの生活環境であった。

ソ連の強制労働収容所であるグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥ってほとんどが死亡した。木の板をベッドにして、厳寒のシベリアの気候から身を守るために毛布をかけただけのひどい生活環境であった。毎日の食事は、不潔でネズミの糞にまみれたボウルのお粥と、たまに硬い黒パンが少しあるだけだった。グルーグ収容所の囚人たちは、大規模な建設、鉱山、工業に強制労働させられた。囚人には粗末で簡単な道具で、木を切ったり、凍った地面を手鋸やつるはしで掘ったりした。石炭や銅を素手で採掘する人も多かった。収容所の囚人たちは、氷点下の気温に直面して、過酷な天候の中で、食料の配給も少なく、労働時間も長かった。収容所の生活環境は、寒く、過密で、不衛生であった。自暴自棄になって、お互いに暴力で食料やその他の物資を盗み合う者もいた。多くの労働者は疲労困憊して死亡し、収容所の警備員に暴行され、銃撃されて、毎年、グラーク収容所の少なくとも約10%が死亡した。

 ソビエト連邦の独裁者であったジョセフ・スターリンの時代に設立された強制労働収容所(Glavnoe Upravlenie Lagerei)はグラーク(Gulag)と略称された。19219年からスターリンの死後間もない1953年まで、約1,800万人を投獄した悪名高い収容所である。最盛期には、約2,000人から約10,000人を収容する数百の強制労働収容所が存在した。1940年3月には約53の個別の収容所と約423の労働コロニーが、北は北極から東はシベリア、南は中央アジアにて運用された。囚人たちは1日に約14時間もの労働を強制された。多くの囚人は、飢えや病気、疲労で死亡して、その他の囚人は処刑で殺害された。グラークの囚人は、当初は犯罪者や集団農業に反旗した裕福な農民であった。スターリンの粛清により、政治犯、反対派の共産党員や軍人、政府高官などがまず対象となった。その後、医師、作家、知識人、学生、芸術家、科学者など、知識階級や一般市民も収容所に送られた。

 第二次世界大戦の直前の1939年には、クラーグ収容所とコロニーを合わて、約160万人を収容した。ドイツ軍のポーランド侵攻の後、ソ連は第二ポーランド共和国の東部を侵攻し併合して、1940年には数十万人のポーランド国民とその他の併合地の住民が逮捕されて,収容所に送還された。約30万人のポーランド人捕虜が、その後に殺害されるか(カティンの虐殺)あるいは収容所に送還された。1940-41年にコリマに送還された約10,000-12,000人のポーランド人捕虜のうち、わずか583人が生き残った。大祖国戦争中の1942年から1943年にかけて収容所の死亡率が急上昇して、収容人口は急激に減少した。1941年の冬には収容所の人口の4分の1が餓死した。1941年から1943年にかけて約516,841人の囚人が過酷な労働条件とドイツの侵攻による飢饉が重なって収容所で死亡した。1943年には、当初はナチスの協力者を対象としていたが、1943年以後、他の政治犯も最も過酷な体制の収容所であるグラーグに送られて、その多くが死亡した。 

 1953年にスターリンが死去した直後から、グラーク収容所は弱体化し始めました。1970年代から1980年代にかけて、一部の収容所は犯罪者や民主主義活動家、反ソビエトの民族主義者のための刑務所として再編成された。ゴルバチョフが、1987年にグラーク収容所を完全に廃止した。1991年にソ連の公文書が封印されるまで、ホロコースト強制収容所とは異なり、グラーグ収容所の記録は一切公開されなかった。1973年、ロシアの歴史家で収容所の生存者であるソルジェニーツィンが『収容所群島』を欧米で出版した。1970年にノーベル文学賞を受賞し、1974年にソ連から追放されて、1994年にロシアに帰国した。




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。



2021年12月17日金曜日

日中戦争の第二次上海事変から、中国国民党軍を追討して蘇州に侵攻した日本軍は多数の蘇州市民を殺害して死体が散乱した。

第二次上海事変から蘇州に侵攻した日本軍に無差別に殺害された蘇州市民の死体が散乱した。1937年8月中旬から11月15日にかけて、日本軍は蘇州市に約4,200個以上の爆弾を投下し、数千人の中国人の死傷者を出した。平門駅はほぼ完全に爆撃されて、一回の爆発で約300~約500人が死亡して、衛生列車や難民用のワゴンも破壊された。大人や子供があちこちで吹き飛ばされていた。さらに日本の爆撃機が天門の外に焼夷弾を落とし、約三日三晩燃え続けて、天門の周りは焦土と化した。日本軍は、掃討しては銃剣で刺殺したり、銃殺した。多くの女性は強姦され、少しでも抵抗すると銃剣で撃たれた。

 1937年8月13日から上海で勃発した日中戦争にて最も激しい戦闘である第二次上海事変(淞沪会战)が、11月12日まで続き、日本軍による上海の占領で終結した。1937年11月5日に、日本軍は杭州湾北岸の金山衛などから上陸を開始して、上海の情勢は中国国民党軍にとって非常に劣勢となった。11月9日から、中国国民党軍は上海から撤退を始めた。日本軍は上海を占領すると、すぐに太湖の北岸と南岸から中国国民党軍を追いかけて、退路を断つために蘇州などを攻略した。

 1937年11月19日に日本軍は蘇州に侵入して、蘇州の街はすべて陥落して日本軍に占領された。占領後の3日間が最も多くの火傷と殺害をした。東中市の地家橋から長門石道まで、昼夜を問わず火災がした。1937年11月21日付の朝日新聞によると、19日午後2時に日本軍が楼門から市内に入り、市内に散らばっていた中国国民党軍兵士約2,000人が日本軍の捕虜になった。 日本の上海派遣軍の司令部が、「囚人は全員殺せ」という密命に従って、全員が処刑された。退却していた中国国民党軍約2,000人が日本軍に捕らえられて殺害された。日本軍は、攻撃した蘇州の地域で、血みどろの殺害、略奪、焼き討ちなどの三光作戦による戦争犯罪を実行した。日本軍の恐怖政治に苦しむ中、多くの蘇州市民は衣食住に困窮し、生活の糧を得れなかった。蘇州の街では、あちこちでボロボロの服を着た蘇州の市民が道端で物乞いをした。日本が蘇州を占領した後に、通りには死体があふれて、約10日間放置された。蘇州市の都市部で約3,738人、田舎で約6,774人が殺害された。




2021年12月16日木曜日

アンロック周辺の土面の道路上に、アメリカ軍と南ベトナム軍により殺害されたベトコンの多数の死体が腐敗して散乱していた。

ベトナム戦争において南ベトナムの首都サイゴンから北方に約145kmのアンロック(An Lộc)付近で、1966年6月30日にアメリカ軍と南ベトナム軍はベトナム民族解放戦線(ベトコン)と猛烈な戦闘が勃発した。アメリカ軍はベトコンから奇襲攻撃を受けて、その後にベトコンに対して激しい攻撃をして壊滅した。ベトコンは、カンボジア国境から約25km付近で、アメリカ軍を待ち伏せしていた。ベトナムとカンボジアの国境を結ぶ国道13号線では、アメリカ軍がベトコンから攻撃を受けて、アメリカ軍の戦闘機と爆撃機が攻撃を防御した。7月4日には、アンロック周辺の土面の道路上にベトコンのベトナム人の多数の死体が腐敗して散乱していた。北ベトナムの石油貯蔵所への空爆が集中しているにもかかわらず、地上戦はまだ南部で繰り広げられていた。

 アンロックは、ビンフオック省の省都である。その後1972年に北ベトナムのグエンフエ攻勢により、アンロックはベトナム人民軍(PAVN)の戦略の中心地になった。カンボジアからの基地に近い補給路に位置した。アメリカ軍の爆撃を受けるのを減らすために、中立地点から物資を保護できた。ベトナム共和国軍 (ARVN) は、アンロック地域を防御するために、ビンフオック省に部隊を保持していた。1972年4月13日から7月20日にわたるアンロックの戦い中に、南ベトナム軍はPAVNとベトコンの連合軍によって劣勢に立たされた。1972年のイースター攻勢の中で約66日間も持続し戦闘となった。PAVNはアンロックをサイゴンから遮断するため、補給路の攻撃を開始した。補給路を制圧することで、約140km南にあるサイゴンへの補給路を遮断して、アンロックの戦いでARVN軍への補給が妨げられた。

 1966年初頭に、南ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の数は約184,300人、南ベトナム軍は陸軍(ARVN)と地域軍および民兵を含めて合計約514,000人であった。北ベトナム人民軍(PAVN)は約40万人で、ほとんどはまだ北ベトナムに駐留していた。1965年に約5万人のPAVNが南ベトナムに侵入した。南ベトナムとラオスのPAVNに供給するためにホーチミン・ルートでの物資輸送を任務とする北ベトナム軍の559部隊は、約24,400人が関与した。アメリカ軍は1966年6月までに南ベトナムにおけるベトコンとPAVN兵士の数を、ゲリラを含め約28万人と推定した。アメリカのジョンソン大統領は、1966年12月に北爆の休止により、北ベトナム軍の攻勢が散発した。




2021年12月15日水曜日

シシリー島に上陸した連合軍は、アヴォラの戦いにて、バルバリーノの中庭にてイギリス軍により殺害されたイタリア軍兵士の死体が地面に倒れて散在した。

第二次世界大戦のイタリア戦線において、シシリー島に上陸した連合軍は、アヴォラの戦いにて、イタリア軍に対して戦闘が勃発した。バルバリーノの中庭にて殺害されたイタリア軍兵士の死体が地面に倒れて散在した。その路中を1943年7月10日の朝に、イギリス軍兵士が海岸に上陸して最初にアヴォラを侵攻した。アヴォラの町の入口で機関銃で武装したイタリア軍が粘り強く防御したが、一人また一人と犠牲者が倒れていった。連合軍がアヴォラの町に入って、約100メートルほどの大通りとダンテ通りの間の角で、反撃してきたイタリア軍兵士も犠牲となった。仮設のバリケードから射撃したイタリア軍兵士も排除した。町のあちこちで、さらにまばらな銃撃戦が繰り広げられた。生き残ったイタリア軍の守備隊は全員負傷して連合軍の捕虜となった。7月10日正午までにアヴォラは、イギリス軍に完全に制圧された。アヴォラでは、上陸に先立って7月9日から10日の大規模な空襲により、住民約49人が犠牲になった。爆弾で殺害されたのはほとんど子どもであった。

 連合軍のシチリア島の侵攻は連合軍が、イタリア軍とドイツ軍の枢軸国軍からシチリア島を奪還した。大規模なハスキー作戦によって、1943年7月9日から年8月17日まで約6週間にわたる陸上作戦を経て、イタリア戦線が勃発した。連合軍は枢軸国軍をシシリー島から追い出した。地中海の海上交通輸送路は1941年以来、初めて連合軍の商船に開放された。イタリアの独裁者であるベニート・ムッソリーニは7月27日の軍事クーデターで、イタリアの権力から転落して幽閉された。連合国によるイタリア侵攻への突破が開かれた。ドイツの独裁者であるアドルフ・ヒトラーは、イタリアにドイツ軍の戦力を振り向けるために、クルスクでの大規模な攻撃を、わずか1週間で中断して、東部戦線におけるドイツ軍の戦力が低下した。イタリア政権が崩壊したため、ドイツ軍がイタリア人に代わってイタリアとバルカン半島に駐留した。その結果、ドイツ軍全体の約5分の1が東部戦線から南ヨーロッパに振り向けられた。

 シシリー島の侵攻により、連合軍のアメリカ軍は約2,237人が死亡または行方不明、約5,946人が負傷、598人が捕獲となった。イギリス軍は約2,062人が死亡または行方不明、約7,137人が負傷、2,644人が捕獲となった。枢軸国軍のイタリア軍は、約4,678人が死亡し、約32,500人が負傷、約116,861が捕獲された。ドイツ軍は、約4,325人が死亡し、約13,500人が負傷して、10,106人が捕獲された。連合軍のシチリア島の侵攻により、戦争がイタリアにとって不利な状況になるにつれて、独裁者ムッソリーニが失脚した。1943年春には、イタリア経済は廃墟と化し、連合国軍はイタリア自身を侵略した。7月10日の最初のシシリー島の上陸により、侵攻を撃退できなかった独裁者に対する不満は徐々に高まっていた。シチリア侵略により、連合国は、ムッソリーニ独裁政権を倒して、世界史上最初のファシスト政権に対して壊滅的な打撃を与えた。




2021年12月14日火曜日

15人のミラノ市民が、ドイツ軍の輸送隊に対するパルチザン攻撃の報復として、ドイツ占領軍によって銃殺により公開処刑された。

1944年8月10日夜明けの午前6時10分にミラノのロレート広場に銃声が響き渡り、ドイツ軍の輸送隊に対するパルチザンの攻撃に対する報復として、15人のミラノ市民が、ドイツ占領軍によって銃殺により公開処刑された。ロレート広場の虐殺と殉教者と呼ばれた。1944年8月8日の朝に、ドイツ軍司令部の本部となっていたホテル・タイタナスから数m離れたアブルッツィ通り77番地の前に停めてあったドイツ国防軍のトラックに仕掛けられた爆弾が炸裂した。約6人の通行人が死亡して、約10人が負傷して、犠牲者がすべてイタリア人であった。ドイツ軍兵士の1人が軽傷であった。

 テロの報復として、ドイツ軍はサン・ヴィトーレ刑務所に収容されていた15人の共産主義者とテロリストを具体的な容疑もなく射殺することを命じた。ミラノのゲシュタポ長官が選んだ15人のミラノ市民が、ロレート広場まで連行されて、共和国国家警備隊とムーティ旅団の兵士によって射殺が執行された。同日8月10日、パリニ県知事はドゥーチェに宛てた緊急メモで、非常に深刻なエピソードの詳細をムッソリーニに報告した。

 ナチス・ドイツ軍の命令により、警告として死体は夜の8時頃まで放置された。銃殺されたパルチザンを殺人者として標識にな掲げた。血で乱れた死体は、悲劇的に無秩序な死体の山を形成して、広場ではほとんど通行人の目に触れた。猛烈な太陽の下、ハエだらけであった。ある死体は両手を広げ、ある死体は体を寄せ合っていた。老若男女を問わず、子供たちは興味深く死体を最前列で見た。黒い服を着た若い男性が武装して、ゴミのように舗道に投げ込まれた男性や他の男性、警備していた。最も卑劣な殺人さえも否定しないミラノ大司教の枢機卿により、キリスト教の司祭の弔いも受けられなかった。支援さえ受けてロレート広場での虐殺は逆効果となり、ミラノ市民はファシストの蛮行を復讐を忘れなかった。ロレート広場にて、1945年4月29日のベニート・ムッソリーニと愛人のクレタ・ペタッチの死体が、蹴られ唾を吐きかけられた後に、ガソリンスタンドの屋根から逆さに吊らされ、死体は下からミラノ市民から石を投げられた。




2021年12月13日月曜日

サイパン島の戦いで日本軍は、アスリト飛行場を反撃したが大きな犠牲を伴い、アメリカ軍が日本軍兵士の死体の山を検死した。

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍は1944年6月15日夜と6月16日夜にも南端のアスリト飛行場を反撃したが、大きな損失で撃退された。アメリカ軍は、日本軍兵士の死体の山を検死した。食事の米がこぼれて、日本軍兵士の死体が周辺に転がっていた。戦車の支援を受けた日本軍兵士の大部隊が海岸道路に沿って北から襲撃した。日本軍兵士は日本国旗を振りながら、刀を掲げ、ラッパを鳴らしながら、アメリカ軍の前線に突撃した。前線に潜入した日本軍は大きな被害を与えることなく、アメリカ軍の機関銃と猛烈な射撃と砲弾によって阻止された。海軍により周囲を明るくする星型砲弾を発射して奇襲攻撃を照らし出した。夜を昼に変えるような大きな星型砲弾で日本軍兵士は照明された。6月18日に、日本軍は飛行場を放棄して、アメリカ軍がアスリト飛行場を捕獲した。戦闘の終わりまでに、日本軍は少なくとも約24両以上の戦車と数え切れないほどの1000人以上の日本軍兵士が犠牲となった。

 サイパンでの日本軍の敗北は、逆に何としてもサイパンを手に入れたいという日本軍の決意を強めた。6月17日に東京の大本営は、日本軍の守備側の精神を鼓舞した。大日本帝国の命運は君たちの作戦の結果にかかっている。日本軍兵士の精神を鼓舞し、天皇陛下のご不安を解消するためにも、最後まで勇敢に、粘り強くアメリカ軍を破壊し続けよ指令した。サイパン島の司令部は、ご高説を賜り、限りないご厚情に感謝する。一万人以上の死者を出しても、太平洋の防波堤となることで、御恩に報いたいと思うと応対した。

 アメリカ軍のサイパン島への侵攻は1944年6月15日に勃発した。6月18日の夜までに、東京の日本の大本営とサイパンの司令部は、ついに状況が危機的であると告白することを余儀なくされた。主要飛行場を含むサイパン島の南部は、すべての実用的な軍事施設はアメリカ軍の手に渡った。容赦ない攻撃に直面して、6月18日夜から日本軍はガラパンの真下からタポチョ山の南斜面を経由してマジシャン湾まで南東方向にサイパン島を横切って撤退し始めた。天皇自身から、厳粛な警告と不吉な予知の言葉が出た。最前線の日本軍兵士は見事に戦っているが、サイパン島が失われると東京への空襲が頻繁に行われる。絶対にサイパン島を握らなければならないと勅命した。約5か月後に、サイパン島から日本本土に向けて離陸したアメリカのB-29爆撃機は、天皇と大本営に最悪の恐怖を認識させた。






2021年12月12日日曜日

クメール・ルージュの共産党軍が迫り、首都プノンペンは激しい砲撃を受けて、直撃された民間人の死体が横たわり市場に散乱した。

カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。

 クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。

 クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。

 カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾から放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッドに座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っている姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。






2021年12月10日金曜日

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(GFP)は、クロアチアの山中でパルチザンを虐殺した。その他にユダヤ人、任意の容疑者も虐殺した。

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)は、クロアチアのパルチザンを虐殺した。GFPは東ヨーロッパとバルカン半島の全域でパルチザン、ユダヤ人、任意の容疑者を対象とした虐殺行為を絶え間なく激化させて抑制が効かなくなった。反パルチザン部隊として、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppe)と協力して、ソ連のレジスタンスの容疑で捕虜になった戦闘員や民間人を死刑や拷問した。GFPは協力者の助けを借りて、家や村全体を組織的に焼き払った。GFPは、赤軍に解放される前に囚人を略式で処刑した。1943年に親衛隊と警察のGFP報告書には、東部戦線で約2万1,000人が一部は戦闘中に、多くは尋問後に射殺されたと記された。キエフ近郊のベラヤ・ツェルコフという町で、GFPは子供たちを殺す決定を第6軍の司令部に要望して、後に子供たちは銃殺された。1941年の夏から秋にかけては、ウクライナのジトミル地域でナチス親衛隊とドイツ国防軍からなる治安部隊による掃討作戦に、GFPは参戦した。GFP部隊の報告書では、東部戦線だけで約21,000人が実戦中に殺害あるいは尋問の後に銃殺されたと記録された。

 秘密野戦警察(GFP)は、第二次世界大戦に向けてドイツ国防軍により設立された軍事秘密警察組織である。この部隊はスパイ対策、破壊工作、サボタージュ摘発、対プロパガンダ、軍事施設保護、軍法会議の捜査などといったドツ国防軍への情報提供や占領地及び戦地の警備任務を行うために1939年7月27日に編成された。GFPの要員は防諜警察 (Abwehrpolizei)とも呼ばれ、国防軍の防諜部の執行部隊として、占領下で対レジスタンス、パルチザン活動を取締った。共産党員の政治的粛清とロシア人の劣等民族絶滅(ホロコースト)」を執行した。ドイツ軍の占領地域で住民を監督して、放浪する老人や女性、子供を無差別に敵の容疑者として、憲兵やSDに引き渡された。歩き回って捕らえられ脱走した者は即決で銃殺された。GFP部隊は家や村々を焼き払う作戦も実施した。GFPは拷問や処刑から虐待と虐殺などの戦争犯罪を行った。1943年半ば以降に、GFPはすべてのドイツ軍の脱走兵やソ連軍から脱出した捕虜を追跡して処刑を命じられた。

 GFPの事件は、1948年になって追試で扱われた。ニュルンベルク裁判が始まった1945年11月には、扱うにはあまりにも複雑な内容であった。連合軍検察側はSS、ゲシュタポ、SDを直ちに戦争犯罪の事実を集めたが、GFPの幹部は国際軍事法廷で起訴されなかった。逆に冷戦が始まると、多くの諜報機関が、スパイ活動や破壊工作を実行できるナチスGFP専門家を再雇用した。 


ドイツ秘密野戦警察がクロアチアでパルチザンを虐殺した。



ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)


2021年12月9日木曜日

レイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。

太平洋戦争のフィリピンのレイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。その死体は粉々になり、地面に激突して崩壊した無残な戦闘機の機体の周辺に散乱した。日本軍の高千穂空挺隊の一部は、ほとんど生還の見込みが薄いタクロバン飛行場への独力による攻撃も追加された。当初は、近隣に日本軍が潜伏するブラウエン飛行場のみの戦略であった。タグロバン飛行場を攻撃した戦闘機はほとんど撃墜されて、全員が全滅してマニラに生還できなかった。

 タクロバン飛行場に対する日本軍の挺進部隊の攻撃は、対空砲火によって輸送機が撃墜されて全員が戦死した。タクロバン飛行場では、日本軍との合流ももなく、全くの片道の自滅する攻撃になった。タクロバン飛行場に向かう日本軍の着陸部隊は独力でアメリカ軍の飛行場と滑走路ならびに軍事資材の破壊を命令された。日本軍の空挺隊がアメリカ軍のまっただ中に強行着陸あるいは落下傘で降下した。重爆撃機の約2機の約13人が強行着陸して、輸送機の2機の約13人がパラシュート降下を命じられた。1944年12月6日15時40分にルソン島のアンレレス南・西飛行場から離陸した。アメリカ軍の飛行場を一時的にでも制圧して、多数の日本軍の輸送船団を間接的に防護することが目的であった。

 1944年12月7日にアメリカ軍の大軍が、すでにレイテ島のオルモック湾南方イピールに上陸していた。日本軍幹部は、12月12日にはブラウエン作戦を中止を決定していた。ブラウエン飛行場まで約10kmまで接近した日本軍に撤退が命令された。ブラウエン作戦に参戦した日本軍の高千穂空挺隊は孤立して見殺しにされた犠牲は、アメリカ軍にほとんど無駄となり奏功もなく終滅した。ブラウエン飛行場等を制圧する意義も消失して、イピール方面の防御に転換した。制空権と制海権を失ったレイテ島の日本軍兵士には、食糧がほとんど届かず、深刻な飢餓に襲われた日本軍兵士は、密林で病死あるいは餓死した。レイテ島の戦いにて悲劇の日本軍兵士は、アメリカ軍に殺害された戦死者数よりも、病死あるいは餓死者の数が上回った。1944年10月20日からのレイテ島の戦いで、日本軍兵士は約79,261人が死亡した。アメリカ軍は、戦死が約3,504人、戦傷は約11,991人を伴った。



2021年12月8日水曜日

ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪したドイツ軍兵士が殺害された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪した。その戦利品を持って退却中のドイツ軍兵士が殺害された。手前のドイツ軍兵士の死体の側には、戦利品は明らかにストーブとなるガスボンベがあった。1941-1942年の重要な冬に起きたロシア軍による大攻勢による生々しく悲惨なドイツ軍兵士の虐殺となった。

 飢餓計画は、第二次世界大戦中にソ連から食料等を奪い、ドイツ軍兵士や民間人に与えた。1941年のソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦の後に、何百万人ものスラブ人を飢餓で大量虐殺することを意図した。ドイツでは食料の自給率が低く、戦争を継続してドイツ国内の士気を維持するために、征服地からの食料等が必要であった。政策的に飢餓を発生させ、数百万人を殺害した。ドイツ国防軍の侵攻に備えて、ウクライナの食料品をロシア中北部から、ドイツ侵攻軍やドイツ国内の住民の手に渡るようにした。ソビエト連邦のドイツ占領地域で何百万人もの市民の死を引き起こした。ドイツ軍は、特に肥沃なウクライナの穀倉地帯から穀物の在庫を大量に略奪して、ソビエトから切り離して重篤な飢餓につながった。人種的に劣ると見なす人々からの土地や食料の略奪を正当化した。

 略奪の目的は、兵士が優れた敵の装備を狙った。東部戦線の極端な低温にも耐えられず、厳寒の地では、銃のオイルが凍って使用できない問題が多発した。東部戦線では、コートや毛皮の帽子、ブーツなどの防寒具も略奪した。最高の装備を持っている側は、敵がそれを狙った。東部戦線での激しい戦闘と深刻な物資不足のため、双方ともに略奪が増えた。兵士たちは、相手側の食料や煙草の供給状況をすぐに把握して略奪をした。戦争末期には、略奪が生き残りをかけた復讐行為にもなり得た。

 第二次世界大戦が、多くの兵士にとって常識を大きく覆した。平和時には他人に銃を撃つことなど考えない市民が、戦時には銃を撃って他人を殺す。人生で一度も物を盗んだことのない市民が、カラスらのように盗む。戦時中にては、規範が全く違い、ある種の価値観や行動は通用しない。兵士は他人を殺すために訓練される軍事システムは、民間市民とは全く異なり、戦時中に最も顕著となる。民間市民に対する多くの虐待や、捕虜の処刑などその他も、規範の完全な戦争犯罪を証明している。





2021年12月7日火曜日

第二次世界大戦にロシアで3年間も焦土作戦が繰り広げられ、餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間の全滅など約700万人の犠牲者が出た。

第二次世界大戦の東部戦線では、ロシアは何年も焦土作戦が繰り広げられた。餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間での全滅など、約700万人の犠牲者が出たのである。独ソ戦直後の焦土命令に示されたロシア国民の居住地では、民間ロシア人はロシア軍による焦土作戦に無差別に巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍にロシアの国土と資源を明け渡さない至上目標を掲げた。

 1941年6月22日から勃発した独ソ戦にて、赤軍は撤退にあたり敵軍に利用価値を壊した。ドイツ軍も同様に撤退にあたり敵軍の利用価値を壊した。スターリンはナチス・ドイツ軍がロシアの資源を利用を防ぐため、構造上に疎開できない全ての経済的施設を破壊することを1941年7月3日に命じた。破壊命令の対象とされたのは、大部分が輸送機関と電力の施設だった。余剰した機関車は徹底的に破壊され、多くの修理工場は爆破された。ドニエプル河の水力発電所は水門が開放され、労働者たちが水力タービンや発電機を破壊した。

 ロシア本土の各地で破壊活動が行われたが、特に白ロシアやウクライナ西部ではドイツ軍の迅速な占領により、破壊する時間さえ残っていなかった。ロシアの焦土作戦はある程度まで奏功して、ナチス・ドイツ軍は独ソ戦の開戦前の推定が大きく変更した。クロム、ニッケル、石油などのソ連邦の原料資源は、ドイツの軍需生産に不可欠であり、押収した工場設備や労働者はドイツ国内の労働力不足を解決する予定であった。広大なロシアの領土を侵略するドイツ軍の兵站支援に、機関車と貨車が拘束されて、奪取した資源や工場設備の運搬は後回しにされた。しかし、スターリンの破壊命令はここまでに留まらなかった。赤軍の将兵に対してはモスクワ、レニングラード、ウクライナのキエフといった大都市の死守を厳命した。一方、都市が陥落した際には、ナチス・ドイツ軍に最大限の損害を与えるため、共産党地区委員会と内務人民委員部(NKVD)の特殊工作班に都市の爆破を準備させた。1941年11月17日、スターリンは指令第428号を発布して、以下の司令でロシア国土を焦土へと変えた。

 1. 最前線から奥行き約40~約60kmの距離、道路から左右約20~約30キロの距離に含まれるドイツ軍の後方地域にあるすべての居住地を破壊して、焼き払う、居住地は爆破して焼き払う、直ちに行動範囲内へ航空兵力を投入して、大砲、迫撃砲、偵察隊、スキー部隊、火炎瓶などを装備したパルチザンを広い範囲で焦土作戦に使用する。

 2. 居住地を爆破し焼き払うため、前線部隊の各連隊に約20~約30人からなる破壊工作の志願者隊を編成する。居住地の破壊に貢献した者を表彰した。




2021年12月6日月曜日

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤーは、1933年6月8日にナチスの親衛隊と突撃隊によって暗殺された。

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤー(Heinrich Kiepenheuer)は、1933年6月8日にデュッセルドルフの近郊で、ナチスの親衛隊(SS)と突撃隊(SA)によって暗殺された。その暗殺事件後に警察は、ライン川の橋の上で殺害された無残な死体を検証して写真を撮影した。鉄道員であったキーペンホイアーは、ナチスにとり違法なパンフレットである死(Die)を配布していた。キーペンホイアーは、SSとSAによる追撃からの逃走中に捕獲されて射殺された。

 ナチス・ドイツである国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP, ナチ党)がファシズム支配化する初期段階で、ナチスにとって邪魔者を暗殺した。ヒトラーがドイツ帝国首相に就任した1933年1月30日から、いわゆるレーム一揆が発生した1934年6月30日までのテロの犠牲者は、ナチス政権の権力の掌握と強化の開始点と終了点として研究されている。ナチスの初期段階で殺害された人々の総数は推定である。新聞報道の分析では、1933年1月31日から8月23日の間に約220人(ナチス反対派約196人、国家社会主義者約24人)が殺害された。歴史学者は、1933年10月までに殺害された人数を約500~600人と推定された。伝記作家は、ナチス支配の初期に少なくとも約500から約600人が殺害されたと推定した。警察本部からプロイセン内務省への秘密の報告書では、1933年2月27日の国会議事堂放火事件から3月25日までの間に、ベルリンだけで約247人が殺害された。リストには、SAやSSなどの国家社会主義組織のメンバーや、秘密国家警察などの国家の弾圧機関によって殺害された明らかな人数のみが含まれている。具体的なテロ犠牲者約353人は、名前、少なくとも関連する個人的な調書が網羅されている。

  1933/1934年の権力掌握期における国家社会主義者のテロによる犠牲者が分類された。

1) 悲惨なテロ対象となった犠牲者 

 共産主義者、社会民主主義者、ユダヤ人など排除者に属して、恣意的にSAや他の国家社会主義部門によって殺害された。公道や自宅、SAの地下室、ストームルーム、宿舎などで虐待と虐殺での死亡者、逮捕後に刑務所や強制収容所で殺害された者、さらに逃走中に逮捕されたキーペンホイアーも含む。

2) 裏切り者による犠牲者

ナチスの特定の有力者、孤立者は下級幹部から特に嫌われて、標的テロで殺害された。

3) 強制収容所や監獄で非業の死を遂げた犠牲者

強制収容所または刑務所の収容者は、看守らの野蛮な攻撃で、暴力による殺害、裁判所判決とは対照的に、非公式の殺害、上司からの命令、偽装されて意図的な殺害、(看守に殴り殺される、銃で撃たれる、首を吊らるなど)、看守による組織的または無慈悲な虐待と虐殺の結果として殺害された、過酷な労働条件の下で疲労困憊して倒れた心身の障害として死亡した。

4) 司法の場での殺人事件の被害者

1933年までのドイツの死刑制度にて、裁判所により不正に死刑判決が下された。1933年までドイツ帝国の刑事犯罪(殺人、強姦など)ではなく、政治犯罪(反対運動、腐敗など)で処刑された、問題のある法律や慣行に基づいて死刑判決を受け処刑された。







2021年12月5日日曜日

日清戦争にて平壌の戦いで、平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。

日清戦争において平壌の戦いが、1894年8月15日に勃発した。北朝鮮の平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。夕方頃に雨のために戦闘が中断されて、清国軍は平壌の高所を失って、約1日の戦闘だけで残った弾薬ではもう1日の戦闘を持続できなかった。食糧も尽きていることから、平壌の放棄を決定した。清国軍は、食料と弾薬が尽きて、わずか1日で平壌を捨てて午後9時から敗走を余儀なくされた。清国軍兵士は雨の中を群がって義州街道を北に向かって退却したが、日本軍の警戒線で追撃を受けて、清国軍兵士は甚大な犠牲を伴った。清国軍は、9月24日まで中国に全面退却した。

 1894年8月下旬頃に、北朝鮮の平壌に清国軍が集結した。日本軍は速やかに平壌の清軍を撃破するために、9月15日早朝から、各日本部隊は一斉に突撃を開始した。16時40分頃には、清国軍は白旗を掲げて降伏した。夜の風雨の中を北方に向けて撤退した。日本軍は、9月16日朝に平壌を占領した。日本が清国軍を朝鮮半島から追放するための決戦となった。日本軍の侵略を加速させ、平壌を迅速に占領して、清王朝の国境を直接に脅かした。日本軍兵士の犠牲は戦死者は180人、戦傷者は約506人で、行方不明が約12人であり、一方の清国軍兵士は戦死者約2,000人、捕虜約683人であった。

 1875年9月の江華島事件を起点として、1876年2月26日江華島条約(日朝修好江華条約)が締結された。朝鮮の独立を承認して、約65年ぶりに日朝修好が復活した。条約により、清国の朝鮮への宗主権を否認した。1894年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦争(東学党の乱)が、李王朝への反発から欧米や日本の侵入に対する反対運動に進展した。朝鮮政府は、鎮圧のために清国に救援を求めた。清国から朝鮮への出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵して清国軍と共同して朝鮮の内乱を鎮圧した。朝鮮への内政干渉を宣言して、清国は拒否すると、日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。1894年7月25日の日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)から成歓・牙山の戦闘が起点に、日清両国は8月1日に、両国とも宣戦布告して日清戦争が勃発した。  





2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。  
   広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。  
  被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。  
   広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年12月3日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発して、ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて死体が散乱した。

太平洋戦争で1942年8月7日から勃発したガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発した。ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍の陣地内では、ほぼ全員が戦闘態勢のまま死亡した。補給も途絶えて形成不利となり、1943年1月23日午前2時30分に最後の特攻を指示された日本軍兵士は、約100人が戦死した。アウスティン山周辺だけで、日本軍兵士は約400人が戦死して、アメリカ軍兵士は約112人と戦傷者は約268人に及んだ。

 1942年12月15日から1943年1月23日に、ガダルカナル北部のマタニカウ川付近の丘陵地帯で、主にアメリカ軍と日本軍の戦闘が勃発した。アメリカ軍兵士は、ソロモン諸島の先住民にも支援されて、丘や尾根の上で要塞化された日本軍陣地を攻撃した。最も目立つ丘は、アメリカ軍によってアウステン山、ギャロッピング・ホース、シーホースと呼ばれた。アメリカ軍はガダルカナルの日本軍の防御陣地を崩壊した。双方ともに、戦地の鬱蒼としたジャングルや熱帯の環境の中での戦闘は非常に困難で悲惨であった。アメリカ軍の多くは、初めての戦闘に参加した兵士であった。日本軍はほとんど補給を受けることができず、栄養失調と病気に苦しんだ。苦戦の末に、アメリカ軍はアウステン山の奪取した。その過程で日本の山地地帯であるギフ(岐阜)と呼ばれる強固な防御陣地や、ギャロッピング・ホース、シーホースなどを占領した。12月31日に大本営ではガダルカナル島からの撤退が決定された。日本軍はガダルカナルの放棄を決定し、ガダルカナル島の西海岸のエスペランス岬に撤退した。1943年2月の第1週に、生き残った約12,682人の日本軍兵士は無事に撤収した。

 アウスティン山の高さは約560mで、ガダルカナル島の尾根や谷間にある一つの丘であった。ジャングルが、熱帯雨林の巨木で、まっすぐな幹を高く伸ばしてから枝を広げ、絶対に日の当たらない屋根を形成した。幹の間の地面には、巨大なシダ類、イバラ類、あらゆる種類のつる性植物やヤシの木のような植物が密集した。オースティン山の戦いで、熱帯条件での負傷感染や病気により兵士は死に続けて、これらの損失に加えて、熱帯病、暑さ、戦闘の士気の低下を伴った。アウステン山の戦い頃から、立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日と生命の予後が示唆された。




2021年12月2日木曜日

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。銃撃戦の後に、殺害したベトナム人の死体に、デス(死)カードであるスペードのエースを残した。アメリカ軍兵士たちは見えないベトコンへの恐怖に常にさらされて、恐怖にさまざまな方法で対応した。死は最後には誰にでも訪れるものであり、王であっても逃れることはできない切り札としてスペードのエースを使用した。

  ベトナム戦争で、アメリカ軍兵士がスペードのエースを使った民間伝説が広まった。アメリス軍兵士はスペードの象徴は死と不幸を意味すると考え、迷信深いベトコンや北ベトナム軍兵士を怖がらせて士気を下げるために、殺害したベトナム人の死体にスペードのエースを誇らしげに置いた。狼のように、自分たちの縄張りを示すために、森や野原にもカードをまき散らかした。この習慣は非常にアメリカ軍兵士の真理に効果的であった。しかし、ベトナム人にはスペードのエースを死の象徴として恐れる文化的根拠はなかった。カードは空襲の際に、ベトナムの村やジャングルにわざとばらまいた。スペードのエースは、ベトコン人にとって迷信的な恐怖の象徴ではなかった。アメリカ軍兵士の士気を高める効果があった。反平和のサインとして、カードをヘルメットに貼り付けた。

 スペードのエースは、戦争の場で使用された。第一次世界大戦では、イギリス軍がスペードのエースを徽章として使用した。 第二次世界大戦では、インド陸軍がが緑地にスペードのエースを徽章として使用した。第二次世界大戦では、アメリカ軍兵士は、ヘルメットの側面にスペードのマークが描かれていた。アメリカ軍がカードを死のシンボルとして使われたのは、第二次世界大戦の頃からである。トランプ遊びの幸運を表すために使用された。それから約20年後の2003年のイラクのフリーダム作戦で、アメリカ軍兵士に配布されたイラク人指名手配のトランプには、写真が描かれた。

 スペードのエースが関連する冬の始まりであるユールは、昔の農民が恐れていた日であった。冬の始まりは飢餓の時代、つまり狼の時代の到来を告げるものであった。スペードのエースは、12月21日から始まる冬の第1週を表した。物資が不足し、最後の肉が屠殺され、数ヶ月後に食べるために熟成された。死者には供物が捧げられ、高齢者は自分の番が回ってきたときのために、最後の願いを伝えておいた。






2021年12月1日水曜日

極右翼であるネオナチの若者が、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。

1980年9月26日22時19分に、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。メインエントランスで即席爆発装置(IED)が爆発した。救助隊の前に横たわる被害者と正面玄関の歓迎ゲートが後方に写っている。ドイツの検察当局は水曜日、1980年にミュンヘンのオクトーバーフェストで13人が死亡、約221人以上が負傷しそのうち約68人が重傷となったと発表した。重傷者の中には、命にかかわる火傷を負った人も多くいた。手足の切断や臓器の摘出を余儀なくされた。死者の中には、襲撃容疑者である21歳の学生であったグンドルフ・ケーラー(Gundolf Köhler)も含まれており、彼は禁止されている極右団体の支持者であった。ケーラーの扇動者、内通者、共犯者は証明も排除もできなかった。

 1980年にミュンヘンで起きたオクトーバーフェスト(Oktoberfest)の爆弾テロ事件の容疑者のケーラーは、極右思想が動機となっていたとドイツ連邦検察が公表した。彼は、ビール祭りの入口にあったゴミ箱に仕掛けた爆弾を炸裂させて、13人の死者のうちの1人となり、約200人以上が負傷した。ケーラーと極右過激派(ネオナチ)との関係が明らかになった。連邦検察官は、ケーラーが、禁止されているネオナチの民兵組織で訓練を受けて、ベッドの上にはナチスの指導者であるヒトラーの写真を飾っていた。1972年のミュンヘンの大虐殺と並んで第二次世界大戦後のドイツで最も死者を出した。ドイツ当局は極右過激派の危険性を軽視して、右翼的な過激主義を容認していると非難を受けた。近年の極右の過激主義は、ドイツが直面する最大の安全保障上の脅威となった。

 1980年代から、極右翼であるネオ・ナチによる不法行為が多発した。爆弾テロからユダヤ人の迫害、落書きまで多様な暴動から、一連のテロ行為が暴走した。1980年12月24日のドイツ民族主義運動の労働党が武器の密輸をして、1981年10月に手榴弾のテロ行為をした。1983年11月にネオ・ナチの一揆のデモを仕掛けた。1981年12月にユダヤ人出版業者を殺害した。1982年にアメリカ軍に対する爆破攻撃をした。逮捕されて有罪になったのは主に戦後世代の低所得のドイツ人の若者であった。将来への不安感、弱肉教職の肯定と無力感から不況と外国人労働者による就職難から、青少年の一部が極右主義に迷入して暴走した。先進国には、特有なネオ・ナチ社会に共通した環境因子と個人因子が潜伏している。















爆破テロ容疑者で爆死した21歳学生のグンドルフ・ケーラー