2023年11月25日土曜日

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原子爆弾の投下して約3か月後に、原爆症の放射線疾患から回復中である。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原爆症の放射線疾患から回復中である。原子爆弾の投下して約3か月後に写真を撮影された。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

 歯肉炎、口内炎、咽頭炎を含む粘膜の潰瘍化は、より原爆症の重症事例に共通していた。臨床症状は、白血球減少症と類似した。通例で、出血性下痢を伴ったが、多くの症例では伝染性の炎症によるので、その評価は困難であった。歯肉炎が始まった頃に、粘膜に点状現れる場合があった。但し、皮膚出血はもっと後に出現した。広島で収集した原爆症の資料から、ほとんどの症例は爆心地から半径約1.5km以内で発症した。

 アメリカ軍の米国戦略爆撃調査団は、ルーズベルト大統領の指令に基づいて、1944年11月3日に結成された。トルーマン大統領は、1945年8月15日に、対日本戦における空襲の効果について調査を指令した。対日戦の米国戦略爆撃調査団は、文官約300人、士官が約350人、下士官約500人で構成された。原子爆弾が投下されて約1月間経過した1945年9月初旬から、東京を基点として、名古屋・大阪・広島・長崎に支部を設置した。調査団の収集した資料は常設の政府機関に移管された。1945年10月から12月に約10週間、広島と長崎の被爆都市で実地調査した。他の調査機関である、対日原爆調査合同会議、対日英調査団、対日海軍技術調査団と相互協力した。

 原爆が炸裂直後に死亡した者の死因に関する記録はなかった。放射線は直ちに死を引き起こすものではないく、被爆死は他の傷害因子が死因となる。広島県保健局は、約60%は火傷(閃光火傷あるいは火災による火傷)、約30%は落下して破片、約10%はその他の傷害と推定した。その他の推定では、約50%は火傷が原因であり、約50%はその他の物理的傷害とされた。

 爆心地に非常に近い被爆者が、閃光火傷も二次傷害も被らなかった被爆者が、2から3日以内に原爆症は発症して、出血性下痢を引き起こして、上部呼吸器と胃腸粘膜に急性炎症を認めて。幾人かは、原爆症を発症して2〜3日で死亡した。大半の被爆者は約1週間後に死亡した。日本側調査団は、短期間で死亡した被爆者に血液中の著しい変化を証明するのは困難であった。




2023年11月24日金曜日

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して傷付いた。中国軍は広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送された。

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して、傷付いた。このために、中国軍は次々と野戦病院を増設した。それでも死傷兵士の完全収容は不可能だった。広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送した。それを中国人の従軍看護婦が見守っていた。徒歩で到着した中国人の戦傷兵士は野戦病院前にて、治療の手続きを待機した。

 桂林・柳州の戦いにて、日本の第11軍は桂林攻略を計画した。全県と桂林の間は約120kmもあり、支那派遣軍は一号作戦計画時から、柳州は第23軍が攻略を実施させ予定が、発動しなかった。第11軍は桂林攻略に固執し、その計画は1944年10月5日に決定した。

 桂柳攻略作戦の主力は日本の第11軍で、第23軍は側面から重慶軍を牽制した。第23軍傘下の第104師団は、10月14日に広西省に侵攻して、中国の重慶軍を牽制した。日本軍の丹竹平地で飛行場の占領も、中国軍に脅威を与えた。10月中旬に武林へ侵攻した第22師団は、アメリカ軍の爆撃機の来襲が激しく、防空壕に留まった。

  第11軍は10月26日に、桂林攻略の命令を受け、第3師団と第37師団に発進命令を出した。第3師団は広西省に侵攻すると、早くも中国人住民から自衛団の抵抗をうけた。11月4日に、歩兵第34連隊竹下大隊は雨中を突破して、不眠不休で修仁の高地で炊事を始めた。重慶軍はこの火に向けてアメリカ製10ミリ榴弾砲で初めて猛射した。

  10月28日に、第58師団の正面で重慶軍が退却を始めた。第58師団の第一線部隊が追撃を開始した。第40師団が桂林に進撃を開始した。第40師団は桂林の南側から攻撃を、中国軍から反撃され、逆に苦戦を強いられ、東方正面からの攻撃を命じらた。

 11月4日、湘桂作戦の最大の作戦である桂林城攻略のため七星巌の夜襲が執行された。中国軍は陣地内から銃や迫撃砲で応戦を開始した。日本軍は火焔放射器を使用したが、重慶軍の激しい防戦に会い、血戦は11月8日の朝まで続いた。中国軍側は日本軍は毒ガスを使用したと抗議した。

  11月9日に、第58師団による桂林の総攻撃が勃発した。日本軍は野砲42門を中心に、空からは第5航空部隊が市街地を銃爆撃した。重慶軍の応戦は激しく、日本軍の戦車へも果敢に砲撃を加えた。日本軍は水東門から桂林城中に突入に成功して、城内は混乱状態に陥った。敵味方の識別も難しい中での市街戦がはじまった。激闘一日半、桂林は第11軍が確保した。日本軍側の犠牲者数は不明で、中国軍の戦死者は約5600人、捕虜は約13,000余人を数えた。日本軍が桂林、柳州を占拠して「一号作戦」の目的である中国西南部のアメリカ軍用航空基地は全て奪取した。




2023年11月23日木曜日

クリミア攻防戦のチェルソネゼ岬は、1944年5月12日にソ連軍に撃破された城壁の前後一帯は、地面には何千ものドイツ軍兵士の死体から、ヘルメット、ライフル、銃剣、その他の武器や装備が散乱した。

クリミア攻防戦のチェルソネゼ岬は、1944年5月12日にソ連軍に撃破されて、城壁の前後一帯は、何千もの砲弾のクレーターで埋め尽くされ、ソ連軍の砲撃で焦土と化した。何百台ものドイツ軍の車両が横たわった。地面には何千ものドイツ軍兵士の死体から、ヘルメット、ライフル、銃剣、その他の武器や装備が散乱した。ソ連兵士はドイツ軍の残留物を大きな山に集積した。地面には、ドイツ軍兵士の写真、個人的な書類、地図、個人的な手紙など、書類の切端も散らばった。ほとんどすべての死体で埋められて、廃墟と化した灯台周辺の海には、ドイツ軍兵士の死体や、チェルソネゼ岬の先端で筏の残骸が散在した。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、クリミア攻防戦(1944年4月8日~5月12日)は、ソ連赤軍がドイツ軍が支配するクリミアに向けた攻勢であった。ソ連赤軍の第4ウクライナ戦線は、ドイツ国防軍とルーマニア軍から成る南ウクライナ軍集団のドイツ第17軍と交戦した。ドイツ軍とルーマニア軍は、クリミア攻防戦から撤退中にかなりの損害を被った。

 1944年5月5日に、ソ連軍はクリミアのセヴァストポリの基地に総攻撃が行われた。ソ連軍は、約4日間にわたる激しい戦闘の後に、5月9日にセヴァストポリを解放した。敗走したドイツ軍の第17軍の残党の約3万人は、クリミアのチェルソネゼ岬に逃げ込んだ。そのドイツ軍の追跡のために、前線部隊にはソ連軍の第19戦車軍団を割り当て、直ちにチェルソネゼ岬を覆う防御線に侵攻した。ドイツ軍は、黒海の海上から救援されれるように、頑強に守備を固めた。ソ連軍の黒海艦隊、前線の砲兵隊、航空隊が、ドイツ軍の避難を妨害した。戦力を引き上げたソ連軍の前線部隊は、クリミア陸上にてドイツ軍の最後の防衛線を突破して、5月12日に撃破した。最終的にチェルソネゼ岬では、ドイツ軍兵士の約2万1000人が捕虜となり、大量の武器と軍備が捕獲された。

 1944年5月12日に、ソ連軍の砲兵隊と第51軍第10ライフル軍団は、チェルソネゼ岬でドイツ軍に砲撃を開始した。砲撃後に、ソ連軍はドイツ軍の防御を突破した。ソ連軍第51軍の部隊は朝7AMまでにストレツカヤ湾、クルグラヤ湾、カミシェバヤ湾の全海岸を制圧した。ソ連軍の沿岸軍と第19戦車軍団は、午前10時までにチェルソネゼ岬からドイツ軍を排除した。5月12日12時までに、チェルソネゼ岬のドイツ軍の最後の抵抗は鎮圧された。1944年4月8日から5月12日まで続いたクリミア戦略攻撃作戦は終結した。ソ連軍は、セヴァストポリ地域のペレコップ地峡、ケルチ半島、ドイツ軍の深く階層化された防御を突破し、ドイツ軍の第17野戦軍を撃破した。クリミア攻防戦で、ソ連軍は約17,754人が死亡して、約67,065人が戦傷した。ドイツ軍は、約31,700人が死亡して、約33,400人が戦傷した。ルーマニア軍は、約25,800人が死亡して、約5,800人が戦傷した。




2023年11月22日水曜日

第二次世界大戦の西部戦線で1944年11月に、オランダのワルケレン島にてドイツ軍の砲台の跡地に、連合軍の爆撃により殺害されたドイツ軍砲兵士の死体が残存した。ドイツ軍兵士は砲台に座位のままで戦死していた。

第二次世界大戦の西部戦線で1944年11月に、オランダのワルケレン島にてドイツ軍の砲台の跡地に、連合軍の爆撃により殺害されたドイツ軍砲兵士の死体が残存した。ドイツ軍兵士は砲台に座位のままで戦死していた。1944年11月1日に、スヘルデ川を見渡すドイツ軍の沿岸の砲台を崩壊させるため、イギリス軍特殊部隊が ウェストカペル村に上陸した。水陸両用攻撃(Infatuate作戦)で、ドイツ軍の沿岸の砲台は崩壊して、11月8日までにワルケレン島におけるドイツ軍の抵抗はすべて停止した。

 ワルケレン・コーズウェイ(Walcheren Causeway)の戦い(活力作戦)は、1944年10月31日から11月2日まで第5カナダ歩兵旅団と第52イギリス(ローランド)歩兵師団、ドイツ第15軍部隊の間で行われたスヘルト海戦の戦闘である。この戦いは、スヘルデの戦いの間、ワルケレン島とその周辺で繰り広げられた多くの戦闘の最初のものであった。また、第二次世界大戦中、スローダムとして知られる地形をめぐって戦われた2度目の大規模戦闘でもあった。

 オランダのスヘルデ川の河口に位置するワルケレン島は、上流に位置するアントワープの深水港の使用を可能にする島であった。第二次世界大戦中の1940年5月に、オランダ軍とドイツ軍の間で戦いが繰り広げられ、ドイツ軍が占領した。1944年10月31日から11月2日には、スヘルデ河畔の戦いであるワルケレン・コーズウェーの戦いで再び戦闘が勃発した。1944年10月3日、連合軍の空軍はウェストカペルの防波堤を爆撃し、ワルケレン島の浸水を引き起こした。第2カナダ歩兵師団は 南ベベランドの東側を突破して、1944年10月31日にワルケレン島に接近した。第5カナダ歩兵旅団の先頭部隊は、突撃艇がスロー海峡の深い泥の中では機能不全であり、唯一の戦線は幅約40mのワルチェレン・コーズウェイであった。

 サウス・ベブランドからワルケレン島まで、約1.6kmの陸橋があった。カナダ軍のブラックウォッチ部隊は10月31日の夜に中隊を派遣したが、ドイツ軍に阻止された。カルガリー・ハイランダーズ部隊は2個中隊を送り込み、2回目の攻撃でワルケレン島に橋頭堡を築いた。カルガリー・ハイランダーズ部隊は64人の死傷者を出して、最終的にドイツ軍に反撃された。メゾヌーブ連隊が土手道でカルガリー・ハイランダース部隊らを救援した。イギリス第52歩兵師団のグラスゴー・ハイランダーズ第1大隊が続いた。

 1944年11月1日には、スヘルデ川を見渡すドイツ軍の沿岸の砲台を崩壊させるため、イギリス軍特殊部隊が ウェストカペル村に上陸した。水陸両用攻撃(Infatuate作戦)で、ドイツ軍の沿岸の砲台は崩壊して、11月8日までにワルケレン島におけるドイツ軍の抵抗はすべて停止した。連合軍は約160人が死傷して、ドイツ軍は約60人以上が死亡した。




2023年11月21日火曜日

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。1976年2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

 1976年ナイジェリア・クーデター未遂事件は、1976年2月13日にナイジェリアで起きた軍事クーデター未遂事件であった。ブカール・スワ・ディムカ中佐が率いる軍将校一派が、ムルタラ・モハメッド将軍(1975年7月にクーデターで政権を奪取)政権の転覆を図った。

 モハメッド将軍は、側近のアキントゥンデ・アキンセヒンワ中尉とともにラゴスで暗殺された。ドダン兵舎に向かう途中のイコイで、ディムカが率いる軍隊兵士たちによって、モハメッドの車が待ち伏せされた。クーデター未遂は、その数時間後にナイジェリア政府軍によって鎮圧された。

  約3週間の捜索の後に、ディムカ中佐は1976年3月6日にナイジェリア南東部のアバカリキ近郊で逮捕された。軍法会議の後に、ディムカ中佐を含む38人の軍人と民間人が銃殺刑に処された。ディムカと他の6人の共謀者は1976年5月15日に銃殺刑された。モハメド将軍の後任には、オルセグン・オバサンジョ中将がナイジェリア国家元首として就任した。

 1960年代初頭からの国境紛争にて、アフリカの多くの植民地が、英連邦の協力のもとで独立国家へと移行した。アフリカ最大の国家ナイジェリアでは、外見上は当初は、英連邦への移行がほぼスムーズに進んだ。イギリスの民主主義輸出の目玉であったナイジェリアでさえ、1965年には早くも長く血なまぐさい内戦に巻き込まれた。アフリカの状況下での政治的統合と国家建設の問題を実証して、1970年代にほとんどの独立国家の特徴である軍事政権に終わった。1966年~1993年にナイジェリアでは、7回の軍事クーデターが勃発した。1967年〜1970年までビアフラ内戦が勃発した。1979年〜1983年まで第二共和政が成立した。




2023年11月20日月曜日

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタのカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタ(Nyamata)のカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。ルワンダ内戦が1994年4月7日から勃発して、1994年4月初旬に約10,000人のツチ族市民がが旧カトリック教会に避難した。しかし、フツ族の民兵はレンガの壁に穴を開け、中に手榴弾を撃ち込んだ。1994年4月14日から4月19日にかけて、ニャマタ教会の敷地内だけで約10,000人が殺害された。教会の裏には集団墓地があり、約45,308人のジェノサイド犠牲者が埋葬された。

 フツ族民兵は教会を襲撃し、その中にいた人々をナタで撃ち殺した。祭壇のスカーフは今でも血にまみれている。大虐殺の後に、周辺地域でも多くのツチ族市民が殺害された。首都キガリの南約30kmに位置するニャマタ教会の建物の周りには、約5万人の死体が墓に埋葬された。壁には穴が開き、天井には弾痕が残っている。犠牲者の遺品は衣服と身分証明書だけである。ツチかフツかを識別するIDには特別な意味があった。

 ルワンダ大虐殺は、ルワンダ内戦中に1994年4月7日から7月15日に勃発した。約100日間の間に、少数民族のツチ族と一部の穏健なフツ族とトワ族が、武装したフツ族民兵によって殺害された。ツチ族の死者数は約50万人から80万人と推定された。ジェノサイドの規模と残虐性は世界中に衝撃を与えた。どの国も強制的に殺害を止める介入をしなかった。犠牲者のほとんどは自分の村や町で殺され、多くは隣人や村人仲間に殺された。フツ族のギャングは教会や学校の建物に隠れている犠牲者を探して虐殺した。フツ族民兵は、ナタやライフルで犠牲者を殺害した。性的暴力が横行し、ジェノサイドの間に約25万から50万人の女性が強姦されたと推定された。




2023年11月19日日曜日

2023年11月13日にパレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユーニスで、イスラエル軍の空爆を受けてパレスチナ人が殺害された。カーン・ユーニスの病院で、犠牲者となった子どもの死体の側で母親が慟哭した。

2023年11月13日にパレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユーニスで、イスラエル軍の空爆を受けてパレスチナ人が殺害された。カーン・ユーニス(Khan Younis)の病院で、犠牲者となった子どもの死体の側で、バラカとアブ・レダの親族である母親が慟哭した。 

 イスラエル軍のガザ侵攻から38日目で、イスラエル軍に完全包囲されたガザ地区で最大のアル・シファ(al-Ahli)病院では、食料や水、燃料が底をつき、医療関係者に助けを求めて患者が泣きわめいた。アル・シファ病院は11月13日に、病院内の燃料が底をつき、未熟児が差し迫って死の危険にさらされた。ここ数日ですでに5人の未熟児が死亡した。

 ガザ地区最大の医療施設であるアル・シファ病院は、イスラエル軍が周辺への砲撃を強化し、地上軍が11月10日に以来包囲を続けて、11月11日から閉鎖が宣言された。11月13日に、野良犬が病院の庭で市民の死体を食べた。11月10日から、イスラエル軍の狙撃兵や戦車が、病院施設から至近距離で発砲して、誰も病院に出入りできない。病院施設には水も電気もなく、食料も燃料も底をついた。麻酔器のコンセントは1つのみで、救命処置以外は何もできない。未熟児の保育器には大量の電気が必要である。未熟児は免疫が未熟で、感染症予防で、完全に隔離が必要である。停電のために、未熟児の乳児たちも通常のベッドに移された。死体を移動や埋葬したりする場所もない。死体が、感染症や伝染病その他の病気の原因となる。11月13日朝から8人のパレスチナ人の患者が死亡した。国境なき医師団(MSF)も11月10日に、閉鎖されたガザ地区は状況は、非常に悪く非人間的である。アル・シファ病院施設には約600人の入院患者と約37人の乳児がいて、医師団は見捨てる避難はしない。病院には、電気も水も、食料もなく、人工呼吸器が機能しなければ、患者は数時間で死亡する。

 イスラエル軍は、病院に患者を運ぶ救急車も攻撃した。病院の前には、負傷者だけでなく多くの死体があるが、病院内に運び込めない。アル・シファ病院から出た何人かが殺され、爆撃され、狙撃兵に殺害された。アル・シファ病院内には負傷した患者や医療チームに保証を与え、先に患者を避難させるならば、医療関係者も避難する。アル・アハリ(al-Quads)(病院が、包囲された地区でまだ医療サービスを提供した唯一の病院となった。過去38日間のイスラエル軍によるガザ砲撃で、パレスチナ人11,240人(うち子ども4,630人、女性3,130人)が死亡したとガザ当局が公表した。













Warning: A woman mourns a child and other family members by their bodies at a hospital, following Israeli strikes, in Khan Younis in the southern Gaza Strip, 13 November 2023 (Reuters)

2023年11月18日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。比治山国民学校は、爆心地から南東に約2.8kmにあり、火災を免れた。原子爆弾の被爆直後から負傷した広島市民が避難し、広島県が翌8月7日に布告した救護所13カ所の一つとなった。

 比治山国民学校は8月8日から、迷子の子供たち、特に小さな子どもたち、オムツの取れていない子供たち、大やけどを負った子供たち、重傷を負った子供たちの避難所となった。8月20日までに約60人の子ども、後には一度に約155人もの子どもが保護された。被害者の子どもらは4、5人の教師と地元の女性クラブの会員によって救護されていた。

 夜になると、『お母さん、便所に行きたい』と子どもが泣きながら目を覚ました。暗い救護所内では、また別の子どもが目を覚まして泣き出した。子どもは原爆症で下痢をして、長く便所を待てずに、途中で身体を汚した。子どもは、目覚めることなくベッドを汚した。翌朝に、血まみれの排泄物で汚れた毛布や蚊帳を急いで手洗い、天日で乾かして、晩にまた使用した。大量の放射線を吸収した小さな子どもたちは、脱毛で髪を失い、下痢が続いて日に日にやせ細って、ついには原爆病死した。校庭の片隅で次々と火葬され、野放しの軍用犬が死体をあさり、次の焼却を待機した。

 原子爆投下の2日後の8月8日から、比治山国民学校は孤児(当時は「迷子」と呼称)のための「比治山迷子収容所」となった。一時は約200人の子どもたちが収容されたが、多くの子どもがそこで原爆病死した。原子爆弾投下で未曾有の混乱に陥り、保護者の生死が不明となった子どもたちの救援が始まる。9月2日までの受け入れは計91人(うち女児36人)、その内訳は0~5歳が40人、6~12歳が47人、13歳以上が4人であった。そのうち18人が親に、14人が親族などと計32人が引き取られたが、9人が原子爆弾の放射線急性障害による原爆死に至った。




2023年11月17日金曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のゼーロウ高地の戦いにて、負傷して重態となったソ連軍兵士を、周囲を味方のソ連軍兵士が取り囲み、隣に座ったソ連軍兵士が見守った。

 第二次世界大戦末期の東部戦線のゼーロウ高地の戦い(Battle of Seelow Heights)にて、負傷して重態となったソ連軍兵士を、周囲をソ連赤軍兵士が取り囲み、仲間の隣に座ったソ連赤軍兵士が心配しながら見守った。

 ベルリンの東部にありベルリンの門と呼称されたゼーロウ高地めぐり、ベルリンの戦いにおける前哨戦となった。1945年4月16日から4月19日までの4日間に戦闘が勃発した。第1白ロシア方面軍の約100万人兵士がベルリンの入口から、ドイツ国防軍の第9軍兵士の100,000人が防御するゼーロウ高地に襲い掛かった。ゼーロウ高地の戦いは、しばしばオーデル・ナイセの戦いの一部であった。ソビエト赤軍がオーデル・ナイセ両川を渡河した数箇所の1つであり、ゼーロウ高地は熾烈な戦闘が勃発した。ドイツ軍の陣地は4月19日についにソ連軍に粉砕されて、ベルリンへの道が開かれた。

 4月16日午前3時に、ソ連軍は大砲とカチューシャロケット弾によるドイツ軍陣地への大規模な砲撃を開始した。砲撃の大部分は、高地正面のドイツ軍第一防衛線を攻撃した。ドイツ軍は砲撃を予測し、部隊の大部分を高地の第二陣地まで後退させた。ソ連軍は、谷間の湿地帯、運河、その他の障害物が侵攻を大きく妨げ、ソ連軍はすぐに高台のドイツ軍対戦車砲から大きな損害を受け始めた。4月17日の朝、大規模な砲撃が開始して、ゼーロウ高地に対するソ連軍の新たな侵攻を告げた。ゼーロウ高地でのドイツ軍の陣地は、ソ連軍の南への進撃によってさらに損害を受けた。4月18日に再び攻撃を開始したソ連軍は、大きな犠牲を払いながらもドイツ軍の戦線を突破し始めた。4月19日に突撃したソ連軍は、ドイツ軍の最後の防衛ラインを圧倒した。ドイツ軍は陣地が崩壊して、ベルリンに向かって西方に後退し始めた。ベルリンへの道が開かれて、ソ連軍は首都ベルリンへの急速な進撃を開始した。

 ゼーロウ高地の戦いで、ドイツ軍の死者は約12,000人、ソ連軍は3万人以上の戦死者を出した。ソビエトとベルリンを結ぶ最後の組織的なドイツ軍の防衛は事実上消滅した。ゼーロウ高地は最後のドイツ軍の防衛戦となり、ソ連赤軍の前に立ち塞がるドイツ軍はすでに存在せず、ベルリンまでは残り約90kmであった。西方に侵攻したソ連軍は、4月23日にドイツの首都ベルリンを包囲し、ベルリンの戦いの最終決戦を開始した。5月2日にベルリンは陥落し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は5日後の5月7日に無条件降伏して終結した。




2023年11月16日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線で1942年1月に、トロペッツ・ホルム攻防戦で戦死したソ連兵の死体が積み上げられた。ホルムの戦いはナチス・ドイツのプロパガンダとして、ドイツ軍兵士を英雄的戦いに定型化された。

第二次世界大戦の東部戦線で1942年1月に、トロペッツ・ホルム攻防戦で戦死したソ連兵の死体が積み上げられた。レニングラードでドイツ軍が敗北した後、侵攻してきたソ連軍によりホルムのドイツ軍は約3ヶ月間包囲下におかれた。ソ連赤軍はドイツ第16軍を包囲して、ドイツ空軍は4月21日に包囲が解かれるまでドイツ第16軍に補給を行った。

 トロペッツ・ホルム攻防戦は1942年1月18日に、ソ連のパルチザンがドイツ軍占領下の輸送拠点チョルムを攻撃して勃発した。数日後に、ソ連赤軍はホルム町とそのドイツ軍の守備隊を包囲した。1942年5月のドイツ軍の救援攻撃によって、ドイツ軍守備隊が再び連絡を取れるまでは、3カ月以上にわたりドイツ空軍の補給を受けた。トロペッツ・ホルム攻防戦で、ドイツ軍は東部戦線で初めてソ連軍部隊に長期間に包囲された。

 トロペッツ・ホルム攻防戦で、激しい砲撃が大きな損害を与え続けて、1942年5月1日には約100人のドイツ軍兵士と約600人のソ連軍兵士が死亡した。5月3日に、ソ連軍は再び数百人の兵士と13両の戦車を失った。5月18日にソ連軍が南東部から撤退した。6月8日に北東部をドイツ軍が占領した。攻防戦の終結後に、1942年1月18日から6月8日まで攻防して、ドイツ軍は約1,550人が戦死して、約2,200人が戦傷した。ソ連軍は、約25,000人が戦死傷した。その後、1944年2月21日にソ連赤軍の大攻勢にてホルムを占領したドイツ軍守備隊は降伏した。

 ホルムの戦いはナチス・ドイツのプロパガンダとして、ドイツ軍兵士を英雄的戦いに定型化された。終結後も数か月に宣伝目的に利用された。参加した兵士にはホルム盾章が与えられ、シェーラー将軍の騎士鉄十字章には柏葉が付された。国防軍の機関紙である「Die Wehrmacht」誌では、複数の戦闘参加者に対するインタビューを行い、多くの記事が掲載された。包囲から脱出までの間に、約2,500枚の写真を撮影した戦時報道隊員リヒャルト・ムックによる画報「Kampfgruppe Scherer - 105 Tage eingeschlossen」も含まれた。




2023年11月15日水曜日

トルコのエルズルムのグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。

トルコのエルズルム(Erzeroum)のグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。アルメニア人が、重荷を背負って深い塹壕に到着し、死体を仲間に手渡した。大きな共同墓地の四方には、不安そうな顔で墓の墓を見つめるアルメニア人の群衆がいた。約350人のアルメニア人の死体を埋葬するために大きな溝の共同墓地が掘られた。葬儀はまったく行われなかった。

 エルズルムのアルメニア人墓地にある集団墓地に埋葬されたアルメニア人の虐殺犠牲者の死体の列ができた。4人の男が死体を地面に安置して、シャベルを持った他の男たちが立ち止まった。共同墓地には弔問客が列をなし、背後には高い木々が見えた。北側の壁に沿って、幅約6m、長さ約45mの列をなして、虐殺されたアルメニア人の死体321体が横たわった。

 エルズルムの虐殺は、オスマントルコ軍兵士によって勃発して、地元のイスラム教徒も虐殺に加わった。トルコ軍兵士は、トルコのエルゼロウムと周囲で、アルメニア人の虐殺に積極的に執行した。アルメニア人の商店や家屋は略奪された。約6万人以上のアルメニア人が虐殺された。エゼロウムだけでなく、トレビゾンド、、エルジンギアン、ハッサンカレ、その他多数の場所で、キリスト教徒のアルメニア人は、ブドウの実のように押しつぶされた。

 ウィリアム・サハトルベンは虐殺の余波を目撃し、アルメニア人墓地で犠牲者の写真を撮影した。虐殺に3通の長く詳細な手紙を書き、11月16日と27日と12月9日に、ロンドン・タイムズ紙に無署名の特派員として掲載された。ハミディアンの虐殺は、アルメニア人の虐殺とも呼ばれ、1890年代半ばにオスマン帝国にて勃発したアルメニア人の虐殺である。犠牲者の推定は約10万人から30万人で、約5万人の孤児を出した。虐殺は主にアルメニア人を狙ったが、ディヤルベキルの虐殺など、無差別の反キリスト教のポグロムに展開して、約25,000人のアッシリア人も殺害された。




2023年11月14日火曜日

日本軍の捕虜となったアメリカ軍兵士の死体が、1945年5月に解放されたフィリピンのミンダナオ島のダバオ流刑地のダペコール捕虜収容所で発見された。彼は病院の外科手術室の洗面台から水を飲もうと立位で死んだ。

太平洋戦争にて日本軍の捕虜となったアメリカ軍兵士の死体が、1945年5月に解放されたフィリピンのミンダナオ島南東のダバオ流刑地のダペコール(Dapecol)捕虜収容所で発見された。彼は病院の外科手術室の深い洗面台から水を飲もうとして立位で死んだ。彼には終末期の悲劇的な最後の一杯の水となった。彼の死体は、ダバオの捕虜収容所が解放された時に発見された75人の犠牲者の一人だった。

 第二次世界大戦のフィリピンのミンダナオ島にあった日本軍のダバオ流刑地の捕虜収容所で、捕虜のアメリカ軍白人兵士の死体が発見された。その死体は、ミンダナオ島にあるダバオ流刑地でアメリカ軍が撮影した。この死体は、ダバド流刑地の捕虜収容所の建物内で発見された75体のうちの1体であった。アメリカ白人男性の死体は、病院の外科手術室の深い洗面台から飲物を取ろうとして、立位の姿勢のまま倒れて死んだと推定された。

 日本軍が捕虜収容所にしたフィリピンのダバオの疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬となった囚人の死体が発見された。太平洋戦争にて1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオの捕虜刑務収容所に拘束された。そのアメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人が死亡した。

 1944年4月下旬から6月中旬のダバオ市周辺の戦闘で、アメリカ軍は死者約350人、負傷者約1,615人を出した。日本軍は死者約4,500人、捕虜30人を出した。州内の他の場所でも激しい戦闘が繰り広げられ、両軍からさらに多くの兵士が恐ろしい損害を被った。日本軍は、ダバオから撤退した頃には、戦闘でほぼ壊滅状態になった。




2023年11月13日月曜日

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がグリーン島のジャングルに散乱した。グリーンランド諸島の最大の島である日産島は、通称グリーン島とも呼ばれ馬蹄形をした。残った日本軍は死闘を繰り広げ、降伏する者は一人もいなく全滅して玉砕した。

 グリーン諸島への攻略は1944年2月15日から2月20日まで、ニュージーランド軍とアメリカ軍の連合軍約5,800人がグリーン島へ上陸して勃発した。グリーン諸島は、ラバウルの真東約200km、ブカ島の北西に位置する小島である。日本軍は、2月初旬に潜水艦で上陸した今村均の 第8方面軍から12名の海軍監視員と約80名の陸軍要員で構成されていた。この小さな部隊はさらに増強され、約120人に達した。グリーン諸島に航空基地を設けて、ニューアイルランド島のカビエンを爆撃した。グリーン諸島には日本軍の海軍見張所があり、連合軍が上陸する気配を察したラバウルの南東方面艦隊は、日本軍陸戦隊の一個中隊を急ぎ派遣した。約3日間の戦闘でほとんど全滅した。日本軍は2月19日に最後の反撃を試みた。

 2月15日に海岸に上陸した連合軍の陣地が設置されると、シロート島周辺にいた日本軍が、短期間だけ抵抗した。翌日2月16日に、ニュージーランド軍部隊は島を横断して内陸に侵入し始めた。タナヘラン近くの島の南端にある教会周辺では、約70人の日本軍集団に遭遇した。日本軍集団は、戦車の支援を受けたニュージーランド軍により、数日間で制圧されて、日本軍兵士約62人が死亡した。2月19日にさらなる地上戦が行われ、2月20日に、ようやくグリーン島の安全が宣言されて、約120人から150人の完全に劣勢の日本軍から奪還した。2月23日に日本軍の組織的抵抗は停止したが、掃討作戦は2月末まで続いた。日本軍の全兵士の約120人が全滅して死亡した。連合軍の死傷者は13人、負傷者26人であった。




2023年11月12日日曜日

2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。パレスチナ市民が子どもちたの死体取り囲んだ。

パレスチナ人市民は、2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所に詰めかけた。死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。その死体の周囲には、パレスチナ市民たちが群がった。眠っているように見える子供の死体の顔から血痕が露出した。イスラエル軍によるガザ地区への砲撃で殺害された子供の死体をパレスチナ市民は周囲から見守った。  

 イスラエル軍の爆撃の余波の中で、パレスチナ住民たちは犠牲者を探すために、粉々になったコンクリートブロックの山を素手で掘り返して、犠牲者を発見した。パレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユニース市の平地で、瓦礫を掘った男性グループが、パレスチナ人の死体をまず手で発見し、次の死体をまた手で発見した。割れたセメントブロックと粉塵の中から11歳のシラ・ハムダンさんの死体を引き上げた。その下に彼女の妹、9歳のティラさんの死体が押し込めらた。ガザ保健当局によると、10月17日の夜にイスラエル軍の爆弾攻撃によりその地域の住宅約15軒が破壊されて、少なくとも37人が死亡した。

 男たちは子供たちを花柄のシーツで包み、回収トラックの荷台に運んだ。小さいトラックで、まだ一人の男性の腕に死体が抱かれた。死体は死体体安置所に運ばれて、葬儀用の白い布に包まれた他の十数名の犠牲者と並んで横たわり、パレスチナ人の家族らは涙を流した。

 子供の死は、戦争がガザ地区の圧倒的に若い人口に大きな犠牲を与えた。ガザ地区の約230万人の人口の約半数は子どもたちで、その多くはイスラエルによる約16年間のガザ地区の厳格な封鎖中に生まれた。現在はイスラエル軍の爆弾が近隣地域を破壊するのを目の当たりにした。

 パレスチナ保健当局は、10月7日にイスラエル国内で1,400人以上が死亡した。220人以上が人質としたハマスのテロ攻撃への報復としてイスラエル軍がガザ地区への砲撃を開始した。少なくとも2,704人の子供が殺害された。ガザ地区ではさらに約830人の子供たちが依然として瓦礫の中に閉じ込めたと推定された。ガザ地区で紛争が始まって以来、ガザで死亡した10,515人のうち、子どもは約4,263人が死亡したとパレスチナ保健省が11月6日に発表した。 











Warning: Palestinians stand around the bodies of children killed in the Israeli bombardment of the Gaza Strip in a morgue in Khan Younis, Thursday, Oct. 19, 2023. (AP Photo/Fatima Shbair)


2023年11月12日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年11月11日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病で、 広島市基町の母子療で死亡した。母親が原爆病で死亡して孤児となった子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病のために、 広島市基町の母子療で死亡した。母親は原爆病で死亡して孤児となって残された子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。広島原子爆弾が炸裂して母親が被爆した当時は男子は約二歳で、広島原子爆弾のことは何も知らず記憶になかった。原子爆弾の被害は戦後になってもまだ続いていた。

 母子寮は、18歳未満の子どもを養育している母子家庭等の女性が、子どもと一緒に安心して生活し、自立できるように生活・住宅・養育・就職など総合的な支援を行う児童福祉施設である。入所の要件は、配偶者のいない女性または、これに準ずる事情にある女性で、生活上の色々な問題を抱え、児童の養育などで支援が必要な母子である。児童福祉法にて、配偶者の無い女子またはこれに準ずる事情にある女子およびその者の監護すべき児童を入所させてこれらの者を保護するとともに、これらの者の自立の促進のためにその生活を支援し併せて退所した者について相談その他の援助を行うこを目的とする施設である。1998年児童福祉法第38条改正によって母子寮から母子生活支援施設へと名称が変更された。

 母子寮は、1929年の世界大恐慌後の社会不安の中、1932年に施行された救護法で法律に位置づけられた(救護法第十二条 幼者ト併セ其ノ母ノ救護ヲ為スコトヲ得)。1938年に厚生省が設置され、母子保護法により規定された。第二次世界大戦後、混乱する社会の中で、着の身着のままで荒廃の中をさまよう母子の保護が、社会的に大きな課題となった。1949年の国会で、「授産場、母子寮、保育所を増設すること」決議がなされ、1947年に212か所の母子寮は、母子生活支援施設は2023年に215か所、定員4,441世帯で現員は3,135世帯で減少傾向となった。終戦当時は戦争で住宅を失ったり、夫の戦災死による死別母子家庭が圧倒的に多かった。「屋根、寝る場所と住む場所」と、戦争で夫を失い、家を失い、家族を失った、切実な課題の母子に、母子寮が戦後の母子家庭対策と支援した。戦後の時代に入ると、「死別母子家庭」から、離婚などを理由とする「生別母子家庭」が増加して、住居課題から、複雑で多様な生活課題の利用が増加した。