2023年11月20日月曜日

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタのカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタ(Nyamata)のカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。ルワンダ内戦が1994年4月7日から勃発して、1994年4月初旬に約10,000人のツチ族市民がが旧カトリック教会に避難した。しかし、フツ族の民兵はレンガの壁に穴を開け、中に手榴弾を撃ち込んだ。1994年4月14日から4月19日にかけて、ニャマタ教会の敷地内だけで約10,000人が殺害された。教会の裏には集団墓地があり、約45,308人のジェノサイド犠牲者が埋葬された。

 フツ族民兵は教会を襲撃し、その中にいた人々をナタで撃ち殺した。祭壇のスカーフは今でも血にまみれている。大虐殺の後に、周辺地域でも多くのツチ族市民が殺害された。首都キガリの南約30kmに位置するニャマタ教会の建物の周りには、約5万人の死体が墓に埋葬された。壁には穴が開き、天井には弾痕が残っている。犠牲者の遺品は衣服と身分証明書だけである。ツチかフツかを識別するIDには特別な意味があった。

 ルワンダ大虐殺は、ルワンダ内戦中に1994年4月7日から7月15日に勃発した。約100日間の間に、少数民族のツチ族と一部の穏健なフツ族とトワ族が、武装したフツ族民兵によって殺害された。ツチ族の死者数は約50万人から80万人と推定された。ジェノサイドの規模と残虐性は世界中に衝撃を与えた。どの国も強制的に殺害を止める介入をしなかった。犠牲者のほとんどは自分の村や町で殺され、多くは隣人や村人仲間に殺された。フツ族のギャングは教会や学校の建物に隠れている犠牲者を探して虐殺した。フツ族民兵は、ナタやライフルで犠牲者を殺害した。性的暴力が横行し、ジェノサイドの間に約25万から50万人の女性が強姦されたと推定された。




2023年11月19日日曜日

2023年11月13日にパレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユーニスで、イスラエル軍の空爆を受けてパレスチナ人が殺害された。カーン・ユーニスの病院で、犠牲者となった子どもの死体の側で母親が慟哭した。

2023年11月13日にパレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユーニスで、イスラエル軍の空爆を受けてパレスチナ人が殺害された。カーン・ユーニス(Khan Younis)の病院で、犠牲者となった子どもの死体の側で、バラカとアブ・レダの親族である母親が慟哭した。 

 イスラエル軍のガザ侵攻から38日目で、イスラエル軍に完全包囲されたガザ地区で最大のアル・シファ(al-Ahli)病院では、食料や水、燃料が底をつき、医療関係者に助けを求めて患者が泣きわめいた。アル・シファ病院は11月13日に、病院内の燃料が底をつき、未熟児が差し迫って死の危険にさらされた。ここ数日ですでに5人の未熟児が死亡した。

 ガザ地区最大の医療施設であるアル・シファ病院は、イスラエル軍が周辺への砲撃を強化し、地上軍が11月10日に以来包囲を続けて、11月11日から閉鎖が宣言された。11月13日に、野良犬が病院の庭で市民の死体を食べた。11月10日から、イスラエル軍の狙撃兵や戦車が、病院施設から至近距離で発砲して、誰も病院に出入りできない。病院施設には水も電気もなく、食料も燃料も底をついた。麻酔器のコンセントは1つのみで、救命処置以外は何もできない。未熟児の保育器には大量の電気が必要である。未熟児は免疫が未熟で、感染症予防で、完全に隔離が必要である。停電のために、未熟児の乳児たちも通常のベッドに移された。死体を移動や埋葬したりする場所もない。死体が、感染症や伝染病その他の病気の原因となる。11月13日朝から8人のパレスチナ人の患者が死亡した。国境なき医師団(MSF)も11月10日に、閉鎖されたガザ地区は状況は、非常に悪く非人間的である。アル・シファ病院施設には約600人の入院患者と約37人の乳児がいて、医師団は見捨てる避難はしない。病院には、電気も水も、食料もなく、人工呼吸器が機能しなければ、患者は数時間で死亡する。

 イスラエル軍は、病院に患者を運ぶ救急車も攻撃した。病院の前には、負傷者だけでなく多くの死体があるが、病院内に運び込めない。アル・シファ病院から出た何人かが殺され、爆撃され、狙撃兵に殺害された。アル・シファ病院内には負傷した患者や医療チームに保証を与え、先に患者を避難させるならば、医療関係者も避難する。アル・アハリ(al-Quads)(病院が、包囲された地区でまだ医療サービスを提供した唯一の病院となった。過去38日間のイスラエル軍によるガザ砲撃で、パレスチナ人11,240人(うち子ども4,630人、女性3,130人)が死亡したとガザ当局が公表した。













Warning: A woman mourns a child and other family members by their bodies at a hospital, following Israeli strikes, in Khan Younis in the southern Gaza Strip, 13 November 2023 (Reuters)

2023年11月18日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。比治山国民学校は、爆心地から南東に約2.8kmにあり、火災を免れた。原子爆弾の被爆直後から負傷した広島市民が避難し、広島県が翌8月7日に布告した救護所13カ所の一つとなった。

 比治山国民学校は8月8日から、迷子の子供たち、特に小さな子どもたち、オムツの取れていない子供たち、大やけどを負った子供たち、重傷を負った子供たちの避難所となった。8月20日までに約60人の子ども、後には一度に約155人もの子どもが保護された。被害者の子どもらは4、5人の教師と地元の女性クラブの会員によって救護されていた。

 夜になると、『お母さん、便所に行きたい』と子どもが泣きながら目を覚ました。暗い救護所内では、また別の子どもが目を覚まして泣き出した。子どもは原爆症で下痢をして、長く便所を待てずに、途中で身体を汚した。子どもは、目覚めることなくベッドを汚した。翌朝に、血まみれの排泄物で汚れた毛布や蚊帳を急いで手洗い、天日で乾かして、晩にまた使用した。大量の放射線を吸収した小さな子どもたちは、脱毛で髪を失い、下痢が続いて日に日にやせ細って、ついには原爆病死した。校庭の片隅で次々と火葬され、野放しの軍用犬が死体をあさり、次の焼却を待機した。

 原子爆投下の2日後の8月8日から、比治山国民学校は孤児(当時は「迷子」と呼称)のための「比治山迷子収容所」となった。一時は約200人の子どもたちが収容されたが、多くの子どもがそこで原爆病死した。原子爆弾投下で未曾有の混乱に陥り、保護者の生死が不明となった子どもたちの救援が始まる。9月2日までの受け入れは計91人(うち女児36人)、その内訳は0~5歳が40人、6~12歳が47人、13歳以上が4人であった。そのうち18人が親に、14人が親族などと計32人が引き取られたが、9人が原子爆弾の放射線急性障害による原爆死に至った。




2023年11月17日金曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のゼーロウ高地の戦いにて、負傷して重態となったソ連軍兵士を、周囲を味方のソ連軍兵士が取り囲み、隣に座ったソ連軍兵士が見守った。

 第二次世界大戦末期の東部戦線のゼーロウ高地の戦い(Battle of Seelow Heights)にて、負傷して重態となったソ連軍兵士を、周囲をソ連赤軍兵士が取り囲み、仲間の隣に座ったソ連赤軍兵士が心配しながら見守った。

 ベルリンの東部にありベルリンの門と呼称されたゼーロウ高地めぐり、ベルリンの戦いにおける前哨戦となった。1945年4月16日から4月19日までの4日間に戦闘が勃発した。第1白ロシア方面軍の約100万人兵士がベルリンの入口から、ドイツ国防軍の第9軍兵士の100,000人が防御するゼーロウ高地に襲い掛かった。ゼーロウ高地の戦いは、しばしばオーデル・ナイセの戦いの一部であった。ソビエト赤軍がオーデル・ナイセ両川を渡河した数箇所の1つであり、ゼーロウ高地は熾烈な戦闘が勃発した。ドイツ軍の陣地は4月19日についにソ連軍に粉砕されて、ベルリンへの道が開かれた。

 4月16日午前3時に、ソ連軍は大砲とカチューシャロケット弾によるドイツ軍陣地への大規模な砲撃を開始した。砲撃の大部分は、高地正面のドイツ軍第一防衛線を攻撃した。ドイツ軍は砲撃を予測し、部隊の大部分を高地の第二陣地まで後退させた。ソ連軍は、谷間の湿地帯、運河、その他の障害物が侵攻を大きく妨げ、ソ連軍はすぐに高台のドイツ軍対戦車砲から大きな損害を受け始めた。4月17日の朝、大規模な砲撃が開始して、ゼーロウ高地に対するソ連軍の新たな侵攻を告げた。ゼーロウ高地でのドイツ軍の陣地は、ソ連軍の南への進撃によってさらに損害を受けた。4月18日に再び攻撃を開始したソ連軍は、大きな犠牲を払いながらもドイツ軍の戦線を突破し始めた。4月19日に突撃したソ連軍は、ドイツ軍の最後の防衛ラインを圧倒した。ドイツ軍は陣地が崩壊して、ベルリンに向かって西方に後退し始めた。ベルリンへの道が開かれて、ソ連軍は首都ベルリンへの急速な進撃を開始した。

 ゼーロウ高地の戦いで、ドイツ軍の死者は約12,000人、ソ連軍は3万人以上の戦死者を出した。ソビエトとベルリンを結ぶ最後の組織的なドイツ軍の防衛は事実上消滅した。ゼーロウ高地は最後のドイツ軍の防衛戦となり、ソ連赤軍の前に立ち塞がるドイツ軍はすでに存在せず、ベルリンまでは残り約90kmであった。西方に侵攻したソ連軍は、4月23日にドイツの首都ベルリンを包囲し、ベルリンの戦いの最終決戦を開始した。5月2日にベルリンは陥落し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は5日後の5月7日に無条件降伏して終結した。




2023年11月16日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線で1942年1月に、トロペッツ・ホルム攻防戦で戦死したソ連兵の死体が積み上げられた。ホルムの戦いはナチス・ドイツのプロパガンダとして、ドイツ軍兵士を英雄的戦いに定型化された。

第二次世界大戦の東部戦線で1942年1月に、トロペッツ・ホルム攻防戦で戦死したソ連兵の死体が積み上げられた。レニングラードでドイツ軍が敗北した後、侵攻してきたソ連軍によりホルムのドイツ軍は約3ヶ月間包囲下におかれた。ソ連赤軍はドイツ第16軍を包囲して、ドイツ空軍は4月21日に包囲が解かれるまでドイツ第16軍に補給を行った。

 トロペッツ・ホルム攻防戦は1942年1月18日に、ソ連のパルチザンがドイツ軍占領下の輸送拠点チョルムを攻撃して勃発した。数日後に、ソ連赤軍はホルム町とそのドイツ軍の守備隊を包囲した。1942年5月のドイツ軍の救援攻撃によって、ドイツ軍守備隊が再び連絡を取れるまでは、3カ月以上にわたりドイツ空軍の補給を受けた。トロペッツ・ホルム攻防戦で、ドイツ軍は東部戦線で初めてソ連軍部隊に長期間に包囲された。

 トロペッツ・ホルム攻防戦で、激しい砲撃が大きな損害を与え続けて、1942年5月1日には約100人のドイツ軍兵士と約600人のソ連軍兵士が死亡した。5月3日に、ソ連軍は再び数百人の兵士と13両の戦車を失った。5月18日にソ連軍が南東部から撤退した。6月8日に北東部をドイツ軍が占領した。攻防戦の終結後に、1942年1月18日から6月8日まで攻防して、ドイツ軍は約1,550人が戦死して、約2,200人が戦傷した。ソ連軍は、約25,000人が戦死傷した。その後、1944年2月21日にソ連赤軍の大攻勢にてホルムを占領したドイツ軍守備隊は降伏した。

 ホルムの戦いはナチス・ドイツのプロパガンダとして、ドイツ軍兵士を英雄的戦いに定型化された。終結後も数か月に宣伝目的に利用された。参加した兵士にはホルム盾章が与えられ、シェーラー将軍の騎士鉄十字章には柏葉が付された。国防軍の機関紙である「Die Wehrmacht」誌では、複数の戦闘参加者に対するインタビューを行い、多くの記事が掲載された。包囲から脱出までの間に、約2,500枚の写真を撮影した戦時報道隊員リヒャルト・ムックによる画報「Kampfgruppe Scherer - 105 Tage eingeschlossen」も含まれた。




2023年11月15日水曜日

トルコのエルズルムのグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。

トルコのエルズルム(Erzeroum)のグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。アルメニア人が、重荷を背負って深い塹壕に到着し、死体を仲間に手渡した。大きな共同墓地の四方には、不安そうな顔で墓の墓を見つめるアルメニア人の群衆がいた。約350人のアルメニア人の死体を埋葬するために大きな溝の共同墓地が掘られた。葬儀はまったく行われなかった。

 エルズルムのアルメニア人墓地にある集団墓地に埋葬されたアルメニア人の虐殺犠牲者の死体の列ができた。4人の男が死体を地面に安置して、シャベルを持った他の男たちが立ち止まった。共同墓地には弔問客が列をなし、背後には高い木々が見えた。北側の壁に沿って、幅約6m、長さ約45mの列をなして、虐殺されたアルメニア人の死体321体が横たわった。

 エルズルムの虐殺は、オスマントルコ軍兵士によって勃発して、地元のイスラム教徒も虐殺に加わった。トルコ軍兵士は、トルコのエルゼロウムと周囲で、アルメニア人の虐殺に積極的に執行した。アルメニア人の商店や家屋は略奪された。約6万人以上のアルメニア人が虐殺された。エゼロウムだけでなく、トレビゾンド、、エルジンギアン、ハッサンカレ、その他多数の場所で、キリスト教徒のアルメニア人は、ブドウの実のように押しつぶされた。

 ウィリアム・サハトルベンは虐殺の余波を目撃し、アルメニア人墓地で犠牲者の写真を撮影した。虐殺に3通の長く詳細な手紙を書き、11月16日と27日と12月9日に、ロンドン・タイムズ紙に無署名の特派員として掲載された。ハミディアンの虐殺は、アルメニア人の虐殺とも呼ばれ、1890年代半ばにオスマン帝国にて勃発したアルメニア人の虐殺である。犠牲者の推定は約10万人から30万人で、約5万人の孤児を出した。虐殺は主にアルメニア人を狙ったが、ディヤルベキルの虐殺など、無差別の反キリスト教のポグロムに展開して、約25,000人のアッシリア人も殺害された。




2023年11月14日火曜日

日本軍の捕虜となったアメリカ軍兵士の死体が、1945年5月に解放されたフィリピンのミンダナオ島のダバオ流刑地のダペコール捕虜収容所で発見された。彼は病院の外科手術室の洗面台から水を飲もうと立位で死んだ。

太平洋戦争にて日本軍の捕虜となったアメリカ軍兵士の死体が、1945年5月に解放されたフィリピンのミンダナオ島南東のダバオ流刑地のダペコール(Dapecol)捕虜収容所で発見された。彼は病院の外科手術室の深い洗面台から水を飲もうとして立位で死んだ。彼には終末期の悲劇的な最後の一杯の水となった。彼の死体は、ダバオの捕虜収容所が解放された時に発見された75人の犠牲者の一人だった。

 第二次世界大戦のフィリピンのミンダナオ島にあった日本軍のダバオ流刑地の捕虜収容所で、捕虜のアメリカ軍白人兵士の死体が発見された。その死体は、ミンダナオ島にあるダバオ流刑地でアメリカ軍が撮影した。この死体は、ダバド流刑地の捕虜収容所の建物内で発見された75体のうちの1体であった。アメリカ白人男性の死体は、病院の外科手術室の深い洗面台から飲物を取ろうとして、立位の姿勢のまま倒れて死んだと推定された。

 日本軍が捕虜収容所にしたフィリピンのダバオの疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬となった囚人の死体が発見された。太平洋戦争にて1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオの捕虜刑務収容所に拘束された。そのアメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人が死亡した。

 1944年4月下旬から6月中旬のダバオ市周辺の戦闘で、アメリカ軍は死者約350人、負傷者約1,615人を出した。日本軍は死者約4,500人、捕虜30人を出した。州内の他の場所でも激しい戦闘が繰り広げられ、両軍からさらに多くの兵士が恐ろしい損害を被った。日本軍は、ダバオから撤退した頃には、戦闘でほぼ壊滅状態になった。




2023年11月13日月曜日

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がグリーン島のジャングルに散乱した。グリーンランド諸島の最大の島である日産島は、通称グリーン島とも呼ばれ馬蹄形をした。残った日本軍は死闘を繰り広げ、降伏する者は一人もいなく全滅して玉砕した。

 グリーン諸島への攻略は1944年2月15日から2月20日まで、ニュージーランド軍とアメリカ軍の連合軍約5,800人がグリーン島へ上陸して勃発した。グリーン諸島は、ラバウルの真東約200km、ブカ島の北西に位置する小島である。日本軍は、2月初旬に潜水艦で上陸した今村均の 第8方面軍から12名の海軍監視員と約80名の陸軍要員で構成されていた。この小さな部隊はさらに増強され、約120人に達した。グリーン諸島に航空基地を設けて、ニューアイルランド島のカビエンを爆撃した。グリーン諸島には日本軍の海軍見張所があり、連合軍が上陸する気配を察したラバウルの南東方面艦隊は、日本軍陸戦隊の一個中隊を急ぎ派遣した。約3日間の戦闘でほとんど全滅した。日本軍は2月19日に最後の反撃を試みた。

 2月15日に海岸に上陸した連合軍の陣地が設置されると、シロート島周辺にいた日本軍が、短期間だけ抵抗した。翌日2月16日に、ニュージーランド軍部隊は島を横断して内陸に侵入し始めた。タナヘラン近くの島の南端にある教会周辺では、約70人の日本軍集団に遭遇した。日本軍集団は、戦車の支援を受けたニュージーランド軍により、数日間で制圧されて、日本軍兵士約62人が死亡した。2月19日にさらなる地上戦が行われ、2月20日に、ようやくグリーン島の安全が宣言されて、約120人から150人の完全に劣勢の日本軍から奪還した。2月23日に日本軍の組織的抵抗は停止したが、掃討作戦は2月末まで続いた。日本軍の全兵士の約120人が全滅して死亡した。連合軍の死傷者は13人、負傷者26人であった。




2023年11月12日日曜日

2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。パレスチナ市民が子どもちたの死体取り囲んだ。

パレスチナ人市民は、2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所に詰めかけた。死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。その死体の周囲には、パレスチナ市民たちが群がった。眠っているように見える子供の死体の顔から血痕が露出した。イスラエル軍によるガザ地区への砲撃で殺害された子供の死体をパレスチナ市民は周囲から見守った。  

 イスラエル軍の爆撃の余波の中で、パレスチナ住民たちは犠牲者を探すために、粉々になったコンクリートブロックの山を素手で掘り返して、犠牲者を発見した。パレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユニース市の平地で、瓦礫を掘った男性グループが、パレスチナ人の死体をまず手で発見し、次の死体をまた手で発見した。割れたセメントブロックと粉塵の中から11歳のシラ・ハムダンさんの死体を引き上げた。その下に彼女の妹、9歳のティラさんの死体が押し込めらた。ガザ保健当局によると、10月17日の夜にイスラエル軍の爆弾攻撃によりその地域の住宅約15軒が破壊されて、少なくとも37人が死亡した。

 男たちは子供たちを花柄のシーツで包み、回収トラックの荷台に運んだ。小さいトラックで、まだ一人の男性の腕に死体が抱かれた。死体は死体体安置所に運ばれて、葬儀用の白い布に包まれた他の十数名の犠牲者と並んで横たわり、パレスチナ人の家族らは涙を流した。

 子供の死は、戦争がガザ地区の圧倒的に若い人口に大きな犠牲を与えた。ガザ地区の約230万人の人口の約半数は子どもたちで、その多くはイスラエルによる約16年間のガザ地区の厳格な封鎖中に生まれた。現在はイスラエル軍の爆弾が近隣地域を破壊するのを目の当たりにした。

 パレスチナ保健当局は、10月7日にイスラエル国内で1,400人以上が死亡した。220人以上が人質としたハマスのテロ攻撃への報復としてイスラエル軍がガザ地区への砲撃を開始した。少なくとも2,704人の子供が殺害された。ガザ地区ではさらに約830人の子供たちが依然として瓦礫の中に閉じ込めたと推定された。ガザ地区で紛争が始まって以来、ガザで死亡した10,515人のうち、子どもは約4,263人が死亡したとパレスチナ保健省が11月6日に発表した。 











Warning: Palestinians stand around the bodies of children killed in the Israeli bombardment of the Gaza Strip in a morgue in Khan Younis, Thursday, Oct. 19, 2023. (AP Photo/Fatima Shbair)


2023年11月12日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年11月11日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病で、 広島市基町の母子療で死亡した。母親が原爆病で死亡して孤児となった子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病のために、 広島市基町の母子療で死亡した。母親は原爆病で死亡して孤児となって残された子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。広島原子爆弾が炸裂して母親が被爆した当時は男子は約二歳で、広島原子爆弾のことは何も知らず記憶になかった。原子爆弾の被害は戦後になってもまだ続いていた。

 母子寮は、18歳未満の子どもを養育している母子家庭等の女性が、子どもと一緒に安心して生活し、自立できるように生活・住宅・養育・就職など総合的な支援を行う児童福祉施設である。入所の要件は、配偶者のいない女性または、これに準ずる事情にある女性で、生活上の色々な問題を抱え、児童の養育などで支援が必要な母子である。児童福祉法にて、配偶者の無い女子またはこれに準ずる事情にある女子およびその者の監護すべき児童を入所させてこれらの者を保護するとともに、これらの者の自立の促進のためにその生活を支援し併せて退所した者について相談その他の援助を行うこを目的とする施設である。1998年児童福祉法第38条改正によって母子寮から母子生活支援施設へと名称が変更された。

 母子寮は、1929年の世界大恐慌後の社会不安の中、1932年に施行された救護法で法律に位置づけられた(救護法第十二条 幼者ト併セ其ノ母ノ救護ヲ為スコトヲ得)。1938年に厚生省が設置され、母子保護法により規定された。第二次世界大戦後、混乱する社会の中で、着の身着のままで荒廃の中をさまよう母子の保護が、社会的に大きな課題となった。1949年の国会で、「授産場、母子寮、保育所を増設すること」決議がなされ、1947年に212か所の母子寮は、母子生活支援施設は2023年に215か所、定員4,441世帯で現員は3,135世帯で減少傾向となった。終戦当時は戦争で住宅を失ったり、夫の戦災死による死別母子家庭が圧倒的に多かった。「屋根、寝る場所と住む場所」と、戦争で夫を失い、家を失い、家族を失った、切実な課題の母子に、母子寮が戦後の母子家庭対策と支援した。戦後の時代に入ると、「死別母子家庭」から、離婚などを理由とする「生別母子家庭」が増加して、住居課題から、複雑で多様な生活課題の利用が増加した。




2023年11月10日金曜日

アメリカ軍のメリル・マーダーズ隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。1944年2月末から8月初旬で、ビルマの戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

アメリカ軍のメリル・マーダーズ(Merrill's Marauders)隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。メリル・マレーダーズ隊員のほとんどは、ビルマで戦いの任務に志願した熟練した戦闘員であった。アメリカ軍の戦闘部隊のメリル・マーダース隊員は、先鋒大隊として日本軍と戦って、日本軍の戦線の奥深くで参戦した。ビルマで戦闘に参戦したのは1944年2月末から8月初旬で、ビルマの日本軍との戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

 1943年8月のケベック会議で、ビルマにて日本軍の補給線と通信網を破壊し混乱に陥れる一方で、街道の再開するために、日本軍の背後へのアメリカ軍の長距離の侵攻作戦を決定した。ルーズベルト大統領は、危険な任務への志願者を募る大統領令を出した。約3,000人のアメリカ軍兵士が志願に応じた。部隊の正式名称は第5307複合部隊であり、コードネームは後に司令官フランク・メリル准将からメリル・マーターズと命名された。

 メリル・マーターズ部隊の募集は1943年9月1日に始まり、1944年8月10日に解散した。アメリカ陸軍第5307混成部隊で、日本軍が支配するビルマで後方に長距離に侵攻するために組織され訓練された。メリル准将が指揮した約2997人のアメリカ軍兵士を、メリルの襲撃隊と呼称した。

 メリルの襲撃隊は、1944年2月24日に最初の作戦で2,750人が参戦して、3月7日にワラウバムを占領後に、約2,500人が残存した。3月12日から4月9日の第2次作戦で、67人が死亡し、379人が傷病のため避難した。約2,000人に減少した第5307部隊は、4月28日の第3作戦で、ミィトキーナ飛行場奪取作戦のために、中国兵とカチン原住民兵を増員した。その奪取時に部隊は約1,310人に半減した。5月17日から6月1日に部隊の大部分は病気で苦しんで、空路で後方の病院に避難した。ミイトキーナの町が占領後に、当初のガラハド部隊のうち約200人が残存した。

 1944年2月から5月のマーターズ作戦で、ビルマ北部を奪還して、インド鉄道基地と中国への旧ビルマ街道を結ぶレド(Ledo)街道を開拓するために、中国第22師団と第38師団と緊密に連携した。カチン原住民兵は、ビルマ北西部のフカウン渓谷からイラワジ川沿いのミトキナまで、ジャングルを抜けて山を越えて行進し、戦った民兵であった。5つの主要な戦闘と30の小規模な戦闘で、メリル・マターズ部隊は、日本軍第18師団兵士と衝突して侵攻した。日本軍主力部隊の後方で侵攻して、補給線と通信手段を混乱させ、中国軍の南進に道を開いた。マ−ターズの作戦の絶頂は、ビルマ北部で唯一の全天候型飛行場であるミトキナ飛行場の占領であった。1944年8月に解散した第5307混成部隊の最後の勝利となった。作戦終了時に、マ−ターズ部隊の全員は、熱帯病、疲労、栄養失調、あらゆる蓄積に苦しみながら病院に疎開した。






2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年11月8日水曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、 レニングラード包囲戦が解放された直後の1944年2月に戦死した多数のドイツ軍兵士の死体が、レニングラード近郊に放置されて雪に覆われた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、 レニングラード包囲戦が解放された直後の1944年2月に戦死した多数のドイツ軍兵士の死体が、レニングラード近郊に放置されて雪に覆われた。

 レニングラード包囲戦の封鎖期間中に、コムソモリスカヤ・プラウダの戦場記者であったボリス・クドヤロフ(Boris Kudoyarov)は、約900日間もずっとドイツ軍に包囲された都市であるレニングラードで、ソ連軍兵士たちとともに第一線で働いた。ボリス・クドヤロフは、文書や写真作品に基づき、レニングラード包囲戦を描写した「レニングラード・サイクル」は軍事写真ルポルタージュの古典を作成した。

 クドヤロフの写真には、レニングラードの封鎖に特化した約3000枚の写真がある。約900日間に及ぶ凄惨な戦争をテーマ別に紹介した。戦争の出来事を可能な限り撮影することが責務と考えた。彼の作品の特徴は、複雑な写真的解決策と検証された構図の完全性であり、描かれた戦争の出来事の本質を反映した。写真記者の直接的で自然な反応であった。ボリス・クドヤロフは、レニングラード住民の比類なき勇気と、死が当たり前の時代の、ドイツ軍の包囲下の恐ろしい生活の細部を創作した。

 レニングラード包囲戦は、第二次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍と枢軸国軍がソ連の都市レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に対して行った1944年9月8日から1944年1月27日の872日間の長期にわたる軍事封鎖であった。ドイツ軍は、約579,985人の死傷者が犠牲となった。ソ連軍兵士は約1,017,881人の死者、捕虜、行方不明者となり、約2,418,185人が戦傷者と病人となった。ソ連民間人は、約104万2000人が死亡して、包囲中は約642,000人と避難時に約400,000人が死亡した。

 厳重に要塞化されたドイツ軍の抵抗拠点は両側を包囲され、1944年1月17日朝に襲撃されて、ドイツ軍の防御は崩壊した。1月27日にドイツ軍を圧倒し追い返し、ようやく封鎖が解放された。1月27日、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは公式に包囲戦の終結を宣言した。レニングラード包囲戦は、歴史上最も長く、最も破壊的な包囲戦の一つとなり、多くの死傷者を出して、最も犠牲の多い包囲戦となった。




2023年11月7日火曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍の殺戮に全滅して戦死して、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍による殺戮に巻き込まれて全滅して戦死した。オテロ半島には、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士のグアム島の防衛への貢献は、アメリカ軍の2つの上陸部隊の連結とアプラ港の開港を数日間遅らせて終結した。アメリカ軍の海兵隊への犠牲は、死者と行方不明者で約153人であった。グアム島の戦いはアメリカ軍が7月21日に上陸して勃発して、8月10日に終結した。日本軍は約18,500が戦死して、捕虜は約1,250人に及んだ。アメリカ軍は、約2,124人が戦死して、負傷は約5,676人の犠牲を伴った。

  アメリカ軍は7月21日に、アプラ港の確保するために、グアム西側のオロテ半島の両側に上陸した。激しい戦闘の後、アメリカ軍は1944年7月29日にオテロ半島の制圧を宣言した。推定約3,000人の日本軍兵士がオロテ半島を防御して戦死した。日本軍兵士全員は激しい肉弾攻撃を行って文字通り全滅した。アメリカ軍は、上陸した海岸の砂浜で多くの死傷者を出した。アメリカ軍は縦深陣地攻略に手間取り、日本軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。日本軍は縦深陣地より出撃し、アメリカ軍の海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。

 7月21日に、アメリカ軍はグアム島に上陸を開始した。グアム攻防戦にてもアメリカ軍の戦力は日本軍を圧倒的に上回った。戦闘開始後の一昼夜の戦いで、日本軍は兵士の半分以上を失った。7月25日には日本軍は、聯隊旗を焼却して、7月25日夜にアメリカ軍陣地に夜襲のバンザイ攻撃を仕掛けた。日本軍兵士は死傷者多く出て、ついに戦闘能力を失った。7月30日夜に、最後のバンザイ突撃をして、玉砕して全滅した。

 アメリカ軍のオロテ半島の制圧にて、日本軍約3,500人の約95%を損失した。アメリカ軍海兵隊の死傷者数は不明だが、死者数は200~300人、負傷者数百人と推定された。日本軍は、北部に押されながら防衛戦を戦った。オロテ半島から日本軍の撤退の試みは失敗に終わった。生き残った者はオロテ半島に閉じ込められて、絶体絶命となった。




2023年11月6日月曜日

バルト海東岸に位置するリトアニアのヴィルナ近郊にあるポナリーにて、1941年7月から1944年8月までドイツ軍親衛隊のアインザッツグルッペンと地元のリトアニア民兵、警察、ドイツ民族自衛軍によって、約10万人のユダヤ人らが殺害された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルト海東岸に位置するリトアニアのヴィルナ近郊にあるポナリー(Ponary)にて、ドイツ軍親衛隊のアインザッツグルッペンと地元のリトアニア民兵、警察、ドイツ民族自衛軍によって、約10万人のユダヤ人らが殺害された。集団埋葬された死体は、ヴィルナ解放後の1944年に発掘された。

 ポナリー虐殺(パネリアイ)は、第二次世界大戦中に、オストランド帝国総司令部のリタウエン総司令区にて、ドイツ軍の情報部隊、親衛隊とリトアニア人協力者によって、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を中心に最大約10万人が大量虐殺された。大量虐殺は1941年7月から1944年8月まで、現在のリトアニアのヴィルナ郊外のポナリ(現在パネリアイ)の鉄道駅付近で執行された。約70,000人のユダヤ人がポナリーで虐殺され、最大約20,000人のポーランド人、約8,000人のソ連軍捕虜が虐殺された。

 1941年6月24日に、ドイツ軍はリトアニアのヴィルナを占領した。翌7月から、ドイツ軍のアインザッツグルッペンとリトアニア人補助部隊が、ヴィルナの南西にあるポナリー(パネリアイ)の森の殺害現場で、ヴィルナのユダヤ人住民の数千人を殺害した。1941年末までに、アインザッツグルッペンは、ポナリーで約4万人のユダヤ人を殺害した。1944年7月までに、約75,000人もの人々がポナリ−で虐殺されて、その大半がユダヤ人であった。

  ホロコーストの大量虐殺は1941年7月から始まり、アインザッツグルッペンが1941年7月2日にヴィルナに到着した直後から執行した。特にイパティンガシス・ブリ(リトアニア人志願兵)の80人の特別小隊が大量虐殺をした。9月には、ヴィルナ・ゲットが設置され、大量殺戮は1941年夏から秋にかけて行われた。