2024年2月15日木曜日

1945年4月12日に、アメリカ陸軍高官が解放されたばかりのドイツのテューリング州オールドルフにあるオールドルフ強制収容所を視察した。親衛隊により線路の一部で焼却された囚人らの死体と焼け跡を見詰めた。

1945年4月12日に、アメリカ陸軍高官が解放されたばかりのドイツのテューリング州オールドルフにあるオールドルフ強制収容所を視察した。ドワイト・アイゼンハワー将軍と、ブラッドリー将軍、パットン将軍、エディ将軍を含むアメリカ陸軍高官一行は、親衛隊により強制収容所を囚人を退去させる途上で、線路の一部で焼却された囚人らの死体と焼け跡を見詰めた。その他にアメリカ陸軍ニュース紙『星条旗』の特派員ジュール・グラッドと、通訳を務めたウィスコンシン州アップルトンのアロイス・J・リーテンも写った。

 オールドルフ強制労働収容所は、ドイツ・チューリンゲン州ゴータの南、オールドルフ近郊にあった。ブッヘンヴァルト強制収容所の関連施設の一部であった。アメリカ軍がオールドルフに向かって前進すると、親衛隊はほとんどすべての捕虜を死の行進でブッヘンヴァルトに避難させ始めた。親衛隊の看守は、鉄道車両まで歩くには病気が重すぎると判断した残りの囚人の多くを殺した。アメリカ軍が接近し始めると、ドイツ軍は戦争犯罪の証拠を取り除いた。何人かの囚人に死体を掘り出させ、レンガの土台の上に敷かれた線路でできた巨大な鉄板の上に置いた。死体にピッチをかけ、その下に松の木と石炭で火を焚いた。鉄板の上や下には人骨や頭蓋骨、黒焦げになった胴体などが山積みになった。

 1944年11月に、ドイツのチューリンゲン州ゴータの南、オールドルフの町の近くに強制収容所が作られた。オールドルフ強制収容所は、当初は親衛隊の主要経済管理局が直接管理する別の強制労働収容所であった。その後にワイマール近郊のブッヘンヴァルト強制収容所の下部収容所となった。1940年に設置されたドイツ国防軍部隊のために小屋が使用された。コードネームはAußenlager S IIIと呼称された。オールドルフ収容所は、北部収容所と南部収容所から構成され、その後にエスペンフェルトのテント収容所とクラウィンケルの収容所が加えられた。オールドルフ収容所は、オールドルフのミュールベルク城の地下に巨大な通信センターを建設するための鉄道建設を計画した。強制収容所の囚人により強制労働力を供給した。収容者たちは、ミュールベルク城を主要鉄道路線に接続して、近くの山にトンネルを掘った。総統広場を含む列車の緊急避難所として使用するために強制労働させられた。計画されていた通信センターは、アメリカ軍の急速な進撃により完成することはなかった。




2024年2月14日水曜日

太平洋戦争の末期の沖縄戦にて女性や子供なども、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。

沖縄戦にて女性や子供が、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。家族・親類・友人・知人同志で殺しあった凄惨な集団自決の現場と考えられた。

 太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。アメリカ軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人数が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が全滅して絶命した。沖縄戦では、一般住民が集団で自殺する行為が発生し、集団自決と呼称した。主な集団自決は、伊江村のアハシャガマなどで約100人、恩納村で11人、読谷村のチビチリガマなどで121人以上、沖縄市美里で33人、うるま市具志川で14人、八重瀬町玉城で7人、糸満市のカミントウ壕などで80人、座間味島で234人、慶留間島で53人、渡嘉敷島で329人などが集団自決の犠牲となった。

 1945年3月23日から始まったアメリカ軍の沖縄大空襲と引き続く艦砲射撃は、第二次世界大戦で、日本で唯一の住民を巻き込んだ国内戦の幕明けとなった。慶良間諸島に、アメリカ軍の大艦隊が押し寄せた。慶良間諸島に大艦隊で攻め込んで来るアメリカ軍を見れば、住民は捕虜になる前に集団自決にて自殺することが、すでに用意されていた。

 壕にいた人々は、晴着を付けて集団自決の覚悟を決めて、もう今頃は集団自決で全員が死んだはずであった。たどり着いて壕内を覗き込むと、晴着をつけて、何十人という人々が全員死んで、生存者は一人もいなかった。その後からも集団自決のために、壕に入った住民がたくさんいた。

 老夫婦で、妻を先に殺した時に、夫はアメリカ軍の捕虜になった。夫は、もう妻を死なして、生きていてもしかたがないと言って、約30mほど離れた壕に行った。豪に置いてあった竹槍を取り出し、アメリカ軍兵士にめがけて突撃した。目の前で射殺された。響いた銃声は、その夫が殺された瞬間であった。慶留間島での集団自決の方法は、その他にカミソリを使って集団自決していた。全員が木に首を吊って集団自決した。ネズミを殺すための薬剤であると猫要らずの毒物で集団自決した。




2024年2月13日火曜日

ウクライナ人民共和国が成立したウクライナ南部のニコポリで、1918年4月4日にソ連赤軍を支援する地下パルチザンの戦闘員は、オーストリア軍に捕らえられて銃殺された。

1918年4月4日に、ウクライナ南部のニコポリで、ソ連赤軍を支援する地下パルチザンの戦闘員はオーストリア軍に捕らえられて、銃殺された。ニコポリ地方は4月10日に、ソ連赤軍による支配から解放された。

 1918年1月にウクライナの中央ラーダ軍とオーストリア軍が、ウクライナ南部のニコポリに侵攻した。その後もニコポリ地域のボリシェビキ部隊は、ソビエト赤軍を支援し続けて、パルチザン部隊を編成した。3月末にニコポリからソ連赤軍部隊が反攻した。ニコポリのオーストリア軍は敗退して、ニコポルから余儀なく退却をした。ポリシェビキは反政府運動をした。ウクライナ・オーストラリア軍に占領された地域には、地下パルチザン集団が残存した。ニコポリ地方では、イゴルキンらが地下パルチザンを率いた。カミアンカ川に架かるノヴォパヴリフカ鉄道橋を爆破した。

  1917年から1921年にかけてウクライナ史では、ロシア⾰命,内戦期は,⺠族解放運動の時代とされる。ロシア⼆⽉⾰命後に,キエフにはウクライナ⼈の代表機関の中央ラーダが形成された。臨時政府との交渉の末,中央ラーダの執⾏機関事務総局が,ウクライナの統治機関として承認された。⼗⽉⾰命後に、中央ラーダはウクライナ⼈の帰属地域からなるウクライナ⼈⺠共和国の成⽴を表明して,1918年1⽉に第四ウニヴェルサル(宣⾔)を発して、ウクライナの独⽴を宣⾔した。

 その後に,1918年4⽉には保守派のクーデターによって、ヘトマンを君主として戴くウクライナ国,通称ヘトマン国家が成⽴した。しかし、中央ラーダ派の蜂起によって12⽉にウクライナ国は打倒されて,ウクライナ⼈⺠共和国が復活した。いわゆるディレクトリア政権が成⽴した。この間,反動勢⼒や外国勢⼒の介⼊を受けながらも,ウクライナ⼈は第四ウニヴェルサルで獲得した⾃らの独⽴国家を維持して,ウクライナを建設するために苦闘した。しかし,1921年にはソ連⾚軍に敗北を喫して,ウクライナはソ連が支配する領土の⼀部となった。2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争には、⺠族解放運動の複雑な歴史がある。 




2024年2月12日月曜日

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、兵員輸送船内で治療を受けた。

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、アメリカ軍兵士は兵員輸送船内で治療を受けた。アメリカ軍兵士の乗組員の多くは、爆発で吹き飛ばされていた。船尾に閉じ込められた他の乗組員はガソリンの炎に閉じ込められて絶命した。

 太平洋戦争にて1944年10月25日にフィリピンのサマール沖で、日本軍による史上初の自爆攻撃まによる初めての組織的な神風特別攻撃を空母スワニーに突撃した。日本軍の神風特攻機が、アメリカ海軍の護衛空母USSスワニー(CVE-27)の前方飛行甲板上に命中した。神風特攻機は10月25日午前7時40分に、6機の零戦がただちに急降下で空母スワニーに突入して、対空砲火で応戦した。午前8時4分に被弾した神風特攻機が、前方の飛行甲板に激突して炎上して、アメリカ軍兵士は71人の戦死者と約82人の戦傷者を出した。

 10月26日正午過ぎに、別の神風特攻部隊の攻撃により、神風特攻機体が12時40時に、空母スワニーの飛行甲板に墜落した。甲板に回収されたグラマン雷爆撃機に激突した。2機は接触と同時に噴火して、飛行甲板上の他の9機も同様に噴火した。その結果、火災は数時間にわたり燃え続けた。10月25日から26日のアメリカ軍の死傷者は、死者107人、戦傷者は160人に上った。神風特攻機の爆弾は、空母スワニーの飛行甲板と格納庫甲板の間で爆発し、艦に約7.6mの傷をつけ、多数の死傷者を出した。10月26日の正午過ぎに、神風特攻機の別のグループが空母スワニーの飛行甲板を墜落させ、回収したばかりの魚雷爆撃機に激突した。2機は飛行甲板上の他の9機とともに炎上して、火災は数時間にわたり燃え続けた。




2024年2月11日日曜日

イスラエル・ハマス戦争で2023年10月23日に、パレスチナのガザ地区南部の都市ラファで、親族の男性がイスラエル軍の空爆で死亡した子供の死体を抱きしめながら追悼した。

2023年10月23日に、パレスチナのガザ地区南部の都市ラファ(Rafah)で、親族の男性がイスラエル軍の空爆で死亡した子供の死体を抱きしめながら、追悼した。

 パレスチナ当局によると、ガザ南部で一晩の空爆により少なくとも28人が死亡した。ハマスが支配するガザのパレスチナ内務省が10月24日早朝に発表した。イスラエル軍の空爆により、南部の都市ラファで、一夜にして少なくとも28人が死亡して、数十人が負傷した。イスラエル軍の空爆は、北部のベイトラヒアや南部のカーン・ユーニスなど、ガザの他の地域でも一夜にして家屋を攻撃した。

 イスラエル軍当局は以前に、ガザへの空爆を強化すると発表した。ガザ地域の保健当局によれば、10月23日までにイスラエル軍による空爆で少なくとも5,087人が死亡して、そのうち2,055人の子どもと1,119人の女性が死亡し、15,000人以上が負傷したと公表した。イスラエル軍軍は、包囲したガザ地域で 地上作戦を展開するために、膨大な数の軍隊と戦車がガザ地区の国境に集結した。

 パレスチナ当局者や目撃者によると、激しい空爆は、パレスチナ人が避難する地域を含むガザ全域の建物を破壊し、数百人を殺害し、すでに満員の病院に新たな負傷者の波を送り込んだ。ガザ地区では少なくとも約140万人のパレスチナ人が家を離れて、そのうち約58万人近くが、国連が運営する学校や避難所に身を寄せたと国連は10月23日に公表した。

 イスラエ軍ルが、最終的な地上攻撃に備えて建物を崩壊して平らにする空爆を強化したため、ガザ地区での死者数は急速に増加した。アメリカはイスラエルに対し、10月7日の残忍な侵攻の際にハマスがさらった人質の解放を交渉する時間を確保するために、侵攻を遅らせるよう勧告した。

 人口約230万人のガザ地区では、イスラエルの国境封鎖により食料、水、医薬品が不足している。イスラエルが依然として燃料の持ち込みを禁止して、国連はガザ地区内のトラックに燃料を供給できなくなれば、数日以内に援助物資の配給が停止すると述べた。死傷者が絶え間なく押し寄せる病院では、救命のための医療機器や未熟児用の保育器に電力を供給するための発電機を稼働させ続けるのが困難となった。数十万人が残るガザ市や北部の他の地域では、援助物資は配布されない。














Warning: Palestinians mourn their relatives killed in the Israel bombardment of the Gaza Strip in Rafah, Monday, Oct 23, 2023. (AP Photo/ Hatem Ali) 

2024年2月10日土曜日

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウは、広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で1945年10月11日に、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウの両下肢である。広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で、1945年10月11日に菊池俊吉が撮影した。娘の竹内ヨウは、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。




  竹内ヨウは、爆心地より南西約2km付近で被爆した。冷蔵庫が倒れて、その下敷きとなり、一時的に失神した。そのために右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を受けた。その傷が化膿して重篤となった。後頭部にも、そいだ傷を受けていた。母も娘も原爆症が発現した9月18日から大芝国民学校に入所した。被爆後約2ケ月経過して、原爆症を呈した。脱毛、下痢、発熱が続いた。母親の竹内ヨネは10月14日に原爆症で死亡して、娘の竹内ヨウは1945年11月に原爆症により死亡した。

 大芝国民学校に臨時特設救護病院が設置され、爆心地から北2.4kmにあり、広島市西区大芝1丁目に位置した。校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたため臨時救護病院に転換した。被爆した8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、医療関係者は引き返して再び医療活動の任務に付いて、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人が配置された。




2024年2月9日金曜日

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

 アメリカ軍第六海兵師団は、沖縄本島の小禄半島に6月4日に上陸した。生残した日本軍兵士の頑強な抵抗と困難な地形で、海兵隊の死傷者は約1,608人に及んだ。日本軍兵士の死者も増して、小禄半島南部の小さな袋地に押しこめられた。アメリカ軍は6月13日に、日本軍が保持した小禄地域を掃討し制圧した。

 小禄地区では日本海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)とアメリカ軍の死闘激戦が続いた。豊見城地区ではアメリカ軍が高安、高入端付近まで南下した。日本海軍部隊はそれ以上の南進を阻止するため、平良付近に増援部隊を派遣した。アメリカ軍は陣地構築に集中して同方面の戦線の動きは活発ではなかった。小禄地区ではアメリカ軍は軍用機の爆撃の支援の下、戦車約70両、兵員1,000人以上が猛攻して激戦となった。日本海軍部隊は挺身斬込みで応戦した。

 日本第32軍はかねてより日本海軍沖方根に南部撤退を命じていた。日本海軍沖方根は6月4日に、小禄、豊見城地区で最後まで戦うとの電報を発した。小禄、豊見城地区で日本海軍沖方根が奮戦することは、アメリカ軍の南進を遅らせた。すでに日本軍の命運は決して、日本第32軍牛島司令官は、日本海軍部隊を南部撤退を再三に渡り南部撤退を呼びかけ、最後は親書を送って撤退を求めるも、南部撤退はかなわなかった。

 小禄村には日本海軍小禄飛行場があり、海軍沖方根が駐屯した。多くの住民が避難せず村に留まって、住民が戦闘に巻き込まれた。小禄村の人口約9,723人のうち沖縄戦での戦死者は約2,917人に及んだ。そのうちの約32%となる約920人が小禄村内で死亡した。アメリカ軍は住民が避難する壕を、片っ端から手榴弾やガス弾で攻撃し、沖縄の住民を殺害していった。




2024年2月8日木曜日

1939年9月3日と4日にポーランドのビドゴシチで、ドイツ軍の諜報部隊が引き起こしたパニックより、ビドゴシチと周辺地域にてポーランド軍の暴動によるドイツ人住民の犠牲者の死体が散乱した。

1939年9月3日と4日にポーランドのビドゴシチでジェノサイドの虐殺事件が起こった。ドイツ軍の諜報部隊(PK689)が引き起こしたパニックより、ビドゴシチとその周辺地域におけるポーランド軍の暴動によるドイツ人住民の犠牲者の死体が散乱した。退却したポーランド軍のポメラニア軍第15歩兵師団の退却部隊が、正体不明の犯人によって発砲され、ポーランド市民に対する攻撃もあった。約20人のポーランド軍兵士と5人のビドゴシツの住民がおそらく殺されて、ポーランド軍当局の激しい反発を招いた。市内で行われた暴動の結果、情報源によって異なるが、160人から400人以上が捕らえられ、銃殺された。

 ドイツ軍が報復行動を開始したのは、ビドゴシチ街を占領した9月5日の直後だった。公開処刑で350~400人が射殺された。最も壮絶な犯罪は、9月9日と10日にビドゴシチ市場広場で起こった。その後の数ヶ月の間に、ビドゴシチ近郊のフォルドンのいわゆる死の谷で約1,500人が殺害された。

 ドイツ軍はビドゴシチでの出来事をプロパガンダに利用した。9月3日は血の日曜日(Bromberger Blutsonntag)として、1939年9月7日にビドドゴシチで発行されたドイツ系新聞(Deutsche Rundschau)に初めて掲載された。この事件はポメラニア全土のポーランド人に対する血なまぐさい復讐の口実となった。ナチスのプロパガンダは、ポーランド人はビドゴシチだけで1,000人を殺害したと誇張した。ドイツ軍はポメラニアのポーランド軍の組織的軍事行動であったと主張した。

 イギリスとフランスが1939年9月3日にドイツに宣戦布告したのは、ドイツが攻撃を強行し、ポーランド軍が最終的に降伏するまでの7日間持ちこたえた時点だった。それ後約6年にわたる第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパを引き裂いて約7000万人の死者を出した。

 第二次世界大戦後に、1945年から1948年にかけてポーランドにおけるドイツ人犯罪調査委員会が調査を実施した。「ドイツ軍は1939年9月3日午前10時15分、ビドゴシチで退却するポーランド連隊の間にパニックを引き起こすために、計画的な陽動作戦を実施した」ことが判明した。検事団は、目撃証言に基づき、ビドゴシツには破壊工作員が発砲した地点が46カ所あったことを立証した。ポーランドの調査は2004年、約40~50人のポーランド人と100~300人のドイツ人が殺害されたと結論づけた。ヒムラー作戦というコードネームでドイツ軍が仕掛けた数々の偽旗作戦の一つであった。






2024年2月7日水曜日

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。侵攻前に、座間味島の住民は日本軍によって手榴弾による自決を命じられた。アメリカ軍が沖縄戦の初日午前9時に座間味島に上陸して侵攻した。3月23日から座間味島は猛烈な空爆により壊滅した。住民は自分で作った塹壕や山に避難する。3月28日に、座間味島を進撃中のアメリカ軍は、洞窟の中で、首を絞め殺された12人の女性の死体と生き埋めにされた1人の死体を発見した。沖縄戦による住民の惨劇は、早くも始まった。

 3月26日午前9時に、アメリカ軍は座間味島に侵攻して、当初は抵抗を受けなかった。座間味島は、こぶ状の島であった。アメリカ軍は南海岸の低い平地の深い湾に部隊をアムトラックで着けて、徒歩での上陸を余儀なくされた。アメリカ軍の侵攻部隊は、海岸の後方にある座間味の町に到着するまで、散発的な迫撃砲と狙撃兵の銃撃を受けた。

 座間味島では、アメリカ軍は3月26日午後、日本軍と接触することなく高地に押し寄せた。夜半から翌日3月27日の明け方まで、ライフル、ピストル、サーベルで武装した日本軍の集団が、海岸近くのアメリカ軍の境界線に侵入した。攻撃の矢面に立ったアメリカ軍は、自動小銃と迫撃砲の支援を受けて、日本軍の局地的突撃を撃退した。アメリカ軍の機関銃は何度も持ち替えられた。夜間銃撃戦は、野蛮な白兵戦に展開して、アメリカ軍は7人の戦死者と12人の戦傷者を出して、200人以上の日本軍兵士を殺害した。

 慶良間列島への上陸作戦は、3月26日午前8時すぎまず阿嘉島の上陸から始まった。3月29日までに慶良間列島全域は、アメリカ軍の手に陥ちた。アメリカ軍が公式に占領を宣言したのは、3月31日であった。アメリカ軍の攻撃は、慶良間列島に15回にも及び、被ったアメリカ軍の犠牲者は、戦死31人、負傷81人であった。日本守備軍の犠牲者は、戦死530人のほか、121人の将兵と1,195人以上の住民が捕虜にされた。




2024年2月6日火曜日

1987年1月5日に、雲南省国境の老山前線の中国軍陣地で、中国人民解放軍の中国軍兵士の宋健平が一服した直後に、ベトナム社会主義共和国のベトナム軍の銃砲撃が中国軍兵士の宋健平を銃殺した。

1987年1月5日に、雲南省国境の老山前線の中国軍陣地で、中国軍兵士の宋健平が一服した直後に、ベトナム軍の銃砲撃が、中国軍兵士の宋健平を銃殺した。その戦闘が継続している間に、宋健平の死体に中国軍同僚が、綿のオーバーコートである綿大衣をかけて死後処置をしようとした。

 中越戦争は1979年2月17日に勃発して3月16日まで、中国軍が北ベトナム軍に対して自衛反撃戦争を開始した。中国は北ベトナムとは、ベトナム戦争中の戦友であった。中国は、1975年4月にベトナム社会主義共和国が誕生すると、熱烈に祝福した。しかし、両国の離反は、ベトナム戦争の終結後間もなく表面化した。1970年代初めから、中国とベトナムの間で争った西沙と南沙両群島の領有権を、ベトナム新政権が要求した。約1,100kmもの国境線をめぐっても、ベトナム側は未画定とし、 国境の交渉を要求した。話し合いがつかないうちに、ベトナムは1977年から、南部に数十万人いた中国人系の都市住民を、農村に強制的に下放させるなどの迫害を始めた。ベトナムは国境地帯でも再三、中国に侵犯事件を引き起こした。国際的背景には、中ソ対立があり、ベトナムはベトナム戦争後に、急速に中国の第一の敵であるソ連に接近した。中国の警戒心をかきたて、1978年12月に親中国のカンボジアに侵攻した。中国の忍耐の限度を越えて、中国軍の越境攻撃した中越戦争は、1979年3月16日の撤退完了まで、約1ヵ月続いた。中国軍は約26,000人が死亡して、ベトナム軍は約30,000人が戦死した。その後も国境線をはさんで、激しい攻防が繰り返された。

 その後も1979年から1991年にかけて中越紛争は、1979年の中越戦争後からも、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国との間で起きた一連の国境・海戦の衝突の紛争である。紛争は、中越戦争終結から1991年の国交正常化まで続いた。中越戦争後に1979年3月に中国人民解放軍は、ベトナムから撤退した。中国軍は敵対行為の勃発前に、ベトナムが支配していた60平方kmの紛争地を占領した。ロンソン(Lạng Sơn)市近郊の友好門周辺など、中国軍は軍事的価値は少ないが象徴的価値を持つ領土を占領した。他の場所では、中国軍はベトナムを攻撃するための踏み台として軍事的に重要な戦略的位置を占領した。中国軍による国境地帯の占領はベトナムを怒らせて、国境地域の支配権を得るためにベトナムと中国の間で一連の国境紛争が起こる起点となった。中越紛争は1991年まで続き、1984年から1985年にかけてピークに達した。1990年代初頭には、ベトナムのカンボジアからの撤退とソビエト連邦の解体とともに、両国関係は徐々に正常な状態に戻った。1991年までに両国は国交正常化を宣言し、国境紛争は終結した。




2024年2月5日月曜日

第二次世界大戦の前半に、フランスのディエップ海岸で、ドイツ軍兵士が撃退したカナダ軍兵士と破壊された装備を探索した。約5,000人のカナダ軍のうち3,367人が死傷または捕虜となり、約68%の異例の死傷率となった。

第二次世界大戦の前半に、フランスのディエップの海岸で、ドイツ軍兵士が撃退したカナダ軍兵士と破壊された装備の残骸の中を探索した。カナダ第14戦車連隊から放棄された2両のチャーチル戦車と上陸用舟艇が残存していた。1942年8月19日に、イギリス軍はフランスのディエップ海岸の港に対する大規模に空襲するジュビリー作戦を執行した。約4,900人のカナダ軍兵士、1,000人のイギリス軍兵士、50人のアメリカ軍兵士が、237隻の軍艦でイギリスの港を出発した。ディエップの空襲ではカナダ軍が攻撃隊の大部分を占めた。約6,100人の部隊のうち約5,000人近くがカナダ軍兵士だった。航空支援は任務に対応しておらず、事前の偵察も不十分だった。ドイツ軍の支配するディエップ海岸への上陸は失敗に終った。上陸した連合軍の6,086人のうち、3,623人が死傷または捕虜となった。イギリス海軍は駆逐艦1隻と上陸用舟艇数隻を失い、ドイツ空軍の48機に対してイギリス空軍は106機を損失した。

 連合軍のディエップ上陸は遅れて、夜明けの光の中でカナダ連隊が上陸すると、完全に警戒態勢に入ったドイツ軍兵士の激しい機銃掃射に遭った。連合軍の戦車はディエップ浜辺に閉じ込められ、歩兵は障害物とドイツ軍の砲火によって町への侵攻をほとんど阻まれた。約6時間足らずで死傷者が増えて、撤退を余儀なくされた。約5,000人のカナダ軍部隊のうち、3,367人が死傷または捕虜となり、68%という異例の死傷率となった。イギリス海軍は駆逐艦バークレーと33隻の上陸用舟艇を失い、550人の死傷者を出した。空軍は106機を失った。コマンドー部隊に所属していた50名のアメリカ陸軍レンジャー中の6人が死亡、7人が負傷、4人が捕虜となった。アメリカ軍が第二次世界大戦の地上戦に参加するのはこれが初めてだった。 ドイツ軍は591名の死傷者を出し、322名が死亡、280名が負傷、48機の航空機と1隻の哨戒艇を失った。

 1942年8月19日に、ディエップ近郊のフランス海峡沿岸にいたドイツ軍は、明らかなプロパガンダのために執行されたカナダ軍を中心とする上陸作戦を撃退した。参加した連合軍の兵力は6000人足らずだった。この血なまぐさい失敗作戦は、西側諸連合諸国が、西部戦線にて第二戦線の不在をソ連に正当化するためにジュビリー作戦が策定された。1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦まで多大な影響を与えた。





2024年2月4日日曜日

2024年1月21日に、ウクライナ東部ドネツクのロシア軍支配地域のドネツクで、ウクライナ軍が行った砲撃で死亡した犠牲者の死体の前を女性が歩いて、少なくとも27人の命が奪われ、25人が負傷した。

2024年1月21日に、ウクライナ東部ドネツクのロシア軍支配地域のドネツクで、ウクライナ軍が行った砲撃で死亡した犠牲者の死体の前を女性が歩いた。ウクライナ東部のロシア軍の支配下にある都市ドネツク近郊で2024年1月21日に発生した致命的な砲撃事件により、少なくとも27人の命が奪われ、25人が負傷した。ドネツク地域の都市で最悪の攻撃の一つつとなった。テクシュティルシュチク郊外の負傷者の中には子供2人が含まれた。ドネツク地域を襲った砲弾は、西のクラホフとクラスノホリフカの地域から発射された。

 ドネツク地域は、2014年以来に、ロシア軍とウクライナ軍の紛争が続いている悲惨な激突地である。ウクライナ軍と、ロシア軍と同盟を結ぶ分離主義勢力との間の緊張の高まりが、ドネツク地域の人道的危機をエスカレートした。

 ロシア軍の占領下にあるドネツク郊外の繁華街が砲撃されて、少なくとも27人が死亡して、25人が負傷した。ドネツクに設置されたロシア当局は、ウクライナ軍の致命的な攻撃を非難した。救急隊がまだ現場にいるが、ウクライナ当局は、出来事に沈黙をして、独立した検証はまだ達成されていない。

 約2年間近く続く戦争で、約1500kmの前線の陣地がほとんど変わらない。冬期に、両陣営とも長距離攻撃への依存を強めた。ロシア軍がドネツクに設置したドネツク当局は、ウクライナ軍の画策した砲撃を非難した。ロシア外務省は、テロ攻撃とレッテルを貼った。非難が強まる中で、ロシアとウクライナの両国は、エスカレートする空爆を互いに糾弾し合った。ロシアのプーチン大統領は、極悪非道な行為を処罰されずに済ませないと約束した。この攻撃は国連からも非難され、ウクライナ軍のドネツク市に対する砲撃を含めて、民間人や民間インフラに対するすべての攻撃を、国連からも強く非難された。

 ドネツクの砲撃は、地域における人的被害の拡大と人道状況の悪化を浮き彫りにした。人口約60万人のドネツク市は、頻繁にウクライナ軍の攻撃の標的になって、1月21日の攻撃はドネツク市で最も深刻な一つとなった。国際社会はロシア・ウクライナ戦争の動向に懸念を高めた。平和的解決に向けた交渉努力は、複雑な地政学的利害関係や当事者間の根深い敵対関係のために困難に直面している。
















Warning: A woman walks past a body of a victim killed during the shelling that Russian officials in Donetsk said was conducted by Ukrainian forces, in Donetsk, Russian- controlled Donetsk region, eastern Ukraine in Donetsk, Ukraine, Sunday, Jan. 21, 2024. Local officials say at least 18 people have been killed by shelling of a market in Russian-occupied Ukraine. The attack hit Tekstilshchik, a suburb of the city of Donetsk, on Sunday. Alexei Kulemzin, the city's Russian-installed mayor, said that the shells had been fired by the Ukrainian military. (AP Photo/Alexei Alexandrov)

2024年2月3日土曜日

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。右顔面から頸部にかけた火傷のケロイド病理標本の模型である。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。


 右上腕から前腕と手指のケロイド病理標本の模型であり、右手の手関節が伸展して、手指が屈曲拘縮した。長崎原爆資料館は被爆コーナーで、溶けたガラス瓶や黒焦げの弁当箱、黒焦げの少年の写真や、ケロイドの被害の写真と模型、爆風で背中にガラス片が刺さった洋服の実相を展示をした。


 原子爆弾による障害は、爆風、熱線(輻射熱)、放射線の複合的な影響により生じて、非常に複雑な症状が出現した。特に1km以内の被爆者では熱傷を負った者の96.7%、外傷を負った者の96.9%が死亡し、無傷の被爆者でも94.1%が死亡した。原子爆弾による初期の死亡が、熱傷や外傷のみならず、放射線の強い障害が加わった為に起こった。

 原子爆弾の放射線は人体を刺し貫き、いろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した放射線量によって異なる。爆心地から1km以内で被爆した人のうち、無傷でも、大多数の被爆者が死亡した。放射線の破壊力は細胞には強烈だった。人体におよぼす被害は、炸裂時だけでなく、放射線は身体の奥深くの細胞を傷つけた。時がたつにつれて放射線障害から様々な症状を発症した。癌・白血病・白内障などの病気を引き起こした。

 ケロイドは、原子爆弾の炸裂による熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけた不規則な隆起を生ずる状態をいう。被爆後4ヵ月頃より発生して、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から2km前後で被爆した人に多かった。

2024年2月2日金曜日

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。クェゼリン環礁のナムル島は、1944年2月9日からのクェゼリンの戦いで、アメリカ軍が奪還した。クェゼリンの戦いは、第二次世界大戦末期の1944年1月30日から2月3日まで、日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘である。

 アメリカ軍の第24海兵連隊がナムル島に1944年2月2日午前9時頃から上陸を開始した。ナムル島は、少数の日本軍兵士が椰子の木の丸太に隠れて抵抗を試みた。アメリカ軍は、火炎放射器と爆薬で圧倒して粉砕して、翌日の2月3日までに全滅した。2月3日午前11時18分にナムル島の占領が宣言された。ナムル島では、少数の日本兵が椰子の木の丸太に隠れて、アメリカ軍に抵抗を試みたが、火炎放射器と爆薬で相次いで粉砕され、2月3日までに全滅した。日本大本営は、2月25日にクェゼリン島・ルオット島・ナムル島の全滅して玉砕を発表した。

 1944年1月30日に大規模な空襲と艦砲射撃の後に、総兵力約85,000人のアメリカ軍はマーシャル諸島に接近した。2月1日に、アメリカ軍第7歩兵(陸軍)師団はクェゼリン島に上陸した。第4海兵師団は北に約72km離れたロイ島とナムル島の双子島に上陸した。日本軍が占領中は、西のロイ島と東のナムル島は、狭い陸地と土手道で繋がっていた。砲爆撃でナムル島内は徹底的に破壊されてほとんど人影もなく、椰子林も焼け爛れた。2月1日にロイ島を占領し、ナムル島は2月3日正午までに陥落した。クェゼリンの戦いで、アメリカ軍第7歩兵師団が2月4日にクェゼリン島の安全を宣言した。日本軍は最初からアメリカ軍には多勢に無勢であり、最後まで戦って全滅する玉砕を選んだ。ロイ島とナムル島での日本軍の死傷者は、死者3,500人以上、捕虜約200人であった。アメリカ軍の海兵隊の死者200人以下、負傷者約500人であった。クェゼリン島では、約5,000人近い日本軍兵士が戦死し、捕虜になったのはほんの一握りであった。




2024年2月1日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。その背後では、別の日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲んで検死した。

 アメリカ軍の第29海兵隊は1945年4月7日に、沖縄本島から西に突き出た深い湾曲部に位置する本部半島に侵攻した。本部半島の内陸部は八重岳の岩稜と渓谷の一連の斜面に隆起し、最高地点は約452m近くあった。4月11日まで、日本軍の迫撃砲と機関銃が高台から火を噴いた。4月13日からアメリカ軍は本部残存敵軍を殲滅せよとの命令の下、八重岳陣地への攻撃計画を策定した。4月14日に、アメリカ軍は八重岳方面へ東進して、日本軍の機関銃と小銃に遭遇した。

 4月15日に、海兵隊は最終攻撃の態勢に入り、八重岳西方のアメリカ軍陣地の左(北)から東に、高地下の尾根を越えて攻撃した。鋭い肉弾戦の末に、アメリカ軍の海兵隊は尾根を奪取した。4月15日の日暮れまでに、アメリカ軍は八重岳に面した湾曲した尾根に沿って塹壕を築いた。4月16日未明、第4海兵隊は飛行機、大砲、艦砲の支援を受け、八重岳の急斜面を侵攻した。4月16日午後遅くまでに、アメリカ軍は頂上を確保し、日本軍防御側は死亡または散開した。八重岳の他の稜線では、迫撃砲と大砲の激しい砲撃がアメリカ軍を守った。4月16日午後6時50分に、清末隊陣地壕の外に出て日本軍の最後の突撃が来て、約100人の日本人を殺害した。

 本部半島の戦いで、2500体以上の日本人の死体を数え、約46人の捕虜を捕獲した。アメリカ軍の損失は、死者236人、負傷者1,061人、行方不明者7人であった。日本軍の抵抗は沖縄北部で大きな抵抗があったのは、本部半島付近であった。海兵隊は本部半島を通過して日本軍を追い詰めて、八重岳の尾根の近くで孤立させ、海兵隊は4月18日までに日本軍を排除した。