沖縄戦の南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱が1989年3月3日に発掘された。その他に注射液のアンプルや薬品瓶、印鑑、万年筆等も発掘された。それらを新たに埋葬した。
沖縄戦に至るまでに、1944年10月10日の大空襲により那覇は壊滅した。沖縄陸軍病院も巻き込まれて、琉理後方の南風原国民学校に移転した。国民学校を活用して、軍医と衛生兵と看護婦の約350人体制で開設した。
1945年4月21日からのアメリカ軍の上陸を防衛する準備のために、黄金森に横穴壕を掘削して、三角舎をを丘に整備した。アメリカ軍の空襲が猛烈になるに従って、戦傷者が増大した。さらに黄金森に本部壕、第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕などが掘削されて、約20横壕が貫通した。約4,000人もの戦傷者が収容できた。3月24日にアメリカ軍による沖縄本島への艦砲射撃が勃発した。その直前に、師範学校女子部とひめゆり学園の併設校である県立第一女学校の女学生の約200人が配属された。3月29日に、女学生の卒業式を挙行してから、各分院に配属された。県下の女学生を徴収して、約550人が従軍して、そのうち死亡率が約62%に達する約339人が戦死した。
横穴壕にはの二段ベット上で、戦死傷者のうめき声と血・海の匂いと死臭が充満した。アメリカ軍の戦勝が近づくと、激増した戦死傷者で郷内は膨れ上がった。女学生は、看護、糞尿の処理、死体の埋葬、水汲み、食事運搬などを強要された。5月25日に、日本軍の撤退とともに、南風原陸軍病院も撤退が指令された。戦傷者を運搬する余裕も、食糧も医薬品も枯渇していた。沖縄群司令部から、重度の戦傷者に対して、青酸カリや手榴弾などで自決させて、横穴壕を埋没させた。