2024年12月5日木曜日

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。 この大虐殺は、犠牲者の数が比較的多かったことと、犠牲者を生きたまま氷に凍らせた加害者たちによる「不必要な残酷さ」で注目された。

 11月3日に、クリミア半島の港湾都市フェオドシアは、ドイツ軍の第46師団と第170歩兵師団の部隊によって占領された。12月29日に、ソ連赤軍の海兵隊と正規歩兵がフェオドシアの海岸に上陸して、街を占領した。ドイツ国防軍最高司令部が作成した資料では、「負傷の有無にかかわらず、フェオドシアのドイツ人を一人残らず殺すようにとの命令が出された。」

 1942年1月18日、ドイツ軍はフェオドシアを再占領して、約160人の負傷したドイツ軍兵士の大虐殺を発見した。ソ連赤軍の歩兵はほとんどが酔っ払って、約160人の負傷者を殺した。負傷兵は、ソ連赤軍により病院の窓から投げ出され、重傷兵には水をかけて凍死させ放置された。野戦病院前の浜辺では、殴られ、切り刻まれた後、数メートルの高さの壁から投げ出され、波打ち際に放置された死体が山積みされた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、黒海の岸辺でクリミア半島にフェオドシアの港町が、1941年11月3日に、ドイツ軍は占領して、ケルチ半島を制圧した後に、セヴァストポリ攻撃に集中させるため、この方面からドイツ軍の撤退を決定した。フェオドシアには防衛のためのドイツ軍小部隊だけが残され、戦闘で負傷した兵士は市内の病院で療養した。

 12月29日の午後に、ソ連赤軍の黒海艦隊から砲撃を受け、ソ連赤軍の海兵隊がフェオドシアに上陸し、ケルチ攻防戦でドイツ軍の防衛を圧倒した。1942年1月18日にドイツ軍によって奪還され、約6,700人のロシア軍兵士を殺害し、10,000人を捕虜にした。港町に入ったドイツ軍兵士は、ドイツ軍兵士のほとんどが惨殺された恐ろしい光景に遭遇した。




2024年12月4日水曜日

1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、ペリリュー島の戦いで殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。

太平洋戦争にて、パラオ諸島のペリリュー島の戦いにて、アメリカ軍の海兵隊がペリリュー島に1944年9月15日に上陸した直後に、2人の日本軍兵士を殺害した。その後に1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。海兵隊員のポケットは、日本軍兵士から略奪した戦利品で一杯に膨らんだ。その後方の2人の日本軍兵士は、手投げ弾を胸に抱いて爆破させて自決した。右後方で日本軍機のゼロ戦が破壊された。

 1944年9月15日、第1海兵師団がペリリュー島西部の海岸に上陸した。その後の数週間、恐るべき激しさに達した戦闘によって、ペリリュー島には戦争の残骸が散乱した。ジャングル周辺には生きた手榴弾、迫撃砲弾、砲弾、小火器弾が散乱している。ペリリュー島の南西海岸に上陸した第1海兵師団は9月15日から戦闘を開始した。第1海兵隊は約594mの凹状の砂浜であるホワイトビーチに上陸した。区域の一番北端には、海岸線から約13.7m突き出た自然の岩があり、日本軍は機関銃と自動砲を、一連のコンクリート掩体壕に隠して、戦闘初日に第1海兵連隊が苦戦を強いられた。

 約3ヶ月前のサイパン陥落後に、日本軍は無意味な「バンザイ」突撃が、非生産的で無駄であることを悟った。ペリリュー島での日本軍の戦闘は、戦闘を長引かせ、アメリカ軍を可能な限り長時間拘束する消耗戦となった。硫黄島や沖縄でも長期の防衛戦が続いたが、ペリリュー島の戦いで戦略が初めて執行された。1944年11月27日に司令部陣地の日本軍兵士が全員が自決して終結した。




2024年12月3日火曜日

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。国道1号線、正式には国道1Aは、中国とベトナムの国境に近いフー・ギ・クアン国境ゲートからベトナムの主要都市を貫いている。20世紀初頭にフランスの植民者がこの高速道路を建設した。国道1号線の封鎖で、北ベトナム人民軍(PAVN)が、復活祭攻勢中の1972年4月29日から5月2日に、南ベトナムのクァンチーとフエの間にある国道1号線上で、南ベトナムの兵士と民間人の約2000人を殺害した。

 1975年1月6日に、南ベトナム軍は壊滅的な敗北を喫し、北ベトナム軍はフォックロン市とその周辺の州を占領した。この攻撃はパリ和平協定の明白な違反であったが、アメリカ軍からの報復はなかった。

 1975年3月1日に、南ベトナム中部高原地帯で、北ベトナム軍の強力な攻勢が始まる。南ベトナム軍は混乱し、撤退を余儀なくされ、6万人近い兵士が死亡または行方不明となる。1975年3月には、北ベトナム軍の新たな攻勢により、10万人の兵士がクァンチ省、フエ、ダナンの主要都市に侵攻した。強力な機甲部隊と8個砲兵連隊の支援を受けた北ベトナム軍は、クァンチ省を迅速に占領した。3月25日に南ベトナム第3の都市フエが北ベトナム軍に陥落した。

 1975年4月初旬に、北ベトナム軍は作戦開始から5週間後に、目覚ましい進展を遂げた。南ベトナムの12の省と800万人以上のベトナム人が、北ベトナム軍の支配下に置かれた。南ベトナム軍は最精鋭部隊を失って、兵士の3分の1以上、武器のほぼ半分を失った。

 1975年4月29日に、沖合のアメリカ軍の空母から飛び立った海兵隊と空軍のヘリコプターが大規模な空輸作戦を開始した。18時間以内に、1,000人以上のアメリカ市民と7,000人近い南ベトナムの難民がサイゴンから脱出した。1975年4月30日午前4時3分に、サイゴンのタンソンニャット空港でロケット攻撃により2人の海兵隊員が死亡した。彼らはベトナム戦争で亡くなった最後のアメリカ人となった。夜明けとともに、アメリカ大使館を守っていた最後の海兵隊員が撤収した。数時間後に、略奪者が大使館を荒らし、北ベトナムの戦車がサイゴンに進軍し、ベトナム戦争は終結した。約15年間に、北ベトナム軍とベトコンの兵士が100万人近く、南ベトナム軍兵士が25万人死亡して、アメリカ軍兵士が5万8千人が死亡して、数十万人の民間人が命を落とした。




2024年12月2日月曜日

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。イタリア軍はオスマン・トルコの支配下にあったリビアの侵略戦争に勝利後に、トリポリでイスラム教徒のベルベル人を絞首刑にした。イタリア空軍の優勢により、キレナイカとトリポリタニアに駐留していたトルコ軍兵士の約8000人だけでなく、約2万人にも及ぶ先住民のベルベル人の非正規軍が、侵略者であるイタリア軍に抵抗して多大の犠牲の代償を支払った。イタリアは、イタリア・トルコ戦争に総勢10万人の兵士を投入した。

 1911年9月29日午後2時30分に、イタリアはトルコに宣戦布告して、イタリア・トルコ戦争が勃発した。約2万人のイタリア軍は、1911年10月10日と12日の2回に分けてトリポリに上陸した。イタリア軍は、トルコ軍の4,000人の部隊、特に先住民のベルベル人騎兵隊から激しい抵抗を受けた。1911年10月23日と26日、トリポリ郊外で先住民にイタリア軍は攻撃されて、数百人が死亡した。イタリア軍は、先住民の攻撃は撃退して、先住民を厳しく処罰し、4,000人以上を殺害した。

 イタリア軍は、オスマン・トルコ本国を砲撃して、1912年5月にはロードス島とドデカネス諸島の占領に至った。1912年10月8日に第一次バルカン戦争が勃発して、両国は10月18日にウチ条約を締結した。イタリア・トルコ戦争の結果、オスマン帝国は弱体化して、バルカン化半島では国家や民族の分裂で内紛が拡大して、第一次世界大戦の内因となった。




2024年12月1日日曜日

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。

           非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-228538
















SC-228538

Col. John Hall, Surgeon X Corps, potass to burns of an atomic bomb victim, while Secretary of War Robert P. Patterson and Lt. Gen. C. P. Hall look on with interest, Japan 1/10/1946

Signal Corps Photo #WPA-46-64437 (Mundelius) released by BPR 3/12/1946

orig. neg. Lot 13455  Ref  228538

Ref


SC-228538

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。ロバート・P・パターソン陸軍長官とC・P・ホール中将が興味深そうに見守っている。日本、1946年1月10日

通信部隊撮影 #WPA-46-64437 (Mundelius) 1946年3月12日 BPRより公開

原盤ネガ。ロット13455。リファレンス 228538

2024年11月30日土曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年1月28日に、ウクライナのドネツク州シヴェルスク近郊の前線にて、塹壕の周囲にロシア軍兵士の死体が放置された。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年1月28日に、ウクライナのドネツク州シヴェルスク近郊の前線にて、塹壕の周囲にロシア軍兵士の死体が放置された。最前線で解凍されたロシア軍兵士の悲惨な死体が浮き出てきた。特にワグナー傭兵グループの訓練を受けていないロシア囚人の死体が前線らに放置されていた。冬が終わり、地面が解けるにつれて、最前線では不穏な死体が明らかになりつつある。

 主にワグナーPMCに代表されるロシア軍は、2022年7月以来、ドンバスにおける重要な輸送拠点であり、クラマトルスク、スラビャンスク、トレツク、シヴェルスクへの攻撃ルートをカバーするウクライナの要塞地域であるバフムートの占領を繰り返した。シヴェルスクへの攻撃ルートは、クラマトルスク、スラビャンスク、トレツク、シヴェルスクへの攻撃ルートをカバーしている。シヴェルスク町は、この方角に他の集落同様に、ロシア軍の砲撃の射程圏内にあった。France-Presse通信は、1月28日に撮影されたシヴェルスク近郊の前線の塹壕の周囲で死亡したロシア軍兵士の死体の写真を掲載した。

 ロシアは、ウクライナの擁護者たちをあぶり出すために、捕虜や訓練不足の徴兵の大群の肉弾戦をウクライナ軍に浴びせた。死体は生け贄のようにロシア軍隊が放置した。戦闘行為で手一杯のロシア軍は、棺に入れられたロシア軍兵士をほとんど祖国のロシアに返していない。 ロシア軍兵士の死体は放置されたり、積み上げられたり、移動火葬場や即席の炉で火葬されたり、急いで埋葬されたり、冬の間は腐ったり凍ったりして、放置された。ロシア軍の損害は死傷兵約18万人に近づき始めた。ウクライナ軍の損失はロシア軍ほど大くなく、推定では、ウクライナ軍の兵員は約10万人、民間人は約3万人が損失した。 




2024年11月29日金曜日

日本軍はシベリア出兵にて、1919年11月に日本軍の細野支隊はシベリアのホメヤコフ北方高地で、ポリシェビキ赤軍の襲撃を受けて交戦した。ロシアのポリシェヴィキ赤軍は、仲間の死体を残して退却した

日本軍はシベリア出兵にて、1919年11月に日本軍の細野支隊はシベリアのホメヤコフ北方高地で、ポリシェビキ赤軍の襲撃を受けて交戦した。ロシアのポリシェヴィキ赤軍は、仲間の死体を残して退却した。日本軍とポリシェヴィキ赤軍は、機関銃は100m以内にて射撃して、初期より手榴弾が爆裂して、至近距離での接近戦となった。

 1919年9月から日本軍連隊は、ロシアのポリシェヴィキ赤軍との戦闘に突入した。9月下旬には、激しいバクダットスカヤの戦いが勃発した。ポリシェヴィキ赤軍は、不利になれば森林地帯に逃げ込み、不意に乗じて武器で日本軍を急襲した。バクダットスカヤの戦いでは、日本軍の将校3人、下士官約46人が戦死した。

 第一次世界大戦末期の1917年10月に、ロシアで革命が起こり、世界初の社会主義政権が誕生した。連合国は、いち早く軍事干渉を起こした。日本は、中国のみならずシベリア・沿海州にも手を伸ばそうとする日本軍の大兵力を送った。日本軍のシベリア出兵は1918年1月12日から1922年6月24日まで、ロシア内戦中のボリシェヴィキ赤軍に対抗する白系ロシア軍を支援した。日本軍は1,399人が死亡し、さらに1,717人が病死した。ボリシェヴィキ赤軍は、2,887人が死亡し、1,421人が戦傷した。シベリアの凍土で孤立した日本陸軍は、ロシアから手痛い撤退を喫した。




2024年11月28日木曜日

日露戦争の1904年の旅順攻囲戦において、旅順郊外の丘の中腹で、日本軍に殺害されたロシア軍兵士の死体は集積されて共同墓地に埋葬されるのを待っていた。

日露戦争の1904年の旅順攻囲戦において、旅順郊外の丘の中腹で、殺害されたロシア軍兵士の死体は集積されて埋葬されるのを待っていた。旅順の郊外の地上に散乱したロシア軍兵士の並べられた死体は、共同墓地に埋葬されるのを待機した。1904年8月中旬に、旅順港一帯に対する日本陸軍の総攻撃が開始された。日本の攻撃部隊が約5万人で、ロシア軍の旅順守備部隊は約4万人であった。両軍ともに膨大な死傷者を出し、激しい砲撃と銃撃によって多数の兵士が犠牲になった。

 旅順攻防戦は1904年8月19日から1905年1月1日まで日露戦争の開戦を告げた。旅順は満州の遼東半島の先端にある深水港であり、ロシア海軍の基地であった。旅順港は当時、世界で最も強固に要塞化された陣地のひとつであった。日露戦争で最も長く、最も激しい陸戦であった。旅順攻防戦の過程でロシア陸軍は31,000人の死傷者を出し、うち15,000人が死亡、負傷、行方不明となった。

 旅順攻囲戦の過程でロシア陸軍は31,306人の死傷者を出し、うち少なくとも6,000人が死亡した。15,000人の死者、負傷者、行方不明者と低い数字も主張された。旅順攻防戦の最後に、日本軍はさらにロシア軍の878人の陸軍将校と23,491人のその他の階級を捕虜にした。さらに、ロシア軍は旅順港を拠点とする艦隊をすべて失い、撃沈されるか抑留された。日本軍は8,956人の船員を捕虜にした。日本軍の死傷者は57,780人(死者、負傷者、行方不明者)うち14,000人が死亡したと公式に発表された。さらに33,769人が包囲中に病気になり、そのうち21,023人が脚気となった。日本海軍は、2隻の戦艦と4隻の巡洋艦を含む16隻の船を失った。日本軍の死傷者数は、94,000から110,000とより高い見積もりになった。




2024年11月27日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線のソンムの戦いにて、イギリス第4軍の突撃戦線で、最南端のカルノワとモントーバンの間の砲弾の穴の中に、多数のドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にてソンムの戦いにおいて、イギリス第4軍の突撃戦線により、最南端のカルノワとモントーバンの間の砲弾の穴の中に、多数のドイツ軍兵士の死体が散乱した。ソンムの戦いの初日である1916年7月1日に、イギリス軍のモントーバンの攻略が勃発した。塹壕に砲弾が直撃すると、瞬時に10人以上の兵士が殺傷された。死体が埋められないままで放置され、埋めても以後の戦闘で掘り返された。死体の傍で、兵士らは連続して何週間も過ごした。ソンムの戦いの間、兵士たちは繰り返し大量殺戮の光景に直面した。

 イギリス軍は、ドイツ軍陣地を破壊する膨大な量の砲弾を装備した。24kmにわたり60m以下の間隔で重砲と迫撃砲を並べて、鉄条網を破壊する野砲も用意した。当時の戦闘は、歩兵は砲撃後に前進して敵を掃討した。突破口の中央部で前進する部隊が側面から射撃を受けないよう、攻撃をかける戦線の幅は以前よりも広く取られた。しかしイギリス軍には、攻撃正面の敵の防衛部隊を圧倒できる火砲と砲弾がなかった。砲弾で、鉄条網を散乱させるだけで、歩兵が通り抜ける間隙を作り出すことは困難だった。鉄条網の間隙が少なく狭過ぎて、イギリス軍の攻撃部隊自らが鉄条網を排除する必要があり、前進する際の深刻な障害になった。

 イギリス軍の攻撃側の歩兵部隊は、射撃と移動を繰り返しながら可能な限り迅速に前進することが求められた。部隊は少し前進するごとに地面に伏せるか遮蔽物に隠れて射撃を行い、前進中の他の部隊を援護した。ソンムの戦いでイギリス軍部隊は、肩と肩が触れるほど密集して横一列に並び、ゆっくりとした歩速で前進した。戦線全域で高地を占拠したドイツ軍が有利な状況にあり、連合軍の攻勢に対して防御態勢を強化した。砲撃がやんで、ドイツ軍が9mの深さまで掘った地下壕から這い出し、機関銃を定位置に設置して射撃すると、緩慢な速度で前進したイギリス軍の攻撃部隊は、立ち往生した。




 

2024年11月26日火曜日

硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。

第二次世界大戦の太平洋戦争末期の硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。地下壕には、洞窟式の地下交通路が連なっていた。日本軍兵士の大半は、このようなトンネル内で絶命した。

 硫黄島一帯に散乱した死体は最大の猛威によって殺戮された。むごたらしくズタズタに切り刻まれた死体の大群が散乱した。多数の死体は胴体を真っ二つに切断されて、遠くにバラバラに散乱した。ある地域では日本軍兵士の死体の燃える悪臭がとてもひどかった。

 硫黄島の戦いは、攻撃側のアメリカ軍が、防御側の日本軍よりも、犠牲者が上回った。アメリカ軍の約7000人が戦死して、戦傷者は約1万9,000人に達した。硫黄島の戦いの、戦死者数と戦傷者数の詳細は『硫黄島作戦』を参照した。アメリカ軍の戦死者は、海兵隊の士官は278人、下士官は5,653人に昇った。海軍の将兵は881人、陸軍の将兵は9人が戦死した。アメリカ軍は合計6,821人が戦死した。日本軍は、陸軍兵士の12,850人と海軍兵士の7,050人が戦死し、合計で約19,900人が戦死した。

  太平洋上に浮かぶ小さな硫黄島に、1945年2月19日から3月26日にかけて、 日本軍とアメリカ軍のあいだで血みどろの戦いがくり広げられた。日本軍兵士2万933人が硫黄島を死守せんと立て籠もった。攻略するアメリカ軍は艦船800隻、航空機4000機、総兵力25万を擁して上陸作戦が開始された。日本軍はすでに8ヵ月前の1944年7月9日にサイパンを失って、1944年10月20日には、レイテ島に上陸して、日本軍の組織的抵抗は崩壊していた。




2024年11月25日月曜日

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。全南大学女子学生の朴勝熙は、4月29日14時頃に、全南大学で​​開催された2万学友決議大会に出席し、15時ごろ全南大学本部の龍峰館の後方から投身自殺した。全南大学病院で治療を受け、全身3度の火傷により細菌感染で敗血症が発生した。1991年5月17日に再び敗血症が発生して40度以上の高熱と多臓器不全によって、5月19日に病死した。

 1991年4月26日に韓国では、1987年に韓国大統領に就任した盧泰愚(ノテウ)政権に対する反政府運動のデモに参加した大学生の姜慶大が、警官に殴打され死亡した事件が発生した。それに抗議する学生の焼身自殺が続発して、学生の焼身自殺者が7人も出た。その後に学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。死に対する弔い合戦が激烈なデモとなり、投石、火炎瓶と催涙弾を交えた民主化闘争へ展開された。その最中で抗議の自殺が企てられ、デモの渦中での圧死事件などが起こり、闘争はいっそう過熱し、自死が再生産された。

 韓国南西部の光州市で1980年5月18日に、学生や市民らの民主化要求デモが、韓国軍によって武力鎮圧された光州事件以降も、韓国の軍事政権は学生運動などを徹底的に弾圧した。ソウル大では、1986年4月28日に焼身自殺を決行した。全世鎮が5月5日に、季載虎 が26日に死亡した。反戦・反核闘争のデモで反米スローガンを叫んでいた全世鎮、季載虎という二人のソウル大生が抗議の焼身自殺をした。そこから雪崩を打ったように、自殺を遂げる苛烈な運動が展開されていった。5月20日に季東洙という学生が学生集会のさなかに焼身・投身自殺を遂げた。翌日5月21日には状況に自責の念を抱く 女子学生が入水自殺をとげた。1986年5月の学生運動は、まさに死と傷と苦しみの記憶が塗れた。1980年代以降の民主化運動の現場では、政治的不義に抗議する焼身自殺が頻発した。




2024年11月24日日曜日

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-212342





























SC-212342

Japanese soldiers and civilians watch American war correspondents as they inspect damage done by atomic bomb in Hiroshima, Japan. 9/12/1945

Signal Corps Photo WPA-45-33510 (Lt. Camp) 

released by BPR 10/3/1945

orig.neg. Lot 12495 gef


SC-212342

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

アメリカ軍通信部が撮影した。WPA-45-33510(キャンプ中尉)

1945年10月3日に、BPRにより公開された。

原本ネガ、ロット番号は12495 gef

2024年11月23日土曜日

2024年5月14日に、パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された。

2024年5月14日に、ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された建物の瓦礫の中から、パレスチナ人の救助隊員は男性の死体を掘り起こした。パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。

 ラファとガザ北部におけるイスラエルの軍事作戦の激化により、ここ数日で50万人以上のパレスチナ人が避難したと国連が発表した。2024年5月14日の1週間、ガザ南部の2つの主要国境交差点には食料が入って来ていない。国連によれば、約110万人のパレスチナ人が壊滅的な飢餓に直面している。特に北部では「本格的な飢饉」が起きている。パレスチナ難民のための国連機関が5月14日に発表したところによると、この1週間で約45万人のパレスチナ人がガザ南部のラファから追放された。イスラエル軍は、ハマスの最後の砦として、ラファの街に押し寄せている。パレスチナのガザ北部では、イスラエル軍の避難命令により、これまでに少なくとも10万人が避難したとファルハン・ハク国連副報道官が5月13日に記者団に語った。イスラエル軍はパレスチナ武装勢力と戦闘している。ガザ地区の保健当局者によれば、7ヶ月間にわたるイスラエル軍のガザへの砲撃と地上攻撃によって、3万5000人以上が死亡して、そのほとんどが女性と子どもだという。

 イスラエル国民は2024年5月14日に、例年では国中の公園でバーベキューをして独立記念日を祝った。独立記念日はいつもは賑やかなパーティーも、2024年はパレスチナのガザ地区での戦争のために小規模で静かなものとなった。イスラエル・パレスチナ戦争は2023年10月7日、パレスチナのハマス武装勢力がイスラエル南部を攻撃して、イスラエル民間人を中心に約1200人が死亡して、約250人が拉致されたことから勃発した。イスラエルによれば、武装勢力は現在も約100人の人質と30人以上の遺体を拘束している。 










Warning: Palestinians rescuers dig around the body of man in the rubble of a building destroyed in an Israeli airstrike in Nuseirat, Gaza Strip, Tuesday, May 14, 2024. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)

2024年11月22日金曜日

1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍の戦闘で、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。





1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍との戦闘にて、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。日本軍の銃弾を受けて、中国共産党八路軍兵士がひざを屈して崩れ落ちた。

 山岳地帯でゲリラ戦による限定的な戦闘した八路軍は、日本軍に対して大攻勢をした百団大戦が1940年8月から12月に河北省と山西省で勃発した。八路軍は重火器が乏しく、人海戦術により約2万人もの犠牲者が出た。日本軍は対抗する掃蕩作戦で、10月中旬から11月末まで八路軍に反撃を強化した。その戦闘にて、沙飛が、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の瞬間を撮影して、中国の「のロバート・キャパ」と呼称された。

 中国共産党初の従軍写真家であった沙飛は、中国の晋察冀軍区と辺区の抗日活動を撮影した。中国共産党の指導に従って中国共産党に写真迎合を提示した。1926年に通信兵として北伐に参加した。1936年9月に24歳の沙飛は、上海美術専門学校に入学して、魯迅など港湾労働者や上海の下町生活を撮影した。1937年9月に、沙飛は全民通信社の写真家として八路軍を取材して、その従軍専属となった。沙飛は写真が現実を暴露する最も有力な武器の一種に捉え、常に社会の諸現状を描写する写真として利用した。

 1937年12月に、沙飛は聶栄臻将軍によって八路軍に従軍を許可されて、晋察冀軍区の政治部宣伝部初代の編集科長に任命された。『抗敵報』の副主任を兼務して、1941年に晋察冀画報社を設立し、1942年7月7日に、中国共産党初の画報『晋察冀画報』を創刊した。1947年6月、沙飛は中国共産党に加入申請書を提出して、11月22日に共産党党員となった。1948年12月に肺結核で石家荘平和病院に入院して、1949年12月15日に沙飛は主治医である日本人の津平勝医師を射殺した。1950年2月24日に華北軍区政治部軍法処は沙飛に死刑判決を言い渡して、同時に中国共産党を除名処分された。3月4日、沙飛に対して銃殺刑が執行された。1986年になって共産党の党籍を回復した。 



2024年11月21日木曜日

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害され斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側で、野砲隊員の死体が散乱した。

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害されて斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側に、野砲隊員の死体が散乱した。敵味方入り乱れての殺し合いは再開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出しながらも、この二回目の強行上陸で飛行場南西端に約一個連隊の上陸に成功していた。そして夕刻までにはさらに 地歩を拡大、戦車をともなって飛行場の南東端近くまで進出してきた。日本軍の抵抗はすさまじかった。

 ペリリュー島上陸2日目の16日夜から翌17日にかけて、アメリカ軍は飛行場を含む島の南部をほぼ手中にした。両軍の損害も大きく、死傷者の続出は止まなかった。アメリカ軍に橋頭堡を築かれた後に、日本軍の損害は急カーブで上昇し始めた。状況不利と判断して9月16日午後4時30分に日本軍は「第一号反撃計画」の実行を命じられた。第二連隊本部直轄部隊として待機した第一大隊の中から斬り込み決死隊を編成した。海岸陣地で朝から激戦を交えた第二大隊の予備部隊、さらにペリリュー守備の日本軍兵士の唯一の機械化部隊である師団戦車隊を加えて反撃を開始した。

 地上戦は荒れて、アメリカ軍はウムブロゴル稜線への攻撃で多くの死傷者を出した。困難な状況と海兵隊の高い消耗率にもかかわらず、アメリカ軍の増援を受け入れることに消極的であった。同じく膠着状態Ⅱに配属された第81歩兵師団の一部は、9月17日の隣国アンガー島上陸作戦に投入された。ペリリューでの戦術的優位は鈍った。パラオ北部から散発的に増援を受けたペリリュー島北部の日本軍は、ウムルブロゴル山塊の防衛線が海兵隊に包囲されて、じわじわと減らされ、死傷者が増えた。

 ペリリュー島の戦いで、アメリカ軍の死傷者は戦死1,544人、負傷者6,843人に昇った。749人を出したのに対し、第7海兵連隊は46%の死傷者を出した。現在の戦闘力基準では「戦闘不能」とみなされる。日本軍は11,000人近くが戦死したが、捕虜になったのはペリリュー島の日本軍のごく一部である301人だけだった。