2023年12月12日火曜日

アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して呼吸は停止した。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。

イラク戦争が2003年3月20日に開戦する直前に、アメリカ軍は当時は地上戦は開始せずに、空爆を繰り返していた。アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。瓦礫の山に駆け寄ったイラク人の運転手は、その下を覗き込むや泣き出した。瓦礫の下に埋まったイラク人の死体を見てしまった。午前7時頃の暗闇に死体が浮かび上がって、イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して、呼吸は停止していた。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。アメリカ軍は、殺害された人間の顔を見ないで、ミサイル攻撃をしていた。開戦前であるので、イラク戦争の犠牲者第一号であろう。あるいは第二号も第三号も、瓦礫の下に埋まっているかもしれない。

 イラク人の運転手のすすり泣きが続いた。外に飛び出していた一人のイラク人が後ろから死体を覗き込んだ。その犠牲者の親戚であったイラク人は、泣き続ける運転手を指さして、「死体は運転手の兄なのだ」と言った。報道写真家が乗って来た車の運転手が、イラク戦争の開戦直前の犠牲者第一号の弟であった。一刻も早く、この場から立ち去らねばならない。すでに誤爆の証拠映像はフィルムに収めて、カードに記録した。物騒な現場に長居は禁物である。しかし、肝心の車の運転手は悲劇で運転不能となった。やがてイラク人の警察官まで現れて、当地にイラク軍の情報部が駆けつけたら、怒り狂って逮捕されるかもしない。

 2003年3月20日午前5時34分(バグダット時間)に、奇襲的なイラクへの軍事侵攻が開始された。宣戦布告はなかった。約24万8000人のアメリカ軍兵士、約4万5000人のイギリス軍兵士、約2000人のオーストラリア軍兵士、特殊部隊GROMから約194人のポーランド軍兵士が派遣された。連合軍は、約7万人以上のイラクのクルド人民兵部隊も支援された。2003年3月20日に、サダム・フセインに対するイラク撤退の最後通告が期限切れを迎えて、アメリカ軍と同盟軍は本格的なイラク侵攻を開始した。




2023年12月11日月曜日

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

 ロシア軍は太平洋艦隊の最大の根拠地とするため、1898年に清国から租借権を得て占領して以来、約8年をかけセメント約20万樽を用いて築城した要塞であった。各堡塁は全てコンクリートで練り固められ、地下道で結ばれた。約百数十門の重砲と火器と強力な機関銃を配備した。正面の本防御線は、東北、西、北の3正面に区分され、白銀山、東鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山、太陽溝高地等の線であった。大孤山・小孤山、水師営南側、203高地等には前進陣地があった。203高地は、旅順港内を一望に観測できる要地であったが、前進陣地にすぎず、わずかな応急陣地だけであった。日本陸軍と大本営は、ロシア軍による旅順要塞の強化を認識していなかった。

 日本軍の第1回総攻撃は、1904年8月19日から砲兵部隊により、8月20日まで砲撃をした。8月21日に歩兵部隊による総突撃を命じた。ロシア軍堡塁は健在で、遮蔽物のない暴露地帯を侵攻する日本軍は、各砲台から火力にさらされ、日本軍兵士はバタバタと倒れて戦死した。連続6昼夜の総攻撃は、参戦した約50,700人のうち約31%にあたる約15,800人の死傷者を出した。8月24日に乃木司令官は攻撃中止を命じた。第2回総攻撃は、10月26日に開始した。11月1日までに、鉢巻山、一戸堡塁、瘤山を奪取したのみで停滞した。第2回総攻撃に参加した日本軍は約44,100人で、そのうち約3,830人の戦死者を出した。ロシア軍陣地前面には日本兵の死体が累々と横たわった。第3回総攻撃は、望台一帯の高地に向かって11月26日から11月29日まで、28インチ砲でロシア軍の要塞に激しい砲撃した。11月30日に歩兵が突撃を開始した。決死隊である白襷隊の約3,100人は、夜間の正面攻撃を敢行して、約2,300人が戦死して部隊は壊滅した。

 203高地を11月27日から12月5日に攻略した。11月31日に203高地を一時占領したが、すぐにロシア軍に奪回された。司令部にて、児玉大将が第3軍の指揮権を乃木大将から委譲させた。直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させ、12月4日から重砲兵部隊はロシア軍の主要砲台を徹底的に砲撃した。ロシア軍の砲台は12月4日に壊滅した。12月5日に歩兵部隊が突撃を敢行して、203高地頂上を占領した。12月6日ついに全山を完全に占領した。第3回総攻撃から203高地占領までに、参戦した日本軍兵士約64,000人のうち、約17,000人の死傷者を出した。

 203高地が占領すると、12月5日に旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を加えた。12月6日までに旅順艦隊は全滅した。12月18日には東鶏冠山堡塁、12月28日に二竜山堡塁、12月30日に松樹山堡塁が陥落した。1905年1月1日に185高地を占領して、日本軍がまさに旅順市街に突入直前に、白旗を掲げたロシアの軍使が前哨点に現れ、降伏文書を提出した。



 

2023年12月10日日曜日

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。ウクライナ保安庁は、家族をロシア軍に送り返しては探させている。ロシア軍はウクライナで戦死した兵士を、行方不明として記録して、実数を公表しない。死体は即席の死体捨て場で、積み上げた約200人のロシア軍兵士の死体は、死体の山が約2mの高さにも達した。

  ロシア軍当局は、2022年2月24日に侵攻を始めて以来、ロシア軍が負い続けた損失を隠蔽するために、大規模なゴミ捨て場を使用したことを、ロシア軍同士の電話を何度か傍受したとウクライナ軍当局は主張した。ロシア軍兵士が通話中に、彼の妻から話すのを促された後に、秘密裏の情報を漏らした。ドネツク州に行き、死んだ兄を見つけたと言った。死体のゴミ捨て場を見たと言った。死体の置き場所がなく、死体はゴミ捨て場で、人の背丈ほどもあると、ロシア軍兵士は2分半も会話が傍受された。電話の中で妻に語り、ゴミ捨て場はフェンスで囲まれて、誰も死体に立ち入りできないと付け加えた。

 死体のゴミ捨て場の一つがドネツク州にあり、何百体ものロシア軍兵士の死体が積み上げられ、風雨にさらされ放置された。

ロシア軍は集団墓地に捨てるだけで、その後は跡形もなく消滅したように装って、行方不明にして終わるのが簡便であった。ウクライナで戦死したロシア軍兵士の引き取り手のない死体が入った冷蔵列車のビデオ映像を、アルジャジーラが公開した。その中に人間の死体が入っている白い袋が積み重ねられた。

 ウクライナ軍当局は、ロシア軍がキエフ地方から撤退する際に、ロシア軍兵士の死体を回収した。軍服を着たまま引き取り手のない汚れて腐敗した死体もあった。ウクライナ軍当局は、ロシア軍当局は死者数を抑えるためにロシア軍兵士の死体の引き取りを拒否したと述べた。死亡した軍人の家族に対する補償金の支払いを、文民ではなくロシア軍が監督することを提案した。ロシア軍の損害の本当の規模をロシア国内の住民から隠したい願望を反映した。モスクワ当局はロシア軍兵士の死体をウクライナからベラルーシに密かに運び、国民の目に触れないように死後処置した。

 ウクライナ軍は、2月24日のロシア軍の侵攻の開始以来に約3ヶ月目に入って、約25,000人以上のロシア軍兵士が死亡したと、NATOは約15,000人のロシア軍兵士が死亡したと推定した。一方で、ロシア軍当局は、約1,300人程度ともっと低い数字を主張した。親モスクワ派のタブロイド紙コムソモリスカヤ・プラウダは、約3ヶ月に及ぶウクライナ侵攻で、約9,861人のロシア軍兵士が死亡し、約16,153人が負傷したと述べた。削除される前に、タブロイド紙は数値はロシア国防省の由来と主張した。



















Warning: During the reoccupation of the village of Vilkhivka, East of Kharkiv by Ukraine's 92nd Mechanized Infantry Brigade on March 30th, 2022, a series of mass graves were discovered. They are believed to be members of Russia's 59th Tank Regiment Approximately 90 bodies were found unburied in hastily dug mass graves (SOFREP, May 12, 2023).



2023年12月9日土曜日

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年10月21日に広島原爆病院で植皮術を受けた。

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。熱傷とケロイドの後遺症が、左顔面と両手に残った。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年5月12日に広島原爆病院に入院した。

 金時さんというニックネームの16歳の少女は、広島原子爆弾によって4歳のときに被爆して、顔や首、肘などに大火傷を負った。その後に火傷した皮膚からケロイドが出現した。16歳になるまでに広島原爆病院でケロイドを切除し、傷のない皮膚をはぎ取って、皮膚を植皮する手術を9回受けていた。1957年10月21日に植皮手術により、左側の顔面の頬の一面に、瘢痕したケロイドを切除した。その傷口に両方の大腿から剥ぎ取って植皮した皮膚が張られて、黒い糸で縫い合わされた。

 手術した夜は、いつも金時さんは痛がってあばれた。まだ麻酔のさめない間に、手術室から帰ってきた金時さんをを、入院患者の仲間が集まって、ベッドに帯紐でがんじがらめに縛りつけるのが習慣だった。手術後は絶対安静が必要だった。手術日に、金時さんが手術室へ行く前に、「今夜はあばれないから、しばらないでね」と、同室の入院患者に哀れな声で頼んでいた。しかし、その夜に金時さんは例によってベッド上で痛がってあばれた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。

 1957年7月に、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った写真家の土門拳は、1957年11月まで広島に合計36日間にわたり通い詰めた。原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに写真記録した。写真集『ヒロシマ』(研光社)は1958年刊行されて、国際的な反響を受けた。




2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年12月6日水曜日

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

 1943年夏のクルスクの戦いでの敗北後に、ドイツ軍は戦争の主導権を完全に失って、急速に西方へと後退し始めた。ソビエト連邦の主要な河川であるドニエプル川は、東壁の要素だった。ドイツ軍がドニエプル川の西岸に足場を築いて、ソ連赤軍の攻勢を阻止を目論んだ。クルスクの戦いが終結してわずか約3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまでの約750kmの前線に大規模な攻勢を開始した。1943年8月26日から12月23日のドニエプル河畔の戦いは、両軍合わせて約400万人もの兵士を動員して、史上最大の戦いの一つとなった。

 ドイツ軍は急遽に、ドニエプル川を渡り避難できるものはすべて避難させた。9月7日、ドイツ軍と親衛隊は、放棄するソ連地域から全て取り除く焦土化政策の命令を受けた。9月24日に開始されたソ連赤軍のドニエプル空挺作戦は頓挫して、約3000人以上の落下傘部隊が戦死した。ソ連赤軍はドニエプル川を渡る機会があれば、単独でも西岸に渡り、そこで橋頭堡を確保した。ドイツ軍の反撃を退けてからソ連赤軍の攻勢に転じた。ドイツ軍が防備を固める時間がなく、両軍の絶え間ない砲火の中で激しい戦闘が繰り広げられた。ドニエプル川を渡って、川の水が血で真っ赤に染まり、何百人もの兵士が目の前で戦死した。

 ドイツ軍は、川を渡ったソ連軍を即座に襲撃して、川に投げ返そうとした。主力部隊が到着する前に確保した橋頭堡を守るために、ソ連赤軍師団は最大で人員の約70%を失った。ドニエプル西岸をめぐる激しい戦闘は1943年10月末まで続いた。ソ連赤軍はウクライナ西岸に重要な橋頭堡を築くことに成功した。ソ連軍が南部のザポロジエ橋頭堡を保持し拡大して、クリミアのドイツ軍を陸地から遮断した。11月6日、キエフが解放された。ドイツ国防軍は1カ月半にわたりキエフの奪還を試みた。12月の最後の10日間、疲弊し衰弱したドイツ軍の攻勢が12月23日についに終結して、ドニエプル河畔の戦いは事実上終結した。ドニエプル川の戦いは、約40万人のソ連軍兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は最大で30万人が死亡した。2022年2月24日のロシア侵攻によるウクライナ南部の一部で幅約kmを超えるドニエプル川沿いの戦いは、約80年前は大きな転換点となったが、ウクライナ軍も同様に甚大な犠牲を伴う。




2023年12月5日火曜日

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイドを示した。1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイド示した。写真の画像はヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)が1918年に出版した『モーゲンソー大使の物語』に引用した。原文で、「道端に倒れた人々。このような光景は、1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。虐殺、飢餓、消耗といったさまざまな形の死が、難民の大部分を破壊した。トルコの政策は、国外追放を装った絶滅であった。」と説明した。

  第一次世界大戦直前に、オスマン帝国には推定約200万人のアルメニア人が住んでいた。1915年から1923年の間に、約150万人のアルメニア人が死亡した。さらに約100万人が外国に難民として避難したり、イスラム教化した。1915年4月24日に、アルメニア人の大虐殺の第一段階は、主にオスマン帝国の首都コンスタンチノープル(現在のトルコの首都イスタンブール)にて数百人近い知識人の逮捕と殺害から勃発した。その後に、世界中のアルメニア人は、4月24日をアルメニア人虐殺の追悼日として記念している。

 第二段階は、約6万人のアルメニア人をトルコ軍に徴兵することで始まった。ジェノサイドの第三段階は、アルメニア人の女性、子供、高齢者をシリアの砂漠での虐殺、強制送還、死の行進であった。行進の間に、数十万人がトルコ軍兵士、憲兵、クルド人やサーカシア人の暴徒によって殺害された。飢饉や伝染病、風雨にさらされ、絶命して死亡した。何千人もの女性と子供が強姦された。数万人が強制的にイスラム教に改宗させられた。アルメニア人の大虐殺の最終段階に、トルコ政府によるオスマン帝国でのアルメニア人の大量殺戮と抹殺の全面的かつ完全な否定をした。アルメニア人のジェノサイドの国際的認知が展開しているが、トルコ政府は歴史的事実の改ざん、プロパガンダ・キャンペーン、ロビー活動など、あらゆる手段を用いて、アルメニア・ジェノサイドの受容に一貫して抵抗してきた。

 ジェノサイドという言葉は、1944年にポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキンによって作られた。ナチスによる組織的な殺人、暴力、残虐行為、そして1915年にオスマン帝国でアルメニア人に対して行われた残虐行為を表現した。1948年12月9日、国連は「ジェノサイドの犯罪の防止及び処罰に関する条約」を承認した。この条約はジェノサイドを国際犯罪と定義し、加盟国はその防止と処罰を約束した。




2023年12月4日月曜日

1940年春にソ連軍が約22,000人以上のポーランド人将校を後頭部を撃って重ねて埋めた。カティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド将校の死体を掘り出した。

1940年春にソ連軍側が約22,000人以上のポーランド人将校を殺害したカティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド人の死体を掘り出した。ほとんどは、1940年春に強制収容所に強制送還されたポーランド陸軍将校で、後頭部を撃たれて重ねて埋められた。ポーランドは天然の要塞のない平原であり、カティンの森はロシアのスモレンスク地方に位置した。1940年3月以降に、約2万人のポーランド人将兵が行方不明となった。残りはキエフ、ハリコフ、ケルソン(ウクライナ)、ミンスク(ベラルーシ)、カリーニン(現トヴェリ)刑務所で処刑された。ドイツとは不可侵条約を締結していたソビエト軍に捕らえられたポーランド軍将兵は約18万人であった。スターリンは即座に、ドイツが発覚した戦争犯罪をゲシュタポに反撃した。

 ドイツ軍は1943年春に、カティンの森で数千にのぼるポーランド士官の死体を発見した。死体には、9ミリ口径のピストルが撃ち込まれていた。ポーランド人には、予備将校、医師、弁護士、教師などの知識人が多かった。行方不明になった士官は約8,000人で、カティンの森で発見された死体は約4,500人余りで、まだ発見されていない人もいる。1939年8月23日のリッベントロップ・モロトフ協定で ナチス・ドイツとソビエトの同盟を封印して、ポーランドの分割などに合意した。わずか1週間後の9月1日に、ドイツ軍が西方からポーランドへの侵攻を開始して、17日後にはソビエト軍が東方から侵攻する番となった。

 アメリカ特別調査委員会は、ソ連の犯行とした。ロシア共産主義が崩壊して、ソ連側が1990年最終的に虐殺の戦争犯罪の責任を認めた。1940年春にポーランド人捕虜を処刑したのは、スターリンの直接命令を受けたNKVD(ソ連秘密警察)の工作員だったことを認めた。2010年4月に、ロシアのメドベージェフ大統領とプーチン首相の主導で、カティンの森に関する秘密文書の電子コピーがインターネット上に公開された。処刑人であるラヴレンチ・ヴェリア(NKVD長官)が、スターリンに宛てたメモがある。ポーランド人の略式処刑を提案して、スターリンが青い鉛筆で承認した。しかし、共産主義者たちは、公文書館の文書の信憑性を認めず、ナチス・ドイツのゲッベルスらにによる偽造だと主張した。




2023年12月3日日曜日

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。パレスチナ人によれば、イスラエル軍とハマス武装組織の壊滅的な戦争は、愛する者を奪うだけでなく、悲しみの中で弔問客に尊厳と安らぎを与えた葬儀の儀式も奪った。ガザ地区の病院や死体安置所は壊滅的な被害を受け、多くの家族は葬儀を執り行うことすらできない。

 包囲されたガザの狭い路地には、死臭と破壊の土の香りが充満していた。粉々になった家屋の残骸の中で、パレスチナ人が人類の最も古く厳粛な任務のひとつである死者の死体の回収を行った。イスラエルとパレスチナの紛争がエスカレートするにつれて、ガザ地区は台風の目にさらされている。イスラエル軍による執拗な空爆作戦によって、ガザ地区は廃墟と化して、パレスチナ人は厳しい現実に直面した。イスラエル軍の空爆の外科的なハマスの処置は、死者が埋葬された瓦礫に反映された。しかし、この紛争は、他の多くの紛争と同様に、目に見えない犠牲者を、生だけでなく死の尊厳も奪った。

 パレスチナ人は逆境に直面しながらも、愛する人が死んでも身元を確認できる方法を見出している。パレスチナ人は識別用のブレスレットを身につけたり、子供の手足に名前をつけたりしていた。イスラエルとハマス武装勢力の戦闘の混乱の中でアイデンティティを維持するためにどれだけの努力が必要であるかを痛切に思い起こさた。しかし、瓦礫の中から回収された死体の中には、見分けがつかないものもある。時には、死者を引き取る生存者がいないこともある。宗教問題を管轄するガザ・アフカフ省は、スペースが限られているため、集団墓地を掘ることを許可せざるを得ない。

  紛争が収まる兆しが見えない中で、ガザ地区の状況は次第に悲惨さを増悪している。イスラエル軍は、ハマス武装勢力のインフラと戦闘員を標的にして地上攻撃を続けている。この作戦による民間人の人的被害は甚大であり、死傷者は数千人にのぼり、その多くが女性や子どもである。ガザ地区が戦争の恐怖と闘っているのを世界中が見守るなかで、国際的な介入の必要性はますます高まっている。国際社会は、暴力に終止符を打ち、想像を絶する逆境に直面しながらも回復力と勇気を示し続けるガザ地区の苦境にあるパレスチナ人に援助を提供するために、迅速に行動しなければならない。

















Warning: Palestinians carry a body of a dead child who was found under the rubble of a destroyed house after Israeli airstrikes on Gaza City, Tuesday, Oct. 24, 2023. (AP Photo/Abed Khaled, File)

2023年12月2日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。10月中旬に浦上駅の駅舎に急造されたバラックにてイモの配給が始まった。壕舎生活をした長崎市民が集合して、待機する列がができた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂して、爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。その後に浦上駅の駅舎に、小さなバラックを急造した。10月中旬に浦上駅のバラックにてイモの配給が始まった。被爆してから壕舎生活をしていた長崎市民が集合して、待機する列がができた。当時は着る物食べるものは満足になく、何でも配給切符制度であった。

 長崎本線の浦上駅は、長崎市岩川町のほぼ中央に位置していた。爆心地の南に約1kmの地点であった。国鉄の長崎本線の線路を隔てて向こう側に、三菱製鋼長崎製鉄所と接していた。浦上駅も喪失して、建物も人も突然焼滅して、一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在した。もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が散在した。浦上駅は、駅舎が全壊して、約70人の国鉄職員のうちで、約20人は即死した。長崎原子爆弾の被爆後に約45人が原爆病で死亡した。

 三菱製鋼長崎製鉄所は、写真の左から右に、長崎製鉄所の第4工場、第一工場機械工場、第1工場鍛造工場、本館、変電所、第2工場鍛造工場のいずれも崩壊した。長崎原爆の爆風のために、壁体の鉄骨が、基部の支柱との接点で屈曲して、著しく傾斜した。壁とトタン屋根が吹き飛び、鉄骨がむき出した。浦上駅裏の三菱製鋼所は、燃え盛り、音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がり折り重なった。従業員の総数は約5,300人で、8月9日被爆当日に勤務者は約3,300人で、半数交代制により午前11時2分には約1,700人が勤務していたと推定された。約1,700人他にも、動員学徒、女子挺身隊、海軍工作隊員が加わっていた。その中で、約1,400人が長崎原子爆弾爆弾に被爆して死亡したと推定された。






2023年12月1日金曜日

ソ連軍はレニングラード西方のオラニエンバウム近郊のドイツ軍陣地の塹壕を占領した。ソ連軍兵士の足元の塹壕の底と堤防には、放置されたドイツ軍兵士の死体が横たわった。

第二次世界大戦の東部戦線において1944年2月から3月頃に、ソ連軍兵士はレニングラード西方のオラニエンバウム(Oranienbaumem)近郊のドイツ軍陣地の塹壕を占領した。ソ連軍兵士の足元の塹壕の底と堤防には、放置されたドイツ軍兵士の死体が横たわった。ソ連軍兵士は、パンサー防衛線上のドイツ軍塹壕を視察した。パンサー・ウォータン戦線は、1943年にドイツ国防軍が東部戦線に建設した防衛線であった。ソ連軍兵士は1944年2月から7月に防衛線の突破を試みて、1944年7月17日に、パンター防衛線はオストロフ市の南で突破された。

 1944年にソ連赤軍が各地で攻勢を開始すると、ドイツ軍はプスコフ周囲のパンサー特別防衛線の建設をした。黒海からバルト海までの防衛線の一部で、パンサー・ウォータン戦線と呼称された。地域南部のオストロフとプスコフの都市であった。ドイツ軍の防御には、コンクリート・ブロックや対戦車壕から地雷原や掘削設備から機関銃、大砲、戦車)に至るまで防御手段が含まれた。要塞はプスコフ湖とヴェリカヤ川の岸沿いの丘の上にあった。

 1944年1月に、ソ連軍はレニングラードを解放し、プスコフに向けて侵攻を開始した。第2バルト海戦線の軍隊も攻撃を開始した。しかし、パンサー戦線でのドイツ軍の抵抗によりさらなる侵攻は阻止された。1944年3月1日に、ソ連軍の砲撃がパンサー戦線の全長に轟いた。ソ連軍によるパンター戦線突破の最初の試みは、プスコフの北と南で最大の損失を被った。ドイツ軍は強力な集中砲火でソ連軍を迎え撃って、すべての攻撃は撃退されて、両軍は非常に大きな損失を被った。第2バルト戦線はイドリザに向かって侵攻できなかった。赤軍兵士がパンサー戦線で占領されたドイツ軍の塹壕を視察した。

 第1バルト戦線と第2バルト戦線による1944年4月の攻撃も再び効果がなかった。3月と同様に、ソ連軍はドイツ軍の防御をわずかに突破した。パンサー線でソ連軍を阻止して、ドイツ北軍集団は前線を一時的に安定させ、1944年7月までソ連軍の侵攻を停止した。1944年7月にパンサー線を突破してバルト三国に侵攻した。1944年7月に、プスコフ地方のドイツ軍の防衛線は消滅して、ソ連軍の大規規模な攻撃が勃発した。7月17日、第3バルト海戦線軍によるプスコフ・オストロフスク攻撃作戦が島南のパンサー戦線の突破から始まり、大規模な軍事作戦の結果、1944年8月11日までに、プスコフ地方はナチスの侵略から完全に解放された。プスコフ郊外の血みどろの戦闘で約1,700人のソ連軍兵士が死亡した。





2023年11月30日木曜日

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を公開で執行された。死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、死刑囚は刑場に倒れた死体となった。

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を執行された。公開された上海の屋外刑場にて、死刑囚は、戦犯の罪状を記した死者の墓標となる卒堵婆を背部に縛り付けた。中国人民衆は膝まずいた日本軍将兵を取り囲んで騒ぎ立てた。死刑執行人は、拳銃により日本軍将兵の後頭部から狙った。




  







 第二次世界大戦時の連合国は、東京に極東国際軍事裁判所を設置して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他上海、済南、武漢、太原、台湾、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどで、B級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本軍の戦犯総数は約5,423人、判決を受けたものは約4,226人、そのうち死刑を執行されたのは約941人であった。その中で、中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷が設置された。1949年2月までに日本軍戦犯約145人に死刑の判決を下した。アメリカやイギリス、オーストラリアにも軍事法廷が設立され、アメリカでは約6人、イギリスでは約21人、オーストラリアでは約5人が死刑になった。

 太平洋戦争後に東京裁判がA級戦犯を裁いたのに対して、横浜、マニラ、ラバウル、シンガポール、上海、広東などの各戦地では、通常の戦争犯罪ある非戦闘員(捕虜を含む)に対する残虐行為を行った者への軍事裁判であるB・C級戦犯裁判が審判された。指揮官としての管理責任を問われた山下奉文と本間雅晴両将軍のマニラ軍事裁判をはじめとして、残虐行為を実際に行ったとされた者に至るまで、B・C級戦犯の多くは、法律による満足な保護や手続もないままに、過酷な取り扱いを受けて、死刑を宣告された日本軍将兵は刑場で死刑が執行されたる。

 日本軍による残虐行為が、実際に多く発生した以上は、やむを得ない側面もあったが、被害者や目撃者の証言などが吟味されることなく証拠として採用された。人違いや、風俗習慣の違いからきた誤解、さらには個人的怨恨による告発などもあって、処刑や服役した者のなかにも、無実の者が含まれる否定できない。

   BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪である。戦争犯罪人とされ罪状に問われた。A項は、平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼称した。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされた。











     上海の刑場で、死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、日本軍将兵の死刑囚を前にたまらず全弾を撃ち抜いた。殺害された死刑囚は刑場に倒れた死体となった。


2023年11月29日水曜日

朝鮮戦争にて1951年9月24日に、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

朝鮮戦争において、1951年9月23日に、国連軍は朝鮮半島の38度線の北に数km前進し、約3週間にわたって北朝鮮軍と交戦した。9月24日、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

 1951年9月13日に「ブラッディ・リッジ」の北隣の尾根である「ハートブレイク・リッジ」の戦いは、38度線の北側でアメリカ軍第2歩兵師団によって開戦した。約30日間にわたる戦闘の末、1951年10月15日に、3745人の死傷者を出しながら、この地域はアメリカ軍によって確保された。両軍とも多大な損害を被ったため、朝鮮戦争で国連軍が行った最後の大規模な攻撃となった。

 1951年4月11日にトルーマン大統領は、マッカーサー元師を解任した。朝鮮戦争は膠着状態が続いて、朝鮮半島の領土の交換はほとんど行われなかった。1951年7月10日に、国連軍と北朝鮮軍は開城で休戦交渉を開始することに合意した。休戦交渉は8月22日に共産党軍によって打ち切られた。その後、アメリカ軍の第8軍の防御態勢を改善するため、一連の限定的な目標攻撃を開始した。朝鮮半島の中東部のアメリカ軍の第X軍団と韓国軍の第1軍団は、カンザス線への攻撃を有利にする陣地から、北朝鮮軍を追い出すため、カンザス線から約8km〜約11km上方の地形目標(ブラッディーリッジやハートブレイクリッジなど)を目指して戦った。1951年10月最終週までに、これらの目標は確保された。朝鮮半島の38度線沿いで血みどろの膠着状態が続く中で10月25日に、板門店の新しい場所で共産党代表団と国連代表団による休戦交渉が再開された。




2023年11月28日火曜日

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。これらの南軍兵士の死体は、1863年7月2日にローズ・ウッズとその周辺で戦った南軍のジョージア連隊あるいはサウスカロライナ連隊兵士の死体と推定された。チャンセラーズビルでの恐ろしい交戦の代償の一部でもある。南軍の最大の損失はストーンウォール・ジャクソン中将であった。何百人もの両軍の戦死兵士の死体が、夜の荒野で燃え盛る雑木林の中で焼かれた。

 ティモシー・オサリバンとアレクサンダー・ガードナーの戦争写真家が、1863年7月5日あるいは7月6日にローズ・ウッズの端近くで撮影した一連の写真の1枚である。ボルダーに最も近い兵士の死体は浅い墓に横たわった。背景には、写真家たちの暗室ワゴンが見える。ゲティスバーグのローズ・ウッズにいた南軍の死者の写真は、埋葬を待つ複数の男性が伏せた状態で一列に並んで、約3人ほどがうつ伏せになった。

 死体群は南軍が撤退する前に、埋葬するために集積した。腐敗し、肥大化した死体を集めた。腐敗して肥大化した死体を、最後の安置する墓地まで引きずるロープの先には、しばしば曲がった銃剣がフックとして使われた。引きずりの最中に、死体のズボンが下りてきた。南軍兵士が死体を埋葬する直前に、埋葬は未完成のままで、退却するよう突然命令が下された。

 1863年7月1日から7月3日に勃発したゲティスバーグの戦いは、北米で戦われた最大の陸戦となった。ゲティスバーグでは、南軍のロバート・リー将軍が率いる北ヴァージニア軍は約7万5千人であった。北軍のジョージ・C・ミード将軍が率いるポトマック軍は推定9万3千人であった。ゲティスバーグの戦いで、北軍と南軍のおよそ約5万人の兵士が死傷・行方不明の犠牲の結果に終わった。