2024年2月4日日曜日

2024年1月21日に、ウクライナ東部ドネツクのロシア軍支配地域のドネツクで、ウクライナ軍が行った砲撃で死亡した犠牲者の死体の前を女性が歩いて、少なくとも27人の命が奪われ、25人が負傷した。

2024年1月21日に、ウクライナ東部ドネツクのロシア軍支配地域のドネツクで、ウクライナ軍が行った砲撃で死亡した犠牲者の死体の前を女性が歩いた。ウクライナ東部のロシア軍の支配下にある都市ドネツク近郊で2024年1月21日に発生した致命的な砲撃事件により、少なくとも27人の命が奪われ、25人が負傷した。ドネツク地域の都市で最悪の攻撃の一つつとなった。テクシュティルシュチク郊外の負傷者の中には子供2人が含まれた。ドネツク地域を襲った砲弾は、西のクラホフとクラスノホリフカの地域から発射された。

 ドネツク地域は、2014年以来に、ロシア軍とウクライナ軍の紛争が続いている悲惨な激突地である。ウクライナ軍と、ロシア軍と同盟を結ぶ分離主義勢力との間の緊張の高まりが、ドネツク地域の人道的危機をエスカレートした。

 ロシア軍の占領下にあるドネツク郊外の繁華街が砲撃されて、少なくとも27人が死亡して、25人が負傷した。ドネツクに設置されたロシア当局は、ウクライナ軍の致命的な攻撃を非難した。救急隊がまだ現場にいるが、ウクライナ当局は、出来事に沈黙をして、独立した検証はまだ達成されていない。

 約2年間近く続く戦争で、約1500kmの前線の陣地がほとんど変わらない。冬期に、両陣営とも長距離攻撃への依存を強めた。ロシア軍がドネツクに設置したドネツク当局は、ウクライナ軍の画策した砲撃を非難した。ロシア外務省は、テロ攻撃とレッテルを貼った。非難が強まる中で、ロシアとウクライナの両国は、エスカレートする空爆を互いに糾弾し合った。ロシアのプーチン大統領は、極悪非道な行為を処罰されずに済ませないと約束した。この攻撃は国連からも非難され、ウクライナ軍のドネツク市に対する砲撃を含めて、民間人や民間インフラに対するすべての攻撃を、国連からも強く非難された。

 ドネツクの砲撃は、地域における人的被害の拡大と人道状況の悪化を浮き彫りにした。人口約60万人のドネツク市は、頻繁にウクライナ軍の攻撃の標的になって、1月21日の攻撃はドネツク市で最も深刻な一つとなった。国際社会はロシア・ウクライナ戦争の動向に懸念を高めた。平和的解決に向けた交渉努力は、複雑な地政学的利害関係や当事者間の根深い敵対関係のために困難に直面している。
















Warning: A woman walks past a body of a victim killed during the shelling that Russian officials in Donetsk said was conducted by Ukrainian forces, in Donetsk, Russian- controlled Donetsk region, eastern Ukraine in Donetsk, Ukraine, Sunday, Jan. 21, 2024. Local officials say at least 18 people have been killed by shelling of a market in Russian-occupied Ukraine. The attack hit Tekstilshchik, a suburb of the city of Donetsk, on Sunday. Alexei Kulemzin, the city's Russian-installed mayor, said that the shells had been fired by the Ukrainian military. (AP Photo/Alexei Alexandrov)

2024年2月3日土曜日

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。右顔面から頸部にかけた火傷のケロイド病理標本の模型である。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。


 右上腕から前腕と手指のケロイド病理標本の模型であり、右手の手関節が伸展して、手指が屈曲拘縮した。長崎原爆資料館は被爆コーナーで、溶けたガラス瓶や黒焦げの弁当箱、黒焦げの少年の写真や、ケロイドの被害の写真と模型、爆風で背中にガラス片が刺さった洋服の実相を展示をした。


 原子爆弾による障害は、爆風、熱線(輻射熱)、放射線の複合的な影響により生じて、非常に複雑な症状が出現した。特に1km以内の被爆者では熱傷を負った者の96.7%、外傷を負った者の96.9%が死亡し、無傷の被爆者でも94.1%が死亡した。原子爆弾による初期の死亡が、熱傷や外傷のみならず、放射線の強い障害が加わった為に起こった。

 原子爆弾の放射線は人体を刺し貫き、いろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した放射線量によって異なる。爆心地から1km以内で被爆した人のうち、無傷でも、大多数の被爆者が死亡した。放射線の破壊力は細胞には強烈だった。人体におよぼす被害は、炸裂時だけでなく、放射線は身体の奥深くの細胞を傷つけた。時がたつにつれて放射線障害から様々な症状を発症した。癌・白血病・白内障などの病気を引き起こした。

 ケロイドは、原子爆弾の炸裂による熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけた不規則な隆起を生ずる状態をいう。被爆後4ヵ月頃より発生して、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から2km前後で被爆した人に多かった。

2024年2月2日金曜日

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。クェゼリン環礁のナムル島は、1944年2月9日からのクェゼリンの戦いで、アメリカ軍が奪還した。クェゼリンの戦いは、第二次世界大戦末期の1944年1月30日から2月3日まで、日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘である。

 アメリカ軍の第24海兵連隊がナムル島に1944年2月2日午前9時頃から上陸を開始した。ナムル島は、少数の日本軍兵士が椰子の木の丸太に隠れて抵抗を試みた。アメリカ軍は、火炎放射器と爆薬で圧倒して粉砕して、翌日の2月3日までに全滅した。2月3日午前11時18分にナムル島の占領が宣言された。ナムル島では、少数の日本兵が椰子の木の丸太に隠れて、アメリカ軍に抵抗を試みたが、火炎放射器と爆薬で相次いで粉砕され、2月3日までに全滅した。日本大本営は、2月25日にクェゼリン島・ルオット島・ナムル島の全滅して玉砕を発表した。

 1944年1月30日に大規模な空襲と艦砲射撃の後に、総兵力約85,000人のアメリカ軍はマーシャル諸島に接近した。2月1日に、アメリカ軍第7歩兵(陸軍)師団はクェゼリン島に上陸した。第4海兵師団は北に約72km離れたロイ島とナムル島の双子島に上陸した。日本軍が占領中は、西のロイ島と東のナムル島は、狭い陸地と土手道で繋がっていた。砲爆撃でナムル島内は徹底的に破壊されてほとんど人影もなく、椰子林も焼け爛れた。2月1日にロイ島を占領し、ナムル島は2月3日正午までに陥落した。クェゼリンの戦いで、アメリカ軍第7歩兵師団が2月4日にクェゼリン島の安全を宣言した。日本軍は最初からアメリカ軍には多勢に無勢であり、最後まで戦って全滅する玉砕を選んだ。ロイ島とナムル島での日本軍の死傷者は、死者3,500人以上、捕虜約200人であった。アメリカ軍の海兵隊の死者200人以下、負傷者約500人であった。クェゼリン島では、約5,000人近い日本軍兵士が戦死し、捕虜になったのはほんの一握りであった。




2024年2月1日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。その背後では、別の日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲んで検死した。

 アメリカ軍の第29海兵隊は1945年4月7日に、沖縄本島から西に突き出た深い湾曲部に位置する本部半島に侵攻した。本部半島の内陸部は八重岳の岩稜と渓谷の一連の斜面に隆起し、最高地点は約452m近くあった。4月11日まで、日本軍の迫撃砲と機関銃が高台から火を噴いた。4月13日からアメリカ軍は本部残存敵軍を殲滅せよとの命令の下、八重岳陣地への攻撃計画を策定した。4月14日に、アメリカ軍は八重岳方面へ東進して、日本軍の機関銃と小銃に遭遇した。

 4月15日に、海兵隊は最終攻撃の態勢に入り、八重岳西方のアメリカ軍陣地の左(北)から東に、高地下の尾根を越えて攻撃した。鋭い肉弾戦の末に、アメリカ軍の海兵隊は尾根を奪取した。4月15日の日暮れまでに、アメリカ軍は八重岳に面した湾曲した尾根に沿って塹壕を築いた。4月16日未明、第4海兵隊は飛行機、大砲、艦砲の支援を受け、八重岳の急斜面を侵攻した。4月16日午後遅くまでに、アメリカ軍は頂上を確保し、日本軍防御側は死亡または散開した。八重岳の他の稜線では、迫撃砲と大砲の激しい砲撃がアメリカ軍を守った。4月16日午後6時50分に、清末隊陣地壕の外に出て日本軍の最後の突撃が来て、約100人の日本人を殺害した。

 本部半島の戦いで、2500体以上の日本人の死体を数え、約46人の捕虜を捕獲した。アメリカ軍の損失は、死者236人、負傷者1,061人、行方不明者7人であった。日本軍の抵抗は沖縄北部で大きな抵抗があったのは、本部半島付近であった。海兵隊は本部半島を通過して日本軍を追い詰めて、八重岳の尾根の近くで孤立させ、海兵隊は4月18日までに日本軍を排除した。




2024年1月31日水曜日

ドイツ民主共和国軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にソ連の内務人民委員部による囚人の犠牲者と考えられた。

ドイツ民主共和国(東ドイツ, GDR)軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、いくつかの囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にかけてソ連の秘密情報機関である内務人民委員部(NKVD)によるザクセンハウゼン特別収容所の囚人の犠牲者と考えられた。ナチスの幹部が収容され、政治犯やソ連軍事法廷の判決を受けた収容者も収容された

 ザクセンハウゼン強制収容所は1936年にナチス親衛隊によって設立され、最初の囚人を1938年から受け入れた。1945年の終戦までに、ザクセンハウゼン強制収容所には約11,000人のユダヤ人が収容された。ソ連軍によって1945年4月22日に解放されたナチスドイツのザクセンハウゼン強制収容所は、1945年8月から1950年3月まで、ソビエト軍政の特別収容所として転用された。ドイツのオラニエンブルク近郊にあったナチスの強制収容所は、1936年5月からナチス・ドイツの敗戦直前の1945年4月まで使用された。政治犯やソビエト軍事裁判によって判決を受けた収容者と同様に、ナチスの幹部も特別収容された。

 連合国の非ナチ化政策の一環として、ソ連軍は、国家社会主義政権の軍事的敗北後に、ソ連軍の占領地域に10の特別収容所を設置した。ザクセンハウゼンの第7特別収容所(1948年から第1)は、約60,000人の被収容者を収容して、特別収容所の中でも飛び抜けて多かった。1945年から1950年の間に、約12,000人が飢えと病気で死亡した。1946年から1947年の飢餓の冬にて、わずかな配給が削減されて、多くの死者が出た。

 残忍な尋問と仮収容所での状況を経て、ほとんどの被収容者は、ザクセンハウゼン特別収容所の建物はより良い宿泊施設を提供したが、バラック小屋は過密状態であった。被抑留者はむき出しの木板の上に詰め込まれた。破滅的な衛生状態、食糧や医薬品、衣服、暖房用燃料の不足は、病気や伝染病を引き起こした。死亡率は高く、1947年には最高に達した。収容者は外部との接触を一切許されず、特別収容所は、沈黙の収容所とも呼ばれ、強制労働収容所ではなかった。

 特別収容所で死亡した囚人たちは、匿名で集団墓地に埋葬された3つの集団墓地が、ベルリン崩壊後に発見されて公開された。ドイツ民主共和国建国から数ヵ月後の1950年3月に、ソ連軍の特別収容所が解散した。ゼクセンハウゼン特別収容所から約8000人の囚人が釈放され、少数の囚人はソ連に連行された。最後の被抑留者は、7,000人以上のソ連市民とロシア移民、捕虜のソ連人、元強制労働者、犯罪を犯した赤軍兵士であった。




2024年1月30日火曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。アメリカ軍兵士の死体はベティオ島に点在して、太平洋の波に洗われた。日本軍の戦闘部隊と朝鮮人の労働部隊を含む守備隊の約4,700人近くの隊員は、捕虜17人を除いて全員が死亡した。

 1943年11月20日から11月25日までガルバニック作戦で、アメリカ海軍と海兵隊の部隊は、タラワ環礁に水陸両用攻撃から占領が遂行された。「上陸拠点はアメリカ軍によって打ち抜かれた。タラワ環礁で日本軍の基地を大破した」とアメリカの新聞の見出しが躍った。しばしば前線から送られた戦闘の写真が添えられた。実際より戦況が悪く見える写真には、見慣れないアメリカ軍兵士の死体が写った割合が異常に高かった。アメリカ軍兵士の死体が短時間で浜辺に散乱したため、死者数は衝撃的に増大した。戦死傷者リストがマスコミに公開された。地元の海兵隊員は国のために死すと、戦死者の写真を肖像画に差し替えた。大流血のタラワの戦いは、小さなベティオ島を約6000人もの死体で埋め尽くした。

 タラワ環礁のベティオ島は約1平方kmの島で、海面からわずか数mの高さの1.21k㎡の砂の島だった。日本軍の防衛工学の頂点の要塞や要塞が点在した。砂で覆われたコンクリートブロックハウス、ヤシの木の壕、対艦砲台、スリット塹壕、地雷原、護岸の発射口などがベティオ島に散在した。ガルバニック作戦におけるアメリカ軍の死傷者数は、海兵隊997人と水兵30人の死者、海兵隊88人の行方不明と、海兵隊員2,233人と水兵59人が戦傷者であった。

 タラワ環礁は、赤道からほんの数度ずれて位置して、戦闘中の気温は三桁に達して、暑さと湿気が腐敗の条件を作り出した。まだ2日しか経っていない死体が、すでに病的な緑色に変色した。珊瑚の埃と死の瘴気、吐き気を催し、ぞっとする悪臭が空気中に充満した。ベティオ島の面積が狭くて、熾烈な戦闘が繰り広げられて、日本軍の絶え間ない攻撃を受けた。大量に転がって腐敗して崩壊の早い死体を地下に運ぶことが不可欠で、死者を適切に埋葬する時間はなかった。




2024年1月29日月曜日

ソ連軍による壊滅的な集中砲火の後に、ゼーロウ高地にはドイツ軍兵士の死体が散乱した。ベルリン郊外東70kmでソ連軍に対抗するために配備されていたドイツ国防軍の残存部隊は制圧された。

ゼーロウ(Seelow)高地でのドイツ軍の必死の反撃は、主要方面での数日間にわたる激しい戦闘に繋がった。ソ連軍による壊滅的な集中砲火の後に、ゼーロウ高地にはドイツ軍兵士の死体が散乱した。ベルリン東郊外でソ連軍に対抗するために配備されていたドイツ国防軍の残存部隊は制圧された。多くのドイツ軍兵士は、ソ連軍は降伏も捕虜も受け入れないなら、どうせ死ぬのだから、戦って死んだ方がましだと考えていた。脱走兵や敗北者の容疑者は親衛隊が即刻処刑した。

 首都ベルリンから約70km東のゼーロウ高地の戦いは、第二次世界大戦末期の東部戦線にて、1945年4月16日から4月19日にかけて戦闘が勃発した。ベルリンの東に位置するゼーロー高地を、ソ連軍が侵攻して占領した戦いである。ベルリンの門として知られるゼーロウ高台を、ソ連軍の第1ベラルーシ戦線が攻撃した。ドイツ軍が首都ベルリンを守ろうと戦闘は3日間続き、非常に激しい戦闘となった。ドイツ軍陣地は4月19日についに粉砕され、ソ連軍にベルリンへの道が開かれた。

 4月16日午前3時から、ドイツ軍陣地への大規模な砲撃を開始した。沼地と化した大地に、ドイツ軍による集中砲撃でソ連軍は多大な犠牲者を出した。4月16日夜から、ソ連軍の砲兵隊が侵攻した。4月17日朝、大規模な砲撃が開始され、ゼーロウ高地に対するソ連軍は、ドイツ軍の守備隊に対して少しずつ前進を始めた。ソ連軍は4月18日に再び攻撃を開始して、大きな犠牲を払いながらもドイツ軍の戦線を突破し始めた。ソ連軍は夕方までに、ドイツ軍の最終防衛ラインに到達した。ソ連軍は北側のゼーロウ高台を迂回し始めた。4月19日に突進したソ連軍は、ドイツ軍の最後の防衛ラインを圧倒した。ドイツ軍は陣地を崩されて、ベルリンに向かって西方に後退し始めた。ベルリンへの道が開かれたため、ソ連軍はベルリンへの急速な進撃を開始した。

 ゼーロウ高地の戦いで、ソ連軍は約3万人以上の戦死者を出し、ドイツ軍の戦死者は約12,000人に上った。ドイツ軍の敗北により、ソビエトとベルリンを結ぶ最後の組織的なドイツ軍の防衛は崩壊した。ソ連軍は4月23日にドイツの首都ベルリンを包囲して、ベルリンの最終決戦を開始した。5月2日にベルリンは陥落し、第二次世界大戦の西部戦線は5月7日に、東部戦線は5月9日に無条件降伏して終結した。




2024年1月28日日曜日

2023年10月22日にイスラエルとパレスチナのハマス武装グループとの戦闘が続き、ガザ地区中部のデイル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所に、イスラエル軍の空爆で死亡した子どもたちの6人の死体が横たわった。

2023年10月22日、イスラエルとパレスチナのハマス武装グループとの戦闘が続く中で、ガザ地区中部のデイル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所に、イスラエル軍の空爆で死亡した子どもたちの6人の死体が横たわった。ガザ地区でイスラエルの空爆によって死亡した6人の子どもたちの遺体がアル・アクサ病院の死体安置室に横たわった。アル・アクサ病院の同僚によると、子どもたちは同じ家に住む2つの家族の子どもたちであった。

 ガザ地区では、2023年11月28日の24時間で、救助隊はこの24時間で、ガザ地区の瓦礫の下や道路から160体の遺体を収容した。10月7日のイスラエルによる攻撃の開始以来の死者数は6,150人以上の子供と4,000人以上の女性を含む15,000人以上となった。瓦礫を撤去する機械や設備が不足しているため、救助隊はこれまで手作業や原始的な方法で遺体を掘り出した。約6500人の行方不明者がまだ瓦礫の下にいるか行方不明である。

 11月24日に一時的な人道的停戦が始まって以来、レスキュー隊や救急隊、市民たちは、持てる力を尽くしてできるだけ多くの死体を収容した。この5日間で、ガザ地区を襲った人道的な大惨事の恐ろしさが表明した。イスラエル軍の空爆、陸爆、海上爆撃の結果、約30万戸の住宅が被害を受け、そのうち5万戸は完全に破壊された。

 休戦中にもかかわらず、占領軍はガザ地区南部に避難している市民が北部の市や町に戻るのを阻止した。サラ・アルディン通りに駐留するイスラエル占領軍は、自宅を点検し行方不明の家族を捜索するために北部へ向かおうとした市民に対して銃弾を撃ち込み、3人が死亡して、他の市民も負傷した。

 12月14日には、イスラエル軍によるガザ地区への砲撃による死者は約18,787人と負傷者は50,897人以上に上り、そのほとんどが女性と子どもであると、ガザ地区の保健省が発表した。多数の犠牲者がまだ瓦礫の下や道路に横たわっている。













Warning: The bodies of children killed in an Israeli strike, lie on the floor at the morgue of the Al-Aqsa hospital in Deir Balah in the central Gaza Strip on October 22, 2023, as battles continue between Israel and the Palestinian Hamas group. (MAHMUD HAMS / AFP)




2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日の写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月26日金曜日

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった射殺事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。東ドイツ国民を無制限に支配するドイツ社会主義統一党(SED)国家の主張は、国境制度にて最も明確かつ残酷に示された。ドイツ民主共和国当局の稀有な許可なしに国外に脱出する者は、健康や生命を危険にさらされた。

  冷戦下の1961年8月13日からベルリンの壁が建設されると、東ドイツ当局は自由な西ベルリンと管理下の地区を壁で分離した。公式発表によると、1989年までに国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は約1,245人に上る。そのうち1989年までにベルリンの壁を越えようとして約136人が殺害された。1989年に、エーリッヒ・ホーネッカーがベルリンの壁は50年後、あるいは100年後も存在するだろうと述べた時に、すでに少なくとも130人が国境警備隊の銃撃によって殺害されていた。最初の犠牲者は、1961年8月22日早朝、女性のアイダ・ジークマンは脱出を試みて、4階のアパートの窓から飛び降り、歩道に落ちて重傷を負って、ラザロ病院に向かう途中で死亡した。最近では、壁が崩壊する9カ月前の1989年2月に、20歳のクリス・ゲフロイが射殺された。彼がドイツの国境の壁の最後の犠牲者となった。1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁は崩壊しして、東西ドイツの国境が開通した。

 多くの人々が、東ドイツの障壁をくぐり抜けて西側に逃亡した。東ドイツ当局は、国境を強化する措置をとった。壁に沿って10mおきに見張り塔が建てられた。東ドイツの国境警備隊の兵士たちは、カメラを渡され、国境の壁が建設される地域を1m単位の記録を命じられた。撮影された約1200枚のネガは、ポツダムの軍事文書館に保管されち段ボール箱の中から偶然に発見された。国境警備中の兵士が軽犯罪を犯すと、厳しく罰せられた。東ドイツ政府は、1973年10月に西ドイツに脱国者を処理する国境警備隊に射殺命令を出した。逃亡が成功して国境を越えて西ドイツに入った場合には、国境侵犯とドイツ民主共和国からの脱走を防げなかった国境警備隊には懲戒処分が下された。




2024年1月25日木曜日

1945年5月1日午後に、アメリカ軍第1海兵師団は、沖縄戦のアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固めた墳墓から、日本軍は砲火して強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。

沖縄戦にて1945年5月1日午後に、第5海兵隊が残存陣地を占領した時に、日本軍は安波茶(アワチャ)の南端に占領して陣地を固めた。アワチャを通過したアメリカ陸軍戦車は、日本軍から砲火を浴びた。第1海兵師団は、直面したアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固められた沖縄の墳墓から、日本軍は砲火して、強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。死屍累々の恐ろしい戦場を目の当たりにした。アメリカ軍は日本軍陣地を約91mを占領するごとに約200人を損失した。

 沖縄戦にて沖縄本島南部のほぼ中央の安波茶は激戦地となった。アメリカ軍の沖縄本島の上陸後に、日本軍は安波茶地区を頑強に防衛した。1945年5月初旬に、西から侵攻したアメリカ軍海兵隊と北から侵攻したアメリカ陸軍第77師団に対して、日本軍の強固な防衛はアワチャ・ポケットと呼ばれた。

 1945年5月2日には、アメリカ軍海兵隊は大雨の中を侵攻して最も近い高地を占領した。直後に、隣接する強力な地点から日本軍の激しい砲火を受けて、撤退を余儀なくされた。夜間には、アメリカ軍海兵隊員は日本軍の潜入部隊と白兵戦を繰り広げた。1945年5月6日朝には、アメリカ軍第5海兵隊が朝の攻撃を開始する前に、陸軍2個と海兵隊2個の4個大隊のアメリカ軍砲兵隊が、アワチャ・ポケットを砲撃した。1945年5月10日に、アメリカ軍第五海兵隊はついにアワチャ・ポケットを封鎖した。しばしば至近距離での繰り広げられた戦闘を5月10日に終止符を打ち、日本軍は1,000人以上の死者を出した。

 アメリカ軍第1海兵師団第5海兵隊の第77連隊は右側(西側)で、日本軍から激しい抵抗を受けた。この連隊のすぐ前方の日本軍陣地は安波茶の町の南にあり、アワチャ・ポケットと呼ばれる激戦地に編成された。アメリカ軍の重火器の支援を受けた戦車と歩兵の連携が唯一の侵攻手段となった。アワチャ・ポケットが、最終的に包囲が達成されたのは5月11日であった。

 5月11日までに、アメリカ軍第24軍団は、その後の本格的な攻撃に備えて、多くの日本軍陣地を排除した。5月3日から5月10日までの1週間は、東海岸の大木から西の浅川に至る戦線の全般的な強化が行われた。非戦闘員を含め2万人以上の死傷者を出した。首里線上のアメリカ軍は、前田、高知、淡河で戦線を拡張し、通信線をより安全なものにし、5月11日に予定された第10軍の攻撃により有利な地形を獲得した。




2024年1月24日水曜日

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより、事前の警告なしに路上で虐殺された。

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ(Łódź)・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより路上で虐殺された。ウッチ・ゲトーのリュブナ通りでは、1942年9月5月から9月12日の強制送還のため、ユダヤ人ゲトー警察は人々を強制的にアパートから追い出した。9月7日からはドイツ警察とゲシュタポは事前の警告なしに発砲して、抵抗があればいつでも路上で殺害した。9月の強制送還では約15,681人が強制送還され、数百人が抵抗のために銃殺され、35人が絞首刑に処された。その瞬間から、ウッチ・ゲットーは強制労働収容所となった。

 ポーランド占領下のウッチ・ゲトーは1942年9月5日から12日に、15,000人以上がチェルムノ・ナド・ネレムの絶滅強制収容所に送られた。強制送還を免れたのは、ゲットー共同体の特権階級の子どもたちの少数だけだった。

 1940年2月8日に、ドイツ当局はポーランド占領下のウッチにゲットーを設置した。ワルシャワ・ゲトーに次ぐ規模で、ゲットーは市内の他の地域から切り離され、フェンスで囲まれて、警備された。ウッチ・ゲットーが存在した4年間で、ユダヤ人など約20万人以上がウッチ・ゲットーに居住した。ゲットーは1944年8月29日まで存在した。その間に約45,000人が飢えと病気で死亡した。その他は、絶滅強制収容所で殺された。終戦まで生存したのは、5~7千人と推定された。

 ウッチ・ゲットーで最も悲劇は、「ヴィエルカ・シュペラ」の強制送還は、主に10歳未満の子どもや65歳以上の高齢者、病人や無職の人々に影響を与えた。強制送還の決定は、1942年8月下旬に大ナチス帝国保安局が下した。1942年9月5日から12日の間、戦争を生き延びたウッチ・ゲットー共同体の人々は、一生心に傷を負った。強制送還の数日前の9月1日と2日に、病院と中央刑務所から避難が、パニックを引き起こした。人々は互いに最悪の予測を伝え合って、逃亡者の多くは殺害されて、命令に反対した職員も殺害された。

 悲劇的な強制送還の直前の1942年9月4日に、チャイム・モルデチャイ・ラムコフスキ長老評議会長は、ドイツ軍はユダヤ人に、子供と老人を手放すよう求めている。子供と老人を私に渡してください。犠牲者を私の手に渡してください。これ以上犠牲者を増やさずに済むと演説した。1944年8月28日に、ラムコフスキはアウシュヴィッツ強制収容所にて、ホロコーストの復讐としてウッチ・ゲトーの囚人に殴り殺された。

 1942年9月5日に、ウッチ・ゲットーの壁に夜間外出禁止令が告知されて、強制送還委員会が設置された。9月12日まで、ユダヤ人ゲットー警察と特別部隊は、名簿に基づいて人々を連行し、駅に送り届けた。ユダヤ人ゲットー警察の行動は、ゲットーの人々に大きな怒りを引き起こした。警察は老人ホームでは効率よく老人を強制連行した。抵抗する母親の乳房からは赤ん坊を引き離した。顎から健康な歯を引き抜いた。母親や父親が、抵抗して数歳になる子供を手放したくなかった。ウッチ・ゲトーの通りや、家の中で、部屋の中を血が流れた。




2024年1月23日火曜日

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が死亡した。

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても、最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が犠牲となり死亡した。充満した煙を吸い込んで窒息死した。福井市中央1に位置した福井郵便局電話分室は鉄筋コンクリート造りだった。上空からのアメリカ軍の福井空襲の焼夷弾が屋根を突き破り、火が一面に広がった。当直勤務の電話交換手らは交換室から別の部屋に逃げた。同様に炎上した隣家の煙を吸い紺で、電話交換手の女性22人と、60歳の庶務の男性1人の計23人が死亡した。

 太平洋戦争の末期の1945年7月19日午後11時24分から午前0時45分まで、アメリカ軍のB-29爆撃機の127機による福井空襲で、福井市は壊滅的な被害となった。約81分間の集中的な空襲により、福井城址北西付近を中心に半径1.2kmの範囲をめがけて、約865トンもの焼夷弾が投下された。天候が快晴で、爆撃の精度があがり、被害は拡大した。福井市の市街地の損壊率は、アメリカ軍の評価では損壊率は約84.8%と高くて、日本の地方都市爆撃では富山市、沼津市に次いだ。福井市では2万戸以上が焼失し、約85,603人の福祉市民が罹災して、死者数も約1,576人を超える犠牲者数となった。重軽傷者6,527人で、その内108人はその後に死亡した。

 福井市内は焼夷弾により一面の焼け野原となり、防空壕に避難した人々は熱気で蒸焼きとなった。水を求めて福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は、折り重なって死亡した。福井県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練も、大規模な都市爆撃にはまったく無力であった。日中戦争では、日本軍によって重慶など都市爆撃が行なわれ、非戦闘員をも無差別に戦禍に巻き込まれた。




2024年1月22日月曜日

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市(現ポーランドのムリナリ市)を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。ミュールハウゼン市は、ナチス・ドイツ軍の支配から解放された。ソ連軍は、1月31日にはゼーデンのオーデル川とフランクフルト・アム・オーデルの南側の広い戦線に到達して、ソ連軍陣地から首都ベルリンまで約80kmも離れていない。

 1944年8月には、ドイツ軍はヴィスワ線でソビエト軍を難なく阻止した。サンミエシュ、バラノフ、マグヌシェフにて川の西側にて、ソ連軍の危険な橋頭堡の形成を阻止できなかった。1945年1月には、ソ連の赤軍は強力な機械化部隊と大規模な砲兵・空軍部隊を集結させて、再び攻勢に転じた。ヴィスワ・オデル作戦にて1月12日から2月3日まで、ソ連軍は攻勢に転じた。2月初日には首都ベルリンから約80km離れたオーデル線に到達するまで侵攻した。ソ連軍が非常に迅速な冬期の侵攻を果たした。1月12日から2月3日までのヴィスワ・オデル作戦にて、ソ連軍は死者・行方不明者は約43,476人、負傷者は150,000人で、ドイツ軍は、死者・負傷者・捕虜は約30万人以上の犠牲を伴った。その後の数ヶ月間で、ソ連軍は首都ベルリンに対する最終攻撃を開始する直前に、東プロイセンとポメラニアで孤立したドイツ軍集団を崩壊する戦闘に従事した。ドイツ軍は、最初の崩壊と大損害の後に、ドイツ帝国の首都ベルリンを防御するオーデル川での防衛配置を組織して、包囲されたドイツ軍の抵抗を長引かせた。

 第二次世界大戦の末期はますます悲惨な戦況となり、ドイツ軍は多大な犠牲を払って撤退を開始した。ソ連軍は東プロイセン領土に侵攻した。1945年1月23日には、東プロイセンとダンツィヒ湾の港から難民、兵士、負傷者の輸送が始まった。終戦までに約200万人が避難して、約14,000人の難民が海上輸送中に死亡した。1945年3月4日に、ロシア軍がツェルニンを占領した。多くの住民が逃げ出した。村のはずれには、ロシア軍によって収容所が建てられ、戦争捕虜が収容され、その後ロシアに強制連行された。強姦、虐待、殺人、略奪がいたるところで起こった。ソ連軍の戦車集団と機関砲の一斉砲撃で、コルベルクは3月4日に包囲され、3月18日に陥落した。




2024年1月21日日曜日

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。国連は2024年1月16日に、新たな報告書の中で、ロシア軍が直近の数週間ウクライナ全土で行ったミサイル攻撃と無人機攻撃により、2023年12月の民間人の犠牲者が急増して、約100人以上が死亡して、約500人近くが負傷したと発表した。

 ロシア軍は、ウクライナ全土をミサイルやドローンで激しく攻撃した結果、2023年12月の民間人犠牲者が急増し、100人以上が死亡、約500人が負傷したと国連が報告した。国連ウクライナ人権監視団は、民間人の死傷者数は2023年11月より26.5%増加したと報告した。国連監視団によると、最も多くの死傷者が出たのは、冬の気温が急降下した2023年12月29日から2024年1月2日にかけたロシア軍の攻撃であった。2024年1月4日には、ロシア軍のロケット弾が前線のポクロフスク町とその近くのロヴネ村を直撃して、大人6人と子ども5人の2家族が瓦礫の下敷きになり、まだ発見されていない死体もある。2024年1月6日の別の攻撃では、ノボモスコフスクで、ロシア軍のミサイル攻撃が炸裂して、朝の通勤時間帯に投下したミニバスの乗客8人を含む31人の市民が負傷したと国連は発表した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始めて、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡、416人が負傷したとの報告した。国連監視団によると、民間人の死傷者数は2023年11月よりも26.5%増加し、11月の468人から12月は592人に増悪した。国連監視団は、2023年には民間人の死傷者は着実に減少したが、12月下旬から1月上旬のロシア軍の攻撃の波は、減少の傾向を中断させたと報告した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始め、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡して、416人が負傷したとの報告した。国連人道事務所は2022年2月24日から勃発したロシア軍のウクライナ侵攻以来に、国連安全保障理事会で確認された民間人の死者数は、子ども575人を含む10,200人を超え、負傷者数は19,300人を超えた。ロシア当局もウクライナ当局も軍事的損失に関するデータを提供せず、紛争終結に向けた和平交渉の兆しも無く約2年近く戦争が長引いた。ロシア軍もウクライナ軍も、相手側の犠牲者を増大させることに苦心している。














Warning: People react standing near the body of a resident, killed in Russia's massive air attack in Zaporizhzhia, Ukraine, Friday, December 29, 2023. (AP photo/Andriy Andriyenko)