2021年9月5日日曜日

第二次世界大戦の北アフリカ戦線で、1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。

1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。この写真は後に連合国により宣伝に使用され、パンフレットに印刷されドイツの都市に投下された。1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで、イギリス軍がドイツ軍のアフリカ軍団に決定的な敗北をもたらした。砂漠は、植物が生えず、水もほとんどない人を寄せ付けない地域である。エジプト西部のメルサ・マトルーからリビアのシドラ湾東岸のエル・アゲイラまで、数少ない町や村を結ぶ主要道路は1本しかない。地中海の南岸には幅の異なる砂漠の海岸線が続いて、内陸部には高さ約150mのリビア高原があり、鋭い断崖絶壁が続いた。車やトラックでも登れるような峠も少なく、台地では薄い砂に覆われた石灰岩の上を防御物も無く、横断する軍用車が射撃された。

 第二次世界大戦の北アフリカ戦線は、スエズ運河と、中東の石油やアジアの連結をめぐる争いだった。北アフリカの紛争は、1935年10月からイタリアが植民地であるソマリランドからエチオピアに侵攻して勃発した。エジプトはイタリア帝国主義を強く警戒して、イギリスとフランス軍は、アレキサンドリアに主要基地を置いた。1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻した際に、イタリアは中立を保った。しかし、1940年6月にドイツ軍がフランスに侵攻した時に、1940年6月11日に、フランスのダンケルクでイギリス軍の撤退から6日後に、イタリアはイギリスとフランスに宣戦布告して、1940年6月25日にフランスが降伏した。イギリス軍とイタリア軍は、リビアとエジプトの国境を挟む西沙漠で対峙した。

 1940年9月13日に、イタリア軍はエジプトに侵攻した。イギリス軍はイタリア軍をエジプトから追い出し、1941年1月3日にはリビアのバルディアを占領した。イギリス軍は、1月22日に重要な港であるリビア東部のトブルクを占領した。ドイツ軍とイタリア軍がリビアに渡り始めた。2月12日から、ドイツ軍のアフリカ軍団が主導権を取り戻し、4月3日にイギリス軍がベンガジから撤退して4月10日にはトブルクを包囲した。ナチス・ドイツ軍が、6月22日に東部戦線のソ連に対してバルバロッサ作戦を開始すると、北アフリカのアフリカ軍団は弱体化した。リビアとエジプトの地域を支配するための攻防の戦いが続き、1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで最高潮に達した。イギリス軍によりアフリカ軍団に決定的な敗北をした。その残党をチュニジアまで追撃した。1942年11月の北西アフリカへのイギリス軍とアメリカ軍が上陸して、連合国はチュニジア北部で数十万人のドイツ軍とイタリア軍を包囲して、1943年5月にドイツ軍は降伏した。

 北アフリカ戦線では1940年9月13日から1943年5月13日までにドイツ軍とイタリア軍は約62万人、イギリス軍は約22万人の死傷者を出しました。チュニジアでアメリカ軍の死傷者だけでも約18,500人を超えた。北アフリカでの連合軍の勝利で、約90万人近くのドイツ・イタリア軍を壊滅または無力化した。枢軸国に対する1943年夏からのシチリア島とイタリア本土への侵攻を可能にした。中東の油田やアジア・アフリカへのイギリス軍の補給線に対する枢軸国の脅威を取り除いた。