2023年12月17日日曜日

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。イスラエル軍はガザにある少なくとも3つの難民キャンプを空爆した。イスラエル軍は、10月7日のパレスチナ抵抗組織ハマスによる奇襲攻撃以来、ガザ地区への空爆と地上攻撃を拡大した。アル・マガジ難民収容所に対するイスラエル軍の攻撃で、ガザ保健省は約47人が死亡して、アル・アクサ病院は約52人が死亡したと公表した。犠牲者の多くは女性と子供であり、病院に運び込まれる死体が増大した。

 ガザ保健省によると、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃は、2023年11月6日までの約31日間の時点で、約10,022人のパレスチナ人(約4,104人の子供を含む)が殺害された。イスラエル軍は11月6日の数時間だけで19件の攻撃を行って、約292人が死亡したとガザ保健省は述べた。ガザ保健省は、ガザ地区への医薬品、燃料、医療視察団の輸送のために、安全かつ緊急の人道的通路の提供を求めた。数千人のパレスチナ人の負傷者をガザ地区からエジプトや他のアラブ諸国に避難させるように求めた。ガザ地区の医療チームは、食料や基本的生活必需品が不足して、悲惨な状況に直面した。国連と世界に対し、侵略を止め、占領者の拘束を直ちに行動するように訴えた。

 ハマス武装勢力は、イスラエル軍がガザ地区北部の複数の病院付近を集中的に爆撃した伝えた。イスラエル軍は攻撃の前に電話やインターネットを遮断した。爆撃は、包囲された地区で最大のアル・シファ病院付近で特に激しかった。パレスチナのメディア情報によると、イスラエル軍機は、アル・シファ病院の本館にあるソーラー・エネルギー・ユニットを標的とした。イスラエル軍は、ガザ地区北部のインドネシア病院付近も急襲した。イスラエル軍の空爆は、ガザの他の地域から強制退去させられた人々が避難していた数軒の集合住宅を崩壊した。ハマスは10月7日にガザ国境付近の地域社会や軍事拠点に攻撃を仕掛け、民間人を中心に1,400人以上が死亡し、240人以上のイスラエル人と外国人の人質が拉致された。イスラエル軍は、報復と懲罰としてハマスの壊滅を宣言した。





















Warning: more than 50 Palestinians killed, including children, in an lsraeli airstrike targeting a house in al-Maghazi refugee camp, central Gaza Strip.

2023年12月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。お風呂に入る、髪や体を洗う、衣服を洗濯することは、日常的除染を行っていた。水で洗い流すことにより、放射性物質はかなりの量を落とすことが可能であった

 1945年8月15日午前8時15分に、高度約9,630mから広島市内に原子爆弾が投下されて、地上に落ちる直前に爆発した。突然に、空に白っぽく、ピンクがかったまぶしい光が現れて、不自然な揺れを伴った。数秒のうちに、広島市の中心部の通りや庭にいた何千人もの人々が、焼けつくような熱の波に焦がされた。多くの人が即死して、他の人たちは火傷の耐え難い痛みに悶え苦しみながら地面に横たわった。壁、家屋、工場、その他の建物など、爆風に直立していたものはすべて破壊された。瓦礫が渦を巻いて空中に舞い上がった。路面電車は拾い上げられ、まるで重さも固さもないかのように放り投げられた。生きとし生けるものすべてが、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で死滅していた。梁、レンガ、桁が渦を巻いて家々を倒壊した。原子爆弾の爆発の中心である爆心地から、3マイル以内の家々がまるでボール紙で建てられたかのように平らになった。安全な場所まで逃げ延びた数少ない人たちは、被爆後の約20日から30日後にガンマ線の放射線障害によって死亡した。

 原子爆弾の爆発から約30分後に、広島一帯の空が雲ひとつない中に、町には細かい雨が降り始めて、約5分間降り続いた。この雨は、熱せられた空気が突然高いところまで上昇し、そこで凝縮して雨となって降った雨である。雨が降ると上空に漂っている放射性物質が雨と一緒に落ちてくるために放射能の検出値は上がった。その後、激しい風が吹き荒れ、火は恐ろしい速さで燃え広がった。夕方には火は消え始め、そして消えた。燃えるものは何も残っていなかった。広島は消滅していた。広島・長崎の原子爆弾は核分裂反応が空中で起き、なにもさえぎるものがない状態で、大量の放射性物質が地上に降り注いだ。





2023年12月15日金曜日

1967年4月3日に、アラビア半島のアデン住民たちが反英横断幕を振り回し、イギリス陸軍は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

アラビア半島南端のイエメンのアデンでは1967年4月3日に、住民たちが反英横断幕を振り回し、民族主義的スローガンを唱えながら町を駆け抜けた。イギリス陸軍の王立ノーサンバーランド・フュージリアーズ部隊は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

 1967年4月2日の国連使節団のイエメンのアデン訪問は無駄に終わった。4月2日に、民族解放戦線(NLF)がストライキを呼びかけ、群衆が街頭に集まり、テロリストが手榴弾を投げたり軍隊を狙撃した。4月3日、特にシェイク・オスマンではテンポが上がりました。「解散するか、我々が発砲するか」の横断幕は急いで巻き上げられ、市街戦戦術が一時的に広まった。アデンの警察署はイエメンの暴徒に包囲され、女王竜騎兵隊の第3大隊と装甲車が救護した。4月4日の平穏な一日の後に、4月5日暴動が再び爆発し、国連使節団はアル・マンスーラ拘置所に護送さた。訪問によりセンター内で大混乱が引き起こされた拘置所外では激しい銃撃戦が起こった。最後に4月7日に、国連使節団はアデンを避難した。使節団のの訪問を機会に、シェイク・オスマンを乗っ取ろうとしたテロリストたちは撤退した。

 アデン緊急事態は、1963年の10月14日革命とも呼ばれ、イギリスの保護領であった南アラビア連邦に対する民族解放戦線(NLF)と占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)により武装反乱が勃発した。南イエメン人民共和国の独立宣言につながった。1963年10月14日にアデン空港に集まったイギリス政府関係者に手榴弾を投げつけて勃発した。その後に、英国王室の植民地であったアデンとアデン保護領に緊急事態が宣言された。緊急事態は1967年にエスカレートし、1839年に始まったイギリスによるアデン植民地支配の終焉を早めた。1967年1月19日から20日に、NLFはアデンで街頭暴動を引き起こした。アデン警察が統制を失った後に、暴動を鎮圧するためにイギリス国軍が派遣された。NLFの暴動が鎮圧されると、親FLOSY派の暴徒が街頭に繰り出した。イギリス軍と親ゲリラ暴徒の戦闘は2月まで続いた。イギリス軍は約40回発砲し、イギリス軍に対する手榴弾や銃撃攻撃が約60回勃発した。その中にはアデン航空の ダグラスDC-3が空中爆撃で破壊され、乗員全員が死亡する事件もあった。1967年11月30日に、アデンおよび旧南アラビア保護領からなる南イエメン国家が独立した。1990年5月22日に、南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立した。




2023年12月14日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦で男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、甚大な犠牲者を出した。

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦では、男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、その多くが死亡した。師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出した。教員の養成機関であった沖縄師範学校は太平洋戦争中の1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。

 1945年3月31日に、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで約386人は鉄血勤皇師範隊を編成して、日本軍の作戦の沖縄戦に参加した。アメリカ軍が1945年4月1日に沖縄に上陸して5月下旬、沖縄戦が不利になり、日本軍とともに首里から南部へ移動し、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、アメリカ軍に斬り込む者や壕内で自決で自殺する者など多くの犠牲者を出した。

 ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍による看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、6月19日から約1週間の間に約227人が絶命した。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められた。砲弾の飛び交う中、戦傷した体で逃げる者、重傷で動けず倒れる者、砲弾に吹き飛ばされた者、黄リン弾攻撃を受けた者、手榴弾を爆発させ自決した者、海岸で大波に水没する者など、戦傷で行き場を失って、絶命する生徒が続出した。戦跡「ひめゆり塔」がある沖縄陸軍病院第三外科が南部撤退後に入った壕である伊原第三外科壕に、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民など約100名が隠れたが、6月19日早朝にアメリカ軍の攻撃を受けて、約80人が死亡した。

 天皇を崇拝する皇民化教育と軍国教育も、教師育成の学校であり、特に徹底された。学徒の招集の際には、法的根拠がなく自主的に参加するという扱いであり、親の許可も必要でした。沖縄師範学校のほとんど生徒は、学徒隊として参加した。




2023年12月13日水曜日

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。1947年10月から11月にかけて、20万人以上のイスラム教徒が、ドグラ朝の支配者ハリ・シンの軍隊に率いられた暴徒や準軍事組織によって、ジャンムー地方で組織的に大量殺害された。1947年8月15日にイギリスからのインド・パキスタン分離独立が宣言されて、パンジャーブ分割をめぐって、イスラム教徒のムスリム同盟に対するヒンドゥー教徒とシーク教徒の報復と暴動が1947年に勃発した。

 パンジャーブ分割に関連した最初の暴動で民族浄化であるラワルピンディ暴動が勃発して、パンジャーブ中央部や東部、シーク教徒が支配する諸侯国、ジャンムー・カシミール、デリー、連合州へのシーク教徒やヒンドゥー教徒の難民の大移動を引き起こした。シーク教徒とヒンドゥー教徒の難民が直面した残虐行為は、特にシーク教徒の間でイスラム教徒のムスリムに対する復讐心を引き起こして、深い衝撃を与えた。シーク教徒とヒンドゥー教とは、直後に、インド西部から追放された難民が定住できるように、インド東部州のイスラム教徒に対して暴動と虐殺を執行した。

 ラワルピンディ暴動は、1947年3月5日に英領インドのパンジャーブ州ラワルピンディ地区で起こった。イスラム教徒のムスリム同盟暴徒によるヒンドゥー教徒とシーク教徒への広範な暴力、虐殺、強姦事件が勃発した。暴動は約2,000人から約7,000人のシーク教徒とヒンドゥー教徒の死者を出し、ラワルピンディ地区からの大量脱出を引き起こした。ヒンドゥー教のホーリー祭に当たる3月5日に、武装したイスラム教徒の暴徒がラワルピンディやムルタンなどの西パンジャーブ州のいくつかの都市でヒンドゥー教徒やシーク教徒を襲撃し始めた。シーク教徒は約200人近くが殺害され、死傷者の多くはヒンドゥー教徒だった。暴徒は放火、略奪、虐殺、強姦を行い、ラワルピンディ、ジェルム、カンベルプール(現在のアットック)地区の村々で次々と暴れ回った。3月7日にタキシラで列車が暴徒に襲撃され、約22人のヒンドゥー教徒とシーク教徒の乗客が殺害された。カフタ村のシーク教徒とヒンドゥー教徒の居住区の家々は放火され、女性は強姦された。トハ・カルサ村とチョア・カルサ村とベワール村とムガール村とバサリ村の大虐殺は、武装したイスラム教徒の暴徒が村を包囲し、シーク教徒の住民にイスラム教への改宗を求め、シーク教徒が集団自殺した。




2023年12月12日火曜日

アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して呼吸は停止した。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。

イラク戦争が2003年3月20日に開戦する直前に、アメリカ軍は当時は地上戦は開始せずに、空爆を繰り返していた。アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。瓦礫の山に駆け寄ったイラク人の運転手は、その下を覗き込むや泣き出した。瓦礫の下に埋まったイラク人の死体を見てしまった。午前7時頃の暗闇に死体が浮かび上がって、イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して、呼吸は停止していた。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。アメリカ軍は、殺害された人間の顔を見ないで、ミサイル攻撃をしていた。開戦前であるので、イラク戦争の犠牲者第一号であろう。あるいは第二号も第三号も、瓦礫の下に埋まっているかもしれない。

 イラク人の運転手のすすり泣きが続いた。外に飛び出していた一人のイラク人が後ろから死体を覗き込んだ。その犠牲者の親戚であったイラク人は、泣き続ける運転手を指さして、「死体は運転手の兄なのだ」と言った。報道写真家が乗って来た車の運転手が、イラク戦争の開戦直前の犠牲者第一号の弟であった。一刻も早く、この場から立ち去らねばならない。すでに誤爆の証拠映像はフィルムに収めて、カードに記録した。物騒な現場に長居は禁物である。しかし、肝心の車の運転手は悲劇で運転不能となった。やがてイラク人の警察官まで現れて、当地にイラク軍の情報部が駆けつけたら、怒り狂って逮捕されるかもしない。

 2003年3月20日午前5時34分(バグダット時間)に、奇襲的なイラクへの軍事侵攻が開始された。宣戦布告はなかった。約24万8000人のアメリカ軍兵士、約4万5000人のイギリス軍兵士、約2000人のオーストラリア軍兵士、特殊部隊GROMから約194人のポーランド軍兵士が派遣された。連合軍は、約7万人以上のイラクのクルド人民兵部隊も支援された。2003年3月20日に、サダム・フセインに対するイラク撤退の最後通告が期限切れを迎えて、アメリカ軍と同盟軍は本格的なイラク侵攻を開始した。




2023年12月11日月曜日

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

 ロシア軍は太平洋艦隊の最大の根拠地とするため、1898年に清国から租借権を得て占領して以来、約8年をかけセメント約20万樽を用いて築城した要塞であった。各堡塁は全てコンクリートで練り固められ、地下道で結ばれた。約百数十門の重砲と火器と強力な機関銃を配備した。正面の本防御線は、東北、西、北の3正面に区分され、白銀山、東鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山、太陽溝高地等の線であった。大孤山・小孤山、水師営南側、203高地等には前進陣地があった。203高地は、旅順港内を一望に観測できる要地であったが、前進陣地にすぎず、わずかな応急陣地だけであった。日本陸軍と大本営は、ロシア軍による旅順要塞の強化を認識していなかった。

 日本軍の第1回総攻撃は、1904年8月19日から砲兵部隊により、8月20日まで砲撃をした。8月21日に歩兵部隊による総突撃を命じた。ロシア軍堡塁は健在で、遮蔽物のない暴露地帯を侵攻する日本軍は、各砲台から火力にさらされ、日本軍兵士はバタバタと倒れて戦死した。連続6昼夜の総攻撃は、参戦した約50,700人のうち約31%にあたる約15,800人の死傷者を出した。8月24日に乃木司令官は攻撃中止を命じた。第2回総攻撃は、10月26日に開始した。11月1日までに、鉢巻山、一戸堡塁、瘤山を奪取したのみで停滞した。第2回総攻撃に参加した日本軍は約44,100人で、そのうち約3,830人の戦死者を出した。ロシア軍陣地前面には日本兵の死体が累々と横たわった。第3回総攻撃は、望台一帯の高地に向かって11月26日から11月29日まで、28インチ砲でロシア軍の要塞に激しい砲撃した。11月30日に歩兵が突撃を開始した。決死隊である白襷隊の約3,100人は、夜間の正面攻撃を敢行して、約2,300人が戦死して部隊は壊滅した。

 203高地を11月27日から12月5日に攻略した。11月31日に203高地を一時占領したが、すぐにロシア軍に奪回された。司令部にて、児玉大将が第3軍の指揮権を乃木大将から委譲させた。直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させ、12月4日から重砲兵部隊はロシア軍の主要砲台を徹底的に砲撃した。ロシア軍の砲台は12月4日に壊滅した。12月5日に歩兵部隊が突撃を敢行して、203高地頂上を占領した。12月6日ついに全山を完全に占領した。第3回総攻撃から203高地占領までに、参戦した日本軍兵士約64,000人のうち、約17,000人の死傷者を出した。

 203高地が占領すると、12月5日に旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を加えた。12月6日までに旅順艦隊は全滅した。12月18日には東鶏冠山堡塁、12月28日に二竜山堡塁、12月30日に松樹山堡塁が陥落した。1905年1月1日に185高地を占領して、日本軍がまさに旅順市街に突入直前に、白旗を掲げたロシアの軍使が前哨点に現れ、降伏文書を提出した。



 

2023年12月10日日曜日

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。ウクライナ保安庁は、家族をロシア軍に送り返しては探させている。ロシア軍はウクライナで戦死した兵士を、行方不明として記録して、実数を公表しない。死体は即席の死体捨て場で、積み上げた約200人のロシア軍兵士の死体は、死体の山が約2mの高さにも達した。

  ロシア軍当局は、2022年2月24日に侵攻を始めて以来、ロシア軍が負い続けた損失を隠蔽するために、大規模なゴミ捨て場を使用したことを、ロシア軍同士の電話を何度か傍受したとウクライナ軍当局は主張した。ロシア軍兵士が通話中に、彼の妻から話すのを促された後に、秘密裏の情報を漏らした。ドネツク州に行き、死んだ兄を見つけたと言った。死体のゴミ捨て場を見たと言った。死体の置き場所がなく、死体はゴミ捨て場で、人の背丈ほどもあると、ロシア軍兵士は2分半も会話が傍受された。電話の中で妻に語り、ゴミ捨て場はフェンスで囲まれて、誰も死体に立ち入りできないと付け加えた。

 死体のゴミ捨て場の一つがドネツク州にあり、何百体ものロシア軍兵士の死体が積み上げられ、風雨にさらされ放置された。

ロシア軍は集団墓地に捨てるだけで、その後は跡形もなく消滅したように装って、行方不明にして終わるのが簡便であった。ウクライナで戦死したロシア軍兵士の引き取り手のない死体が入った冷蔵列車のビデオ映像を、アルジャジーラが公開した。その中に人間の死体が入っている白い袋が積み重ねられた。

 ウクライナ軍当局は、ロシア軍がキエフ地方から撤退する際に、ロシア軍兵士の死体を回収した。軍服を着たまま引き取り手のない汚れて腐敗した死体もあった。ウクライナ軍当局は、ロシア軍当局は死者数を抑えるためにロシア軍兵士の死体の引き取りを拒否したと述べた。死亡した軍人の家族に対する補償金の支払いを、文民ではなくロシア軍が監督することを提案した。ロシア軍の損害の本当の規模をロシア国内の住民から隠したい願望を反映した。モスクワ当局はロシア軍兵士の死体をウクライナからベラルーシに密かに運び、国民の目に触れないように死後処置した。

 ウクライナ軍は、2月24日のロシア軍の侵攻の開始以来に約3ヶ月目に入って、約25,000人以上のロシア軍兵士が死亡したと、NATOは約15,000人のロシア軍兵士が死亡したと推定した。一方で、ロシア軍当局は、約1,300人程度ともっと低い数字を主張した。親モスクワ派のタブロイド紙コムソモリスカヤ・プラウダは、約3ヶ月に及ぶウクライナ侵攻で、約9,861人のロシア軍兵士が死亡し、約16,153人が負傷したと述べた。削除される前に、タブロイド紙は数値はロシア国防省の由来と主張した。



















Warning: During the reoccupation of the village of Vilkhivka, East of Kharkiv by Ukraine's 92nd Mechanized Infantry Brigade on March 30th, 2022, a series of mass graves were discovered. They are believed to be members of Russia's 59th Tank Regiment Approximately 90 bodies were found unburied in hastily dug mass graves (SOFREP, May 12, 2023).



2023年12月9日土曜日

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年10月21日に広島原爆病院で植皮術を受けた。

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。熱傷とケロイドの後遺症が、左顔面と両手に残った。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年5月12日に広島原爆病院に入院した。

 金時さんというニックネームの16歳の少女は、広島原子爆弾によって4歳のときに被爆して、顔や首、肘などに大火傷を負った。その後に火傷した皮膚からケロイドが出現した。16歳になるまでに広島原爆病院でケロイドを切除し、傷のない皮膚をはぎ取って、皮膚を植皮する手術を9回受けていた。1957年10月21日に植皮手術により、左側の顔面の頬の一面に、瘢痕したケロイドを切除した。その傷口に両方の大腿から剥ぎ取って植皮した皮膚が張られて、黒い糸で縫い合わされた。

 手術した夜は、いつも金時さんは痛がってあばれた。まだ麻酔のさめない間に、手術室から帰ってきた金時さんをを、入院患者の仲間が集まって、ベッドに帯紐でがんじがらめに縛りつけるのが習慣だった。手術後は絶対安静が必要だった。手術日に、金時さんが手術室へ行く前に、「今夜はあばれないから、しばらないでね」と、同室の入院患者に哀れな声で頼んでいた。しかし、その夜に金時さんは例によってベッド上で痛がってあばれた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。

 1957年7月に、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った写真家の土門拳は、1957年11月まで広島に合計36日間にわたり通い詰めた。原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに写真記録した。写真集『ヒロシマ』(研光社)は1958年刊行されて、国際的な反響を受けた。




2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年12月6日水曜日

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

 1943年夏のクルスクの戦いでの敗北後に、ドイツ軍は戦争の主導権を完全に失って、急速に西方へと後退し始めた。ソビエト連邦の主要な河川であるドニエプル川は、東壁の要素だった。ドイツ軍がドニエプル川の西岸に足場を築いて、ソ連赤軍の攻勢を阻止を目論んだ。クルスクの戦いが終結してわずか約3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまでの約750kmの前線に大規模な攻勢を開始した。1943年8月26日から12月23日のドニエプル河畔の戦いは、両軍合わせて約400万人もの兵士を動員して、史上最大の戦いの一つとなった。

 ドイツ軍は急遽に、ドニエプル川を渡り避難できるものはすべて避難させた。9月7日、ドイツ軍と親衛隊は、放棄するソ連地域から全て取り除く焦土化政策の命令を受けた。9月24日に開始されたソ連赤軍のドニエプル空挺作戦は頓挫して、約3000人以上の落下傘部隊が戦死した。ソ連赤軍はドニエプル川を渡る機会があれば、単独でも西岸に渡り、そこで橋頭堡を確保した。ドイツ軍の反撃を退けてからソ連赤軍の攻勢に転じた。ドイツ軍が防備を固める時間がなく、両軍の絶え間ない砲火の中で激しい戦闘が繰り広げられた。ドニエプル川を渡って、川の水が血で真っ赤に染まり、何百人もの兵士が目の前で戦死した。

 ドイツ軍は、川を渡ったソ連軍を即座に襲撃して、川に投げ返そうとした。主力部隊が到着する前に確保した橋頭堡を守るために、ソ連赤軍師団は最大で人員の約70%を失った。ドニエプル西岸をめぐる激しい戦闘は1943年10月末まで続いた。ソ連赤軍はウクライナ西岸に重要な橋頭堡を築くことに成功した。ソ連軍が南部のザポロジエ橋頭堡を保持し拡大して、クリミアのドイツ軍を陸地から遮断した。11月6日、キエフが解放された。ドイツ国防軍は1カ月半にわたりキエフの奪還を試みた。12月の最後の10日間、疲弊し衰弱したドイツ軍の攻勢が12月23日についに終結して、ドニエプル河畔の戦いは事実上終結した。ドニエプル川の戦いは、約40万人のソ連軍兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は最大で30万人が死亡した。2022年2月24日のロシア侵攻によるウクライナ南部の一部で幅約kmを超えるドニエプル川沿いの戦いは、約80年前は大きな転換点となったが、ウクライナ軍も同様に甚大な犠牲を伴う。




2023年12月5日火曜日

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイドを示した。1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイド示した。写真の画像はヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)が1918年に出版した『モーゲンソー大使の物語』に引用した。原文で、「道端に倒れた人々。このような光景は、1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。虐殺、飢餓、消耗といったさまざまな形の死が、難民の大部分を破壊した。トルコの政策は、国外追放を装った絶滅であった。」と説明した。

  第一次世界大戦直前に、オスマン帝国には推定約200万人のアルメニア人が住んでいた。1915年から1923年の間に、約150万人のアルメニア人が死亡した。さらに約100万人が外国に難民として避難したり、イスラム教化した。1915年4月24日に、アルメニア人の大虐殺の第一段階は、主にオスマン帝国の首都コンスタンチノープル(現在のトルコの首都イスタンブール)にて数百人近い知識人の逮捕と殺害から勃発した。その後に、世界中のアルメニア人は、4月24日をアルメニア人虐殺の追悼日として記念している。

 第二段階は、約6万人のアルメニア人をトルコ軍に徴兵することで始まった。ジェノサイドの第三段階は、アルメニア人の女性、子供、高齢者をシリアの砂漠での虐殺、強制送還、死の行進であった。行進の間に、数十万人がトルコ軍兵士、憲兵、クルド人やサーカシア人の暴徒によって殺害された。飢饉や伝染病、風雨にさらされ、絶命して死亡した。何千人もの女性と子供が強姦された。数万人が強制的にイスラム教に改宗させられた。アルメニア人の大虐殺の最終段階に、トルコ政府によるオスマン帝国でのアルメニア人の大量殺戮と抹殺の全面的かつ完全な否定をした。アルメニア人のジェノサイドの国際的認知が展開しているが、トルコ政府は歴史的事実の改ざん、プロパガンダ・キャンペーン、ロビー活動など、あらゆる手段を用いて、アルメニア・ジェノサイドの受容に一貫して抵抗してきた。

 ジェノサイドという言葉は、1944年にポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキンによって作られた。ナチスによる組織的な殺人、暴力、残虐行為、そして1915年にオスマン帝国でアルメニア人に対して行われた残虐行為を表現した。1948年12月9日、国連は「ジェノサイドの犯罪の防止及び処罰に関する条約」を承認した。この条約はジェノサイドを国際犯罪と定義し、加盟国はその防止と処罰を約束した。




2023年12月4日月曜日

1940年春にソ連軍が約22,000人以上のポーランド人将校を後頭部を撃って重ねて埋めた。カティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド将校の死体を掘り出した。

1940年春にソ連軍側が約22,000人以上のポーランド人将校を殺害したカティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド人の死体を掘り出した。ほとんどは、1940年春に強制収容所に強制送還されたポーランド陸軍将校で、後頭部を撃たれて重ねて埋められた。ポーランドは天然の要塞のない平原であり、カティンの森はロシアのスモレンスク地方に位置した。1940年3月以降に、約2万人のポーランド人将兵が行方不明となった。残りはキエフ、ハリコフ、ケルソン(ウクライナ)、ミンスク(ベラルーシ)、カリーニン(現トヴェリ)刑務所で処刑された。ドイツとは不可侵条約を締結していたソビエト軍に捕らえられたポーランド軍将兵は約18万人であった。スターリンは即座に、ドイツが発覚した戦争犯罪をゲシュタポに反撃した。

 ドイツ軍は1943年春に、カティンの森で数千にのぼるポーランド士官の死体を発見した。死体には、9ミリ口径のピストルが撃ち込まれていた。ポーランド人には、予備将校、医師、弁護士、教師などの知識人が多かった。行方不明になった士官は約8,000人で、カティンの森で発見された死体は約4,500人余りで、まだ発見されていない人もいる。1939年8月23日のリッベントロップ・モロトフ協定で ナチス・ドイツとソビエトの同盟を封印して、ポーランドの分割などに合意した。わずか1週間後の9月1日に、ドイツ軍が西方からポーランドへの侵攻を開始して、17日後にはソビエト軍が東方から侵攻する番となった。

 アメリカ特別調査委員会は、ソ連の犯行とした。ロシア共産主義が崩壊して、ソ連側が1990年最終的に虐殺の戦争犯罪の責任を認めた。1940年春にポーランド人捕虜を処刑したのは、スターリンの直接命令を受けたNKVD(ソ連秘密警察)の工作員だったことを認めた。2010年4月に、ロシアのメドベージェフ大統領とプーチン首相の主導で、カティンの森に関する秘密文書の電子コピーがインターネット上に公開された。処刑人であるラヴレンチ・ヴェリア(NKVD長官)が、スターリンに宛てたメモがある。ポーランド人の略式処刑を提案して、スターリンが青い鉛筆で承認した。しかし、共産主義者たちは、公文書館の文書の信憑性を認めず、ナチス・ドイツのゲッベルスらにによる偽造だと主張した。




2023年12月3日日曜日

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。パレスチナ人によれば、イスラエル軍とハマス武装組織の壊滅的な戦争は、愛する者を奪うだけでなく、悲しみの中で弔問客に尊厳と安らぎを与えた葬儀の儀式も奪った。ガザ地区の病院や死体安置所は壊滅的な被害を受け、多くの家族は葬儀を執り行うことすらできない。

 包囲されたガザの狭い路地には、死臭と破壊の土の香りが充満していた。粉々になった家屋の残骸の中で、パレスチナ人が人類の最も古く厳粛な任務のひとつである死者の死体の回収を行った。イスラエルとパレスチナの紛争がエスカレートするにつれて、ガザ地区は台風の目にさらされている。イスラエル軍による執拗な空爆作戦によって、ガザ地区は廃墟と化して、パレスチナ人は厳しい現実に直面した。イスラエル軍の空爆の外科的なハマスの処置は、死者が埋葬された瓦礫に反映された。しかし、この紛争は、他の多くの紛争と同様に、目に見えない犠牲者を、生だけでなく死の尊厳も奪った。

 パレスチナ人は逆境に直面しながらも、愛する人が死んでも身元を確認できる方法を見出している。パレスチナ人は識別用のブレスレットを身につけたり、子供の手足に名前をつけたりしていた。イスラエルとハマス武装勢力の戦闘の混乱の中でアイデンティティを維持するためにどれだけの努力が必要であるかを痛切に思い起こさた。しかし、瓦礫の中から回収された死体の中には、見分けがつかないものもある。時には、死者を引き取る生存者がいないこともある。宗教問題を管轄するガザ・アフカフ省は、スペースが限られているため、集団墓地を掘ることを許可せざるを得ない。

  紛争が収まる兆しが見えない中で、ガザ地区の状況は次第に悲惨さを増悪している。イスラエル軍は、ハマス武装勢力のインフラと戦闘員を標的にして地上攻撃を続けている。この作戦による民間人の人的被害は甚大であり、死傷者は数千人にのぼり、その多くが女性や子どもである。ガザ地区が戦争の恐怖と闘っているのを世界中が見守るなかで、国際的な介入の必要性はますます高まっている。国際社会は、暴力に終止符を打ち、想像を絶する逆境に直面しながらも回復力と勇気を示し続けるガザ地区の苦境にあるパレスチナ人に援助を提供するために、迅速に行動しなければならない。

















Warning: Palestinians carry a body of a dead child who was found under the rubble of a destroyed house after Israeli airstrikes on Gaza City, Tuesday, Oct. 24, 2023. (AP Photo/Abed Khaled, File)