2023年11月13日月曜日

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がグリーン島のジャングルに散乱した。グリーンランド諸島の最大の島である日産島は、通称グリーン島とも呼ばれ馬蹄形をした。残った日本軍は死闘を繰り広げ、降伏する者は一人もいなく全滅して玉砕した。

 グリーン諸島への攻略は1944年2月15日から2月20日まで、ニュージーランド軍とアメリカ軍の連合軍約5,800人がグリーン島へ上陸して勃発した。グリーン諸島は、ラバウルの真東約200km、ブカ島の北西に位置する小島である。日本軍は、2月初旬に潜水艦で上陸した今村均の 第8方面軍から12名の海軍監視員と約80名の陸軍要員で構成されていた。この小さな部隊はさらに増強され、約120人に達した。グリーン諸島に航空基地を設けて、ニューアイルランド島のカビエンを爆撃した。グリーン諸島には日本軍の海軍見張所があり、連合軍が上陸する気配を察したラバウルの南東方面艦隊は、日本軍陸戦隊の一個中隊を急ぎ派遣した。約3日間の戦闘でほとんど全滅した。日本軍は2月19日に最後の反撃を試みた。

 2月15日に海岸に上陸した連合軍の陣地が設置されると、シロート島周辺にいた日本軍が、短期間だけ抵抗した。翌日2月16日に、ニュージーランド軍部隊は島を横断して内陸に侵入し始めた。タナヘラン近くの島の南端にある教会周辺では、約70人の日本軍集団に遭遇した。日本軍集団は、戦車の支援を受けたニュージーランド軍により、数日間で制圧されて、日本軍兵士約62人が死亡した。2月19日にさらなる地上戦が行われ、2月20日に、ようやくグリーン島の安全が宣言されて、約120人から150人の完全に劣勢の日本軍から奪還した。2月23日に日本軍の組織的抵抗は停止したが、掃討作戦は2月末まで続いた。日本軍の全兵士の約120人が全滅して死亡した。連合軍の死傷者は13人、負傷者26人であった。




2023年11月12日日曜日

2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。パレスチナ市民が子どもちたの死体取り囲んだ。

パレスチナ人市民は、2023年10月19日にガザ地区南部のカーン・ユーニスの死体安置所に詰めかけた。死体安置所では、ビニールに包まれ、シーツに覆われた7人の小さなパレスチナ人の子どもたちの死体が安置された。その死体の周囲には、パレスチナ市民たちが群がった。眠っているように見える子供の死体の顔から血痕が露出した。イスラエル軍によるガザ地区への砲撃で殺害された子供の死体をパレスチナ市民は周囲から見守った。  

 イスラエル軍の爆撃の余波の中で、パレスチナ住民たちは犠牲者を探すために、粉々になったコンクリートブロックの山を素手で掘り返して、犠牲者を発見した。パレスチナ自治区のガザ地区南部のカーン・ユニース市の平地で、瓦礫を掘った男性グループが、パレスチナ人の死体をまず手で発見し、次の死体をまた手で発見した。割れたセメントブロックと粉塵の中から11歳のシラ・ハムダンさんの死体を引き上げた。その下に彼女の妹、9歳のティラさんの死体が押し込めらた。ガザ保健当局によると、10月17日の夜にイスラエル軍の爆弾攻撃によりその地域の住宅約15軒が破壊されて、少なくとも37人が死亡した。

 男たちは子供たちを花柄のシーツで包み、回収トラックの荷台に運んだ。小さいトラックで、まだ一人の男性の腕に死体が抱かれた。死体は死体体安置所に運ばれて、葬儀用の白い布に包まれた他の十数名の犠牲者と並んで横たわり、パレスチナ人の家族らは涙を流した。

 子供の死は、戦争がガザ地区の圧倒的に若い人口に大きな犠牲を与えた。ガザ地区の約230万人の人口の約半数は子どもたちで、その多くはイスラエルによる約16年間のガザ地区の厳格な封鎖中に生まれた。現在はイスラエル軍の爆弾が近隣地域を破壊するのを目の当たりにした。

 パレスチナ保健当局は、10月7日にイスラエル国内で1,400人以上が死亡した。220人以上が人質としたハマスのテロ攻撃への報復としてイスラエル軍がガザ地区への砲撃を開始した。少なくとも2,704人の子供が殺害された。ガザ地区ではさらに約830人の子供たちが依然として瓦礫の中に閉じ込めたと推定された。ガザ地区で紛争が始まって以来、ガザで死亡した10,515人のうち、子どもは約4,263人が死亡したとパレスチナ保健省が11月6日に発表した。 











Warning: Palestinians stand around the bodies of children killed in the Israeli bombardment of the Gaza Strip in a morgue in Khan Younis, Thursday, Oct. 19, 2023. (AP Photo/Fatima Shbair)


2023年11月12日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年11月11日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病で、 広島市基町の母子療で死亡した。母親が原爆病で死亡して孤児となった子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病のために、 広島市基町の母子療で死亡した。母親は原爆病で死亡して孤児となって残された子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。広島原子爆弾が炸裂して母親が被爆した当時は男子は約二歳で、広島原子爆弾のことは何も知らず記憶になかった。原子爆弾の被害は戦後になってもまだ続いていた。

 母子寮は、18歳未満の子どもを養育している母子家庭等の女性が、子どもと一緒に安心して生活し、自立できるように生活・住宅・養育・就職など総合的な支援を行う児童福祉施設である。入所の要件は、配偶者のいない女性または、これに準ずる事情にある女性で、生活上の色々な問題を抱え、児童の養育などで支援が必要な母子である。児童福祉法にて、配偶者の無い女子またはこれに準ずる事情にある女子およびその者の監護すべき児童を入所させてこれらの者を保護するとともに、これらの者の自立の促進のためにその生活を支援し併せて退所した者について相談その他の援助を行うこを目的とする施設である。1998年児童福祉法第38条改正によって母子寮から母子生活支援施設へと名称が変更された。

 母子寮は、1929年の世界大恐慌後の社会不安の中、1932年に施行された救護法で法律に位置づけられた(救護法第十二条 幼者ト併セ其ノ母ノ救護ヲ為スコトヲ得)。1938年に厚生省が設置され、母子保護法により規定された。第二次世界大戦後、混乱する社会の中で、着の身着のままで荒廃の中をさまよう母子の保護が、社会的に大きな課題となった。1949年の国会で、「授産場、母子寮、保育所を増設すること」決議がなされ、1947年に212か所の母子寮は、母子生活支援施設は2023年に215か所、定員4,441世帯で現員は3,135世帯で減少傾向となった。終戦当時は戦争で住宅を失ったり、夫の戦災死による死別母子家庭が圧倒的に多かった。「屋根、寝る場所と住む場所」と、戦争で夫を失い、家を失い、家族を失った、切実な課題の母子に、母子寮が戦後の母子家庭対策と支援した。戦後の時代に入ると、「死別母子家庭」から、離婚などを理由とする「生別母子家庭」が増加して、住居課題から、複雑で多様な生活課題の利用が増加した。




2023年11月10日金曜日

アメリカ軍のメリル・マーダーズ隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。1944年2月末から8月初旬で、ビルマの戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

アメリカ軍のメリル・マーダーズ(Merrill's Marauders)隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。メリル・マレーダーズ隊員のほとんどは、ビルマで戦いの任務に志願した熟練した戦闘員であった。アメリカ軍の戦闘部隊のメリル・マーダース隊員は、先鋒大隊として日本軍と戦って、日本軍の戦線の奥深くで参戦した。ビルマで戦闘に参戦したのは1944年2月末から8月初旬で、ビルマの日本軍との戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

 1943年8月のケベック会議で、ビルマにて日本軍の補給線と通信網を破壊し混乱に陥れる一方で、街道の再開するために、日本軍の背後へのアメリカ軍の長距離の侵攻作戦を決定した。ルーズベルト大統領は、危険な任務への志願者を募る大統領令を出した。約3,000人のアメリカ軍兵士が志願に応じた。部隊の正式名称は第5307複合部隊であり、コードネームは後に司令官フランク・メリル准将からメリル・マーターズと命名された。

 メリル・マーターズ部隊の募集は1943年9月1日に始まり、1944年8月10日に解散した。アメリカ陸軍第5307混成部隊で、日本軍が支配するビルマで後方に長距離に侵攻するために組織され訓練された。メリル准将が指揮した約2997人のアメリカ軍兵士を、メリルの襲撃隊と呼称した。

 メリルの襲撃隊は、1944年2月24日に最初の作戦で2,750人が参戦して、3月7日にワラウバムを占領後に、約2,500人が残存した。3月12日から4月9日の第2次作戦で、67人が死亡し、379人が傷病のため避難した。約2,000人に減少した第5307部隊は、4月28日の第3作戦で、ミィトキーナ飛行場奪取作戦のために、中国兵とカチン原住民兵を増員した。その奪取時に部隊は約1,310人に半減した。5月17日から6月1日に部隊の大部分は病気で苦しんで、空路で後方の病院に避難した。ミイトキーナの町が占領後に、当初のガラハド部隊のうち約200人が残存した。

 1944年2月から5月のマーターズ作戦で、ビルマ北部を奪還して、インド鉄道基地と中国への旧ビルマ街道を結ぶレド(Ledo)街道を開拓するために、中国第22師団と第38師団と緊密に連携した。カチン原住民兵は、ビルマ北西部のフカウン渓谷からイラワジ川沿いのミトキナまで、ジャングルを抜けて山を越えて行進し、戦った民兵であった。5つの主要な戦闘と30の小規模な戦闘で、メリル・マターズ部隊は、日本軍第18師団兵士と衝突して侵攻した。日本軍主力部隊の後方で侵攻して、補給線と通信手段を混乱させ、中国軍の南進に道を開いた。マ−ターズの作戦の絶頂は、ビルマ北部で唯一の全天候型飛行場であるミトキナ飛行場の占領であった。1944年8月に解散した第5307混成部隊の最後の勝利となった。作戦終了時に、マ−ターズ部隊の全員は、熱帯病、疲労、栄養失調、あらゆる蓄積に苦しみながら病院に疎開した。






2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年11月8日水曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、 レニングラード包囲戦が解放された直後の1944年2月に戦死した多数のドイツ軍兵士の死体が、レニングラード近郊に放置されて雪に覆われた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、 レニングラード包囲戦が解放された直後の1944年2月に戦死した多数のドイツ軍兵士の死体が、レニングラード近郊に放置されて雪に覆われた。

 レニングラード包囲戦の封鎖期間中に、コムソモリスカヤ・プラウダの戦場記者であったボリス・クドヤロフ(Boris Kudoyarov)は、約900日間もずっとドイツ軍に包囲された都市であるレニングラードで、ソ連軍兵士たちとともに第一線で働いた。ボリス・クドヤロフは、文書や写真作品に基づき、レニングラード包囲戦を描写した「レニングラード・サイクル」は軍事写真ルポルタージュの古典を作成した。

 クドヤロフの写真には、レニングラードの封鎖に特化した約3000枚の写真がある。約900日間に及ぶ凄惨な戦争をテーマ別に紹介した。戦争の出来事を可能な限り撮影することが責務と考えた。彼の作品の特徴は、複雑な写真的解決策と検証された構図の完全性であり、描かれた戦争の出来事の本質を反映した。写真記者の直接的で自然な反応であった。ボリス・クドヤロフは、レニングラード住民の比類なき勇気と、死が当たり前の時代の、ドイツ軍の包囲下の恐ろしい生活の細部を創作した。

 レニングラード包囲戦は、第二次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍と枢軸国軍がソ連の都市レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に対して行った1944年9月8日から1944年1月27日の872日間の長期にわたる軍事封鎖であった。ドイツ軍は、約579,985人の死傷者が犠牲となった。ソ連軍兵士は約1,017,881人の死者、捕虜、行方不明者となり、約2,418,185人が戦傷者と病人となった。ソ連民間人は、約104万2000人が死亡して、包囲中は約642,000人と避難時に約400,000人が死亡した。

 厳重に要塞化されたドイツ軍の抵抗拠点は両側を包囲され、1944年1月17日朝に襲撃されて、ドイツ軍の防御は崩壊した。1月27日にドイツ軍を圧倒し追い返し、ようやく封鎖が解放された。1月27日、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは公式に包囲戦の終結を宣言した。レニングラード包囲戦は、歴史上最も長く、最も破壊的な包囲戦の一つとなり、多くの死傷者を出して、最も犠牲の多い包囲戦となった。




2023年11月7日火曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍の殺戮に全滅して戦死して、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍による殺戮に巻き込まれて全滅して戦死した。オテロ半島には、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士のグアム島の防衛への貢献は、アメリカ軍の2つの上陸部隊の連結とアプラ港の開港を数日間遅らせて終結した。アメリカ軍の海兵隊への犠牲は、死者と行方不明者で約153人であった。グアム島の戦いはアメリカ軍が7月21日に上陸して勃発して、8月10日に終結した。日本軍は約18,500が戦死して、捕虜は約1,250人に及んだ。アメリカ軍は、約2,124人が戦死して、負傷は約5,676人の犠牲を伴った。

  アメリカ軍は7月21日に、アプラ港の確保するために、グアム西側のオロテ半島の両側に上陸した。激しい戦闘の後、アメリカ軍は1944年7月29日にオテロ半島の制圧を宣言した。推定約3,000人の日本軍兵士がオロテ半島を防御して戦死した。日本軍兵士全員は激しい肉弾攻撃を行って文字通り全滅した。アメリカ軍は、上陸した海岸の砂浜で多くの死傷者を出した。アメリカ軍は縦深陣地攻略に手間取り、日本軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。日本軍は縦深陣地より出撃し、アメリカ軍の海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。

 7月21日に、アメリカ軍はグアム島に上陸を開始した。グアム攻防戦にてもアメリカ軍の戦力は日本軍を圧倒的に上回った。戦闘開始後の一昼夜の戦いで、日本軍は兵士の半分以上を失った。7月25日には日本軍は、聯隊旗を焼却して、7月25日夜にアメリカ軍陣地に夜襲のバンザイ攻撃を仕掛けた。日本軍兵士は死傷者多く出て、ついに戦闘能力を失った。7月30日夜に、最後のバンザイ突撃をして、玉砕して全滅した。

 アメリカ軍のオロテ半島の制圧にて、日本軍約3,500人の約95%を損失した。アメリカ軍海兵隊の死傷者数は不明だが、死者数は200~300人、負傷者数百人と推定された。日本軍は、北部に押されながら防衛戦を戦った。オロテ半島から日本軍の撤退の試みは失敗に終わった。生き残った者はオロテ半島に閉じ込められて、絶体絶命となった。




2023年11月6日月曜日

バルト海東岸に位置するリトアニアのヴィルナ近郊にあるポナリーにて、1941年7月から1944年8月までドイツ軍親衛隊のアインザッツグルッペンと地元のリトアニア民兵、警察、ドイツ民族自衛軍によって、約10万人のユダヤ人らが殺害された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルト海東岸に位置するリトアニアのヴィルナ近郊にあるポナリー(Ponary)にて、ドイツ軍親衛隊のアインザッツグルッペンと地元のリトアニア民兵、警察、ドイツ民族自衛軍によって、約10万人のユダヤ人らが殺害された。集団埋葬された死体は、ヴィルナ解放後の1944年に発掘された。

 ポナリー虐殺(パネリアイ)は、第二次世界大戦中に、オストランド帝国総司令部のリタウエン総司令区にて、ドイツ軍の情報部隊、親衛隊とリトアニア人協力者によって、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を中心に最大約10万人が大量虐殺された。大量虐殺は1941年7月から1944年8月まで、現在のリトアニアのヴィルナ郊外のポナリ(現在パネリアイ)の鉄道駅付近で執行された。約70,000人のユダヤ人がポナリーで虐殺され、最大約20,000人のポーランド人、約8,000人のソ連軍捕虜が虐殺された。

 1941年6月24日に、ドイツ軍はリトアニアのヴィルナを占領した。翌7月から、ドイツ軍のアインザッツグルッペンとリトアニア人補助部隊が、ヴィルナの南西にあるポナリー(パネリアイ)の森の殺害現場で、ヴィルナのユダヤ人住民の数千人を殺害した。1941年末までに、アインザッツグルッペンは、ポナリーで約4万人のユダヤ人を殺害した。1944年7月までに、約75,000人もの人々がポナリ−で虐殺されて、その大半がユダヤ人であった。

  ホロコーストの大量虐殺は1941年7月から始まり、アインザッツグルッペンが1941年7月2日にヴィルナに到着した直後から執行した。特にイパティンガシス・ブリ(リトアニア人志願兵)の80人の特別小隊が大量虐殺をした。9月には、ヴィルナ・ゲットが設置され、大量殺戮は1941年夏から秋にかけて行われた。




2023年11月5日日曜日

イスラエル軍が2023年10月31日に、パレスチナ自治区のガザ北部のジャバリア難民キャンプを空爆した。パレスチナ住民が難民キャンプの瓦礫の中から11月1日に、パレスチナ難民の死体を回収した。

イスラエル軍が2023年10月31日に、パレスチナ自治区のガザ北部のジャバリア(Jabalia)難民キャンプを空爆した。ガザ北部のパレスチナ住民が難民キャンプの瓦礫の中から11月1日に、パレスチナ難民の死体を回収した。イスラエル国防軍とパレスチナ保健当局によると、10月7日にハマス過激派がガザ地区からイスラエルへの攻撃を開始して、それに引き続くガザとヨルダン川西岸地区でのイスラエル軍の作戦以来に、約8,500人以上のパレスチナ人と少なくとも1,400人以上のイスラエル人が死亡した。面積1.4平方kmのジャバリアは、ガザ地区の8つの難民キャンプの中で最大で、約11万6000人の難民登録者が住んいた。ジャバリアは1948年、イスラエル建国に伴う戦闘の中、パレスチナ人難民を保護するために設置された。

 イスラエル軍は、ハマス武装組織の地下司令部の破壊を主張して、多数の民間パレスチナ人の犠牲者を出したガザ北部のジャバリア・難民キャンプへの攻撃を正当化した。10月27日からイスラエル軍によるハマス武装組織に対する地上作戦が勃発した。ガザ地区北部にあるジャバリア難民キャンプの真ん中で、渦巻きのように、周囲の建物や生物すべてが崩壊した。11月1日に、パレスチナ住民は、イスラエル軍がガザ北部地区のジャバリア難民キャンプを空爆した後に、埃と瓦礫の混乱の中で、死体を探した。2回目の空爆は11月1日に、ジャバリア難民キャンプのファルージャ地区で攻撃された。11月2日朝、ガザ保健省は、2度連続した空爆されたジャパラ難民キャンプで、合計約195人が死亡して、約777人が負傷して、約120人が行方不明となったと発表した。11月2日に3回目の空爆がジャバリア難民キャンプを未攻撃した。

 イスラエル軍に地下トンネルがあるとされた被爆地域の多くの家屋は、攻撃の後に衝撃で地面にクレーターができ、周囲の家屋が崩壊した。イスラエル軍は、ハマス民兵司令官を標的にして、ガザ北部地区の地下トンネルに潜伏した約50人の民兵を殺害したと報告した。ハマス武装組織は、10月31日のイスラエル軍のジャバリア難民キャンプを砲撃して、拘束した7人の人質が死亡したとハマスは報告した。海岸沿いの飛び地にある少なくとも5つの難民キャンプが攻撃された。











Warning: Palestinians recover bodies from the rubble in Jabalia refugee camp following an Israeli airstrike, Nov. 1, 2023. (EFE/EPA/MOHAMMED SABRE).


2023年11月4日土曜日

広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、原爆病で死亡した被爆者を病理解剖をする臨時剖検室が広島逓信病院に設置された。広島逓信病院の臨時剖検室は、血便などの使用上から赤痢を疑われた被爆者を隔離するために急増して設置された病棟の一部であった。赤痢の疑いから解放された後に、臨時剖検室となった。

 広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。広島医専の玉川教授は、被爆者の病理解剖を、8月29日から10月13日までの剖検記録を残した。その助手として、内科の宮庄州男医師が病理解剖の記録した。

 8月6日に原子爆弾が炸裂して、広島が壊滅した直後から、病理解剖された原爆犠牲者の剖検記録が残存した。広島医専の玉川教授が、8月29日から10月13日にかけて病理解剖した19事例の全てが揃って残存した。病理解剖は、広島逓信病院(広島市中区)付近の板小屋で行われた。原子爆弾の放射線の早期の影響を調べた貴重な病理記録となった。玉川教授を初代教授とした現広島大大学院分子病理学研究室が保管している。

 玉川(1897年~1970年)は、1945年春に、広島医専の認可に伴って、岡山医科大助教授から広島医専の教授に転任した。8月6日は広島医専の疎開先であった現安芸高田市にいた。8月8日に広島市内へ入った。広島県庁に、病理解剖の許可を求めたが断られた。

 「脱毛、皮下溢血、未知の病変の続発する報に接したので、今は一刻の猶予もならぬ」と8月27日に再び広島市内に向かった。岡山医科大学の後輩で広島逓信病院の蜂谷道彦院長に協力を要請した。蜂谷道彦院長は「原子症」への注意を院内に張り出して、病理解剖の必要性を感じた。玉川教授は、宇品陸軍船舶司令部の暁部隊が、広島逓信病院の裏庭に建てた木造バラックで病理解剖した。玉川教授は、板壁を外して解剖台などを作った。10月13日までに19症 例を解剖した。復員した病院医師や来援の岡山医科大生らが助手を務め、口述を書き留めた。

 「広島市に於ける原子爆弾症の剖検記録19例」の論文は、GHQ占領が明けた1953年に刊行された日本学術会議の「原爆災害調査報告集」で公表された。広島大医学部の玉川教授は、原爆ケロイド患者の表皮からがんの転化を発見した。GHQに接収された病理・組織標本などは1973年にアメリカ陸軍病理学研究所から日本へ返還されて、旧広島大学原医研などが保管した。




2023年11月3日金曜日

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。1945年2月13日付けの日本軍大隊に、フィリピン人を殺害する時は、弾薬と労力を無駄にしないように、1カ所に集めよと命令した。さらにフィリピン人の死体は、建物の中に集めて焼却する、あるいは河中に投ぜよと命令した。マニラの戦いの初日の2月3日にダイパック貯木場で約115人のフィリピン人の虐殺から、ゲリラの容疑者の虐殺が勃発した。2月9日から、ゲリラ容疑者の個人攻撃から組織的な大量虐殺に移行した。

 マニラの大虐殺は、マニラのレイプとも呼ばれ、第二次世界大戦末期に発生したマニラの戦い(1945年2月3日~1945年3月3日)にて、日本軍がフィリピンの首都マニラ市で、フィリピン 市民に対して行った残虐行為である。日本軍だけでなく、アメリカ軍の砲撃や銃撃によって殺害された民間人の総数は、少なくとも10万人と推定された。アメリカ軍の軍事作戦は、戦闘中のフィリピン人非戦闘員の死者総数の約40%を引き起こした可能性がある。

 1ヶ月に及ぶマニラの戦いは、約10万人以上の市民の死と街の完全な荒廃をもたらした。太平洋戦争でアメリカ軍が戦った最悪の市街戦の戦場となった。日本軍は戦闘中に、フィリピン市民に対して大量殺人を行い、アメリカ軍の武力は多くの人々を巻き込み殺害した。マニラの戦いにて、アメリカ軍兵士は約1,010人が戦死して、約5,565人が戦傷した。日本軍兵士は、約16,665人が戦死して全滅した。

 日本軍兵士は絶え間ないアメリカ軍の砲撃にさらされ、確実な戦死や捕虜に直面した。苦境に立たされた日本軍は、銃撃戦に巻き込まれたフィリピン市民に怒りと苛立ちをぶつけた。マニラ大虐殺となる激しい残虐行為を何度も行った。日本軍は陣地を守るため、フィリピン人の女性や子供を人間の盾として前線に押し出した。生き残ったフィリピン人は、日本軍によって殺害された。日本軍兵士は、壕や溝に手榴弾を打ち込み、ライフル銃の射撃や銃剣の刺突で生存者のフィリピン人を虐殺した。日本軍のマニラ大虐殺は、1937-38年の南京大虐殺に匹敵した。




2023年11月2日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、セルビアのパンチェヴォ市の墓地にて、ドイツ軍に絞首刑で処刑された市民の死体が1941年4月23日に吊るされた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、セルビアのパンチェヴォ市の墓地にて、ドイツ軍に絞首刑で処刑された市民の死体が1941年4月23日に吊るされた。セルビアのパンチェヴォにて、その2日前の夜に2人のドイツ軍親衛隊が撃たれて殺害された。その報復として、18人の市民がドイツ国防軍によって射殺された。さらに男性17人と女性1人の市民が絞首刑に処された。

 絞首刑の死体で真ん中に吊るされている女性はレストランを経営していた。その地下に、ドイツ軍が墓地に通じるトンネルを発見して、狙撃兵の逃走経路と疑われた。女性はレストランのオーナーであり、そこから墓地へと続く秘密の約200mの通路があった。絞首刑の2日前の夜に、墓地からドイツ軍親衛隊の2人が射殺された。絞首刑になった容疑者はすべて墓地の周辺で捕まった。ドイツ軍のプロパガンダ部隊に所属したカメラマンが大虐殺を撮影した。

 1941年4月6日から4月18日に、ドイツ軍によるユーゴスラビア侵攻の際に、パンチェヴォは占領された。1941年4月12日に、ドイツ国防軍兵士らが、国家降伏前にユーゴスラビア王国軍の3人に襲われた。準軍事組織であるマンシャフト(Mannschaft)の9人のヴォルクス・ドイッチェ(volksdeutsche)隊員、親衛隊SSの師団ダス・ライヒ(Das Reich)隊員が襲撃された。襲撃の報復として、36人のセルビア人を絞首刑と銃殺で殺害した。ユーゴスラビア侵攻は、第二次世界大戦中の1941年4月6日に始まり4月18日に占領して終結した枢軸国軍によるドイツ軍主導のユーゴスラビア王国への攻撃であった。




2023年11月1日水曜日

1967年10月10日にバジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体と2人のゲリラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストがゲバラの死体を囲んだ。

1967年10月9日、エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)ら22人のゲリラ部隊は、アメリカのグリーンベレーとCIAの諜報員に訓練、装備、指導されたボリビア軍兵士によって捕獲されて39歳で死刑に処された。1967年10月10日に、バジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストが、ゲバラの死体を囲んだ。洗濯台下には、2人のゲリラの死体が地面に倒れた。2人とも胸部を露出して、体の傷口には緋色の血がついて、ショールを巻き、あごひげを生やした。

 1967年10月7日、ある情報提供者がボリビアの特殊部隊にユロ渓谷に、ゲバラがゲリラと野営している場所を知らせた。10月8日に、20人前後のゲリラ部隊と、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉が率いるボリビア政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられた。ゲバラは縛られて10月8日の夜に、近くのラ・イゲラ村の荒廃した泥の校舎に連れて行かれた。10月9日の朝に、ボリビアのレネ・バリエントス大統領はゲバラの殺害を命じた。ゲバラがボリビア軍との戦闘で戦死したように見せるため、ゲバラの頭部を撃たないように命じた。

 マリオ・テランという27歳のボリビア軍の軍曹が、ゲバラを処刑するために小屋に入った。ゲバラは10月9日午後0時45分頃からテランにより全部で9発撃たれ、足に5発、右肩と腕に1発、胸と喉に1発であった。絶命せず、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて殺害した。10月9日に午後1時10分に死亡が確認された。処刑後にに、ゲバラの死体はヘリコプターの着陸用スキッドに括り付けられて、検死と防腐処理のために、ボリビア南東部のバジェグランデの病院に運ばれた。10月10日に病院の洗濯台でコンクリートスラブの上に横たわるゲバラの写真が撮影された。1997年までゲバラの死体は行方不明で、バジェグランデの集団墓地に埋葬された。再発掘された遺体は、キューバに送還され、1997年にキューバ国家の栄誉を讃えて再び埋葬された。




2023年10月31日火曜日

日本本土の秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。

秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン(Pegun)島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。切腹者に日本刀で介錯して斬首した頭部が切断されて血まみれに散乱した。

 太平洋戦争にて1944年11月15日に、アメリカ軍はマピア(Mapia)諸島のペガン島に上陸した。アメリカ軍B25戦闘機は、ペガン島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加えた。日本軍兵士は、次々と斃れて多数の死傷者を出して、ペガン島の北方に退避した。ペガン島にいた一部の日本軍兵士は、珊瑚リーフを渡り、北のブラス(Bras)島へ退却した。

 一方、ブラス島への退却路を塞がれた数十名の日本軍兵士は、アメリカ軍の戦車で壊滅して、蹂躙された。日本軍兵士の戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。もはやこれまでと最期を決意した残存した日本軍歩兵第223連隊の約30人は、散兵壕内で手榴弾や切腹により自殺した。11月15日にジャングルの端で爆薬や切腹による集団自決を遂げた。アメリカ軍は、11月15日にペガン島を制圧した。アメリカ軍公刊戦の記録では、マピア諸島における日本軍兵士の玉砕した戦死者数は総数は151人であった。秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊が全滅して玉砕した。殺されなかった日本軍兵士は、ジャングルに逃げ込み、ほとんどが餓死した。

 マピア諸島は、西部ニューギニアの北方約190kmで、海抜わずか1mの扁平のサンゴ礁の小島群である。一番南に、長さ約4.2km、幅約400mの細長いペグン(Pegun)島が位置した。日本軍はペガン島と呼称した。太平洋戦争での玉砕戦は、大半は戦略の失敗による特異な戦術様態にもかかわらず、玉砕は負のイメージを払拭し、雄々しく散った勇士の姿を浮かび上がらせた。玉砕は作戦の立案者や指揮官の失敗を覆い隠し、日本軍首脳にとっては都合のよい言葉になった。まもなく、玉砕は全滅の代替え語になった。




2023年10月30日月曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。ソ連の赤軍がゼーロウ高地を突破した後の1945年春に、ベルリンへ向かう途上の道に、ソ連軍の戦車が延々と列をなした。弱体化したドイツ軍の空軍も、急ごしらえのドイツ軍の国民突撃大隊も、ソ連軍の進軍を阻止するには至らなかった。

 ベルリン方面では、ソ連軍は頑強に抵抗するドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。ドイツ軍司令部は、ソ連軍の行く手を阻もうと、使えるすべての戦力を戦闘に投入した。ベルリンの軍事学校は授業を停止し、学校の士官候補生と軍属も前線に送られた。ヒトラーはベルリンで、15歳から65歳まで全面的な戦争動員を宣言した。

 ソ連の赤軍歩兵は要塞化された建物からドイツ軍を叩き出し、砲撃はベルリン郊外の通りに築かれた石やレンガのバリケードを破壊した。ベルリン侵攻の初日4月22日には、最大で8000人のドイツ軍兵士が犠牲となり、47台の戦車と自走砲、150以上の野砲と迫撃砲が破壊された。ベルリン方面での戦闘は昼夜を問わず続き、1時間も途切れることはなかった。

 ドイツ軍は何万人もの戦闘員を集めてソ連の進撃を食い止めようとした。約6000両の戦車と自走砲、8000機の戦闘機、約4万1000門の迫撃砲と大砲で強化された約200万人以上のソ連軍の赤軍部隊にはドイツ軍は勝ち目がなかった。ソ連軍のベルリン攻勢は1945年4月23日に勃発した。4月29日までに、ソ連軍はドイツ軍を切り裂き、首都ベルリンの中心部まで到達した。5月1日に、ソ連軍はドイツ連邦議会議事堂を攻撃し、屋上に有名な戦勝旗を掲げた。5月2日に、ベルリン市内に残っていたドイツ軍の守備隊はソビエト軍に降伏した。