2025年3月7日金曜日

1978年初頭に、ベトナム南部のキエンザン省にあるハティエン県にて、カンプチアのクメール・ルージュがベトナム民間人を襲撃した。その後にハティエン県には、ベトナム民間人の死体が散乱して腐敗した。

1978年初頭に、ベトナム南部のキエンザン省にあるハティエン県にて、カンプチアのクメール・ルージュがベトナム民間人を襲撃した。その後にハティエン県には、ベトナム民間人の死体が散乱して腐敗した。1977年当時は、61万5000人のベトナム軍に対して、カンプチア革命軍(KRA)は7万で不利な状況に直面するも、ベトナムの国境地帯を攻撃し続けた。1978年1月、カンプチア革命軍は、ベトナム領土の一部を保持し、ハティエン県でベトナム軍の前哨基地を制圧し始めた。1978年1月27日、ベトナムはクメール・ルージュ政権を打倒するため、国境地域のカンプチア革命軍に侵攻始めた。

 クメール・ルージュ(カンプチア共産党)は1975年から1979年までカンボジアを支配した。率いたポル・ポトは、残虐に、数百万人の死者を出した。農業改革の試みは広範な飢饉を引き起こした。医薬品も絶対的な自給自足にこだわり、病気などで何千人もの死者を出した。 1976年から1978年に、クメール・ルージュの幹部が破壊分子の容疑者たちに対して行った残忍で恣意的な処刑や拷問、クメール・ルージュ自身の階級の粛清は、ジェノサイドを執行した。クメール・ルージュ政権は、政敵とみなされた数十万人を殺害し、少数民族を大量虐殺した。破壊分子の容疑者を大量に処刑し、拷問した。1975年から1978年にかけて、最終的に、クメール・ルージュ政権下で起こったカンボジア虐殺は、1.500~200万人、カンボジア人口の約25%が死亡した。

 1978年12月25日に、ベトナムはカンプチアへの全面侵攻を開始した。2週間でカンプチアを占領して、カンプチア共産党の政権を奪取した。ベトナムは、クメール・ルージュによるカンボジア人の大虐殺を終結した。1979年1月7日、ベトナム軍は首都プノンペンを占領して、ポル・ポトとクメール・ルージュはタイとの国境近くのジャングルに後退した。





























2025年3月7日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年3月6日木曜日

1931年9月18日に勃発した満州事変で、戦死した日本軍兵士の死体は、満州の奥地で埋められた。日本軍兵士は、悲嘆しながら担架上の戦友の死体を満州の荒野に埋めて訣別した。

1931年9月18日に勃発した満州事変は、次々に中国の満州の奥地に戦線が広がった。満州の奥地で、戦死した日本軍兵士の死体は、奥地で埋められた。冬季になると地面下2メートルまで凍る荒野となった。日本軍兵士は、悲嘆しながら担架上の戦友の死体を満州の荒野に埋めて訣別した。

  1931年9月18日深夜に、奉天(現瀋陽)郊外の柳橋湖近くにあった南満州鉄道会社の線路が、満州駐留の帝国陸軍の一部である関東軍の将校によって爆破された。鉄道の所有者である日本軍は、この事件を中国の民族主義者の容疑にして、報復として満州に侵攻する契機とした。しかし、爆弾は日本軍将校が、その後の軍事行動の口実を作るために仕掛けたと推測する者もいた。数カ月という短期間のうちに、日本軍は満州の地域を制圧した。ほとんど訓練を受けていない中国軍の抵抗は少なく、日本軍は資源の豊富な満州地域の支配を強化していった。日本軍はこの地域を満州国という新したな自治国家にすると宣言した。新しい国家は実際には現地の日本軍の支配下にあった。

 1932年1月14日に国際連盟の調査団が訪中して、10月2日にリットン委員会の報告書が公表された。満州における紛争の責任を中国の民族主義と日本の軍国主義に等しく帰した。報告書は、満州国の樹立は中国の領土保全に違反するとして、新国家を承認しないことを明言した。1933年3月27日に、国際連盟でリットン報告書が批准されると、日本代表団は退席して、盟約者団理事会に戻ることはなかった。日中両国は休戦協定に調印したが、その協定は日本が満州を完全に支配したままであった。




2025年3月5日水曜日

1945年2月のドレスデンへの連合軍による空襲後に、ドレスデンには死体が転がって、廃墟と化し、すべての建物が破壊され、何千人もの市民が死んでいた。

1945年2月のドレスデンへの連合軍による空襲後に、ドレスデンの街には死体が転がっていた。ドレスデンは廃墟と化し、すべての建物が破壊され、何千人もの市民が死んでいた。街は大きな被害を受け、建造物や名所はすべて無慈悲な空爆で破壊された。連合軍の爆撃方法は、建物の破壊を促して、まず高火力爆弾で建物の木枠を露出させ、次に焼夷弾で木に引火させ、最後に消火活動を妨げる爆撃をした。第二次世界大戦が終結したとき、調査官や記者がドレスデンの死者数を1万人から20万人と推定した。

 1945年2月13日の夜に、イギリス空軍の爆撃機はわずか数時間で数千発の爆弾を投下した。 ドレスデンの防御は非常に弱く、6機のランカスター爆撃機だけが撃墜されて、次の朝までにイギリス空軍の爆撃機は14,00トン以上の高火力爆弾と1,100トン以上の焼夷弾をドレスデンに投下した。攻撃でドレスデンのインフラはほとんど破壊され、数千人が死亡した。

 1945年2月14日に生存者たちがくすぶる街から脱出すると、アメリカ空軍はドレスデンの道路、橋、鉄道、家屋への爆撃を開始てし、さらに数千人が死亡した。2月15日に、さらに200機のアメリカ軍爆撃機がドレスデンへの攻撃を続けた。アメリカ軍は2月15日に、950トンの高火力爆弾と290トン以上の焼夷弾を投下した。その後、アメリカ第8空軍は終戦までに3回の攻撃で2800トン以上の爆弾をドレスデンに投下した。

 ソ連赤軍が強力になり、次々と都市を占領していく中で、ヒトラーは全戦力でベルリンを防御した。ベルリンを占領するまで、最小限の抵抗のみのドレスデンは、飽和爆撃の標的とされた。都市内の工業地帯や民間地域がドイツ軍部隊とともに消滅した。攻撃がドイツ経済を荒廃させ、ドイツ国民の士気を低下させ、早期の降伏を強いると連合軍司令部は断定した。




2025年3月4日火曜日

アメリカ軍兵士の命令で、1945年5月17日にナメリング町の生き残りの住民だけでなく、ドイツ人少年にも、ナチス・ドイツの虐殺行為による約800人の犠牲者の死体を見せられてショックを受けた。

アメリカ軍兵士の命令で、1945年5月17日にナメリング町の生き残りの住民だけでなく、ドイツ人少年にも、ナチス・ドイツの虐殺行為による約800人の犠牲者の死体を見せられてショックを受けた。ブッヘンヴァルト強制収容所から死の行進による囚人の死体を、ナメリング近郊の住民に墓を掘らせて埋葬させた。

 1945年4月11日のブッヘンヴァルト解放から、ラーフェンスブリュック、ダハウなどでさらに数千人を越える囚人の犠牲者が発見された。多くの大小の収容所には、想像を越えたホロコートスチの事態を西側連合軍が発見した。アイゼンハワー将軍は、ジョージ・パットン将軍とオマール・ブラッドリー将軍とともに、ヴァイマル近郊のオールドゥルフにある小規模収容所を訪れ、1945年4月12日に悲惨な有様を目撃した。その後に写真家を派遣して記録させた。連合軍の侵攻により、強制収容所のを至る所で大虐殺は、ある種の狂気の産物となった。

 アイゼンハワー将軍はロシア軍の司令官たちと同様に、連合軍兵士だけでなくドイツ人にもオールドゥルフの大虐殺を見るように命じた。多くの町の人々には、子どもたちも連れて、収容所内を通って行くよう命じた。ドイツ人には、山になった囚人の死体の埋葬を手伝うために徴集された。ライプツィヒでは市長に、ライピツィヒ・モハウの強制収容所の囚人75人の死体を納める棺の提供を命じた。囚人がバラックに閉じ込められ、生きたまま焼き殺された。逃げようとした囚人は、戦車上のヒトラー・ユーゲントに射殺された。死亡した囚人のために、ライプツィヒの共同墓地で葬式と埋葬式が行なわれ、市の役人全員が、キリスト教とユダヤ教の従軍聖職者が主宰する儀式への参列を命じられた。その他900人のドイツ人が自発的にやって来て、墓に花を供えた。オールドゥルフ町長はうまく切り抜けられず、その後に彼と妻は自殺した。




2025年3月3日月曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、1944年3月10日に雪に覆われた高原で、フランスのレジスタンス隊長である28歳のテオドーズ・モレルは、ヴィシー政権の准軍事国家憲兵隊(GMR)との交戦中に戦死した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1944年3月10日に、フランスのレジスタンス隊長である28歳のテオドーズ・モレルは、ヴィシー政権が組織化した准軍事国家憲兵隊(GMR)との交戦中に戦死した。雪に覆われた高原でマキヤード全員が厳粛な葬儀を行った。日を追うごとに、グリエールへのヴィシー政権の締め付けはきつくなった。3月25日に、第157アルプス師団のドイツ軍は3月26日の攻撃に備えて陣地を整えていった。

 マキ・デ・グリエールは、自由フランス・レジスタンスグループであり、1940年から1944年の第二次世界大戦におけるドイツのフランス占領と戦った。オート=サヴォワにおけるマキに対する作戦のきっかけとなったのは、数人の警官の殺害死体の発見だった。 マキはシャブレーとジッフルから120人の戦闘員の到着の恩恵を受けたマキは、モレルは、グリエール高原のアントルモンにあるGMRの隊員に対して、より危険な作戦を指揮した。3月7日に到着したGMRのルフェーブル司令官は、マキとの対話を拒否した。3月9日から10日に、100人以上のマキが作戦に参加した。モレルが直接に指揮を執った部隊が、GMR隊員のいるフランス・オテルの奪取に成功した。捕虜のGMRは武装を解いたが、ルフェーヴルは隠し持っていた銃を取り出して、至近距離からモレルに発砲して、心臓を直撃して、モレルは倒れて死亡した。その直後にルフェーヴルもマキによりすぐに殺害された。

 1944年3月26日に、ドイツ軍は攻勢に転じた。ドイツ軍のパトロール隊の一隊は山岳部隊で、高原の出口を攻撃し、後方の前進基地を占領した。マキは、多勢に無勢でドイツ軍に圧倒されて、撤退を命じられた。その後の数日間で、ドイツ軍は120人のマキを殺害した。サヴォワ地方の被害と敗北は、1944年春のフランス・レジスタンスに弾みをつけた。





2025年3月2日日曜日

広島原子爆弾で、山口明さんは顔と前腕に火傷を負った。被爆者は火傷によるケロイド上の傷跡が残った。

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-285521, 285522












































SC-285522

(FEC-47-72298)14752

14 MARCH 1947

ATOMIC BOMB SURVIVOR RETAINS SEVERE SCARS FROM BURNS :

AKIRA YAMAGUCHI SUSTAINED BURNS OF HIS FACE AND FOREARMS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA.

PHOTOGRAPHER-BLOCK

Atomic Bomb Casualty

RELEASED FOR PUBLICATION 

PUBLIC INFORMATION DIVISION 

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps U.S. Army


SC-285522

(FEC-47-72298)14752

1947年3月14日

火傷の傷跡が残る被爆者:

広島原爆で顔と前腕に火傷を負った山口明さん。

写真ブロック

原爆死傷者

公開

広報部

ワシントンの陸軍省

米陸軍通信隊撮影




























SC-285521

717(FEG-47-72297)14752

14 MARCH 1947

ATOMIC SOMB SURVIVOR RETAINS SEVERE SCARS FROM BURNS:

AKIRA YAMAGUCHI SUSTAINED BURNS OF HIS FACE AND FOREARMS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA,

PHOTOGRAPHER-BLOCK

14752

Atomic Bomb Casualties

RELEASED FOR PUBLICATION 

PUBLIC INFORMATION DIVISION WAR DEPARTMENT, 

WASHINGTON WAR DEPARTMENT

Photograph by Signal Corps U.S. Army


SC-285521

717(FEG-47-72297)14752

1947年3月14日

火傷の傷跡が残る被爆者

広島原爆で顔と前腕に火傷を負った山口明さん、

写真ブロック

14752

原爆死傷者

公開

ワシントン陸軍省広報部

ワシントン陸軍省

写真提供:アメリカ陸軍通信兵団

2025年3月1日土曜日

ドナルド・トランプ大統領は、2025年2月28日の大統領執務室での会談で、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領を「無礼だ」と非難して、突然に鉱物の取引への署名を中止した。

ドナルド・トランプ大統領は、2025年2月28日の大統領執務室での会談で、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領を「無礼だ」と非難して、突然に鉱物の取引への署名を中止した。ゼレンスキー大統領は、ワシントンのトランプ大統領執務室での一触即発の後に、鉱物取引に署名することなくホワイトハウスを去った。

 驚くべき事態は、ヨーロッパと世界中の情勢を混乱させる可能性がある。トランプ大統領との訪問中に、ゼレンスキー大統領はアメリカがウクライナのレアアース(希土類)鉱物をより多く入手できる協定に署名し、共同記者会見を開く予定だった。報道陣の前で両首脳が白熱した口論を繰り広げた後に、計画は白紙に戻された。

 トランプ大統領は、開戦以来キエフ政府に送られた1,800億ドル以上の援助に対するアメリカへの返済が不可欠だと主張した。この一触即発の事態が何を意味するのかは不明だ。トランプ大統領がゼレンスキー大統領に、この協定を軌道に乗せるために何を望んでいるのか、もし何かあるとすれば、それはまだわからない。

 ウクライナの指導者は、トランプが彼を怒鳴りつけ、公然と軽蔑を示した直後に、トランプ大統領によってホワイトハウスを去るよう求められた。「あなたは第三次世界大戦に賭けている。あなたのしていることは、多くの人が言う以上にあなたを支援してきたこの国に対して、とても失礼なことだ」とトランプはゼレンスキーに言った。

 約45分間の会談の最後の10分間は、トランプ大統領、JDバンス副大統領、そしてゼレンスキー大統領の間で、緊張したやりとりが続いた。ゼレンスキー大統領は、モスクワの長年にわたる世界的な舞台での約束破りを引き合いに出し、ロシアの外交へのコミットメントに懐疑的な見方を促した。

 ゼレンスキーの主な目的は、トランプに自国を見捨てないよう圧力をかけ、ロシアの大統領ウラジミール・プーチンに近づきすぎないよう警告することだった。その代わりに彼は怒鳴られ、トランプはカメラに向かってドラマを演じた役者に見えた。





















Warning: The argument began when JD Vance accused Zelensky of disrespecting the US (EPA)

2025年2月28日金曜日

スパルタシストの蜂起で、1919年9月3日にベルリンでドイツ政府軍とスパルタシストの間で、街頭での公共の場で戦闘が起こり、死者や負傷者や死者が路上に倒れ込んだ。

1919年9月3日に第一次世界大戦でのドイツの敗戦後に起こったスパルタシストの蜂起の際に、ベルリンでドイツ政府軍の治安部隊とスパルタシストの間で、街頭での公共の場で戦闘が起こった。通りでは銃撃により射殺されて、街路路には死体が散乱した。多数の死者を出した戦闘により、死者や負傷者や死者が路上に倒れ込んだ。  

 1919年1月、スパルタクス革命は決定的かつ暴力的な展開を見せた。ベルリンでスパルタクスの反乱が起こり、SPDとUSPDの連立政権が崩壊した後に、首都ベルリンで反乱が燃え上がった。1月5日に、スパルタクス同盟は革命的労働者と兵士らを反乱に扇動して、人民代議員会の解散を宣言した。左翼過激派の革命家たちはベルリンの出版社を占拠して、革命委員会を結成した。人民代議員会との交渉が決裂した後に、ヴァイマール共和国の国防相グスタフ・ノスケはドイツ帝国軍に反乱鎮圧を命じた。ドイツ内戦のような無慈悲な街頭戦闘が続いて、帝国軍は自らの地位を強化した。スパルタクスの反乱の暴力は敗北だけで済まなかった。政治的掃討作戦として、ヴァイマール軍隊と自由軍団は、ベルリンの労働者階級地域をくまなく捜索して、革命的労働者を見つけ出して強制収容した。

 掃討作戦後により、スパルタシストの指導者であるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは逮捕して、尋問して、銃殺した。ドイツ全土で反乱が鎮圧された。共産党の軍事力はドイツ国内では壊滅的な打撃を受けた。左右両派の反乱や脅威にもかかわらず、エーベルト政権と後継のワイマール政権は1930年代まで続いて、ナチズムのファシストが台頭した。






2025年2月27日木曜日

1910年10月に、台湾の高地原住民は台東庁卑南街にて敵の首を離断する「出草」により、青年の壮丁が殺害された。壮丁の死体は、体と首とを離断した。

1910年10月に、台湾の高地原住民は台東庁卑南街にて敵の首を離断する「出草」により、青年の壮丁が殺害された。壮丁の死体は、体と首とを離断した。死体の四肢には、鉄線や鋼線などで縛られていた。日本が統治者の権力をかざし無理やりに抑え込むと、生活習慣が全く異なる台湾の山地原住民が反発して紛争が勃発した。

 台湾の山地原住民は、「出草」と呼称した首狩を執行した。敵を待ち伏せて銃で射殺した。あるいは格闘して敵を討ち取った。その後に、敵の首を蛮刀で離断した。山地原住民は、離断した頭部を集めては、首棚に飾った。数多くの「出草」した山地原住民は、村落では勇敢であると尊敬された。

 1895年に、日清戦争に勝利した日本は、清より台湾を割譲された台湾の領有を開始した。清国時代の分類を基に、日本は原住民を「平埔族」と「高山族」に分類した。原住民は抗日運動のゲリラである土匪ともなった。1907年に抗日事件の北埔事件が起こり、1930年には霧社事件がそれぞれ勃発した。1935年に、秩父宮雍仁親王の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる台湾の部族間の共通語として機能した。日本総督府は、蕃人と呼称される台湾原住民には、無主地論により土地収奪、警察権力により同化政策を執行した。

 彼らは台湾の総人口約2,234万人のうち約1.9%(2001年現在)を占める少数民族である。台湾社会は約2,234万人のうち原住民が約1,9%、それ以外の大多数は漢民族の構成になっている。山地原住民は、各民族独自の文化をもって農業や狩猟を主な仕事として山地で生活した。しかし、近年大多数の漢族との共存により、山地開発、資本主義導入による出稼ぎの増加や都市生活への転換等が起こり、そ生活体系や文化に変化が生じている。




2025年2月26日水曜日

ソ連赤軍はフィンランド湾に浮かぶコトリン島の要塞のクロンスタットの反乱軍に対する戦闘が繰り広げられ、白兵戦となった。3月18日朝に、島は赤軍の支配下に置かれた。

1921年3月16日から17日の夜に、5万人のソ連赤軍により3月7日に勃発したロシアの港湾都市のクロンスタットでの反乱に対する最後の攻撃が始まった。トロツキーの赤軍主力部隊が南のオラニエンバウムとペテルスブルクから突撃した。守備隊の数は1万2000人から1万4000人で、そのうち1万人は水兵で、残りは歩兵であった。赤軍はフィンランド湾に浮かぶコトリン島の要塞に近づき、戦闘が繰り広げられ、白兵戦となった。3月18日の朝までに、島は共産主義勢力の支配下に置かれた。数百人の反乱した捕虜が虐殺された。敗北した反乱軍の一部は、指導者も含め、逃亡した。

 戦艦ペトロパブロフスクと戦艦セヴァストポリの乗組員は、整備士学校、魚雷分遣隊、通信部隊の士官候補生と同様に、最後まで戦い抜いた。6,528人の反乱軍が逮捕され、うち2,168人(33%)が銃殺され、1,955人が強制労働の判決を受けて、うち1,486人が5年の刑となり、1,272人が釈放された。1935年から6年の反乱の統計調査では、逮捕者数は10,026人とされた。反乱軍の家族は国外追放となり、シベリアが唯一の適切な追放地域と見なされた。

 ソ連軍はクロンシュタットの襲撃で1万人以上の死傷者を出した。反乱軍の死者数や、チェカに射殺され収容所に送られた人数は、不詳である。反乱の敗北の直後に、4,836人のクロンシュタットの船員が逮捕され、クリミアとコーカサスに追放された。レーニンは4月19日に彼らは強制労働収容所に送られた。8000人の水兵、兵士、民間人が氷上をフィンランドに逃れた。フィンランド政府はその後に、凍った湾の上に横たわっていた数千の死体を撤去するようにソ連赤軍に要請した。




2025年2月25日火曜日

1943年に、ドイツ軍によって殺害された人々の死体がカディウフカの鉱山から回収された。1942年7月12日に、ドイツ軍はウクライナのドンバス地方のカディウフカを占領した。

1943年に、ドイツ軍によって殺害された人々の死体がカディウフカの鉱山から回収された。第二次世界大戦の最中の1942年7月12日に、ドイツ軍はウクライナのドンバス地方のカディウフカを占領した。

 1942年にソビエト連邦の軍隊と行政がカディウフカを撤退した。その後、カディウフカの街はドイツ軍に侵略されて支配下に入った。ドイツ軍の占領中には、カディウフカではパルチザン部隊を含む広範な地下組織である個々のパルチザンがドイツ軍の占領軍と戦った。そのドイツ軍から解放された後に、町はセルゴからカディウフカの名称に戻り、1978年まで保持された。

 スタリノと呼称されたドンバスのロシア人居住区にあるシャフティ市では、1943年4月4日と4月5日に、ドイツ軍は13,854人の民間人と10,260人のソ連軍捕虜を殺害した。その殺害の大半はドイツ軍とその同盟国によって行われた。ドンバス作戦(1943年8月13日-9月22日)にて、ソ連軍はナチス・ドイツ軍に対するドネツ盆地解放のためのソ連軍の戦略的軍事作戦を執行した。ソ連軍は、273 500人の死傷者の犠牲を出した。どいつぐんかの犠牲者は不詳である。

 2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争により、2022年4月18日からのドンバスの戦いで、ロシア軍はウクライナに侵攻して軍事攻勢した。ロシア軍は侵攻して、ドンバスのウクライナ軍を包囲し、4月29日にドネツク州とルハンスク州の全体を親ロシア派が支援する分離主義国家であるドネツク人民共和国(DPR)とルハンスク人民共和国(LPR)に併合した。




2025年2月24日月曜日

沖縄戦のシュガーロフの戦いにて、1945年5月10日の安謝川の渡河の戦闘でアメリカ軍海兵隊兵士は、日本軍によって殺害された。その後に、海兵隊員の死体が担架で搬送されてアムトラックに収容された。

沖縄戦のシュガーロフの戦いにて、1945年5月10日の安謝川の渡河の戦闘でアメリカ軍海兵隊兵士は、日本軍によって殺害された。その後に、海兵隊員の死体が担架で搬送されてアムトラックに収容された。

 5月10日未明に、アメリカ軍は内間の西側で安謝川に架橋して南下して来た。同方面の防衛に当たっている日本軍の独立第2大隊から派遣された橋梁爆破挺身隊は、架橋の爆破に成功して、アメリカ軍の渡河を妨害した。挺身隊の損害は日本軍兵士1人であった。日本軍の独立第2大隊は、侵攻するアメリカ軍の阻止に努めた。次第に、アメリカ軍の兵力は逐次に増強されと、5月10日夕刻には安謝の部落の東西の線をアメリカ軍軍に占領された。内間付近でも、アメリカ軍の強力な攻撃を受けた。日本軍は、内間北東側高地を確保してアメリカ軍の侵攻を阻止した。

 アメリカ軍工兵隊は、5月10日の夜から5月11日の深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川に、浮橋を架けて、アメリカ軍の攻撃支援部隊の戦車隊や重砲類を渡河させた。沖縄の首里の高地からは、安謝の海岸はまる見えであった。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと砲撃を継続した。日本軍歩兵も、砲兵と相呼応して激しくアメリカ軍に抵抗した。日本軍の砲火のなかでも、海兵隊は侵攻して進撃した。アメリカ軍大隊が、安謝の南方800m地点にある丘の頂上に登ったが、日本軍の防備は固く、ついに火炎放射器の射手一人をのぞいてアメリカ軍全員が死傷した。

 沖縄戦の激戦地となった字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地は、日本軍は「すりばち丘」、アメリカ軍は「シュガーローフ」と呼称した。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝であり、アメリカ軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間での攻防は、1945年5月12日から5月18日かけて、1日のうち4度も頂上の争奪戦が繰り返す激戦の末に、5月18日に至ってアメリカ軍が制圧した。アメリカ軍はシュガーロフの戦いで戦死者2,662人と1,289人の心的外傷後ストレス障害を出た。日本軍の犠牲者は不詳であるが、学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。




2025年2月23日日曜日

25歳の女性は、広島で原子爆弾が投下された時に、飛散したガラスで裂傷を負った場所には、1947年4月23日に厚い傷跡が残っていた。

          非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-2852775 ・SC-285276

SC-2852775 





























SC-2852775 














SC-285276

















SC-285276














SC-2852775 ・SC-285276

(FEC-47-73513)14868

23 APRIL 1947

ATOMIC BOMB SURVIVORS RETAIN SCARS:

YOSHIE AMAHA, AGE 25, RETAINS THICK SCARS AT LOCATIONS WHERE LACERATIONS OCCURRED FROM FLYING GLASS AT THE TIME OF THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA. SHE PS BEING TREATED AT THE TOKYO IMPERIAL UNIVERSITY HOSPITAL.

RELEASED FOR PUBLICATION

PUBLIC INFORMATION DIVISION WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Atomic Bomb Casualties

Photograph by Signal Corps U.S. Army


SC-2852775 ・SC-285276

(FEC-47-73513) 14868

1947年4月23日

太い傷跡が残っている被爆者

天羽芳江さん(25歳)は、広島で原子爆弾が投下された時に、飛散したガラスで裂傷を負った場所には、厚い傷跡が残っている。

芳枝さんは当時、東京帝国大学病院で治療を受けている。

ワシントンの陸軍省広報部

原爆被爆者

写真提供:アメリカ陸軍信号隊

2025年2月22日土曜日

イスラエル・パレスチナ戦争にて、パレスティナのガザ地区で、2024年12月15日のイスラエル軍の空爆で、アルジャジーラのジャーナリストであるアフマド・ベイカー・アルルー(右)と3人の市民防衛隊員が殺害された。

イスラエル・パレスチナ戦争にて、パレスティナのガザ地区で、2024年12月15日のイスラエル軍の空爆で、アルジャジーラのジャーナリストであるアフマド・ベイカー・アルルー(右)と3人の市民防衛隊員が殺害された。アルルーはヘルメットをかぶり、プレス用のウエストコートを着用していた。 ガザ地区のヌセイラットで12月16日に挙行された葬儀にて、弔問客が前日のイスラエルの空爆で死亡したの死体の前で祈りを捧げた。

 アルジャジーラによると、アフマド・ベイカー・アルルー(39歳)は、以前の爆発で負傷した家族の救助活動を記録している最中に殺害された。国際ジャーナリスト連盟が先週に発表した報告書によると、2024年に殺害された104人のジャーナリストとメディア関係者の半数以上がガザで死亡した。アル=アクサ殉教者病院の報告によると、同病院の現地責任者を含む3人の市民防衛隊員もこの攻撃で殺害された。ハマスが運営する政府は、ガザの主要な救助組織である民間防衛を監督している。イスラエル軍によれば、空爆は民間防衛組織の本部内にある司令部にいるイスラム聖戦とハマスのテロリストを標的にした。ガザにいるジャーナリストの同僚は、アルルーがイスラム聖戦のメンバーの容疑を非難にして反論した。

  パレスチナ保健当局は、12月16日にガザ地区の死者数を45,028人に更新した。戦争が始まって以来、106,962人が負傷して、何千もの死体が瓦礫の下に埋もれて、衛生兵が近づけない場所にあるため、本当の犠牲者数はもっと多いと警告した。同省の数字は戦闘員と民間人を区別していないが、死者の半数以上を女性と子供が占めている。何の証拠もないまま、イスラエル軍は17,000人以上のテロリストを殺害したと主張している。死者は、戦前のガザの人口230万人強の約2%であり、イスラエルとハマスとの間の紛争として最悪の人数である。













Warning: Mourners pray in front of the body of Al Jazeera journalist Ahmad Baker Al-Louh (R) and members of the Civil Defence, who were killed in an Israeli strike the day before, during their funeral in Nuseirat(AFP)


2025年2月22日  
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2025年2月21日金曜日

沖縄戦にて1945年6月中旬に、アメリカ軍による掃討戦により、摩文仁の付近の岩穴から、瀕死に負傷した10代男性の鉄血勤皇隊員が引きずり出された。

沖縄戦にて1945年6月中旬に、アメリカ軍による掃討戦により、摩文仁の付近の岩穴から、瀕死に負傷した10代男性の鉄血勤皇隊員が引きずり出された。アメリカ軍兵士らによって、重傷の鉄血勤皇隊員が洞穴から引きずり出された。沖縄戦において正規部隊に併合され、実際に戦闘に参加し多くの戦死者を出した。

 鉄血勤皇隊は、第二次世界大戦末期の日本の沖縄県にて、防衛召集により動員された日本軍史上初の14歳から16歳の学徒による少年兵部隊である。1942年10月の陸軍省令改正による防衛召集は「待命」が違って、待命中は民間の仕事に従事し、必要なときに限り召集され防衛する。連合国軍上陸が迫る沖縄では14歳から17歳の中学生の少年を鉄血勤皇隊として防衛召集した。沖縄師範学校の生徒は第32軍司令部に配属され、情報工作する千早隊、塹壕掘りや爆撃で破壊された道路や橋の修理を担う野戦築城隊、司令部壕前の立哨などに就いた斬込隊に分散された。

 沖縄の10代の若人たちの鉄血勤皇隊は悲惨で甚大な犠牲となった。戦時下の沖縄には、12の男子中等学校と10の女学校があった。すべての学校の10代の生徒たちが、沖縄守備軍と県当局及び学校当局との緊密な強制下で、 戦場に駆り出され、過半数が犠牲になった。男子生徒たちは、1786人以上 が軍に動員され、921人以上が戦死した。女子生徒は735人中、296人が犠牲になった。10代の若人たちを戦場に出す国会で法案にも基づかず、沖縄の10代の男女生徒たちは、法的根拠もないままにら超法規的に戦場に駆り出された。沖縄守備軍司令部首脳が自決した、1945年6月22日の翌23日になって初めて「義勇兵役法」が公布されて施行された。日本本土の男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳までを戦闘員として戦場に出すことが可能になった。





















2025年2月21日  
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